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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 4月10日 20:21

    >>161

    呪いと祈り

    呪いと祈りについて書いているが、呪いという言葉が異質な異常さをあらわしているため、わかりにくい。

    キリスト教の原罪というとわかりやすいが、日本の場合は他者とのかかわりのなかでの呪いということであるので、

    少し違う規定になる。

    呪いは自らが生きていて生きようとするときに他者に対して発せられるメッセージである。

    メッセージというのはキリスト教での祈りの言葉であるが、もうひとつ規定されていないのが呪いなのである。

    願いはかなう、これは祈りとなった場合は、他者に対する呪いとなることを理解するべきである。

    それでは真実の祈りとは何か、それは他者を祈ることである。

    祈りの本質は自分のことではなく人の幸せを祈ることである。

    このような祈りとして大切なことが教育として教えられていないのであるが、祈りとは他者の幸福を祈ることだ。

    自らの幸福を祈ることは祈りではなく呪いの要素があることを知るべきである。

    呪いということが特殊な悪人だけがするものと考えられているが、

    私たちの生は呪いの存在者として実在しているのであるということだ。

    これは原罪とも言えるような、呪いとしての存在者であると言えるのである。

    この自らが呪いの存在者であることの認識によって、真実の祈りが可能になる。

    呪いとは人間が生きるときに他者に対して発せられるメッセージである。

    他者からこのメッセージを受け取ることが真実の人間の理解となるのである。

    動物を含めた自然の世界は自らが食うためだけに動いている。

    ここにメッセージはない、これが真実なんだろう。

    人間は違う存在である、動物的な真実へ至ることが必要なのか、人間の独自の世界が開けるのかどうかというところだろう。

  • 呪いは日常の私のありかなのである。

    私たちが昔からある日本の歴史において見落としていることが呪いなのである。

    今そのことがわかるのは、日本は明治以来の近代化によって西洋を習うことによって日本の伝統を捨て去ったのである。

    その中心的な思想がキリスト教の愛である。

    日本が見落としていることは呪いなのであってこれこそ日本の伝統的な日本の中心思想である。

    つまり今でも自分の思いは呪いとして発動しているのであって、これを見落としているから、

    韓国の慰安婦問題に対応できないのである。

    彼は彼女を、彼女は彼を呪っていることが真実なのであって、気安く愛に置き換えて、クリスマスやバレンタインデーをつくることは商業ベースのイベントに過ぎないのである。

    祈りを真実なものとするためには、呪いを知る必要がある。

    私というもののありかとは呪いの現実に自らを置くこと、

    これこそが今、祈りという考えが見失われている現実のありかになるのである。

    真実の祈りが必要かどうかこれはまた別問題である、しかし祈りを純化してみたい。

    平和という問を真実な祈りによって可能なるものにしたいものである。

  • ・祈りはイコール=呪いなんだということ

    祈りに現実の願いを託すときこれは呪いとなるということ、

    つまり神様に対する願いでない願いは呪いとなるということ。

    日本には現実を超えた宗教的な信仰がないため祈りとは神社へ行っての現実的な願いを祈るということになる。

    これは呪いの発生なのであるがそのような認識はないのが実情である。

    わかりやすくいうと、たとえば宝くじにあたりますように祈るときはほかの人が当たらないようにという呪いが発生する。

    これがスポーツの試合の場合は自分のチームが勝つことを祈ることは悪いこととは考えられない。

    しかし、自分のチームが勝つことを願うことは相手チームに対する呪いとなっているが、これは当たり前のこととしてあるようになっている。

    はっきりいって、自分が生きることは他に生きている人を呪うことであるということが見落とされているのである。

    人は愛によって助け合って生きている、この真実の真の実現が必要なのである。

    決して相手を呪って自分だけ幸せになろうとしているわけではないのである。

    祈りにおける呪いの発生が見落とされているから真なる祈りが不可能になっているのである。

    呪いとは私たちが生きている「場」に成立している真実である。

    呪いとは私たちの生きる生そのものである、その呪いという認識の欠如が真なる祈りを不可能としているのである。

  • 〇革命の予感

    これは革命になるかもしれないし、その真実が明らかになりそうである。

    森友問題において100万円の授受が問題となっているが、もし籠池氏の言っていることが真実であったなら、

    安倍首相による日本国が崩壊してしまう。

    この問題について革命の予感を視差する発言はないし、この革命後の日本の成立にかかる問題になる。

    単なる呪いによる崩壊を受け継いで新しい日本を作れるかどうかが大問題であって、壊せばいいわけではない。

    壊したあとの創造が必要なのである。

    この世界の崩壊は「呪いの世界の崩壊」であることによって理解できる。

    この崩壊に後の日本の成立がどのようであるのか、革命は予感としてでしかない。

    しかし、静かなる革命、呪いの世界からの開放、革命の予感。

    https://msp.c.yimg.jp/yjimage?q=wr32olkXyLFtuB2Ohb3xHO_5rVDvnUC.GVnCTN5Ar5x49ryBKdwyAjoMZVjgpjSW8PNNI09a0T_BEJRUVg0glky1kB37ulTlqD60CyDzUzgORloiCpuSb1PcH5zo.Og_mLKwG16RA_l_JY_urw--&sig=138r7ss43&x=225&y=224

  • >>156

    ・祈りの世界 呪いの世界

    呪い(のろい)の世界を祈りの世界に変える。

    今の世界は呪いの世界であるが、これを祈りの世界に替える必要がある。

    イエス様は呪いの世界の住人であるパリサイ人によって処刑された。

    この世界を祈りの世界に変える必要がある。

    今の世界は呪いの世界となっているため祈りは世界とはなっていない。

    実は商品というものが呪いの産物であり、これは単なる物質ではなく商品であることで呪いへと変貌するのである。

    資本主義はこの商品を作り出し続けている。

    この今の商品が作り出した現実である呪いの世界を、

    祈りの世界へと変えるためには革命が必要であるがまだその必要性は言われていない。

    今や呪いは世界を覆い尽くしていて、祈りの必要性すら考えられていない。

    覆い尽くす商品、呪いはやがて人類をも滅ぼそうとするのかもしれない。

    失われた祈り、この現実を変えようとする願いが祈りとなり、経済を超えた助け合う社会ができるようになるはずである。

    今は実現することができない祈りの世界が、呪いの世界に対するアンチテーゼとして見据えられているのである。

  • >>155

    〇言語における祈りと呪い

    祈りも、のろいも言語的な規定よりも行動として理解できる。

    祈りは願いとも言えるかも知れない心の働きを形にしたものとなる。

    手を合わせて願うことが祈ることであり平和、平等、愛など今は実現していないことを願うのが祈りだと理解できる。

    しかしその願うことが誰かの不幸であったりしたら祈りとは言わずのろいと言えるだろう。

    しかしこのように呪いを定義することはないし、呪いというと藁人形に釘を刺すような特殊な悪人を想像するようで祈りと対比するような言葉ではない。

    しかし呪いというと、そこまででなくても、現実での競争においての他者に対する敵対心、これはのろいと名づけてもいい。

    この強い競争心は精神力があると積極的に使われるし、呪いであるとは言わないからである。

    祈るという言葉が現実に寺や神社に出かけて手を合わせることとセットになって理解できるのに対し、

    呪いという言葉は現実的には理解できない言葉となっている。

    しかし、現実での心的な動きとしては祈りだけではなくのろいと名付けられる作用が起きているのであって、

    現実はそのようなのろいによっても動いていることが連想できるのである。

    祈ることは神社や寺へ行った時だけで普通ではないとする、特殊なことだとも言えるのかも知れない。

    それならば日常はのろいという心的な発動によって動いているとでも言えるのであろうか。

    「祝福」の対義語は「呪詛」である、これは現実的ではないし対比する必要もない言葉のように思える。

    しかし「祝福」という言葉の本来の心的な祝福とは、対義的である呪詛ではないとする心的作用の発動によって真あるものとなるのである。

  • 〇言語における祈りと呪い

    言語が祈りへと集結することは絶えず願っていることであるが、もうひとつ言語には呪うということもある。

    言語による祈りと呪いをはっきり定義することとができないのは、言語が身体的なものに帰結するかどうかという問題が明らかになっていないからである。

    言語は常に神様の厳格な規定とともにあって現実を呪うものなのであるか。

    この宗教においての厳格な否定は呪いとなって信者を襲う、宗教という祈りに対して呪いを投げつけるのである。

    〇この現実においての言語における祈りが通じていない。

    それは言語の呪詛とも言える呪いを言語的なものであるとの認識が欠けているからだ。

    この言語における呪いとは通常の言語で発生するものである。

    この日常の会話の言語に伴う呪いを呪いとは認識してないから言語の姿が捉えられないのである。

    言語は祈りの言葉となったとき美しい、この願いは呪いではなく祈りとして発せられるから言語は結実するのである。

    言語は通常は呪いとして通用しているのである。

    呪いとは言語の使われる日常の会話の通常のあり方であることが見失われているのである。

    〇祈りは美しい、その言語のあり方こそ、呪いを超えた超常的な宗教的な場を見出し得るのである

  • 〇赤子泣く 卒業式の 体育館  mycmpot7

    卒業式の季節である。
    卒業式ではいろいろな人と事が凝縮される。
    まず卒業する卒業生、そして送り出す在校生、教えてもらった先生、ともに習った同級生と友達、毎日食事を作り送り出してくれたおかあさんと暖かく見守ってくれたおとうさん、
    そして、過ぎた過去という時間とこれから向かい合う未来という時間と。
    卒業式はいろいろな立場の人と同時に過去と未来という時間が凝縮されるときである。

    卒業式では両親も参加して子供を祝福する。
    しかし卒業式にはまだ赤ん坊である卒業生の弟もいる、
    お母さんは兄貴の卒業式に弟を連れてきたのであるが、機嫌が悪い。
    式が始まった、しかし赤子はどうしたことか大きい声で泣き始めた。
    赤子泣く
    卒業式の会場である静かな体育館は一瞬赤子の泣き声が響き渡る。

    そこから未来へ。

    未来を見据えた卒業生は、卒業式もただこれからの未来のひとこまにすぎないと思うのではないだろうか。

    〇今日終わる 卒業式の 登校日   mycmpot7

    未来を見る若者は卒業式も学校の行事のひとつと感じる、明日からは登校しなくていいんだと思うわけだ。

    こんな若い若者に未来を託していきたいものだ。

  • 〇そんなに良くない

    良いということがテストで百点を取ることではなく人間の生き方についての発言であることが大切だ。

    良いの反対は悪い、そんなに良くない、ということは、

    良くはないが、しかし良くないわけでもない、そんなに悪くもないといったところだ。

    良いということは自然にわかるのであり、良くないということは、良いに対するある存在に対する不純さを言っているのである。

    これは許容範囲にある悪さであろうということだ。

    良い悪いは人との関係によって決まる、それがそんなに良くないという自分の判断になってくるのである。

    良いと悪いが判断の基準になっているわけではない、ともに生きているからだ。

    生きるか死ぬか、生きることは必ず死へと向かう、この生きるか死ぬかの判断ははるかに重要な判断である。

    〇そんなに良くない

    良いということと悪いということの判断は人によって違う。

    そのなかで自分の良い悪い判断が、全面的に良いという判断を逸脱しているのである。

    生きることは理想的な私とはほど遠い、しかしこうとも言える。

    〇そんなに良くない、しかしそんなに悪くないと

    私のまわりには大きな自然がある、厳しい自然がある。

    たいしたことはない、国が戦争による廃墟になったなら無謀な自然が明らかになるはずである。

    そこでは生きるか死ぬかという自然の法則を免れることはできないのである。

    自然は厳しい、人間の世界は自然によって破壊される危機をはらんである。

    人間の真実は断念される、自然はそんなに良くないしかしそんなに悪くない。

    人間的なあまりに人間的な。

    〇自然はそんなに悪くない

  • 〇愛していると言ってくれ

    日本は1民族1言語の国家であり、社会保障は全国民に行き渡っている理想的な国家である。

    難民の受け入れも30人程度で厳しい入国姿勢を保っている。

    アメリカのような移民による多民族国家とは違う。

    多民族国家には自由はあるかもしれないが国による救助はない、アメリカンドリームとは金持ちになることだ。

    自由と安定は両立し難いが、政治的な判断によっての決断によって決まるのである。

    日本はアメリカによる敗戦から厳しい日々を生き延びて現在の理想的な国家を作り上げた。

    これはアメリカとは対局の国家のあり方であり、アメリカでは決して成し得ない国家を作ってきたのである。

    軍隊を持たず平和を願う理想的な国家を念願して戦後を歩んできたのである。

    この日本の努力と力を認めてもらいたい、愛していると言ってくれ。

    安倍首相がアメリカでトランプ大統領と親密な外交を続けている。

    トランプ大統領はゴルフはシングルの腕前でうまい、安倍首相にはゴルフでぜひがんばってもらいたい。

    勝てないとは思うが決してひるむ必要はない、

    できればゴルフではトランプ大統領をギャフンと言わせてもらいたいものである。

    そうしてトランプ大統領には、愛していると言ってもらいたいものである。

  • >>150

    善と悪

    善と悪とは法律においての善と悪と、宗教においての善と悪とがある。

    とはいっても憲法の規定にも宗教の規定にも悪という規定はない。

    この善悪は人間のそれぞれの個人の心にあるのであって、実は他者を悪人であるとする規定は誰にもできないのだ。

    しかし私たちは悪人であることを避け善人であろうとする努力を続けている。

    これは法律に触れるかどうかという問題ではなく、いわば宗教的な善と悪を考えているからである。

    この宗教的である私は今生きている法律にもとづいて生きている私とは全く異なる私なのである。

    この宗教的な私は食べることもないし水を飲むこともない、まして排泄のためにトイレに行くこともない私なのである。

    ところが現実の私はぜんぜん違う私なのであって動物的な私を抱えているのである、これが現実というものだ。

    宗教的な、精神である私は物を食べることもないしトイレに行くこともない私であってこの分裂が人間が生きている現状なのである。

    精神ではない、まして動物ではさらさらない、それが人間の抱えている問題である。

    精神でありたいその切実な思いが宗教なのであり精神からみたら生きている自分は実は悪人である。

    つまり宗教的なのである。

    それが宗教的である人間の問題としてあるのである。

  • 善と悪

    善は正しさと結びついているし悪は間違いに結びついている。

    善か悪かは常に私たちの人生にかかわって私たちの判断を決める価値の基準となっている。

    はたしてこれは善かあるいは悪か、このような疑問によっての選択が私たちの生きる決断になっている。

    しかしこの決断は必ず善と言えるかはわからない、悪としての判断であるかもしれないのである。

    「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」この悪人正機は阿弥陀仏様への救いを祈願する他力本願の中心の思想である。

    善悪は揺れ動いている、戦争での精神論、精神力で勝ては今は受け入れられない考えであるがかってはそれで日本は勝つと信じて戦争を続けたのであった。

    今になってみると日本は悪をなしたと思えるが戦争時は善として作戦がなされたという歴史がある。

    善悪には善と悪という判断と批評が含まれる、これは人を悪として批評することもあることも含まれる。

    自分はどうだろう、善人としてことをなしているかということがまず問題になる。

    もしかしたら悪人として避難されるかもしれない、そのような危険な判断によってことを決め実行しているのである。

    落ちるところまで落ちる道を正しく落ちてみたらいいのだ、堕落論。

    もしかしたら欲に溺れてこの世は地獄だと苦しんでいるかもしれない。

    善悪は一筋縄ではとらえられないこの世の善悪とも結びついているからだ。

    消費はいいことなのか悪いことなのか、欲を刺激してものを売ることは正しいのか悪いことなのか。

    人間にとって正しいことは美しい、しかし仏から見たら悪人は救われる、

    善人はいない人間は悪人である、つまりすべての人は救われるということである。

  • 私とは何か

    私とは「私」という言語であって、私と他人は言語的な差異であるがこれは生きている身体的な生物としての差異であるに過ぎない。

    私という生物と他人という生物が違うのは明らかであり、こういう「私」の使い分けができているのが実は現実である。

    それぞれの私を私ごとに記憶して私という人物をちゃんと記憶している、

    つまり他人と私との区分ができているのである。

    言語はどのように私にかかわっているか、私は努力をして人より抜きん出る存在になるべきか、

    与えられた私はそれぞれに違う。

    「私」という言葉で私の違いを明らかにすることはできない。

    私という言語にやられているのが実は動物的な私という存在である。

    真実は私になるか私を放棄するのかということであって、

    言語的な差異ではなく動物的なサバイヴァル、生き残り政策の展開なのである。

    言語は深い事実でありこれを捨て去ることは人間でなくなることだ。

    つまり、私は言語である私になりたい、それは本来の私というものを捨て去り言語である私になろうとする試みに他ならない。

    私とは他者である   言語とは捨て去られるべきであるが捨て去れないものである。

    私とは何か

  • >>144

    時間の縦軸が実は隠された次元であって私たちはその真実を願っている。

    時間は過去から未来に向かって流れる横方向のものであるがもうひとつ隠されているのが時間の縦方向の次元である。

    歴史は過去から未来へと流れる横方向の流れによって成立している。

    歴史ドラマが何年も続いてゆくことは過去を検証することによって成立している横方向のドラマである。

    ところが時間が縦に流れる物語がある、それは自分が生きてきたものがたりとしての歴史である。

    これは横方向の歴史とはひとつにならない物語であって、いわば歴史の年表に縦に交わるのが人の人生だと考えられている。

    これはなるほどと思えるが真実とされているのは遠い歴史年表の真実に過ぎないのである。

    ここに隠された時間の次元があるのでありこの隠された真実を明らかにすることが人間の進歩につながるのである。

    この新しい時間の発見が時間の縦軸であるのである。

    テレビゲームもSNSもインターネットもその問題に取り組んでいるといってもいい。

    隠された次元があるからだ、世界の困っている人に食料や支援物資を簡単に供給できる世界である。

    すべての人が思い考えている世界の実現が可能になる、テレビゲームでは実現している世界である。

    世界は隠された時間の縦軸にチャレンジしているのである。

    そういう意味で今の私たちの世界はは時間の縦軸に対してのチャレンジャーであるということである。

    時間は歴史年表のように横にだけ流れるのではなく隠された縦軸があるということである。

    それが世界の流れになっているのである。

  • 〇私たちは何のために生きているのか=私は何のために生きているのか。

    この「私たち」と「私」という差異に私の生きる人生がある。

    実は「私」は「私たち」をわかっているのであるが私にはその力がない、それならばどうするかということが私の人生になっている。

    この「私たち」の共通の思いであり願いはすべてのひとが幸せになることであり、すべての「私」がその願いをわかっているのであるが、

    自分には何もできない、「私」は「私たち」には飛躍できないでいるのである。

    私たちは何のために生きているのか。

    まったく限定した人生こそが私が、また私たちが選択した生き方である。

    なるべく限定された人生を生きる、それは「私」が選択した人生であるが実は「私たち」の生き方でもある。

    「私」は「私たち」に問う、「私たち」は何のために生きているのかと。

    答えはない、しかし、その問によって私は私の生きる道を決めているのである。

    それが「私たち」に通じている「私」の生きる道であることを信じているからだ。

  • >>145

    〇私たちは何のために生きているのか=私は何のために生きているのか

    この問題の相違である「私たち」と「私」の問題を等価してひとつの問題とすることは簡単だ。

    つまり、私は生きることに死ぬべき寿命がありある限定された存在であるという規定である。

    一方に「私たち」という命題があるがこれは人間が生まれてから死ぬまでの寿命を考えたら同じ質問になるのである。

    「私は何のために生きているのか」この疑問に答えるためには、私が死ぬということを前提にしての生きる生き方であるはずである。

    この「自分が死ぬ」を誰でもが死ぬということに広げた時に、「私たちは何のために生きているのか」という問が可能になる。

    生命は生まれてから死ぬまでの限定的なものであるが、言葉は人間の生命を超えて真実を伝え続けるのである。

    私たちの認識すべきことは私たちの生きていることは私を超えたものに依存しているということである。

    私は何のために生きているのか=私たちは何のために生きているのか

    この問題の根本はただひとつ、人間には寿命があるという認識によって解決できる。

    「私」も「私たち」にも寿命があり言語的な差異はない。

    ただひとつ、「私は何をするべきか」、このように私は成立する、言語的な問題ではない。

    私たちはそのような何をするべきかという問題にかかわっているんもである。

  • 私たちは何のために生きているのか。

    私たちの生きる最大の動機は、私たちが生まれて言葉を覚えた時の決意にさかのぼる。

    私たちは赤ん坊としてこの世に誕生して、言葉を覚える段階に突き当たる。

    この時生きようとする決意を持って言葉を覚えようとしたのである。

    その決意とは問題を解決しようとする決意である。

    しかし、赤ちゃんが、その後生きてるうちに問題の解決がとてつもなく難しいと感じていて現在に至っているのが現状である。

    私たちが生まれて解決しようと思った問題とはお母さんとお父さんを含む環境の問題であったが解決はむずかしい。

    それで私たちはその解決の方法を模索しているのである。

    私たちはある生きようとする決意によってこの世に生きている、しかしその決意を忘れて問題の紛糾によって生きようとする意欲がなくなっているのである。

    私たちは幼児の頃、この世の問題を解決しようとしてこの世で生きる決意をしたのであるが、

    生きてみると問題の解決は容易ではないことに気づいてしまう。

    この生まれてから言葉を覚える段階で決意したこと、それは問題を解決しようとする決意である。

    しかし、その決意はいまだに解決されていない。

    ただ「平和」のために自ら設定した問題を変更できるかどうか、

    私たちは何のために生きているのか、平和という理念によって私たちの問題は変更される必要がある。

    私たちは生まれてから言葉を覚えるときに言葉を覚えようと決意をした、問題を解決できると思ったからだ。

    しかし、生きてみると問題は解決するのが難しいと知るのである。

    生きるためにはどうするか、問題自体をを変更する必要がある、そのための方法が模索されている。

    未来は過去の幼児が生きようしとた問題の解決のために、

    新しい問題への変更のために、新しい問題を探しているのである。

  • 時間の縦軸

    時間には過去から未来へ流れる方向があり、年表にあらわれるように横方向に一次元のように流れているのが時間の考えである。

    空間には縦と横と高さがあり3次元として認識できるし、縦と横だけの2次元もわかる。

    ところが時間だけは過去から未来へ流れるような一次元に限られる。

    時間に縦方向があれば時間の2次元であるがそれはわかっていない。

    時間の縦方向といえば、年表ではない個人的な思い出のよう想像的な世界の実現というようなものが考えられる。

    ご先祖様は歴史に縦方向に交わる異なる時間軸である。

    しかし、空間の3次元に等しい時間の次元は隠されている。

    謎はどのように見出すべきかもわかっていない、あるいはさらなる時間を待たなければ解決できない問題かもしれない。

    時間の縦軸が歴史である横軸と交わる時が、隠された次元が明らかになる瞬間だ。

  • 最近は宗教の問題がよく取り上げられている。

    キリスト教、イスラム教、仏教、etc.

    日本には昔からすばらしい自然があった、四季があり水は豊富で自然は食べる恵みを与えてくれた。

    このような自然を崇拝するところに日本の宗教がありそれは今も続いている。

    自然は災害ももたらすから怖いものであるがそれと同時に恵みももたらしてくれるのである。

    イスラムで誕生したキリスト教やイスラム教には自然が介在していないから人と人との関係によって世界を成立させようとするしそこに人をおろそかにする悪を規定するようになっている。

    日本では自然の豊かさがあるからそんなに悪くならないし人に対しても寛容である。

    日本の神様は自然に宿っていて木も山も御神体となって神社に祀られているのである。

    つまりキリスト教のもたらすような個人の幸福を保証するような宗教ではなく、

    自然のもたらすみんなの幸福が、自然をバックボーンにして成立しているからである。

    自然は厳しいが恵みももたらす、そのような思いが日本人の根源的な思いであり、

    他のキリスト教やイスラム教徒は異なる宗教として成立しているのである。

  • ・性善説と性悪説

    人間の生まれながらの性質を善か悪かと決めるのではなく、

    相手に善として向き合うのか悪として向かい合うのかという違いである。

    先日安倍首相とプーチン大統領が会談したが、KGB出身のプーチンとの善悪の会談をしたように思う。

    政治家は経済人と異なり国民の安定と世界の平和を実現できる人であるはずである。

    それが真の政治家というものである。

    ところが政治家というものが今は経済人の都合のいいように政策を決める傀儡になってしまっているのである。

    善意はおもてなしであり経済を超えた真実であるが、もはや政治家のあるべき姿とはなっていないのが現実だ。

    この場合に欲を善とはいえないところに問題があるのであって、

    欲にとらわれている人間は善とはならないという究極的な性悪説が敷衍する。

    あほな、ばかな人間、欲もあるしもっと良くなろうとする、人間は動物になろうともするし神にもなろうとする。

    私になろうとするし、みんなにもなろうとする。

    しかしわからない、問題は放棄して、眠るしかない、明日への活力のためである。

    真実は隠されている、厳しい道を行くしかない、それが生きるということである。

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