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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 11月16日 20:33

    >>178

    〇親を救う

    生きている人間は親の子供として生まれる。

    親は私を産んで育ててくれたのであり私の生命の源である。

    私は私を産んだ私の親を救う。

    しかし、その救い方が難しい、私は私をどうやったら救えるか、これを親に伝えて親が自らを救ってもらうとき私は子供として救われる。

    人間は何歳でも子供として存在している。

    親というものがいる、その子供であることはすべての人間に共通の事項である。

    親を救うことが生きている最大の問題だ。

  • 〇呼吸が大切

    自分が生きていることにいろいろ文句を言う前に自分が生きていることの証である呼吸を意識しているか問うてみる。

    マインドフルネスというやり方がある、これは呼吸法であるが生命の根源にはっきりと生きるという道標をたてたのである。

    「マインドフルネス」とは訳せば心がいっぱいになること、それが呼吸に意識を向けるという方法のことであるのである。

    呼吸ができなければ5分で死ぬ、食べ物がなくても5分では死なない、しかも呼吸は人間が意識できる最大の生命の要件である。

    呼吸こそ私が生きることを可能にする生命の基盤であるから呼吸を意識することが最も大切な生きることの要件であることになる。

    座って呼吸の音を聞く。

    生きていることは脳と身体との関係をつなぐことであり、呼吸の音を聞くことが脳に身体の大切な要件を伝える方法となるのである。

    呼吸は自律神経と連動していて、息を吸うときは交感神経が息を吐くときは副交感神経が作用している。

    特に息を吐くほうが大切で、副交感神経を活性化することで日常を休息や睡眠に切り替えることができるのである。

    生きる。

    死ねことは呼吸が止まることである、5分で死ぬ、人間は単に呼吸する身体だと言える。

    生きるも死ぬも呼吸ができるか止まるかである。

    呼吸ができるから私は生きている、呼吸が止まれば私は死ぬ、それだけである。

    私は呼吸する身体である、これが生きることの基本的な認識である、死とは単に呼吸が止まること。

    しかし、死が呼吸が止まることであるという理解、それが逆に生きることを活性化するのである。

    生はいつか死に変わる、この生命の原則はいつでも人間にふりかかっている想像である。

    この原則を踏まえてこそ逆に人間の能力は発揮される、謎は解かれる、人間に限界はあるか、身体を飛び越える真実があるのか。

    自らの死を想像できてこそ生きている能力は最大に発揮されるはずである。

    誰かがいる、誰かが聞いてくれている、それが人間の持ちうる未知の可能性と言えるのである。

  • 〇死は運動を他に託すことである。

    生きているか死んでいるかは運動をしているかいないかの違いである。

    生きていれば呼吸をする、歩く、飲んだり食べたりして身体は代謝して生命を続けてゆく。

    生きている動植物も生きている限り代謝を繰り返すことによって生命を維持している。

    人間が動物として生きていることは呼吸をしていることである。

    呼吸が止まれば死ぬことは間違いないことだ。

    この全体的な生命活動は運動だと規定できる。

    生きていることは運動すること、死ぬと運動をしなくなる、これが死である。

    ところが人間には生物学的な運動停止のほかに、言語の問題がある。

    単に自分が死ねばいいということではなく、言語による持続は死んでも残ってゆくことになる。

    人間は宇宙を知っているし、宇宙は運動していることも知っている。

    この大宇宙の運動に対して死とは運動を他に託すことになるのだ。

    死ねば運動はしない、しかし宇宙は動いている、これが託すということである。

    たとえば呼吸が止まれば5分で死ぬ、こんな簡単な死にいつも向き合っていながら死を選択できないであるのである。

    生は死の反射によって輝く、死とは運動を他に託すことである。

  • >>175

    ・対外的か対内的か

    日本の対外的な問題である北朝鮮問題が重要な日本の問題になるのかどうか。

    日本はアメリカと同盟関係を結び日米安保条約によってアメリカの軍事力によって日本の安定を保ってきた。

    北朝鮮の問題はアメリカにとってはまったく対外的な問題であるが同じアジアの国として日本にとっては難しい立場を強いられる。

    日本にとっての他国とは戦争をしたアメリカが最大の国であって戦後は他国を考えずに日本の経済力を高めることに専念してきた。

    この閉鎖された国では国内の内閣総理大臣を敵視することによって対外的問題は封鎖されたのだ。

    ここでは日本と他国との、外と内との呼吸が欠けていたのであり、

    窒息しながら国内の問題を探し続けていたのがマスコミの報道であり世論でもあったからだ。

    呼吸をすれば他国が見えてくる。

    日本は完全に独立国家であり国家は軍隊の力を借りなくても成立している。

    自明のことである。

    他国のように軍事力に頼らなければ国家が成立しないことを考えてみると、

    日本は本当に幸せな国である。

    軍隊はいらない軍隊がなくても不安なく国を守れるからだ。

    問題は国家なのであって、軍隊がない国家の成立が目指すべき平和なのである。

    日本はそれを実現している。

    ・軍隊なき国家の成立を目指す。

    それが日本が他国に向けてできる最大のアピールである。

  • >>174

    ・軍隊なき国家の成立を目指す。

    軍隊は他国を攻撃するためにあるのではなく自国の成立を維持するために必要であるのである。

    軍隊は自国を代表するのであり、自国を守ることが使命であり他国を攻撃するためにあるのではない。

    北朝鮮がまたミサイルを発射したがこれは他国を攻撃するためではなく自国の国力を拡大したいためであることをまず認識するべきである。

    北朝鮮の相手国は韓国であり、韓国の背後に居るアメリカや日本が同盟国とみなされているのである。

    だからいきなり日本にミサイルを撃ち込んでくるようなことはない。

    もし、韓国との対戦が始まりアメリカや日本が敵国となった場合に日本のアメリカ軍基地をミサイルで破壊するということが可能になるのであり、いきなり敵国でない日本にミサイルを撃ち込むようなことはない。

    もし一発でも日本にミサイルを撃ち込んだらその時点で北朝鮮はあとかたもなく打ち砕かれることは北朝鮮もわかっていることであるからそのようなことはない。

    軍隊は国家を象徴的に存在させ、さらに強くすることができるから存在しているのである。

    他国を攻撃するために存在しているわけではない。

    日本には軍隊がないが国家が成立している。

    日本が戦後かかえた課題はこの問題である。

    日本はこの課題に戦後72年後にこの課題を克服した。

    もともと日本は軍隊がなくても国家を維持できていたから昔に戻ったということだ。

    島国であり一民族一言語であるため他国にのっとられることもなかったし幸運にも他国を恐れる必要がなかったのである。

    軍隊は他国を攻撃するためにあるのではなく自国を維持するために必要なのである。

    国家がなければ国を維持する軍隊は必要ない。

    軍隊は国家のプロジェクトである、そのプロジェクトの先端には軍隊のない平和な世界が展開しているはずである。

    軍隊なき国家の成立を目指す。

    これが日本の平和へのプロジェクトである。

  • 軍隊は国家のためにあり国を代表している。

    というか、軍隊こそが国家をつくっているのである。

    日本のように海に囲まれた島国で一民族一言語の国には軍隊がなくても国家が維持できているから軍隊は必要ないのである。

    アメリカのような多民族国家では軍隊があるから国家が維持できているのであり軍隊こそがアメリカという国であるといってもいい。

    北朝鮮の暴走は韓国とのあいだでの国家を強固にしようとするあらわれであり、軍隊が国家を代表していてそれが国家そのものともなるからである。

    日本に軍隊がいらないのは軍隊がなくても国家がしっかり樹立しているからである。

    それに、軍隊は国家プロジェクトであり多くに人が働く職場でもあり軍隊がなくなって軍人が職を失うことは国家がなくなることにもなってしまうからなくすことはできないのである。

    だから軍隊は敵を攻撃することがあるかもしれないが、実は軍隊は国家を維持してゆくことが目的であり、だから国家を維持するということの最大のプロジェクトになるのである。

    敵がいなくても軍隊は必要なのである。そのために軍隊の機能である仮想敵が必要になる。

    日本のような幸福な国は軍隊がなくても国家を維持できるため軍隊は必要ないのである。

    国家を維持する必要がなくなれば軍隊も必要なくなるということである。

  • 日本人は精神の可能性を追求している。

    今の日本は物があふれ豊富な物があると同時に捨て去られる物も多量にある。

    大量生産大量消費によって企業は利益を、消費者は物の豊かさによって満たされている。

    過去の日本を振り返ってみると必ずしも物によって幸せが訪れるのではなく、

    物はなくとも精神の豊かさによって物を凌駕しようとする精神があった。

    「武士は食わねど高楊枝」の他にも方丈記、徒然草、枕草子など物ではなく精神の豊かさによって生きることを語っているものがある。

    戦後日本は占領軍に対しての徹底したサービスによって戦後を乗り切ったのであるが、

    この日本を支えたものはキリスト教の精神に対する挑戦なのであり、精神に対する実験であり可能性の追求である。

    戦後、日本は高度成長によって物の豊かさを追求してきたが、実は日本人は精神の可能性と実現を追求してきたのであるということである。

    最初から物ではない精神の実現を追求してきたのである。

    日本人は経済の株価や企業利益のためにエコノミックアニマルとして生きてきたようになっているが、実は精神の可能性を追求してきたのである。

    日本は島国で他国に占領されたこともなければ他国を占領したこともない。

    この海に閉ざされた列島で精神の純粋培養をずっと行ってきたのである。

    中国や韓国のように異民族によって占領され一族皆殺しにあったような国の危機に向き合ったことがないからだ。

    日本人はキリスト教のような宗教がない無宗教の国のように思われているが、実はキリスト教にも匹敵するような宗教を生み出そうとしているのである。

    そこに日本の恵まれた自然環境がある。

    山があり川があり水は豊富で四季によって自然の豊かさを味わうことが出来るからである。

    イスラムでできたユダヤ教やキリスト教のような宗教とは違う。

    しかし、このあらゆる精神の可能性の彼方に日本人は何になろうとしているのであるか。

    自然環境があまりに違う、生きてきた歴史があまりに違う、日本人はまさに自然とともにあった精神であったのだ。

    日本で大量生産で残ったものは外国に無償で提供してもいい。

    利益を超えた精神の可能性を日本人は追求してきて戦後72年、日本人の追求してきたものは物ではない、物がなくても豊かな精神である。

    物を無償で貧しい国に寄付をし利益の追求から手を引いて本来の日本の精神の豊かさに立ち返るべきだ。

  • 未来へ

    未来は閉ざされている。

    現実は未来へとつながる点である。

    この現実から未来を予想することの是非によって未来は決められてゆく。

    核爆弾による戦争が人類を破壊する未来は避けるべき未来であることははっきりしている。

    子供には未来がある、大人にも未来はある、しかし未来のあり方が違う、これが育てるということの本意である。

    未来は子供にとっての本意であるが親にとっての本意とは違っている、親にとっては現実の問題に翻弄されるからだ。

    子供にとっての現実であるところのテストの点数だけにとらわれることはない。

    未来を子供が構築すること、これが子どもを育てるということの本質にある。

    子供の未来は親が命がけで構築するべきものであり、そうして子供が自分の未来を構築することが親の役目であるといってもいい。

    スポーツの世界では常に未来が問われる、つまり、得点を入れて相手に勝つということにしのぎをけずる。

    野球でもサッカーでもゴルフでもそこに開こうとする世界は勝負に勝つという未来に対してのチャレンジなのである。

    未来は夢としても問われる、さあ問おう、未来を、この最も難しい問を子供に向けよう、チャレンジしろと。

    さあ、子供にとって親は何ができるのか、未来は子供にとっても厳しい道であるはずだ。

    親は孔子の文句でもとなえようか。

    ・三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳従う 七十にして己の欲するところに従いてのりを超えず

    現実ではなく、君にとっての未来なんだということで。

  • 〇人間は考える葦である     パスカル

    人間は本来葦であるのか、獲物を求める動物であるのか。

    葦は植物であり、沼地に生えて移動することもない、光合成によって生きている植物である。

    人間は言葉を使う、言葉は場を考えずにあらゆるところで言葉の真実を伝える、言葉は場を超えている。

    それならば人間は葦のようなものだとは言えない。

    戦後日本は経済復興を成し遂げ、この路線によって利益を拡大しようとしてきた。

    この経済復興が欲望を充足させて、さらなる欲望を発掘してそれに合う商品を開発してきたのである。

    これは儲けの論理なのであり、現実の動物的な人間をますます欲を求める動物へと変えていっている。

    人間は動物である、この規定を恐れずに現実を見据えてみると、考える葦は遠のいていってしまう。

    人間は葦にはなれない、しかし葦になるように努めなければならないのだ。

    これが、考える葦の真意である。

    しかし、欲望はあまりに大きくなりすぎた、もはや、破滅するしかない、そのくらい欲望は大きくなってしまった。

    葦はその生存を自然に託している、風、雨、雪によってもたゆたい生き延びてゆく。

    時代はもはや自然を凌駕して支配する科学の中心な世界となっている。

    この自然を破壊しての欲望の拡散の果てには滅亡しかないのではないか、自然破壊という負の次に来るものは自然の復活である。

    人間の自然破壊は次に来る巨大な自然復活という波に飲み込まれてしまうかもしれない。

    その荒廃した大地に立ち、始めて、葦になりたいという自然復活が沸き起こってくる。

    自然災害という暴利によって復活を成し遂げた自然が、何もなくなった大地に指し示すメッセージ。

    人間は考える葦である  と。

  • 〇人間は社会的な動物である      アリストテレス
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          ↓
    〇人間は考える葦である        パスカル

    人間は動物か植物かと問われたらやはり動物と答えるだろう。

    葦という植物は一カ所に留まって食べない飲まない、光合成によって生きている植物であるから人間とは違う。

    人間は考えるだけでなく社会的な存在であることは明らかである。

    それは何か今人間が生きている地球という場を考えさせる。

    アリストテレスのいう社会とは古代ギリシャのポリスという社会だったかもしれないが、今の情報社会の場は地球に拡大しているし、社会はここまで拡大しているのである。

    人間は葦という植物よりも社会に住む動物である。

    「人間は動物である」という規定によって浮かび上がるものそれが人間というものだ。

    人間は神にはなれない、しかし神を求める動物であるとでも規定できるだろう。

    人間は動物的な利益の相談しかできないのだから。

    〇人間は社会的な動物である     アリストテレス

    動物である。

  • 〇減価償却費は計上しない

    試算表においての貸借、借方には資産と経費、貸方には負債と売上が計上される。

    たとえば100万円の機械を借入によって取得する。

    機械は減価償却によって年々減少する、借入も年々減少してゆく。

    これによって貸借はそれぞれ減少して貸借は近ずくが機械の減価償却を取らなかった場合には負債だけが減少する。

    この場合。試算表の負債である借入が減少した場合に増えるのはどこか、売上である。

    資産負債は一致して試算表は一致するのであるから資産が減らないで負債が減少した場合に増えるのが売上である。

    つまり税金が安くなることだけを考えて減価償却費は計上するべきではない。

    土地が資産価値が高いのは減価償却しないで資産に計上されるから目減りしないからである。

    固定資産についても同じ、資産を減価償却しないで残しておくべきだ。

    それによって貸方である売上が増加するということだ。

  • >>167

    〇太平洋 誘いて昇る 日の出かな   mycmpo7

    日の出は自然にあるもので「登ってこい」と言って昇り日の出になるわけではない。

    しかし、人間はいろいろなことを人為的に解釈している。

    日の出はおれが誘ったから昇ったんだぞ、と考えてみるのも人間の解釈であって、おもしろい。

    〇NO27  ピアノについてゆく  モーツァルト    mycmpot7

    モーツァルトのピアノコンチェルトNO27、序奏からピアノソロが始まる、タータータタタ タタタ

    ピアノについていくのは私、タータ タタタタタン  



    〇芋の露  連山影を 正しうす   飯田蛇笏

    この句は教科書にものった有名な句であるが、どこがすばらしいのか。

    連山影 連山は遠くに見える冬の山であるが、このすばらしい遠景の山が影になるというところがすばらしい。

    風景はまず遠くに見える美しい山が主体であり、芋は自分が見る単なる自己固有の見えるものに過ぎないが、

    この風景が逆転して、芋の露が主体となり風景の主体である連山は影となるところに風景の逆転が起きる。

    作者の見ているのは、芋であり芋の露である、作者は作物である芋に強い愛情をいだいていることが読み取れる。

  • >>165

    〇急ぎ行く 傘をささずに  梅雨さなか  mycmpot7

    忙しい、急ぎ行く、梅雨とは知っているが、仕事に急いでiいるため外へ飛び出す。

    しかし、急に雨が降ってくる、そうか、今は梅雨なので傘を持って出かけるべきだったことを思いだす。

    だが、取りに帰る余裕はない、仕事に急がなければならないからだ。

    傘をささずに仕事に急ぐ。

    〇急ぎ行く 傘をささずに 梅雨さなか   mycmpot7

  • なんでそうなるの?!!!!!!!!!!!!!!  萩本欽一

    欽ちゃんはすごい、師範だし先生だし天才だし神様だし尊敬する。

    欽ちゃんはすごいひとだ。

    なんでそうなるの?    いろいろなことが

    でもおれはコメディアンにはなれないな。

  • ・紫陽花を 見やりて里の 仏かな   mycmpot7

    この場合の仏は町にあるお地蔵さんである。

    雨の降る自然の野に紫陽花が咲いている、歩けばお地蔵さんも自然の中で鎮座している。

    雨が降る静かな自然の風景である。

    ・紫陽花を 見やりて里の 仏かな  mycmpot7

  • 〇とどまりて 噴水を見る 朝明けの

    〇夏来る 登りて下る 箱根山

    宗教は自爆テロを引き起こす理想主義に集約できるが、果たして自らの生を超えた言語的な生存が保証されているのか。

    死んだら終わりではない、なぜなら言語は個人の生を超えて成立している真実だからである。

    この言語の成立を信じるのも宗教的なのである。

    私は神様を信じることによって言語と生命についてある確信を得る。

    救いという概念である、私たちは言語のの真実によっては呪われている生命的な存在に過ぎないのか。???

    生存が言語に集約される存在論はないが、生存が身体に集約される存在論もない。

    ここが人間が生きるということの問題である。

    私たちの生は身体的な生存であるが、言語的には「生」という言語は存在を超越して言語として存在している真実なのである。

    この問題こそが人間が現実に生きていることと、

    存在という言語こそが真実であるという真実の最大の問としてある。

    〇真実は私が伝えるべきな最大の問題である、
     しかし、それは、言語を超えた身体的な問題であるということが理解するという問題となっている。

  • 〇祈りと呪い

    北朝鮮が脅威だ、いつミサイルを飛ばしてくるか日本はこの脅威の中にあるといっていい。

    あいつらは何を考えているのか、しかし、隣国を重圧して勢力を広げるような覇権をつくろうとしているのではない。
    隣国の韓国も中国も攻撃されてないし日本もミサイルが打ち込まれてはいない。

    じゃあ何をしようとしているのか、彼らは内にこもった呪いによって勝とうとしているのである。

    呪いの対極にあるのが祈りであり、世界の平和を願うこと、これが祈りである。

    世界はいろいろな情報によってグローバル化されていて世界のすべての人がマスメディアやネットによって統一を

    願っている、これが祈りである。

    ところがある地域だけの発展を願う精神は呪いとなるのである、国家もそうである。

    世界の平和を願うのはアメリカ、日本、韓国、をはじめとする西側諸国だけではなく世界の国々が世界の平和を願っている。

    これは祈りであり、世界の基準であるはずである。

    ここにこの平和をとなえずに呪いにくみする国家がある。

    あいつらに祈りはあるのか、彼らにあるのは呪いだけではないか。

    祈りの逆方向にあるのが呪いであり、これは世界を規定する法則である。

    祈りを成立させるためには呪いを認識しなければ真の祈りは実現しないのである。

    呪いばっかりやっているのが北朝鮮、かれらに祈りはあるのか???

    日本人やアメリカ人が願う平和への祈りが、呪いばっかりやっている北朝鮮への最大の防御体制になるはずだ。

    呪いではなく祈りへと!!!

  • >>161

    呪いと祈り

    呪いと祈りについて書いているが、呪いという言葉が異質な異常さをあらわしているため、わかりにくい。

    キリスト教の原罪というとわかりやすいが、日本の場合は他者とのかかわりのなかでの呪いということであるので、

    少し違う規定になる。

    呪いは自らが生きていて生きようとするときに他者に対して発せられるメッセージである。

    メッセージというのはキリスト教での祈りの言葉であるが、もうひとつ規定されていないのが呪いなのである。

    願いはかなう、これは祈りとなった場合は、他者に対する呪いとなることを理解するべきである。

    それでは真実の祈りとは何か、それは他者を祈ることである。

    祈りの本質は自分のことではなく人の幸せを祈ることである。

    このような祈りとして大切なことが教育として教えられていないのであるが、祈りとは他者の幸福を祈ることだ。

    自らの幸福を祈ることは祈りではなく呪いの要素があることを知るべきである。

    呪いということが特殊な悪人だけがするものと考えられているが、

    私たちの生は呪いの存在者として実在しているのであるということだ。

    これは原罪とも言えるような、呪いとしての存在者であると言えるのである。

    この自らが呪いの存在者であることの認識によって、真実の祈りが可能になる。

    呪いとは人間が生きるときに他者に対して発せられるメッセージである。

    他者からこのメッセージを受け取ることが真実の人間の理解となるのである。

    動物を含めた自然の世界は自らが食うためだけに動いている。

    ここにメッセージはない、これが真実なんだろう。

    人間は違う存在である、動物的な真実へ至ることが必要なのか、人間の独自の世界が開けるのかどうかというところだろう。

  • 呪いは日常の私のありかなのである。

    私たちが昔からある日本の歴史において見落としていることが呪いなのである。

    今そのことがわかるのは、日本は明治以来の近代化によって西洋を習うことによって日本の伝統を捨て去ったのである。

    その中心的な思想がキリスト教の愛である。

    日本が見落としていることは呪いなのであってこれこそ日本の伝統的な日本の中心思想である。

    つまり今でも自分の思いは呪いとして発動しているのであって、これを見落としているから、

    韓国の慰安婦問題に対応できないのである。

    彼は彼女を、彼女は彼を呪っていることが真実なのであって、気安く愛に置き換えて、クリスマスやバレンタインデーをつくることは商業ベースのイベントに過ぎないのである。

    祈りを真実なものとするためには、呪いを知る必要がある。

    私というもののありかとは呪いの現実に自らを置くこと、

    これこそが今、祈りという考えが見失われている現実のありかになるのである。

    真実の祈りが必要かどうかこれはまた別問題である、しかし祈りを純化してみたい。

    平和という問を真実な祈りによって可能なるものにしたいものである。

  • ・祈りはイコール=呪いなんだということ

    祈りに現実の願いを託すときこれは呪いとなるということ、

    つまり神様に対する願いでない願いは呪いとなるということ。

    日本には現実を超えた宗教的な信仰がないため祈りとは神社へ行っての現実的な願いを祈るということになる。

    これは呪いの発生なのであるがそのような認識はないのが実情である。

    わかりやすくいうと、たとえば宝くじにあたりますように祈るときはほかの人が当たらないようにという呪いが発生する。

    これがスポーツの試合の場合は自分のチームが勝つことを祈ることは悪いこととは考えられない。

    しかし、自分のチームが勝つことを願うことは相手チームに対する呪いとなっているが、これは当たり前のこととしてあるようになっている。

    はっきりいって、自分が生きることは他に生きている人を呪うことであるということが見落とされているのである。

    人は愛によって助け合って生きている、この真実の真の実現が必要なのである。

    決して相手を呪って自分だけ幸せになろうとしているわけではないのである。

    祈りにおける呪いの発生が見落とされているから真なる祈りが不可能になっているのである。

    呪いとは私たちが生きている「場」に成立している真実である。

    呪いとは私たちの生きる生そのものである、その呪いという認識の欠如が真なる祈りを不可能としているのである。

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