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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 2月17日 19:27

    〇人間ー優しいことと強いこと

    人間の規定が個人の「私」という規定に終始しているが、人間の規定は社会的な個人の規定こそが「人間」の規定にふさわしい。

    私が人間として他の人間に対する心構えは優しさである、決して強いことではない。

    昔は強さが繁栄の基礎であったのであり、それによって強い経済力を生み出していたから、これは資本主義の力であったのである。

    しかし強さである軍隊を強め他国を牽制することが資本主義の要であるのかということは現代の最大の問題点である。

    この軍隊の強力な強さの前で前時代的な弱肉強食の思想がはびこっているからである。

    この強力な軍隊の強さに対する思想こそが「優しさ」という思想である。

    これを考えるためには人間という問題に立ち返る必要がある。

    今は強い人間こそが人間としての価値を持っているとみなされていて優しい人間には価値が置かれていない。

    人間には強さと同時に優しさが必要であるが優しさの評価は価値としては評価されていない。

    人間は100%強くなることもできないし100%優しくなることもできない。

    強さを生きる人もいるし優しさを生きる人もいる、これは人の性格とも才能とも言う。

    この個人である私がが他者に対する取り組みこそ新しい思想の誕生である。

    今までは能力に秀でて強くなり他を追い抜き立身出世することだけに価値を見出してきた。

    しかし、新しい思想の誕生とは他者に対する優しさを主張する人間としての規定を決めることである。

    私は人間である、そして他者に対する優しさこそが私という思想の核心である。

    〇人間が追い求めている強さに隠れているのは弱さではなく優しさである。

    強くなることがだけが目標ではない、人間の本来は優しいものであるからである。

    能力がなくても優しさを共有したい人もいる、強くなることだけが人間としてのあるべき姿ではない。

    資本主義の曲がり角、経済を超えた人間的な発動こそが思想になるのである。

    〇私は優しい人間である。

  • >>185

    〇ゴルフにおける取り組み

    ゴルフは難しい、なぜなら身体的な取り組みであるからである。

    この事象における取り組みがゴルフのスイングのスイングにおける取り組みにほかならない。

    私は左利きであり左利きの右打ちである。

    ゴルフにおける必要のことが二つある。

    それは、〇右肘を体を通す。〇アドレスで右肩を落とすことである。

    左は視点である、左こそが主点である。

    タイガーウッズはアドレスで右肩を落としている、これは左をスイングの基軸にしているから現れるスイングの基軸である。

    同様に

    右打ちのスイングの基軸は左である。

    これは右利きであるが左打ちをしているイチローに学ぶことが出来る。

    右打ちのゴルフでは左が主体である、この左を主体にする、スイングはこの主体性の変換にかかっている。

    私はもともと左利きであるのだが、この左が主体であるという思考によってスイングをきわめたい、それが願いである。ここにチャレンジがある。

    左はマイナーな主体である、だから右肘は左に通すことができる。

    願わくばもう少しスコアーを上げたい、ゴルフの真実がスコアーに反映されるように、練習を重ねている。

    身体が自然と目標を目指すようなスイングが理想である。

    この身体に託す思想こそゴルフの真髄ではないかと思われる。

    〇体は目標を見ている





    > 〇思考における勝利とはそれは断念である。
    >
    > 思考という永続的な真理に向かって学問という思考が展開している。
    >
    > しかし、これには決して勝利はない、勝利とは断念でありこれによって明らかになることがある。
    >
    > それは自らの生命であり寿命のことである、この問題に答えないからいきなり問題が閉ざされてしまうことになる。
    >
    > 真理を見つけたい、このstepを続けるものは勝利を得ることが出来るのだろうか。
    >
    > 私という身体が思考によって完全に把握されていないから身体は勝手にある判断をして負ければ、がん細胞にゆずることになってしまっているのである。
    >
    > 考えることは自らの生命ではなく人類の生命の永続性である。
    >
    > 親は子供に引渡し子供はまた孫に引き渡してゆく、これが原則であるからこれを思考に加える必要がある。
    >
    > しかし物理的な真理と生物的な真理との格闘に思考のプランはない。
    >
    > だから思考はいつか断念される、この思考の断念こそが勝利である。
    >
    > その断念の先に現れる生物、それは狂気かも知れない。
    >
    > その現れた狂気、それこそが生物としての人間なのかも知れない。
    >
    > 「先はない」これこそが極限の思考である。
    >
    > 思考を断念するかまだ思考を進めるのか、断念としての生物とは何か。

  • 〇思考における勝利とはそれは断念である。

    思考という永続的な真理に向かって学問という思考が展開している。

    しかし、これには決して勝利はない、勝利とは断念でありこれによって明らかになることがある。

    それは自らの生命であり寿命のことである、この問題に答えないからいきなり問題が閉ざされてしまうことになる。

    真理を見つけたい、このstepを続けるものは勝利を得ることが出来るのだろうか。

    私という身体が思考によって完全に把握されていないから身体は勝手にある判断をして負ければ、がん細胞にゆずることになってしまっているのである。

    考えることは自らの生命ではなく人類の生命の永続性である。

    親は子供に引渡し子供はまた孫に引き渡してゆく、これが原則であるからこれを思考に加える必要がある。

    しかし物理的な真理と生物的な真理との格闘に思考のプランはない。

    だから思考はいつか断念される、この思考の断念こそが勝利である。

    その断念の先に現れる生物、それは狂気かも知れない。

    その現れた狂気、それこそが生物としての人間なのかも知れない。

    「先はない」これこそが極限の思考である。

    思考を断念するかまだ思考を進めるのか、断念としての生物とは何か。

  • 〇資本主義は身体的システムである

    資本主義が行き詰っている。
    何より日本がITにより日本の生産性が生きどまっていることが大問題だ。
    しかし生きている人がいなければ会社は動かないし生産性がストップしてしまう。
    資本主義は金の取得だけを目的にしているから人がいなければ会社が動かないし生産もストップしてしまうことに気がついていない。
    会社が単に登記するだけで成立する現状では人がいなくても会社が成立するということになってしまっている。
    商法では資本金が1000万円必要であったし発起人も7人以上必要であったが今の会社法では資本金1円発起人一人でも会社が設立できる。
    この成立した会社で働く人を考えていないのでいくらでも会社が成立できる。

    いまは資本主義も行き詰まって金以外の必要性を問われているといってもいい。
    つまり会社という架空の本質に対して逆に必要な思考が身体的な問題であるという思考である。
    個人は生きて健康でなければ働くことができないし健康でなければ会社のために貢献できないようになってしまうということである。
    この問題は人間がいなければ経済も成り立たないというあたりまえのことに気づくことにある。
    会社がよりよく成立するためには金よりも必要な働いている人間に注目することが必要である。
    生きている人が世界をつくっていることが資本主義を成立させるためにもっとも必要なことだ。

  • 〇人間は言葉の世界に安住しようとしている。

    言葉は人間の脳が発動して何かの情報を伝えるものであるならわかりやすい。

    マスコミは言葉の真実によって仕事をするから、冗談だよ! とは言わない。

    この言葉の真実にかわるものは物質的な真実であり、この物質を名付けることによってこの言語の世界へと参入することになる。

    呼吸することや食物が得られなければ人間は動物的な状態になってしまうから、

    そうはならないようにすることが国家の力といってもいいような、そこに言語の世界が介入するのである。

    人間にとっては死という問題があって、

    言葉は生物的な死を乗り越える世界であるから永続的に「生きる」という言葉によって生きるのではないかと考えられる。

    つまり死を乗り越えるある永続的な言語の世界に安住しようとしているのである。

    これは人間の生物としての方向性であってこの方向性がなくなることはない。

    むしろ死んでも言葉として生きていたいものである。

    つまり、そういう意味で人間の死はない。

    人間は死んだら言葉になるのか、おそらくそうだ、それは人間が目指すべき終点であるが、

    ひとつの契機に過ぎない、言葉の世界で現実の世界を自由に駆使することができるかはわからない。

    しかし、人間は言葉の世界に安住しようとしている。

  • >>181

    〇死んでも生き続けるかどうか

    死んでも生き続くかどうかはわからない。

    人間は生物であるから他の動物と同じように飲み食いしなければ生きていけない。

    それに衣食住、着る物や住むところも欠かせない生存の条件となっている。

    人間が死ぬと衣食住という動物的な環境から抜け出して精神はおおらかに発動するかもしれない。

    この点はまったく不明であるが、人間が動物と違う言葉を知っているということにこの動機の確信がある。

    この言葉の世界は人間が動物的に生きている現状を飛び越えた真実を伝えることができるし、その言葉による世界を理解することができる。

    これは明らかに人間が生きている生命を飛び越えてある真実を人間は理解することができるというこたである。

    言語は身体の生存を超えてある。

    この言語を乗り越えることはできない、つまり真実は言語以外ないからだ。

    動物は呼吸し食べ物を見つけ生きるだけ、人間にとっての真実は動物を超える言語を信じることだ。

    ここに死んでも生きるかという問題が成立する。

    宗教的な問題はここにある、死んでも生き続けるという信念が現実を否定することになってしまう。

    言語は動物的な生を乗り越えた高次な宇宙のあり方である。

    人間が生物としての限られた命しかないことを考えると言語は人間にとって超越的な高次な在り方であるといっていい。

    これはもう信じるしかあるまい、決して越えられない真実に向き合っているのである。

    つまり言語を信じることは否定できない真実となるだろうし、平和を唱える宗教への信仰を否定できない。

    法という言語による規制がわずらわしいのは、言語による高次な自由があるからだ。

    死んでも生き続けるかどうかはわからない、私が言語なら生き続けることができるが果たしてどうか。

  • 〇人間は死を乗り越えて神になれるか

    人間の死とは精神の死ではなく身体の死である。

    これを乗り越えるためには人間が死んでも精神の生き残りができることが信じられなければならない。

    もし死んでも生きる精神があるなら神の国に生きる精神があるかもしれない。

    生命とは何か、果たして死んでも生きる精神があるのか。

    動物は呼吸をして食物を得ることで生きている、それだけだ、しかし生きている。

    人間は生きている動物を食べて生きている、弱肉強食の担い手が人間であることは語られていない。

    死んだら終わりだ、この覚悟が生物の死であり、人間の認識の核心である。

    しかし人間は他の生物とは違う、強いからだ、これが生物の原則であって人間は強いから生き残って地球の支配者となれたのである。

    いびつなたぐいまれな殺戮者、人間は宇宙からこのような存在としてある。

    しかし宇宙は人間のすべてを許している、むしろ超えろと示唆しているように思える。

    いつか巨大な流星が地球に激突して地球を破壊してしまうかもしれない。

    そのときは神の名を呼び死に絶えるのであるか、そしてその時神様は現れるのであるか。

    それは、しかし、宇宙にとってどっちでもいいことに過ぎないだろう、その宇宙の許しは人間を完全に上回っている。

    閉じ込められた「私」という存在、果たして死によって精神の開放ができるのであろうか。

    果たして死んでも「私」という思いは残るのであろうか、「私」は消え去るのであろうか、謎である。

  • >>178

    〇近代を超えて

    脳によって全て解決できるとする科学の時代をどう乗り越えるか。

    脳は体の一部であるから脳より身体の方が能力はあるに決まっている。

    しかも最近では指令を出すのは脳だけでなく脂肪や筋肉も指令を出すことが知られている。

    近代の脳の時代は終焉を迎えていて身体の時代へと変わりつつある。

    しかし身体は大切であるがしゃべることができないから脳に依存せざるを得ない。

    この脳と身体をつなぐ道筋がちゃんとある呼吸である。

    呼吸は身体にとってもっとも必要な身体的な運動であって5分呼吸ができなければ死んでしまう。

    食べるものはなくても5分で死ぬことはないが呼吸は極めて大切なことに違いない。

    しかも呼吸は意識することができる。

    息を止めることも息を吸ったり吐いたりすることも意識することによってできる。

    この呼吸が脳と身体をつなぐもっとも大切な意識である。

    5分呼吸ができなければ死んでしまうのであるから呼吸を意識するべきである。

    これは脳にある意識が身体にとってもっとも大切な意識であると問いかけることである。

    生きていることはまず呼吸ができることであり死んでしまうと呼吸はしない。

    生きていることと死んでしまったこととの違いが呼吸するかしないかにある。

    生きていることではなく死を規定することが大切であるということである。

    その先に近代を超える可能性があると信じる。

    呼吸を意識すること、それを身体に問うてみようとすること。

  • >>178

    〇親を救う

    生きている人間は親の子供として生まれる。

    親は私を産んで育ててくれたのであり私の生命の源である。

    私は私を産んだ私の親を救う。

    しかし、その救い方が難しい、私は私をどうやったら救えるか、これを親に伝えて親が自らを救ってもらうとき私は子供として救われる。

    人間は何歳でも子供として存在している。

    親というものがいる、その子供であることはすべての人間に共通の事項である。

    親を救うことが生きている最大の問題だ。

  • 〇呼吸が大切

    自分が生きていることにいろいろ文句を言う前に自分が生きていることの証である呼吸を意識しているか問うてみる。

    マインドフルネスというやり方がある、これは呼吸法であるが生命の根源にはっきりと生きるという道標をたてたのである。

    「マインドフルネス」とは訳せば心がいっぱいになること、それが呼吸に意識を向けるという方法のことであるのである。

    呼吸ができなければ5分で死ぬ、食べ物がなくても5分では死なない、しかも呼吸は人間が意識できる最大の生命の要件である。

    呼吸こそ私が生きることを可能にする生命の基盤であるから呼吸を意識することが最も大切な生きることの要件であることになる。

    座って呼吸の音を聞く。

    生きていることは脳と身体との関係をつなぐことであり、呼吸の音を聞くことが脳に身体の大切な要件を伝える方法となるのである。

    呼吸は自律神経と連動していて、息を吸うときは交感神経が息を吐くときは副交感神経が作用している。

    特に息を吐くほうが大切で、副交感神経を活性化することで日常を休息や睡眠に切り替えることができるのである。

    生きる。

    死ねことは呼吸が止まることである、5分で死ぬ、人間は単に呼吸する身体だと言える。

    生きるも死ぬも呼吸ができるか止まるかである。

    呼吸ができるから私は生きている、呼吸が止まれば私は死ぬ、それだけである。

    私は呼吸する身体である、これが生きることの基本的な認識である、死とは単に呼吸が止まること。

    しかし、死が呼吸が止まることであるという理解、それが逆に生きることを活性化するのである。

    生はいつか死に変わる、この生命の原則はいつでも人間にふりかかっている想像である。

    この原則を踏まえてこそ逆に人間の能力は発揮される、謎は解かれる、人間に限界はあるか、身体を飛び越える真実があるのか。

    自らの死を想像できてこそ生きている能力は最大に発揮されるはずである。

    誰かがいる、誰かが聞いてくれている、それが人間の持ちうる未知の可能性と言えるのである。

  • 〇死は運動を他に託すことである。

    生きているか死んでいるかは運動をしているかいないかの違いである。

    生きていれば呼吸をする、歩く、飲んだり食べたりして身体は代謝して生命を続けてゆく。

    生きている動植物も生きている限り代謝を繰り返すことによって生命を維持している。

    人間が動物として生きていることは呼吸をしていることである。

    呼吸が止まれば死ぬことは間違いないことだ。

    この全体的な生命活動は運動だと規定できる。

    生きていることは運動すること、死ぬと運動をしなくなる、これが死である。

    ところが人間には生物学的な運動停止のほかに、言語の問題がある。

    単に自分が死ねばいいということではなく、言語による持続は死んでも残ってゆくことになる。

    人間は宇宙を知っているし、宇宙は運動していることも知っている。

    この大宇宙の運動に対して死とは運動を他に託すことになるのだ。

    死ねば運動はしない、しかし宇宙は動いている、これが託すということである。

    たとえば呼吸が止まれば5分で死ぬ、こんな簡単な死にいつも向き合っていながら死を選択できないであるのである。

    生は死の反射によって輝く、死とは運動を他に託すことである。

  • >>175

    ・対外的か対内的か

    日本の対外的な問題である北朝鮮問題が重要な日本の問題になるのかどうか。

    日本はアメリカと同盟関係を結び日米安保条約によってアメリカの軍事力によって日本の安定を保ってきた。

    北朝鮮の問題はアメリカにとってはまったく対外的な問題であるが同じアジアの国として日本にとっては難しい立場を強いられる。

    日本にとっての他国とは戦争をしたアメリカが最大の国であって戦後は他国を考えずに日本の経済力を高めることに専念してきた。

    この閉鎖された国では国内の内閣総理大臣を敵視することによって対外的問題は封鎖されたのだ。

    ここでは日本と他国との、外と内との呼吸が欠けていたのであり、

    窒息しながら国内の問題を探し続けていたのがマスコミの報道であり世論でもあったからだ。

    呼吸をすれば他国が見えてくる。

    日本は完全に独立国家であり国家は軍隊の力を借りなくても成立している。

    自明のことである。

    他国のように軍事力に頼らなければ国家が成立しないことを考えてみると、

    日本は本当に幸せな国である。

    軍隊はいらない軍隊がなくても不安なく国を守れるからだ。

    問題は国家なのであって、軍隊がない国家の成立が目指すべき平和なのである。

    日本はそれを実現している。

    ・軍隊なき国家の成立を目指す。

    それが日本が他国に向けてできる最大のアピールである。

  • >>174

    ・軍隊なき国家の成立を目指す。

    軍隊は他国を攻撃するためにあるのではなく自国の成立を維持するために必要であるのである。

    軍隊は自国を代表するのであり、自国を守ることが使命であり他国を攻撃するためにあるのではない。

    北朝鮮がまたミサイルを発射したがこれは他国を攻撃するためではなく自国の国力を拡大したいためであることをまず認識するべきである。

    北朝鮮の相手国は韓国であり、韓国の背後に居るアメリカや日本が同盟国とみなされているのである。

    だからいきなり日本にミサイルを撃ち込んでくるようなことはない。

    もし、韓国との対戦が始まりアメリカや日本が敵国となった場合に日本のアメリカ軍基地をミサイルで破壊するということが可能になるのであり、いきなり敵国でない日本にミサイルを撃ち込むようなことはない。

    もし一発でも日本にミサイルを撃ち込んだらその時点で北朝鮮はあとかたもなく打ち砕かれることは北朝鮮もわかっていることであるからそのようなことはない。

    軍隊は国家を象徴的に存在させ、さらに強くすることができるから存在しているのである。

    他国を攻撃するために存在しているわけではない。

    日本には軍隊がないが国家が成立している。

    日本が戦後かかえた課題はこの問題である。

    日本はこの課題に戦後72年後にこの課題を克服した。

    もともと日本は軍隊がなくても国家を維持できていたから昔に戻ったということだ。

    島国であり一民族一言語であるため他国にのっとられることもなかったし幸運にも他国を恐れる必要がなかったのである。

    軍隊は他国を攻撃するためにあるのではなく自国を維持するために必要なのである。

    国家がなければ国を維持する軍隊は必要ない。

    軍隊は国家のプロジェクトである、そのプロジェクトの先端には軍隊のない平和な世界が展開しているはずである。

    軍隊なき国家の成立を目指す。

    これが日本の平和へのプロジェクトである。

  • 軍隊は国家のためにあり国を代表している。

    というか、軍隊こそが国家をつくっているのである。

    日本のように海に囲まれた島国で一民族一言語の国には軍隊がなくても国家が維持できているから軍隊は必要ないのである。

    アメリカのような多民族国家では軍隊があるから国家が維持できているのであり軍隊こそがアメリカという国であるといってもいい。

    北朝鮮の暴走は韓国とのあいだでの国家を強固にしようとするあらわれであり、軍隊が国家を代表していてそれが国家そのものともなるからである。

    日本に軍隊がいらないのは軍隊がなくても国家がしっかり樹立しているからである。

    それに、軍隊は国家プロジェクトであり多くに人が働く職場でもあり軍隊がなくなって軍人が職を失うことは国家がなくなることにもなってしまうからなくすことはできないのである。

    だから軍隊は敵を攻撃することがあるかもしれないが、実は軍隊は国家を維持してゆくことが目的であり、だから国家を維持するということの最大のプロジェクトになるのである。

    敵がいなくても軍隊は必要なのである。そのために軍隊の機能である仮想敵が必要になる。

    日本のような幸福な国は軍隊がなくても国家を維持できるため軍隊は必要ないのである。

    国家を維持する必要がなくなれば軍隊も必要なくなるということである。

  • 日本人は精神の可能性を追求している。

    今の日本は物があふれ豊富な物があると同時に捨て去られる物も多量にある。

    大量生産大量消費によって企業は利益を、消費者は物の豊かさによって満たされている。

    過去の日本を振り返ってみると必ずしも物によって幸せが訪れるのではなく、

    物はなくとも精神の豊かさによって物を凌駕しようとする精神があった。

    「武士は食わねど高楊枝」の他にも方丈記、徒然草、枕草子など物ではなく精神の豊かさによって生きることを語っているものがある。

    戦後日本は占領軍に対しての徹底したサービスによって戦後を乗り切ったのであるが、

    この日本を支えたものはキリスト教の精神に対する挑戦なのであり、精神に対する実験であり可能性の追求である。

    戦後、日本は高度成長によって物の豊かさを追求してきたが、実は日本人は精神の可能性と実現を追求してきたのであるということである。

    最初から物ではない精神の実現を追求してきたのである。

    日本人は経済の株価や企業利益のためにエコノミックアニマルとして生きてきたようになっているが、実は精神の可能性を追求してきたのである。

    日本は島国で他国に占領されたこともなければ他国を占領したこともない。

    この海に閉ざされた列島で精神の純粋培養をずっと行ってきたのである。

    中国や韓国のように異民族によって占領され一族皆殺しにあったような国の危機に向き合ったことがないからだ。

    日本人はキリスト教のような宗教がない無宗教の国のように思われているが、実はキリスト教にも匹敵するような宗教を生み出そうとしているのである。

    そこに日本の恵まれた自然環境がある。

    山があり川があり水は豊富で四季によって自然の豊かさを味わうことが出来るからである。

    イスラムでできたユダヤ教やキリスト教のような宗教とは違う。

    しかし、このあらゆる精神の可能性の彼方に日本人は何になろうとしているのであるか。

    自然環境があまりに違う、生きてきた歴史があまりに違う、日本人はまさに自然とともにあった精神であったのだ。

    日本で大量生産で残ったものは外国に無償で提供してもいい。

    利益を超えた精神の可能性を日本人は追求してきて戦後72年、日本人の追求してきたものは物ではない、物がなくても豊かな精神である。

    物を無償で貧しい国に寄付をし利益の追求から手を引いて本来の日本の精神の豊かさに立ち返るべきだ。

  • 未来へ

    未来は閉ざされている。

    現実は未来へとつながる点である。

    この現実から未来を予想することの是非によって未来は決められてゆく。

    核爆弾による戦争が人類を破壊する未来は避けるべき未来であることははっきりしている。

    子供には未来がある、大人にも未来はある、しかし未来のあり方が違う、これが育てるということの本意である。

    未来は子供にとっての本意であるが親にとっての本意とは違っている、親にとっては現実の問題に翻弄されるからだ。

    子供にとっての現実であるところのテストの点数だけにとらわれることはない。

    未来を子供が構築すること、これが子どもを育てるということの本質にある。

    子供の未来は親が命がけで構築するべきものであり、そうして子供が自分の未来を構築することが親の役目であるといってもいい。

    スポーツの世界では常に未来が問われる、つまり、得点を入れて相手に勝つということにしのぎをけずる。

    野球でもサッカーでもゴルフでもそこに開こうとする世界は勝負に勝つという未来に対してのチャレンジなのである。

    未来は夢としても問われる、さあ問おう、未来を、この最も難しい問を子供に向けよう、チャレンジしろと。

    さあ、子供にとって親は何ができるのか、未来は子供にとっても厳しい道であるはずだ。

    親は孔子の文句でもとなえようか。

    ・三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳従う 七十にして己の欲するところに従いてのりを超えず

    現実ではなく、君にとっての未来なんだということで。

  • 〇人間は考える葦である     パスカル

    人間は本来葦であるのか、獲物を求める動物であるのか。

    葦は植物であり、沼地に生えて移動することもない、光合成によって生きている植物である。

    人間は言葉を使う、言葉は場を考えずにあらゆるところで言葉の真実を伝える、言葉は場を超えている。

    それならば人間は葦のようなものだとは言えない。

    戦後日本は経済復興を成し遂げ、この路線によって利益を拡大しようとしてきた。

    この経済復興が欲望を充足させて、さらなる欲望を発掘してそれに合う商品を開発してきたのである。

    これは儲けの論理なのであり、現実の動物的な人間をますます欲を求める動物へと変えていっている。

    人間は動物である、この規定を恐れずに現実を見据えてみると、考える葦は遠のいていってしまう。

    人間は葦にはなれない、しかし葦になるように努めなければならないのだ。

    これが、考える葦の真意である。

    しかし、欲望はあまりに大きくなりすぎた、もはや、破滅するしかない、そのくらい欲望は大きくなってしまった。

    葦はその生存を自然に託している、風、雨、雪によってもたゆたい生き延びてゆく。

    時代はもはや自然を凌駕して支配する科学の中心な世界となっている。

    この自然を破壊しての欲望の拡散の果てには滅亡しかないのではないか、自然破壊という負の次に来るものは自然の復活である。

    人間の自然破壊は次に来る巨大な自然復活という波に飲み込まれてしまうかもしれない。

    その荒廃した大地に立ち、始めて、葦になりたいという自然復活が沸き起こってくる。

    自然災害という暴利によって復活を成し遂げた自然が、何もなくなった大地に指し示すメッセージ。

    人間は考える葦である  と。

  • 〇人間は社会的な動物である      アリストテレス
          ↑
          ↓
    〇人間は考える葦である        パスカル

    人間は動物か植物かと問われたらやはり動物と答えるだろう。

    葦という植物は一カ所に留まって食べない飲まない、光合成によって生きている植物であるから人間とは違う。

    人間は考えるだけでなく社会的な存在であることは明らかである。

    それは何か今人間が生きている地球という場を考えさせる。

    アリストテレスのいう社会とは古代ギリシャのポリスという社会だったかもしれないが、今の情報社会の場は地球に拡大しているし、社会はここまで拡大しているのである。

    人間は葦という植物よりも社会に住む動物である。

    「人間は動物である」という規定によって浮かび上がるものそれが人間というものだ。

    人間は神にはなれない、しかし神を求める動物であるとでも規定できるだろう。

    人間は動物的な利益の相談しかできないのだから。

    〇人間は社会的な動物である     アリストテレス

    動物である。

  • 〇減価償却費は計上しない

    試算表においての貸借、借方には資産と経費、貸方には負債と売上が計上される。

    たとえば100万円の機械を借入によって取得する。

    機械は減価償却によって年々減少する、借入も年々減少してゆく。

    これによって貸借はそれぞれ減少して貸借は近ずくが機械の減価償却を取らなかった場合には負債だけが減少する。

    この場合。試算表の負債である借入が減少した場合に増えるのはどこか、売上である。

    資産負債は一致して試算表は一致するのであるから資産が減らないで負債が減少した場合に増えるのが売上である。

    つまり税金が安くなることだけを考えて減価償却費は計上するべきではない。

    土地が資産価値が高いのは減価償却しないで資産に計上されるから目減りしないからである。

    固定資産についても同じ、資産を減価償却しないで残しておくべきだ。

    それによって貸方である売上が増加するということだ。

  • >>167

    〇太平洋 誘いて昇る 日の出かな   mycmpo7

    日の出は自然にあるもので「登ってこい」と言って昇り日の出になるわけではない。

    しかし、人間はいろいろなことを人為的に解釈している。

    日の出はおれが誘ったから昇ったんだぞ、と考えてみるのも人間の解釈であって、おもしろい。

    〇NO27  ピアノについてゆく  モーツァルト    mycmpot7

    モーツァルトのピアノコンチェルトNO27、序奏からピアノソロが始まる、タータータタタ タタタ

    ピアノについていくのは私、タータ タタタタタン  



    〇芋の露  連山影を 正しうす   飯田蛇笏

    この句は教科書にものった有名な句であるが、どこがすばらしいのか。

    連山影 連山は遠くに見える冬の山であるが、このすばらしい遠景の山が影になるというところがすばらしい。

    風景はまず遠くに見える美しい山が主体であり、芋は自分が見る単なる自己固有の見えるものに過ぎないが、

    この風景が逆転して、芋の露が主体となり風景の主体である連山は影となるところに風景の逆転が起きる。

    作者の見ているのは、芋であり芋の露である、作者は作物である芋に強い愛情をいだいていることが読み取れる。

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