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自然は厳しい

自然は厳しい

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    mycmpot7 8月7日 19:20

    未来へ

    未来は閉ざされている。

    現実は未来へとつながる点である。

    この現実から未来を予想することの是非によって未来は決められてゆく。

    核爆弾による戦争が人類を破壊する未来は避けるべき未来であることははっきりしている。

    子供には未来がある、大人にも未来はある、しかし未来のあり方が違う、これが育てるということの本意である。

    未来は子供にとっての本意であるが親にとっての本意とは違っている、親にとっては現実の問題に翻弄されるからだ。

    子供にとっての現実であるところのテストの点数だけにとらわれることはない。

    未来を子供が構築すること、これが子どもを育てるということの本質にある。

    子供の未来は親が命がけで構築するべきものであり、そうして子供が自分の未来を構築することが親の役目であるといってもいい。

    スポーツの世界では常に未来が問われる、つまり、得点を入れて相手に勝つということにしのぎをけずる。

    野球でもサッカーでもゴルフでもそこに開こうとする世界は勝負に勝つという未来に対してのチャレンジなのである。

    未来は夢としても問われる、さあ問おう、未来を、この最も難しい問を子供に向けよう、チャレンジしろと。

    さあ、子供にとって親は何ができるのか、未来は子供にとっても厳しい道であるはずだ。

    親は孔子の文句でもとなえようか。

    ・三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳従う 七十にして己の欲するところに従いてのりを超えず

    現実ではなく、君にとっての未来なんだということで。

  • 〇人間は考える葦である     パスカル

    人間は本来葦であるのか、獲物を求める動物であるのか。

    葦は植物であり、沼地に生えて移動することもない、光合成によって生きている植物である。

    人間は言葉を使う、言葉は場を考えずにあらゆるところで言葉の真実を伝える、言葉は場を超えている。

    それならば人間は葦のようなものだとは言えない。

    戦後日本は経済復興を成し遂げ、この路線によって利益を拡大しようとしてきた。

    この経済復興が欲望を充足させて、さらなる欲望を発掘してそれに合う商品を開発してきたのである。

    これは儲けの論理なのであり、現実の動物的な人間をますます欲を求める動物へと変えていっている。

    人間は動物である、この規定を恐れずに現実を見据えてみると、考える葦は遠のいていってしまう。

    人間は葦にはなれない、しかし葦になるように努めなければならないのだ。

    これが、考える葦の真意である。

    しかし、欲望はあまりに大きくなりすぎた、もはや、破滅するしかない、そのくらい欲望は大きくなってしまった。

    葦はその生存を自然に託している、風、雨、雪によってもたゆたい生き延びてゆく。

    時代はもはや自然を凌駕して支配する科学の中心な世界となっている。

    この自然を破壊しての欲望の拡散の果てには滅亡しかないのではないか、自然破壊という負の次に来るものは自然の復活である。

    人間の自然破壊は次に来る巨大な自然復活という波に飲み込まれてしまうかもしれない。

    その荒廃した大地に立ち、始めて、葦になりたいという自然復活が沸き起こってくる。

    自然災害という暴利によって復活を成し遂げた自然が、何もなくなった大地に指し示すメッセージ。

    人間は考える葦である  と。

  • 〇人間は社会的な動物である      アリストテレス
          ↑
          ↓
    〇人間は考える葦である        パスカル

    人間は動物か植物かと問われたらやはり動物と答えるだろう。

    葦という植物は一カ所に留まって食べない飲まない、光合成によって生きている植物であるから人間とは違う。

    人間は考えるだけでなく社会的な存在であることは明らかである。

    それは何か今人間が生きている地球という場を考えさせる。

    アリストテレスのいう社会とは古代ギリシャのポリスという社会だったかもしれないが、今の情報社会の場は地球に拡大しているし、社会はここまで拡大しているのである。

    人間は葦という植物よりも社会に住む動物である。

    「人間は動物である」という規定によって浮かび上がるものそれが人間というものだ。

    人間は神にはなれない、しかし神を求める動物であるとでも規定できるだろう。

    人間は動物的な利益の相談しかできないのだから。

    〇人間は社会的な動物である     アリストテレス

    動物である。

  • 〇減価償却費は計上しない

    試算表においての貸借、借方には資産と経費、貸方には負債と売上が計上される。

    たとえば100万円の機械を借入によって取得する。

    機械は減価償却によって年々減少する、借入も年々減少してゆく。

    これによって貸借はそれぞれ減少して貸借は近ずくが機械の減価償却を取らなかった場合には負債だけが減少する。

    この場合。試算表の負債である借入が減少した場合に増えるのはどこか、売上である。

    資産負債は一致して試算表は一致するのであるから資産が減らないで負債が減少した場合に増えるのが売上である。

    つまり税金が安くなることだけを考えて減価償却費は計上するべきではない。

    土地が資産価値が高いのは減価償却しないで資産に計上されるから目減りしないからである。

    固定資産についても同じ、資産を減価償却しないで残しておくべきだ。

    それによって貸方である売上が増加するということだ。

  • >>167

    〇太平洋 誘いて昇る 日の出かな   mycmpo7

    日の出は自然にあるもので「登ってこい」と言って昇り日の出になるわけではない。

    しかし、人間はいろいろなことを人為的に解釈している。

    日の出はおれが誘ったから昇ったんだぞ、と考えてみるのも人間の解釈であって、おもしろい。

    〇NO27  ピアノについてゆく  モーツァルト    mycmpot7

    モーツァルトのピアノコンチェルトNO27、序奏からピアノソロが始まる、タータータタタ タタタ

    ピアノについていくのは私、タータ タタタタタン  



    〇芋の露  連山影を 正しうす   飯田蛇笏

    この句は教科書にものった有名な句であるが、どこがすばらしいのか。

    連山影 連山は遠くに見える冬の山であるが、このすばらしい遠景の山が影になるというところがすばらしい。

    風景はまず遠くに見える美しい山が主体であり、芋は自分が見る単なる自己固有の見えるものに過ぎないが、

    この風景が逆転して、芋の露が主体となり風景の主体である連山は影となるところに風景の逆転が起きる。

    作者の見ているのは、芋であり芋の露である、作者は作物である芋に強い愛情をいだいていることが読み取れる。

  • >>165

    〇急ぎ行く 傘をささずに  梅雨さなか  mycmpot7

    忙しい、急ぎ行く、梅雨とは知っているが、仕事に急いでiいるため外へ飛び出す。

    しかし、急に雨が降ってくる、そうか、今は梅雨なので傘を持って出かけるべきだったことを思いだす。

    だが、取りに帰る余裕はない、仕事に急がなければならないからだ。

    傘をささずに仕事に急ぐ。

    〇急ぎ行く 傘をささずに 梅雨さなか   mycmpot7

  • なんでそうなるの?!!!!!!!!!!!!!!  萩本欽一

    欽ちゃんはすごい、師範だし先生だし天才だし神様だし尊敬する。

    欽ちゃんはすごいひとだ。

    なんでそうなるの?    いろいろなことが

    でもおれはコメディアンにはなれないな。

  • ・紫陽花を 見やりて里の 仏かな   mycmpot7

    この場合の仏は町にあるお地蔵さんである。

    雨の降る自然の野に紫陽花が咲いている、歩けばお地蔵さんも自然の中で鎮座している。

    雨が降る静かな自然の風景である。

    ・紫陽花を 見やりて里の 仏かな  mycmpot7

  • 〇とどまりて 噴水を見る 朝明けの

    〇夏来る 登りて下る 箱根山

    宗教は自爆テロを引き起こす理想主義に集約できるが、果たして自らの生を超えた言語的な生存が保証されているのか。

    死んだら終わりではない、なぜなら言語は個人の生を超えて成立している真実だからである。

    この言語の成立を信じるのも宗教的なのである。

    私は神様を信じることによって言語と生命についてある確信を得る。

    救いという概念である、私たちは言語のの真実によっては呪われている生命的な存在に過ぎないのか。???

    生存が言語に集約される存在論はないが、生存が身体に集約される存在論もない。

    ここが人間が生きるということの問題である。

    私たちの生は身体的な生存であるが、言語的には「生」という言語は存在を超越して言語として存在している真実なのである。

    この問題こそが人間が現実に生きていることと、

    存在という言語こそが真実であるという真実の最大の問としてある。

    〇真実は私が伝えるべきな最大の問題である、
     しかし、それは、言語を超えた身体的な問題であるということが理解するという問題となっている。

  • 〇祈りと呪い

    北朝鮮が脅威だ、いつミサイルを飛ばしてくるか日本はこの脅威の中にあるといっていい。

    あいつらは何を考えているのか、しかし、隣国を重圧して勢力を広げるような覇権をつくろうとしているのではない。
    隣国の韓国も中国も攻撃されてないし日本もミサイルが打ち込まれてはいない。

    じゃあ何をしようとしているのか、彼らは内にこもった呪いによって勝とうとしているのである。

    呪いの対極にあるのが祈りであり、世界の平和を願うこと、これが祈りである。

    世界はいろいろな情報によってグローバル化されていて世界のすべての人がマスメディアやネットによって統一を

    願っている、これが祈りである。

    ところがある地域だけの発展を願う精神は呪いとなるのである、国家もそうである。

    世界の平和を願うのはアメリカ、日本、韓国、をはじめとする西側諸国だけではなく世界の国々が世界の平和を願っている。

    これは祈りであり、世界の基準であるはずである。

    ここにこの平和をとなえずに呪いにくみする国家がある。

    あいつらに祈りはあるのか、彼らにあるのは呪いだけではないか。

    祈りの逆方向にあるのが呪いであり、これは世界を規定する法則である。

    祈りを成立させるためには呪いを認識しなければ真の祈りは実現しないのである。

    呪いばっかりやっているのが北朝鮮、かれらに祈りはあるのか???

    日本人やアメリカ人が願う平和への祈りが、呪いばっかりやっている北朝鮮への最大の防御体制になるはずだ。

    呪いではなく祈りへと!!!

  • >>161

    呪いと祈り

    呪いと祈りについて書いているが、呪いという言葉が異質な異常さをあらわしているため、わかりにくい。

    キリスト教の原罪というとわかりやすいが、日本の場合は他者とのかかわりのなかでの呪いということであるので、

    少し違う規定になる。

    呪いは自らが生きていて生きようとするときに他者に対して発せられるメッセージである。

    メッセージというのはキリスト教での祈りの言葉であるが、もうひとつ規定されていないのが呪いなのである。

    願いはかなう、これは祈りとなった場合は、他者に対する呪いとなることを理解するべきである。

    それでは真実の祈りとは何か、それは他者を祈ることである。

    祈りの本質は自分のことではなく人の幸せを祈ることである。

    このような祈りとして大切なことが教育として教えられていないのであるが、祈りとは他者の幸福を祈ることだ。

    自らの幸福を祈ることは祈りではなく呪いの要素があることを知るべきである。

    呪いということが特殊な悪人だけがするものと考えられているが、

    私たちの生は呪いの存在者として実在しているのであるということだ。

    これは原罪とも言えるような、呪いとしての存在者であると言えるのである。

    この自らが呪いの存在者であることの認識によって、真実の祈りが可能になる。

    呪いとは人間が生きるときに他者に対して発せられるメッセージである。

    他者からこのメッセージを受け取ることが真実の人間の理解となるのである。

    動物を含めた自然の世界は自らが食うためだけに動いている。

    ここにメッセージはない、これが真実なんだろう。

    人間は違う存在である、動物的な真実へ至ることが必要なのか、人間の独自の世界が開けるのかどうかというところだろう。

  • 呪いは日常の私のありかなのである。

    私たちが昔からある日本の歴史において見落としていることが呪いなのである。

    今そのことがわかるのは、日本は明治以来の近代化によって西洋を習うことによって日本の伝統を捨て去ったのである。

    その中心的な思想がキリスト教の愛である。

    日本が見落としていることは呪いなのであってこれこそ日本の伝統的な日本の中心思想である。

    つまり今でも自分の思いは呪いとして発動しているのであって、これを見落としているから、

    韓国の慰安婦問題に対応できないのである。

    彼は彼女を、彼女は彼を呪っていることが真実なのであって、気安く愛に置き換えて、クリスマスやバレンタインデーをつくることは商業ベースのイベントに過ぎないのである。

    祈りを真実なものとするためには、呪いを知る必要がある。

    私というもののありかとは呪いの現実に自らを置くこと、

    これこそが今、祈りという考えが見失われている現実のありかになるのである。

    真実の祈りが必要かどうかこれはまた別問題である、しかし祈りを純化してみたい。

    平和という問を真実な祈りによって可能なるものにしたいものである。

  • ・祈りはイコール=呪いなんだということ

    祈りに現実の願いを託すときこれは呪いとなるということ、

    つまり神様に対する願いでない願いは呪いとなるということ。

    日本には現実を超えた宗教的な信仰がないため祈りとは神社へ行っての現実的な願いを祈るということになる。

    これは呪いの発生なのであるがそのような認識はないのが実情である。

    わかりやすくいうと、たとえば宝くじにあたりますように祈るときはほかの人が当たらないようにという呪いが発生する。

    これがスポーツの試合の場合は自分のチームが勝つことを祈ることは悪いこととは考えられない。

    しかし、自分のチームが勝つことを願うことは相手チームに対する呪いとなっているが、これは当たり前のこととしてあるようになっている。

    はっきりいって、自分が生きることは他に生きている人を呪うことであるということが見落とされているのである。

    人は愛によって助け合って生きている、この真実の真の実現が必要なのである。

    決して相手を呪って自分だけ幸せになろうとしているわけではないのである。

    祈りにおける呪いの発生が見落とされているから真なる祈りが不可能になっているのである。

    呪いとは私たちが生きている「場」に成立している真実である。

    呪いとは私たちの生きる生そのものである、その呪いという認識の欠如が真なる祈りを不可能としているのである。

  • 〇革命の予感

    これは革命になるかもしれないし、その真実が明らかになりそうである。

    森友問題において100万円の授受が問題となっているが、もし籠池氏の言っていることが真実であったなら、

    安倍首相による日本国が崩壊してしまう。

    この問題について革命の予感を視差する発言はないし、この革命後の日本の成立にかかる問題になる。

    単なる呪いによる崩壊を受け継いで新しい日本を作れるかどうかが大問題であって、壊せばいいわけではない。

    壊したあとの創造が必要なのである。

    この世界の崩壊は「呪いの世界の崩壊」であることによって理解できる。

    この崩壊に後の日本の成立がどのようであるのか、革命は予感としてでしかない。

    しかし、静かなる革命、呪いの世界からの開放、革命の予感。

    https://msp.c.yimg.jp/yjimage?q=wr32olkXyLFtuB2Ohb3xHO_5rVDvnUC.GVnCTN5Ar5x49ryBKdwyAjoMZVjgpjSW8PNNI09a0T_BEJRUVg0glky1kB37ulTlqD60CyDzUzgORloiCpuSb1PcH5zo.Og_mLKwG16RA_l_JY_urw--&sig=138r7ss43&x=225&y=224

  • >>156

    ・祈りの世界 呪いの世界

    呪い(のろい)の世界を祈りの世界に変える。

    今の世界は呪いの世界であるが、これを祈りの世界に替える必要がある。

    イエス様は呪いの世界の住人であるパリサイ人によって処刑された。

    この世界を祈りの世界に変える必要がある。

    今の世界は呪いの世界となっているため祈りは世界とはなっていない。

    実は商品というものが呪いの産物であり、これは単なる物質ではなく商品であることで呪いへと変貌するのである。

    資本主義はこの商品を作り出し続けている。

    この今の商品が作り出した現実である呪いの世界を、

    祈りの世界へと変えるためには革命が必要であるがまだその必要性は言われていない。

    今や呪いは世界を覆い尽くしていて、祈りの必要性すら考えられていない。

    覆い尽くす商品、呪いはやがて人類をも滅ぼそうとするのかもしれない。

    失われた祈り、この現実を変えようとする願いが祈りとなり、経済を超えた助け合う社会ができるようになるはずである。

    今は実現することができない祈りの世界が、呪いの世界に対するアンチテーゼとして見据えられているのである。

  • >>155

    〇言語における祈りと呪い

    祈りも、のろいも言語的な規定よりも行動として理解できる。

    祈りは願いとも言えるかも知れない心の働きを形にしたものとなる。

    手を合わせて願うことが祈ることであり平和、平等、愛など今は実現していないことを願うのが祈りだと理解できる。

    しかしその願うことが誰かの不幸であったりしたら祈りとは言わずのろいと言えるだろう。

    しかしこのように呪いを定義することはないし、呪いというと藁人形に釘を刺すような特殊な悪人を想像するようで祈りと対比するような言葉ではない。

    しかし呪いというと、そこまででなくても、現実での競争においての他者に対する敵対心、これはのろいと名づけてもいい。

    この強い競争心は精神力があると積極的に使われるし、呪いであるとは言わないからである。

    祈るという言葉が現実に寺や神社に出かけて手を合わせることとセットになって理解できるのに対し、

    呪いという言葉は現実的には理解できない言葉となっている。

    しかし、現実での心的な動きとしては祈りだけではなくのろいと名付けられる作用が起きているのであって、

    現実はそのようなのろいによっても動いていることが連想できるのである。

    祈ることは神社や寺へ行った時だけで普通ではないとする、特殊なことだとも言えるのかも知れない。

    それならば日常はのろいという心的な発動によって動いているとでも言えるのであろうか。

    「祝福」の対義語は「呪詛」である、これは現実的ではないし対比する必要もない言葉のように思える。

    しかし「祝福」という言葉の本来の心的な祝福とは、対義的である呪詛ではないとする心的作用の発動によって真あるものとなるのである。

  • 〇言語における祈りと呪い

    言語が祈りへと集結することは絶えず願っていることであるが、もうひとつ言語には呪うということもある。

    言語による祈りと呪いをはっきり定義することとができないのは、言語が身体的なものに帰結するかどうかという問題が明らかになっていないからである。

    言語は常に神様の厳格な規定とともにあって現実を呪うものなのであるか。

    この宗教においての厳格な否定は呪いとなって信者を襲う、宗教という祈りに対して呪いを投げつけるのである。

    〇この現実においての言語における祈りが通じていない。

    それは言語の呪詛とも言える呪いを言語的なものであるとの認識が欠けているからだ。

    この言語における呪いとは通常の言語で発生するものである。

    この日常の会話の言語に伴う呪いを呪いとは認識してないから言語の姿が捉えられないのである。

    言語は祈りの言葉となったとき美しい、この願いは呪いではなく祈りとして発せられるから言語は結実するのである。

    言語は通常は呪いとして通用しているのである。

    呪いとは言語の使われる日常の会話の通常のあり方であることが見失われているのである。

    〇祈りは美しい、その言語のあり方こそ、呪いを超えた超常的な宗教的な場を見出し得るのである

  • 〇赤子泣く 卒業式の 体育館  mycmpot7

    卒業式の季節である。
    卒業式ではいろいろな人と事が凝縮される。
    まず卒業する卒業生、そして送り出す在校生、教えてもらった先生、ともに習った同級生と友達、毎日食事を作り送り出してくれたおかあさんと暖かく見守ってくれたおとうさん、
    そして、過ぎた過去という時間とこれから向かい合う未来という時間と。
    卒業式はいろいろな立場の人と同時に過去と未来という時間が凝縮されるときである。

    卒業式では両親も参加して子供を祝福する。
    しかし卒業式にはまだ赤ん坊である卒業生の弟もいる、
    お母さんは兄貴の卒業式に弟を連れてきたのであるが、機嫌が悪い。
    式が始まった、しかし赤子はどうしたことか大きい声で泣き始めた。
    赤子泣く
    卒業式の会場である静かな体育館は一瞬赤子の泣き声が響き渡る。

    そこから未来へ。

    未来を見据えた卒業生は、卒業式もただこれからの未来のひとこまにすぎないと思うのではないだろうか。

    〇今日終わる 卒業式の 登校日   mycmpot7

    未来を見る若者は卒業式も学校の行事のひとつと感じる、明日からは登校しなくていいんだと思うわけだ。

    こんな若い若者に未来を託していきたいものだ。

  • 〇そんなに良くない

    良いということがテストで百点を取ることではなく人間の生き方についての発言であることが大切だ。

    良いの反対は悪い、そんなに良くない、ということは、

    良くはないが、しかし良くないわけでもない、そんなに悪くもないといったところだ。

    良いということは自然にわかるのであり、良くないということは、良いに対するある存在に対する不純さを言っているのである。

    これは許容範囲にある悪さであろうということだ。

    良い悪いは人との関係によって決まる、それがそんなに良くないという自分の判断になってくるのである。

    良いと悪いが判断の基準になっているわけではない、ともに生きているからだ。

    生きるか死ぬか、生きることは必ず死へと向かう、この生きるか死ぬかの判断ははるかに重要な判断である。

    〇そんなに良くない

    良いということと悪いということの判断は人によって違う。

    そのなかで自分の良い悪い判断が、全面的に良いという判断を逸脱しているのである。

    生きることは理想的な私とはほど遠い、しかしこうとも言える。

    〇そんなに良くない、しかしそんなに悪くないと

    私のまわりには大きな自然がある、厳しい自然がある。

    たいしたことはない、国が戦争による廃墟になったなら無謀な自然が明らかになるはずである。

    そこでは生きるか死ぬかという自然の法則を免れることはできないのである。

    自然は厳しい、人間の世界は自然によって破壊される危機をはらんである。

    人間の真実は断念される、自然はそんなに良くないしかしそんなに悪くない。

    人間的なあまりに人間的な。

    〇自然はそんなに悪くない

  • 〇愛していると言ってくれ

    日本は1民族1言語の国家であり、社会保障は全国民に行き渡っている理想的な国家である。

    難民の受け入れも30人程度で厳しい入国姿勢を保っている。

    アメリカのような移民による多民族国家とは違う。

    多民族国家には自由はあるかもしれないが国による救助はない、アメリカンドリームとは金持ちになることだ。

    自由と安定は両立し難いが、政治的な判断によっての決断によって決まるのである。

    日本はアメリカによる敗戦から厳しい日々を生き延びて現在の理想的な国家を作り上げた。

    これはアメリカとは対局の国家のあり方であり、アメリカでは決して成し得ない国家を作ってきたのである。

    軍隊を持たず平和を願う理想的な国家を念願して戦後を歩んできたのである。

    この日本の努力と力を認めてもらいたい、愛していると言ってくれ。

    安倍首相がアメリカでトランプ大統領と親密な外交を続けている。

    トランプ大統領はゴルフはシングルの腕前でうまい、安倍首相にはゴルフでぜひがんばってもらいたい。

    勝てないとは思うが決してひるむ必要はない、

    できればゴルフではトランプ大統領をギャフンと言わせてもらいたいものである。

    そうしてトランプ大統領には、愛していると言ってもらいたいものである。

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