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    panietzsche 12月2日 07:30

    >>4482

    おはようございます♪ エフニさん。

    >御無沙汰して申し訳ありません。

    いえいえ。これまでも。これからもお互い様です。^^

    >おくたがわ様や、つばめさんも来て下さると仰ってますし、楽しくなりそうですね。

    ほんとめちゃめちゃ楽しみです。

    >いつかオフ会で、パニーチェさんとお会いする時の為に、アンチ・エイジングに頑張ります!

    いや、ほんと来年あたりやっときたいですね。

    >早速作って頂き、どうもありがとうございました。
    >にも関わらず、お礼が遅れて申し訳ありませんでした。m(__)m

    とんでもありません、どういたしまして♪

    >ゲットさんやトクビーさん等の哲カテ常連も、気軽に遊びに来てくれたり、勿論、トピを作って常駐してもいいですし、参加してくれたら愉しいですよね。

    僻地で招待はしにくいのですが、哲カテの仲間は大歓迎です!

    >いえいえ、哲学カフェメインストリートの上位になると思いますよ。
    >まだ試していませんが、ニークラが私のガラケーから投稿できれば、短い文章でしたら、ちょこちょこ投稿できると思います。
    >パニーチェさんが作って下さった私のトピだけでなく、いろんなトピにもお邪魔させて頂きますね♪
    ヾ(o≧∀≦o)ノ゙

    ありがとうございます。よろしくお願いします。
    以前、トピは誰でも設置できるようにしていたのですが、そうすると設置だけして放置されるトピも増えてしまったため、希望に応じて私が設置する仕組みに今はしています。
    エフニさんでも、どなたでも、こういうトピを作れという希望があればいつでもお気軽にどうぞ。
    ニークラについてのトピでも(どのトピでもいいですが)投稿いただければ設置させてもらいます。

  • >>4311

    こんばんは~♪ パニーチェさん。

    御無沙汰して申し訳ありません。

    >私の方こそ楽しみです。ありがとうございます。<

    おくたがわ様や、つばめさんも来て下さると仰ってますし、楽しくなりそうですね。

    >共に白髪が禿げるまでということで。<

    いつかオフ会で、パニーチェさんとお会いする時の為に、アンチ・エイジングに頑張ります!

    >作らせてもらいました。<

    早速作って頂き、どうもありがとうございました。

    にも関わらず、お礼が遅れて申し訳ありませんでした。m(__)m

    ゲットさんやトクビーさん等の哲カテ常連も、気軽に遊びに来てくれたり、勿論、トピを作って常駐してもいいですし、参加してくれたら愉しいですよね。

    >僻地で申し訳ないのですが、よろしくお願いします。<

    いえいえ、哲学カフェメインストリートの上位になると思いますよ。

    まだ試していませんが、ニークラが私のガラケーから投稿できれば、短い文章でしたら、ちょこちょこ投稿できると思います。

    パニーチェさんが作って下さった私のトピだけでなく、いろんなトピにもお邪魔させて頂きますね♪
    ヾ(o≧∀≦o)ノ゙

  • まったく不毛な議論なわけである。物自体が直に見れたら逆に困ったことになる。映像が不可能になるからね。テレビもpcの動画も不可能になる。直に現場にいって物自体を確認しないとならなく
    なる。眼球だって一種のカメラだからどうやって見るのか謎だが(笑)。もちろん画像の保存などもできなくなる。記憶も不可能。現時点での表象による思考さえ不可能だろう。

  • >>4479

    そうして現実感覚が獲得されたあとに、もろもろの思考が展開可能となるのである。物自体が実在するか?など、どうでもよいくだらない問題なのである。物自体が実在するという現実、実在しないという現実、この現実そのものの方が重要である。現実そのものがあるからこそ、実在するかどうかも問うことができるのであり、逆に言えば、現実が可能性として実在と非実在を共に認めているがゆえにそういった論争も可能になるという意味ではどっちが勝利しようか偶然的な勝利に過ぎないのてある。

  • >>4478

    結局、堂々巡りになり、それなら素朴実在論かシンプルていいんじゃないのかという話にもなる。重要なのは現実ということになる。しかし、存在同様に、そんなことは自明だろう、問うに値しないとなるのがせいぜいなのである。そこで登場するのが時間的存在論なのである。まず時間、今瞬間によって純粋世界=現実が直観されるのである。これが純粋実在でもある。受動能動性が渾然一体となっている世界の原初形態である。

  • >>4477

    素朴な実在世界を世界Aとでもすると、一般の人は、安倍晋三が三選されたね三選されたのは現実だ、というようにいうわけた。つまり、世界Aはそのまま現実という意味になる。しかし、一部の哲学者なとは、その世界Aは本当に現実なのか?などと現実をスライドさせて論じることもできるわけだ。例えば、世界Aが現実だとしたら、安倍晋三が三選されたのは現実だ、といった具合に表現可能なわけだ。

  • >>4476

    素朴実在論の世界、まあ、トランプがいたり安倍晋三がいたりする世界だ。哲学者のなかにはそれを疑ったりかっこにいれたりする者もいるかもしれないが、そんなに別の結構な世界を提示できるわけでもない。重要なのは、どの世界か実在であるか、現実であるのか、ではなく、現実とはなにか?である。

  • >>4475

    野矢も情けないことをいう(笑)。別に手放さなくてもいいんだよ、素朴実在論ごときは。その辺か論理屋の限界か。現実を堀くずせず主発点とする。まあ、空間的存在論すべてにいえる限界だろうけど。

  • >>4474

    だから実存主義というものは、最初から敗北か決定付けられていたともいえるわけだ。撤退戦のなかの小さな反抗作戦みたいなものだった。大局的には空間的存在論が勝利しているのた。学問の領域な限らず社会全体に及ぶまで。システムの構成から組織の行動原理から個人の内面やエートスに至るまでである。その全面的勝利の反動として窒息しそうな大衆の実存への希求も生じたとさいえるのだ。実存主義的運動、とりわけ実践的なそれは、むしろ実存主義の構造的な敗北を意味するのである。

  • 今、カントトピを覗いてきたが、結局カントの証明はこういうことだろうか?「恒久的なもの」というのは、時空が主観的なものだというカントの文脈から、主観外のもの=実在、くらいに考えていいだろう。私の存在は私の直観のなかにはない。確かに、直観内の説明てある程度は説明は可能かもしれない。こう直観するのはこの直観によって、といった具合に。しかし全てを直観だけで説明し尽くすことはできないだろう。最後の直観だけは漏れてしまう。やはりなんらかの外部が必要となるだろうというわけだ。つまり、観念論のやるような外部に頼らない表象だけでの説明は不可能だということである。したがって、私の意識の存在を認めるのならば、同時に私の外部の実在をも認めねばなりませんよと、そういう論理か。なんか詭弁ぽくもあるが(笑)。

  • >>4472

    そもそもニーチェ、キルケゴールら実存思想の創始者たちも、知的な態度であったように思う。その強引な個の包摂、でっちあげの真理によるそれに異を唱えたのである。それが特にキルケゴールの場合、宗教的実践に直結するところがあったために実践的な思想といった面が印象されがちでああるが。さらにまた、やはりね、そういう主体的真理といったものは学問に限らず当然にいろんな摩擦を生じるね。そもそも学問でも世間ても集団的、集団包摂的なわけで、左右関係なく政治的にも叩かれるね。ニーチェは学界から干され、キルケゴールは教会や世間を敵に回した。どの方向からも叩かれる、ハイデガーはしたたかに学界での地位もてにしたけど。とにかく叩かれるし、バカ文系脳からも嫌われるよね。あいつらは庶民の預かり知らないところで勝手に用語作って社会や時代を規定するのか好きだから、規定から外れることは許せない。商売もあがだたりで面目も丸つばれ(笑)。

  • >>4471

    実存主義的な方向、実践的な方向は、時間的存在論というより大きな枠組みの中では必ずしも重要なものではないのである。この実存主義的な方向性はむしろ空間的存在論を引きずっているために生じた感さえする。

  • >>4470

    実存は学的対象としては困難が伴うのだろう。ヤスパースの実存哲学あたりが冷静に学的対象として実存を考察した感があるが、いかんせんやはり空間的存在論的な枠組み内では限界があるのだろう。パンチのきかない優等生的な仕事に感じる。ハイデガーは少し政治的火遊びにてを出してしまったものの、その枠組みから模索するという、非常に真摯な純学問的な動機かあったのだ、

  • >>4469

    実存思想はついそういった実践的な指針として利用されるきらいがあったわけだ。時代もそうだった。なんらかの礎としての思想的な指針がないと、容赦なく国民は分断され、赤色革命の餌食になるか資本主義の餌食になるかの時代だったのだ。神な時代の大衆も指針を求めていたのだ。だから学問的な動機か出発点であったはずのハイデガーなとも熱狂の渦に身を任せてしまう。

  • とはいえ、実存主義的な方向、主体性とか決断とかはここでの私の主たる関心ごとではない。これはハイデガーがお膳立てしたところもあるかもしれないが、調子にのったサルトルが勝手にこけたようなものだ。構造主義に破れた実存主義の命運はつきたなどと、自分の脳みそで考えることのできないバカの戯言くらいに考えておけばよい。決断的な面を強調しそこを尖鋭化させた実存思想の一部かちょっとやられた程度の話たろう。ハイデガーも政治的にはちょっとやらかしたわけだが。といっても、実存主義は
    何かの必勝法ではないんだから、その決断は当然に成功も失敗もある。それを実存主義のせいにされてもね。

  • キルケゴールは信仰との関係から時間的存在論的な領域に踏み込んだわけであるが、これは偶然だろうか?もちろんそうではないだろう。やはり信仰、宗教的な領域は時間的存在論とも重なるところがあるのだろう。単独者とコギト、神と世界、これらは明らかに対応関係にある。信仰的な単独者は時間的コギトに通じるところがあるにちがいない。実際、まったく時間的存在論と無関係でいられることの方が困難かもしれない。しかながら、大抵は、まさにデカルトのコギトもそうであるように、本質をとり逃した形でせっかくの洞察を生かせなくするか、あるいは、怪しげな領域を察知しながらも意図的に無視したり、目を瞑ったりもするのである。それは、結局、従来の空間的存在論的な枠組、地平においては、正しく扱うことができないということであろう。現象学における志向性などもフッサール流のコギトであり、今瞬間だと言えようが、空間存在論的な枠組から出るものではない。

  • >>4466

    こうしてみると、すっきりしてくる。キルケゴール、そしてニーチェも、私の言葉で言えば、今瞬間デタラメ主義者、時間的存在論者なのである。ハイデガーもよりそうである。自覚的にそうである。彼は自然の根拠も否定している。「存在と時間」では、ディルタイとヨルク伯とのやり取りに触れながら、歴史をもっと時間的存在論的にとらえる必要性を説いている、と読めなくもない。

  • >>4465

    キルケゴールは、歴史の全体運動に包摂されない単独者の瞬間瞬間の主体性を主張したのである。没歴史の反復を唱えたのである。これは自然のデタラメ性とまったく重なるものである。もっとも、デタラメ性のなかの必然性ないし見かけの必然性はありうるから、一方的にヘーゲルが間違いでキルケゴールが正しいとできるわけではないが、ヘーゲルへのアンチテーゼのひとつにはなりえるわけである。

  • >>4464

    人間はどうであろうか?キルケゴールは、独自の宗教的心理学的な洞察からヘーゲルの絶対者による暴力的な包摂を拒んだ。といってもおそらくさほど特殊なものではなく、むしろ私のような素人が直感する信仰の態度にちかいだろう。それは、ますもって神と個人との1対1の関係があるということだろう。そこに教会でも大哲学者でも学説でも参考程度にしか介在する余地はないのである。しかし、こんな当たり前のことか誰もできていないのか世の中というものである。そして、もうひとつ肝心なことは、信仰は瞬間瞬間に試されるということであろう。信仰歴が何十年あろうと、
    その先の信仰のなんの保証にもならないのである。このこともまた世間では忘れられているのが常である。

  • >>4463

    自然は未来へも無計算であるという意味ではデタラメだが、過去の方向においてもデタラメである。それは無記憶という意味においてである。時速10キロの日運動体が50キロから10キロになっていようが100キロからそうなっていようが関係ない。自然には未来への計算もなければ過去の記憶もないのであり、瞬間瞬間の勝手な動きしかないのである。

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