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    今朝、ラジオで「空と海のあいだ」を聞いていて、そう思った。間違いない。筆者は昔、彼女が卒業した高校に勤務していたことがあるが、帯広市内の産科医院のお嬢さんだそうだ。

    天理教のパトロンにもなっているらしいので、彼女の世直し的傾向がうかがわれる。

    神と言っても、インドのカーリー神のような、髪振り乱した破壊の神でもあろう。筆者は今後、彼女の精神を、可能な限り、世に広めることに努めよう・・

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    asz***** 1月13日 18:47

    いま、claud-fundingに登録してみた。どうなるかなー。

    みゆきちゃん、出してくれないかな。しかし何でもソーダが計画してる時が一番楽しみだね。

    もし金が集まったら、俺はやるぞ。歴史に名を残してやる!

  • 報告

    時計台の前。誰も来なかった。近くに止まっていた焼き芋販売カーの青年が一本くれた。メリークリスマス。

  • あげ。

    みんな、来いよ。衆院議員の池田真紀さんも行きたいとは言ってた。

  • 告知

    12月24日 クリスマス・イブ pm6時  札幌 「時計台」(あの有名な )前集合

    優性保護手術に抗議する集会(10分程度)及びデモ行進(大通公園、駅前通り、三越前のコースを1時間ほど)

    今のところ、参加人数は不明、主催は「札幌市厚別区いじめ撲滅会議」 責任者はわたし・とくびーです。

    聖夜 に正義の灯をともそう!

  • 来年・夏の札幌市議選に立候補することにした。金はクラウドファンディングで集める。この程度ならヤフー規約に引っかからないだろう。

    哲学は知行一致でなくてはならん、ということを十年前から言ってきたつもりだ。認識が深まれば行動も広がる。「ファウスト 第二部」を読めばわかる。

    それを突き詰めれば、哲学の先には信仰があるから、宗教に基づく革命が次なる課題になる。

  • 提案

     最近5ちゃんねる2を見てみたのですが、それほど過密でもないようです。

     とりあえずYahootextream西哲OB連臨時政府集会所というかたちでの一時的なトピを作成し、

     連絡所とするのはいかがでしょうか。

  • サー、今日はいっぱい書くぞーと思ったけど、最近は張り合いないんだよね。誰も反応してこないし。これじゃー、TEXTREAM 廃止もやむなしダナ。

    社会性とか共同性というのはどんな孤独な単独者でも、それを相手にして自分のことを考えているもので、ふかーいところで意識を規定している。なんてこと言っても、だれも興味ないんだろね?

    この先どーなるんだろ。きっと、オーウェルの「動物農場」みたいになるな。独裁者が出てきて全体主義の国になる。いや、モーなってる。するってーと、その先は、・・・・ハルマゲドン。エホバの証人の考えどーりになる。

    いや、めでたい。

  • 般若心経の何とかいうと、さっそく興味なしと思われだろうが、ここはよく考えてもらいたい。この混迷の世に従来型のイデオロギー・戦術が通用するものかどうかを。政治的にも今は左翼・右翼・中道の区別に意味はない。

    誰にとっても全く新しい何かを模索する試行錯誤の努力が求められる。さらに言えば、新しい・古いという図式自体が今日では最もダサいのである。利用できるものは何でも利用する。それが大事だ。ラカン的に言えば、「新旧」図式にこだわる者は

    鏡像段階から一歩も踏み出そうとしない一種の発達障害である。

    革命は「命」を「革める」と書く。従来はこの革は天命の意味だとされ、これはこれでいいのだが、天命には人の使命が含まれるのだから、使命に気づかない状態からその自覚への転換・革を革命と呼ぶことに無理は伴わない。

    で、使命って何だといえば、悟りを開き、本来の自己の面目に立ち返ることだ。これができないうちは、こまねずみよろしく、無間地獄をさまようしかない。何をやってもどこを見ても地獄しかない。こういう経験なら、現代人はたっぷり

    知ってるはずだから僕の言うことによもや異論はあるまい。ここでまた例の新旧図式が顔を出し、そんな時代遅れの話に乗れるかよ、とつぶやくだろうが、こいつこそ正真正銘の田舎者である。

    次に宗教だったら寺や教会に任せておけばいいっしょ、の声が来るが、これには心身平行論または同一説をもって答えにする。なんだったらペンローズの「量子意識仮設」というのもある。しかし実際のところは常識に訴えるのが早道であって

    健全なる身体に健全なる精神は宿る、君子上にあれば国おのずと治まる、心美しければ姿またうるわし、と言い、かつ唯物論的な逆の指摘、恒産なくして恒心なし、貧すりゃどんする、下部構造が上部構造を決定する、というのもありうるが、

    いずれにしろ、心身分離論に由来するあきらめムードとは違い、頑張ればなんとかなる、道は開ける、との希望の開示がここにはある。

  • ラカンの鏡像関係というのは言語のことで、そこから漏れる現実界は神秘主義の世界だというのは分かったが、それと佐々木中が熱狂する革命の可能性との関連が腑に落ちないまま布団に入ってつらつら考えるに、

    答えは「般若心経の革命」にあると思い当たった。

    今、ホテル・エミシアのロビーにおいてあるpcなので、詳細は次回にする。

  • 正向論  4

    最近、ラカンの解説書を二冊 (佐々木中の「夜戦と永遠」、向井という人の「ラカン入門」)読んでるので、僕の正向論をラカンの言葉で説明してみようと思う。生かじりの理解で誤りも多いだろうから、ラカンに詳しい人からの訂正・反駁を期待する。

    僕は自分のテーマを「ヘタレの魅力の習得」と考えている。その実現のことは「ヘタレ正向」と言っている。ヘタレは、ま、誰でもわかると思うが欠点・失敗・絶望・悲観等々のこと。人生苦だ。

    それを改善した上で救済を図るのではなく、ヘタレそのものにおいて、ヘタレ即救済の境地を摸索すること。仏教的には、煩悩即菩提の思想に相当する。

    で、ラカン的に言えばこのヘタレというのは「対象a」というものに当たる。で、こいつはどうやら、想像界・象徴界・現実界のうち、前二界から現実界への橋渡しの位置にあるらしい。で、この現実界というのは、僕の理解では

    浄土に相当する。そこには「女性の享楽」というものがあり、14,5世紀スペインの神秘家の神秘体験がメインテーマになっている。女性というのは、必ずしも女でなくてもよく、要するに「キリストの花嫁」といった意味合いのものだ。

    したがって僕の正向論なるものも、一種の神秘主義である。仏教の煩悩即菩提論もまた然り。誰かさんみたいに文献的知識で何とかなるという類のものではない。

  • 正向論  3

    まだ読んでないけど、ベンヤミンのパサージュ論って、街歩きの心理みたいなものなのかな。現代人にとって、これは大きな問題じゃないかと思う。まだ僕が若くて田舎者だったころ(すいません、今でもです)都会の街路を歩くのがひどく苦痛だった。

    劇場型・鏡像的社会をどうやったら生きていけるか、鏡のなかの幻想と狂乱のように相互に見、見られる現代の対人関係の中でいかにして正気を保っていられるか。現代人の倫理という言葉を、今ある社会の中でいかに生きるかの意味と取れば、

    この鏡像状況の持つ倫理的・思想的重大性は明らかだ。ひとり近代化の波に戸惑う田舎者の嘆きにとどまらない、と思うがどうだろう。

    僕の正向論のテーマもこれだ。

    結論は簡単で、念仏を挙げながら歩くというものだが、それでも日々、微調整と新たな修行が必要ではある。

  • 正向論  2

    自分が病んでいることがはっきり見えるようになることが解放に直結する訳だが、そうなってみると逆に社会の側も病んでいることが同時に、見えてくる。これはどちらが先とはにわかに言えないところだ。

    昔からの言葉(衆生病むゆえに吾また病む、吾悟らざるも衆生をして先に悟らしむ、みんなが幸せにならないうちは自分も幸せにはなれない)などはこの間の事情を物語っている。

    現代思想でも同じことで、フランス・ポストモダンの思想家たちも、自己治療・自己開放と体制批判は車の両輪だと説いている。結局のところは、キリストや仏陀の精神を参考にせよ、それらを時代遅れとして軽蔑するのは間違いだ、

    その意味で真の課題は反時代的なものだ、という点で共通している。

    自分と社会の病いを勇気をもって正面から見据えること、これが正向の基本的意味だ。

  • 自分史  4  正向論

    僕も晩年になってるので、一通りのことは言っておきたい。この十年ほど、「正向」という理念の下で思索と修行を続けてきた。これは、仏教の八正道の第一番目の正見に近いものだが、僕なりのかたよりというか事情もあって、このテーマになった。

    その動機やインセンチブは、世間にありがちな人生苦の克服である。人によってそれぞれだろうが、とにかく僕も人並みに悩んできた。その回答が「正向論」である。

    正向とは、一言でいえば、人の目を見てまっすぐ話すことである。というのは、僕には生来、対人恐怖的なところがあったためだ。それでいきおい、話がメンタルヘルスや自己実現セミナー風になるのはやむを得ない。興味のある人は読んでほしい。

  • 自分史 3  明日の僕

    分析哲学もいつの間にかコケちゃって、今では思弁的分析なんだって。それじゃ僕の考えてることなんか時代の最先端てことになるのかも。よし、ひとつ頑張ってみるか。

    量子論的解脱論なんてのはどうだろうか。ふざけている訳では無くて、最近の念仏修行の合間のアイデアである。

    昔から念仏不思議といって、念仏すれば確かに救われるのだが、そのメカニズム・構造を説明するとなると困難を極める。今考えてるのは、世界の実体変容のことだ。カトリックでは、聖餐式

    においてパンがキリストの体に変わることを実体変容と呼んでいる。

    人が不幸になったり鬱に落ち込んだ時、世界は地獄に変わる。これは誰でも経験することだろう。これを文字通りに解釈しようとすると、世界の実体が目に見えないところで変容したとする必要がある。

    ここのところで量子論の多世界論を持ってくる。見た目は同じでも中身は別の世界にすり替わっているという訳だ。

    こういうのが何故、明日の僕かといえば、一口に信仰・修行といっても過去の公式・定番だけでなく、未来に向けた実践を含むからである。

  • 自分史  2   宇野弘蔵 について

    昨日、佐藤優の本で初めて宇野弘蔵の文章に触れた。そして思った。学生の時に読むべきだった、と。私見では、こういう類の本を良書と呼ぶ。激しい後悔と光明の到来を同時に意味するような体験をもたらし、新生を告げる曙のような書物。

    こんなことが書いてある。「資本論」は革命論ではない。資本主義という歴史的運命というべきものに立ち向かい、その構造を解明することで、社会と自分に由来する呪縛と抑圧をはねのけないまでも、それに耐えて生きていく体力を提供する。

    これは今の僕自身の、社会と自分に由来する病を、実践と知を通して癒していく姿勢・方法論と、まさに共鳴しあうものだ。宇野の文章もファナチックなところがなく、洞察力・理解力が高いように感じる。

    過去は帰ってこないとばかりも言えない、ということを考えさせてくれる。永遠回帰。ベンヤミンの歴史哲学。マルクスはフェニックスのごとく生き返るのか?

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  • 客観は昔は別の意味だった話

    西洋哲学史の中級・上級あたりのテクストには、不思議な話が載っている。近世になってから客観・主観などの術語の意味が、それまでと大きく、場合によっては180度、変わってしまったというのだ。

    ほんまかいなと思う人は、九鬼周三「西洋近世哲学史稿」を見られたい。ゲーテの証言もある。objekt, subjekt というのは主に人間の精神の在り方について用いるもので、カントのように知識論に応用するには無理が伴う、と。

    昔は、心が広く公明正大な人格の形容として客観的な心の持ち主、反対に自分のことしか考えない心の狭い者には、彼の態度や考えは主観的だ、という使われ方をした。これは現代の日本でも理解が可能である。

    要するに、カントが知識論(認識論ともいうが)を扱うにあたり、主観・客観という術語を持ち出したことが、後々、面倒な問題を生むことになったといえる。

    バークレーはカントより数十年前の人だが、主観のことを心 mind・物自体を外部世界 external world という言い方をしていて、これで何の混乱も生じていない。議論の展開もカントよりはよほどすっきりしていて矛盾がない。

    .これは想像だが、哲学教授として経験の浅いカントは、今までと違う新機軸を打ち出すことで、先輩の教授陣から軽くあしらわれていた恨みを晴らそうとしたのかな。

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