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    今朝、ラジオで「空と海のあいだ」を聞いていて、そう思った。間違いない。筆者は昔、彼女が卒業した高校に勤務していたことがあるが、帯広市内の産科医院のお嬢さんだそうだ。

    天理教のパトロンにもなっているらしいので、彼女の世直し的傾向がうかがわれる。

    神と言っても、インドのカーリー神のような、髪振り乱した破壊の神でもあろう。筆者は今後、彼女の精神を、可能な限り、世に広めることに努めよう・・

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    asz***** 9月21日 12:43

    般若心経の何とかいうと、さっそく興味なしと思われだろうが、ここはよく考えてもらいたい。この混迷の世に従来型のイデオロギー・戦術が通用するものかどうかを。政治的にも今は左翼・右翼・中道の区別に意味はない。

    誰にとっても全く新しい何かを模索する試行錯誤の努力が求められる。さらに言えば、新しい・古いという図式自体が今日では最もダサいのである。利用できるものは何でも利用する。それが大事だ。ラカン的に言えば、「新旧」図式にこだわる者は

    鏡像段階から一歩も踏み出そうとしない一種の発達障害である。

    革命は「命」を「革める」と書く。従来はこの革は天命の意味だとされ、これはこれでいいのだが、天命には人の使命が含まれるのだから、使命に気づかない状態からその自覚への転換・革を革命と呼ぶことに無理は伴わない。

    で、使命って何だといえば、悟りを開き、本来の自己の面目に立ち返ることだ。これができないうちは、こまねずみよろしく、無間地獄をさまようしかない。何をやってもどこを見ても地獄しかない。こういう経験なら、現代人はたっぷり

    知ってるはずだから僕の言うことによもや異論はあるまい。ここでまた例の新旧図式が顔を出し、そんな時代遅れの話に乗れるかよ、とつぶやくだろうが、こいつこそ正真正銘の田舎者である。

    次に宗教だったら寺や教会に任せておけばいいっしょ、の声が来るが、これには心身平行論または同一説をもって答えにする。なんだったらペンローズの「量子意識仮設」というのもある。しかし実際のところは常識に訴えるのが早道であって

    健全なる身体に健全なる精神は宿る、君子上にあれば国おのずと治まる、心美しければ姿またうるわし、と言い、かつ唯物論的な逆の指摘、恒産なくして恒心なし、貧すりゃどんする、下部構造が上部構造を決定する、というのもありうるが、

    いずれにしろ、心身分離論に由来するあきらめムードとは違い、頑張ればなんとかなる、道は開ける、との希望の開示がここにはある。

  • ラカンの鏡像関係というのは言語のことで、そこから漏れる現実界は神秘主義の世界だというのは分かったが、それと佐々木中が熱狂する革命の可能性との関連が腑に落ちないまま布団に入ってつらつら考えるに、

    答えは「般若心経の革命」にあると思い当たった。

    今、ホテル・エミシアのロビーにおいてあるpcなので、詳細は次回にする。

  • 正向論  4

    最近、ラカンの解説書を二冊 (佐々木中の「夜戦と永遠」、向井という人の「ラカン入門」)読んでるので、僕の正向論をラカンの言葉で説明してみようと思う。生かじりの理解で誤りも多いだろうから、ラカンに詳しい人からの訂正・反駁を期待する。

    僕は自分のテーマを「ヘタレの魅力の習得」と考えている。その実現のことは「ヘタレ正向」と言っている。ヘタレは、ま、誰でもわかると思うが欠点・失敗・絶望・悲観等々のこと。人生苦だ。

    それを改善した上で救済を図るのではなく、ヘタレそのものにおいて、ヘタレ即救済の境地を摸索すること。仏教的には、煩悩即菩提の思想に相当する。

    で、ラカン的に言えばこのヘタレというのは「対象a」というものに当たる。で、こいつはどうやら、想像界・象徴界・現実界のうち、前二界から現実界への橋渡しの位置にあるらしい。で、この現実界というのは、僕の理解では

    浄土に相当する。そこには「女性の享楽」というものがあり、14,5世紀スペインの神秘家の神秘体験がメインテーマになっている。女性というのは、必ずしも女でなくてもよく、要するに「キリストの花嫁」といった意味合いのものだ。

    したがって僕の正向論なるものも、一種の神秘主義である。仏教の煩悩即菩提論もまた然り。誰かさんみたいに文献的知識で何とかなるという類のものではない。

  • 正向論  3

    まだ読んでないけど、ベンヤミンのパサージュ論って、街歩きの心理みたいなものなのかな。現代人にとって、これは大きな問題じゃないかと思う。まだ僕が若くて田舎者だったころ(すいません、今でもです)都会の街路を歩くのがひどく苦痛だった。

    劇場型・鏡像的社会をどうやったら生きていけるか、鏡のなかの幻想と狂乱のように相互に見、見られる現代の対人関係の中でいかにして正気を保っていられるか。現代人の倫理という言葉を、今ある社会の中でいかに生きるかの意味と取れば、

    この鏡像状況の持つ倫理的・思想的重大性は明らかだ。ひとり近代化の波に戸惑う田舎者の嘆きにとどまらない、と思うがどうだろう。

    僕の正向論のテーマもこれだ。

    結論は簡単で、念仏を挙げながら歩くというものだが、それでも日々、微調整と新たな修行が必要ではある。

  • 正向論  2

    自分が病んでいることがはっきり見えるようになることが解放に直結する訳だが、そうなってみると逆に社会の側も病んでいることが同時に、見えてくる。これはどちらが先とはにわかに言えないところだ。

    昔からの言葉(衆生病むゆえに吾また病む、吾悟らざるも衆生をして先に悟らしむ、みんなが幸せにならないうちは自分も幸せにはなれない)などはこの間の事情を物語っている。

    現代思想でも同じことで、フランス・ポストモダンの思想家たちも、自己治療・自己開放と体制批判は車の両輪だと説いている。結局のところは、キリストや仏陀の精神を参考にせよ、それらを時代遅れとして軽蔑するのは間違いだ、

    その意味で真の課題は反時代的なものだ、という点で共通している。

    自分と社会の病いを勇気をもって正面から見据えること、これが正向の基本的意味だ。

  • 自分史  4  正向論

    僕も晩年になってるので、一通りのことは言っておきたい。この十年ほど、「正向」という理念の下で思索と修行を続けてきた。これは、仏教の八正道の第一番目の正見に近いものだが、僕なりのかたよりというか事情もあって、このテーマになった。

    その動機やインセンチブは、世間にありがちな人生苦の克服である。人によってそれぞれだろうが、とにかく僕も人並みに悩んできた。その回答が「正向論」である。

    正向とは、一言でいえば、人の目を見てまっすぐ話すことである。というのは、僕には生来、対人恐怖的なところがあったためだ。それでいきおい、話がメンタルヘルスや自己実現セミナー風になるのはやむを得ない。興味のある人は読んでほしい。

  • 自分史 3  明日の僕

    分析哲学もいつの間にかコケちゃって、今では思弁的分析なんだって。それじゃ僕の考えてることなんか時代の最先端てことになるのかも。よし、ひとつ頑張ってみるか。

    量子論的解脱論なんてのはどうだろうか。ふざけている訳では無くて、最近の念仏修行の合間のアイデアである。

    昔から念仏不思議といって、念仏すれば確かに救われるのだが、そのメカニズム・構造を説明するとなると困難を極める。今考えてるのは、世界の実体変容のことだ。カトリックでは、聖餐式

    においてパンがキリストの体に変わることを実体変容と呼んでいる。

    人が不幸になったり鬱に落ち込んだ時、世界は地獄に変わる。これは誰でも経験することだろう。これを文字通りに解釈しようとすると、世界の実体が目に見えないところで変容したとする必要がある。

    ここのところで量子論の多世界論を持ってくる。見た目は同じでも中身は別の世界にすり替わっているという訳だ。

    こういうのが何故、明日の僕かといえば、一口に信仰・修行といっても過去の公式・定番だけでなく、未来に向けた実践を含むからである。

  • 自分史  2   宇野弘蔵 について

    昨日、佐藤優の本で初めて宇野弘蔵の文章に触れた。そして思った。学生の時に読むべきだった、と。私見では、こういう類の本を良書と呼ぶ。激しい後悔と光明の到来を同時に意味するような体験をもたらし、新生を告げる曙のような書物。

    こんなことが書いてある。「資本論」は革命論ではない。資本主義という歴史的運命というべきものに立ち向かい、その構造を解明することで、社会と自分に由来する呪縛と抑圧をはねのけないまでも、それに耐えて生きていく体力を提供する。

    これは今の僕自身の、社会と自分に由来する病を、実践と知を通して癒していく姿勢・方法論と、まさに共鳴しあうものだ。宇野の文章もファナチックなところがなく、洞察力・理解力が高いように感じる。

    過去は帰ってこないとばかりも言えない、ということを考えさせてくれる。永遠回帰。ベンヤミンの歴史哲学。マルクスはフェニックスのごとく生き返るのか?

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  • 客観は昔は別の意味だった話

    西洋哲学史の中級・上級あたりのテクストには、不思議な話が載っている。近世になってから客観・主観などの術語の意味が、それまでと大きく、場合によっては180度、変わってしまったというのだ。

    ほんまかいなと思う人は、九鬼周三「西洋近世哲学史稿」を見られたい。ゲーテの証言もある。objekt, subjekt というのは主に人間の精神の在り方について用いるもので、カントのように知識論に応用するには無理が伴う、と。

    昔は、心が広く公明正大な人格の形容として客観的な心の持ち主、反対に自分のことしか考えない心の狭い者には、彼の態度や考えは主観的だ、という使われ方をした。これは現代の日本でも理解が可能である。

    要するに、カントが知識論(認識論ともいうが)を扱うにあたり、主観・客観という術語を持ち出したことが、後々、面倒な問題を生むことになったといえる。

    バークレーはカントより数十年前の人だが、主観のことを心 mind・物自体を外部世界 external world という言い方をしていて、これで何の混乱も生じていない。議論の展開もカントよりはよほどすっきりしていて矛盾がない。

    .これは想像だが、哲学教授として経験の浅いカントは、今までと違う新機軸を打ち出すことで、先輩の教授陣から軽くあしらわれていた恨みを晴らそうとしたのかな。

  • 客観とは何ぞや

    カントの物自体の話が板にも結構出ている様なので、説明しておかなくは。

    カントの話とは全く関係ない。なぜそう言えるかというと、僕の言う客観は、自分というものの客観性だからだ。カントの話は、自分の意識とその対象をめぐる話で、その対象のうち、意識由来の部分を現象とし、それ以外のものを物自体と呼んだ。

    もう一つ例を挙げると、現象学(とくにサルトル)では、意識とは対象に対する指向性のことである、という言い方がされ、この指向性のことを、対象に関する措定的意識、などと表現する。そして、自己意識・反省については、措定作用に関する非措定的意識であるとする。

    で、僕はこれを読んで、自己に関する措定的意識とはどんなものかを想像してみた。サルトルでは、この問いは問われていなかったからだ。そのことを論じているのは、日本人の森本健雄のお兄さんだった。

    名前のほうは忘れた。署名は「サルトルと道元」講談社新書。ここからもわかるように、自己の客観性という発想はもともと、東洋的、宗教的なテーマである。道元の「万象に証せらるを悟りという」場合の、

    万象に照らされてある中で、はじめて本来の自己の姿が現れるというのが、今言っている意味での客観性である。

    カントをはじめとする西洋哲学の欠点は、真実の自己という視点とそこへ至る過程(修行)の動態的性格を欠き、もっぱら今ある静態的認識構造を論じ続けることである。ニーチェはこの点を批判した。

    「超人」とは、仏教でいえば菩薩や如来といった成就者のことだ。人間を超えることが肝心なのであって、今いるちんけな人間の構造をいくら論じたところでたかが知れている。この線を継承しているのが

    ドゥルーズである。その意味で、西洋哲学と東洋思想の違いは存在しない所なのだが、それでは食べていけない人種が、この国の思想界を洗脳し、インチキ商売に身をやつしているのが現実である。チャンチャンと。

  • 自分史 2 今日の僕

    悩みというものは、客観的には存在しない。主観に耽溺したものにとってのみ意味を有する。客観的に見れば、目の前の課題に対する対応が比較的、楽かそうでないかの違いしかないし、こういうものは普通、

    悩みとか不幸と呼ぶべきものではない。他人から見て、あの人かわいそうね、と思われても本人にとってそうでないのなら、こちらのほうが正しい判断だと考えるべきだろう。

    これはいわゆる、ニーチェの「正午の思想」である。僕にとって、こういう考え方は武士道そのものだ。

    今日は、こういうことをずっと考えながら過ごしています。

  • >>92

    精神史  11  自分史について   

    戦後日本の精神史となると当然、自分史と重なってくる。戦後日本に関する認識と批判は、自分の人生の歩みの蹉跌とそれからの解放の物語や希望と切り離すことは難しい。

    もったいぶらずにはっきり言うと、自分の経験してきた不幸は大部分、時代の条件と関わっている。人間関係・学歴社会・競争社会・いじめ社会。アリストテレスを持ち出すまでもなく、人間とはポリス的存在であって、しかも、これは通常の解釈とは違い、

    個人が社会に影響されるというのではなく、個人にしろ社会にしろ、個人・社会双方に先立つ関係性というものが実在することを前提としている。必然論でも自由意思論でもない。しいて言えば、仏教でいう、父母未生前における自己本来の面目

    の探求だろうか。

  • 精神史 10  内海 聡 の本

    一昨日買ったphp文庫「精神科は今日も、やり放題」は、僕が40年来待ち焦がれてきた「事件」の出現を意味する。これは戦後史のみならずこれまでの人類史の一ページを画す影響力と破壊力を孕んでいる。あえてこの場で紹介する所以である。

    内海氏の存在を以前から知っていたという人もいるのだろうが、僕はそうではなかった。また、
    精神医療の話と、戦後政治・社会史の話はどうつながるかの問いに関しては、「大和魂・愛国心の復権」とだけ言っておこう。

  • 精神史 9  戦術的えげつなさ について

    人種差別と思われるのは心外なので、僕の朝鮮人問題に対する姿勢の理由を書いておく。事の発端は20年ほど前に全国を席巻した「オヤジはくさい」の大キャンペーンだった。

    その前には「週刊現代」(だったと思うが)を舞台に「おじさん改造委員会」なるコラムが数か月続き、オヤジ的価値観の撲滅は人類愛の立場からして正当であるという、フェミニズムむきだしの

    プロパガンダが出現していた。ただ、その手法・戦術として「オヤジはくさい」という手を使うのは、これまでの日本の社会運動の形から見て、かなり異質なことと感じざるを得なかった。

    政治や社会の問題を論じ、公的な運動を推進しようとする者が果たしてこういうエゲツなさを発揮するものなのか、その先例を僕は知らなかった。何か異様なものが裏でうごめいている、この直観は疑問となり、増幅していったわけだ。

    このことは、赤坂真理が「愛と幻想の戦後社会」(いくらか違ってるかもしれない)において「この国には大きな秘密がある」、「得体のしれない不気味さがこの社会の底には存在する」と書いたのと、

    同じ事情と経緯があると思われる。これ以降のことは今までにも言ってきたので重複は避けるが、東アジアの戦後政治の動向と、彼我の国民性の違いなどを勘案して、僕の推測・仮説には、相当の根拠があると思っている。

  • 8の4

    左翼・国籍も定まらぬいかがわしい人種、外国のスパイ・工作員たちの独壇場となっている日本の福祉を彼らの魔手から解放し、真に日本人の弱者の為に奮闘する「保守の福祉勢力」こそがいま最も切望される。

    言ってみれば、「戦後福祉の総決算」ともいうべきものが必要なのだ。戦後政治の総決算を標榜する安部政権がマスコミをはじめとする「戦後民主主義」の旧弊依然たる守旧派から総攻撃を受けているのと同様に、福祉の闇の存在に警鐘

    を鳴らす杉田水脈の存在もまた、「福祉守旧派」の目からは許すべからざる天敵と映じているのである。今日はこのくらいにするが、反論駁論のある方はふるって投稿願いたい。

  • 8の3

    きれいなバラにはトゲがある。美しい話にはたいてい裏がある。悪魔は天使の装いと微笑をたたえて近づいてくる。これらはみな世界の常識、尋常の知性を持った大人の考え方だ。

    平和ボケと呼ばれ、お花畑と称される戦後日本人にしかこうした見え透いた嘘話は通用しない。しかし悲しいかな、福祉の世界はいまだ平和ボケのいわば聖域であって、魑魅魍魎の天国となっている。

  • 8の2

    山ゆり学園の惨劇のように福祉に携わる人間の中にはとんでもない人種も入り込んでいる。これが現実である。福祉を口にすればそれだけで正しい意見であると思い込むのは、大変危険である。

    ノーベル平和賞をもらった I can という団体は、日本のピースボートも参加していて大体そういう傾向の、ということは辻本清美・福島瑞穂という面々から連想されるような連中の集まりである。前回にも言ったことだが、

    今の国連機関、その周辺の国際団体(ノルウエーのノーベル人権賞選定委員会を含む)には「朝鮮人化」の傾向が強まっていることに対して、西尾幹二は警鐘を鳴らしている。

    杉田水脈の発言もこのような文脈において見ていく必要があると思う。

  • 戦後精神史   8(だったかな)  福祉の闇について

    二階幹事長(だったかな)が「自民党の中にはいろんな人生観の人がいる」と釈明したそうだが、世間にはもっと多様な意見がある。福祉性善説に凝り固まるのは危険である。

  • いま、ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を読んでる途中だが、いろいろと勉強になる。その一つとして現在進行中の日本のフェミニズム運動は、フランクフルト学派の先進国型の革命方式論に乗っ取っているわけであるが、

    その大要はグラムシの「現代の君主」にみられる大衆の意識操作、宣伝・広告・マスコミを利用した世論形成における主導権の獲得といった点にある。これはグラムシと同時代に進行していたナチス・ヒトラーの手法のほとんど、パクリといっていい位の

    模倣であって、その意味で現在のフェミニズム、多様性尊重等の運動ははっきり、全体主義の範疇にあるとわかる。

    ここまでは、馬鹿でもわかる。問題はこれからだ。

    さて日本の政治・社会状況がファシズム化していることは自明であるが、そこから一転して、戦後日本の国体は対米従属であると言って(白井、保坂、高橋、半藤)、故に中国やロシアにすり寄ったほうがいいと言わんばかりの姿勢をにじませるというのは、

    アンポンタンと言わねばならぬ。かといってどうしたらいいか、僕はわからない。ただ、安易な二項対立の脊髄反射では埒が明かないことははっきりしている。

    未知の全く新しい問題・危機に直面している、その緊張感の共有にのみ希望はあるはずだ。

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