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     再開

     メインテーマは昭和に於ける大日本帝国、時事問題・閑話休題等も入れてシカトあり独断と偏見で細々と進めたい。


    ○断面:昭和天皇の立場・立ち位置

    ◇1937年7月7日に盧溝橋事件勃発、5月31日発行の「国体の本義(文部省編纂)」よりの抜粋
     (天照)大神の御子孫として現御神であらせられる天皇・・・我が国の政治は、上は皇祖皇宗の神霊を祀り、現御神として下万民を率ゐ給ふ天皇の統べ治らし給ふ・・・

    ◇連合国(United Nations)による占領下、「官報號外 昭和21年1月1日 詔書」よりの抜粋
     朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず
    ──

    ○国際連合(United Nations)に於ける個別的・集団的自衛権と人権(HP:国際連合広報センターよりの抜粋)

    ◇国際連合憲章
    ・第42条
     安全保障理事会は・・・国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる。
    ・第51条
     この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。

    ◇世界人権宣言:第二条
     すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
    ──

    ○日本国憲法/HP:日本国憲法の誕生よりの抜粋
     ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
     そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。
     これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
     われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
     日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

     第99条:天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
    ──

     日本国憲法に於いて主権在民は「人類普遍の原理」であり、国民は天皇・公務員に対し日本国憲法をガイドラインとして示した。

     戦後の国会に於いて、日本共産党は戦争の放棄は侵略戦争の放棄であり、戦争全ての放棄に対し疑問を呈し、吉田首相は正当防衛の戦争を認めることは有害と主張。
     また、日本社会党は「永世局外中立と云ふものは前世紀の存在」と主張している。

    ○戦争放棄関連、『1946年6月25日〜28日、吉田茂首相による「帝国憲法改正案」の説明、各党の代表質問』より

    ・日本共産党の野坂參三議員は「一体此の憲法草案に戦争一般抛棄と云ふ形でなしに、我々は之を侵略戦争の抛棄、斯うするのがもつと的確ではないか」と主張。
     吉田茂首相は「国家正当防衛権に依る戦争は正当なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります」と答えている。

    ・日本社会党の鈴木義男議員(片山哲内閣の司法大臣)
     「斯う云ふ宣言(戦争放棄の意)を致しまする以上、政府は将来外交的手段其の他に愬へて、一日も早く国際連合に加入を許され、安全保障条約等に依つて我が国が惨禍を被むることを避けられるやうに善処せられる用意があられるかと云ふことを念の為に御尋ね致すのであります」
     「局外中立、殊に永世局外中立と云ふものは前世紀の存在でありまして、今日の国際社会に之を持出すのはアナクロニズムであります、今日は世界各国団結の力に依つて安全保障の途を得る外ないことは世界の常識であります(拍手)加盟国は軍事基地提供の義務があります代りに、一たび不当に其の安全が脅かされます場合には、他の六十数箇国の全部の加盟国が一致して之を防ぐ義務があるのである、換言すれば、其の安全を保障せよと求むる権利があるのでありますから、我々は、消極的孤立、中立政策等を考ふべきでなくして、飽くまでも積極的平和機構への参加政策を執るべきであると信ずるのであります」
    ──

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    nas***** 3月22日 01:08

    >>349

    以外にもシナ事変拡大をした海軍

    そもそも海軍がゴーサインを出したからシナ事変が始まった。

    止めようとした形跡は少ない。

    かえって海南島攻略のように戦線を拡大した。

    戦略的に見て意義は有ったが、シナ本土撤退をしないでやるとは論外。

    しかも対英米関係は悪化した。

  • >>348

    伏見宮博恭王が昭和天皇に影響を与えたか

    それも海軍はアメリカに負けないと。

    年齢的にも、60代半ば、昭和天皇は日米開戦時40歳。
    皇族でもあり最も頼りにしていたでしょう。

    もちろん開戦派であった。

    この宮様の事が、殆ど歴史に書かれていない。
    敢えて記した次第であります。

  • >>347

    山本五十六と永野修身

    このお二人さん、アメリカ留学なんかもしている。

    米国を知っている筈なのに、見る眼が、いや判断力が無い。
    政治経済文化についての感覚が鈍かったのではないか。
    芥川龍之介曰く
     「軍人は小児に近いものである」

    一般社会の経験が無きに等しい。
    海軍のそれは陸軍以上かもしれぬ。

    ひょっとして米国のスパイだったか。
    結果的にそう思われても仕方がない。

    何より日本破壊思想が根底にあったように思われる。
    ニヒリズム、虚無的な滅亡を体現したかったのか。
    まるでゴジラを待望するような心理だ。

    それでいて前線には出ない。
    山本の戦死も暗殺に近い。
    負けても最後の一兵まで戦えば日本は蘇る、とか言っていた永野も生き残って、亡くなったのは東京裁判中だった。

    永野は良くは言われない。
    しかし山本を持ち上げる人は少なくない。
    これは全く不可解。
    重要な研究課題だろう。

  • >>346

    海軍は勝てないまでも負けるとは思っていなかったようだ。

    陸軍は海軍が勝てる可能性があるというから対米開戦したのだ。

    海軍としては考え抜いた作戦通りにすれば負けなかった?

    それを山本五十六、永野修身の積極的展開により自ら破滅してしまった。

    いや正確には破滅を早めてしまったと言えそうだ。

    当初、米国と戦わずに英蘭の石油資源を狙えば持久戦に持ち込み、敗戦には至らなかったかもしれない。

  • >>344

    軍人は戦争をしたがるもの

    なぜなら勝てば出世できるから。

    もちろん兵隊は戦争を嫌がる。
    死にたくないからね。
    戦争を欲するのは死ぬ可能性が稀な陸海大学校出のお偉いさん。

    だからシナ事変みたいな戦争は継続される。

    国が亡びるような戦争は誰しもしたくない。
    しかし、高級軍人は陛下、上官の前で戦争反対とは言えない。
    それが軍人精神だ。

    昭和天皇はこの辺の機微が分かっていなかったようだ。
    それはでもそうだろう。
    特殊な箱入り社会の中で育ったんですから。

  • >>342

    日韓併合したとき朝鮮の売春婦は奴隷状態だった。
    それを開放したのだ。
    奴隷的身分はすでに江戸時代に日本ではなくなっていたが、これも韓国で廃止させた。
    併合で治安が保たれ韓国人同士の殺戮犯罪も減った。

    日本に流民が来てばかり。
    変なのは入れるな。
    日本からは進出しましょう。

  • >>340

    日本は朝鮮の奴隷を解放した。
    不満だったのは残酷な支配者のヤンパンなど。

    朝鮮人は自国内での同民族同士で殺し合いをした。
    日本の数倍も馬鹿の極みである。

    日本の先祖は南方などから来た。
    北から来るのは追い返しましょう。

  • >>338

    「云えり」

    福沢なら出典を明記しても良いはず。
    思いついて、一般論として「云えり」と書くことはある。


    豊かに成り、人口も増えた日本統治下の朝鮮は幸福な時代だった。
    戦後は南北政権は国民虐殺を何万人も行い、戦争を起こして何百万も死んだ。
    馬鹿の極みとも言うべきか。

    おかげでとばっちりを受けたのが日本。
    密入国で逃げて来た人を受け入れざるを得なかった。

  • >>335

    「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と云えり」

    西洋の教養がある福沢先生なら、このぐらいの言葉は思いついたでしょう。
    天賦人権説というやつですね。


    ところで大日本帝国下の朝鮮
    史上、一番幸福な時代でしたね。
    福沢の脱亜論が最近、注目を浴びるのは必然でしょう。

  • >>335

    >(nas)福沢が和田家文書とやらを読んでいたとは初耳 あさはか証拠でもあれば少しは信心したいんですがね~。<

     「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と云えり」の文は明らかに、他の文献からの引用の形であるのに、
     後の福沢研究者がいくら探しても、その記載の原典文献が見つからず、
     しかし、和田家文書には大量に書かれており、
     最近亡くなられた和田喜八郎さんの祖父で、和田家文書の筆写を始められた和田末吉氏が、
     秋田家を介して、福沢に和田家文書の紹介をしていた、
     という事実が出て来たから。

  • >>329

    >福沢が和田家文書とやらを読んでいたとは初耳<

    あさはか証拠でもあれば少しは信心したいんですがね~。

  • >>329

    江華島事件は、朝鮮側は正当防衛。
    軍船を、事前交渉や了解も得ずに侵入して、守備兵が警告射撃もせずに黙っていては、そりゃ守備兵が責任を取らされる。

    >(nas)結果として日韓併合に至り、莫大な援助金を貰い、近代化に成功した。それでも日本は耐えに耐えて援助したのである。戦後も同じ。<

     結果として、日本は、蔑視差別敵対奴隷化の植民地的「帝国支配」にまで至り、
     関東大震災でも火事場泥棒的に殺戮し悪業を重ね、アフリカでの奴隷商人のような強制連行や従軍慰安婦などをした。
     それでも朝鮮は耐えに耐えて独立闘争したのである。
     戦後の日本の右翼政府も、全く同じであり変わらず、(ヒトラーやアメリカのトランプなどと同じように)蔑視差別敵対殺戮戦争的な態度を改めない。

    >ところで福沢が和田家文書とやらを読んでいたとは初耳。その文書は昔から広く知られていたのでしょうか。(笑)<

     和田家文書は、現在の安部総理家も、秋田孝季の秋田家との関係で、知るところとなり、
     福沢もその秋田家との縁故で知っていたらしく、
     和田喜八郎氏は安部総理家と親交があり、
     喜八郎氏の葬儀には安部総理夫人も花を手向けられた?らしいよ。

  • >>332

    (続き)
    午前07時43分 端艇二艘で乗り出し、同島に上陸しようとした時、第一砲台から発砲がある。上陸後八分間の激戦の後、東西北3方向から放火しながら急攻したため、城内守備兵は逃げ去り、同砲台を占拠する。
    午前08時20分 喇叭にて退軍を命じ、総員東門の前に集合させ、人員を点検する。井上艦長も兵士の慰労のため上陸する。(日本側/負傷2名但し後に1名死亡)(朝鮮側/死者35名、捕虜16名、その他日本側にて、敵の負傷者及び婦人等の身柄を保護し、安全な場所へ誘導して解放する)
    午前09時07分 城内に遺棄した大砲等の武器を戦利品として捕獲し、城内を焼き払う。
    午後09時59分 戦利品の雲揚への積込みが完了する。
    午後10時30分 島に上陸していた全兵士が雲揚に帰る。
    【9月23日】 ─ 戦域の離脱 ─
    午前11時00分 昨日積み残しの大砲を積み込み、同所を発艦する。
    午後04時15分 サリー河入り口小島前に投錨する。
    【9月24日】 ─ 飲水の補給 ─
    午前10時30分 同小島にて呑水を積み込み、抜錨する。
    午後05時07分 天気見定めのためショーラム湾北緯36.847208度 東経126.181412度へ投錨する。
    事件は偶発か、計画的挑発か
    当時において日朝両政府はこの事件を偶発的なものとして認識し、その認識の下で一連の条約交渉と謝罪要求が進められた。
    江華島事件が、朝鮮側の攻撃を誘発するべく企図された計画的挑発行為によって引き起こされたとする論は大韓民国では主流な学説となっている。日本国内においても、日本側の砲撃を誘発する意図、組織的情報隠蔽などを疑う学者は少なくない。

  • >>331

    (続き)
    【9月20日】 ─ 事件発生 ─
    午前08時30分 同所抜錨。
    午前10時00分 やや移動し永宗城の上に鷹島北緯37.527834度 東経126.576319度を北西に望む位置に再投錨。
    午後01時40分 同位置から端艇(井上艦長以下20名)を乗り出しサリー河を遡航して江華島に向け進む。
    午後04時07分 一小島(南東端に白壁の砲台、即ち項山島北緯37.621982度 東経126.541386度の第二砲台)前を通過。
    午後04時22分 第三砲台前(草芝鎮北緯37.632739度 東経126.532245度)に至る。日もまだ高かったので帰路同鎮に上陸し立ち寄ろうと思い、更にサリー河を遡る。
    午後04時30分 同砲台営門前を端艇で通過しようとした時、突然大小砲にて砲撃される。持参の小銃にて応戦する。
    午後04時57分 益なしと判断し、発砲応戦を停止して一先ず雲揚への帰艦に決す。
    午後09時00分 全員無事にて本艦に帰る。
    【9月21日】 ─ 第三、第二砲台への攻撃 ─
    午前08時00分 (雲揚の)檣上に御国旗を掲げる。
    午前08時30分 昨日の第三砲台による砲撃行為を問責するため抜錨し第三砲台に向かう。
    午前10時20分 第二砲台前を通過。
    午前10時42分 第三砲台前に至る。遠浅で潮流も激しくかつ暗礁があって同砲台に接近できず。已むを得ず同砲台から拾六町の所に投錨。直ちに照準合わせの試射、八分後に同砲台からも応砲あり。第三砲台の胸墻の破却を視認す。
    午前12時40分 遠く撃ち合っていても埒が明かないため上陸戦を企図するも、同砲台周辺は海流が複雑な上、上陸には不適の地形であったので陸戦を断念。ある程度同砲台を破壊した上で砲撃を止める。約2時間の砲撃戦で艦、人員に損傷なし。
    午前12時56分 同所抜錨。
    午後01時15分 第二砲台下に投錨、昼食をとる。
    午後02時40分 第二砲台に上陸し、陣地を焼払う。
    午後06時10分 同所抜錨。
    午後07時33分 再び鷹島の南に投錨。
    【9月22日】 ─ 第一砲台(永宗城)への攻撃と占拠 ─
    午前05時55分 同所抜錨。
    午前07時18分 第一砲台の前面八町の位置に進み、同砲台を砲撃。しかし同砲台からの応砲なし、唯城中の兵士が群集しているのを視認する。
    午前07時39分 第一砲台の前面に投錨し、陸戦の準備をする。

  • >>330

    (続き)
    二つの上申書と戦闘の詳細
    10月8日付の上申書
    艦長の井上良馨による10月8日付の上申書によると、1875年(明治8年)9月20日、雲揚が清国牛荘へむけて航海中、飲料水の欠乏により探水のため贅月尾島沿いへ仮泊、翌21日やや移動して永宗城の上に鷹島を北西に望む位置に投錨する。同位置から探水或いは請水のために自ら端艇に乗りこみ、江華島に向かっている途中(同島南東端の草芝鎮沖にさしかかった際に)島に設置された砲台から突如砲撃を受けたので、急ぎ雲揚へ帰艦した。すでに本艦は号砲による警告暗令に応じるかたちで日本国旗を掲げており、ただちに反撃砲撃を開始し江華島砲台を破壊。どうして砲撃を行ったのか尋問するために永宗城島の要塞を占領した、云々と説明されている。
    9月29日付の上申書
    この公式報告書は日朝間の交戦がまるで一日の間に起こったかの如く誤解(実際には3日間)させるような記述がなされている他、地名の誤りなどが散見されるため史料の信頼性には疑義が指摘されていたが、最近になって発見された事件から9日後に作成された9月29日付の上申書によれば、江華島方面へサリー河を端艇で遡った動機部分が測量及び諸事検捜、且つ当国官吏へ面会し万事尋問するために、と10月の上申書の内容とは差異がある。また、砲撃事件が発生するまでの経緯説明の点でも、端艇で江華島の陣営近くまで遡航し、さらに奥(漢江方面)へと進もうとして砲台から砲撃されたと事件発生時までの状況がより詳しく記されている。他にも、一続きの事件として記述し、時間経過があやふやな10月の上申書に対し、9月の上申書は時系列を明確にしたうえで報告内容もより詳細である。
    戦闘の詳細
    二つの上申書の差異は先に述べたようなものであるが、以下では基本的に9月29日付の上申書の時系列に添って戦闘の詳細を解説する。
    【9月19日】 ─ 停泊投錨 ─
    午後04時32分 サリー河北緯37.533075度 東経126.589365度口リエンチョン島(永宗島)の東端に永宗城北緯37.49066度 東経126.579237度(第一砲台)を視認し、贅月尾島北緯37.462289度 東経126.60048度沿いに投錨。
    (続く)

  • >>329

    >(nas)江華島事件の殺傷は正当防衛<
    Wiki:
     ・・・膠着した協議を有利に進展させるため、日本側交渉担当者(理事官である森山と副官である廣津)から測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出されたが、太政大臣三条実美は外務卿寺島宗則が対朝鮮交渉の指令案をより譲歩的なものに修正していたこともあってこれを批判。しかし海軍大輔川村純義の建議もあって、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸へと極秘裏(征韓論者の反撃を惧れて)に派遣されることになった。
    5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港すると朝鮮側は突然の軍艦の来航に懸念を表明したが、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために派遣されたのだ」と説明。さらに軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏の歓迎式典や事前通達をした上での訓練を名目に、空砲による砲撃・射撃演習などの威圧行為を行った。これらの行動は朝鮮側官吏や釜山周辺の住民を大いに恐れさせたものの交渉の進展に寄与することは無く、日朝交渉は森山たちの帰国という形で一旦打ち切られることになった。
    こうして交渉支援を終えた2隻は、名目上の任務である朝鮮沿岸の測量へと出発した。雲揚は6月20日に釜山草梁を出港、同月29日までに朝鮮東岸部を測量し、一旦釜山に帰港している。その際、咸鏡道永興沖において民家の火事を発見して非常措置として上陸し鎮火に協力したり、慶尚道迎日湾においては3士官が薪水を求めて上陸、無断であったので朝鮮側の尋問を受け弁明はしたが、意が通じないため、已む無く雲揚艦に引き返す。その際、慶州県令の来艦を請う。しかし、尋問のために乗船してきたのは慶州県の次官で、同次官から筆談で贈物(酒)を要求され、艦長の井上良馨が激怒。不当行為を糾問するため再度士官以下数名の兵を上陸させ、慶州県令に直談判して謝罪させるといったような出来事があったらしいが、大きな外交問題にはならなかった。
    その後雲揚は対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港するが、9月に入って改めて清国牛荘(遼寧省営口市)までの航路研究を命じられて出港。その航行の途中、9月20日に首府漢城に近い月尾島沿いに投錨。端艇を下ろして江華島に接近したところ島に設置されていた砲台から砲撃を受けて交戦状態となった。
    (続く)

  • >>325

    江華島事件の殺傷は正当防衛
    守備兵が手を挙げれば殺されずに済んだのに。

    結果として日韓併合に至り、莫大な援助金を貰い、近代化に成功した。
    しかし、関東大震災では日本人から火事場泥棒的に略奪し悪業を重ねた。
    それでも日本は耐えに耐えて援助したのである。
    戦後も同じ。


    ところで福沢が和田家文書とやらを読んでいたとは初耳。
    その文書は昔から広く知られていたのでしょうか。(笑)

  • >>327

     「天は、人の上に人は造らず、人の下に人は造らず」は、
     結局は、和田家文書からの引用であった。
     
     ddhやnasやごまかしらも、結局は、
     戦前の近隣諸国への蔑視差別敵対殺戮支配戦争を肯定し、
     ポツダム宣言やSCAPIN677号訓令や新憲法を全く曲解無視して違反し、
     言葉尻を操って国民を騙して鼓舞扇動アジテートをして、国家の戦争に参加させようとする、
     まるで麻原やISイスラム指導者らのような、・・・・人種であった訳で。

     nasやごまかしや安倍自民公明政府や稲田や高市らと同じく、トランプやヒトラー大好き人間であり、
     唯我独尊弱肉強食の高慢なエゴイズムの、「何でも一番勝つ」事しか考えられない狂暴なやくざ暴力団のような、
     人種差別殺戮戦争狂の天皇国家支配主義のキョクウの・・・・人種である。
     
     結局は、日本の「先の侵略大殺戮戦争」への反省が全くなく、
     現在の自民公明政府の戦争行為への鼓舞扇動と、
     ロシアや南北朝鮮や中国や台湾や沖縄アイヌなどへの、蔑視や奴隷的差別やヘイトスピーチ殺戮アジテートをし、
     政府や欧米や財界におもねっての「反共」街宣などばかりの・・・・であって、
     
     そして、自分ら以外には皆殺戮戦争をして、自分らだけが勝ち残ればよい、という思考であり、
     それは、必然的に、最後は、自分の仲間や家族までに対してまでも、殺して勝ち残ろうとする事になり、
     結局世界で一人だけ勝ち残り、
     その一人の寿命が来た時に、全滅する事になる。

     人は皆、一人では生きて行けないものだから・・・。
     人類皆兄弟。
     地球は全生物のもの。
     驕る戦争狂キョクウのddhら、久しからず。
     盛者必滅、栄枯盛衰、万物流転、諸行無常。
     南無阿弥陀仏、アーメン。

  • >>326

    >「天は、人の上に人は造らず、人の下に人は造らず」は、和田家文書からの引用であったが、

    明治のベストセラー「学問のすすめ」の一節は、よく誤解されるが、
    人倫を説いたものではない
    人に上下はないはずなのに、現実には、その生涯に大きな差があるのは
    「学問したか、しないか」の違いなのだから、とにかく、先ずは学問しなさい、と説いてるの

    「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教じつごきょう』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。

    繰り返す、されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
    賢人愚人の差は、生得的なものではなく、学んだか、学ばなかったか、の違いなんだよ、と。

    身分を失った旧武家階級にとっても、旧被差別階級にとっても、この説諭は等しく響いた

    日本人は、素直に、学問にとりくんだ
    その結果、日本と、清の属国「朝鮮」の差は大きく開いた

  • >>325

    >(nas)日本は江華島事件で殺戮などしていない。<

     明治維新後、日本政府は朝鮮王朝(李朝)に開国を求めたが、朝鮮王朝の閔妃の閔氏 政権は鎖国政策を守り、拒否していた。1875年、日本は軍艦雲揚号が江華島付近で 砲撃されたことを理由にして、永宗島に上陸し砲台を占領、守備兵を殺害し武器を略奪 ...

    >結果的には開港し、近代化の歩みを進めたので、日本は良いことをしたのである。<

     結果として、日本は、
     恐喝的に「併合」して、
     (アメリカの黒人奴隷にも劣らないような)奴隷的な差別支配をし、関東大震災での虐殺や強制連行や従軍慰安婦などの悪行を重ね、
     カイロ宣言やポツダム宣言でも批判されるような事になった。

    >今にして福沢先生の心情が良くわかる。<

     福沢の「天は、人の上に人は造らず、人の下に人は造らず」は、和田家文書からの引用であったが、
     近隣諸国民には、蔑視差別的発言をしていたらしい。

    >アジアの悪友と手を切らねばならぬことは残念なことだ。<

     日本国内に、
     nasや、ごまかしや、ddhや、hnや、ssnや、愛や、安部自民公明や、稲田や、高市や、曽野や、桜井や、ヘイトスピーチキョクウ人種らのような、
     戦前の近隣諸国民への蔑視差別敵対の侵略殺戮戦争支配への反省のない・・・・がいる事は、残念なことだ。

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