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投稿コメント一覧 (5386コメント)

  • 禅は俺たちは元々悟っているのだと、教える。 心のままになりきれと教える。 清浄な心になりきり、物事を正しく制御できるのならよいが、怒りの心の時は、怒りになりきれ怨みの心の時は怨みそのものになれ、 これでは、坐禅で清浄な心を取り戻しても、社会生活では役に立たない。 悪魔の教えそのもの。 

    仏子達よ、仏の心を自分の心とする者は、境界(きょうがい)が自在である。さとりの境界にありながら迷いの境界に現れ、煩悩の静まった境界にありながら、煩悩に心乱された人々の境界を捨てない。彼は、大悲と智慧の誓願を起こして、人々を憐れむために濁りの世界に生まれる。そして心に思う。
    「私はこの煩悩の中にあっても、智慧、解脱、禅定等を失ってはならない。何故なら、仏の心を自分の心とする者は、すべての法にわたって自在を得て、智慧に満たされ、さとりの岸を離れてはならないからである。
    普賢菩薩の行を行いなさい。(華厳経)

    全ての衆生を救うとされた、主であり、師であり、親でもある、 お釈迦様の心を自分の心とすることで、自由自在な大きな心になれる。

    南無妙法蓮華経

  • 「須臾も之を聞釈迦多宝十方の諸仏は我が仏界なり其の跡を継紹して其
    の功徳を受得すく即阿耨多羅三藐三菩提を究竟するを得」とは是なり、寿量品に云く「然るに我
    実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身に
    して無始の古仏なり、経に云く「我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云
    云、我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり、例せば大公周公旦等は周武の臣下成王
    幼稚の眷属武内の大臣は神功皇后の棟梁仁徳王子の臣下なるが如し、上行無辺行浄行安立行等は我等が己心の菩
    薩なり、

    カズマ禅は 法華経の一仏乗の法を知らないで、自分勝手に解釈してしまい結局仏陀を遠いものにして、教えを下げてしまう。

    南無妙法蓮華経

  • 阿含経の中に「仏の境界や不可思議などのことは、小乗の知るところではない」 との文や、「大乗経は遠大な菩薩たちが用いるものであるから、これらは雑蔵しておこう」 という文言が見られます。このように“小乗経”である「阿含経」自体に“小乗”との言葉がある、これは日蓮正宗のブログからですから、私は確認していません。
    日本には、アーガマ(阿含経)スッタニパータの少しだけ伝わっていたようです。 この事を知っていましたでしょうか?  これが事実ならば、すでに遠大なる菩薩を初期仏教にもいたとなります。

    合掌

  • >禅宗では、戒は「清規」として禅の生活の規定になり、戒定慧三学の戒は崩していない。
    浄土真宗は無戒と言われるが、戒をタテマエとして、そのタテマエに比して、わかっていても
    できない「凡夫の自覚」なのである。戒を前提とした「凡夫の自覚」であり、旗印の戒を蔑ろ
    のしていないのである。

    もちろん『法華経』にも戒をある。
    戒なくして仏教ないのである。<


    凡夫だろうとできないではなく、八正道の実践の努力が浄土経典に示されているのです。 法然や親鸞の教えをすてないと、浄土に往生は難しいでしょうね。

    法華信徒では、実社会の中においては、信仰の対象であり、智慧は信仰の主体であり、戒律は信仰の道場禅定はです。それぞれは、三大秘法にいう本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇 になります。

     戒は清規といっても認可を受けた禅師が怒りの心があるときは錨そのものになりきれ、出は八正道に背く。 
    禅宗の信仰の対象、信仰の主体であり、信仰の道場は?

    命に合掌

  • >>No. 299787

    ≫>日蓮聖人をこれでもか、これでもかと邪魔にしてきて命まで狙った。

    >だから、日蓮を守ろうと、団結力が生まれるんだよ。

    P.S
      そういう意味で、北朝鮮やトランプ大統領の行動により、ほかの国が、団結していこうとしている。<


    日蓮聖人は南無妙法蓮華経を広めるために、誤った仏法をしてしまっている宗派に対して親の様な慈悲の心を持って接していたという事です。 けして、恨まない、むしろ感謝です。  

     北朝鮮や、トランプ大統領の、アメリカがよければそれでよい。法華でなくても、世界平和を祈る人々は疑問をかんじるが、安倍政権そして公明党はトランプを支持してしまう。 トランプにしてみれば、適当に各国が争っていれば、武器が売れ、もうかるという事でしょうね。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 53365


    》「如来寿量品」に、
    「如来の如実の三界の相は、生まれること死すること、若しくは退すること若しくは出ずること有る
    ことなく、亦、世に在るもの及び滅度する者なく、実に非ず、虚に非ず、如にも非ず、異にも非ずこ
    とを知見し、三界のものの三界を見るが如くならざればなり。斯の如きの事、如来は明らかに見て、
    錯誤あることもなし」
    とあります。

    これは「不生亦不滅、不常亦不断、不一亦不異、不来亦不出」という、阿耨多羅三藐三菩提の世界で
    ある「八不中道」の戯論寂滅の世界で、二元対立の両極の一方に偏らない智慧、仏知見です。
    その偏らない智慧を知らずに、中道という仏道を歩めないと、仏道以前の神道ということになります。 <

    カズマさんが、いくら能書きを垂れても、ここで竜樹の教えで、味噌も糞と同じにしてしまい、法華経を引き下げてしまうのは、問題がある。

    禅が法華経、弘通の精神を受け継いでいるとは、とても思えないね。 道元は天台僧だから、禅であっても、法華経の研究者だった。 本当に法華経を信じていたら、出家なんかにはこだわらない。  その中で遷化される直前にお釈迦様はここに居られた。押し、自室の庵を「妙法蓮華経庵」と名付けた。 そして神力品を唱えた。 神力品は、教主釈尊が地涌の菩薩に別付属された法門です。普賢菩薩や文殊、弥勒菩薩に付属された法門ではありません。


    そのとき釈尊は、上行じょうぎょう等の菩薩たちに告げた。
    「諸仏の神力はこのように無量であり不可思議である。わたしは幾千万億劫という計り知れない長い時間、この経の 功徳を説いてきたが、説き尽くすことはできなかった。この経には、如来の一切の法と、如来の一切の自在の力と、如来の 一切の秘密と、如来の一切の奥深さが、明らかに説かれているのだ。このゆえに、如来の入滅ののち、この経を一心に持ち、読み、 誦し、説き、書写して修行すべきである。それがどこであれ、この経を持ち、読み、誦し、説き、書写するものがあれば、 それがどこの国であれ、森であれ林であれ、園であれ樹下であれ、僧坊であれ在家であれ、山、谷、荒野であれ、そこに塔を 供養すべきである。なぜなら、そこは諸仏が阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏はそこで法輪を転じ、諸仏はそこで般涅槃するから である」

    禅はどこであれという文だけ利用している。 

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7879

    ●利己的似非宗教と同類●

    >ショーシャンクさんに青年時代の話を聞いたことがありますが、ぼくにはとても良いお話
    >だったと感じました。
    >ぼくも子供の頃、「こうなりたい」と強く思ったことがそのまま現実になって生きて来た不思議があって、
    >ショーシャンクさんも子供の頃に願った青年になり、今の人生を歩いて来たんだと思います。
    >テレビで歌手の人が「ずっと子供の頃から歌手になりたいと思ってました」と言っている人がとても多くて、
    >そういう強い子供の頃の願望のある人が夢の通りになる、この世の不思議を思ったりします。

    なるほど、思い通りにならない真実を「苦諦」ですから、これでは仏教ではなく、欲望充足の神様
    信仰みたいなものですね。でないとしたら、ひと頃はやった「思いは叶う」という、利己的な
    40年も前のナポレオンヒル風の自己実現。

    何れにしても、ブッダの示す方向とは逆のようで、「幸福の基準」が違うのでしょう。

    これではショーシャンクさんが無我という「ブッダの真理」を蔑ろにするのも無理がありませんし、
    仏教の話にならないはずですね。まともの相手にしていた自分を笑ってしまいます。

    ************
    ● 少年よ大志を抱け

    こういう人になりたいという夢を踏襲してきて、現在のどうして利己的になるのか?  
    サッカー選手になって、多くの子供たちや人々に感動をあたえ、世の中を元気にしたい。 医者になって、病気で苦しんでいる人たちを救いたい。 医者がいなくて、困っている町はたくさんあるし、世界には日本の医療などにありつけない人々がたくさんいる。  自己の利益の為に口先でごまかすような政治家に変わって、 世界平和や国民の幸せの為に働く、政治家、公務員になりたい。 

    少子化になって、恵まれすぎて、何をしたいのか、わからない子供が多いようだ。  
    私がそうだった。 中学の時に、お前たち勉強しないと、土方になるぞ この一言がカチンときて、土方がいなければ、道路や橋は、できない、 調理人がいるから、美味しいものが、食べられる。 先公だって、俺たちがいるから、生活ができる。 勉強への意欲はなくなり、進学しても、暴走族、駅前大学に行っても、バイト生活、マージャン、競馬、かけ事ばかりの学生サクザ 学生運動が激しくあっても、どうでもよい方だった。 

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7878

    大乗仏教には特別な戒律はないと私が行ったのは、妻帯してはならないとか、そういう戒の事を言ったのです。
    法華はしいて言えば、一乗戒です。

    法華経本門の中でも本門の教相(特に第16章の如来寿量品の経説)と観心(如来寿量品の経意)を比較対照し観心を選び取ることです。理屈(理証)や文献(文証)だけの教相でなく、実践(現証)のともなった法門でなければならないということです。それが観心ということです。すなわち、観心とは内証の寿量品のことで、妙法蓮華経の五字をさし、それを意でも読み、口でも読み、身でも読むということです

    寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字は 本師本仏である教主釈尊の心魂ともいうべき法です。  



    中国の天台大師は止観で『法華玄義』に釈名[しゃくみょう]・弁体[べんたい]・明宗[みょうしゅう]・論用[ろんゆう]・判教[はんぎょう](名・体・宗・用・教)の5面から、妙法蓮華経を釈した。

    ①釈名とは経題を解釈し名を明かすこと。②弁体とは一経の体である法理を究めること。③明宗とは一経の宗要を明かすこと。④論用とは一経の功徳・力用を論ずること。⑤判教とは一経の教相を判釈すること。

    天台大師は五重玄の依文として法華経如来神力品第21の結要付嘱の文である「要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法(=名)、如来の一切の自在の神力(=用)、如来の一切の秘要の蔵(=体)、如来の一切の甚深の事(=宗)は、皆此の経(=教)に於いて宣示顕説す」また教とは法華の一切の教えに対し優れている教相をいい、名体宗用をもって釈するときに法華の無上醍醐の妙教であることが明らかになる

    仏様の一切のあらゆる悟りや教え、 仏様の一切の自由自在の神通力、仏様の一切のとっておきの宝物大切に蔵の中に納めておいた、肝要、仏様の一切の奥深い事柄  これらの全てを法華経の中に込めておいたからね。とある。

    お釈迦様のような智慧が無い私たちは、妙法蓮華経を信じる南無する事により、自然と仏智が身についてくる。

    日蓮以前の比叡山は自行の題目でした。  日蓮の場合は、自行だけでなく、化他にわたる、お釈迦様の意の南無妙法蓮華経の広宣流布です。  菩薩というのは、お釈迦様の弟子であり、お釈迦様の教えを伝え導かなくてはなりません。 僧侶ならば、当然一番問われます。 

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 299785

    >「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるなり、眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば争か日本の主となり給うべき、されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」

    こんばんは

    日蓮聖人をこれでもか、これでもかと邪魔にしてきて命まで狙った。在家の景信、僧では良観・道隆・道阿弥陀仏さらに幕府の平左衛門尉は、宗祖に対して命まで狙った。 すかし、日蓮聖人はこの人たちを恨むどころか、彼らのお陰で日本一の法華の行者になられた事に感謝し喜んでいます。 法華経大事な開会の法門ですね。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7873


    http://karapaia.com/archives/52225382.html

    インドネシアの民族の中には棺から遺体を出して大切にしている風習があるようです。

    大乗仏教には特別な戒律はないし、妻帯しても問題はないが、僧侶たるもの、在家の模範になるような人であってほしいですね。

    合掌

  • >>No. 7869

    日蓮神道結構だね。 神を否定するような大乗仏教はありえない。 頭から神をひていしたら、日本の神道もキリスト教もイスラム教とも話にならない。

    華厳経『入法界品第三十四之一』に『人の生に従いて、二種の天有り、常に隨って侍衛せり。一には同生と曰ひ、二には同名と曰ふ。天は常に人を見るも、人は天を見ず』とある。自己に内在する善神霊を否定するようでは、経典を軽く見る、いい加減禅の丸出し。 

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7867

    ≫釈尊も大乗も「無記」です。否定も肯定もしません。
    そういうことを考えても妄想を膨らませただけだから、今生きている自己の苦の断滅の実践をせよ、
    というのが釈尊の教えであり願いだと思っています。

    貴兄のそれは、インドの風土の中で、仏弟子たちが「ヒンズー帰り」をしてしまったことに
    よるもののようです。それも彼らが無我(我空)だけを修して、法空(諸法無我)の全体、
    すなわち、『法華経』でいうところの阿耨多羅三藐三菩提を修証しなかったことによるようです。 <

    ボケた事を言わないで欲しいね。  仏陀だって父王の葬儀はしている。 禅は空病にかかっているから三世因果業応報の教えを捨ててしまう者が多い。 現在どのような境遇であろと、そこから後生をよりよく生きる為の法が仏法禅僧は死んだら空っぽの無だとカズマみたいに思っている輩が多い。 

    何も無いのに、悟ってもいないのに、悟ったふりして、成仏しろ喝と言いながら、在家から戒名料金をとったり、塔婆料をとったり、何かと金を巻き上げる。葬式仏教丸出し。しっかり禅のそうしたちぐはぐな行為を指摘しなさい。 
    》貴兄のような思想だと「日蓮神道」という評価は拭いされないと思います。
    自己の特殊性の認識が必要のようです。

    阿耨多羅三藐三菩提心――すべてに人に怖れがなくなりますように。

    極端な業論は、人に恐怖をあたえはしないでしょうか。
    人に恐怖を与えて他者をコントロールする思想には反対して行きたいとおもっています。<


    悪業を重ねてきた人は臨終を前にして死は恐怖だろうね。お金も、名誉も通用しない世界。どのような世界に赴こうと自業自得ということになる。  

    お釈迦様に帰依して、しっかり仏道を実践したものは、別に死は恐怖でも何でもない。いつも如来と共にだからね。
    迷いの多い自己の心を師として 覚ったふりして無だ、空だといっていいれば、認可がもらえ、はくがつく。

    仏道を実践した者ならば、阿耨多羅三藐三菩提心すべての人が成仏できますように。
     もともと神道は死んだら何もないという考えはなかったからね。 草葉の陰でみているよ。
    だから仏教を取り入れる土壌があった。 神仏習合だよ。 

    どうした、禅は道元がいうように出家しなければ、成仏がかなわないのだろ、カズマさんまずは出家したらどうなの♪


    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7855

    >ちなみに、経典内では、墓地で腐っていく死体を観察しながら、(しかも様々な時間過程のバリエーションを(^^;;)

    『(◯◯の状態となった)死体を見るようにこの身のみに集中します。〈この身も、このような性質のもの、このようになるもの、このような状態を超えないものである〉と。』

    と死体を観察しながら、身を観続けるパートなどもあります。
    確かに、現代の在家にはこの部分は無理かも〜 <

    身という肉体の観察ですよね。 美人の小野小町といえども、肉体は枯れてゆき、最後は死によって、墓地に埋まる。ウジ虫が食い荒らし、想像したら、とても抱こうという気も起らない。 所詮身は糞袋といったところでしょう。これは生じてきたものは誰にでも起こる。 

    大乗仏教は中有を認めます。  いろいろ説がありますが、普通は49日間我々の世界に留まるとされています。
    今はたいてい病院で息を引き取るが、医者の臨終ですと声を感じて、家族が泣き叫ぶ、それを感じて どうしたのだ、俺はそのままだだ。何も変わっていない、おかしな光景が見れるかもしれません。   イエスが処刑され墓に埋められ、3日目に知人に会いに来た、これは中有霊なのだろ、霊体が食事をしたというのは、理解できないが、神通力を以て、知人に見せたのかもしれない。   いずれにしても、一刹那の死有から、中有の期間をへて生有の黄泉の旅に出る。六道を離れた永遠の悟りの国か、天界か暗闇の世界での生有かは、神のみ知っていることで、わからない。 やがて、縁があれば、一刹那の生有があり、本有という業を背負っての身をもって生じて来る。 我々の眼には見えないが霊能者が中有霊を観ることがある。 高感度カメラにはもやっとした状態、たまに霊体が転写される場合もまるっきり、嘘とも言えない。 このような事にオカルト的にとらわれる事は無いが、何かを伝える為に気を発しているのだろう。 すべての命に感謝、

    命に合掌

  • >>No. 7842

    あのね、私は肉体の下に意識体は霊体だと思っているよ。  自分では、この意識体を霊体だと思っていないだけ、主体と思っているのでは?  私はさらに意識という霊服に心魂が宿っていると思っている。 悪の行為を重ね怒りや愚痴、怨みがこの心魂に焼き付き、肉体の消滅後には、そのまま、悪業を背負ったまま、悪の世界に赴く。


    もしこれでなければ、赤い実さんは二重人格障害も考えられる。

    日蓮聖法華経人は『我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し、口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ』と記しされ、「空とぶ鳥と篭の中の鳥」との比喩を用いて、法華経、本門八品、上行菩薩等に付属されている御本尊に向かい『南無妙法蓮華経』と唱えることより自身の仏性が顕れる道理を説明されている。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7834

    あのね、私は肉体の下に意識体は霊体だと思っているよ。  自分では、この意識体を霊体だと思っていないだけ、主体と思っているのでは?  私はさらに意識という霊服に心魂が宿っていると思っている。 悪の行為を重ね怒りや愚痴、怨みがこの心魂に焼き付き、肉体の消滅後には、そのまま、悪業を背負ったまま、悪の世界に赴く。

    客観的に自分の肉体を観るなら,幽体離脱する人もいるといわれる。 自己に内在する仏性の歓喜は私は第題行で感応はしているよ。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7832

    >はい、「四念処観」は普通は無理で当然だと思います。
    在家であろうと出家であろうと、人の心の問題ですから、そう簡単なことではないとは思います。

    しかし、「四念処観」は、釈尊の仏典の中に繰り返し、繰り返し、出てくる言葉です。
    sanさんが「四念処観は無理」というのは、釈尊の仏典の理解が、言葉の意味や観念をたどるだけで、思考はその表面的なところで止まっているということだと思います。 

    sanさんとショーシャンクさんの違いは、sanさんが表面の字面で止まっているところを、ショーシャンクさんは実感として、自分の問題として捉えに行っているところだと思います。
    ショーシャンクさんは仏陀を神仏として仰ぐと同時に、尊敬する師、先生としても仰いでいます。 <


    法華経を知らない、思い違いですね。 法華経は釈迦牟尼仏そして、三世諸仏も皆師とした法です。

    今此の三界は皆これ我が有なり、その中の衆生は悉くこれ吾が子なり、而も今この所は諸の患難多し、ただ我れ一人のみ能く救護をなす」譬喩品

    一切衆生が、生まれ、また死んで往来する世界である欲界・色界・無色界の三つの世界は、皆私(お釈迦様)のもの、
    この経文から、法華はお釈迦様が唯一の救済者、主であり師であり親でもあるという解釈です。
    まして、お釈迦様は久遠からの生命を成就されている仏様です。 瞑想で覚れるならば、お釈迦様みたいに、自身が時間や空間を超越した、無始無終の生命だと悟ってください。瞑想でも虚空がでてくるはずです。

    とてもじゃないが、末法の人間がいくら瞑想をしようと、仏智を得る事は難しい。 法華経にかいてある以信代慧の法門で、智慧が回らいのだから、法華経への純信によって、仏様から智慧を頂くのが、まだ日蓮以前には解き明かされていなかった、法門です。 法華経は実践です。 

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7830


    >>いちいち自身の感情を観察しながら生活なんてしませんね。 人は感情の生き物ですから、そのような事現実では不可能でだと思いますね。 仏壇の前で一日の自身の行為の反省はします。

    >と、書かれていましたね。 私の場合は、観察しようと意気込まなくても、常時、自然に観察がなされている状態にいる、ということなのです。
    それが、気づいているものが主体になっている、という意味です。 

    私の場合は仏法に照らし合わせて、自身の行為を反省する。 善の行為ができたと思ったときは自身の行為をほめる。 今一の場合は、明日は出直そうです。 

    それでは、お聞きしますが、諸法無我なのに、あなたは、 きずきによって、100%日常生活の中で、仏法における正しい行為ができたと思っていますか? 

    同化できないというのは、自身の行為とあなたの気付きが一致していないからだろうね。 
    いずれにしても、あなたは、そのように自分の脳内の中で解釈していることだから、私がとやかく言う事は関係がないがね。  


    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7827

    >自分で、日常的に、流れてくる頭の中の声や感情に意識的に気づいているようにする習慣をつければ、それが現われてきます。
    現われてきたらわかります。<

    自我という想念を自分の頭の中で作ってしまっていると解釈すれば、どうってことはないと思うがね。問題は頭の中で考えた想念の方が、仏法に照らし合わせるれば、間違いはない。  移り替わりの、激しい自己の心を当てにしてはだめ。

    心魂⇔意識体 頭が働いていない時はつながっている。 ぼーっとしている時、寝ている時。

    肉体の内にある意識体は目が覚めているときには脳とつながっている。

    肉体の内にある受発信機のような意識体は、五感で感じた事を神経を通して脳に伝える。 脳はハードデイスクのような役割で、今までの経験から、近い情報をランダムに選んで、神経を通じて肉体に働きかける。
    執着の意識の悪の行為は心魂に焼き付けれられる。 私はこのように思っている。


    南無妙法蓮華経

  • >>No. 7825

    『大智度論第16巻』にある「鬼の五処を黏(ねん)する商主」の説話とは、
    【釈迦は先世で商主であった。諸の商人を先導し、羅刹が居ると云う険難処を行くとき、案の定、羅刹が出てきて、行く手を遮った。商主は右手を以て羅刹を撃つと、拳は羅刹鬼に著き、離す事が出来ない。商主は又、左拳・右脚・左脚を以て攻撃したけれど、手足はみな羅刹の体にくっついて離れなくなってしまった。頭を以て衝くと、頭も著いてしまい身動きが出来ない。鬼が「さあ、どうする。もう諦めろ。まだ逆らう気は失せないのか」と問うと、商主は「五処を繋がれても、心は終に休まず、精進力を以て汝と相撃つことを懈退せず」と答えた。すると、鬼はこれを聞いて歓喜の心を生じ、「この人の胆力極めて大なり」と念って、「汝は精進して必ず休息せざれ、我は今汝を放たん」と語った。この商主のように、行者は善法の中に於て、初・中・後夜に、身心懈(なまけ)ないようにすべきである】と云う話

    参考に

    合掌

  • >>No. 7825

    ≫私は、まったく自己同化しないのです。 想念、思考(頭の中を流れる声)からは、常に離れた意識状態です。

    こんなふうに言うと、自慢しているように感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、事実そうなのですし、それが何か偉い事だとも思っていません。
    気づかれる想念の方は、いたって普通の人並みかそれより酷いようなものです。<

    自慢などとは思っていないよ。自己同化できないという事は、 あなたに取りついている守護霊神が心配している可能性が無いとは言えない。  同化できないというのは、辛い事だよね。 心と頭のアンバランス。
    頭で命令する事により、手足は動かせるが、内臓の働きは頭で停止する事はできない。 病院に観てもらった事はないの?

    合掌

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