ここから本文です

投稿コメント一覧 (5745コメント)

  • >>No. 10227

    >諸法無我の悪は個人ではどうしようもありません。
    家族を優先します。
    会社の方針で働きます。
    戦争が始まれば国の大義で戦います・。
    縁起、諸法無我の大乗仏教の経緯です。 <

    諸法無我といっても、あなたが感じている心意識は有るよね。 心は絶えず、縁起により生滅変化しているから、実態がつかめないから無我といわれているだけ、 だからこそ、貪りの心、怒りや愚痴の心から離れ、心を清浄にというのが、仏法です。

    家族といっても、それぞれ考え方生き方もちがう、家族の業もそれぞれある、会社や、国の業もある。 それが仏法に照らし合わせて正しいならば善であり、正しくないのなら悪でしょう。子供が社会的に悪い事をしても、何が何でも守るのですか?  
    会社ぐるみで、反社会的な行為をしても、それを見逃すのですか?
    国益の為なら、何が何でも戦争で戦うのですか?

    命に合掌

  • >>No. 10225


    >私が確信しているのは、人には良心神様をいただいてるから、その事を信じて、自分なりに善の道を歩む。
    つまり、良心神様に背かない道を歩むのが、仏教の正道だし、そこに信を持つのが王道だと思っています。

    人というのは誰もが自己防衛本能があり、一般的に常に自己中心的に物事を損得や好き嫌いで考える本質が具わっている。
    法華経に説かれている教えで、考えると、 私たちが眼で見て、身体で感じることは、自分の心が感じたことであり、それが絶対真実とは言えない、だからこそ過ちが多く、その過ちにより自らを自分で苦しめていると説かれている。
    家庭でも、近所でも、会社でも、社会でも、自分に対して悪感情を持っている人がいますと、“その人が悪人であり、自分は善人であり、悪いのは相手であり自分は悪くない“と考えがちであります。 だからこそ、正見という正しくものを観る目が大切になる。A氏には嫌われても、B氏には好かれています。自分は同じように振舞っていても、相手にとってどう映るかは自分では分からないものです。事実はAさんにとっては不愉快な言動に移っているのです。それを相手の考え方が悪いと非難し、悔しがっていても自分を害するだけです。また、犯人は自分以外であり、相手の罪や過ちだけを見つめがちになることは誰にでもあるものです。そういう心を中道の見方をし、自身の心を制御するのが、懺悔であり、妙法の教えです。「本来、善悪という実体は存在しないものであり、善であるという見方をすれば善が存在し、あの人は悪い人だと思った瞬間に悪人が目の前に現れるが、その善悪を作り出すものは自分の心であり、絶対的な善悪というものは存在しない。存在するのは宇宙を貫く心理であり、実相という真実のみである」と説かれている。 自分が良いと思って、誰もが行動するが、それが果たして良心神に合致するかですね。?
    そういう意味から、経典に恥じない生き方を私は目指す。

    命に合掌

  • >>No. 10221

    仏陀の前世の物語は「捨身飼虎」のように、真理の法の為には自己犠牲を厭わないという教えが多い。

    法華経では不惜身命を強く伝えている。 不惜身命とは、仏道のために身も命も惜しまないこと。身や命をささげて惜しまないこと。身を顧みないことをいう。  
    チベットでは死体は高い山にそのまま葬られ、鳥の餌になり、鳥を生かす。 日本でも〇〇山○○寺という山でなくても山号がつけられている。 もともと、この国でも山は神聖な場でもあったのだろう。

    命に合掌

  • >>No. 10219

    ≧えっ、そんな学者がいるのかね。

    歴史は諸法無我の業輪廻。
    世界各国の紛争は皆、三世業輪廻だ。笑≧ <



    中村元博士もそうだよ。 無我を主張するあまり、輪廻説及び、応報説を受け止める事ができない。

    「原始仏教では、在俗信者に善行をおこなわせるために、因果応報の理をもって説いた。正しい行いををした在家の人は、天の世界に生まれる。それに反して悪業を行った者は、地獄に堕するという。こういう輪廻説ないし応報説が無我説と矛盾し、一致しがたいものであるということは、しばしば学者に指摘されているが、原始仏教はかならずしも輪廻および業の観念を排斥せず、むしろ世人の宗教的通念としていちおう許容したらしい。
    では、なにゆえに許容したのであるか、というと、『来世を信じない人は、悪を行う』(Dhp.176)からである。すなわち、世人に善を行わせるために方便の教えとして説いているのである。」(原始仏教の思想1・663頁)
    (中村元)


    合掌

  • >>No. 10220

    >人は、困っているいる人を見かけたら、本能的に助けてあげたいと気持ちが起こるように出来ているそうです。
    例えば、川で誰かが溺れているのを見たら、自分の危険を顧みずに飛び込んで自分の方が亡くなるニュースをよく見ますが、それは飛び込むか飛び込まないか、助けるか助けないかを考えて決める訳でなく、自分の中で「助けてあげたい」と強い気持ちが自然に起こり、ある人は衝動的に飛び込み、助けて上げられられなければ、それはそれで、その人が悪人か善人であるかにかかわらず、その人の気持ちは大きく罪悪感で揺らぎます。

    「利他」「人を助ける」という気持ちは、どんな人にでも、ごく普通に人に備わっている心のようです。<

    本能的に犠牲を顧みないで行動するのは、動物と人の違いかも知れませんね。子供を守るため、親等は一致協力してという行動は見られても、動物の場合は自分から犠牲になる事はないようです。 普通は逃げ遅れた弱い者が、犠牲になる。 

    電車に自分が疲れて坐していても、子供を抱っこしている人とか、年老いた人をみたら、席を代わってあげる。荷物を持ってあげる。 
    そういう気持ちは誰にでもあると、思うが、恥ずかしいからだと思うが、寝たふりなんてのも、聞きますね。
    下記の様な話も動物の命を無駄にしない生き方が人として問われているのでしょうね。

    http://www.st.rim.or.jp/~success/usagi_ye.html

    命に合掌





    http://www.st.rim.or.jp/~success/usagi_ye.html

  • >>No. 10214

    >>自分が救われているなら、まだまだ生活に苦しんでいる人が、この娑婆世界、世の中たくさんいる。 そういう人たちに、できるだけ寄り添って、上げないとね。 自分だけ良ければ、他は関係ないというのは、恩知らず。食い逃げ。

    >布施は 善ではないんだな

    どのような心で布施をされたのかが、とわれるところだね。 それでも、他に対して、親切にすることは、善ではないでしょうかね。 もちろん受け取る側の問題もあるがね。 ミチオ君ガ現在救われているのは、阿弥陀仏がどのように関係しているか、私にはわからないが、 この娑婆世界の大自然のエネルギー、動植物、過去から、現在にいたる多くの世界中の人たちのおかげだよね。一つでも欠けたら、現在の生活は成り立たない。 だからこそ、この娑婆世界でおかげ様でいかされている他の幸福のために自己を使わないとね。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10199

    >法然
    法華経は捨てよ

    慈悲だよ  慈悲  <


    ミチオ君も大乗には長いから、法華経を誹謗すると、どういうことに成るか、注意をするよう、話しておく。


    「舎利弗よ、この教えを人と非人とすべてのものたちに宣べ伝えよ。最後の時にあたって説いたこの法こそが、最高の 教えである。如来は衆生を安んじ、世間を利するために現われたのである。お前の説くところを信じるものは、かって 我われと汝なんじ と諸々の菩薩とを見たのである。この経は信じて初めて理解できるのであり、 凡夫の知恵で分かるのではない。この経を信ぜず、疑い、謗るものは、現世においても転生しても、語りつくせない様々な報いを受ける であろう。そのものたちは、阿鼻地獄に堕ちる、地獄から畜生界に堕ちる、犬や狐となって打擲 ちょうちゃくされる、駱駝や驢馬になって鞭打たれる、 奇怪な蛇になって虫に食われる。もし転生して人になるなら、地獄に堕ちて盲になり、聾唖になり、白痴になり、様々な病に罹り、 身体から悪臭を放つだろう。我執に囚われ、情欲がつよく獣と交わるだろう。それゆえ、この経は智あるものに説け、浅識 せんしきのものには説くな。 この経は菩提心をもった人びとのなかで、学識のある人に説け、信厚き人に説け、人のために身命を惜しまない人に説け、凡愚を 離れて山林に住する人に説け、悪友を遠ざけ善友と親しむ人に説け、戒を守り真にこの経典を求める人に説け、怒らず柔和な人に説け、 自在に法を説ける人に説け、大乗の経典のみを求める人に説け、 六師外道ろくしげどうを求めぬ人に説け。このような菩薩たちはよく信じ、 よく理解するからである」

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10202

    「よく聞きなさい。わたしは今、如来の秘密と神通力を説こう。天も人も阿修羅も一切世間のものは、釈迦牟尼仏は 釈迦族の宮殿を出て、伽耶城 がやじょうの近くに座して 阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみゃくさんぼだいを得たと思っている。 しかしそうではない。わたしが成仏してから、幾千万億劫 こうという多くの時間が経っているのだ。たとえば、五十・千万億の三千大千世界 をすりつぶして微塵とし、その一粒を東方の五十・千万億の世界を過ぎて落とし、また一粒を次の五十・千万億の世界を過ぎて 落としてゆくとする。このようにしてすべての微塵を東の世界に落とし尽くしたとする。それらの世界の数を計算して知ること ができるだろうか」
    弥勒菩薩らは釈尊に言った。
    「世尊よ、これらの世界の数はとても計算することはできず、想像することもできません」
    釈尊は語った。
    「皆にはっきり言っておこう。一粒が置かれた世界と置かれなかった世界とをさらにことごとく集めて微塵となし、その一粒を 一劫こうとしよう。 わたしが成仏してから、それよりもっともっと多くの時、幾千万億劫が経っているのである。それ以来わたしは、 この娑婆世界とその他幾千万億の世界で衆生を導いてきたのである。その間、わたしは燃燈仏等であると語り、 また涅槃に入るであろうと語ってきたが、これらはすべて方便である。衆生の利鈍に応じて、時と処によって、 如来の名をまた寿命を変えて現われるのである。衆生を導き、仏道に入らしめんがため、方便として、自分のことを語り また他の如来のことを語るのであり、どの時どの場所においても、すべて如来の言葉は真実である。如来は如実に三界を見るのである。 三界は、実にも非ず、虚にも非ず、如にも非ず、異にも非ず、である。如来が三界を見るのは、衆生が見るように見ている のではない。このことに如来は過つことはない。わたしは成仏してから永遠に存在してるのであり、寿命が尽きることもない。


    この娑婆世界とその他幾千万億の世界で衆生を導いてきたのである これらの経文から阿弥陀仏は仮の仏、仮の浄土」本師、釈迦牟尼仏は娑婆世界だけでなく、その他幾千万億の世界で衆生を導いてきたのである 

    法華経寿量品仏を信受する事により、一切衆生は救われる。お前たちの生命も同じなんだよという大事な生命。」

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10197

    >他力ならーーー

    ほらーーー  そのまま  救われている。

    自分が救われているなら、まだまだ生活に苦しんでいる人が、この娑婆世界、世の中たくさんいる。 そういう人たちに、できるだけ寄り添って、上げないとね。 自分だけ良ければ、他は関係ないというのは、恩知らず。食い逃げ。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10189

    >さんこうも 鈍い

    無学なものは  どーーすれば 助かるんだよ <

    苦も楽もすべて受け入れて、お題目を唱えてみたら? 無学でも、となえられるよね。
    仏様は乗り越えられない、壁は造らない。 少しづつでも前進できるよう、多くの手立てで、導いてくれる。
    法華経への絶対信が日蓮の教えです。  もちろん、法華経は釈迦牟尼仏の自らの教えです。
    ミチオ君は欲が深いのかな、素直に法華経を信じたら、多くのご縁によって、すでに救われ活かされていることに気がつかないとね。

    命に合掌

  • >>No. 10180

    >この教えを 誹謗すると  最悪腫

    布教も 難しい

      掲示板は  みんな  見れるからさ  難しいよな


    誹謗はするな  一切を救う教え <

    阿弥陀仏は本門教主釈迦牟尼仏の仮の分身仏だから、法華経を誹謗すると阿鼻地獄と説かれている。阿弥陀仏は正法を誹謗する者は、救わないと18願で語っている。

    真の法とは釈尊の法であり、釈尊はその法において自らを「今此の三界は皆是れ我が有なり(主)。其の中の衆生は悉くこれ我が子なり(親)。而も今此処は諸の患難多し。唯我一人のみよく救護をなす(師)。」(法華経譬喩品)と示されております。  仏に成る道は法華経以外にはない、阿弥陀仏の前進法蔵菩薩も妙法蓮華経の教えで自分も仏に成りたいと請願、西方に往き、修業し阿弥陀如来となった。 だから妙法蓮華の教えを誹謗する事は衆生が成仏できなくなるから、あえて、謗法は阿鼻地獄と説かれている。

     釈尊は我等衆生にとっては、主であり、師であり、親であります。阿弥陀仏、薬師仏等の諸仏は我等にとって形ばかりの主となりえても、最も近い師と親にはなりえません。ただ一人釈尊(釈迦仏)のみが主師親の三徳を兼ね具えた本仏なのであり、釈尊ほどの慈悲深き親、釈尊ほどの日夜懈怠なき教導にいそしみたもう師、釈尊ほどの唯我等の擁護に専念したもう主はいないのであり、この有り難き本仏釈尊によって我々は常に見守られているのであります。
    有縁の主、親、師を離れて他土の迹仏に願っても、私達に唯我一人のみよく救護をなす仏様は妙法蓮華を獲得して、始まりの無い時からの本仏。 

    まずは本仏、釈迦牟尼仏、そして、過去仏の象徴多宝、それから、十方分身諸仏。 すべての仏様に南無妙法蓮華経

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10163

    >その信心で落ち着いて、善への道、利他の道が歩めるなら、仏様は阿弥陀如来でも良いのではないでしょうか。

    浄土経典の教えを守らない、有縁のお釈迦様を捨て去る、 他力念仏で善の道や利他の道が歩めるとも思えない。
    できるのなら、それをあまり問い詰める事も、気の毒ですからね。
     まずはこの娑婆世界で多くの衆生に生かされている自己をしっかり知る事。 お世話になっているこの娑婆世界を厭い嫌う他力念仏にはない。 法然の教えではこの娑婆世界は穢土だからすくわれない、浄土に往生してから、修業をしようという考えです。


    法華経の日蓮門下の地涌の菩薩とは、自他共の幸福のために行動する九界の生命にこそ、仏界が開かれるわけです。
    涅槃経では仏性という誰にでも仏に成る事ができる性質が具わっている。 要するに、我々は仏に成る田んぼや畑が有るということ。 無始以来、多くの遊びにふけって、仏の種を枯らしてしまった。 当然、仏として仏界を開くのは、仏の種(妙法蓮華経)を新たに植え付け、水や肥料を与え続け、自ら育てること。

    命に合掌

  • >>No. 10167

    >これは 末法  当っているが

    じゃー
    みんな 無戒の時代  なにか あるのかということなるよね <

    浄土宗では阿弥陀三尊といって、阿弥陀如来の脇士が観世音菩薩と勢至菩薩に成っている。 脇士というのは、阿弥陀仏ならば、自身が観世音菩薩や勢至菩薩になって、仏を助けなくてはならないよね。 ミチオ君も観世音菩薩のいまれ変わりという境地になって、この娑婆世界で仏法の実践をされたらどうなの?

    法然を勢至菩薩の化身とする説が中世からあった。法然は幼名を勢至丸といい、「智慧第一の法然坊」といわれ、生前から智慧の化身として考えられていた。法然没後、弟子の親鸞は「大勢至菩薩和讃」を詠み、末尾に「大勢至菩薩は源空上人(法然)の御本地である」と述べている。また親鸞の妻恵信尼が霊夢を見、「光ばかりの御仏」を見たところ、「あれは勢至菩薩で法然のことだ」という声が聞こえたという話が「恵信尼消息」に出ている。 とある。

    いずれにしても、本仏釈尊は仏陀滅後2000年たった最初の5百年の時に元々自分の弟子であった、【本化の菩薩】【地湧の菩薩】法華経本門八品にでてくる 滅後の布教を託している。比叡山12年奈良、京都、伊勢など多くの宗の実態を研削された日蓮聖人は未だに解き明かされていない、法華経本門の弘通と仏が寿量品の内に秘していた、【妙法蓮華経】の五字の妙薬が示されていないことを知った。 この妙法蓮華経を末法で広めるものは、本来久遠からのお釈迦様の弟子であるという、強い意思堅固なものでなければ、難に耐えることができない。  日蓮聖人は自身が本化の菩薩の上首である上行菩薩の境地に立って、どのような難が起きようと、慈悲と敬い、感謝のお題目を広められた。 法華経にも釈尊の脇士は文殊、普賢だが、本来は脇士はこの娑婆世界で生まれ育った、本化の菩薩が末法での人々の救済に当たる。 ちなみに、一説には弘法大師の生まれ変わりが日蓮という人も多い。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10150

    >でも、親鸞上人は、法然上人のおっしゃったことを信じる、と阿弥陀如来の救いにお任せすることにされたのだから、それも“信”だと思います。


    法然上人が自分勝手な間違いをしていたら、 浄土真宗は当然間違いとなるよね。  自分が他力念仏で納得できれば、よいが、無量寿経からは、他力だなんてことは、否定されているし、きちんと悪の行為をしてはならないと戒められている。  浄土経典から違背していたら、どんなに僧が易行だそのような僧を信じるには値しない。  まずは娑婆世界で自身が迷いから離れて、成仏をしなくてはね。 何しろ、阿弥陀の世界というのは、迷いの者も、一人もいない浄土らしいからね。無量寿経には、厭悪女身という言葉もあるようです。 インド社会では、女性蔑視が少なからずあったのでしょうね。


    声聞と縁覚の二乗は苦しみ多き、人間社会を離脱して、空無の世界に往くことを目指しているので、いったん死んだら再びこの世に生まれる事が無いからである。 あたかもこれは、深い坑に堕ちた者が、自身も坑から出られず、他人を坑から救い出す事は出来ないのと同じである。と大乗経典から否定されえているが、苦からの解放が原始仏教ならば、人間否定ですよね。 そういう意味から、私は仏陀は大乗の教えを説かれたと思っています。 どのような素晴らしい教えであって、無常ですからいつまでも続くわけはないと、仏陀は知っていた。 仏陀の救済スケジュールの根底にあるものは、病が重くなるにつれて、凡薬では力不足。 仙薬でなければ、救えなくなるという理念を持たれていた。  小乗仏教はそういう意味では分かりやすい。病が重くになるにつれて、深い法門が必要になってくる。

    正法の時代の最初の五百年間は、自分の入滅後に小乗を広めるよう迦葉、阿南などの弟子に毎時た。 正法の後半5百年の人々を救うために、権大乗を広めるよう、文殊、弥勒などの迹菩薩に命じた。 この時期にインドで活躍した竜樹と世親はそれぞれ、文殊と、弥勒の生まれ変わりとされている。  次の像法時代には、権大乗と法華経の迹門とを広めるよう薬王菩薩、観世音菩薩に委託した。 この時期に活躍された。南岳大師、天台大師はそれぞれ、薬王菩薩、観世音菩薩の生まれ変わりとされる。 最澄は天台大師の生まれ変わりとされる。

    そして人々の機根が最悪な末法の時代にははいる。

    合掌

  • >>No. 10131

    >法華経と涅槃経は、二つで一つみたいなもの。涅槃経だけでも足りない。


    涅槃経は一つには声聞、縁覚の二乗の人たちがどうしても大乗に入れない者の為に仏性を説いて、救いの教えをされた。 成仏とは自己中心の狭い心を離れて、限りなく大きな心になる事です。 阿羅漢をめざす。二乗は自己が苦しみの世界から離脱事に真剣なあまり、周囲の慈悲にかけてしまう。 だから心を大きくすることに限界がある。しかも二乗は自己の解脱を目指して人里離れた山林での修行に専念します。  これでは、人々を救う慈悲の活動ができません。こうした理由で、多くの大乗経典から「永遠に成仏できない」というレッテルを張られてしまった。 声聞と縁覚の二乗は苦しみ多き、人間社会を離脱して、空無の世界に往くことを目指しているので、いったん死んだら再びこの世に生まれる事が無いからである。 あたかもこれは、深い穴に堕ちた者が、自身も坑から出られず、他人を坑から救い出す事は出来ないのと同じである。 大集経

    ところが、法華経の説法に入ると、一変し、釈尊は舎利弗という弟子に対して、そなたは、やがて華光如来という仏陀になるだろうと未来成仏の保証を授けた、これを皮切りに多数の弟子に次々成仏の保証を授けた。 これらの弟子はお釈迦様の説法を直に聞いた声聞です。 二乗でも法華経に寄っては初めて成仏の道が開かれた。

    合掌

  • >>No. 10126

    >法則はまもれよ
    人の説く教え 人に依っては ならない

    禅は 痛いが  --  笑

    じゃーなー   中国禅も 念仏 浄土の教えに なっている そーーな
    仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない>  <


    依法不依人(法に依りて人に依らざれ)だからね経典を用いないで、人の教えでは危ないからね。
    そういう意味では、法然、親鸞も他力で救われるなどというのは、悟れなかった人の教。


    南無妙法蓮華経

  • 》その他
    それは 信じることだ 信じることだと 書いてあった

    涅槃経は、浄土教を信じろれば、救われるなどとは、どこにも書かれていない。  
    地球は自転しているのよ、西方の阿弥陀世界なんて、方便だよ。 方便でもよいから、まずは紺娑婆世界でしっかり浄土経典通り修業しろよ。 多くの人々、動植物、川海、野や山の恩恵を受けて生かされているところ、こんなに、ありがたい場所はないのに、穢土だから救われないなどと、法然や親鸞に騙されていてはまずいよね。
    京都の祇園の前の浄土宗の寺に知恩院という寺がある。 念仏宗は、まずはこの娑婆世界での恩をしっかり知って、娑婆世界の衆生に恩返しをすること。 

    法四依
    涅槃経の四依品では、仏滅後の末世(すなわち末法)に正しく依るべき4つの法義をいい、涅槃了義の観点から法四依を再説している。

    依義不依語(義に依りて語に依らざれ)

    依於義不以厳好(支謙)、依趣於義不依於文(玄奘)
    意味に依拠して、文辞に依拠しない
    依智不依識(智に依りて識に依らざれ)

    依於慧不為文飾(支謙)、依趣於智不依於識(玄奘)
    智慧に依拠して、知識に依拠しない
    依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)

    依於経不習非義(支謙)、依趣了義所説契経終不依於不了義説(玄奘)
    仏の教えが完全に説かれた経典に依拠して、意味のはっきりしない教説に依拠しない
    依法不依人(法に依りて人に依らざれ)

    依於法不用人所見(支謙)、依趣法性終不依於補特伽羅見有所得(玄奘)
    真理(法性)に依拠して、人間の見解に依拠しない

    ● 依了義経不依不了義経(了義経に依りて不了義経に依らざれ)

    不了義経徒は、真実が全て解き明かされていない浄土教の様な経典をいう。 了義経とは。法華経の事をいう。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10082

    >仏陀は、二度と発生しない、と言ってます

    完全に迷いの心が無くなれば、迷いの世界には赴かないということでしょうが、私は修行中の身で仏陀ではないからね。 神仏から来世はどこに往けと言われれば、それに従う。

    喩、地獄界に生じても、そこは、法華経、お釈迦様と一緒の世界。
    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10084

    >なむあみだぶ なみあむだぶ

    はげみなされ ?

    ヨロチク

    笑う阿弥陀のセールスマン 私度僧 十さんね> <


    法然、親鸞などの念仏僧の教えは仏説無量寿経の教えに合致していない。 他力で救われるなんて教えは仏法にはないよね。  阿弥陀浄土に往生したければ、この娑婆世界を穢土と逃げ出す事ではなく、この娑婆世界でお釈迦様の教えを守って、修業する事だよね。

    無量寿経下
    仏のたまはく、「なんぢいまの諸天・人民、および後世の人、仏の経語を得て、まさにつらつらこれを思ひて、よくそのなかにおいて心を端しくして行ひを正しくすべし。 主上善をなして、その下を率化してうたたあひ勅令し、おのおのみづから端しく守り、聖〔者〕を尊び、善〔人〕を敬ひ、仁慈博愛にして、仏語の教誨あへて虧負することなかれ。まさに度世を求めて生死衆悪の本を抜断すべし。まさに三塗の無量の憂畏苦痛の道を離るべし。なんぢらここにおいて広く徳本を植ゑて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進・一心・智慧をもつてうたたあひ教化し、徳をなし善を立てよ。心を正しくし、意を正しくして、斎戒清浄なること一日一夜すれば、無量寿国にありて善をなすこと百歳せんに勝れたり。ゆゑはいかん。かの仏国土は無為自然にして、みな衆善を積んで毛髪の悪もなければなり。ここにして善を修すること十日十夜すれば、他方の諸仏国土にして善をなすこと千歳するに勝れたり。ゆゑはいかん。

    たった一日の修業とて、この娑婆世界での功徳は浄土の百日の修業より優れている。
    ようするに、釈尊は個の娑婆世界で生活する者が、平和で明るい社会を目指すよう、要請されている。

    法然、親鸞の教えは浄土経典にも沿っていない。 このような教えは速やかに捨てるべきでは?

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 10079

    >では、お聞きします。

    san*****さんは消滅しますね。二度と発生しませんね。<

    肉体を以て、人の姿でこの世界に生じたら、間違いなく、100%肉体は滅する。 私の肉体に現在宿っている、心意識という魂の行く先は自分では仏様の所へと思っていて、日々精進をしているが、実際に現在の脳みそは、前世の脳みそと違うから、どうなるかは、証明は出来ないから、わからないというのが、答えです。 もう一度人としてさらにやり直してきなさいと、神仏から言われれば、そうなる可能性も否定できない。何もないなら、極楽も地獄もない、それもよいという感じですね。仏教の場合は、貪りの世界や地獄界もある。当然極楽の世界や、それら六道を離れた悟りの世界もある。


    いつやるか、今しかないよね。
    命に合掌

本文はここまでです このページの先頭へ