ここから本文です

投稿コメント一覧 (4474コメント)

  • >>No. 2447

    >大乗仏教がさらに進展すると、ヒンドゥー教のアートマン論を積極的に公言するかのような主張が現れてくる。それが先に述べた如来蔵思想である。
     かくして、大乗仏教の思想というものが、基本的には、「空から有へ」と変化する非仏教化、ヒンドゥー教化の道をたどったことが、示されたであろう。

    如来蔵思想とか仏性というのは、求め修行する事によってはじめて自らわかり開眼されるのではないのかと思っている。求めなければないのと同じ。 アートマンというのは自ら求めなくても人に元々内在して働き運動をする。 法華経でも仏種が説かれるが、仏になる種があっても、仏様の種だから、大事に水をやり、肥料を上げることで仏の芽が出てくるという事で。基本的にアートマンとは違う。 松本史朗は、これを理解していないようだ。 

    >例を『法華経』にとるならば、羅什によって漢訳された『妙法蓮華経』の第二六品は、多くの呪文を含む「陀羅尼品」であり、第二五品は、観音菩薩に対する信仰を説く「観世音菩薩普門品」である。観音の名を念ずるならば、諸の現実的な苦から即時に解脱すると説く観音信仰が、呪術的なものであることは明らかであろう。<

    「陀羅尼品」は梵語であらわされます。 お釈迦様の前に大月天王などの四天王初め、十羅刹女、鬼子母神のようなインドを代表するような神々がお釈迦様の前に進み出て法華経の守護神としての誓いの言葉を述べます。 あくまでも仏教の守護神です。

     苦しみ悩む者は観世音菩薩の名を呼びなさい、そうすれば、その身を三十三身、変化の人となって、それらの問題はすべて解決してあげますよ。といった 強制ではなく、寛容な自由意志の認め方で善導している菩薩です。観音様が呪術的だとは初めて聞きました。
     人は人によって、苦しみ傷つくが、辛い時、悲しい時にあっても、逆に変化の人によって救われる。ちなみに阿弥陀如来の脇士に浄土宗さんは観世音菩薩を置きます。 仏弟子は自ら観世音菩薩の境地に至って、仏様の意思を汲んで苦しんでいる人の背中に付き添って、あげるのが良い。観世音菩薩行を行事なさいという事。 それでも人ですから、つらい時苦しい時は名を呼びなさいという事。

    松本史朗は、仏性、如来蔵、仏種をアートマン的に考え、極端すぎ。

    合掌

  • >>No. 2426

    「現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、ブラフマンとなったアートマンによって住する」

    古いとされるスッタニパータであっても、 ジャイナ教などの影響が入り込んだという可能性は否定できない。漢訳アーガマにはこのような教えは出てこない。

    釈尊が、アートマンを前提としているとすれば、仏教とは、無常、無我、縁起を見て執着と苦を滅することを説く教えは無意味になる。 

    スッタニパータであろうと、仏陀の諸法転輪に反する教えは排除するべきだと私は考える。 原始経典も見直す必要があるのではないかと考える。

    合掌

  • >>No. 2430

    >それであれば言うことないです。
    誰が何を信じようと自由なのですよ。
    それにここは何かを信じようとか信仰しようということではなく
    歴史上が仏陀が何を言ったのか、を探るスレです。
    それを何度も言っているのに、日蓮信者のあなたが自分の主張をしつこくしてくるので
    いい加減うんざりであなたの矛盾点を突いているだけです。 <


    釈尊は全ての形あるものは自分の思うようにならない、つまり一切皆苦と観察した。ものは千変万化し、不定であり、自分の思うようにならないから世間にあるものは皆『私』でもなければ、私のものでもない。 諸法無我の諸法とは全ての有形、無形のものの事、すべてのこと事象をいいこの中には人も含まれる。  衆縁和合しているから、一切皆苦であり。衆縁和合してしているから、諸法無我である。創造主が流転しているのではない、神の采配によって、ものが創造され、はたらき、そして消滅しているのではない。 釈尊は世間にあるものに、神が内在するとか、常住不滅の実態が宿るかそういう事は仏陀は一切解いてはいない。  君は諸法無我を否定し、有のアートマンの霊魂を立てるバラモン教に持って行こうとするから話がややこしくなる。 別に日蓮宗の信者でなくても、仏教者ならば諸法無我の否定はしない。 仏陀はバラモン教に対して頭から否定しなかったというぐらいに解釈するべきだと思いますね。
    君の場合は上座部も大乗も全て間違っているという事から 始まってしまう。

  • >>No. 2427

    >ごまかさないで、この質問にちゃんと答えてください。
    日蓮は、『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』と言っていますね?それは認めますね?
    そして、法華経にも他の大乗経にも原始仏典にも、『南無妙法蓮華経と唱えろ』という文はないですね?これは認めますね?

    アホ丸出し ♪

  • >>No. 2425

    衆縁和合説にたいして、納得がいかなく、さらに釈尊に質問をする。 時について考えると、過去の時は過ぎ去っており、未来の時はまだまだ来ていません。 この二つの時は存在していません。 まだ来ていないが来つつある時が存在していれば、これはおかしい事です。 息子がいない時、私に子がいないと言う事と同じです。

    釈尊はこれに対して過去の時は存在していることを喩で説明しよう。  蜜柑の種を植えると芽が出る。 その時種は形を失いなくなる。 これは芽についても甘味や果実についても、同じである。 熟すと酸っぱくなる。 この酸味は種子、芽、ないし果実などに最初から存在しない。唯種々の過程を経て熟している間に形や色、姿などから酸味が生じたのだ。 しかもこの酸味は最初はなかったものが、現在あるのだ。 最初はなくて現
    在あるのだといっても。最初の物に縁らなかったわけではない。 このように最初の種は過去のものとなっているが、それだからこそ有る言える、この意味で過去の時は存在する。 未来の時がなぜ存在するのか、喩で説明しよう。 ある人が胡麻の種をまいた時、人がきて、『なぜ胡麻の種をまくのか』と尋ねた。これに対して『油を得たいから』と答えたとしよう。この時点では油はない、しかし、胡麻が生長して、種子を収穫しそれを蒸して絞ったら油を得る事ができる。 これを予想して油を得たいからと答えたのは嘘ではない。 この意味で未来の時は存在する。  

    過去の時が存在する理由を。ある人密かに王を罵った事がある。数年たってから王の耳に入った。王はこれを聞いて『私は罵られるようなことをしただろうか』と尋ねると、この人は『大王、私は罵った覚えは、ありません。罵った本人はすでに亡くなっているからです』 王は『罵った人、つまりお前と私は今も生きている、どうしてなくなったというのか』として王の怒りに触れて首をはねられた。  罵った者と王の身体は現在の身体とは違うが、罵ったという行為の事実はなくならない。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2422

    セーニカ外道は霊魂は作者であるといった。  行動を起こす主体といい意味・物を作る、話す、歌う、見る食べる、味わう嗅ぐ、考える創造する、苦しむ、楽しむなどの感覚表現、運動などを起こすものが霊魂だとする。
    これに対して釈尊はセーニカ外道よ、あなたは霊魂は作者であるというが、それは正しくありません。
    なぜかというと、若し霊魂が作者であれば、どうして自ら苦しみを作るのか、生類は現実に苦しみを受けている。
    セーニカよ、人々の苦楽は実に原因と条件によって、生じたのです。
    釈尊は生類の感覚器官は眼、耳、鼻、舌、身、意の六官とこれら六官が色、声(音)香」り、味、感触物などの六つの愛対象物と接触して起こると説き、見るのも聞くのも、嗅ぐのも味わうのも感触するのも考えるのもみな六官と六つの対象物が接触しなければ起こらないと言われた。 見る働きは眼と色、形と光と見たいという欲がなどが和合して起こるのでありれいこんが見る働きを起こしているのではない。 あくまでも和合してうんどうしているという説明です。
    セーニカ外道は『私』が見る、『私』が聞くという『私』が霊魂だという事に対して釈尊はすべての働きは衆縁和合によっておこると説かれた。

    バラモンが言う霊魂は創造主ブラフマンの分身としてのアートマンは全ての被創造物に偏在し常住する。 霊魂には形があり、それは求められなくても、身体に厳然と存在する。 

    大乗仏教ではこういうことに関して仏性を立てる。 仏性は求めなければ、無いに等しい。 仏性は見る、聞く、味わうなどの感覚器官はない。 主体的に五蘊を支配するものではなく五蘊と共同してはたらくものでもない。
    仏性は心ではない。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2421

    >だから、上座部仏教からは、大乗仏教は非仏説で外道の教えだとずっと言われ続けましたね。
    アートマン=ブラフマンは常楽我浄だというのは、まさしくバラモン教でしたから。
    部派仏教はバラモン教否定にばかり赴きましたが、大乗仏教になって常楽我浄の法身という本体を想定するようになったのですよ。

    仏陀の常楽我浄はアートマンとかブラフマンのような霊魂だとかそういう話ではないよ。 虚空が本だという事。

    > 空海は当然大日経を最上位にしましたね。
    日蓮は法華経を最上位にしました。
    それだけのことです。
    それがどうかしましたか?
    馬鹿馬鹿しいことに、仏陀の言ったことに反して、部派仏教も大乗仏教も、自分たちの宗派が最高で正しいと争ってきたのですよ。
    あなたの今の態度みたいにね。
    それは、仏陀が最も嫌った態度でした。
    仏教全部が間違っているのですよ。  <


    だから最初から言っているだろ、大乗教の祖たちはどのように考えていたかを正しく考察しそのうえで自分にあった教えを踏襲すれば良いとね。それに対して私はどうのこうのはない。 法華経がおかしいとか言う事になれば反論するよ。 

    >さて、私の質問に全く答えないですが、答えてくださいね。

    君の理解は残念ながらアホ丸出しだよ。
    いいかい、比叡山では日蓮以前から朝題目、夕念仏が唱えられていた。 この意味も理解できないようだ。

    この経には、如来の一切の法と(名)、如来の一切の自在の力と(体)
    、如来の 一切の秘密と(宗)、如来の一切の奥深さが(用)、明らかに説かれているのだ
    名体宗用の教えの妙法蓮華経。 表題の内にお釈迦様の全ての経法が込められている。 


    仏だって南無観世音菩薩だけではないでしょうが、阿弥陀如来だって説かれている。「友よ、幾千万億という計り知ることもできない世界の向こうに、娑婆しゃば という世界がある。ここに釈迦牟尼という仏がいる。 今、諸々の菩薩のために最高の教えである法華経を説いている。友よ、歓べ。釈迦牟尼仏を礼拝し、供養しよう」
    十方世界の衆生は、みな娑婆世界に向かって合掌して唱えた。
    「南無釈迦牟尼仏なむしゃかむにぶつ  南無釈迦牟尼仏なむしゃかむにぶつ」
    十方世界を教主釈尊は統一した。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2418

    >あなたのこの一文の中にも矛盾点がたくさんあります。

    涅槃経『了義経に依って不了義経に依らざれ』の了義経ですが、涅槃経に書かれている以上、第一義的には涅槃経と考えるのが当然です。この涅槃経の文にはどこにも『了義経とは法華経のことだ』とは書かれていませんよ。
    また、日蓮宗の僧侶でもあった茂田井教亨教授は
    『どのお経にも「この経すなわち了義経なり」と説かれてあります。その意味は義を了したところの経(了義経)つまり最高真実の教えという事なのです』
    と言っています。 <

    涅槃経には釈尊の常住が示されている。 面白いだろ、あれだけ無常なものはないと言われるのに、迷いから離れた仏様は常住だとね。

    どの経も最高真実の教えならば、例えば、空海は法華経の佛は迷いの仏とし、大日経を一番とし、大日如来を上に立てた。大日如来と釈尊を同仏とするならまだしも、迷いの佛としたからね。
    大乗の祖でもある、龍樹菩薩が言われる。

     涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説いて言く一人出世すれば多人利益す一国土の中に二の転輪王
    あり一世界の中に二仏出世すといわば是の処有ること無し」文、大論の九に云く「十方恒河沙の三千大千世界を
    名づけて一仏世界と為す是の中に更に余仏無し実には一りの釈迦牟尼仏なり」文、記の一に云く「世には二仏無
    く国には二主無し一仏の境界には二の尊号無し」文、持地論に云く「世に二仏無く国に二主無く一仏の境界に二
    の尊号無し」文。

    応えていただきましょうか?

  • >>No. 2406

    貴方が、日蓮信徒はドグマ的ときめつけ、感情的になって私がしめした文に耳を貸さなかったのですね。 
    日蓮聖人という人は、天台大師や伝教大師の教義は参考にするものの、他宗の祖師達は経典主義ではないですから、人です。日蓮の場合は自分の考えではなく、すべて経典主義なのです。 涅槃経の遺文である『法に依って人に依らざれ』を大切にしました。又さらに『了義経に依って不了義経に依らざれ』という文があります。了義経とは、真理が完全に説き尽くされている経典」という意味で、法華経の事をいう、法華経以前に説かれた教えは真理が説き尽くされていない経です。
    もちろん、最近の仏教研究で大乗仏教は創作されたといわれているのですから、そのことを考えながら、当時の祖師たちの考えを知らないとまずいでしょ。 そういう中から、自分にあった教えを考えればよいですね。
    世尊がおられた当時は迷いから離れた弟子を世尊は仏陀(目覚めた人)といわれています、 時が過ぎてくると、誰も悟る者がいなくなったのでしょう。 そのような時期に大乗が起きてきた。 誰もが仏に成れるとね。


    神力品
    如来の滅後に於て 仏の所説の経の
    因縁及び次第を知って 義に随って実の如く説かん
    日月の光明の 能く諸の幽冥を除くが如く
    斯の人世間に行じて 能く衆生の闇を滅し
    無量の菩薩をして 畢竟して一乗に住せしめん
    是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞いて
    我が滅度の後に於て 斯の経(妙法蓮華経)を受持(南無)すべし
    是の人仏道に於て 決定して疑あることなけん」

    当然妙法蓮華経を八正道で説かれる、身で読み、口で読み、意で読み、妙法蓮華経を受持したまま仏道が成ぜんとなり仏が保証をしています。

    ところで、菩薩達仏陀の創作でしょうが、大乗涅槃経の文から、諸法無我をしっかり考えないと仏教からは外道になります。
    アートマンというのは、世界最初は有であったといういう事で、因中有果の考え方です、また他のインド宗教のように、因中無我説ではなく、 仏教の場合は大乗仏教も含めて衆縁和合説です。  例えば藁の束は一束では立つ事はできないが、二束ならば互いに縁となり因も果もどちらかという事ができません。

    涅槃経では乳とチーズの喩をもって、因中有果説を論破しています。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2397

    <仏陀が書いたものはあるの、どうなの?>>

    >ありませんよ。常識です。
    原始仏典のほとんどは、仏陀の死直後の第一結集から口承によって伝えられてきたものを文字にしたものですよ。

    だから文字になったのは滅後300年もたっている。とうぜん部派仏教に取り入れられなかった教えだって、埋もれていた可能性もあるってことだよ。 

    >あなたは盛んに過去七仏にこだわりますが
    七仏の思想の背景には千仏、もっといえば無数の仏がいたということです。

    あなたたちは、仏陀が仏教の開祖と捉えていますね。
    とすれば仏陀以前の過去の無数の仏たちは当然仏教以前ですよね。
    当たり前です。
    仏陀は『私は過去の覚者が発見した古城に向かう古道を発見しただけだ』と言っているのですから。<


    だから大乗の毘盧遮那仏や阿弥陀仏の話だって、仏陀がされたかもわからないということだね。

    古道なんだから、必ず元になる本仏がおられるとするのが、普通だよね。そして必ず古道を示したはずだと私は思っているがね。

    その古道への道の一歩が部派仏教では迷いの心を捨て去る修行だったのではないのか?
    迷いから離れても、修行で迷いを捨て去る事だけに、こだわり、筏を背負ってきたという事はないのか?
    これから、出掛けます。 考えておいてね。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2393

    法句経の釈尊を含め以前に七人の覚者を讃える偈がある、「七仏通誡偈つうかいげ」(注3)による、(諸々の悪を莫く「諸悪莫作しょあくまくさ、  諸々の善行「衆(諸)善奉行しゅうぜんぶぎょう」、 自身の心を凉く「自浄其意じじょうごい」、  これ即ち仏法「是諸仏教」)、大般涅槃経(大パリニッパーナ経、Mahāparinirvāṇa Sūtra)(注4)の教えから言われている、これらは上座部で言われるが禅宗に於いても言われ、道元は「正法眼蔵しょうぼうげんぞう」諸悪莫作の項目を採用している、七仏通戒偈は禅宗一般に於いて重要視されており、一休宗純の墨書した「諸悪莫作 衆善奉行」の軸が出光美術館に保存されている、また同じ文字の軸が茶会などでも散見される。

    閑話休題、釈尊の教えはインドに於いて特に新規な哲学ではなく、同時代のライバルであるジャイナ教の開祖マハーヴィーラ(Mahāvīr・bc580~500年頃)等も近い哲学であった、即ち既成の思想の修整であると言えよう、その為に釈尊以前に多くの覚者が出現したと言う伝承が生まれた様である、前述の「七仏通誡偈つうかいげ釈尊を含め以前に七人の覚者を讃える偈があり尊名の記述がある、また無量寿経には無限の過去に「錠光じょうこう如来(燃燈仏)」が出現する、その後錠光如来から五十四番目の覚者として阿弥陀如来が出現したとしている。
    日本には古くから伝えられていたが上座部経典の範疇にある為、呪術や形而上の儀典などを重要視した日本仏教界に軽視された、しかし多くの大乗経典の源流的経典であり見直しが行われている。
    経集と同じく短編の物語を集めた物で423の詩で構成され26章に分類される、体系的には整っていないが仏滅後から最も早く成立しており実在した釈迦の真意に近い経典とされている。
    1、修練された心に貪欲は起きない。                        
    2、恨みは消してのみ静まる。   
    3、愛欲を消し去ることで平安の境地、涅槃に入ることが出来る、 など釈尊の根本真意が実行は限りなく難しいが理解しやすく述べられている。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2389

    <<教えが文字になった時には仏陀滅後300年以上たっているのよ。 その時には大乗は興っている>>

    >全く違います。仏教史をあなたの宗派のドグマなしに調べなさい。

    仏陀が書いたものはあるの、どうなの?

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2390

    <<阿含経でも、梵天(ヒンドゥー教のブラフマー神)をはじめ、天の神々が登場し、ブッダを神以上に敬っている。>>

    >それが、『仏陀はアートマンを否定していない』という私の説とどう関係があるのですか?

    天地をつかさどるともいわれる梵天の懇願によって、法を解いているのよ。 当然それを知らなければ仏陀の真意は理解できないよね。 

    初めて悟りを開かれた釈尊は初転法輪で、三法印を説かれた
    (私たちの生活する娑婆世界は、
    諸行無常:この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
    一切皆苦:一切は皆苦であると知ること
    諸法無我:本来、我となる主体はない
    この三法印に、
    涅槃寂静:一切のとらわれやこだわりを離れた姿を加えて四法印と呼び、これら三法印・四法印は仏教の根幹をなすものとされているが、 ヒンズー教に向かっているあなたは、どうしても、我となるアートマンという不変の主体の霊魂を主張する。苦がアートマンだと思っているの?  アートマンに執着するようでは、一切のとらわれやこだわりを離れた姿には向かわないと思うがね。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2386

    阿含経でも、梵天(ヒンドゥー教のブラフマー神)をはじめ、天の神々が登場し、ブッダを神以上に敬っている。

    こういうことが、理解できないものには如来が理解できない。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2384

    >原始仏典にも大乗仏典にも『南無妙法蓮華経と唱えれば仏道を成じる』とは
    どこにも書いていないですね?
    法華経にさえ書いてないのですよ。
    そんなに重要なことなら、なぜ、法華経にも、最古層の仏典にも出てないのですか?<

    あなたが受持成仏が理解できないだけ(笑う


    >ですが、ここは、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったか、のスレですよ?

    そのような事をいくら言われても、歴史上の仏陀は文字では示していない。インドではすべて口伝文化だよ。教えが文字になった時には仏陀滅後300年以上たっているのよ。 その時には大乗は興っている。 インドでは多くの神様が伝えられているからね。 阿含経典を読んでも少なくても、君みたいなヒンズー教とは違う ♪


    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2378

    >つまり、あなたは仏陀が言ったこともないことを信じているのですね。

    言ったか言わないかはわからないといっているのよ。 スッタニパータだって、仏陀が書いたものではないのよ。
    ようは、現代社会にあって、どれだけ、南伝仏教も大乗仏教もどれだけ益があるかだろうね。

    日蓮が言われた事は、法華経が要求しているからなんだよね。 この経を受持しなさいとね。 

    如来の滅後に於いて 仏の所説の経の因縁及び次第を知って 義に随したがいて 実の如く説かん。
    日月の光明の 能く諸々の幽冥を除くが如く 斯の人間世に行じて 能く衆生の闇を滅し
       無量の菩薩をして 畢竟して 一乗に住せしめん。 
       是の故に智あらん者 此の功徳の利を聞きて 我が滅度の後に 斯の経を 受持すべし。
       是の人 仏道に於いて 決定して 疑い あることなけん 。

    題目をとなえたり読誦したり解説したり書写するのも、皆妙法蓮華経の受持の為、五種法師という修行方法が説かれている。 成仏なんですね。
    法華経に書いてある南無釈迦牟尼仏だって、南無観世音菩薩も十方諸仏も唱えるよ。仏様だからね。  なにしろ法華経は神仏がいっぱい、天の大月天王はじめ、羅刹の十羅刹、日本の八幡様、天照大神も皆法華経の守護神。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2375

    >歴史上の仏陀は『南無妙法蓮華経と唱えろ』と言ってるのですか?

    南無妙法蓮華経は漢語だよ。とうぜんそのような言葉は使わない。南無妙法蓮華経と唱えろと言われたのは、法華経の真意を見抜いた日蓮だよ。  原始仏教だって、すべて口伝によるもの、歴史上の仏陀は文字に残していないからね。 君はヒンズー教、 それも現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ  ができていない♪ まずは無明から離れてね。 

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2362

    >あなたは、
    諸法無我=アートマンの否定 と断定していたのですよ?覚えていますか?

    ですから、私は、仏陀はアートマンを否定などしていないと反論証明したのです。 <

    バラモンが教える常住不変なアートマンなんてものは、仏教は否定する。 ヒンズー教ではないからね。♪
    心意識も持てず変化する。  常住不変なアートマンというのは、いるのかい、どうなの?

    梵天(ブラフマン)は創造神と言われるような神様ですね。 その神様が、「どうか、その悟った内容を説いてください」と、お釈迦さまに、「何度も」説得された。  神も生まれ変わる対象なんですね。♪

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2348

    >スッタニパータをはじめとする初期経典において、いかにアートマンが積極的に説かれているか、という事実を示したのですよ。
    それは認めますね? <

    インドラ神や帝釈天のような梵天は、仏教では仏法修行者の守護神という解釈ですから、仏陀は認めていたでしょうね。 目に見えない神々の世界の守護が仏法者には起きる。♪

    そして、松本史郎が書いているように
    『中村元博士はじめ、これまでのほとんどの仏典編纂者・翻訳者・研究者は、赤裸々な我論をこのままではまずいと(無意識的に)包み隠すような操作を続けてきた』という事実も認めますね?

    スッタニパータを訳しているのですから、包み隠すような操作を続けてきたというのは、ないと思われるが、それぞれの方の研究の在り方でしょう。


    >そして、松本史郎が著作の中で書いている、初期仏典に
    『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
    ブラフマンとなったアートマンによって住する』という文章が存在することは認めますね?

    ニカーヤですから、仏陀が言われていたのでしょうね。 

    テーリーガータ
    アヌルッタ長老の、
    「わたしは、かって営んだところの前世のさまざまな生活を知った。わたしは天帝インドラ神として生まれ、三十三神のなかにいたのである。・・五つの徳性をを具える瞑想に住して、わたしは、輪廻のさまざまの生存、すなわち生けるものたちの生と死、来ることと去ること、そしてこのような状態とあのような状態を知った。」

    こういう事でしょうね。 あくまでも、仏教者の守護神です。 

    あなたの、仏教解釈では、ヒンズー教になるよ。 きちんと中道を歩みましょうね。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 2340

    松本史朗は、「縁起と空」において、中村元はじめ多くの仏教学者の無我の解釈批判は当然だと思うが、仏陀の教えの基本は縁起の教え三世因果の教えですね。  松本の仏教の基本は、アートマンの否定ということで、縁起説を説いたのではないの?

    当時のアートマン批判は、つまりバラモン批判であり、ジャイナ教批判であり、ヒンズー教批判だよ。


    松本氏の末尾の文で能書きを垂れてはだめよ。

    「釈尊の縁起説、即ち、“仏教”というものは、たえず繰返し自己を否定しつづけることによって、おそらくは「神」を待ち望むような意義をもったものであったと思われる。なぜならば、自己の否定は、「他者」の肯定を含意し暗示するというのが自然な見方だからである。しかるに、もしそうであるとすれば、われわれもまた、たえざる自己否定を通じて、存在する筈もない「神」の出現を待ちつづける以外にないであろう。」

    神を待ち望む意義で終わる。これでは、仏教にあらず、キリスト教だね。♪

    南無妙法蓮華経

本文はここまでです このページの先頭へ