ここから本文です

投稿コメント一覧 (5116コメント)

  • >>No. 17343

    >健全な心は健全な肉体に宿るでしたっけ

    「健全な精神は健全な肉体に宿る」という諺は間違って伝わってきたようです。

    健全な肉体の中に健全な 精神が宿ってほしいものだ  という希望のようです。
    丈夫で健康な体は誰でも憧れますが、必ずしも健全なる精神が宿るわけではない。
    ハンデを背負っている人のほうが、むしろ健全な精神を持っているような気もしています。

    合掌

  • >>No. 17329

    >数珠は中国4千年の歴史じゃないのかなー。


    インドでは木の実などでつくられ、お釈迦様が菩提樹の下で覚りを開かれたのに習い菩提樹の実で作られる数珠は現在でも重宝される。 正式には108の煩悩の珠で作られる、略式として短いものもある。 ロザリオなんかは、魔よけの意味もあるが、密教修行者なんかは数珠を首から下げている。 魔除けの意味があるかもしれません。 いずれにしても仏具として定着していますね。  サッカー選手が手首にサポータをするが、キック力が増すという話も聞くし、 ミサンガと言って、願いが叶うという意味で、サッカーフアンにも愛用される。 ハッピーブレスレット

    合掌

  • 2018/04/25 08:43

    >>No. 17309

    >
    > >わたしたちは、みな、自分の人生を送っていると感じていますが、それは錯覚です。
    > 宇宙意思が、さまざまな形で発現しているだけなんです・・・
    >
    >
    > 水月さんは、愚教から一歩も出られないようですね。・・・・・

     はい、はい・・・・・・。

    ***********

    愚教の人は、宇宙意思として空間的因果業だけしか見ないようだ。
    個人の身の上に起きる業報とか三世とかの思想を佛教本来の思想を捨てている。 そして指摘されても、考えようとはしないで流されてゆく。

    行為当事者個人の身の上の未来(後生を含む)に応報を招くと云う時間的因果の三世因果を無視したら仏教の因果論で無く、外道の教えになる。

    愚教は 道元の「いまのよに、因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。世尊のしめしますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふというとも不亡なり。もし因縁にあえば、かならず感得す。・・これを不亡というなり、その報なきにはあらず」(正法眼蔵・三時業)も否定する。  

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 17305


    >わたしたちは、みな、自分の人生を送っていると感じていますが、それは錯覚です。
    宇宙意思が、さまざまな形で発現しているだけなんです・・・


    水月さんは、愚教から一歩も出られないようですね。  自分の思い通りにならないから、一切苦だと、お釈迦様は言われたのです。そしてその苦の解決を教えているのです。  個人の行為にも因果の応報は及ばないという事は仏教では言いません。  自分が覚れないからといって、宇宙意志の性にしてしまう。  仏様は全ての衆生に平等に光を放っている。 素直に、受け取るかどうかでしょう。 

    私が愚氏の投稿を読む限りでは、苦悩のまっただかです。 葛藤という迷いにたいして、欲望の藤蔓に絡まり、苦しみのまま、と言う感じです。 自身に具わっている、善良な良心に逆らい嘘をついている。

    日蓮が信徒に教えです。

    人として、私たちがこの世に生命を享(う)けて生まれてくるのは、容易なことではありません。わずかに、爪の上の土のようです。また人の生命は、草の上にやどる露のようなもので、たもちがたいのです。ですから、仮に百二十歳まで生きたとしても、名をけがして死を迎えるよりも、生きて、一日であっても、品格を高める方が大切です。中務三郎左衛門尉(法華経の信徒)は、主君のためにも、仏法のためにも、また世間の人々に対しても、心の等しい優しい人である、と鎌倉の人々から口々にほめられるようにいたしなさい。

    南無妙法蓮華経

  • >>No. 17258

    ● 葛藤(かっとう)は「心の中に相反する欲求が存在し、どれを選択するか迷うこと」という意味の言葉です。
    選択肢のうちいずれか1つを選ばなければならず、迷いが生じ、悩むことを「葛藤」といいます。


    葛藤――複雑にからまるくず、藤つると聞けば、裁断して解脱の道が開けると考えるのが一般的であるが、
    釈迦牟尼が正道し、菩提達磨尊者が中国に伝えた正法の仏法は、そのような作為のものではない。
    葛藤を葛藤のままに百千万代の後までも、何千人の人にも伝えることであることを説く。****道元

    親鸞もかなり葛藤が見受けられる。  法然に騙されているかもしれないと、他の教えを勉強しようとする、そうなると、これが自力心になる。 これではいけない自分にはたとえ法然に騙されても、他力を行くしかない。 それが地獄への道でも後悔はしないというような、 苦しい一生のままだったのではないのか?********  親鸞

    誰にでも葛藤は起きる。 葛藤をどのように解決したかが、大事なこと。 

    合掌で光を
    南無妙法蓮華経

  • >>No. 17273



    ***********
    日本のカトリックにおけるデウス[編集]
    フランシスコ・ザビエルは来日前、日本人のヤジロウとの問答を通してキリスト教の「Deus」を日本語に訳す場合、大日如来に由来する「大日」(だいにち)を用いるのがふさわしいと考えた。しかし、これはヤジロウの仏教理解の未熟さによるもので、後に「大日」という語を用いる弊害のほうが大きいことに気づかされることになる。1549年に来日したザビエルたちが、「大日を拝みなさい」と呼びかけると僧侶たちは仏教の一派だと思い、歓迎したといわれている。
    やがてザビエルはキリスト教の「Deus」をあらわすのに「大日」という言葉を使うのはふさわしくないことに気づき、ラテン語Deusをそのまま用い、「でうす」や「デウス」とすることにした。「大日を拝んではなりません。デウスを拝みなさい」とザビエルたちが急に言い出したため、僧侶たちも驚いたという。[2]
    その後、宣教師たちや日本人キリスト教徒たちの研究によって「デウス」の訳語としていくつかのものが考えられた。それらは「天帝」「天主」「天道」などであり(語源的には「天部」である)、「デウス」と併用して用いられた。彼らは「神」という言葉は日本の多神教的神を表すもので、自然や動物、人間にすら当てはめられる言葉なのでDeusの訳語にふさわしくないと考えていた。もっとも、もともとラテン語の「deus」は、上述の通り古代ローマの多神教の神々を表す言葉であり、一部のローマ皇帝、つまり人間が「deus」に列せられる事もあった。
    明治以降に漢文訳聖書の影響を受けた日本語訳聖書がキリスト教のDeusを「神」と翻訳し、日本の正教会・カトリック教会・プロテスタントのいずれにおいても、これが今に至るまで定着している。

  • 仏教は釈迦教とは呼ばれない

    >釈迦以前にも真理に目覚めた者は居た

    諸々のBuddha達の共通の教え理法が仏教である

    彼らは理法に目覚めただけ…釈迦は伝説では梵天の勧めで

    仏教を説いたと言われてるが自分自身で経典など書いてはいないのだ

    2500年の間に私は釈尊からこのように聞いたと仏説として多くの仏典が出た

    だが初期のスッタニパータやダンマパダとはまったく真反対の内容に変貌して行く

    別の宗教の影響であると仮説を立てただけ…事実だとは言ってはいない(・◇・ <

    ****************

    比較的初期の教えとされる、原始経典といわれるスッタニパータやダンマパダも釈尊が書いた教ではありません。
    真反対の内容に変貌したというのは、あなたの考え方が浅い。 大乗仏教は原始仏教といわれる、 スッタニパータやダンマパダも踏襲している。
     
    釈迦以前にも真理に目覚めた者は居た
    諸々のBuddha達の共通の教え理法が仏教である と知っているなら、我々の地球世界を照らし続けている過去仏の十方諸仏の仏様に目くじらを立てる事もないと思う。釈迦は伝説では梵天の勧めで仏教を説いたといわれているのだから、天地をを司るどるような神を頭から否定する事はない。 はっきり言って、あなたが、アラシになっている。
    ここの坐禅トピは大乗般若心経の空平等を基本にしている禅だという事。 一つでも、坐禅をして、こういうことに気づいて、こういうことを生活に生かしているいるとと、いう話はあなたから、聞いた事が無い。 

    合掌

  • >>No. 17252

    ●葛藤は生命(葛藤を葛藤のままに)●

    布団を剥いで寝てしまって熱がある。
    葛藤の熱が、「ゆっくり休め」と知らせてくれる。
    葛藤は仏の慈悲であり神の愛でもある。
    身体の中で、数知れない細胞同士の葛藤が続いているから生きている。
    葛藤とは生命だ。

    また禅宗で葛藤とは「解きがたい語句・公案、また問答工夫の意」である。
    葛藤が真実を教えてくれる。

    道元の正法眼蔵の第三十八巻は『葛藤』である。道元全集『正法眼蔵』4より。

    葛藤――複雑にからまるくず、藤つると聞けば、裁断して解脱の道が開けると考えるのが一般的であるが、
    釈迦牟尼が正道し、菩提達磨尊者が中国に伝えた正法の仏法は、そのような作為のものではない。
    葛藤を葛藤のままに百千万代の後までも、何千人の人にも伝えることであることを説く。

    **********

    葛藤は自身の心の中に二つの道が現れるというような、苦しみですよね。葛藤のままにという事では、苦から逃れられないのでは?  業縁を背負ってきています。 人ですから迷う事もたくさん出てくる。 これが逆に正法とのチャンスの時では無いでしょうか?  仏の道を歩むのか、苦の道だと分かっていても流されるのか?


    蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし。

    南無妙法蓮華経



    三草二木の喩

  • >>No. 17176


    >短期決戦の如く、感情を大送出します。消えます。
    瞬間沸騰型です。無意識領域に澱を残さない方策です。 

    また、坐禅やYogaは、全自動でこの働きがあります。<


    とりさん 無心について、必ずしも禅の教義を私は認めたわけではありません。

    ①【黄檗希運(おうばくきうん)禅師】
    「無心は一切心なきなり」

    ②【蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)】
    「無心とは一切愚痴の心なきをいう」

    「無心は一切心なきなり」はイエローカードです。 無心は我の壁である煩悩を滅っする事でしょう。
    「無心は一切迷いの心なきなり」が言いたかったのだと思います。
    いくら大声を出して、あの野郎、馬鹿野郎と罵っても、怒りや恨みの心は消えるものではない。 それがもとで悪業の行為にはしり、取り返しのつかないことが起きる。そのまま、心に焼き付けられる。

     
    また、坐禅やYogaは、全自動でこの働きがあります といわれても、それは違うでしょうね。 自身に怒りや恨み、欲望の無心から外れた心が起きたら。 やはり自らそういう煩悩の心をそのままにしないで、深く見つめる、そして反省し、2度としないように注意する。 これなくては、そのまま自動的に悪道の道でしょうね。

    合掌

  • >>No. 17163


    >なぜなら、あるものはわれわれがそのものを感じるが故にあるのではない。
    そして、そのものがないのはわれわれがそのものを感じないが故ではない。
    そのものが存在するがゆえにわれわれはある。しかも持続的にである。
    それゆえ、あらゆる存在は、すべて唯一なる存在である。
    そしてある人が死んでも、唯一なる存在があり続けるということは、
    その人が存在をやめたのではないということを君に告げているのだ。


    このかたの言われることが正しいというのばなら、仏教の諸法無常は嘘になるのでは?

    合掌

  • >>No. 17155

    >「禅」の世界の「無心」とは、心がない空虚状態ではなく、山・川・樹・草・虫・華、一つの命が大自然の中でありのままにいのちを輝かせています。煩悩妄想をすべてなくすことはできないけれど、少しでもそのようなことから離れて、自分らしく精一杯生きることです。

    「無心」が尊いのは、心に邪悪なもの(俗欲・妬み・怒り・差別・愚痴など)が一切なく、極めて美しく、完全に善であり真実であるからです。

    ①【黄檗希運(おうばくきうん)禅師】
    「無心は一切心なきなり」

    ②【蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)】
    「無心とは一切愚痴の心なきをいう」

    「禅」のいうところの「無心」とは無情・思いやりがない・無分別・無風流など、という意味ではなく、自我の執着から離れ、なにものにもとらわれない自由な心を示しています。 <

    ですよね、俗欲・妬み・怒り・差別・愚痴などの心は自己中心(我の壁を乗り越えていない)から出てくる無明によるものです。
    ですから、怒りの心、怨みの心になりきってしまえというような、愚氏が言うような教えは、問題があるのでは?
    怒りの心、怨みの妄想の心を開会して、感謝と敬い、慈悲にかえて、実践するのが修業。

    南無妙法蓮華経

    合掌

  • >>No. 17158

    >慈悲は神の特質ではありません。もし神の特質なら自然災害は起こさない。
    つまり人間が無上と考える慈悲よりももっと大事なものがあるということ。そのもっと大事なものに基づいて神の行為は行われる。
    慈悲に執着するのもまた人間の煩悩に他ならないw

    火山の爆発や大地震による災害も原子や分子の複雑な構造によってもたらされているエネルギーの変化によるものです。 人は自分一人では生命は維持できません。 動植物や宇宙的大自然、そして先人たちの技術の恩恵があって、生かされている存在です。 人もまた大生命のサイクルの中の細胞の一部のようなものでしょう。 人が便利を選ぶのはよいが、そのため,負の部分、例えば温暖化によるゲリラ豪雨による被害。 この国では、山の神、海の神、火の神、水の神、風の神というように、神の幸による恩恵に感謝し、時には災害を起こす神に怖れを抱いて生活してきました。
    シバ神は破壊と再生の神です。 人も又破壊と再生の心が具わっています。 自然災害からの復興はお互い様という人に具わっている慈悲の心なくして再生はない。

  • >>No. 17146

    >心を働かせると虐待もあるのだ。

    虐待は自己中心的な考えによって、生じる心ですね。  その反対に他の為に我執を離れて心を向けると、他の悲しみは自分の悲しみ、苦しみという、自他に差別しない心、慈悲心という仏心がでてくる。 心を働かさせるのは悪いのではなく、自己中心的な我執の欲が悪い。 仏法は道理です。 さほど難しいものではないでしょうね。

    合掌

  • >>No. 17119


    >機械を蔑んでいるように見えますね。煩悩のない機械って立派だとは思いませんか?
    いまのところはまだ立派といえるほど機械は進化していませんが、そのうち立派な機械が誕生するのは確実ですw

    機械を蔑んでいるのではありません。 今やAIロボットの活躍亡くして私たちの生活は成り立たない。

    AIロボットと人の違いは何だと思っていますか?

    私はのAIロボットように、計算をやらしても、危険な場所の作業にしても、人はAIロボットのように、働く事ができない、弱いところがあります。 この弱い心が、誰に対しても、慈悲の心を産むと思っています。

    合掌

  • >>No. 17115


    >>無心とは心がないんです
    >ととりさんが禅師の言葉を紹介しても、凡夫の私には理解できない。 無心だ、心が無いのだと言われても、人には喜怒哀楽の感情は有ります。どのような事があっても、喜怒哀楽を感じないのなら、それは人ではなく、機械ですね。無心とは我執にこだわらないで、周囲に対して共感できる心のような気がする。 注意をしないと、坊主に騙されているかも?

    今はヤフーにはおられませんが、一年ほど前までおられた禅師の愚さんとは色々お話をさせていただいたことがありました。ここでいる「心」とは「自分の心=自我」ではないでしょうか? つまり喜怒哀楽を自我というフィルター無しに、自分=宇宙の唯一無二の「わたし」として感じる、ということだと思います。そうすると愚さんの経験ではもっと強烈に喜怒哀楽を感じられる・・・とかおっしゃっていたと思いました。いかがでしょうか。

    禅を語る人々のなかには、話がごちゃごちゃしてわかりにくかったりしますね。

    ***
    結論をいうと何を言いたいのか、さっぱりわかりませんね。 喜怒哀楽という心は、人に具わって精神的な感情です。  それを観ることなしというのは、自身の心を全く無視して、宇宙を取り出して格好つけているようにしか思えません。 喜怒哀楽の感情は、もちろん自我です。 この感情の怒りや恨みの心を、慈悲や感謝の心に変えて、私たちの生活の場で実践するのが、煩悩即菩提の仏道修行だと思う。  仏教はさほど難しい事を言われているわけではない。 自己中心的な怒りや恨み、妬みの我を法に照らして、捨てなさいと言っているだけだと思っています。  無心だ、心が無いのだと言われても、だれもその通りだと思う人は一人もいないでしょうね。 愚氏も自身に具わっている感情という心からは離れられなかったと思いますね。 機械ではなく、人ですから当然だと私は思っています。

    合掌

  • >>No. 17114

    >san,とりでウィスキーみたいだな(^_^)

    並べたら、彼女が気の毒ですが、お笑いならば坐部陳一枚♪

    大昔はジョニ黒という英国のスコッチウィスキーが主流を占めていたが、国産のオールドという俗にダルマ(禅)がはやったが、その上のリザーブが世界に対しても引けを取らない名酒だと自分の中では、思っています。
    冗談はともかく、【無心】という事が、禅宗の中では、捻じ曲げられているようです。

    【無心にお金をせびる息子】 を考えれば、理解できるはずですが、僧侶という袈裟をつけた人に、間違いではないのですか? と指摘する心なくしては、仏様の教えからずれてしまう。 人ならば喜怒哀楽の心を持たない人はいない、霧人さん、そして皆さんは、どのように、【無心】をとらえますか?

    合掌

  • >>No. 17092


    必要としている方々が集うのが、坐禅スレッド です。

    >無心とは心がないんです
    ととりさんが禅師の言葉を紹介しても、凡夫の私には理解できない。 無心だ、心が無いのだと言われても、人には喜怒哀楽の感情は有ります。どのような事があっても、喜怒哀楽を感じないのなら、それは人ではなく、機械ですね。無心とは我執にこだわらないで、周囲に対して共感できる心のような気がする。 注意をしないと、坊主に騙されているかも?

    *************

    仏法の道理の教えから外れている可能性が高いことを指摘したが、それが禅宗の教えだから、口を出すなという事ですか?

    合掌

  • >>No. 17089

    >無心とは心がないんです
    ととりさんが禅師の言葉を紹介しても、凡夫の私には理解できない。 無心だ、心が無いのだと言われても、人には喜怒哀楽の感情は有ります。どのような事があっても、喜怒哀楽を感じないのなら、それは人ではなく、機械ですね。無心とは我執にこだわらないで、周囲に対して共感できる心のような気がする。 注意をしないと、坊主に騙されているかも?

    南無妙法蓮華経

  • 2018/04/22 04:51

    >>No. 17082

    おはようございます

    >【地球社会】【命を繋ぐ】 違う精神世界に生きる方の言葉で、新鮮味を感じます。

    命を繋ぐ、を考えてみましたが、
    柿の種を埋めて渋柿の木を育てることは出来ますが、確か、甘柿が成る木は接ぎ木しない限り生まれてこない、何かを象徴していると思います。<


    甘柿は人が食べやすくする為に改良を加えられてきた品種なのでしょう。 渋柿も柿としては、同じだが、
    性質が人(神)の力によって、多少性質が変化してきた。 私は干し柿が大好きです。 干すことによって、お日様や風の力によって、渋が変化する。 甘柿からでは、干し柿は美味しくない。 どちらも私にとっては、必要です。 焼酎に漬けたり、人はどこまだでも、試行錯誤の追及してゆく、まさに神の子であって、妙法です。

    合掌

  • 2018/04/21 21:41

    >>No. 17019

    こんばんは

    >お釈迦さまの教えはこの世界が地獄であって六道は現世にあるということなのではないかという気もしたんです。
    修羅道はある程度社会的に成功した人々が金や名誉を求める競争社会なんでしょうが【孫、ひ孫に囲まれ天寿を全うする人生】はどこに位置するのが、修羅道の上の人道なのか、修羅道の下の畜生道なのか。

    お釈迦様の教えは」私たちの社会は空だけれど大事な事はこの娑婆世界で悪業の清算をし清浄心のまま、旅立つことだと理解しています。 いくら社会的に名誉や資産を貯めても、あの世では全く役に立ちません。 この世でお金や地位に縛り付けられた人は、あの世では金も名誉も通用しませんから、苦しむ事になります。  誰もがお互いに心配する家族や友人に囲まれたまま、あの世に旅立つことができる人が最大の果報者だと思いますね。

    >僕はおそらくキリスト教の墓に入りますが、違う宗教の方でも、真摯な信仰や他者の幸福を祈る姿勢を見れば、心打たれるものがあります。
    理屈並べて他者の信仰やその根拠となる仏典を貶める姿勢や心の在りようはもはやキリスト教徒とは呼べず何の信者でもないと思っています。<

    大事な事は、私達が生かされている、大自然や、動植物、たとえ大昔の方でも、先輩たちの技術が在るからこそ、今の幸せがある。 そして地球社会の幸せの為に命を繋ぐことができる。 キリスト者でなくても、自称仏教の方が人の事ばかり見ていて、自身の足元を観ない人が多いです。 誰もが大事な役目を担っています。

    命に合掌

本文はここまでです このページの先頭へ