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投稿コメント一覧 (508コメント)

  • 今、カントトピを覗いてきたが、結局カントの証明はこういうことだろうか?「恒久的なもの」というのは、時空が主観的なものだというカントの文脈から、主観外のもの=実在、くらいに考えていいだろう。私の存在は私の直観のなかにはない。確かに、直観内の説明てある程度は説明は可能かもしれない。こう直観するのはこの直観によって、といった具合に。しかし全てを直観だけで説明し尽くすことはできないだろう。最後の直観だけは漏れてしまう。やはりなんらかの外部が必要となるだろうというわけだ。つまり、観念論のやるような外部に頼らない表象だけでの説明は不可能だということである。したがって、私の意識の存在を認めるのならば、同時に私の外部の実在をも認めねばなりませんよと、そういう論理か。なんか詭弁ぽくもあるが(笑)。

  • >>No. 4472

    そもそもニーチェ、キルケゴールら実存思想の創始者たちも、知的な態度であったように思う。その強引な個の包摂、でっちあげの真理によるそれに異を唱えたのである。それが特にキルケゴールの場合、宗教的実践に直結するところがあったために実践的な思想といった面が印象されがちでああるが。さらにまた、やはりね、そういう主体的真理といったものは学問に限らず当然にいろんな摩擦を生じるね。そもそも学問でも世間ても集団的、集団包摂的なわけで、左右関係なく政治的にも叩かれるね。ニーチェは学界から干され、キルケゴールは教会や世間を敵に回した。どの方向からも叩かれる、ハイデガーはしたたかに学界での地位もてにしたけど。とにかく叩かれるし、バカ文系脳からも嫌われるよね。あいつらは庶民の預かり知らないところで勝手に用語作って社会や時代を規定するのか好きだから、規定から外れることは許せない。商売もあがだたりで面目も丸つばれ(笑)。

  • >>No. 4471

    実存主義的な方向、実践的な方向は、時間的存在論というより大きな枠組みの中では必ずしも重要なものではないのである。この実存主義的な方向性はむしろ空間的存在論を引きずっているために生じた感さえする。

  • >>No. 4470

    実存は学的対象としては困難が伴うのだろう。ヤスパースの実存哲学あたりが冷静に学的対象として実存を考察した感があるが、いかんせんやはり空間的存在論的な枠組み内では限界があるのだろう。パンチのきかない優等生的な仕事に感じる。ハイデガーは少し政治的火遊びにてを出してしまったものの、その枠組みから模索するという、非常に真摯な純学問的な動機かあったのだ、

  • >>No. 4469

    実存思想はついそういった実践的な指針として利用されるきらいがあったわけだ。時代もそうだった。なんらかの礎としての思想的な指針がないと、容赦なく国民は分断され、赤色革命の餌食になるか資本主義の餌食になるかの時代だったのだ。神な時代の大衆も指針を求めていたのだ。だから学問的な動機か出発点であったはずのハイデガーなとも熱狂の渦に身を任せてしまう。

  • とはいえ、実存主義的な方向、主体性とか決断とかはここでの私の主たる関心ごとではない。これはハイデガーがお膳立てしたところもあるかもしれないが、調子にのったサルトルが勝手にこけたようなものだ。構造主義に破れた実存主義の命運はつきたなどと、自分の脳みそで考えることのできないバカの戯言くらいに考えておけばよい。決断的な面を強調しそこを尖鋭化させた実存思想の一部かちょっとやられた程度の話たろう。ハイデガーも政治的にはちょっとやらかしたわけだが。といっても、実存主義は
    何かの必勝法ではないんだから、その決断は当然に成功も失敗もある。それを実存主義のせいにされてもね。

  • キルケゴールは信仰との関係から時間的存在論的な領域に踏み込んだわけであるが、これは偶然だろうか?もちろんそうではないだろう。やはり信仰、宗教的な領域は時間的存在論とも重なるところがあるのだろう。単独者とコギト、神と世界、これらは明らかに対応関係にある。信仰的な単独者は時間的コギトに通じるところがあるにちがいない。実際、まったく時間的存在論と無関係でいられることの方が困難かもしれない。しかながら、大抵は、まさにデカルトのコギトもそうであるように、本質をとり逃した形でせっかくの洞察を生かせなくするか、あるいは、怪しげな領域を察知しながらも意図的に無視したり、目を瞑ったりもするのである。それは、結局、従来の空間的存在論的な枠組、地平においては、正しく扱うことができないということであろう。現象学における志向性などもフッサール流のコギトであり、今瞬間だと言えようが、空間存在論的な枠組から出るものではない。

  • >>No. 4466

    こうしてみると、すっきりしてくる。キルケゴール、そしてニーチェも、私の言葉で言えば、今瞬間デタラメ主義者、時間的存在論者なのである。ハイデガーもよりそうである。自覚的にそうである。彼は自然の根拠も否定している。「存在と時間」では、ディルタイとヨルク伯とのやり取りに触れながら、歴史をもっと時間的存在論的にとらえる必要性を説いている、と読めなくもない。

  • >>No. 4465

    キルケゴールは、歴史の全体運動に包摂されない単独者の瞬間瞬間の主体性を主張したのである。没歴史の反復を唱えたのである。これは自然のデタラメ性とまったく重なるものである。もっとも、デタラメ性のなかの必然性ないし見かけの必然性はありうるから、一方的にヘーゲルが間違いでキルケゴールが正しいとできるわけではないが、ヘーゲルへのアンチテーゼのひとつにはなりえるわけである。

  • >>No. 4464

    人間はどうであろうか?キルケゴールは、独自の宗教的心理学的な洞察からヘーゲルの絶対者による暴力的な包摂を拒んだ。といってもおそらくさほど特殊なものではなく、むしろ私のような素人が直感する信仰の態度にちかいだろう。それは、ますもって神と個人との1対1の関係があるということだろう。そこに教会でも大哲学者でも学説でも参考程度にしか介在する余地はないのである。しかし、こんな当たり前のことか誰もできていないのか世の中というものである。そして、もうひとつ肝心なことは、信仰は瞬間瞬間に試されるということであろう。信仰歴が何十年あろうと、
    その先の信仰のなんの保証にもならないのである。このこともまた世間では忘れられているのが常である。

  • >>No. 4463

    自然は未来へも無計算であるという意味ではデタラメだが、過去の方向においてもデタラメである。それは無記憶という意味においてである。時速10キロの日運動体が50キロから10キロになっていようが100キロからそうなっていようが関係ない。自然には未来への計算もなければ過去の記憶もないのであり、瞬間瞬間の勝手な動きしかないのである。

  • >>No. 4462

    無は文字通り何もないのだから、そこから有が生じるはずがない、まさにその通りであろう。しかしまた、有というのは無の反対であるとすれば、どんな有であろうと無を想像できる、言い換えれば無も常に可能だともいえるだろう。ということは、
    有が突然無に変わったとしても不可能ではないということでもある。

  • >>No. 4461

    むしろ時間があるからこそ変化も可能である、これも一理ある考え方だ。さらに一歩進めて、変化があるから時間が存在すると感知できるのだ、といった考え方も可能かもしれない。また、その線上で、無変化も変化の一種と考えることもできるかもしれない。

  • >>No. 4460

    パルメニデスのように、無から有は生じないし、逆もないと考えることは素朴だが真っ当さのある考え方であろう。しかしここに問題があるとすれば、それは、時間を付随物のようにとらえられている点ではないだろうか。時間があっても変化しない、というよに考えるか、むしろ逆に、時間があるからこそ変化する、と考えるのはどうだろうか。

  • >>No. 4459

    人間はデタラメな自然の方が落ち着くのかもしれない。合理の上に乗っかった自然である。合理といっても極めてシンプルな原理である。人間が目にするもの、経験するものは大抵はそうではないだろうか。将棋もそうだろう。ルール自体はシンプルである。必然の中の偶然、この中で人間は生きている。

  • 世界はデタラメで、しかも計算もやらない。けと、真理に則った生成と運動をする。やはり、唯物論的な実在は無理があると思う。自然は自然ではなく、不自然である。

  • 自然のというものが理性的という見方の方が現代的なのかもしれない。少なくともデタラメ的な自然観もひとつの勢力か立場であろう。というより、
    理性的かデタラメかはコインの裏表のように、コロコロ、見方ひとつで変わるものというべきか。偶然と必然の絡まりあいである。

  • >>No. 4456

    自然の理解を直観的なものと考えることはまっとうさも含んでいるのだな。しかしながら、根底のルールにまで掘り下げると、デタラメ性が顔を出し始める。将棋で言えばルールの偶然性だ。こういったカオスがイギリス人は好きなのかな。ロバート・フリップもカオスが好きそうだし(笑)。でも同時に凄い神経質でもある。しかし、神秘思想にもはまっている。要は変態なのだろう(笑)。

  • 自然の直観的な理解というものもバカにはできない。例えば、鉄アレイなるものをはじめて見て学習する。その時に当然に、硬さや重さも学ぶわけで、それは結局因果律も含んで学習するということを意味する。鉄アレイを知って、それとは別に、投げて物が壊れたりする経験をして因果律を学ぶ必要はないのだ。鉄アレイの意味に最初から含まれている。その意味では因果律は直観的に把握されているとしてもいいだろう。将棋だと、それぞれの駒の動き方こそが駒を知るということだろう。それと同じで、当たり前すぎて明示されないことも多いかもしれないが、それをスコラ系の馬鹿がいかにもやりそうたが、概念にはどこにも含まれていないのに因果的な判断をしている、などと誤解してはならないだろう。

  • >>No. 4453

    自然というものはまさに自然であり、放っておいて自然にそうなるのだ、みたいな意味が込められている。山も川も偶然の産物であり、偶然の必然ということはわかっている。自然が山や川をそこに作ろうとしたわけでもそこに作る法則があったわけでもないことも知っている。質料的なものがそこらに溢れていて、ものが落ちるのも自然の道理だという具合に、至極自然で当たり前のことにすぎないのだ。直観的に理解しているつもりになるのは当然ともいえる。

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