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投稿コメント一覧 (2964コメント)

  • >>No. 1906

    >引用開始
    『「わたしは、自分の行動原理が普遍的な法則となることを意欲しうるか」と。それを意欲しえない場合には、その行動原理は捨てるべきである。その行動原理のためにわたしに、あるいは他人に不利益が生じるかもしれないからでなく、その行動原理は原理として、普遍的な法則を定めるために通用しないからである。理性は、普遍的な法則を定めることをそのままで尊敬することをわたしに求める。』<

    その引用では論点とずれてしまいます。
    普遍的な法則じたいではなくて、その際の意欲を説明しているようです。私が問題にしたのは普遍的法則の内容なのであって、法則適用の際の善意志について問題にしていませんし、善意志の必要は功利主義者だって当然に説いているのだから、無視してよい論点に思われます。

  • >>No. 1903

    >そしたら、
    『心の傾きそのものは、欲望を作り出す源泉であるが、その心の傾きは、そのものとして望まれるような絶対的な価値をもたない。だからこの心の傾きがまったく存在しなくなることが、すべての理性的な存在者の普遍的な願いであるべきなのである。』
    『道徳形而上学の基礎づけ』光文社古典新訳文庫、中山元訳、p133(第2章)
    ってありましたよ👀<


    それは以前に中村元の説明を引用したように、自由についての理解に関わる。
    カントの自由は自律を主柱とするが、それは意志が欲望の支配から遮断され、理性の支配下に統制されることを意味している。この点において仏陀の解脱が、欲望の拘束からの解放によって自己統制を達成する思考と酷似していると言える。理性によって厳格に自己統制されることが自由だと理解されている。

    それと連動する主体についての考え方も重要だ。
    あなたは先日、カントが不死不変の主体について言及していたと言った。
    一方、仏陀時代の通念として信じられていたのは、一切は無常であるなか唯一にして不死不変であるのはアートマンであるという自我である。私たちが通常観察している物理的環境から遮断された不死不変の主体が素描されるわけだが、まさに環境から遮断された主体によって、主体のもつ意志が経験に先立つだけでなく独立しており、自由のための領域を確保することを可能にしています。一般にこのような主体についての考え方を「非還元説」といいます。対立する見解が「還元説」。倫理学や政治哲学で長らく論争されてきました。

  • >>No. 1902

    >というわけで、私としては、micaelさんと理解の内容は同じつもりなのですが、納得してもらえないんだったら、私の言葉を変えますよ。
    「無知のベールは、自分を何者でもない立場にして考える思考実験なんですね。」
    これでよろしいでしょうか。<

    それでいいです。
    この点にこだわるのには理由があって、その思考実験が成功しているか否かに関わるからです。

  • >>No. 1897

    >『私のためにあなたが死ね。』を道徳とみなさないのがカントの道徳論であり、
    『私のためにあなたが死ね。』を時として容認するのが、功利主義なのかな、と、今の所、思いました。
    ①②③が揃わない行為を、道徳に違反していると自覚しつつ行為するか、
    ①②③が揃わない行為を不完全なものとは思わないで行為するかの差ではないかと。<

    もちろん行為の道徳性についての見解の違いは依然としてある。
    とはいえ、にもかかわらず道徳法則の定式化において区別できないものであるなら、功利の原理の基礎の上に成り立つ修正案とも言えてしまう。

  • >>No. 1895

    >サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』借りてきました。まだ再通読してないけど、該当箇所を見ると、無知のベールは「どんな立場の人にも自分を重ねてみる思考方法」を読者に試行さすために使われた概念設定だと、私はあらためて思いました。
    ロールズが、(あなたに無知のベールがかかっている時【=自分が何者かわからない時】、あなたはどのような社会原則を初期設定する?)と尋ねるんですよね。
    その問いかけに関連するサンデル先生の文章を引用します。<


    その言葉通りに理解してください。
    「自分が何者か分からない」のです。「どんな立場の人にも自分を重ねる」のではなくて、いかなる立場にもならないのです。

    >これ、カントの「整合性の思考方法」にあった、【いつでも自分自身と一致するように考える】とまったく同じ方法でしょう?<

    一緒だから問題になる。というか批判された。
    ロールズはカントを修正しようとしたが乗り越えていないと。

  • >>No. 1888

    その引用だけではコメントしようがない。

    「本書で否定的に示した幸福の概念がふたたび提起されるのでる」
    のであれば、その幸福の概念が、経験を基礎として構成されることを許容するものであるか否かが論点になりそうだ。もしそうなら、道徳形而上学の基礎づけとは明らかに異なるし、ひるがえっては、普遍的格率の構想自体が動揺する可能性も射程に入るかもしれない。最高善を構成する経験的要素が確定できるなら、形而上学がなぜ要請されるのか理解不能になる。

  • >>No. 1885

    >でも、お釈迦様は、神のごとき智者で、
    『とはいえ、もしも幸福になるための手段が確実に提示されることを前提できるのであれば、この抜け目のなさの命法は分析的な実践命題になることだろう。』(同p104.105)
    で、いちお〜、可能性は残した記述はされてるんじゃないですかね。<

    そう考えるのはあなたと、信者たちだけです。テルゼさんと私が繰り返し指摘したように、釈尊は人間であって考え方にも欠点がある。釈尊の幸福論は、当時のインド人たちが信じていた輪廻を前提している。未来永劫繰り返される苦からの脱却が安心立命の幸福として最重要となるのはそのためだ。神でも何でもない。幸福度調査は内閣府をはじめ世界各国で行われているが、釈尊の幸福を幸福と考える人間は明らかに少ないと言えそうだ。人々の見解は異なっておりカントが言うように解決できそうにない。

  • >>No. 1884

    >①私によい?
    ②相手によい?
    ③私と相手以外のみんなによい?
    3つ揃うのが「普遍的によい」為すべき行為である、というのが私の格率でしょう?
    でも、③つ揃わなかったら、最善を考えます。(あるいは、他を犠牲にして自己の傾向性を優先してしまいます)
    micaelさんだって、私と同じ経緯たどってないですか?
    ③つ揃ってたら、揃ってるもの選ぶのでしょう?
    それが、完成形(理念)ということでしょう?<


    だからですね、それの何が最大多数を理想とする功利主義と異なるのです?
    最大多数とは、当然に、誰一人欠けぬ全員一致を理想とします。全員が無理ならできるだけ多くの人々の一致を目指します。現実には全員一致など困難でも、全員一致すなわち最大多数を常に目指す理想と何が異なるのです?

  • >>No. 1879

    >これだと、ロールズ先生の無知のベール(でしたっけ?)にも通じていけるんじゃないかとも思ってるんですよね。
    過去にいろんな人間として生きてきたし、これから生きていくかもしれない。
    と、どんな立場の人にも自分を重ねて考えることができるのではないかと。
    実は、そんなこと、考えていたんですよね。<

    おそらく上記の考え方が誤解を生んでいます。

    「どんな立場の人にも自分を重ねる」ということはつまり、常に誰か、特定の経験や利害関心を持つ主体になってみることを意味しています。カントの超越論的自我やロールズの無知のベールの背後にある自我はそうではありません。特定の誰でもないし、特定の経験や利害関心を持たない自我です。

    「誰かの立場に立って考える」のではありません。
    立場を剥奪されそれゆえ超越する自我になってみるのが彼らの考え方です。だから一種の神です。立場の互換性とは似て非なるものです。いろんな立場を総合して最善の総和を導くのは功利主義です。

  • >>No. 1879

    >カントは道徳を実践するために理性は神の存在と魂の不死を要請する、と言ったそうですね。
    でも、そもそも、その存在の是非を断じること(知ること)は理性にはできないので、信仰という形になる、と。そして、多分だけど、その要請は土地土地で違ってる形として現れてる、と見てるみたいです。
    つまり、乱暴に言ってしまえば、道徳の実践のために宗教的な概念を理性はつくる、と言ってもいいのかと、<

    カント哲学の神学的要素を宗教的な概念と言い換えることに飛躍はない。しかし、「その土地土地で違っている形」でよく、具体的には

    >もし、あかんくない、なら、、、動物も含めた一切の生命のために道徳実践するために、輪廻の概念持ってきてもよくないですか?<

    上記のように、特定の宗教的信念を妥当させてよいなら、そもそもカントの構想が何故必要なのです?
    日本には神道があり、インドにはヒンドゥーがあり、中東にはイスラーム、西洋にはキリスト教があり、土地土地で強烈な差別の源泉となった。各人が勝手に己が土地土地の信念を妥当させて良いなら、なぜそれを乗り越える普遍妥当的理論の構想が必要なのです?

    >まず、現実的に、人間に理性的存在の尊厳を認めます。
    罰則は行為に対して課せばいい。
    幼児でもなんでも、殺人犯せば、犯行に対する罰を受けるようにすればいい。
    中絶は禁止にして、育てられないなら、きちんと堂々と、国が子供たちの幸せを願って育て上げる施設を作り、親権は国が持つようにすればいい。
    いろんな事情があるのだから、育てられない親も非難されなくていい。<

    不当に理性ある存在だけに単純化するからそんな極端な議論になる。おそらく誰も支持しない。トゥーリーが主張した嬰児殺しの極端を避けるために、反対側の極端に堕ちこむだけだ。

  • >>No. 1878

    >釈尊のように経験から理想を導くことをカントは不適切というだろう、の意味がはっきりわかりません。<

    カントが詳しく述べているのだから、読めばいいんじゃないかな。経験的幸福の原理をカントが拒否しているのだから、当然に仏教は駄目だろうという話です。

    >経験から解脱(貪瞋痴の滅)を理想にしても、その理想が現実的妥協でなく理性要求にも完全に一致するなら、カントが不適切と言うとは限らないと私は思っています。
    理性に適ってるんだから。<

    理性に適っているとは何のことです?カントの理念を支える純粋理性からは仏教の解脱は出てこないだろう。
    経験から独立した理性を用いる限り、偶発的経験を背景に与えられる特定の善の構想を理性は支持しない。あなたには説明不要でしょうが、仏教の解脱とは苦からの解脱であり、その「苦」とは古代インド人が抱いた極めて特殊な苦です。ブッダの言う幸福が最善で支配的であり得るのは、特殊な苦について同意されている時だけです。当時の偶発的環境が経験的に与える苦観に根差した幸福の理想をカントは拒否するでしょう。普遍ではないからです。理性は、特定のいかなる善からも独立した原理を導くことで普遍性を確保する形而上に位置づけられる。それの何が解脱と適っているのです?

  • >>No. 1877

    >原発は廃棄物処理の問題をとっても、全員に良いとは私は思えないので、地球上の原子力発電自体に私は反対します。事故時の被害リスクも物理的にも経済的にも大きすぎると思います。
    原子力発電を遂行することが道徳的なこととは私は思いません。<

    ほら、まったく成り立たないでしょう?

    あなたは「みんなによい」と私見を示したが、原発に賛成する人もまた「みんなによい」と考えています。「みんなによい」という見解の内容が対立しているのだから、「みんなによい」と原則を示しても対立する見解を同時にもたらすだけです。原発に賛成する人の希望を拒否しているのだから、多くの人にとってよくないことをあなたは主張しているのであって、やはり理屈倒れです。何の役にも立ちません。

    >ちなみにmicaelさんは原子力発電のことをどう思うのか、よかったら聞かせてください。<

    私の考えでは、核の再武装が視野にない限り原発に固執する必要は無いと考える。経済的合理性は疑わしいし、エネルギー安全保障上においても、再生エネルギーの確保によって核に代替えするべきだ。破局的悲惨のリスクを背負い、次代の世代にリスクとゴミ問題を背負わせる決定を、共時的集団だけでする自由を我々は持っていない。とはいえ、対立する見解にも道理があり、民主的決定に委ねるしかない。

  • >>No. 1870

    >普遍的法則として役に立つんだったら、そちらの方が生命にとってよいでしょう。<

    そうです。理性的存在者にしか妥当しない理論など融通か聞かず役に立たない。

    >私はグレーゾーンを切り捨てるのではなく、グレーゾーンを理性的存在に含める意でコメントしました。<

    すると今度は逆に、サル・カラス・ブタ・イヌ・クジラ・胎児・卵子・脳死や重度の痴呆といった存在をも、理性的存在者と同様に扱わねばならなくなる。また、心神喪失の人間や子供の犯罪を同様に裁かねばならなくなる。あなたは、カラスの私的所有権を保護し、機会の均等を保障し、教育に予算をつぎ込むのですか?子供の過ちに対して極刑を言い渡すのですか?妊娠中絶をした女性を殺人で起訴するのですか?

  • >>No. 1868

    >➡︎私は、カントはその行為自体を反対してるわけではなく、意志により道徳性を問うていると思っています。
    その理想が現実的なものであっても(例えば飢えている子に食料を届けたいという理想)、その理想の動機(行為の一番始めの原因)が義務(理性の要求)であるなら、その行為を道徳と言うのだと言っているのだと今の段階の私は思っています。<

    そんなことを論点にしていません。ある行為に道徳的価値があるのは義務に基づく場合だけである。というのはその通りです。行為自体を拒否していないし、行為の理由を問題にしています。しかし質問したのは、理念と現実に何の関係があるのか?ということです。釈尊のように経験から理想を導くことをカントは不適切だと言うだろう。それで釈尊と対比しているのです。

  • >>No. 1867

    >で、micaelさんの問いに対する答えとしては、micaelさんの疑問の文脈での「みんなに良い」の「みんな」は、「文字通り1人も欠けてはならない」を意味してpipitは使います。<

    その考え方は普通に維持できないんじゃないかな。理屈倒れで役に立たない。
    原発反対と賛成のどちらが正しいのです?判断を示せますか?

  • >>No. 1863

    >➡︎まず、最初に、、、仏教由来として提示しましたが、、、きちんと元ネタの経文を調べなおすと、私的信条は不正確な表現になってましたm(_ _)m

    大雑把に言えば、経典では、自己の行為が
    ①自己の悩害に作用するか?
    ②他者の悩害に作用するか?
    ③自己他者両方の悩害に作用するか?
    をチェックして、どれかに作用するなら為すべきではない。
    という内容でした。<

    なるほど。
    それだと功利はおろか幸福の原理ですらなさそうだ。不害の教えですね。

    >➡︎サンデル先生、ミルの批判よりカントを擁護してた覚えがあるのですけど、私の勘違いでしょうか?
    そう問うのは、チェック(試験)のためであり、それ自体が【目的(〜のために)】とはなってるわけではないのだ、ミルは勘違いしてたのだ、とユーチューブでサンデル先生が講義してる姿を見た記憶があるのですけど、『これから正義の話をしよう』にないですか?
    学生の質問に答えるところだと思います。<

    私は本もdvdも持っていますし、サンデルが来日したときの講義も二つ録画しています。もちろんミルの勘違いを指摘していたことも知っています。中山氏だったかな、その説明もなかなかに慎重だ。しかし私にはミルやシンガーの指摘をカントがかわしきれているとは思えないんですね。実際に、東京大学の加藤尚武氏のように、カントを修正功利主義者だと考える学者もいます。以前倫理学トピに出入りしていた人も言っていて私と同意見なのですが、サンデルは功利主義を軽視しているように感じる。サンデルは一応は共同体主義の陣営です。それを念頭にして講義は聞いた方がいいです。

    >功利主義は、功利の合計点の計算でしょう?
    カントは、3点揃わなくてはいけない、それが普遍だ、と言っていると思います。<

    さしあたってはあなたの主張と功利主義が区別できるのか?と指摘しました。つまり「みんなによい」が「すべてのひと」を意味するなら、「すべてのひと」とは誰か?文字通り一人も欠けてはならないのか?それとも「できるだけ多くの人」を意味するのか、最大多数にとってよいと答えると、見分けがつかないかもしれない。ということです。

  • >>No. 1858

    >micaelさんは、カントは理性的存在のグレーゾーンについて何も言及してないから、カントの哲学は実際の立法には何の役にも立たない、と、おっしゃるのかな?<

    グレーゾーンから動物にまたがる領域において役に立たないでしょうね。ノージックは「人間にはカント主義、動物には功利主義」というハイブリッドを吟味しているが、それで解決できそうにもない。功利主義やプラグマティズムが理性的存在から動物までを道徳法則の内側に取り込んで包括的に扱えるなら、普遍的法則としてより優れているし、役に立つと主張されたらどう反論するのです?

    >だったら、カントは普遍にこだわった人なのだから、理性的存在のグレーゾーンは無い、として考えて立法したらいいんじゃないかな、と、思いました。<

    実際には生物は多様であるし、理性的存在についても、不当に単純化することは適用の不適切を招き寄せるだけに終わるだろう。実際にマイケル・トゥリーという人物は、グレーゾーンを設けず胎児や幼児を殺してよいと主張した。

  • >>No. 1857

    >光文社古典新訳文庫『純粋理性批判4』の「純粋理性の概念について」から引用します。(p375.376)
    『道徳性、立法、宗教の原理については、経験において理念が完全に表現されることはできないとしても、理念こそが経験そのもの(善の経験そのもの)を可能にするのである。だからこの分野においても理念は独自の貢献をはたすのであり、これを経験的な規則だけにしたがって判断しようとするならば、理念のこの貢献を認識することはできなくなってしまう。(略)。わたしがなすべきことについての法を、何がなされるかに基づいて導こうとしたり、これによって制限しようとしたりするのは、まったく忌まわしいことなのである。』
    引用終了<

    その引用は論点が異なるんじゃないかな。理念の先行(経験に先立つ)と統制的地位をいまは争っていない。そのような理念が現実と何の関係があるのか?という質問です。次のような批判にどう答えるのかという話。

    【ロールズにとって、カントの構想は、難儀で、恣意的であるという欠点がある。というのも、抽象的で、具体性を剥奪された主体が、恣意的ではない手続によって、いかにして、規定的な正義の原理を生み出すのか、あるいは、そのような主体による立法が、如何なる場合でも、いかにして、現象界における現実の人間存在に適用されるのか、明らかではないからである。観念論的な形而上学では、そのすべての道徳的、政治的利点のために、超越的なものにあまりに多くのものが譲り渡されすぎており、また、本領的領域を設定することによって、現実の人間の状況を正義に認めないという代償を払う以外には、正義の優位が勝ち取られることもない。】サンデル『リベラリズムと正義の限界』序章

    一切の経験を基礎としない主体が、どうやって具体性にまみれた現実の人間の行動目標を、適切にも導き出せるのか?仮に導いたとして、なぜ現実に適用可能なのか?

  • >>No. 1857

    >理念が現実に影響することはあるでしょう。
    生命を殺さない、という理念は実現が不可能でも、その理念があることで無用な殺生は控えるでしょう。
    道徳を実践するために、理性がつくりあげる概念が、理念だとすると、例え理念が実現不可能でも、それを完成形として目指す限り、現実の行為を左右するでしょう。<

    理想と現実を関連付けて人間が行動するのはその通りだが、まさにあなたは一般的にそうである、理想あるいは目標と現実との関連付けについて説明しているに過ぎないと思う。

    カントが反対している理想を目標する場合を考えてみればいい。
    釈尊が力説しているように、解脱は実際に可能であるし、先人の多くが通ってきた道を自分が発見したに過ぎないと主張しています。それは修行と実践を通じ経験的に確証され理解を深めていくものです。そうして私たちは、実際に釈尊という偉大な人間が存在したことを知っており、極めて困難であるが解脱できることを過去の人類の経験から学んでいます。古代インドの宗教的融和が平和の礎だったことを知っており、共和制が重要な役割を果たしたことも知っています。すべて現実に生じ可能なことです。そうした歴史の経験から多くのことを私たちは学び目標とし、現実を変革してきました。

    この目標と現実との関係は不適切だろうか?いや私たちはまったく自然に日常の多くをこうして営んでいるはずです。しかしカントはそれでは駄目だと主張する。なぜ理性でしか到達できない理想が、現実と適切にも関係があると言えるのだろう?このように対比すればカントの理念が奇妙に見えてきませんか?

  • >>No. 1856

    その中山氏の説明が、より具体的にはあなたが示したように

    自分に良い?
    相手に良い?
    みんなに良い?

    ということについて考えることを意味しているなら、それが功利の原理と何が異なるかが問題になる。サンデルの議論を覚えているかと思うが、実際にミルはカントのその考え方を批判しています。もしあなたのいう「○○に良い」という道徳的推論が功利の計算と異ならないなら、あなたはミルの批判を認めてしまったことになりそうだ。

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