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投稿コメント一覧 (2932コメント)

  • >>No. 740

    あなたにとって、そうした宗教理解が重要なのかもしれないが、私にとってはそもそも宗教自体が重要ではない。理解や共感を私に求めても無駄なんじゃないかな。

  • >>No. 737

    >【真の宗教】を見定める目を持たないといけないと思うからです。<

    真の神秘体験であるとか、真の宗教であるとか、そのようなものをあらかじめ決めておくことはできそうにない。

  • >>No. 729

    >人権のうち自由権がなかったら困りませんか。社会権である生存権がなかったら、貧窮状態の時は困るでしょうね。つまり、人権というのはなかったら困る必要性から生み出されたものなのです。人権は国民共同体がその必要性を認識して造り出された権利として、ルールとして私たちの意識の中に実在するのです。抽象的ではなく具体的ルールとして存在しているのです。<

    いや、そんな思い込みは権利を倫理や政治の中心的命題に据えたい人間のものでしかない、と思う。
    政治学は長い間権利を用いずにやってきたし、実際に最近になって人権理論が復活するまで、権利はさほど重要ではなかった。

    【最近リチャード・タックが「ロバート・ノージックを例外として、最近殆ど一世紀の間、アングロサクソン世界の主要な理論家たちはその著作を権利の概念に基づかせてこなかった」と書いたほどである。】勁草書房、ジョナサン・ウルフ『ノージック』6p

    ちなみに、あなたはルソーとミルを天賦人権説と紹介していますが、一部正しいかもしれないが誤解していると推測できます。

  • >>No. 725

    なぜそこで、不可知論とか唯物論という話になるのかしら。

    あなたが気に入っている思弁的枠組みらしいが、カントはそんな理屈で権利を擁護していない。読んでから云々したほうがいいんじゃなかろうか。

  • >>No. 9976

    補足すると正統仏教が圧倒していても難しかったと推測できる。

    ゆえに、インド南方では龍樹の学派が大乗を起し、西北部では他の大乗が起こったのだとすると見通しがいい。

  • >>No. 9972

    >ちょっと待ってください。我々の前提では、法華経の<翻訳>は西北インドから、というものでしたが、法華経自体がギリシャの影響を受けているとなると、<インド圏>を西北インドまで入れてしまうのか、あるいはギリシャ圏をインド中央まで広げるのかという話になりそうです。<

    文化圏としては、クシャーナ朝はインド西部の西クシャトラバ領までに及んでいます。また、インド中央部を占めるサータヴァーハナ王国を含め、インド西部はインド・ローマ交易の全盛時代です。

    法華経の起源の文化的背景は、バラモン支配の希薄な地域でなくてはなりません。クシャーナ朝時代の宗教的様子は貨幣に現れていると思われます。

    【クシャーナ朝の宗教事情を知るための重要な手掛かりは、貨幣の裏面に登場する神々である。それを見ると、初代のクジューラ・カドフィセースは、インド・ギリシア人諸王の貨幣の伝統に従ってヘラクレスなどギリシア神を採用している。これに対し、インドに支配権を確立した第二のウィマ・カドフィセースは熱心なヒンドゥー教徒になったらしく、ほとんどすべての貨幣にシヴァ神を打ち出している。カニシュカ以降の王は、領内の諸民族によって信仰されていたギリシア・ローマ系、イラン系、インド系の神々を無原則に採用している。なかでもミトラ(太陽神)、マオ(月神)、ナナ(最高女神)などイラン系の割合が多く、インドの神としてはシヴァ神が圧倒的に多い。】中央公論社、山崎元一『古代インドの文明と社会』195p

  • >>No. 9966

    そのことに関連してですが、ギリシャ統治が持ち込んだものは偶像崇拝に限らず、ギリシャの大衆的文化全般たったとすると、無量寿経や法華経について或る理解の仕方ができるような気がするのです。

    中村元は「演劇的」と表現していたか・・・記憶が覚束ないのですが、確かにそのように見えてくるのです。

    すなわち、それらの経の記す諸々は、もともとはギリシャ人によってもたらされた観劇の大衆文化の浸透によって、諸々の信仰が寄せ集められて編集された「舞台脚本」のようなものではなかったかと。人々が、口授の経典や僧侶の説教のみによって宗教に接したとは考えられない。大衆は大衆で、理屈はそっちのけで宗教世界を楽しんだはずだと。

    山上の舞台が設定され、数多の神々、数多の高僧たちが集い説法が開始されるところから経典は始まる。いかにも大衆好みのフルキャストです。経典の説く理屈も摩訶不思議としか言いようのない代物であって、従来の僧侶による経典編成とは根本的に趣向が異なる。

    そのうち一般に受けた脚本の中から、次第に大衆的宗教を整理し理論化する僧侶が現れた。それが経典なんじゃなかろうか、という印象がぬぐえません。

  • >>No. 715

    >「絶対的権利」だとして、具体的にどうなるんですか?
    例えば、スマホの料金払った→一定期間スマホを利用する権利がある
    となりますね。
    絶対的権利だったとしてどうなるっていうんですか?<

    彼が言う「絶対的権利」というのは、人は生まれながらにして無条件で持っているとみなされる基本的権利のことを言いたいのでしょう。

    だから、契約に対する同意や、料金支払いの義務の履行と引き換えに保障されるような権利を含まないと思われます。

  • >>No. 673

    >しかし、そこでイス兄貴が【愚さんの悟り言説のオカルト性】に魅せられてしまい
    愚さん讃美を始めると、あなたは用心棒兄貴と一緒になって
    木刀を振るって【愚さん擁護を始めましたよね】^^
    ●【愚真理言説】と【愚さんの人格行動】は、まったく別物だと言ってね。<

    神秘体験について調べていると、そう言わざるを得ないと判断しました。
    当時も様々な例を挙げたはずだが、神秘体験と宗教的信念は関係ない。宗教を知らない少女も合一体験をしている。無神論者も体験する。総じて人格は関係ない。テンポラル氏が主張していたように、側頭葉癲癇が第一候補。過去に精神分裂病と呼ばれていた様々な症候群も見性体験の候補だろう。離人症の症状も覚醒体験者の告白に類似している。さらには臨死体験・臨終時体験がある。苦行や荒行は操作的に臨終時体験を再現しようとする技術だと思われる。したがって、当人の人格とは関わりなく体験は体験として偶発的に生じることを認めなければ説明できないことが多すぎる。

    >で、哲学に行って、そして愚さんのオカルトの虜になったと言うことですか?(笑
    あなたの意志かどうかは分かりませんけれどもね。^^<

    オカルトの虜になったことはない。ただ、宗教からオカルトを取り除いたら合理的理論に過ぎなくなる。あるいは科学との識別が難しくなる。何らかのオカルト性が残るものでなければ宗教とはもはや言えないだろう。

    >しかし、それにしてもミカたんの【神概念】は
    あまりにもお粗末過ぎますよ。^^<

    神を信じていない私にはどっちでもいいです。以前から指摘していますが、私は理論構成物としての宗教に関心を失っている。神概念をどれだけ深遠に定義しようとも、文化生成物としての宗教には関係ない。深遠な神概念は理屈脳を満足させるかもしれないが、圧倒的多数の大衆は、そのような理屈など知らないし知りたくもないだろう。実際に、私の実家には墓や仏壇があり般若心経を唱えたりするが、親は教説などほとんど知らない。私の生まれた山奥の小さな町には弘法大師が建立した立派な寺があり、多くの遍路者が訪れる。親から子に語り継がれる大師の伝説もある。しかし、真言宗の教義を展開できる町人など見たことはない。宗教は生活として存在している。

    「一切の理論は灰色で、緑なのは生活の黄金の木だ」(ゲーテ『ファウスト』)

  • >>No. 663

    >★じゃあ、ミカたんは何故【愚さんの覚醒】を褒め称えたの?^^
     あれは【仏】となったという【自称】をあなたが信じたからでしょうね。<

    褒め称えた記憶などないですよ。何か勘違いしているんじゃないかな。

    >哲学だけでは、あなたが目指す【良い生き方】には
    満足を憶えなかったから【悟った】という愚さんに近づいたのでしょう。<

    逆じゃないかな。
    私は先ず仏教トピに生息していて、仏教に全く満足できなかった。そうして後に倫理学に転向したのです。愚さんに近づいたこともないです。愚さんのトピには多くの議論参画者が居たのだから自然と足が向く。そうして愚さんとは敵対的論者として議論することも増えた。基本的には、私はヤマガタ氏のトピに常駐していた。

    >そこから「自己点検」が始まり、日常の細々した事まで
    反省と点検を強いるようになり常に【良心の目】に監視され
    道徳主義や完璧主義のもたらすノイローゼとなってしまったのですね。
    自殺未遂をして精神科に入院しているときに
    福音書に出会い、救われていくのです。<

    それはカント倫理学の厳格さを何か偏向して運用したが故の苦難じゃないかな。
    カントの倫理学は意志の厳格さと並走してリベラルな自由さがある。善き生を各自の判断に委ねている。一方で

    【実際には、リベラル派の選択と合意の倫理に従うよりも、目的と適性の倫理に従う方が、職場の道徳的基準は厳格になる。】サンデル『これからの「正義」の話をしよう』263p

    アリストテレスの倫理基準に従えば、個人が持っている目的と適正を評価することから逃れられない。自ら選択した法にのみ従うというリベラルな倫理が持つ開放感は失われてしまう。功利主義も考えようによっては厳格だ。動機が善良で適正に適っていても、結果が悪ければ正しくないからだ。ニーチェによれば、良心とは道徳の持つ制裁感情を自己自身に向けたものです。したがって良心は際限無く信者を責め立てる。罪深きものとしてね。その人物の信仰変転から特に着目すべきことは見出せません。

  • >>No. 650

    >じゃあ【覚醒した人間の善なる行為】は耀いていないとミカたんも思うのかな?<

    まだ人間ならいい。しかし、あなたが説明してきたような善しか選択し得ない存在はすでに人間ではないだろう。

    >あの神父の言葉は【体験】から出てきている言葉ですね。
    トマス・マートン神父も肉体を持った人間だから
    当然「選択」の過ちも犯したでしょうけれども
    あれは【体験的(覚醒)】に【領解】した事を言っているのだと思いますよ。
    神のみが、間違いを犯さないと。<

    いや、体験であるか否かは問題ではなくて、神あるいは人が善しか行為できないという現実はないし、キリスト教はその説明に成功していないだろう。受け入れるにはあまりに荒唐無稽な信念に過ぎないということです。神が善しか為し得ないなら、なぜこの世界には悪なる存在があるのか?一方でゾロアスターやマニ教の二元論はこの点において説得力がある。

    【(善悪)二元論が非常に魅力的な世界観なのは、人類の思想にとって根本的な関心事の一つである、有名な「悪の問題」に、それが短くて単純な答えを出せるからだ。「世界にはなぜ悪があるのか?なぜ苦しみがあるのか?なぜ善い人に悪いことが起こるのか?」一神教信者は、世界にこれほどの苦しみが起こるのを全知全能の、完璧に善い神が許す理由を説明するのに四苦八苦する。】ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史・下』23p

    >私が「神」と言うときには、
    エックハルトがわざわざ【神は無】と言った神です。
    人間の如何なる概念も許さない「神」です。<

    「神」が如何なる概念でもないなら、そこから善を引き出すことは不可能だとおもう。

  • >>No. 642

    >★【全き自由】
     では「自ずから」、何んの葛藤もなく選択した善は、耀かないのですか?<

    うん。そうなります。

    神父の言葉はあまりにも神学的な信念で、説明というよりは信念告白にすぎないように思われる。
    歴史を見れば明らかで、自らを一方的に善だと決めてかかるのは、道徳ではなくて宗教だ。

    したがって、ソドムとゴモラを滅ぼしたように、神は善なるがゆえに最も残忍であったし、カーリーや阿修羅も神であって悪ではない。葛藤なしに人々を殺戮するのは神しかいなかった。

  • >>No. 637

    >でも、カント先生の本当の主旨は、
    人間が欲望などの感情に流されて道徳的になれないことはごく自然なことであり、その自然でない人間の行為をわざわざ選択するからこそ、人間として行う道徳は崇高さを持つと考えられたのかな、と、思いました。<

    うん。そのようなことでしょう。

    【カントはこう言っている。「義務における命令の崇高さや内在的尊厳は、主観的な衝動が義務の命令を好まず、それに反抗すればするほど、それけいっそう明白になる」とね。これはつまり、もしある行為をしたいからするとすれば、その行為には意志の努力が含まれていないから、そこには道徳的価値がない、ということだ。】永井均『倫理とは何か』109p

    義務の命令に従うよう意志する時の背景状況として、人は常に主観的衝動や自己利益の欲求に引きずられているという前提理解がある。意志は、衝動に屈服して悪なる行為をする可能性に常に晒されており、義務の命令を好まない。そうした悪なる行為の選択可能性を背景にして、善なる行為が燦然と輝く。つまり、他行為可能性が前提されていなければならないというわけだ。

  • >>No. 631

    >★【疑団】を持ってしまった人間は、
     修行の苦より【答え】が得られない方が苦しいのです。<

    うん。
    それを説明してます。
    ニーチェが言うように、苦しみ自体が問題なのではなく、苦しみの無意義が問題だ。
    だとすると、苦行・荒行・厳しい修練の先に、苦しみのない涅槃や極楽転生があるのだとすると、苦には意義があることになる。

    私たちは、どうやら幸福を追求する欲求を生まれながらにして動機づけられ、また生存を願う。ところが、人の生は苦難に満ちており、絶望的な事には老いと死が避けられない。この峻厳たる事実。この根本的にして不条理な生をどのように合理的に理解する術があるのか。

    したがって宗教は現世苦を再解釈し合理的に編成しなおしたり、苦が不条理に到来するのではなくて、我々の内部に苦を生み出す原因があるのだと合理的に苦を扱おうとする。苦は支配可能であり、あるいは超越できると。

    【幸福と苦難の配分の、倫理的には説明のつかないような不公平が非合理的であるばかりでなく、その補償がいちおう考えられる場合でも、苦難の存在という事実そのものがすでにそれだけで、どこまでも非合理であるほかないからである。】みすず書房、ヴェーバー『宗教社会学論選』

  • >>No. 617

    なるほど。引用どうも。

    その引用をしていて戸田山氏の議論を想起しませんでしたか?

    いまや機械は「ゼンマイ仕掛けの自動機械」とは言い難くなっているし、逆に科学が明らかにしようとしているのは「人間は機械だ」ということになる。人工知能の問題は応用倫理の最前線になっていると思う。

  • >>No. 622

    >それは、誰でも【楽】がいいからでしょうね。
    そこにも【永遠の安らぎと至福】だけがあると言ってますね。
    だれも苦しみたくは無い、しかし煩悩があれば苦しみがありますから
    煩悩を持つ「自我」を消去出来れば後は【楽】が残るだけでしょう。<

    楽しかなくなると、「退屈」という最強の苦がまっています。
    だから苦をこそ欲求し始める。奴隷経済における知的有閑階級にだけ認知される苦です。もちろんこれは、諸々の生活苦を逃れて退屈する近現代の人々にも当てはまる。

    【パスカルより時代は下って19世紀。フリードリッヒ・ニーチェは『悦ばしき知識』の中でこんなことを言っている。いま、幾百万のヨーロッパ人は退屈で死にそうになっている。彼らを見ていると自分はこう考えざるを得ない。彼らは「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」をもっている、と。(略)何をしてよいのか分からないというこの苦しみ。それから逃れるためであれば、外から与えられる負荷や苦しみなどものの数ではない。自分が行動へと移るための理由を与えてもらうためならば、人は喜んで苦しむ。】國分巧一朗『暇と退屈の倫理学』46p

    仏教やヒンドゥーの聖者たちは苦を克服しようとして、なぜ他人から見れば苦そのものであるような禁欲的生活に入るのか。

    【人間は、この最も勇敢で、最も苦しみに慣れた動物は、苦しみそのものを拒否したりはしない。彼はそれを欲する。彼はそれを求めさえもする。もしその意義が、苦しみの目的が彼に示されるとすればだ。これまで人類のうえに蔓延していた呪詛は苦しみの無意義ということであって、苦しみそのものではなかった。そして禁欲主義的理想は人類に一つの意義を提供したのだ!(略)苦しみはそのなかで解釈を得た。(略)それは一層深い、一層内的な、一層有毒な、一層生命に食い入るような苦しみであった。】岩波文庫、ニーチェ『道徳の系譜』270p

    苦しみがないという苦しみ。それを克服するために、全人格と人生を捧げて対決しなければならないような苦を創造する。

  • >>No. 612

    その引用にある「末法」の理屈なんですが、何度聞いてもわけが分かりません。
    どうして釈尊の八正道が無効になるのか。

    ま、ここであまり親鸞を云々したくはないのでこの投稿に対する返信は不要です。

  • >>No. 609

    >例えば、エックハルトの覚醒の6段階目(究極の覚醒)ではこうですね。

    「第六段階では、人間は脱皮し、神の永遠性によって変身する。
     うつろいやすく時間に囚われない生をすっかり完全に忘れるに至る。
     神のすがたへを導かれ、変容する。
     その時、神の子となったのだ。
     これより高い段階はもうない。
     ここに永遠の安らぎと至福がある。 
     内面的人間、新しい人間の最終目的は永遠の生なのだ。」

    比類なき変容、深遠なる変身が起こり、
    人間の古いアダムから脱し、神によて新しい存在となって
    「神の似姿へと変容する」と言う事です。

    この段階に到達するまでに既に第三段階で、
    ●【誰からも怒りをかうことなく悪や不正がなすことが出来る状況にあっても
    そんな事はしたいともつゆ思わない】とありますね。<


    ほむ。
    私は愚さんと初めて議論したときから言ってきたが、どうしてそのように非人間化していくことを、私たちが歓迎しなければならないのか理解できません。

    そうしてその都度引用してきたように記憶するミルの考え方は、「悪なる心が問題なのではない。良心の弱いことが問題なのだ」というものです。神となりて、もはや悪なることを欲しないのは人間ではありません。悪なることを欲しはするが、良心の声と葛藤し、欲望をねじ伏せるから行為に道徳性があるのです。

    ここはカントのトピですので申し訳程度にカントを引合いにすれば、欲望は依然として存在するがそれに支配されず、自由な意思が道徳を義務として行為する時、行為に道徳性が生じます。

    >●【誰からも怒りをかうことなく悪や不正がなすことが出来る状況にあっても
    そんな事はしたいともつゆ思わない】<

    悪を欲しない存在は、たんにそのような存在だというだけであって、善でも悪でもありません。道徳を超越した神です。そうでなければ不正をしないロボットと異なりません。ロボットは人間に奉仕はするが、その行為に道徳性がないのは、悪なる欲求と格闘したうえでの良心に支えられていないからです。

    「もはや迷いもせず、苦しみもしないものは埋葬してもらうがいい」(ゲーテ)

  • >>No. 602

    あら、あれはピピットさんのことでしたか。早とちりでした。

    ともあれ

    宗教とはしかじかである
    親鸞とはしかじかである
    サンエとはしかじかである
    したがって許容できない。

    という論理展開はそれでいいとしても、それはあなたにとってのみ重要さを持つ主題だということを理解しなければ、他の人々との議論はうまくいかないでしょう。

    もちろん、彼は典型的な本願ぼこりであり、したがって真宗における一般的問題意識に根差しており、テルゼ個人の特殊な利害関心や経緯にのみ由来した議論ではない。というのもその通りだと思われる。

    しかし、宗教に行為の道徳性を不可欠と考える伝統が真宗にどれほど濃厚に存するかというと、そうではないようにも思える。つまり、宗教の本質は神秘体験に在り、その道徳性はあるにこしたことはないが不可欠な要素ではない。

    講談社文庫『生・死・神秘体験』において立花隆氏と山折哲雄氏は、「親鸞が求めた神秘体験」と題する章にて、「自然法爾」の非一貫的理屈の背後に、親鸞の合一体験を観察し、「こういう一見するに矛盾するような形で神秘体験の世界にすべりこんでいっている」と結論付けている。日本における浄土教の祖である源信という僧は『往生要集』を残しているが、これなどは、死にかけた人間を寺に隔離し、臨死体験を報告させるというものです。文字通り極楽浄土往生を信じており、神秘体験は真理を垣間見ることであった。この神秘体験の重要さの前では、倫理道徳は二義的価値しかもたなかったであろうとしても不思議ではない。

    「最終的に日本の宗教者たちが求めていたものは、その奥の何者ともわからないものとの合一、それを求める神秘体験---そういうものだったと思うんです」山折。という見解では、道徳が神秘体験ないし救済の二義的価値か、手段的価値しか持たなかっただろう。あまり一つの見解を貫徹しようとすると、宗教の多様性や内在する矛盾を捉え損なうんじゃなかろうか。

  • 2017/07/27 06:41

    http://www.asahi.com/articles/CMTW1703270400001.html?ref=chiezou

    東日本大震災の復興。福島及び秋田県にて発生した大雨に由来する災害。

    復興と主張すれば、メディアも政治家も否とは口が裂けても言えない。しかし、私の正直な感想は、東日本をなぜ復興しなければならないのか理解できないし、山間の過疎地に大規模な人員と予算を投入する理由も理解できない。

    上記朝日デジタルにて或る人は、「居住権はある」と主張している。恐らくは、人は自分が望む土地に住み続ける権利を持っており、政府はその権利を保障する義務があるという程の意だろう。しかし私には、そのような権利は存在しないように思える。

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