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投稿コメント一覧 (222コメント)

  • >>No. 1966

     ≪ 事象>時空 は ε量>座標系;一般相対論は理論基盤の全面reset!≫

    ○ ”真空”が空間概念と無縁でない限り、理論としての「"空"でなくenergyをもつ」の容認は、既にε量関与拒否の「特殊」段階時空から「一般」段階時空への移行を意味し、”現実”のε量場に対し”4D時空”の方は2次的・抽象場に位置づけとの「対応関係」も成立する。

    「特殊」段階までが依拠してきた”一様な数学的時空”自体、その隣接数値への移行は”変化の単位量の存在とそのcount数による区別”で、それが”物理的非一様な実体場”に対応する(→boson・fermion )。 

    ○ ε量事象>時空 の優先順位は、座標系の形式・それによる計量数値の違いなど以前の、「時空特性の根源に関わる問題」。
     一般相対論的ε量場でε量主体(粒子)上の0・v系をx軸方向のboostで対比するとき、「0系原点にもε量が存在」、位置不同はε量差を示し、両系同等視はε=γmc^2から mc^2=γmc^2 → 1=γ を意味する(同一基準では不同な2数の等置!)。

     Hamiltonian(mc^2+mv^2/2)を系全ε量すると、mc^2は「従来のpotential相当部分へ立ち入り”系ε量に加えたもの”となる(L=KーUでなく)。
     v系上への移行の際、vの影響の相殺作用で0系上と同形維持となるが(#1946 1787)、”客観的対比”では両系間は1:γであり、同等視はあくまで近似を超え得ず、全体としての非一様性or基準尺度1の局所性という一般相対論の主張に則している。
     
    ○ 両系対比での基準尺度1は各v(含・0)に応じたγであるべきで、これに関し、下記の記述がある。

     ≪ 運動energyと運動量とが4Dvectorとしての変換性を示し、慣性系のとり方によらぬ客観的物理量として意味をもつには、運動energyはT_0=mc^2{γ-1}でなくT=γmc^2であるべきで、mc^2をenergyの原点の不定定数のなかに繰り込んでしまう訳にはいかない ≫ (「相対性理論の考え方」;砂川重信 p54~55 岩波)
     
     一般相対論は究極的に現理論枠組を超え、時空特性をa prioriでなく個々のε量体に帰着させ、「相対化の計量基準までへの徹底」で「系状態による同一scalar区別」にも及ぶと考えます。

  • >>No. 1965


     ≪ ”scaleの変換不変”は「0・v不同状態の無視」による;一般相対論(ε量場)ではε量差!≫ 

    ○「時空・事象関連」の究極は 一様4D時空像→非一様4Dε量場へ の移行であり、ε量体存在による「対称性の破れ」は数学的一様対称時空像に依拠してきた理論枠組を”非一様の近似”と位置づける根底的変革となる。

     従来の座標系間の関係はε量間の関係に読み変えられ「変換関係は粒子間関係」に移行、時空量(4D長さ)ds^2が一義性を失い「異なる位置毎の”異尺度1下での同一数値”」に(”同一視の方がみかけ”ex.#1778)。

     これは固有時の個別化、つまり"各系を個別4D粒子”とみなすことと同義で、”不変仮説”は「ε量体(場・粒子)間の相互作用に共通する作用機序」を「basicな局面で一般化して提示してきたもの」で、「2局所系・粒子の同等視」と捉え得る(各場は粒子に帰着、そこでのM・K・S単位の一つを仮定すれば残り2つも決まる;cf.重力定数・Compton波長も)。

    ○ その結果”両系間の不同・差異部分”が「変換に伴う状態差を意味するもの」に。
     これは両状態を同等としてきた”不変仮定”に何が加えられるべきかを示し、この明らかな不当性の補填に必要とされたのがgauge不変性orgauge粒子相当量だとなる。
     ただそこでも ε=mc^2を認める以上は質量概念への拘りを整理し、”energyをもつが質量0”などを許容しないapproachが要請される。

     曖昧な「原点の不定定数扱い(#1517)」も系間(粒子間)区別の過程で処理されるべきものだし、「ε量場での相互作用の存在」は各粒子固有質量確定の可能性を疑問視することにもなる。
    「一般」段階はそれが得難い理由は単に技術的制約に留まらぬ「抑々のε量基盤に起因する」ことを示した〈←2数間の連続性・区別に関わる問題)。 

    ○ 物理的記述の目的は現実に生起の事象の解明であり(ex.#1955)、4D枠組(時空)はその手段・議論の場に過ぎず、記述対象の特性を反映していなくては「議論の場の適性」を欠く。
     
    「時空・事象の関連容認」は従来a priori扱いで済ませてきた部分への立入り宣言であって、曖昧な時空・宇宙の識別をも要請する(ex.Robertson-Walker式も”宇宙”を”時空枠組内”でのds^2式で議論)。

  • >>No. 1964

    ≪ 問題は”系内時計の同期化”にまで遡る ; ”局所区別”に背反!≫

    ○ ∅ などで表現の”空”概念は、特定分野例えば”物理的量の存否”に関し、「その対象countの基点としての”0”」とは区別される。座標軸上での順序数の基点としての0も”虚や空”とは異なる。
     古典・量子力学を問わず数式内での議論対象は”不存在との区別が曖昧なままでの0”ではなく、「大きさ≠0なcount対象量の基点状態」なのであり(#1964)、(1・n)形式での局所系毎の”1”部分がその事情を示す(#1957)。不変議論での0系も当にそうしたv=0状態で、それとv系との区別無視が”計量区別の理念”に背反。

    ○ 時空をε量的場と捉えるとき、粒子像は「特殊」段階での4Dvector場A_µ(x)の集約的表現となり、そうした時間・空間成分(scalar/vectorpotential→電場/磁場)をもつ「≠0な一体としてのε量体」の全体が一般相対論的非一様実体時空(⇔場)に相応する(存在物体の近傍で影響を受ける時空は”一様のまま”のはずがない cf.#1942 etc.)。

     だから位置不同な0・v両系間での不変関係はε量問題として原理的に不同なのであり、≠0な各系(各粒子)内ではdx=cdtによる対等な時間・空間量は「長さ(L)次元で大きさが一致」していなくてはならない。
     ところが”系内時計を原点時計に同期させる”「系内統一時刻(時間経過0視)」は、”隔たり≠0(or位置不同)に基づく時刻不同の拒否”→”時間・空間の同等性否定” という曖昧事態を惹起する操作になっている。

     この「系内時計の同期化」は”位置区別無視の原型”と言え「変換議論の不変視」に資してきたが、局所区別指向の「一般」段階での”より精密な議論下で”糾弾の対象となる。
       
    ○ 極めて自然に日常レベルから出発した力学体系はmicro・macro両方向へwingを伸ばし、量子力学・一般相対論段階へ到達したが、基本枠組である4D特性は(不透明なa priori性を問われつつも)一貫して維持されている。量子力学もそうした「相対論餌枠組を改変し得る立場」にはなく、計量に際しての古典的手続きの精密化に資するに留まる(#1955)。 

    (訂正)  #1964 7行目 ; (誤) ⅽ・μ・ν → (正) ⅽ・ν・λ

  • >>No. 1963

     ≪ 相対論での”0”の意義 ; ”不存在”ではなく”変化量ゼロ” ≫

    ○ 加速系にまで拡張の一般変換はε量関与が明白なことから, 従来時空像→ε量場化へ の変容は回避できない(cf. G_μν(=R_μν-(1/2)g_μνR)=-kT_μν)。
     つまり「時空・事象の関連容認」は、0・v同等視によるa prioriな一様連続4D特性の曖昧さからの離脱要請で(←0が不存在か変化ナシかの区別が不明瞭な0tensorの問題点:#1960 62)、同特性の担い手に「それ以上分割できない≠0な単位量の存在」を示唆し「時空像の変革」を方向づけている。

     相対論自身がこの段階にまで至っている以上、従来のa priori時空像依拠議論のままでの批判は的外れで、時空の4D性問題は量子力学の確率表現にも無関係な”それ以前の問題”(c=νλのⅽ・μ・νいずれもが単位時間の代替品であり得、相互換算可能)。
     
    ○ 元々vは加速度aの局所近似で、局所慣性系が「一般」段階的非一様時空の部分空間として内包されている事情に相応し、v運動にはその主体が存在する。それが「特殊」段階でのように0・v同等視で”0扱い”では両局所系区別だけでなく”区別の対象の存否”までが不透明となる。
     
    「一般」段階でのgg’区別にみるように、同・不同議論には先ず 1) ある議論対象が存在、2) その異なる2状態間の議論 との順序・区別が明瞭になされるべきで、これが0-tensorの区別の明確化に他ならない。

     抽象場である数直線上でも、原点位置は不存在(”虚”)ではなく、他の数値と対等な身分で〝位置を占めている”。隣接点とは”≠0な変化の単位量ぶんだけの違い”があり、”立場の入れ替えによってもその違いは解消しない。
     それがv運動に伴うε量差だと捉えるのが物理的観点であり(cf. γmc^2=c(p^0);運動量の時間成分のⅽ倍)、幾何学的な時空の湾曲は系全ε量間の問題に帰せしめ得る(←現実世界とそれを表象する抽象場表現の関係)。

     つまり、存在tensorに関し「先ずその変化の =0、≠0 2状態を区別、近似はその次段階」となるが、表象するのは”時空ではなくε量体”に移行、時間・空間はその時間成分・空間成分へと転化する。
     実・虚世界も同様に「≠0なε量体の存否」での区別となる 。

  • >>No. 1962

    ≪ ”矛盾内包理論”の限界;”近似超え”は自己破綻!≫ (続)
    ○ 内在する≠0な質点の無視・軽視で成立の一様時空像は、質点の”0視”によって「大きさだけでなく”その存在までも見えなくした”(水とともに赤ん坊まで流してしまった!)。
     これによって「特殊」段階での3・4D特性はその担い手・ε量的主体を喪失し、a prioriに”空”な時空自体に帰せざるを得なくなった。

    「時空・事象関連容認」はそのa priori性排除への嚆矢であり、当に”宇宙方程式の右辺を優先する”ことで(方程式の左右両辺は等価!)、前段階までの”不備な時空像変革”が達成される」事情に相応する(←数式成立の根底にある思考を言語化した)。

    ○ 4D特性のε量体帰属は「固有時区別を介し、時空の非一様性認知に至る」もので、これは「相対化の計量基準までへの徹底」による「計量数値の一意絶対性の拒否(系状態に依る同一scalarの大さ区別)」をも意味する。

  •  ≪ ”矛盾内包理論”の限界;”近似超え”は自己破綻! ≫ 
    ○ #1481でのように「物体と場の相異は性質的でなく数量的」とみる立場は、既に「”≠0な拡がりをもつε量体の内在を認めぬ"一様a priori時空像」との間に乖離がある。
     空間変位・時間経過には当然運動主体が存在し、大きさ≠0な質点(→粒子)はその際の単位であり得るが、その存在が「特殊」段階的時空に無関係ではあり得ない(ex.#1956)。

    ○ 種々のε量体が存在する「現実の場」は始めから非一様・非対称であり、そうした自然の解明を試みる理論は基盤に先ず一様な場(時空)を想定、その前提下で物体(ε量体)の”客観的”記述を始めるのだから両者は”無関係”であらねばならない。枠組のa prioriな3D性・時間の背景にはこうした「時空枠組優先事情」があったと言えよう。

     そのa priori性解消への糸口となるのは「時空・事象の関連容認」だが、局所毎の計量gg’区別の立場と言っても、周囲との相互作用はstageを問わぬ以上「厳密なε量体の単独確定量取り出し」は可能なのか(gluon等に限らず)。  
     現不変議論には”不同な0・v状態の近似的同一視”という「同・不同に関わる解消し難い原理的矛盾内包」の疑惑がつき纏い、より厳密な立場の「一般」段階でもそれから解放されている訳ではない。
     ”異なるものは区別する”のが「計量の根本理念だ」とすれば、「不変議論は根底においてそれに背反している。
     こうした問題が背景にあるから「一般」段階でも未だに”近似を超えて完全な局所性容認一辺倒となり得ていない”のでないか。

    ○ 近似性を解消し得ず「”異なるものの同一視”という内部矛盾を逃れ得ない」事情は「現行不変議論の限界を画するもの」と考えられる。

     人為的理論には自らが設定した原理的立場は超え得ないという限界がある。
     ”素粒子”にはそれ以上分解し得ない均質な≠0のε量体としての位置があり、座標系上の順序数による隣接点区別にも≠0な単位量が存在しているべきだ(←素領域的)。

     理論の根源幹性格を左右する”変化の際の≠0な単位量の存在”を先ず明瞭に表明すべきでないか(cf.#1959~)。

  • >>No. 1960

     理論基盤は「時空(座標系)」?「宇宙(ε量場)」?;「特殊」・「一般」段階の違い
    ○ 抽象は空想ではない。
    抽象的数値・数式の汎用性は具象的現実processに転化し得る”対応関係”にある。
    「特殊」段階の時空は内部に質点(≠0)を含んでいても”大きさ0視”、それで獲た一様な場で「”無関係とする”ε量事象を記述する」が、”実体ε量と無関係”なことで場の4D特性はa prioriたらざるを得ない(”真空のenergy”という表現は曖昧)。
    この近似的同一視(仮定)の時点で既に「原理的非一様性容認」なのであり、接続場(→gauge場)に移行しても”同じ哲学の踏襲”で同巧異曲。
     他方、加速系まで容認の「一般」段階時空は、その宇宙像にみるように”始めからε量場”であり、局所性容認で非一様時空像となっている。

     結局両時空像では大きさ≠0な実体ε量内在の認・否が決定的で、前段階では結果的に「a prioriな4D性の場(座標系内←事象の計量・記述のための抽象場)でのε量体・事象記述」に終始している。
     後段階は自身がε量的な場で、事象記述は各点・局所をbaseとし「その上に設立の抽象座標系(←原理的に局所系毎の基準1を備えた抽象場)でなされている」とするもので、「座標系基盤への踏み込み」を意味する。
     更に究極的に座標系は原点に収斂〈→特異点)、そこでの計量は「自己計量に終わる」と制約する。
    「特殊」段階までの一様な4D時空絶対視で構築の理論は包括的な(外部or客観的)対応の視点を欠き、位置による計量tensorgg’区別思考の欠如で「scalar1の大きさ区別」に立入っていない。

    ○ 粒子の実験検証は第一義的にはε量事象の4D性の証明で、それが即「”ε量事象と無関係な”理論枠組自体の実在性容認」とはならない。
    「時空‣事象の関連容認」はそうした事情に言及と捉えられ、「4D特性の一次的担い手は各ε量体とし(cf.固有時の主体)、dt・dε、dx・dp の非可換性から「時間・3D空間を抽象場に位置づけるべきことを示唆」と受け止め得る(ex.#1787)。

    ○ 理論基盤である3D 空間・時間への先達の疑問(ex.#1945)は根拠のない杞憂なのか、単にそこまで思い至っていないだけなのか。
     理論把握の難しさ以前に”その基盤の不透明さ”が見過ごされている。

  • >>No. 1959

     全成分0のtensorは”抽象量”止まり?”実在量に対応”?;一般相対論のdilemma
    ○ 数学的多様体は「”空”ではなく”何かの存在する場”」で、それが物理的4D時空に相応する。
     その時空は物質(ε量体)との対比では”空”と見做される側であるに拘わらず「a prioriに4D特性をもつ」とすることで「空なるものの4D性」というlogic的に曖昧な状況を招いている。
     これは数式展開に先立つ”理論基盤の適否問題”で、その解明なしに時空の一様/非一様性・a priori特性などの問題解決はあり得ない。
    「時空・事象の関連容認」は前段階までのa priori4D時空像に対し「その特性は実在ε量事象に起因」とする 実在➡抽象 の対応関系を示唆するもの。

    ○ 「特殊」段階の時空点は”大きさ0と見做されている”ことで、ε量体の存否に不透明さを残す。
     0・v座標系はともに抽象場での一点を原点とするが、現実世界の忠実な反映であればそれらは大きさ≠0なε量点(質点)の写像で、両系間の関係はε=γmc^2に象徴される。
     そうした時空を明確にε量場(tensor場)と認知することで初めて0系原点も「変化量0のtensor状態」として”存在量”の立場を得る。
     各系での事象記述には対象と独立な時空座標系が必要だが、現実対応のtensor場での各座標系・数値は自身の基盤状態を反映する(系毎の基準尺度1←究極的には各自己計量に)。

    ○ 前段階思考が母胎の「一般」段階は、その全面容認でも全面拒否でもあり得ぬ事情から不透明さを残すが、その解消に必要な「重複しない部分の”前段階への影響check”」では、当然”曖昧なa priori部分”がtargetとなる。

     唯その際「tensorの全成分0が一般共変性をもつ条件である(wiki)」と言うだけでは、上記のようにそれがa priori時空の属性か”空”とは異なるtensor主体の存在容認かは不透明なままだ。
     後者の立場を採って初めて「4D特性のε量体起源明示」となり、存在量をbaseとする実体的時空像が得られ、それが「何故他次元でなく4Dなのか」の説明ともなる(cf.固有時の主体区別による非一様時空像)。

     結局”空”への特性授与は「特殊」段階的な「存在量と不存在0との同等視」による”存在量見落としの結果だった”ことに。

  • >>No. 1958

     "自然”は本来〝非対称”!:”対称性の破れ”は人為的理論最優先のツケ
    ○ 0・v区別段階で両系は既に同位置になく「原理的に不同」で、”より詳細に理論基盤へ立ち入る”「一般」段階のg/g’区別 の立場に準拠すれば、同等視は論理的矛盾を 内包となるので「根底からの見直し」が要請される(cf.#1957 58)。
     位置区別にはv=0/≠0の違いは決定的で、v≠0ならばε=γmc^2のγぶんだけ異なっており、運動学の見地からはv運動に必須のε量の出処も不問なa priori時空像に基づく同等”視”は、局所限定的と言っても原理的な場の非一様性に反している。
     
    ○ 一般相対論の場は重力存在などで必然的にε量場であり、”原理的非一様”に不可欠な「局所区捏のため単位量」は当然な存在であるのに、局所区別が不要な抽象的・数学的a priori一様時空像下では、隣接局所を区別する”変位・変化の際の単位量の存在は軽視され、区別の際のcoreである”その単位の存在”が見えなくなっている(一方で「軸上位置は順序数で区別!)。 

     つまり一様な数学的抽象場では「抽象化に際して局所毎の基準単位1の区別が総て同等視」となり「非一様な現実のε量場の局所区別が見えなくなっている」ことで、系基準尺度1の異同が曖昧なまま結果的に同一視され続けることことから「順序数ではない”characterとしての数値”は量的区別と連動していない」という事情が生じている。

     これが 現実→抽象 の対応に際しての問題点であり、「時空・事象の関連容認」はそうした両者間での不適合写像・missingーlink回復の要請に応えるために「宇宙方程式を右辺優先で捉えることを示唆」と捉え得る。  
    (単位vectorの局所系毎の大きさ区別の明示が必要 ←((1・n)形式の「1」部分の不同明記!)。

    ○  ε量体(物質)を含む場である自然は始めから「非対称」が本来の姿であり、他方「対称性」は2次的抽象場に属する理論が自然解釈に際し必要とした手段で人為性を免れ得ない。
     結局、”対称性の自発的な破れ”は理論sideだけでの問題で「自然優先への回帰」でしかない(ex.1917 1732)。

     一般相対論は、抽象的・数学的時間・空間をbaseに出発した Newton力学以来のそうした”人為的理論の限界の是非”を問うものと言える。

  • >>No. 1957

     確率も”実在量”に関する議論; ε量性導入のimpactは理論全般に
    ○ 不透明なa priori基盤に立脚の理論は曖昧さを免れ得ないが、存立基盤への疑義提起は自己否定的側面をもつ。
    「特殊」段階までは時空の一様対称性は”a prioriであるが故に絶対視”され、逆に0・vは明らかに客観的対比での区別なのに(同等視は高々近似)、両系不同の方が”みかけ”かに曖昧処理されてきた。
     しかし加速系までへの拡張による”時空のε量場化・非一様視”はa prioriな一様性の呪縛解消に至るもので、0・v系間も本来の”異尺度1下の共形性”を回復する(逆に唯一絶対的基準は消滅)。

    ○ ”空”でない実体膨張宇宙の”時間的逆算”からのbigbang開始時点では、「特異点状の≠0なε量体が3・4D性の担い手として存在」、それがcoreとなって一貫した同特性宇宙像の展開となっているが、要確認なのは「特性の担い手が〝無”では不合理」・「量子inflation期も既に”空”に関する議論ではない」という点(ex.#1939)。

     ”現実宇宙の発展”が時間経過に即して語られている事情こそが当に「抽象的a priori時間とε量事象の関連」を表象するもので、それが「実体的宇宙とは別に時空が共存し得るのか」という根源的問いに連らなる(ex.#1904 1934)。

    ○ 宇宙方程式右辺の T_μνがenergy・運動量tensorであることは左辺にも「特殊」段階的a priori時空像からの変容を要請する。
     そうした思考は実は既に ds=cdτ=√(1-β^2)cdt が表象する固有時から読み取れ、種々のvに対応する不同なdsが”一様時空の個別化”と同義。
     固有時の主体(ε量体mc^2)が各時点における「局所系毎の変位・変化の単位量で、その時間/空間成分(scalar/vectorpotential)は一体として未分化のままで確定v方向に関し0系上状態と対比されている。
     
     結局、理論は人為的制約は超え得ないものの「一般」段階に至り初めてa priori性吟味の途が拓けたことで、「各系基準尺度1はその系上だけでのもので、系間の客観的対比では不同(←計測対象・計測器が同比で各vの影響を受ける相殺効果)」or「相対化の計量基準までへの徹底」との捉え方が成立する(ex.#1956 57)。

  • >>No. 1956

     0・v系の”区別と同等視”、logic的に”妥当”なのはどちら?;近似的同一視は原理的不同!
    ○ 一般相対論の局所区別の立場(cf.局所重力区別)を徹底すると、一様時空が大前提の特殊相対論の立場との違いが鮮明となる。
     後者は一旦区別の0・v系を近似処理で同一視するが、近似処理を必要とすること自体が逆に「時空の原理的非一様性容認」を意味し(ex.#1856)、既にa prioriな一様時空像遵守の立場からさえ駆け離れていないか。 

     区別が”有理”であるなら、「同一scalarの大さ不同」(cf.位置の違いに基づく「系毎の異尺度1」)は、「特殊」段階思考の「どの系・位置での計量も同一視でき(cf.唯一絶対的計量基準)、実験的にも検証済み」との立場への疑問提示となる。
     理論展開の順序からも一般相対論の立場が”後退”ではあり得ず、論理的優位性は明白。 

     つまり”唯一絶対的計量基準の容認”は「現行思考の絶対視」を意味するが、「計量tensorgは位置の関数」という理論の立場に拠るなら「一般相対論思考は原理的にそうした絶対視志向の拒否」と言える(実験processまでを含め)。 

    ○「時空・事象の関連容認」は、科学理論の基盤枠組に「”空”なるものが3・4D特性をもつ」という”論理矛盾”相当の事情(実験検証以前の問題!)が不問に付されてきたことへの疑問提起と受け止め得るが、その無視となる「従来の立場維持」に本当に妥当性はあるのか。

    「一般」段階の加速系までへの不変関係拡張は時空のε量場への移行を不可避にするが、”不同な隣接点同等視を仮定しなくては数式での展開はムリ”というのは、元々”数値上の一致最優先”の立場に立つものであり、一般相対論はその考え方の根幹or近似的0・v同等視に”更なる厳密な検証を”と提議しているものと言える。
     
    (”空”or高々etherの存在が背景とは異なり)ε量場を表象する座標系は、”光子(ε量体)のc”を基準単位1とし、位置の違いはそのcount数によるとするもので、a priori性とは「変位・変化の基準単位1の存在容認(cf.(1・n)形式の「1」部分;ex.#1934)」で区別される。
     Galilei変換とは異なり、c(=√ε_0・μ_0  )を含むMaxwell式・電磁場が相対論の局所変換に適合する背景もこうした点にある。

  • >>No. 776

    いずれにしろ変換関係の加速系までへの拡張は不可避的に「議論の場へのε量差のもちこみ」を意味し、「計量tensorgは位置の関数」は「場の非一様性示唆」となる以上、最早a prioriに一様とする特殊相対論的時空像からの逸脱は明白ですね。

     違いに踏み込まず不透明なままの「不問状態継続」は実質「前段階思考維持」を意味するに他ならず、違い認知は明確に市民権を得ているとは思えない。

     物理的時空像への群論側のstance今後もupしてください。

  • >>No. 772

     例えば「表向きの綺麗事」というのは”内部状態の変化”にまでは立ち入らぬことによる、つまり「⇔の前後での系基準尺度1の違いまでは勘案しない形式的同一性を指す」と受け取れますが・・・

  • >>No. 1955

     一般相対論の「基盤回帰」指向;共に限界に直面の「原理」・「最先端」
    ○ 理論最先端は自身の適用限界に直面しているが、それは自身の原理・公理の限界でもある。
    「特殊」段階でのds^2不変は「近似度を高めるor系の入れ替え」に依る0・v状態間の同等視だが、元々位置を異にする2系は既に区別されていて”同一”ではあり得ず、一様時空なら始めから「どこも同じ」で改めて同じとする必要はない。つまり”不変”は本来不同なものを”仮りに同等としている”に留どまる(cf.#1752)。
     一般相対論は位置不同(→g・g’区別)を通して「原理的非一様時空の立場」に戻り「同一視の曖昧さ」に迫るものと言える。
     
     粒子・波動に関係なくε量変化・ε量差は本来運動主体間の状態区別である以上はv=0状態でもε量場の事象として系ε量は≠0であり、不変関係は3・4D特性同様”空”な時空状態や属性の問題ではあり得ない。
     これは「特殊」段階思考の不十分さ指摘である以上、そのことへの勘案なしの議論はどこまでも無理を残すことになる。
     
    ○ ds^2での宇宙考察にみるように、「0・v系議論も既に議論者の属する現実とは区別された抽象場での議論なのであり、どの系上でも同形法則が得られることで「一様時空維持」としたところで、局所区別は「それら各系は既に不同状態にあり、客観的対比では「基準尺度1は既に異なっている」とする立場で(←相対化の計量基準までへの徹底)、”0系上と同じに思える”のは「計測器(時計・物差or計測者)も計測対象と同比でvの影響下に入ることによる見かけ上だけ」とする。

     理論の性格の明確化には(1)現実と抽象数学的場の区別、(2)計測単位量の存在の確認 が不可欠で、(1)は現実をε量存在の場であること、(2)は連続も無原則でなく”計量単位のcount数差に基づく位置区別の上”で「場の一様性はその近似どまりである」ことを示す(ex.#1951)。

     上記はε=γmc^2からの展開近似であるHamiltonianが系のε量状態を表すことからも明らかで、特殊」段階ではε=mc^2=γmc^2の同等視止まりだった。

    「時空・事象の関連容認」は複雑化一方の数式依拠とは逆方向の、言わば”自省的思考vector”で基盤へ立ち返り、視野にはaprioriな一様時空像の見直しがあったのではと受け取れる。

  • >>No. 1954

     数式表現は現実の写像;抽象場の2次性!
    ○ 現実・抽象という区分を認める以上、数式表現を第一義的とする立場は「抽象場だけで閉じている」かの明白な錯誤に陥っている(その”症例”の一つが多世界議論)。
    「3・4D時空特性のa priori視」は、それに関する釈明が不可避に「事象やその移動・変化に帰している」事実を受け入れず、”その自覚に乏しい”だけ。

    「時空・事象の関連容認](cf.重力場の式)という基盤枠組の変革要請は「原理的非一様・非対称なε量的場に移行」となるが、これは今更"砂の中に頭を突っ込み、みえないから「存在しない」”に類する対応では済まない。

     従来の「a priori時空像に依拠の事象記述維持」は、より精細な一般相対論思考を”無視するだけの正当な理由を以って”のことか、単にその意味把握が不十分なまま”自身の殻の中での議論に終始しているだけ”か。 
     有効な限り近似手法継続のメリットはあるが、個別化の固有時主体のようなε量的単位の存在や周辺との区別などは「特殊」段階時空になじまない以上、その有効性に限界があり、絶対視できない。

    ○ 現実と非現実の違いはε量体存在の有・無にあり、無→有 への転化にはε量を必要とする。世界・反世界(or実・虚)の区別もその差に依るもので、抽象場はそうした現実世界の写像として効率的議論用に整理した場と言える(cf.Gauss平面を介した虚数→実数への転換)。

     現実⇔抽象 の対応関係で、抽象場でも議論の対象は”現実事象の写像”なのであり、確率表現の対象もその根底にある”現実の存在事象(存在確率1)の写像”であって、各項は”その様態の未確認部分をpendingとして列挙している”に留どまり、”対象の存否まで未確認”と言っているのではない。
     この根幹事情の見過ごしが問題の曖昧さの原因であり、〝多世界が現実である”かの錯覚もそうした各項がそのまま確定事項かに受け止めている点に起因する。

    ○ 事象を最初から確定と捉えてstartの古典段階に比し、量子力学的確率表現は事象自体の存否にまでは立ち入らぬものの、about状態部分に関する”より詳細な認証手続き要請”だと受け取れる。
     観測状態も「局所毎に異なる基準尺度1による」ことで”ds^2不変”も、絶対的同形・同一数値関係から「同一scalar区別による同形性]へ転換する。

  • >>No. 1953

     立場の徹底で見えてくること;”基盤変容”の受け容れが最優先事項
    ○「時空・事象の関連容認」は記述枠組と対象の関係への立入りであって、「対象の粒子・波動性に無関係な」それ以前の問題(ε=mc^2=hν p=h/λ c=λνなどで換算可)。
     関連性への言及だけで「4D性のε量体への完全移行」や「それに基づく場の非一様視」に直結する訳ではないが、「一般」段階で初めて言及ということは逆にそれ以前は無関係としていたということ。

     ε量場への移行で時空次元数のa priori性は回避できるが、時空的記述はそうした背後事情を明瞭に意識しないまま従前の時空像意識下でなされている。
     従来の記述法絶対視に制約を齎す一般相対論の”画期性”が逆に受容され難さともなるが、内在事象との関連なしでの時空の高次元化など元々不十分で無理が残る。

    ○ 例えば10D一様対称空間で6D部分のcompact化を図るという立場も、全体像として関連容認例とみれるものの、4D部分がa priori性維持のままというのでは、到底3・4D性の起源にまで迫るものとは言えず、”c有限な限り”「≠0な拡がりであるひも全体」を唯一通りの時間でcoverという点にも疑問が残る(4D特性の質点起源の観点から)。

    「測地線の式・質点の運動方程式の同等視(ex.#1860)」は全体像を「同一事象の2通りの捉え方」とする観点を許容するもので、それは「a priori時空像という従来的立場のままでの6D部分分割」という全操作を「実体的ε量場での事象間相互作用と捉え直す」ことを意味する。 

    ○ 一般相対論は、対象が極限的compact化で実験にかかるか否かという問題以前に、抑々「≠0なε量体なのか」or「理論基盤の10・11D性自体の実体性(時間次元の特性考慮)の有無」を問う段階に至っており、「背後に残る時空枠組との関係」も「”ひも”という拡がりでなく”存在量自体の変容での解決”を期している」と考えられる。

     一方に徹底した「4D性のε量体起源が可能(cf.固有時主体・担い手の個別化)」とする観点が存在し得る以上、「不十分な時空・事象関連容認」の立場には疑問が残り、不全基盤に立脚の論考は全体を一層の混迷に導くだけで、”より複雑な迷路入りの症状”に陥って終わることに(cf.Copernicus以前の周転円説)。

  • >>No. 1952

     一般相対論思考をどこまで活かすのか;「時空・事象関連容認」の展開
    ○ 原理と言えども人為的である以上は「仮定・仮説」であることを超え得ず、永劫不変であり得ないからこそ 一様3D空間・時間→4D時空→一様時空を部分空間とし包摂の非一様時空像へ と転化してきたはず(cf.# 1848 63 etc.)。
     非一様性は”空や無”などの属性ではあり得ず、少なくとも数学的多様体の存在が要請されるが、無限次元まで可能なそうした数学的時空・場の特性が「現実では3・4D性に限定される」のは何故か。
     一般的な抽象数学的時空とは異なり「現実時空は物質(ε量体)を内包」という事情に留意すれば、出処不明としての”不透明なa priori視維持”は解消できる。

    ○「両系不変」は元々原理的に不同な0・v両状態を近似処理したものだから、より厳密な「局所状態区別」の立場で変革を受けるのは当然だが(cf.不同な基準尺度1;g、g’)、理論が始めから明白な0・vの不同を敢えて同一視し展開してきた理由は何か?
     本来不同状態下の2局所を”同一と仮定する”ことで逆に”真に同一であるための要件”が探索され、その思考を段階的に繰り返して行くことで”異なる事情”の細部まで詰めることができる(→新粒子の発見等へ)。
     つまり不変同一は”最初から真実でなく、仮定・仮説止まり”であったが、「一般」段階思考に到って初めてその効用・詳述に辿り着けたと捉え得る(簡単過ぎることの解明ほど根源にまで遡及する洞察を要する)。

     時間的・空間的に同位置にない0・v(≠0)両系での不変量 ds^2=cdt^2-dx^2=(cdt)^2(1-β^2) は端的に(cdt)^2=(cdt^2)(1-β^2)を意味するが(ex.#1786 etc.)、これは明白な近似である以上「特殊」段階の原理Ⅰ・Ⅱ(変換不変性・光速不変)は、より厳密な局所区別の立場を採ることで「同形・異尺度1下での同一数値」へ転化、結局それは「各v(含・0)毎の固有時主体の区別」に至るものだ。

    ○「現実・抽象の対応関係」の前・後段での「存在量のε量差」・「数値化されたそのcount数」の”隣接”はともにその連続性予見の上に立つ。
     連続性は”存在量”を前提とするそれらの”様態”であり、粒子の確定値が近似を超え得ないのはそうした連続性の切断だからと考えられる。

  • >>No. 1951

     単位量なしの数値countなどあり得ない!;両系”不変”で「尺度1不同」も曖昧に(続)
    ○ 「時空・事象関連許容の認・否」で理論基盤である時空構造は根源的に変わるが(ex.#1949,50)、現段階の理論で一般相対論思考はどこまで斟酌されているのか。

     重力源は各ε量体であり、「特殊」段階まではそれぞれの立場での等価原理の下で意識されずにいたに過ぎないが、 「一般」段階で時空構造に組み込まれた重力の意義は、(その大小問題以前に)第一義的には”不可避な局所系間相互作用の表象”とみれる点にあり、微小領域での処理には一層の困難がある。

     0・v(≠0)を隣接2数とみるのと同一視との間は本来”千里の隔たり”であるに拘わらず、「特殊」段階までの変換不変性依拠の成功体験がその差異無視or軽視のままでの議論遂行を容認してきた。
     しかし既述のように、どの段階でも系間相互作用を免れ得ない以上、最先端でもgluon的存在の確定値は期待し得ず、究極粒子が存在するかの従来議論のapproachは結実するとは思えない。

     ○ 4D時空のa priori性解明に迫ったのは一般相対論思考であり、量子力学での粒子性は波動性の集約的表現とみれ、両状態はε量体の集積度の違いという”形態上の差異levelの問題”に留どまる。 
     いずれの状態であれその数値表現は”ε量単位の存在に依拠せず”にはあり得ず(cf.c=λν関係;hの存在or重力子etc.)、「単位1の違い」は対象‣計器を含む系間の客観的対比で顕在化する(非一様時空像に合致)。

    ○ 結局、ε量的単位の存在容認は古典・量子力学を問わず「抽象議論は実体的世界に起源」という対応関係は明らかで、確率表現での各項もそのまま現実なのではない(ex.#1918)。

    「時空・ε量事象の対応」に関して量子力学は相対論的4D時空像に依拠のままで格別新規な知見を齎すものでなく、その時空像の否定は自身の議論の否定に連らなり、一層の混迷に陥るだけ(←claimer的)。
     
     count単位の存在確認は4D主体のapriori性→ε量体への移行と軌を一にする。これが「一般」段階思考による非一様時空の存在意義に他ならない(ex.#1947)。

  • >>No. 1950

     単位量なしの数値countなどあり得ない!;両系”不変”で「尺度1不同」も曖昧に
    ○ 理論基盤に於ける変革はその全体像の解釈変更にも及ぶ。
     特殊→一般段階へ の移行に伴う時空の非一様化は”空”なる時空で生起することではない。この点でも前段階時空像の根源的変容は不可避で、それに依拠してきた理論全体の再解釈要請となる(#1483 92etc.)。

     連続2数の区別は「count単位の存在」に基づくが、人為的計量基準(ex.MKSA)に見るように、計量には「大きさ確定の基準単位1の存在」は不可欠で(#1950)、この事情は当然過ぎて必ずしも明瞭に意識されずにきたと思える。しかし 時空→ε量場へ の移行は「時間的・空間的変化・位置移動をε量的単位量のcount数と関連づけ」、この”実体視化”を通して「単位の存在も”より意識され得る環境”を得た」ことになる。
     これはε量体の形状(粒子or波動)には左右されない事情であるものの、現実→抽象 の射影の前段で無視or軽視の単位量の扱いは後段でも”持ち越し”となる。

    ○ 既に#1496 98 etc.や以降で指摘の繰り返しとなるが、時空の一様性が非一様性の近似という事情は結局「異なるcount単位1区別の可否」に帰着する。  
     これは「特殊」段階での2系での不変量 ds^2=Ση_ikdx^idx^k がより厳密には「一般」段階での不同な基準尺度(cf.g・g’)による同一数値に帰するということに他ならない。

     つまり、どの位置の系上でも”そこでの基準尺度”による数値である以上、不変・同一とされてきたds^2も”それぞれの尺度での同一数値とみるべきだ”ということで、客観的対比に基づく相対化の結果である。
     これは結局固有時主体の個別化に収斂されて行く事情であり、同一scalarの系状態による不同一化に他ならず、「数値の大きさは唯一絶対ではない」という点で「数式・数値の絶対視拒否」につながっている(←計量基準の相対化の結果(cf#1950)。 

     こうした、異尺度問題提起の一般相対論に触れない”一様時空像に依拠したままでの理論・記述”は不十分なminor changeでしかない。
    +130

  • >>No. 1949

     一様時空像の変容・矮小化;一般相対論による精査の成果
    ○ 一般変換の時空は a priori4D時空→実体的ε量場へ の移行を不可避とするもので(ex.#1949)、そこでの位置区別はε量的単位の存在を通しε量差の存在を意味する。座標系もそれを反映しているので結局「ds^2量もε量的に不同」となる(質量は一種の長さである!; H.Weyl)。

     これは原理的な一様時空像の放棄だけでなく、”系状態による同一数値区別の要請”でもあることで「一般」段階での”不変”関係をも「異尺度1(g≠g’)下での同形・同一数値」に留どめる。
     またこうした自身の立場の変革は結果的に「不変関係基軸の理論自体の絶対視に疑問を呈している」ことにもなる。
    「計量基準にまで及ぶ相対化の徹底」は理論自身の相対化をも意味しているが(cf.#1886)、「位置の連続」ということ自体「客観的対比に基づく区別の集合」である(”隣接2数区別を意識した段階での問題”で、有理数・無理数は関係ない)。
     そうした原理的非一様なε量場では単位ε量の存在に基づく隣接点区分は不可避だが、相互作用拒否の立場でない限り「隣接点との断絶は不可能」で、それが数値・数式の近似が不可避な理由と考えられ、そこに局所や点粒子個別化の限界があることにもなる。
      固有時主体に帰する”極限的粒子”も”近似処理に立った数値”という性格は免れ得ない理由がここにある(→数値・数式に拠る事象記述の限界性cf.1943~46)。

    ○ 同一数式・数値が唯一通りの大きさ表現であり得るのは場の一様性が前提の「特殊」段階までのことで、人為的計量基準(MKSJ単位系など)も「不同な局所状態間対比」では当然異なってくる。
     「一般」段階はa priori一様時空像下の「特殊」段階思考をshort-sightedとして包摂し、その絶対視からの離脱を促し、唯一通りの数値・数式をも「最終的・絶対的意味をもつもの」とはせず、その更なる根底check・精査を要請する。

     結局、数学の汎用性も「唯一絶対的に正しい」というのではなく、同一数値も「各局所状態に対応してflexibleに変わる点にある」とみるべきで、「同一scalarの大きさが基盤状態差に左右される」事情と「抽象時間の流れ・stopが事象の変化・停止に帰する」事情は同根と言える(ex.#1787)。

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