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投稿コメント一覧 (215コメント)

  • >>No. 1959

     全成分0のtensorは”抽象量”止まり?”実在量に対応”?;一般相対論のdilemma
    ○ 数学的多様体は「”空”ではなく”何かの存在する場”」で、それが物理的4D時空に相応する。
     その時空は物質(ε量体)との対比では”空”と見做される側であるに拘わらず「a prioriに4D特性をもつ」とすることで「空なるものの4D性」というlogic的に曖昧な状況を招いている。
     これは数式展開に先立つ”理論基盤の適否問題”で、その解明なしに時空の一様/非一様性・a priori特性などの問題解決はあり得ない。
    「時空・事象の関連容認」は前段階までのa priori4D時空像に対し「その特性は実在ε量事象に起因」とする 実在➡抽象 の対応関系を示唆するもの。

    ○ 「特殊」段階の時空点は”大きさ0と見做されている”ことで、ε量体の存否に不透明さを残す。
     0・v座標系はともに抽象場での一点を原点とするが、現実世界の忠実な反映であればそれらは大きさ≠0なε量点(質点)の写像で、両系間の関係はε=γmc^2に象徴される。
     そうした時空を明確にε量場(tensor場)と認知することで初めて0系原点も「変化量0のtensor状態」として”存在量”の立場を得る。
     各系での事象記述には対象と独立な時空座標系が必要だが、現実対応のtensor場での各座標系・数値は自身の基盤状態を反映する(系毎の基準尺度1←究極的には各自己計量に)。

    ○ 前段階思考が母胎の「一般」段階は、その全面容認でも全面拒否でもあり得ぬ事情から不透明さを残すが、その解消に必要な「重複しない部分の”前段階への影響check”」では、当然”曖昧なa priori部分”がtargetとなる。

     唯その際「tensorの全成分0が一般共変性をもつ条件である(wiki)」と言うだけでは、上記のようにそれがa priori時空の属性か”空”とは異なるtensor主体の存在容認かは不透明なままだ。
     後者の立場を採って初めて「4D特性のε量体起源明示」となり、存在量をbaseとする実体的時空像が得られ、それが「何故他次元でなく4Dなのか」の説明ともなる(cf.固有時の主体区別による非一様時空像)。

     結局”空”への特性授与は「特殊」段階的な「存在量と不存在0との同等視」による”存在量見落としの結果だった”ことに。

  • >>No. 1958

     "自然”は本来〝非対称”!:”対称性の破れ”は人為的理論最優先のツケ
    ○ 0・v区別段階で両系は既に同位置になく「原理的に不同」で、”より詳細に理論基盤へ立ち入る”「一般」段階のg/g’区別 の立場に準拠すれば、同等視は論理的矛盾を 内包となるので「根底からの見直し」が要請される(cf.#1957 58)。
     位置区別にはv=0/≠0の違いは決定的で、v≠0ならばε=γmc^2のγぶんだけ異なっており、運動学の見地からはv運動に必須のε量の出処も不問なa priori時空像に基づく同等”視”は、局所限定的と言っても原理的な場の非一様性に反している。
     
    ○ 一般相対論の場は重力存在などで必然的にε量場であり、”原理的非一様”に不可欠な「局所区捏のため単位量」は当然な存在であるのに、局所区別が不要な抽象的・数学的a priori一様時空像下では、隣接局所を区別する”変位・変化の際の単位量の存在は軽視され、区別の際のcoreである”その単位の存在”が見えなくなっている(一方で「軸上位置は順序数で区別!)。 

     つまり一様な数学的抽象場では「抽象化に際して局所毎の基準単位1の区別が総て同等視」となり「非一様な現実のε量場の局所区別が見えなくなっている」ことで、系基準尺度1の異同が曖昧なまま結果的に同一視され続けることことから「順序数ではない”characterとしての数値”は量的区別と連動していない」という事情が生じている。

     これが 現実→抽象 の対応に際しての問題点であり、「時空・事象の関連容認」はそうした両者間での不適合写像・missingーlink回復の要請に応えるために「宇宙方程式を右辺優先で捉えることを示唆」と捉え得る。  
    (単位vectorの局所系毎の大きさ区別の明示が必要 ←((1・n)形式の「1」部分の不同明記!)。

    ○  ε量体(物質)を含む場である自然は始めから「非対称」が本来の姿であり、他方「対称性」は2次的抽象場に属する理論が自然解釈に際し必要とした手段で人為性を免れ得ない。
     結局、”対称性の自発的な破れ”は理論sideだけでの問題で「自然優先への回帰」でしかない(ex.1917 1732)。

     一般相対論は、抽象的・数学的時間・空間をbaseに出発した Newton力学以来のそうした”人為的理論の限界の是非”を問うものと言える。

  • >>No. 1957

     確率も”実在量”に関する議論; ε量性導入のimpactは理論全般に
    ○ 不透明なa priori基盤に立脚の理論は曖昧さを免れ得ないが、存立基盤への疑義提起は自己否定的側面をもつ。
    「特殊」段階までは時空の一様対称性は”a prioriであるが故に絶対視”され、逆に0・vは明らかに客観的対比での区別なのに(同等視は高々近似)、両系不同の方が”みかけ”かに曖昧処理されてきた。
     しかし加速系までへの拡張による”時空のε量場化・非一様視”はa prioriな一様性の呪縛解消に至るもので、0・v系間も本来の”異尺度1下の共形性”を回復する(逆に唯一絶対的基準は消滅)。

    ○ ”空”でない実体膨張宇宙の”時間的逆算”からのbigbang開始時点では、「特異点状の≠0なε量体が3・4D性の担い手として存在」、それがcoreとなって一貫した同特性宇宙像の展開となっているが、要確認なのは「特性の担い手が〝無”では不合理」・「量子inflation期も既に”空”に関する議論ではない」という点(ex.#1939)。

     ”現実宇宙の発展”が時間経過に即して語られている事情こそが当に「抽象的a priori時間とε量事象の関連」を表象するもので、それが「実体的宇宙とは別に時空が共存し得るのか」という根源的問いに連らなる(ex.#1904 1934)。

    ○ 宇宙方程式右辺の T_μνがenergy・運動量tensorであることは左辺にも「特殊」段階的a priori時空像からの変容を要請する。
     そうした思考は実は既に ds=cdτ=√(1-β^2)cdt が表象する固有時から読み取れ、種々のvに対応する不同なdsが”一様時空の個別化”と同義。
     固有時の主体(ε量体mc^2)が各時点における「局所系毎の変位・変化の単位量で、その時間/空間成分(scalar/vectorpotential)は一体として未分化のままで確定v方向に関し0系上状態と対比されている。
     
     結局、理論は人為的制約は超え得ないものの「一般」段階に至り初めてa priori性吟味の途が拓けたことで、「各系基準尺度1はその系上だけでのもので、系間の客観的対比では不同(←計測対象・計測器が同比で各vの影響を受ける相殺効果)」or「相対化の計量基準までへの徹底」との捉え方が成立する(ex.#1956 57)。

  • >>No. 1956

     0・v系の”区別と同等視”、logic的に”妥当”なのはどちら?;近似的同一視は原理的不同!
    ○ 一般相対論の局所区別の立場(cf.局所重力区別)を徹底すると、一様時空が大前提の特殊相対論の立場との違いが鮮明となる。
     後者は一旦区別の0・v系を近似処理で同一視するが、近似処理を必要とすること自体が逆に「時空の原理的非一様性容認」を意味し(ex.#1856)、既にa prioriな一様時空像遵守の立場からさえ駆け離れていないか。 

     区別が”有理”であるなら、「同一scalarの大さ不同」(cf.位置の違いに基づく「系毎の異尺度1」)は、「特殊」段階思考の「どの系・位置での計量も同一視でき(cf.唯一絶対的計量基準)、実験的にも検証済み」との立場への疑問提示となる。
     理論展開の順序からも一般相対論の立場が”後退”ではあり得ず、論理的優位性は明白。 

     つまり”唯一絶対的計量基準の容認”は「現行思考の絶対視」を意味するが、「計量tensorgは位置の関数」という理論の立場に拠るなら「一般相対論思考は原理的にそうした絶対視志向の拒否」と言える(実験processまでを含め)。 

    ○「時空・事象の関連容認」は、科学理論の基盤枠組に「”空”なるものが3・4D特性をもつ」という”論理矛盾”相当の事情(実験検証以前の問題!)が不問に付されてきたことへの疑問提起と受け止め得るが、その無視となる「従来の立場維持」に本当に妥当性はあるのか。

    「一般」段階の加速系までへの不変関係拡張は時空のε量場への移行を不可避にするが、”不同な隣接点同等視を仮定しなくては数式での展開はムリ”というのは、元々”数値上の一致最優先”の立場に立つものであり、一般相対論はその考え方の根幹or近似的0・v同等視に”更なる厳密な検証を”と提議しているものと言える。
     
    (”空”or高々etherの存在が背景とは異なり)ε量場を表象する座標系は、”光子(ε量体)のc”を基準単位1とし、位置の違いはそのcount数によるとするもので、a priori性とは「変位・変化の基準単位1の存在容認(cf.(1・n)形式の「1」部分;ex.#1934)」で区別される。
     Galilei変換とは異なり、c(=√ε_0・μ_0  )を含むMaxwell式・電磁場が相対論の局所変換に適合する背景もこうした点にある。

  • >>No. 776

    いずれにしろ変換関係の加速系までへの拡張は不可避的に「議論の場へのε量差のもちこみ」を意味し、「計量tensorgは位置の関数」は「場の非一様性示唆」となる以上、最早a prioriに一様とする特殊相対論的時空像からの逸脱は明白ですね。

     違いに踏み込まず不透明なままの「不問状態継続」は実質「前段階思考維持」を意味するに他ならず、違い認知は明確に市民権を得ているとは思えない。

     物理的時空像への群論側のstance今後もupしてください。

  • >>No. 772

     例えば「表向きの綺麗事」というのは”内部状態の変化”にまでは立ち入らぬことによる、つまり「⇔の前後での系基準尺度1の違いまでは勘案しない形式的同一性を指す」と受け取れますが・・・

  • >>No. 1955

     一般相対論の「基盤回帰」指向;共に限界に直面の「原理」・「最先端」
    ○ 理論最先端は自身の適用限界に直面しているが、それは自身の原理・公理の限界でもある。
    「特殊」段階でのds^2不変は「近似度を高めるor系の入れ替え」に依る0・v状態間の同等視だが、元々位置を異にする2系は既に区別されていて”同一”ではあり得ず、一様時空なら始めから「どこも同じ」で改めて同じとする必要はない。つまり”不変”は本来不同なものを”仮りに同等としている”に留どまる(cf.#1752)。
     一般相対論は位置不同(→g・g’区別)を通して「原理的非一様時空の立場」に戻り「同一視の曖昧さ」に迫るものと言える。
     
     粒子・波動に関係なくε量変化・ε量差は本来運動主体間の状態区別である以上はv=0状態でもε量場の事象として系ε量は≠0であり、不変関係は3・4D特性同様”空”な時空状態や属性の問題ではあり得ない。
     これは「特殊」段階思考の不十分さ指摘である以上、そのことへの勘案なしの議論はどこまでも無理を残すことになる。
     
    ○ ds^2での宇宙考察にみるように、「0・v系議論も既に議論者の属する現実とは区別された抽象場での議論なのであり、どの系上でも同形法則が得られることで「一様時空維持」としたところで、局所区別は「それら各系は既に不同状態にあり、客観的対比では「基準尺度1は既に異なっている」とする立場で(←相対化の計量基準までへの徹底)、”0系上と同じに思える”のは「計測器(時計・物差or計測者)も計測対象と同比でvの影響下に入ることによる見かけ上だけ」とする。

     理論の性格の明確化には(1)現実と抽象数学的場の区別、(2)計測単位量の存在の確認 が不可欠で、(1)は現実をε量存在の場であること、(2)は連続も無原則でなく”計量単位のcount数差に基づく位置区別の上”で「場の一様性はその近似どまりである」ことを示す(ex.#1951)。

     上記はε=γmc^2からの展開近似であるHamiltonianが系のε量状態を表すことからも明らかで、特殊」段階ではε=mc^2=γmc^2の同等視止まりだった。

    「時空・事象の関連容認」は複雑化一方の数式依拠とは逆方向の、言わば”自省的思考vector”で基盤へ立ち返り、視野にはaprioriな一様時空像の見直しがあったのではと受け取れる。

  • >>No. 1954

     数式表現は現実の写像;抽象場の2次性!
    ○ 現実・抽象という区分を認める以上、数式表現を第一義的とする立場は「抽象場だけで閉じている」かの明白な錯誤に陥っている(その”症例”の一つが多世界議論)。
    「3・4D時空特性のa priori視」は、それに関する釈明が不可避に「事象やその移動・変化に帰している」事実を受け入れず、”その自覚に乏しい”だけ。

    「時空・事象の関連容認](cf.重力場の式)という基盤枠組の変革要請は「原理的非一様・非対称なε量的場に移行」となるが、これは今更"砂の中に頭を突っ込み、みえないから「存在しない」”に類する対応では済まない。

     従来の「a priori時空像に依拠の事象記述維持」は、より精細な一般相対論思考を”無視するだけの正当な理由を以って”のことか、単にその意味把握が不十分なまま”自身の殻の中での議論に終始しているだけ”か。 
     有効な限り近似手法継続のメリットはあるが、個別化の固有時主体のようなε量的単位の存在や周辺との区別などは「特殊」段階時空になじまない以上、その有効性に限界があり、絶対視できない。

    ○ 現実と非現実の違いはε量体存在の有・無にあり、無→有 への転化にはε量を必要とする。世界・反世界(or実・虚)の区別もその差に依るもので、抽象場はそうした現実世界の写像として効率的議論用に整理した場と言える(cf.Gauss平面を介した虚数→実数への転換)。

     現実⇔抽象 の対応関係で、抽象場でも議論の対象は”現実事象の写像”なのであり、確率表現の対象もその根底にある”現実の存在事象(存在確率1)の写像”であって、各項は”その様態の未確認部分をpendingとして列挙している”に留どまり、”対象の存否まで未確認”と言っているのではない。
     この根幹事情の見過ごしが問題の曖昧さの原因であり、〝多世界が現実である”かの錯覚もそうした各項がそのまま確定事項かに受け止めている点に起因する。

    ○ 事象を最初から確定と捉えてstartの古典段階に比し、量子力学的確率表現は事象自体の存否にまでは立ち入らぬものの、about状態部分に関する”より詳細な認証手続き要請”だと受け取れる。
     観測状態も「局所毎に異なる基準尺度1による」ことで”ds^2不変”も、絶対的同形・同一数値関係から「同一scalar区別による同形性]へ転換する。

  • >>No. 1953

     立場の徹底で見えてくること;”基盤変容”の受け容れが最優先事項
    ○「時空・事象の関連容認」は記述枠組と対象の関係への立入りであって、「対象の粒子・波動性に無関係な」それ以前の問題(ε=mc^2=hν p=h/λ c=λνなどで換算可)。
     関連性への言及だけで「4D性のε量体への完全移行」や「それに基づく場の非一様視」に直結する訳ではないが、「一般」段階で初めて言及ということは逆にそれ以前は無関係としていたということ。

     ε量場への移行で時空次元数のa priori性は回避できるが、時空的記述はそうした背後事情を明瞭に意識しないまま従前の時空像意識下でなされている。
     従来の記述法絶対視に制約を齎す一般相対論の”画期性”が逆に受容され難さともなるが、内在事象との関連なしでの時空の高次元化など元々不十分で無理が残る。

    ○ 例えば10D一様対称空間で6D部分のcompact化を図るという立場も、全体像として関連容認例とみれるものの、4D部分がa priori性維持のままというのでは、到底3・4D性の起源にまで迫るものとは言えず、”c有限な限り”「≠0な拡がりであるひも全体」を唯一通りの時間でcoverという点にも疑問が残る(4D特性の質点起源の観点から)。

    「測地線の式・質点の運動方程式の同等視(ex.#1860)」は全体像を「同一事象の2通りの捉え方」とする観点を許容するもので、それは「a priori時空像という従来的立場のままでの6D部分分割」という全操作を「実体的ε量場での事象間相互作用と捉え直す」ことを意味する。 

    ○ 一般相対論は、対象が極限的compact化で実験にかかるか否かという問題以前に、抑々「≠0なε量体なのか」or「理論基盤の10・11D性自体の実体性(時間次元の特性考慮)の有無」を問う段階に至っており、「背後に残る時空枠組との関係」も「”ひも”という拡がりでなく”存在量自体の変容での解決”を期している」と考えられる。

     一方に徹底した「4D性のε量体起源が可能(cf.固有時主体・担い手の個別化)」とする観点が存在し得る以上、「不十分な時空・事象関連容認」の立場には疑問が残り、不全基盤に立脚の論考は全体を一層の混迷に導くだけで、”より複雑な迷路入りの症状”に陥って終わることに(cf.Copernicus以前の周転円説)。

  • >>No. 1952

     一般相対論思考をどこまで活かすのか;「時空・事象関連容認」の展開
    ○ 原理と言えども人為的である以上は「仮定・仮説」であることを超え得ず、永劫不変であり得ないからこそ 一様3D空間・時間→4D時空→一様時空を部分空間とし包摂の非一様時空像へ と転化してきたはず(cf.# 1848 63 etc.)。
     非一様性は”空や無”などの属性ではあり得ず、少なくとも数学的多様体の存在が要請されるが、無限次元まで可能なそうした数学的時空・場の特性が「現実では3・4D性に限定される」のは何故か。
     一般的な抽象数学的時空とは異なり「現実時空は物質(ε量体)を内包」という事情に留意すれば、出処不明としての”不透明なa priori視維持”は解消できる。

    ○「両系不変」は元々原理的に不同な0・v両状態を近似処理したものだから、より厳密な「局所状態区別」の立場で変革を受けるのは当然だが(cf.不同な基準尺度1;g、g’)、理論が始めから明白な0・vの不同を敢えて同一視し展開してきた理由は何か?
     本来不同状態下の2局所を”同一と仮定する”ことで逆に”真に同一であるための要件”が探索され、その思考を段階的に繰り返して行くことで”異なる事情”の細部まで詰めることができる(→新粒子の発見等へ)。
     つまり不変同一は”最初から真実でなく、仮定・仮説止まり”であったが、「一般」段階思考に到って初めてその効用・詳述に辿り着けたと捉え得る(簡単過ぎることの解明ほど根源にまで遡及する洞察を要する)。

     時間的・空間的に同位置にない0・v(≠0)両系での不変量 ds^2=cdt^2-dx^2=(cdt)^2(1-β^2) は端的に(cdt)^2=(cdt^2)(1-β^2)を意味するが(ex.#1786 etc.)、これは明白な近似である以上「特殊」段階の原理Ⅰ・Ⅱ(変換不変性・光速不変)は、より厳密な局所区別の立場を採ることで「同形・異尺度1下での同一数値」へ転化、結局それは「各v(含・0)毎の固有時主体の区別」に至るものだ。

    ○「現実・抽象の対応関係」の前・後段での「存在量のε量差」・「数値化されたそのcount数」の”隣接”はともにその連続性予見の上に立つ。
     連続性は”存在量”を前提とするそれらの”様態”であり、粒子の確定値が近似を超え得ないのはそうした連続性の切断だからと考えられる。

  • >>No. 1951

     単位量なしの数値countなどあり得ない!;両系”不変”で「尺度1不同」も曖昧に(続)
    ○ 「時空・事象関連許容の認・否」で理論基盤である時空構造は根源的に変わるが(ex.#1949,50)、現段階の理論で一般相対論思考はどこまで斟酌されているのか。

     重力源は各ε量体であり、「特殊」段階まではそれぞれの立場での等価原理の下で意識されずにいたに過ぎないが、 「一般」段階で時空構造に組み込まれた重力の意義は、(その大小問題以前に)第一義的には”不可避な局所系間相互作用の表象”とみれる点にあり、微小領域での処理には一層の困難がある。

     0・v(≠0)を隣接2数とみるのと同一視との間は本来”千里の隔たり”であるに拘わらず、「特殊」段階までの変換不変性依拠の成功体験がその差異無視or軽視のままでの議論遂行を容認してきた。
     しかし既述のように、どの段階でも系間相互作用を免れ得ない以上、最先端でもgluon的存在の確定値は期待し得ず、究極粒子が存在するかの従来議論のapproachは結実するとは思えない。

     ○ 4D時空のa priori性解明に迫ったのは一般相対論思考であり、量子力学での粒子性は波動性の集約的表現とみれ、両状態はε量体の集積度の違いという”形態上の差異levelの問題”に留どまる。 
     いずれの状態であれその数値表現は”ε量単位の存在に依拠せず”にはあり得ず(cf.c=λν関係;hの存在or重力子etc.)、「単位1の違い」は対象‣計器を含む系間の客観的対比で顕在化する(非一様時空像に合致)。

    ○ 結局、ε量的単位の存在容認は古典・量子力学を問わず「抽象議論は実体的世界に起源」という対応関係は明らかで、確率表現での各項もそのまま現実なのではない(ex.#1918)。

    「時空・ε量事象の対応」に関して量子力学は相対論的4D時空像に依拠のままで格別新規な知見を齎すものでなく、その時空像の否定は自身の議論の否定に連らなり、一層の混迷に陥るだけ(←claimer的)。
     
     count単位の存在確認は4D主体のapriori性→ε量体への移行と軌を一にする。これが「一般」段階思考による非一様時空の存在意義に他ならない(ex.#1947)。

  • >>No. 1950

     単位量なしの数値countなどあり得ない!;両系”不変”で「尺度1不同」も曖昧に
    ○ 理論基盤に於ける変革はその全体像の解釈変更にも及ぶ。
     特殊→一般段階へ の移行に伴う時空の非一様化は”空”なる時空で生起することではない。この点でも前段階時空像の根源的変容は不可避で、それに依拠してきた理論全体の再解釈要請となる(#1483 92etc.)。

     連続2数の区別は「count単位の存在」に基づくが、人為的計量基準(ex.MKSA)に見るように、計量には「大きさ確定の基準単位1の存在」は不可欠で(#1950)、この事情は当然過ぎて必ずしも明瞭に意識されずにきたと思える。しかし 時空→ε量場へ の移行は「時間的・空間的変化・位置移動をε量的単位量のcount数と関連づけ」、この”実体視化”を通して「単位の存在も”より意識され得る環境”を得た」ことになる。
     これはε量体の形状(粒子or波動)には左右されない事情であるものの、現実→抽象 の射影の前段で無視or軽視の単位量の扱いは後段でも”持ち越し”となる。

    ○ 既に#1496 98 etc.や以降で指摘の繰り返しとなるが、時空の一様性が非一様性の近似という事情は結局「異なるcount単位1区別の可否」に帰着する。  
     これは「特殊」段階での2系での不変量 ds^2=Ση_ikdx^idx^k がより厳密には「一般」段階での不同な基準尺度(cf.g・g’)による同一数値に帰するということに他ならない。

     つまり、どの位置の系上でも”そこでの基準尺度”による数値である以上、不変・同一とされてきたds^2も”それぞれの尺度での同一数値とみるべきだ”ということで、客観的対比に基づく相対化の結果である。
     これは結局固有時主体の個別化に収斂されて行く事情であり、同一scalarの系状態による不同一化に他ならず、「数値の大きさは唯一絶対ではない」という点で「数式・数値の絶対視拒否」につながっている(←計量基準の相対化の結果(cf#1950)。 

     こうした、異尺度問題提起の一般相対論に触れない”一様時空像に依拠したままでの理論・記述”は不十分なminor changeでしかない。
    +130

  • >>No. 1949

     一様時空像の変容・矮小化;一般相対論による精査の成果
    ○ 一般変換の時空は a priori4D時空→実体的ε量場へ の移行を不可避とするもので(ex.#1949)、そこでの位置区別はε量的単位の存在を通しε量差の存在を意味する。座標系もそれを反映しているので結局「ds^2量もε量的に不同」となる(質量は一種の長さである!; H.Weyl)。

     これは原理的な一様時空像の放棄だけでなく、”系状態による同一数値区別の要請”でもあることで「一般」段階での”不変”関係をも「異尺度1(g≠g’)下での同形・同一数値」に留どめる。
     またこうした自身の立場の変革は結果的に「不変関係基軸の理論自体の絶対視に疑問を呈している」ことにもなる。
    「計量基準にまで及ぶ相対化の徹底」は理論自身の相対化をも意味しているが(cf.#1886)、「位置の連続」ということ自体「客観的対比に基づく区別の集合」である(”隣接2数区別を意識した段階での問題”で、有理数・無理数は関係ない)。
     そうした原理的非一様なε量場では単位ε量の存在に基づく隣接点区分は不可避だが、相互作用拒否の立場でない限り「隣接点との断絶は不可能」で、それが数値・数式の近似が不可避な理由と考えられ、そこに局所や点粒子個別化の限界があることにもなる。
      固有時主体に帰する”極限的粒子”も”近似処理に立った数値”という性格は免れ得ない理由がここにある(→数値・数式に拠る事象記述の限界性cf.1943~46)。

    ○ 同一数式・数値が唯一通りの大きさ表現であり得るのは場の一様性が前提の「特殊」段階までのことで、人為的計量基準(MKSJ単位系など)も「不同な局所状態間対比」では当然異なってくる。
     「一般」段階はa priori一様時空像下の「特殊」段階思考をshort-sightedとして包摂し、その絶対視からの離脱を促し、唯一通りの数値・数式をも「最終的・絶対的意味をもつもの」とはせず、その更なる根底check・精査を要請する。

     結局、数学の汎用性も「唯一絶対的に正しい」というのではなく、同一数値も「各局所状態に対応してflexibleに変わる点にある」とみるべきで、「同一scalarの大きさが基盤状態差に左右される」事情と「抽象時間の流れ・stopが事象の変化・停止に帰する」事情は同根と言える(ex.#1787)。

  • >>No. 1948

     「特殊」段階思考の正当な位置づけ:「一般」段階思考徹底下での
    ○ 不変議論の加速系までへの拡張(一般変換)は、議論の場の「時空→ε量場への移行」を余儀なくし、(1)明白な系間ε量差の存在 (2)位置移動の際の単位ε量の存在 を介して「特殊」段階思考基盤に”根底からの変革を促す”ものになっている。
     微小域に立入るほど困難は増大するものの、「特殊」段階思考に基づく進展は技術・実用面でのメリットは期待できる。しかし結局そうした側面だけで「一般」段階が指摘するような”根底的不備”が解消する訳ではなく、その成功体験・手法の絶対視には明白な限界がある。
     前段階理論基盤に関する”余りにも破格な変革要請である”点が、「一般」段階思考が未だ十分な把握・受容に至らない事由と考えられる。

     しかしa prioriな4D特性容認の時空像は、加速系・重力場の組込み以前の状況下での思考であり、「一般」段階思考下での部分空間に留どまる(局所毎の等価原理)など明らかに”十全な理論でない”以上、それは克服されるべき状況でないか。
     それには現実としての物理的世界像と”抽象的a priori3D空間・時間”の関係が明確に把握される必要があり、超弦理論に残る「弦とその背後の枠組時空」の関係も後者がa priori性を脱却して初めて首肯し得る合理的解決を得ることになる(ex.#1946 47etc,)。 

    ○ 原理的に留どまるものではあっても、位置の同・不同は実験検証の位置の問題をも含む事情にもある。
    既存理論による結果の実験検証以前に、その根底変革を要請する「一般」段階思考の当否の確認こそが必要ではないか。
     a priori性に基づく対称性理論が「現実では破れていることがある」などと言うこと以前に、逆に「同理論は”現実との接点なしのa priori性”で現実を説明しようとしていないか」、そのことの可否こそがを問われるべきではないのか。
    「一般」段階の提起している真の問題点はそこにあるのだと思われる。

     Newton力学・「特殊」段階間とは異なる近似事情であるとの認識の下で「特殊」段階思考の現実・抽象との関わり方を精査、正当な位置づけが要請されているのでは。

  • >>No. 1947

    ” 相容れない時空像”の併立?;不可欠な両時空像区別
    ○ 古典‣量子力学を問わず、議論には”1/0表示”に基づく「対象の存在」が先決であり(cf.(1・n)形式(ex.1934)の「1」部分)、時間的・空間的を問わず、抑々変化・変位に際し「単位の存在とそのcountなし」での
    位置区別は不可能で、近似上は別として”時空が一様”とは例えば「軸上のどの位置も区別がないことだ」とすると、順序数による位置区別の意味がないことになる。だからどの段階での数値countであれ、数学的場の性格に立ち入らずには済まない。

    「計量gは位置の関数」と言うには、時間的・空間的を問わず対象のε量運動の結果としての”明白な位置区別の存在が前提”であり、局所での「≠0なgの2階微分成分の存否による局面の直・曲判定」は「重力構造と不可分」である以上、座標値は「事象の単なる位置指標」と言って済む問題ではないし、対象の局所・非局所性は相互作用を読み込むか否かの問題と言える。

    ○「時空・事象関連容認」は、a priori4D時空へのε量体のtappingである点で「特殊」段階思考基盤の完全性(integrity)から変質への突破口となり得る。
     ≠0なε量的単位量の存在がa priori4D特性とは相容れず「同段階思考の変容要請に連らなる」ことからも「一般」段階が単純な前段階の延長ではなく、唯一であるべき理論基盤はどちらであるかは明白でないか。
    「大域慣性系の存在拒否」は単にscale上でのことに留どまらず、0・v同等視という微小域に至ってもε量性の持込みによる「その本質の改変要請」となっている。
     こうした事情認知が不十分なことから、従来のa priori特性思考は温存・持続と受け止められ「異質な時空像の併存に見えている」が、実はそれは「両時空像の本質的差異への考察不十分の表われ」でしかない。

    ○ a priori性基盤はε量とは無関係だが「一般」段階はそうでない。それは「質点(≠0)の運動方程式が測地線の式であり得る」という事情が”時空・物質は重力場の式を通して相互に規制し合う”という把握以上に、「質点の運動という単一事象を”物質(ε量体)・時空の双方から捉えている”」とできることでも示され(ex.1860)、「事象・時空の関連容認」は実はこうした実態を表現しているものと言える。

  • >>No. 1946

     一様・非一様時空像の乖離;合理的自然像のみが理論基盤に適格
    ○ 理論基盤の3・4D性がa prioriかε量場起源かは当然理論の全性格を決定づける。
     前者なら不透明基盤に起因する抽象場が総てかの不透明さを脱し得ず、逆に≠0な単位ε量の存在が前提の後者では「自然の合理的説明」という”理論の意図”に明瞭に則していることになる(cf.#1936~)。

    「時空・事象の関連容認」の「一般」段階でも明確に同特性のε量体起源に踏み込んでいる訳ではないが、加速系にまで及ぶ一般変換下でのds^2議論はε量的観点抜きではあり得ず、計量gの2階微分の"≠0な成分の存在"は「隣接2局所の不同宣言」であり、局所区別を認めないa prioriな一様時空・「特殊」段階思考基盤を前提とするds^2”不変視”の拒否を意味する(cf.#1945 46etc.)。

    0→vまでへのprocessを加速前後の2系と捉える”より詳細な立入り”は、「原点の不定定数処理」・「vの出処不明」など「特殊」段階依拠の不変議論に残るε量的問題解明を通してその不備に言及、問題の根源は理論基盤にあることの指摘となっている。
     更に「≠0な単位量の存在前提」はまた「局所状態差に基づく同一scalarの不同・区別要請」でもあり、「一様x軸上の順序数区別」を介し”数学的時空像及びそれに依拠する理論の限界を示唆”ともなる。
      
     要は「一般」段階思考の主張は「隣接点(系)との間で”ε量的不変はあり得ず」、古典・量子段階を問わず「特殊」段階的不変思考下にある限り「根底に残る不透明さは解消しない」と言う点にある。

    ○ c=λν=1はcのみならず,どの段階であれε量体・粒子の波長・振動数とも逆に「時間の単位1の代替であり得る」ことを意味し、4D性を介しての事象・時空関連を証するものと言える。
     こうした不変な単位的(素領域的) 拡がり・区間が「各時点での固有時の主体」であることを」通し「個別ε量体(粒子)」に連らなっている。

     結局、≠0なる限りds^2不変は「区別されるg・g’毎での同一数値」どまりで、前段階思考下でのような「理論は無制限に有効であるかの絶対視」は主張できないことは明らか。

    「時空・事象関連容認」は、自身基盤の存否にまでも及び得る”理論内からの 発信”である事に重要性がある(cf.1921etc.)。

  • >>No. 1945

     「一般」段階での位置区別と「数学的時空像」の関係
    ○「事象・時空関連」思考での事象記述も 存在事象・その変化⇒3D性・時間経過 という現実・抽象の対応関係下にあることに変わりなく、世界は抽象場での論理だけで閉じている訳ではない(←感覚的な存在)。

     抽象場での0・v系対比に関する使用時間系は一様な「特殊」段階的a priori時間系(dt)であっても、それは ds=cdτ=√(1-β^2)cdt 関係での「v=0状態におけるdt、つまりdτ」に他ならない。
     dtなのは、それぞれのvで運動の各系上で「vが記述対象と時計・物差(or計測者)に同比の影響を及ぼすことによる相殺の結果、どの系上でもv=0系上と同一状態にみえている事情を示す」に過ぎず、同一方向の他系との客観的対比では系基盤状態が既に異なっていて「異尺度1での”数値上・みかけ上だけでの同形・同一数値どまり”」になっている。
     これは「どの系上の使用時間もそこでの固有時」という事情を説明するものであって、dτによる記述も即自的には自己計量として発散となる点で時間の本質的性格を表わしている。

    ○「特殊」段階までは”無用”だった上記位置区別への立ち入りは、結局Newton力学の時空が依拠の数学的一様時空の性格にまで遡り、そこでは例えばx軸上の一様視は位置区別なしで成立だが、「軸上での隣接2数の位置の違い・区別は何を意味しているのか」を問うことになる。
     その際不可欠なのは「変化の単位」(各時点での固有時主体の空間量)の存在で、結局それは「ε量的質点の存在容認」に行き着く(cf.#1942 43)。

    「一般」段階の時空像は非一様なε量的場であっても、近傍との相互関係は否定できないことから「近似処理」は回避できず、局所系(単独粒子)の確定ε量は得られない。
     しかしその視点はそうした自身の足場でもある「特殊」段階基盤維持あるいはそれに基づく手法の絶対視を最優先とはせず、「変化・変位の単位量なし」での一様時空像に残存する不透明な曖昧部分への切り込みを実施、結局は「同一数値(scalar)はどこでも同じ」としてきた事情or「数学的時空での数値区別・局所性」という基盤へも疑問を提起していることになる(cf.#1940 41)。

  • >>No. 1944

     一様時空像への転向;「存在単位量軽視時空」の限界(続)
     ○ 0・v系区別は両系状態の客観的対比によるもの。
     議論者は第三者的立場にあり(例えば:”自身の属する宇宙”も抽象場・頭の中でのこととして客観的に議論対象になり得ている!)、「どちらの系上観測者とも別な存在」との認識が不十分な限り、ds^2不変が見かけ議論であるかの混乱からは脱し得ない。

    「計量基準までへの相対化の徹底」、つまり「局所慣性系毎の等価原理」・「局所重力区別に基づく系毎の計量基準1の区別」は、”変化基準単位量なし”で構築の「特殊」段階的a priori4D時空像への変革要請となり、それは不同位置にあるgauge不変議論にも及ぶ。
     「一般」段階ではε量体の位置不同は単位ε量の差に帰し得る。他方「特殊」段階は”実際には存在のはずの単位量”の無視orせいぜい不十分なimplicit処理という曖昧状態にある。

    「単位量の存・否(≠・=0)」は存在(≠0)が前提での「不確定性や”揺らぎ”」などとは別問題(cf.#1483 84 98)。

    ○ 思考・理論の変革は従前範疇の踏襲からは期待できない。
     a priori時空像維持の立場では「時空・事象の関連容認」をどう捉えているのか。
     時間に関してだけでなく(Augustinus),、「空間の3D性はどこから出てくるのか(H.Yukawa)」などの疑問は「既に克服済みで疑問の余地などない」というのか、それとも「抑々何故疑問なのかさえ把握できなていないに過ぎない」のか? 

    「現実の場・そこでのε量事象の変化・変位」➡「抽象場での時間・空間を含む記号・数値的処理」 への移行に際し、「”≠0な存在量としての対象の実体性”が”記号・数値表現にすり替わって実体的大きさ区別の喪失に至っている」とすれば、”抽象化・数学的処理に問題がある”ことになる。
     vector・tensor場が対応するのは「”無や空”でなく多様体」であるべきで(ex.#1481) 、そこに抽象的枠組絶対視を離れた 現実⇔抽象場対応図式 の必要性が出てくる(cf.天体の周行や原子時計(原子内振動)と時間の関係、立体幾何学の存在と3D空間の関係など)。

     どの局所系も等価原理で既に重力込みであるなら、繰り込みでも量子場でも「改めて重力が議論対象となる必然性」はあるのか。

  • >>No. 1943

    一様時空→非一様時空像への転向;「存在単位量軽視時空」の限界
    ○「時空・事象関連容認」は「特殊」段階的a priori時空像を瑕疵なしとはしない(ex.#1483, 98…後半の?は⊿の文字化け)。
    自然像の解明に際し数学の有効性は言うまでもないが、それは”手段どまり”で「そのまま自然ではない」ことは座標系やvector・tensorの性質を決めるだけでは時空像は決まらないことからも明らか。
    数学世界が総てかの立場を採ると「多世界がそのまま現実」か「可能な未確定状態の提示」かなどの区別が混乱し、理論上の結論を確認・検証する”実験processの位置づけも問題となる。

    「0・v(≠0)区別徹底」の立場では、無限回微分可能性(←gの2階微分による接続判定の延長線上)といってもそれは「0・v位置の区別をした上での”非0系状態継続区間に限って”」のことに止どまり、異なる0・v同等視〈”原罪”!)に立脚の一様時空思考は原理的に”異なるものは区別する”という計量の本義に悖り、”原罪”が免罪符を得ている訳でも、自身の正当性がclearに保証できている訳でもない(cf.Goedel))。
     抑々両系同等視が絶対視できるなら近似思考の適用自体が自己矛盾であり、時空が「原理的非一様なら「対称性の自発的破れ」も始めから自明だったことになる。

    ○ つまり「特殊」段階思考に関わる問題の根幹は「理論基盤である時空像への踏み込み不足」であり、例えば何故無限次元まで可能なのに現実時空は4Dどまり(or aprioな3D・時間でstart)なのか、「超弦理論の弦とその背後時空関係の不透明さ」などが答えられぬまま残っている。 
    記号・数式化は効率的だが、それらは”元々何かのimageの置き換えである”という単純な基本事項が看過されていないか(理論的結論が何故時空・電子などという表現での説明に帰着するのか)。

    ○ こうしたことは如何に横断的に数学の諸分野に通暁していても、それだけでは出てこない!
    「時空・事象関連容認」への踏み込みの画期性は当にそうした抽象内思考に留どまらぬ物理的現実感覚からの発信である点にあって、0→v間をも加速processと捉えることで両状態系間の「明白なε量差、つまりexplicitな”変化の単位量の存在”」を意識づけ、それがε量的非一様時空像の導出に至る。

  • >>No. 1942

    「局所系毎の等価原理」→非一様ε量場;「局所重力区別」からの帰結
    ○ 「時空‣事象関連容認」は局所重力区別を介し「特殊」段階的a priori4D時空像からの離脱可能性を示唆、同時にこれは従来時空像に依拠のまま重力問題に取り組もうとする量子力学手法へのwarningとも言える(量子力学に限らぬ「”時空単位量の有無にまで遡る”物理的実時空像の問題」)。

     と言うのも、古典段階で系のε量状態を意味するε=γmc^2からの展開 H =mc^2+mv^2/2での、2項表現が既に問題と考えるから(cf.#1940etc.)。
     つまり運動の前後を通じ主体は一体としての局所系mc^2(粒子像)で変わらず、運動v(≠0;γ≠0))状態へ移行後もmv^/2の主体でもあり続ける → 既に「位置不同(=異尺度1)での同形状態」ということ。
     
    ○ 結局4D時空像も計量(数値)も記述対象である「ε量事象の存在が先ずあってのこと」であり、ds^2量の単位として「大きさ≠0の光子に帰着」する。
     光子は専らε=cp関係で論じられているが、ε=mc^2関係回避の明確な論拠は何なのか?p=mcで「質量に関する従来思考」の方を変更すればよいだけでないのか。
     
     一般相対論が到達し得た”自然像”は、局所重力区別の視点で慣性・重力質量関係(等価原理)を捉え直し、「他系との客観的対比では、数値c=3・10^8は計測者の系状態次第の”異尺度1での同形”(計量基準の相対化)」ということであり、これは一体視できる「explicitな”変化の単位‣core”の存在」に通じる。
     一様時空という”拡がり”はその拡張で、有限宇宙の存在はそうした単位量の存在と不可分であり、逆に単位のない大きさ・広がりは一様以外ではあり得ず、その限界も規定できない(順序数も”変化単位の存在”にも拘わらずimplicitなままであることで座標系のような”一様な場”を演出)。

     2局所間の関係や全時空は局所重力区別により「非一様なε量場」として既に提示されている(#1930 31~)。Schrõdinger式でも宇宙方程式同様に系全ε量としてのHamiltonianの扱い・捉え方に問題なしと言えるのか(#1880 81etc.)。
     量子重力論に知見はないが、上記以外に重力をどう取り込み、どのような時空描像を求めようということなのか

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