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投稿コメント一覧 (240コメント)

  • >>No. 1989

     ≪ 現実はdynamicな非一様ε量場;「a priori4D時空」はε量場に収斂 ≫

     ○ 抽象場での「時空・事象関連」は 等号(=)左右の一体化にまでは至っておらず、その不徹底さが現実の場把握に際しても抽象的時空概念の残存を許容と考えられる。 
     論理性最優先の理論が自身の枠組自体をa priori視のままということは自身の立場への自省不足ということでないか。
     移動・変化には必ず≠0な主体が存在、抽象的時間の経過も時計の進みを含め「事象の変化・移動なし」では認知され得ないし空間的位置移動も同事情、更に言えば「位置移動は時間経過なしではあり得ない」。
     ε量事象の運動・変化は抽象場ではa prioriな時空枠組(座標系)内で記述されているが、その枠組自体が対象ε量事象の特性を反映して成立しているもの。
    「時空・事象の関連」は究極的に事象に収斂しての一体化で(cf.質点運動と測地線ex.#1987)、その全体が「非一様なε量体で構成の場」であることに(←sampleは個別化した固有時のε量主体・担い手。そこでの即自的時間・位置の限界は「抽象的存在の2次性・限界」を示す)。

     座標値は本来a priori視4D時空側でなく「事象側のもの」との事情は未だ明瞭に認知されていないのでは。
     慣性系の局所視からも「一様・対称時空像」は”人為的理論体系で必須とする枠組構造に留まる”と考えられ、理論の全体像は「現実の写像」であって、対応する現実ナシでは架空のものとなる。

    ○ 固有値方程式 Hφ(r)=εφ(r) 自体は抽象場のもので、波動関数φは”状態”という多少曖昧な拡がりを持つ表現を採っているが、それに作用する物理的演算子は対象の変容を要請する(→固有値へ)。
     つまり「演算子自体が確定すべき対象(状態φ)を受容の上で「その確定」に当たっており、右辺のφ(r)は「得られた解としての数値εはあくまでφの量であることの明示」ともなっている(#1940)。

     「時空・宇宙」は重力場の式の左右両辺一体化で統合され、両者の接点と言える粒子所在地での時空量・ε量間の読み替え操作は上記演算子の作用とparallelに思え、量子力学でのHeisenberg ・Schrõdinger 両表示の実質同等性は結局「想定される時空・事象の統合状態の妥当性」を意味していると受け取れる。

  • >>No. 1988

    ≪ 事象は理論枠組以前の存在:古典・量子力学不問 ≫ (続)

    〇  つまり、「時空・事象の関連容認」に基づく「理論基盤の変革要請」とは、「特殊」段階での抑々の仮説”0・v〈≠0)同等視”は「原理的に不同なものの同一視に他ならず(”原罪”!)、それの許容は「計量の本義”異なるものは区別する”に悖る」という事情へのimplicitなwarningと受け取れるということ。

     ∵ 一般変換での同等視の「加速系までへの拡張」は、0・v系間は 0→vまでへの加速processの前後の2系と捉えられることで当然「ε量不同」を意味し、「同等視への疑問惹起の契機であり得る」のだから。

     両系位置不同(←尺度1区別に直結)の座標軸上への反映は順序数の違いで示されるが、そうした違いの同等視は「基準尺度1の各位置での違い無視に”落とし込んだ上で”」で得られていることになる。
     唯それは表面的な糊塗でしかなく、「異なるものが同じ」になることはない(”近似”処置を除いては)。
     0・v区別は「客観的対比の結果」であるのに対し、「特殊」段階的同一・不変視は各系上それぞれでの〈言わば各主観的立場で得られる)同一数値を以って”何処も同じ”とする類推で成立しているに留どまる。

     これは理論の成立基盤自体への内省から出てくるもので、物理内思考に止どまらぬ「人為理論の限界の指摘orその絶対性の否定」と言える。
     
     0・v同等視は「”客観的な非一様状態”の”一様視”」であり、「”原理的非対称”の”対称視”」に他ならない。
     「特殊」段階は「不同なものを取り敢えず近似的に同等とし」、その仮説(仮定)に立って論理的。数学的議論を浸透させてきた。
     しかし”より微小差・微小域への立入り・究明”となる「一般」段階や量子力学段階ではその近似度が俎上にのぼらざるを得ないのであり、”近似”の追究段階に入っていることになる。
    「固有時の個別化」もその一環であり、究極では4D性は個別ε量体(物質)の時間成分・空間成分に帰することになる。

    ○ 抽象的数学と自然の関係として”自然は純粋数学によって初めて完全に説明し得る”かの主張は、既に自身の体系外の”自然”の存在を認知している。
     「現実と抽象場の対応関係」は認めるべきだし、その理論体系自身の完全さの保証もないはずでないか(cf. ゲ―デル)。

  • >>No. 1987

     ≪ 事象は理論枠組以前の存在:古典・量子力学不問 ≫ 

    ○ 古典・量子力学を問わず理論の目的はε量事象の解明であり、対象・その記述枠組の関係は当然前者優先で、それに合わせ枠組は事象特性に準拠でなくては役立たない。 
     時空の4D性や確率表現という枠組も先ずそうした特性をもつ実体(記述対象)の存在が前提でapriori4D枠組への不調和感は当にそうした事情から。
     ”空”と対応する主体事象(ε量体)が先ず存在していて、それらの特性としての3・4D性判断には幾何学的経験に基づくone cushionを要する。
     その枠組・時空構造の変革は「4D特性の対象ε量体起源」までへの遡及で初めて明確になる。

     確率場の対象もそれ自体は実在量(存在確率1の事象)、唯その細部は検証までは未確定との立場で各項列挙とみれるもの(可能性段階どまり)。
     検証なしで確定扱いしてきた古典論段階の対象も、確率表現の導入で原則”要確認”とすることになったと捉え得る(微細域が主対象の量子力学の展開と呼応し)。

    ○ 物理学は実体的ε量場での事象解明が目的であり(抽象3D性・時間枠組のapriori性究明もその一環)、抽象場・数式上議論はあくまで解明の手段どまり。
    「抽象場議論が総て」かの立場はその主旨から外れ考慮外とするもので、要検証の立場の放棄ともなる(cf.多世界の”実在”視 etc.#1918)。

     抽象場・数式内で使用の記号・数値が「現実での存在量の代替表現である」ことを認めるなら、それは既に抽象化以前の対応量の存在認知を意味する。そうでないなら何を表象していることになるのか?

    ○「時空・事象の関連容認」は理論基盤の変革要請と考えられ、理論基盤の3D空間・時間枠組のa priori性にまで踏み込まぬ限り変革は未了で、非一様時空像下での同形・同一数値は「計量基準1不同」にまでは立ち入っていない。

  • >>No. 1986


    ≪ 逆の発想が”近道”;時空・事象の一体化へ≫

    ○ 元々”物質(ε量体)と空間”の対応は”実在と無”の相補的関係を表象するもので、数式上での事象追究のbaseにある関係性。
    ≠0な点imageは粒子・波動両性具有の物質存在を象徴し、対時空は「両性区分に無関係な”それ以前の”問題」(区分はscale的にどちらに傾斜しているかの程度問題で副次的)。

     論理矛盾とも言える「”空”∧3D特性」の安易さには、”その間にone cushionあり”と繰り返してきたが、数学的nD特性の場は少なくとも多様体であるべきで、「時空・事象関連容認」はそこへの踏み込みに当たる。

     その物理的表現が重力場の式であり、右辺のT_μν(energy・運動量tensor) が示す物質性の「優先」が左辺の「”a priori起源時空”見直しへ」の契機となる(←基盤に残る”欠陥の除去"で理論の論理性貫徹へ!)。

     左辺優先で不透明なa priori性のまま「屋上屋を重ねても一層混迷を増すだけ」であり、数理論的究極でその不当さが証されることがあっても、それは一般相対論超えでの難解の極だろう。
     だから逆に”特性の担い手は実体”に矛盾しない「”4Dε量体表現”の右辺優先思考」で理論の”浄化”へ。
    ∵ 基礎概念は基盤・最先端で一貫のはずだから(そうでなくてはおかしい:現実⇔抽象場議論 の構図)。

    ○ 固有時の”-担い手(ε量体)想定”(ex.#1775)も、「理論baseの時空から不明瞭なa priori性」を除去し透明化に資する(←vに応じた個別のcarrierが時空の非一様化に対応)。
     更に、抽象場での「質点の運動方程式は測地線に沿う」という事情(#1880 60 21)も、現実の宇宙・ε量場での生起事象の一体化を示唆している。

     Hamiltonianは”ある時点”における「変化の単位・主体ε量」であり(含・v=0状態)、厳密には時空点毎に変化する近似的量どまりで(cf.”時間を含まぬ”Schrõdinger式 )、これは「個別化した固有時に類する性格」をもつ。

    「時空・事象関連容認」は「理論基盤重視」、つまり”抽象的記述・数式”と”それ以前に存在する対象”との関連性を強調するもので、議論の場の4D性もそこから出てくる。
     
     ”相対”論に「一意絶対計量の存続」はそぐわない。

  •  ≪ 事象・時空の相補関係;現実・抽象の対応構築へ≫ (続)

    ○ 相対論はどの慣性系も同等というconceptで導入した位置不同な座標系間で”不変量ds^2議論”を展開してきたが、「特殊」段階の時空はε量場でないので、平行・回転を問わず2系間の運動状態or位置不同因を”ε量差”として捉えていない。
     原理Ⅰ(→同等・同性形)も大前提の「一様時空」が既に含意するものだが、理論創出に際して”一様時空に立脚する”との「理念の表明」であり、電磁場も実体としての一様視以上に自身の基盤に迄踏み込んでいる訳ではない(電子・光子も4Dε量主体)。
     しかし「一般」段階の位置に応じての計量尺度区別(g≠g’)は、同形性維持思考は変わらなくても”両系間の不変”に再考を促すもので、光速cを含む両系同一数値に「異尺度1による不同(→局所毎での同一scalar区別による原理Ⅱの破綻)を齎したと捉えるべきで、「gauge不変」判断も純理論的に一様・非一様性に踏み込む以前に現実・実用性に傾斜しての採用でないか。

    ○ 宇宙と枠組時空の違いは何か。
    現実時空or宇宙は「事象内包」だが、それとは別の”内在事象と無関係なa prioriな座標系(時空枠組)”は「内在宇宙の影響・宇宙時との関係はどうなのか?

     ”超ひも”議論などに残る「ε量体とその背後の計量用時空」、あるいは「実体的宇宙とそれをds^2量として記述する背後の時空」の関係など、一様時空像下での自然記述どまりで「時空・事象の関連容認」への斟酌など無用とする立場なのか。

     一般相対論がこれまでの成功体験の基盤自体へ立ち入っての省察であるのに比し、従前思考・状況の延長上の思考のままで「抽象概念は経験と全く無関係に想定される」と捉えているとすれば安易で、「a prioriな”空間”の3D性・時間の容認」は自身基盤への省察不足としか思えず、そこからは新機軸に連らなるような発展性を期待できるとは思えない。
     
    ○ cの各座標系での計量基本単位への読み込みは単にdt・dx間の物理元統一要請を充たすだけでなく(dx=cdt)、基本的ε量体として「時空・物質関連性を象徴」する。
     系間対比は系全ε量によるなら、Laglangianでなく「従来のpotential部分までを含むHamiltonian によるべき」でないのか(#1928~)。

  • >>No. 1984

     ≪ 事象・時空の相補関係;現実・抽象の対応構築へ ≫

    ○ 一様時空像下で「どの系でもc不変」というのは「v系上では対象・計測器(計測者)とも一様にvの影響を受けることによる相殺効果で既にv差を問題にする契機がない」事情による。
     ところが加速系までを含む一般変換は不可避的にε量場の議論となり、0→vの位置移動を加速processと捉えての「より微小域への立ち入りcheck(α=d^2x/dt^2)での位置区別」によって一様時空像は最早維持されず(g≠g’)、「系基盤の不同状態」に基づき「cも各局所系上で同一数値であっても既に”異尺度1”によるもの」に変わっている。

    ○ 一体、”空”が”何か特性の担い手”であり得るものなのか? 
     誰かが”ある晴れた日に”全く唐突に「空間は3Dであり、時間の流れがある」と思いつくものだろうか?。
     それらのa priori視はその唐突さの容認に等しく、「時空・事象の関連容認」までは「現実の物理基盤枠組は”内在物質とは無関係”」とするそうした立場を一貫して容認してきただけでないか。

     時間概念は天体の周航・原子時計などにみるように「事象変化と不可分」であり、Newton力学と数学の密接な関係から「3D空間は幾何学的3D体が存在する場」からの演繹とみなすべきで、「無限大まで可能な他次元選択でない」こともそれを示唆している。

     数学での○○空間というのは既に”空”でなく、ある特性を持つ”場”(実体概念)なのであり、単位vectorの存在があっても「隣接点との区別or順序数区別」は”一様性最優先の大前提下”では曖昧化or無視される(→一様時空の本来的近似性を示唆)。
     現実を対象とする物理学では、存在物質(ε量体)に≠0な定量を要請することがそれを内包する空間との区別となっているが、数学的手法依存の一様な抽象場ではその「大きさ0な点」意識を脱し得ないでいる。

    ○「物質」と「空間」はその実体性の有無で区別される。しかしその対比自体が他方の存在によってもう一方の特性が浮上・認知されるという一種の”相補関係”にある。
     唯、現実時空内に物質(ε量体)が存在する以上、両者に共通の4D特性は”空”でない「内在物質に由来」とすべきで(←”固有時の個別化”に通じる)、結局これは「現実と抽象場の区別・対応関係」問題に収束する。

  • >>No. 1983

    ≪ 原理Ⅱ(光速c不変)の raisond'etre;”慣性系局所化”に耐え得ない!≫

    ○ ds^2の”不変”議論で、同形性は必至だが原理Ⅱに”開き直り”などの評がまつわるのは設定の判断根拠に疑問の余地があるから。
     現にその遅速は「一般」段階で時空の歪み(⇔不均一な物質存在)による湾曲で認知されているが、原因は 「不同とした0・vの同等視」にまで遡る(cf.#1975 76 83)。

    一様時空では元々場所による区別がないのだから「位置不同の座標系間やcの”同等”」も始めから含意しており、それらの間の近似処理なども不要なはず。
     それなのに一方で0・v〈≠0)区別に即した座標の変換関係を考えることで両者間の区別の有無に曖昧さを生じている。
     Galilei変換がc不変を充たさないというのも「v差に基づく区別」が原因で、これは特殊段階でも同事情だが、差を微小とし近似で同一視、x・x’やt・t’間の違いを「一方からみることによる”みかけ”」かの説明を採っている。  だが問題の本質は、”一様時空容認の上で”の「v差の齎す位置不同」に留どまらぬ、もっと深刻な「baseである”時空の一様性自体の近似性”levelで捉えるべき事態であること」にあって、一般変換が不可避的に齎した”時空のε量的場への移行”を俟って説明されることになる。

     Maxwell式では特別の慣性系を選んだ訳でもないのに「どの系でも不変なcの出現」となったが、元々一様時空下では座標系の区別がないのだから「c不変」も別に奇異なことではない。
     「特殊」段階での”みかけ”」差扱いも本来一様不変との思考があったからだろう。唯、それなら何故当然含意済みの不変cに関し殊更に”不変容認”の「原理Ⅱ」設定の必要があったのか、となる。

     この曖昧さの因は「0・v区別の有無が不明瞭」と言う事情に帰し、その解明不十分なことから「Maxwell式事情を斟酌しての”開き直り”」との評が流れることにもなる。

    ○ 結局”ε量場時空”は本来的に非一様であり(定常性維持には要・不断なε量補給)、0・v区別も表層的なv差でなく、一般相対論での慣性系局所化指向・位置による計量tensor区別(g≠g’;不同な基準1)下で捉えるべきことに。 
    (各局所性は個別化固有時の主体(粒子)に帰着 ⇔ ”一様な大域慣性系”の拒否)

  • >>No. 1976

     ≪ 抽象4D特性は”固有時の担い手”に帰着;時空・事象関連のsymbol ≫
      
    ○ 抽象理論が現実を説明と言えるのは現実に起因・そこが出発点だから。理論結果の検証も現実場でなされ、合致しないと排除される。
      受け止め方は種々でも 存在する自然は一つ。
     物理理論として「特殊」→「一般」段階への進展の最大の変容はbaseである4D時空像の ”空”→ε量的実体へ の転化にある。
     真空のenergy・振動子などは従来の”空や無”と対照をなす「”実体時空”の基本量」とみるべきで、座標系の運動はその原点に存在のε量体(0‐tensor)の運動・変化に帰着、それが0・vなど不同位置にある系間関係を規定する(数学的多様体もそうしたtensor場として”空や無”と区別、「対称性の破れ」も殊更なnewsでなくなる)。

    ○ 物理・数学を問わず、隣接数値との区別に際し”変位・変化の単位量の存在”は不可欠で、その認知が不十分なため根幹の「場の一様・非一様区別」に曖昧さが残り続ける。
     人為的MKSA単位系も「立場の唯一絶対性・局所性区別」への言及なしに”一般性を主張”しているだけ。

     そうした「状態区別」は「固有時区別」に直結する。   
     固有時は「事象変化と時間の関連を端的に示すもの」で、#1976での dt’=√(1-β^2)dt は”不変扱い”の ds=cdτ=√(1-β^2)cdt そのものであって、「β区別はdτ従ってまたds区別」に通じる。
     一様時空・数値の一意絶対視思考下でこの固有時区別は回避されたが(#1972)、cは時間経過の単位がε量体光(子)に関連づけられることを示唆、その大きさは局所状態に依存し、dx=cdtの適用で「dx・dx’関係はdt・dt’関係に帰する」(#1787 88)。
     この一体化は、既述のように個々の局所系(粒子)に帰着、それのscalar・vector potentialを意味していることになる。
     こうした時空・事象関連容認に基づかない議論はいたずらに”藪を叩いて出てきた蛇を追い回している”に類するものでないか。  

    ○ 理論が数式上で唯一通りに決定しても、「局所毎での同一scalar区別」はそれが唯一絶対的ではないことを意味し、完全性判定には至り得ない(→ゲーデル的)。 
     これは結局「人為的理論の限界」を示唆している。

  • >>No. 1976



      ≪ 削 除 ≫   #1977~#1981  m/c trouble

  • >>No. 1975

    ≪ 数値上の 遅れ・短縮は単位levelでの問題;非一様時空下での計量基準相対化 ≫
      
    ○ 0・v(≠0)系間の不変関係をε量場での問題としてみると ε=mc^2=γmc^2・・(1)。 この成立に必要な条件はγ(=1/√(1-β^2)=1(cf.#1796)、つまり”何らかの形で”運動vのもたらす効果(γ差)を除去すればよい。
     唯、自然の側に「特殊」用、「一般」用の区別などある訳がないのだから、遅れ・短縮の説明も統一すべき。

     先ず、前者の一様時空像下ではどの位置の系基準尺度1も区別がないはずだが、v差が過大になると矛盾が目立つので当初からv≒0の近傍という制約を課してある。
     しかしv≠0使用での同等議論は原理的にやはり無理。そこで一様時空という大原則維持のため
    dt’=√(1-β^2)dt(やdx’=√(1-β^2dx) 関係でのdt≠dt’(dx≠dx’)の数値不同を、断定表現「0(xt)系上に比しv系時計の進みは遅れ、長さも短縮」を回避(∵両系同等ならそのようなことは有り得ない)、「0系からみるとv系上がそう見える」と「みかけ問題であるかの表現」を採る(ex.β=0.6 dt=60;dt’=48)。ここに両系同・不同の曖昧さが表われている。

     他方、後者の非一様時空像下では、客観的対比での”運動状態or位置不同”に基づく系基準尺度不同(g≠g’)は「実際」で、「0系上と同一数値となるのは対象・計器(時計・物差;計測者)とも同比でvの影響を受けることによる”みかけ”」となる。

     数値は(単位量)・(そのcount数)の積。だから「一般」>「特殊」の優先度に従うなら、両系の数値差は「どこも一様ゆえでの”みかけ”」処理でなく、系間の客観的差異としての「単位長差での説明」へ。

    ○「一般」段階でも近似的にg≒g’であり得るが、それも先ず位置区別があってのこと。それによる原理的区別(g≠g’)の立場に立脚しないと、”より詳細な局所区別”に立ち入っての ”大域慣性系の拒否”→”慣性系の局所化” という主張の流れが怪しくなる。

     局所区別こそが 固有時間の区別→「4D特性の個別粒子(局所系)への帰着」 に至る出発点であり(cf.#1787~)、「計量基準の相対化」の代償は「同一scalarの局所状態による区別」に至る。
     一般相対論はその可否を問うもの。

  • >>No. 1974

     ≪ds^2”不変”とg≠g’の相克;potential部分のHamiltonianへの組み込み≫

    ○  物質(ε量体)は始めから現実"時空”内に存在しているが、Newton力学が依拠した数学的場・空間内の各点はその特性表象に留どまり、それと異質な存在物質とは無関係。「時空・事象関連容認」は初めてそこに踏み込んだ。 

     ε量場議論としての一般相対論の非一様時空像の根幹はpotential部分の区別にある。
     自由落下のelevator内在者は自身の系を慣性系と捉えていても、機外者は重力下にあると判断する。
     前者は自身の立場は唯一で総てと受け止めていて自系がどんなpotential場にあるかなどは考慮外なので他局所との違いの有無など立ち入りようがない。
     ”別の重力場で落下中”の機内計測者も同様だが、両系を比較し得る外部計測者はそれぞれを「異なる状態下にある局所慣性系」と位置づけ得、両系を「異尺度1・同形」の関係と判断する(g≠g’)。
     これは別に外部計測者が絶対的判定者という訳でなく、”自身の立場を総てとし、だからどこでも同じ”と結論づけることなく「2局所を客観的に対比する立場」で得られる結論だ。

     つまりこれは「慣性系とは重力potentialのない系のことではなく、それに立ち入らぬ範囲での不十分な系の捉え方だった」ということで(必要に応じad hocにCoriolisの力などで対処)、「原点の不定定数処理」(cf.#1966~ 68)もこうしたレベルでの状況判断による。

    ○「一般」段階の局所区別は客観的視点に立っての比較対照に基づく判断で、ε量状態相応の異尺度1となるが(#1753 1882etc.)、実は「特殊」段階でも既に客観的対比の立場にありながらその自覚が希薄で不徹底だっただけと捉え得る。∵原理Ⅱ(”どの系でも”c不変)自体がimplicitであれ既に”不同な系状態の存在を含意”と捉え得て、系間はHamiltonian(potential部分も取り込んだ全energy)で比較すべきとの予感含みともみれるのだから
    (#1938)。 

     x、x+dx typeなど不同位置での同一数値も、「”不同な0・v”同一視」仮説下では当然同一視できる。
     唯、疑問はその根幹の”仮説自体の妥当性”に関するもの。
     
    (前回末尾;#1991→1971)

  • >>No. 1973

      ≪特殊・一般相対論の峻別を;一意絶対的基準尺度は既に消滅!≫

    ○ 0・v(≠0)区別の一方での同等視は矛盾含みで、近似な限り原理的矛盾が解消する訳ではない。
    「時空・事象関連容認」や局所区別(g≠g’)による「一般」段階の非一様時空像指向(ε量場化)は、明らかに「特殊」段階までの一様対称時空像と両立せず、慣性系の局所化も非一様時空の立場にあることではじめて実現する(←近似処理の矮小化どまり)。
     計量の2階微分による”より詳細な局所状態判断”が更なる段階へ進むか否かに拘わらず「どこまでも近似を超えず”完全一致”でない」以上、「一般」段階以降は明確に「非一様時空像に立脚」とbasic段階での”理論構造の転換”を認めて初めて「時空像の異同に関する曖昧さ」が払拭される。

     両状態の不変同等視によるこれまでの理論・技術的成果に関する評価は以下となる:
    「同じものを等しいというだけ」では余りにも当然すぎ、それで終わっては何も出てこない。本来不同なものを仮に同等と置くことに伴う不透明感がその解明を促進、段階的に細部まで詰めてきた結果が現状であると。

     唯、両系同等という”不合理な前提に立脚”することで成果が得られてきた事実を認めても、その究極ではやはり「不同なものが同じ」では済まないし(最後の一歩は千里の隔たり!)、現在までの手法が「永遠に真である」ことにはならないとの認識があるべきで、そうでないと明らかに不合理な結論への無駄なprocess・approachを重ねることにもなる。
     例えば、時計の遅れは当しく系間の客観的対比(計量基準不同;g≠g’)に基づくものなのに、一様時空像が払拭されないことで”みかけどまり”かの曖昧解釈の存続を許すことになる(←「同一scalarでも既に異尺度」なことの認知不足)。

    ○ 最大の問題は、0・v間に限らず隣接数値との違いは「変位・変化の際の”単位量の存在”とそのcount数による」ことが明確に認知されていない事情にあり、一様時空や軸上の一様性容認もそれによる(にも拘らず数値区別がなされている曖昧さ!)。

     dx=cdtでの光(子)のcは、countの際の基準ε量単位として抽象時間の1sec.に代わり得〈従って長さについても)、現実事象と抽象時間・空間との関連の絆ともなっている(ex.#1788 1991etc.)。

  • >>No. 1972

     ≪対称性議論の根拠に疑問!;無理な異質2時空像の併用 ≫
     
    ○ 0・v(≠0)間をε量的不同に導く「一般」段階思考は、「特殊」段階の両系不変同一視の方こそが”みかけ”と指摘するもので、摂動など"近似手法によるapproachでの同一視"以前の原理的立場。
     抑々近似で一致・同一とするのも元々”2局所が不同で区別されているから”で、結局「一様・対称を原理的としていること」にこそ問題があることになる。  
     だが「一般」段階自身も前段階baseでの展開であることから「時空・事象関連容認」は自己矛盾を含むものとなり、そこが未決着で滞っている。「分かり難さ」の原因はこの不徹底さにある。

     0・vと区別している以上、「特殊」段階でも既に「系間を客観的に対比してみている」はずなのに、同一視は「どの系上でも計測状態は同じ」とする推測からか。
     しかしv系は 0→vへ の加速後の定常状態であり、対象・計測器(者)とも同比でvの影響を受ける相殺を考慮すれば「数値上は0系上と同じでも、既に異尺度での同形・同一数値」と捉えるべきもの。

     特殊相対論では原理的立場上”同一としなくては矛盾”となるが、一般相対論は”位置不同による異尺度1の立場からそれに対し否定的。
     前段階と同じでは今度は自身の主張(位置によるg≠g’)に矛盾となる。

    ○「時空」・「宇宙」の違いは内部をε量的場とみるか否かにあり、4D特性の主体の存否に直結している〈cf.超ひもと背後の時空共存の可否)。宇宙時もε量体である自身に由来(固有時)とすると、自身が時間経過の単位であることから、「事象に無関係とするa prioriな一意絶対時間系」による膨張・縮小議論など消滅する(cf.#1971 72)。

     3D性というのは幾何学的対象に関する1・2D的存在などとの区分上の使用で、ε量体との意識まではなくてもそれら対象は”空や”無”でなく(cf.多様体)、それが「3D場という一般化に先行」とすると、「時空特性は初めからa prioriではなかった」ことになる。
     ”空や無”と3・4D特性の結びつきの間にone‐cushionと言うのも、特性には必ず担い手・主体を想定するから(ex.#1762)。

     従来思考に準拠ではminor‐changeでしかあり得ない。時空像の不備は規格外の一般相対論思考を俟って初めて見出せた。

  • >>No. 1971

    ≪自然は元々“非対称”!;不変対称は近似どまり≫

    ○ 自然の”認知”と”記述”は別。
     認知には格別の前提は不要だが、記述(理論)には原理や公理の設定が不可避で、その適否は基盤枠組に無定義概念として採用の3D空間や時間に及ぶ。
     記述枠組がa prioriどまりな限り理論全体もobscureであり続けるが、「時空・事象関連容認」は理論内部からのその事情への疑問提起となっている。

     ε量事象記述の時空枠組は記述対象と同じ4D特性を備えていなくては不適格だが、これまでの変換議論では”運動vに不可欠なε量”は最初からの所与扱いで、その出処への言及がなかった。
     これは「対称性仮説or2局所の等置」で始まる数式での事象記述では、「時間的・空間的変化・変位はε量変化と不可分」との認識に欠けていたから。
     一般変換段階の重力・加速系間問題では実体的ε量場が不可避な要請である結果、計量用座標系は現実世界に居場所を失い2次的抽象場へshift。元々座標系はε量場での異なる位置にある点上に原点を置く抽象的上部構造とみれるもので(cf.#1968 70)、そこでの0・v両系は、0系(原点に実体量対応の0‐tensor)とそれに対し運動v(≠0)の位置不同な2系として既に「異尺度1での同形・同一数値」の関係にあり(cf.ε=γmc^2;非対称)、最早「”空”で一様対称な時空下での関係」にはない。

     計量基準が「相対化徹底」の最後にまで取り残されてきた事情は、裏に”計量数値を至上”とする「数値上の一致絶対視or一様基準枠組絶対視」があったからと捉えることで「固有時個別化の方向に向かわなかった事情」が首肯できる。

    ○ 真空の「相移転」は”空”でなく非一様状態の存在が前提であり、4D時空の ”空”→実体的ε量場への移行 と呼応するが、「真空のenergy容認」・「時空・事象関連容認」はともに理論的考察・要請からの必然だとすれば、従来の‴空や無”とみなされてきた「特殊」段階までの時空像の不備・内実的にも「一般」段階思考の近似どまりなことが明かされたことになる( ex.#1957)。
     
     ε量との関連認識を欠いた数学的時空像は「一般」段階では”局所近似どまり”と限界を画され、「(明示的・自発的を通し)対称性の破れ」は「本来的に非一様な自然が示すdynamismに帰すべきもの」でないか。

  • >>No. 1970

     ≪ 4D特性の系・粒子への個別化⇒理論・数値の絶対性消失;0・v系位置区別の帰結 ≫
    ○ 理論の発展とは”更なる抽象化のこと”か?
    出発点の前提・基盤に何の疑問もないならそうも言えようが、a prioriでそれ以上の説明拒否の「”空”なものの3・4D性」ではそれに応え得ていない。
     例えば”真空energy”は従来の「”空”とε量を別々とする時空像のまま」ではどう理解できるのか、更に無限次元まで可能なのに3・4D止まりなのは何故か?

     0・v(≠0)2系は空間的同一位置になく、0→vまでへの加速前後の2定常状態としてε量差がある(当然0系原点にもε量を想定;cf.0‐tensor#1968)。
     一般変換の下では、従来の時空や真空は「励起・運動の有無による区別」はあっても、全体としてε量場であり、「真空のenergy」もその立場で受容される。

    つまり高度な抽象段階にある一般相対論の立場では、抽象化の最先端は「理論自身の基盤枠組のa priori性・不透明さの解明」へ向けられたことになる。
     3・4D特性もそのε量場での実体量に帰着し、それぞれを固有時の主体とみることを介して各”素”粒子に至り得るものだ。
     ”抽象の高度化”とは”事象の数学化”を意味するだけのものなのか。

     粒子・量子どちらも”一体としてのまとまりを表現”し単位量的意味をもつ。
     その事情に触れない議論は不十分であり、ある時点での各固有時主体・粒子の大きさ(空間量)は時間経過の際の「countの単位量」となっている。
     これが”一体としての各粒子”の空間・時間成分の関係であり、厳密に粒子に即した”即自時間”は自己計量となって無意味化(発散)する。
     こうした事情こそが”実体性のない抽象的存在である時間の本質を示すもの”でないか。
     
    ○ 座標系は「ε量場の各点上でその上部構造(←抽象的)として構築」され、ε=γmc^2に基づく位置の不同・区別は立場の入れ替えでも解消せず、両系での計測数値が一致しても計量tensorg≠g’ではそれは最早同じ大きさを意味しない。
     唯一絶対的座標系から複数座標系への移行、理論のbase枠組へのcの組み込み(dx=cdt;時間・空間同等視)は、時空枠組自体の「4D成分を持つ固有時主体起源」にまで遡及する(元々Newton力学でもそう捉えるべきだったのだ)。

  • >>No. 1969

    ≪ 射影関係「現実⇔抽象」の成立を示唆;「時空・事象関連」の意義 ≫

    ○ 既述のことながら、”自身も属する宇宙”や”0・v系区別”議論の際の記述者の「第三者的立ち位置」が曖昧なままなことが理論全体の位置づけに不透明さを残してきた。
     理論物理の目的が現実事象の解明にある以上、理論上の問題は現実の反映でもあるはず。
     ”真空energy”も「時空・事象関連容認」思考に則して捉えるとき、その存在によってa prioriな一様対称時空像下で「大きさ0扱いでその存否まで曖昧だった質点(ε量事象)」が浮上してくる(4D特性も実体的ε量場の実体に移行)。

     それが現実の場での「時空とε量事象の対応」となるが、「物質と場の違いは量的なものに留まる(#1481)」とする以上は、現実世界全体が「非一様なε量の場」となって「特殊」段階的時空は”現実から消滅”となる。
    数学的時空の”湾曲”も一様時空像とは相容れず、各局所系近傍でも一様性は維持されないのだから(除・近似)。

     こうした視点がハッキリしていれば、固有時への対応も違っていたはずで、ds=cdτ=√(1―β^2)cdtでの各固有時の経過はv次第で異なる。各系上で「同じdt的時間経過」とみえても、それは対象・計器(計測者)が同比で受ける”v効果の相殺”による「みかけ」止まりで、基盤状態が既に異なっている(「同一scalarが共通の大きさであり得る」のは特殊相対論的基盤に限られる)。

    ○ 量子力学での零点振動をまつまでもなく、電磁場が4D特性を充たすと判明した時点で同特性の担い手は「”空や無”ではなくε量体(4元vector)である」との見解に移行し得たはずだが、それではa prioriな一様時空枠組優先下での「事象変化の時空的記述」に至り得ぬことから看過されてきた。 
     一般相対論的「時空・事象の同等視・読み替え」がbaseにあるからこそ、時間経過と状態vector間に存在するHeisenberg ・Schrõdinger 表示の同等性が容認されることにもなる(#1940)。
     
     時間はa prioriな存在ではなく、科学に限らず人為的活動を総て統一的にcontrolするために”後天的に設定された便宜的枠組”に過ぎない。一般相対論思考はそうした根柢枠組への挑戦と位置付け得る。

  • >>No. 1968

     ≪ 不可欠な数式成立の背景検証;現実・抽象「対応図式」成立のkey ≫
    ○(≡との区別は必ずしも明瞭ではないが)数式で等号”=”の左右は数値上だけでなく、明示的でなくても”対象にある種の共通性(何に関する数か)”をも要請している。だから左右2通りに記述の際の認知内容(何による区別なのか)が問われる。

     G_μν(=R_μν-(1/2)g_μνR)=-kT_μν)を右辺優先で捉えるなら、左辺も実体的なenergy・運動量tensorに即して読みかえられ、一体性・同質性を要素的・個別的に捉えるなら”局所毎の個別粒子像”に帰し、「左辺4D時空のa priori性解明」に資することに。
     現実の場と抽象場の「対応図式」は、後者での”理論的結論”は前者の現実の場で”実験検証されている”事情からも明白(←「抽象場即現実」視の立場は”皮相的”)。
     そうした現実・抽象の対応図式下で、上式を抽象場での議論と捉えるなら、そこでの議論対象は「そっくり”現実的・実体的存在に関するもの”」となる(#1787 1946 )。

    ○ 「体内時計の存在確認」のcaseに限らず、天体の周期運動やCs原子内振動でも”時間の存在確認”は常に「具体的事象の変位・変化」に帰し、それ以外に”時間自体の推移”など確かめられていない(今日でも未解決な時間・3D空間は後世で獲得の高度な抽象概念。primitive段階の人類が既にもち、その下で行動していたとは考え得ない)。
     結局、時空・事象(⇔抽象・具象)関係成立のkeyはε量事象の≠0な基準単位量(→粒子)の存在とその変位・変化容認に帰する(cf. dx=cdt;光子は非存在と区別される「現実世界or ε量場」構成の最もbasicな”cの主体”)。
     一般相対論での「時空・事象関連容認」はをそうした基底levelにまで及ぼうとする洞察力がもたらした。

    ○ 議論者のいる現実の場と抽象場(議論者の頭の中に限定される)の区別は容認されるべきで、両者の関係を把握している自己は既に「この対応関係の外」にある(0・v系関係議論でも議論者はそのどちらの系上にもいる必要はなく”「第三者的立場”で両系関係を議論している)。

     現実認識は既に”対象と自己”という対応関係下で捉えられており、「どこまで自己の客観視ができるか」の問題。
     客観的視点とはそうしたものでないか。

  • >>No. 1967

    ≪ 抽象数値・数式は”直”現実ではない!;任意座標系上での対象事象表示 ≫ 

    ○ 現実世界を非一様な物理的ε量場相当とみるとき(#1967)、0・v(≠0)両系原点にも当然不同なε量が存在(g≠g’→ 異尺度1下での同形)、系個別化の時点で「同一scalar(含・ds^2)の一義性喪失」であり、このprocess下で「原点の”不定定数問題”」も自然消滅へ。

     ”対象の記号・数値化は既に抽象場での議論”であり、「時空・事象関連容認」は「抽象で閉じず,”対応する現実”までを視野に」と遡及段階との対応までを示唆しているものと言える。

     ds-2=(cdt)^2-(dx)^2でみて、cdt=dx→ds-2=0 は既に”変化する≠0なetwasの存在が前提で、それが”空や無を意味する0など”との区別に。
     つまり「変化する主体の存在容認」であり、それが変化表記の際の基点or変化量0状態の存在を明示している(cf.(1・n)形式の「1」; ex.#1934)。
     c=dx/dt≠0 のcはそうした実在ε量の”変化の際の基準としての「1」^で、これは”ε量基盤としての基準粒子の存在”に通じ、その時間・空間成分が「変化の際の基準量・空間的長さの単位」相当量であり、物質分布に応じた時空の非一様な場の示現ともなる(#1787)。

    ○ 特殊・一般変換をとわず同形性維持に不可欠な全成分0の”0‐tensor”の存在は、「特殊」段階では時空の一様性前提(仮説)下で「存在自体が曖昧」に、「一般」段階でも「不変同一視」は個々の系上視点の間での”みなし”どまりで、客観的対比では「各異尺度1下での同形・同一数値(”同一scalar区別”)ということであって「計量(数値)の絶対視に見直しを迫っている」ことになる。

    ○ 理論展開としての量子力学での成果・視点が加味されて当然だが、4D枠組下にある以上は「基盤時空に新たな寄与」という訳でなく、「先代からのDNÀ受容」に留どまる〈対・時空に関しては粒子・波動の別は本質的でない)。
     c=νλは粒子・波動性の読み替え許容の一例に他ならず、前段階否定は自身の否定に(Schrõdinger式はobservableでなく、実験検証の際の対象粒子(猫!)は確率表現でなく近似であれ既に”実体量”)。
    そうした関連性無視で"閉じている分野の想定"など戯画。

  • >>No. 1966

     ≪ 事象>時空 は ε量>座標系;一般相対論は理論基盤の全面reset!≫

    ○ ”真空”が空間概念と無縁でない限り、理論としての「"空"でなくenergyをもつ」の容認は、既にε量関与拒否の「特殊」段階時空から「一般」段階時空への移行を意味し、”現実”のε量場に対し”4D時空”の方は2次的・抽象場に位置づけとの「対応関係」も成立する。

    「特殊」段階までが依拠してきた”一様な数学的時空”自体、その隣接数値への移行は”変化の単位量の存在とそのcount数による区別”で、それが”物理的非一様な実体場”に対応する(→boson・fermion )。 

    ○ ε量事象>時空 の優先順位は、座標系の形式・それによる計量数値の違いなど以前の、「時空特性の根源に関わる問題」。
     一般相対論的ε量場でε量主体(粒子)上の0・v系をx軸方向のboostで対比するとき、「0系原点にもε量が存在」、位置不同はε量差を示し、両系同等視はε=γmc^2から mc^2=γmc^2 → 1=γ を意味する(同一基準では不同な2数の等置!)。

     Hamiltonian(mc^2+mv^2/2)を系全ε量すると、mc^2は「従来のpotential相当部分へ立ち入り”系ε量に加えたもの”となる(L=KーUでなく)。
     v系上への移行の際、vの影響の相殺作用で0系上と同形維持となるが(#1946 1787)、”客観的対比”では両系間は1:γであり、同等視はあくまで近似を超え得ず、全体としての非一様性or基準尺度1の局所性という一般相対論の主張に則している。
     
    ○ 両系対比での基準尺度1は各v(含・0)に応じたγであるべきで、これに関し、下記の記述がある。

     ≪ 運動energyと運動量とが4Dvectorとしての変換性を示し、慣性系のとり方によらぬ客観的物理量として意味をもつには、運動energyはT_0=mc^2{γ-1}でなくT=γmc^2であるべきで、mc^2をenergyの原点の不定定数のなかに繰り込んでしまう訳にはいかない ≫ (「相対性理論の考え方」;砂川重信 p54~55 岩波)
     
     一般相対論は究極的に現理論枠組を超え、時空特性をa prioriでなく個々のε量体に帰着させ、「相対化の計量基準までへの徹底」で「系状態による同一scalar区別」にも及ぶと考えます。

  • >>No. 1965


     ≪ ”scaleの変換不変”は「0・v不同状態の無視」による;一般相対論(ε量場)ではε量差!≫ 

    ○「時空・事象関連」の究極は 一様4D時空像→非一様4Dε量場へ の移行であり、ε量体存在による「対称性の破れ」は数学的一様対称時空像に依拠してきた理論枠組を”非一様の近似”と位置づける根底的変革となる。

     従来の座標系間の関係はε量間の関係に読み変えられ「変換関係は粒子間関係」に移行、時空量(4D長さ)ds^2が一義性を失い「異なる位置毎の”異尺度1下での同一数値”」に(”同一視の方がみかけ”ex.#1778)。

     これは固有時の個別化、つまり"各系を個別4D粒子”とみなすことと同義で、”不変仮説”は「ε量体(場・粒子)間の相互作用に共通する作用機序」を「basicな局面で一般化して提示してきたもの」で、「2局所系・粒子の同等視」と捉え得る(各場は粒子に帰着、そこでのM・K・S単位の一つを仮定すれば残り2つも決まる;cf.重力定数・Compton波長も)。

    ○ その結果”両系間の不同・差異部分”が「変換に伴う状態差を意味するもの」に。
     これは両状態を同等としてきた”不変仮定”に何が加えられるべきかを示し、この明らかな不当性の補填に必要とされたのがgauge不変性orgauge粒子相当量だとなる。
     ただそこでも ε=mc^2を認める以上は質量概念への拘りを整理し、”energyをもつが質量0”などを許容しないapproachが要請される。

     曖昧な「原点の不定定数扱い(#1517)」も系間(粒子間)区別の過程で処理されるべきものだし、「ε量場での相互作用の存在」は各粒子固有質量確定の可能性を疑問視することにもなる。
    「一般」段階はそれが得難い理由は単に技術的制約に留まらぬ「抑々のε量基盤に起因する」ことを示した〈←2数間の連続性・区別に関わる問題)。 

    ○ 物理的記述の目的は現実に生起の事象の解明であり(ex.#1955)、4D枠組(時空)はその手段・議論の場に過ぎず、記述対象の特性を反映していなくては「議論の場の適性」を欠く。
     
    「時空・事象の関連容認」は従来a priori扱いで済ませてきた部分への立入り宣言であって、曖昧な時空・宇宙の識別をも要請する(ex.Robertson-Walker式も”宇宙”を”時空枠組内”でのds^2式で議論)。

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