ここから本文です

投稿コメント一覧 (37350コメント)

  • 物理学もまた、数学と同じように言葉の大切さを軽視し、数式にのみ没頭しています。数式は意味があって初めて真偽がわかるようになります。たとえば、アインシュタインの重力方程式は、各項目がいったいどんな意味を持っているのでしょうか?

    数式を理解するということは、数式の各項を理解することであり、各項が理解できなければ、数式全体も理解できません。これを「高等数学による高度な理論」として把握することは誤りであり、むしろ、意味不明の矛盾した理論と解釈したほうが意外と本質に迫っています。

    物理理論の数式を理解するのに最も大切なことは、それを言葉で忠実に再現し、意味をしっかり知ることです。

  • 国語辞典を開いてある言葉Aの意味を調べると、その意味を構成している言葉X1~Xnの集まりです。それらXiを1つ1つ調べていくと、さらにそれらの意味を構成している言葉Y1~Ymの集まりです。最後には、Yという言葉の意味はZと出ており、今度はZを調べるとYと出ています。

    例えば、「まっすぐ」という言葉を調べると「曲がっていないこと」と出ており、「曲がる」を調べると「まっすぐでないこと」と出ていたりします。まっすぐも曲がるも数学においては根源的な言葉です。結局、根源的な言葉は、最後は堂々巡りをします。つまり、言葉の根源的な意味は直観で判断されなければなりません。

    ヒルベルトは、この堂々巡りを避けるために、敢えて言葉を無定義にしました。無定義語の導入によって命題から意味を奪い、命題の真偽を奪うことにも成功しました。これによって、直観を使わない数学を作ろうとしたのです。

    次に彼が行なったのは証明の改革です。彼は命題の内容を考えず、論理記号の変形のみを証明とみなしたのです。そして、この形式主義以降に、数学は完全に壊れてしまいました。

    ヒルベルトの形式主義をどこまでも推し進めていくと、定義は何でもかまわないことになります。ネイピア数eの定義はどうでもいいのが形式主義です。∞の定義も何でもいいのです。それが形式主義の本質です。なにしろ、命題には真も偽もないのですから、そもそも定義などする必要はありません。

    ユークリッドは、数学における定義を大切にしました。彼は数学を定義から始めたのです。しかし、ヒルベルトは逆でした。彼は、数学を無定義から始めたのです。

    ここで、数学の無矛盾性について考えましょう。ユークリッドの考え方では数学の無矛盾性も公理系の無矛盾性も容易に証明できます。だから、彼の数学では「数学の無矛盾性を証明しよう」という発想など起こりません。

    でも、無定義から始まるヒルベルトの形式主義では、数学と公理系の無矛盾性は証明できなくなったのです。そこで、ヒルベルトプログラムが必要になりました。でも、彼のプログラムはゲーデルの不完全性定理によって木っ端微塵に吹き飛ばされました。しかし、ゲーデルの不完全性定理は証明としては間違いです。なぜならば、彼の証明には対角線論法が使われているからです。彼の使った対角線論法は、正しい背理法ではありませんでした。

  • われわれは、書かれていない公理を読み取ることができる鋭い目を養わなければならないでしょう。

    言葉で『すべての真理』を語ることはできません。そして、その言葉よりもずっと数の少ない記号ですべての真理を語ることもできません。これは、数学的な真理に関しても言えることです。『数学的な真理はすべて記号化できる』というのは幻想です。

    科学は真理を扱う学問であり、数学には数学の真理を扱う、物理学には物理学の真理を扱う、化学には化学の真理を扱う、…というそれぞれの役割があります。

    数学における真理は、数学記号だけでは語り尽せません。つまり、数学の真理を解明するとき、数学記号だけでは限界があるのです。

    では、言葉を使えば100%数学の真理を解明できるかというと、そうでもないでしょう。数学記号の限界よりは言葉の限界のほうがより広いので、数学記号で表わせない数学の真理を言葉で表すこともできるでしょうが、それにも限界があり、言葉を持ってしても表現できない数学の真理が存在していると思います。

  • >君には、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学の違いが分かるか?

    何となく~

    >非ユークリッド幾何学における『点』は、ユークリッド幾何学の『点』と同じである

    当たり前だよね~

    >ところが、それ以外が違うのだ。非ユークリッド幾何学の『直線』は、ユークリッド幾何学の『直線』ではない

    へ~

    >それだけではない。非ユークリッド幾何学の『平行』は、ユークリッド幾何学の『平行』ではない

    なんと…

    >おまけに、非ユークリッド幾何学の『平面』は、ユークリッド幾何学の『平面』ではない

    インクレディブル!

    >なぜかというと、直線や平行や平面といった言葉を大胆にとらえ直しているからだ

    どうして、とらえ直すの?

    >言葉の意味をあまり重視していないからだ

    どうして?

    >ヒルベルトが言っただろう。『線』を『ビールジョッキ』に置き換えてもいいのだ。だから、『直線』を『大円』に置き換えても問題はない

    そんなのあり~?

    >このように、言葉を別の意味に置き換えたものをモデルと呼んでいる。たとえば、クラインモデルでは、『円の内部』を『平面』と呼んでいる

    なぜ?

    >いちいち質問するな。そのまま素直に聞き流せ

    はい、はい

    >はいは1回でいい

    はい

    >そして、弦を直線とする

    どうして?

    >質問は禁止!

    どうして、質問は禁止なの?

    >その質問も禁止!

    なんか、非ユークリッド幾何学は怪しいわね。何かを隠しているんじゃないのかしら?

    >疑うことも禁止!

    ますます怪しいわ。こうなると、非ユークリッド幾何学を用いている一般相対性理論も怪しくなるわね

  • >良識では集合とは{と}の間に全ての要素が書き記されたもののみを指す

    どういうことでしょうか?

    >無限集合は、全ての要素が書き記せない時点で集合でない

    無限集合は完結した形としての記載ができません。つまり、一意に存在できないのです。

    >良識では直線が平行であるとは、直線間の距離が一定であることをいう。したがって平行線公準は正しい。

    現代数学では言葉が混乱しています。記号ばかり重視して、言葉を軽視した結果、そのつけが矛盾となって、現代数学にはびこっています。はっきり申し上げると「ユークリッド原論の第5公準」は正しいけれど、「プレイフェアの平行線公理」は間違っています。

    >直線間の距離が共通垂線を引ける場所で最短で、そこから離れるほど距離が開いていくなど 良識に反するあり得ない仮定だ!

    平行線公理の意味を改ざんすれば、それは可能であり、実際には非ユークリッド幾何学で実践されています。

    >良識では時刻は人によらず一定でなければならない。したがって皆俺様の時計の時刻を正しいと認めなければならない。さすがに5番目までくると独裁色が露わになるなw

    独裁色が出ているのは相対性理論のほうであり、曲がった線を強引に直線として扱って、相対性理論の信者にそれを押し付けています。ⅿ(__)m そして、2つの物体は衝突したときは同時刻なのに、それを強引に「異時刻でも衝突は起こる」と無理難題を信者に押しつけています。ⅿ(__)m これに対して真っ向から異議を唱える信者が現れてこないのは悲しいことです。ⅿ(__)m

  • 私たちのよく使う言葉である「現実」は、「現象(観測結果)」という意味でも使われるし、「事象(事実)」という意味でも使われます。このような言葉のあいまいな使い方が、事象と現象の境界をあいまいにして、結果的に物理学を混乱に陥れています。

    数学や物理学は記号を重視するあまり、言葉を軽視し過ぎました。そのつけが「矛盾した数学」「矛盾した物理学」となって、私たちを襲いつつあります。この現実を無視しないようにしましょう。

    専門的な記号たちへの反発心から、日常生活の言葉たちが逆襲を始めたのです。(これは擬人化ですので、聞き流してください)

    「現代数学よ!現代物理学よ!記号ばかりチヤホヤするな!わしら日常生活の言葉にも、もっと、気を配ってくれんかな?」

    言葉たちは、全員、そう訴えているのです。彼らの訴えに対して、もっと、素直に耳を傾けるべきではないでしょうか?ⅿ(__)m

  • 無限に関しては「すべて」という単語は使用すべきではありません。「すべて」は「任意」を拡張した概念であり、有限に存在する対象物xに関しては「任意のx」も「すべてのx」も両方とも使用できます。もちろん、この2つの言葉の意味は異なります。

    一方、無限に作られる対象物y(無限に存在する対象物yではありません)については、「すべてのy」は使用不可能です。「任意のy」という単語しか使うことができません。有限と無限では、使われる言葉に違いが生じるという微妙な真理を、今までまったく解明されてきませんでした。数学では、やはり、記号以上に言葉が大切なのです。言葉の使い方が間違っていたら、それを記号化したものを用いた場合、間違いの上に間違いを積み重ねる状態に陥ります。

  • 0(ゼロ)は自然数か?0を自然数と解釈する数学理論と1から自然数と解釈する数学理論があります。これは、どちらが正しくて他方は間違っているという関係はありません。ただ、同時に使うことができない数学理論です。「直線を曲線に含める数学理論」と「直線は曲線ではないとする数学理論」があります。これも、どちらが正しくて他方は間違っているという関係はありません。ただ、同時に使うことができない数学理論です

    「直線外の一点を通り元の直線と交わらない直線は一本とする数学理論」と「直線外の一点を通り元の直線と交わらない直線は無数とする数学理論」があります。これも、どちらが正しくて他方は間違っているという関係はありません。ただ、同時に使うことができない数学理論です。

    なぜ、同時に使うことができないのか?その理由は矛盾しているからです。「0は自然数である」と「0は自然数ではない」は、お互い矛盾しています。しかし、どちらかに統一して真偽を決定します。

    「0を自然数に含めない」と決めたら、もはや「0を自然数に含めてはなりません。これで、数学を作るのです。でも、これと平行線公理はまったく質が違います。この質の違いを見抜くことも、数学的センスの1つです。平行線公理を真と決めたら、これで数学を作り、平行線公理の否定を数学内に導入してはならないのです。

    >要するに言葉の意味は理論によって異なります。理論に依存しない言葉の意味など存在しませんw

    問題は、その理論が矛盾しているかどうかです。これを検討しないまま「言葉の意味は理論によって異なります」という発言はできません。あなたは、次の3つのケースに場合分けして、ご自分の言い訳(?)を詳細に述べなければなりません。

    (1)「無矛盾な理論A」と「無矛盾な理論B」で使われる同じ言葉Cの意味が、異なっていても良いのか?
    (2)「無矛盾な理論A」と「矛盾した理論B」で使われる同じ言葉Cの意味が、異なっていても良いのか?
    (3)「矛盾した理論A」と「矛盾した理論B」で使われる同じ言葉Cの意味が、異なっていても良いのか?

    具体的には、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学で使われる同じ言葉「直線」の意味が、異なっていても良いのか?

  • 私は現代数学の定義の誤り、国語的な誤りなどを指摘して、その根本的な個所を修正したいのです。どうか、ご協力をお願いします

    >ウソツキには協力できない。 人類の総意だ

    その意識を変えていただきたいのです。

    >人間の理性を否定する畜生ヒデには決して従わない 畜生ヒデは人類全体の敵 丸焼きにして食うべき肉だ!

    数学を言葉で実行することに抵抗があるのはわかります。「言葉から記号への一方通行で今まで何千年もやって来たのに、それを今さら双方向にしてどうするのか?」という不満があるのでしょう。しかし、言葉も大事、記号も大事です。

  • そもそも、話し言葉にしても書き言葉にしても、言葉はそれぞれ意味を持っていることが多いものです。その意味を相手に伝えるために、私たちは言葉を生み出したといってもよいでしょう。そして、この意味を持つ言葉を用いて数学を築いてきました。

    しかし、言葉が長くなると不便なため、数学では言葉の代わりをするものが発明されました。それは、記号です。言葉を記号に置き換えることを思いついたのです。これは画期的なアイデアです。しかし、この記号化によって、言葉から意味が失われるわけではありません。

    もともと、数学は万人が共有できる『意味を有する文』を作り出すことでもあるのです。ある人がその意味する内容を真だと思うけれども、他の人がそれを偽だと思ってはならないはずです。万人にとって真偽が同じになることが、数学の目標です。

    言葉と記号は、本質的には同じです。1つの言葉がたった1つだけの意味を持っているとは限らないように、言葉を記号化したとき、この記号がたった1つの意味を有するという保証もありません。

    言葉と記号は本質的には同じです。言葉そのものが一種の記号なのです。たとえば、AさんがBさんよりも背が高い場合、これをPで表してみましょう。

    P:AさんがBさんよりも背が高い。

    長い文があっという間に短くなります。『P』と『AさんがBさんよりも背が高い』は内容が同じです。でも、意味を持った言葉が一瞬にして意味を持たないような記号に変化しているような感じを受けます。

  • 記号化って、とっても便利です。ところが、実際、無味乾燥なPだけを見ていると、ほとんどの人は何もわからないでしょう。だから、記号化されたものを、いかにもとの言葉に正しく翻訳できるかどうかが、命題をもう一度再生できるかどうかの分かれ道になります。記号をもとの言葉に正しく戻せなければ、ギブアップです。

    もしかしたら、これが、数学を理解できないものにしているのかもしれません。記号で書けば私たちの主観が排除されて、たった1つの意味を有するようになる、というのは幻想にすぎません。

    ということは、言葉が複数の意味を持つ場合、それを記号で表しても複数の意味を持つということです。たとえば、現在、∀nP(n)という記号には2つの解釈があります。

    可能無限による解釈:
    任意の自然数nに対して、命題P(n)が成り立つ。

    実無限による解釈:
    すべての自然数nに対して、命題P(n)が成り立つ。

    解釈が2つあるということは、意味を2つ持っているということです。1つの論理記号や論理式が2つの意味を有するという性質が、無限集合論におけるパラドックス発生の原因になっています。

  • 『任意の自然数』と『すべての自然数』が異なることは、無限に関する数学が根本からひっくり返るほど重要な問題です。

    記号は言葉を簡略化したものです。これ以外の何者でもありません。意味を抜き取るために記号化したわけではありません。

    もっとも大切なことは、その記号が本当に命題であるかどうかです。記号がいくつもの意味を有していれば、それは命題ではない記号です。

    たとえば、無限公理を例にあげましょう。無限公理は、下記のように表される記号の組み合わせですが、これ全体が一種の記号です。

    ∃x(φ∈x∧∀y(y∈x→y∪{y}∈x))

    記号の組み合わせも、また記号です。記号が命題であるとは限らないように、記号の組み合わせもまた命題であるとは限りません。

    そして、こんな式を見たら、誰だって数学から遠ざかりたくなります。普通の人は、難しい記号で書かれたこのような論理式を、もとの正しい言葉に翻訳できません。その理由は、私たちの頭が悪いからではなく、この複雑な論理式が命題ではないからです。「論理式と命題は異なっている」という良識さえ失わななければ、私たちは無限集合論にだまされることもなかったのでした。

  • >洞窟の比喩、昔読んだが、もう忘れた(笑  事象と現象、同じような言葉だ。
    それが違うというなら別の言葉を使うべきである。 普通の人は事象と現象も同じようなものだと思っている。

    現代物理学では、事象と現象を使い分けていません。その理由は何だと思いますか?あなたのおっしゃるように「同じような言葉だから」です。物理学は記号を重視し、言葉を軽視しています。ここが、哲学と違うところです。

    哲学は言葉で真理に迫ろうとする。(記号はあまり使わない)
    物理学は記号で真理に迫ろうとする。(言葉はあまり使わない)

    つまり、物理学は言葉軽視の傾向にあり、それゆえに「事象と現象の違い」にあまり関心がないのです。

    > 実無限と可能無限、公理と仮定、結論と定理、そんなものを同じようなものだと言う人はいない(笑

    前世紀最高の数学者であったヒルベルトは「公理とは、単なる仮定に過ぎない」というようなことを言っていたそうです。つまり、「公理と仮定は同じようなものだ」と言っていたことになりませんか?

    > 「相対性理論はペテンである」の中でちゃんと説明している(笑 なぜあなたは私の本を読まないのだ(笑

    読ませていただきました。でも、相対論者を「確かに相対性理論は矛盾している。ううう…」とうならせるだけの説得力に欠けるような気がします。

  • >僕の本を読めば誰でも実無限など存在しないと分る。
    ただし詳しい説明は省いたから、分らない人には分らないかもしれない。―――1行目と2行目は矛盾するなw―――もしこう書いてあれば矛盾しないが

    僕の本を読めば誰でも実無限など存在しないと分る。
    分からないヤツは人間じゃないから問題外

    つまり1行目の「誰でも」の範囲は人間だけということ―――このやり口は集合とクラスの区分とも同じ。要するに、集合だと前提して矛盾するものは集合じゃなくクラスw

    意見はいろいろあっても良いと思いますが、数学や物理学は個人的な意見を交換する場ではなく、「例外のない客観的な真理」を求める学問の場ではないのでしょうか?

  • >定義できない実数を非標準的な実数として糊の数と再定義してもイイのではないか?―――意味不明。―――お前バカだろw

    「非標準的な実数」とは何でしょうか?このようなあいまいな単語を数学に導入すると、「非標準的な図形」「非標準的な距離」「非標準的な図形」「非標準的な自然数」「非標準的な複素数」なども導入されてくるのではないのでしょうか?すると、数学はより理解困難な学問と化しますね。

  • 返信をありがとうございました。

    あなたは「推論規則は直感である」と認めたばかりではありませんか?

    > 「推論規則のみが直感である」といった。

    では、「推論規則以外はすべて、証明で真偽を決める」と主張するあなたの根拠を教えていただけないでしょうか?

    あなたは「論理の直感のみによって導くことができる」と主張しているのです。

    >「論理の直感」ではなく「論理という直感」というべきだな

    論理は直観を含むのではないのでしょうか?

    論理=直観+証明

    > 論理の推論規則にない直感は一切使わない。それが証明だ。

    推論規則そのものが直感です。

    > 推論規則以外の直感は認めない。

    推論規則だけを例外扱いにする数学的な理由はあるのでしょうか?

    > 貴様はそもそも推論規則すらロクに知らぬ白痴ではないか。つまり貴様には直感が欠如しているということだw

    今になってあなたは直観の重要性を私に講義なさるのですね?

    >「前提無しにPを証明する」とは「¬Pから矛盾を証明し、そこから背理法でPを証明する」という意味。したがって、前提はない。

    「¬Pから矛盾を証明し、」が前提になっています。

    >なっていない。なぜなら実際に¬Pから矛盾を証明するからである。つまり「¬Pから矛盾を証明したならば」とはいっていないw

    あなたは、背理法を「P単独で矛盾を証明している」と勘違いしているのです。背理法を使う前に他の前提が隠されていることを見落としています。

    直接証明…前提A1~Anから「目的とする命題P」を証明する。
    直接証明による結論…前提A1~Anが真ならば、結論Pも真である。

    背理法…前提A1~Anに「問題となっている命題¬P」を加えて矛盾を証明する。
    背理法による結論…前提A1~Anが真ならば、結論Pも真である。

    あなたは「背理法に前提など存在しない」と言いましたが、前提は直接証明とまったく同じです。

    【結論】
    直接証明であろうと背理法であろうと、命題Pを証明する前提は同じである。

    よって「直接証明には前提が必要だが、背理法には前提は存在しない」というあなたの思い込みは間違いでしょう。ちなみに、前提と仮定は同じです。公理と仮定は異なりますが…

  • 返信をありがとうございました。

    >直観とは、論理の推論規則のみを指すw

    つまり、あなたは直感の存在をようやく認めてくれたのですね?

    >残念だが、貴様が認めさせたがっている

    おっしゃる通りです。直観が存在しなければ、数学は成り立ちません。ペアノの公理だって直観的に作られた公理です。ペアノの公理が正しいという証明はありません。平行線公理だって、正しいという証明はありません。

    ペアノの公理…正しいことを示す証明はない。よって、直観的に正しいと決めただけ。
    平行線公理…正しいことを示す証明はない。よって、直観的に正しいと決めただけ。

    >「論理の推論規則以外の直感」は認めていない。

    では、あなたの決めた「直観による推論規則」とはいったい、何なのか?あなたの決めた推論規則とは、一体いくつあるのか?「直観による推論規則」を全部、書き出していただけないでしょうか?よろしくお願いいたします。

  • 「区間縮小列の否定」と「区間縮小列の構成の否定」と「区間縮小列の存在の否定」と「区間縮小列(非実数)が実数であるという定義の否定」は、それぞれ異なっています。

    >無意味だ

    「区間縮小列の否定」と「区間縮小列の構成の否定」と「区間縮小列の存在の否定」と「区間縮小列(非実数)が実数であるという定義の否定」は、みんな同じということでしょうか?味噌も何もかも一緒にしてしまうと、それこそ数学は混とんとした世界に舞い戻ります。ⅿ(__)m

    >貴様が今まで述べた主張は、どれもこれもeやπが貴様のいう意味での実数とはいえないこと を示している  なぜなら貴様にはeやπの位置を特定できないからだ 無限回のプロセスを否定した以上eやπも否定したことになる

    あなたは「eやπは、無限回のプロセスで初めてできる」と思い込んでいるようですね?eの点をプロットできないことは誰でも知っています

    >なら貴様の定義にしたがえばeは実数ではないw

    無限回のプロセスでも、eをプロットできません。あなたも本当はご存知なのでしょう?無限集合論を使っても数直線上にeをプロットできないことを…。

    >貴様以外の人は、貴様のクソ定義など認めないから貴様と異なる判断を下しても問題ないがなw

    「無理数を、有理数の無限数列の極限値として定義する」ということに違和感を覚えませんか?また、これをもってして「有理数から無理数を作り出した」と言えるのでしょうか?そもそも、極限値は新たに作り出した実数ではないのです。今まで存在していなかった実数が、有理数の無限数列の極限値を実行することで初めて誕生したのではないのです。

    >もしeは実数だというのなら、無限集合も集合だというべきだ

    そんな詭弁は嘘でも言えません

    >すでに詭弁を弄しているがなw

    「無限集合は集合ではない」は詭弁ではありません

    >そういえないうちはヒデはダブスタ野郎w 「無限集合は集合である」と言ったら、次に私はブタ野郎と言われるようになるかも…

    ブタスタ野郎とは何でしょうか?ブタ野郎とどう違うのでしょうか?

    >誰がいつどんな理由でいうのか? 誰もいわんよ。 変節と思う貴様がバカ。 改心というべきだw

    あなたから見れば、私はブタでバカでアザラシでしょうか?

  • 1,2,3,…,n,… と書いた場合、n番目の自然数nは一般項です。数学はもともと、数学記号や言葉を使わないと成立しない学問であり、言葉の制約や数学記号の制約を受けています。そして、言葉が完全でないので、数学は定義を完璧に行なうことはできません。

    言葉は完璧な機能を持っていないので、数学用語を完璧に定義することはできない。

    これより、数学はある意味、あいまいな学問です。第5公準が正しいことも証明できず、第5公準が正真正銘の公理であることも証明できません。

    「…」という数学記号は、その場その場で異なった読み方をしなければならない特殊記号です。もちろん、数学では頻繁に使われる数学記号だから、当然、数学辞典には記載しなければならないはずです。でも、数学辞典には載っていないようです。数学辞典には「実無限」も「可能無限」も乗っていないようです。これより、ただちに全世界の数学辞典は、全面改訂をしなければなりません。

    3点リーダーである「…」という記号を数学辞典に記載するなど、数学においては恥でも何でもありません。未来の数学辞典には必ず記載されていることでしょう。


  • 1,2,3は自然数です。

    >4は?

    「4は?」と書かれた時点で自然数になっています

    >言い訳するな!1,2,3,4までしか書いていなければ、5は自然数ではない

    「5は」と書かれた時点で自然数になっています

    >黙れ!それがヒデのいう厳密、ヒデのいう可能無限だ

    可能無限とは、変化が無限に続くことであって、この無限の変化が終了した実無限とは異なります

    >ふん!ここまではっきり書けば、いくら愚か者のヒデでもペアノの公理が可能無限と相容れないことがわかるだろう

    ペアノの公理は実無限ではなく、可能無限です

    >詭弁を使うな!なにしろ、有限個しかないのに「nが自然数なら、n+1も自然数」ということはあり得ないのだから

    ペアノの公理では、自然数がどんどん増えて行くのです。でも、作ることができるのは常に有限個です。ペアノの公理で無限個の自然数を作ることはできません。これより、次なる主張は誤りです。

    自然数は無限個、存在している。

    「ペアノの公理で無限個の自然数を作る」とは、「無限個の自然数を作り終える=無限が完了する」という意味だから、数学ではありえない発想です。ガウスでさえ、実無限を強烈に拒否していました

    ガウスは実無限を拒否していました。この点は正しい行為です。そして、非ユークリッド幾何学を発見したときにも、「この幾何学は何かうさん臭いな」という直観を持っていました。この点も正しい行為です。

    でも、彼は「非ユークリッド幾何学は自分も発見していた」と言い残していたのです。これが誤解を生む大きなきっかけになりました。その後の数学者たちが「ガウスは非ユークリッド幾何学を支持した」と読み取ってしまったのです。

    「天才ガウスのやることは間違いない」という考え方は危険です。どんな天才と言えども、単純なミスを犯すことはあります。アインシュタインも衝突に関する単純なミスから、相対性理論という巨大な「勘違い理論」を作り上げてしまったのですから。

本文はここまでです このページの先頭へ