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投稿コメント一覧 (34214コメント)

  • 命題は「真の命題か偽の命題かに分類するもの」であり、「真の命題と偽の命題に場合分けするもの」ではありません。

    チワワは動物か植物に分類されます。したがって、チワワを「動物の場合」と「植物の場合」に場合分けできません。

    平行線公理は、真の命題か偽の命題かのどちらかに分類されます。したがって、平行線公理を「真の場合」と「偽の場合」に場合分けすることはできません。

  • 事象とは、事実そのもののことです。その事象を見たり聞いたりすることによって、頭の中で認識することができた内容を現象と言います。したがって、事象は自然界にありますが、現象は人間の意識の中にあります。

    人間は、生まれては死ぬという宿命を持っています。頭の中で認識できる自然界の姿が現象ならば、その人が生まれる前には、その人にとっての現象は存在せず、その人が死んだ後には、その人にとっての現象もすべて消滅します。

    地球ができてから生命が誕生するまで、地球上には現象は存在しませんでした。つまり、最初に事象ありきです。現象は常に事象にくっついて後から認識されるものです。

    生命の誕生とともに現象が生まれ、その現象を説明するために科学が発展してきました。科学の役割の1つが、現象を説明できる理論を構築することです。しかし、現象の裏に潜んでいる自然界の秘密―――すなわち事象―――を推測していくことも大切です。

    この推測という精神作業を古代ギリシャの哲学者たちはロゴス(理性)と呼んでいました。見たことや聞いたこと(現在では観測結果や測定結果も含んでいます)に惑わされることなく、その裏に潜んでいる真実を明らかにする力がロゴスです。理性は、ものごとの道理を明らかにする性質を持っています。

    ロゴス(理性)=現象から事象を引き出すことができる高度知的生命体の推理力(推理力は一種の論理的飛躍です)

    よって、物理学は永久に論理的飛躍から逃れることはできません。

  • 数直線上のeを特定することができないからと言って、数直線上にeが存在しないことを意味していません。

    >その主張は通用しない。

    無限集合論だって、数直線上のeを特定することができないのはご存じないのでしょうか?

    >ヒデは「自然数の全体は、0から1ずつ加算していく行為では完成しない。だから、自然数の全体は存在しない」と言い切った。

    自然数全体の集合を作る方法はありません。

    >作れないものは存在しないというなら、特定できないものも存在しない。

    それは類推(アナロジー)というものです。あなたが「作れないものは存在しないというなら、特定できないものも存在しない」と言い切りたいのであれば、前者(作れないものは存在しない)から後者(特定できないものも存在しない)を証明していただけないでしょうか?

    > 区間縮小法による実数の構成を否定したのだから、 区間縮小法によるeやπの定義も否定される。

    あなたは「区間縮小法によるeやπの定義」を書くことができますか?書けないならば、定義としてはどうかと思います。

    >ヒデは他の方法によってeやπの数直線上の位置を特定できない、したがって、ヒデにとってはeやπは存在しない。

    あなたは勝手に「特定できないものは存在しない」という自己の論理を展開していますが、それが正しいことをあなたは証明できないでいます。「証明できないものは正しい」と言っていいんでしょうか?

    >要するに、「eがある」と「eを示す」が乖離していると言うことです。でも、√2に関しては乖離していません。√2に関しては、しっかりと数直線上の位置を作図できます。―――ヒデは数列の収束の定義に際して「数列以前に極限値が存在する」ことを要求した。√2は作図できるから、√2への収束はヒデにも証明できる。しかし、eやπについてはその方法はつかえない。ヒデは先にeやπを作図することができない。

    πは作図できます。円を描けばいいのです。

    >だから正n角形の周長が円周長に近づくこともヒデには認められない。

    その根拠は何でしょうか?自分の主張の根拠をキチンと述べることができますか?

    > 先に円周長を示すことができないのだから。

    あなたはコンパスで円を描いたことはないのでしょうか?1周したときが円周長です。

  • >なぜ、アルキメデスが、内接多角形と外接多角形によるはさみうちをつかったのか。 ヒデには理解できないようだ。もし、円周長を直接決められるなら、そんな苦労はない。

    円周長は決まっているのです。円を描いた時点で、直接、決まっているのです。

    > 極限以前に円周長が先に存在するのではない。 内接多角形と外接多角形によるはさみうちの極限として円周長が存在するのだ。

    挟み撃ちという作業は終わりません。つまり、特定はできないのです。あなたは、このメカニズムがいまだにわからないようですね。ⅿ(__)m

    >ヒデが収束の定義において、先に極限値を示す形のものしか認めない限り、 ヒデにとってeもπも存在しない。

    挟み撃ちで点が特定できると思いっているのですね?では、あなたのお得意な挟み撃ち法で、数直線上にeをプロットしてみてください。「eを特定できる」と豪語するならば、挟み撃ち法で数直線上にeを作図してみてください。

    >コーシー列の定義には、極限値は必要ない。これは実に画期的なアイデアなのだ。

    大したことはありません。コーシー先生、ごめんなさい!m(__)m

  • 「アルキメデスの挟み撃ち法によって、πの値はいくらでも正確に求められる」という言葉が自己矛盾しています。いくらでも正確に求められるならば、それはいつまでたっても正確とは言い切れないということです。アルキメデスの挟み撃ち法は、πの近似値をよりπに近づける操作に他なりません。

    直径1の円に内接する正n角形の周長は、nをいくら増やしてもπにはなりません。また、直径1の円に外接する正n角形の周長は、nをいくら増やしてもπにはなりません。外接正n角形の周長-内接正n角形の周長の値は、nをいくら増やしても0にはなりません。

    これより、次なる結論が出てきます。

    πの値は、挟み撃ち法を使って(いくらnを増やして)も正確に求めることはできない。

    数学において「正確」というと、それこそ、本当に正確でなければなりません。これが、言葉に厳しい数学の大きな役割です。数学でいう「正確」と、物理学でいう「正確」では、その正確の度合いがまるで違います。

    したがって、「アルキメデスの挟み撃ち法によって、πの値はいくらでも正確に求められる」という文章は、数学では嘘になります。ⅿ(__)m

  • アルキメデスの挟み撃ち法によって、円周率πの存在する範囲をいくらでも小さくできます。しかし、どんなに範囲を小さくしても、それをゼロにする(=点を特定する)ことはできません。

    ところが、無限集合論では、「範囲をいくらでも小さくできる」=「点を特定できる」と解釈しています。要するに論理的飛躍を行なっています。

  • 挟み撃ち法としての区間縮小法は、相手を両側から挟んで追い込む方法です。

    はさみうち【挟み撃ち】
    両側から挟むようにして攻撃すること

    問題は、相手が挟み込んだ中にいるかどうかです。

    アルキメデスは円に内接および外接する正96角形の周長を計算し223⁄71<π<22⁄7(3.14084<π<3.14286 )を求めました。3.14は紀元前3世紀に得られた数値です。

    正多角形の周はまっすぐな線分から成り立っています。一方、円周は曲線であり、線分と円弧の長さの比較は「円弧は線分に直すことができる(=曲がった線をまっすぐな線に直せる=円弧と等しい長さを持った線分が存在する)」と仮定しているからできることです。

    つまり、区間縮小法そのものが「円弧と等しい長さを持った線分が存在する」という直観の上に成り立っています。
    要するに、πの値を持った線分が存在している=数直線上にπを特定できる、ということです。これは、頭の中で特定しているだけであり、有限回の作図という手段で特定できるわけではありません。

    では、無限回の挟み撃ち法でπの値を特定できるのでしょうか?もちろん、これはできません。無限回というのは存在しないので、区間縮小法で「ここだ!」と1点を探り当てることはできません。区間縮小法は完了しないので、「もしπが存在するとしたら、この範囲にあるはずだ」という操作を永遠に繰り返すだけです。

    つまり、アルキメデスの挟み撃ち法は、「円弧は、それに等しい長さを持った線分に置き換えることができるはずである」という直観的な仮定のもとに、πの近似値をよりπに近づける操作に他なりません。挟み撃ち法で円周率πの値が正確に求まるわけではありません。

  • 実無限(完結する無限)は矛盾そのものです。よって、実無限からなる素朴集合論は矛盾した数学理論でした。だから、あれだけたくさんのパラドックスが出てきたいのです。

    それに対して公理的集合論からパラドックスが出てこないのは、素朴集合論に9個の公理を追加して、表面上、パラドックスを封じ込めたからです。

    でも、封じ込めただけであって、実際には公理的集合論は素朴集合論の実無限をそのまま受け継いで使用しているので、矛盾そのものが排除されたわけではありません。ZF集合論には、相変わらずパラドックスが内蔵しているのです。

    カントールは「パンドラの箱を開けた」と揶揄されています。彼が素朴集合論を作ることによって、数学にパラドックスがまき散らされました。世界中の数学者たちは、パラドックスがウジャウジャ出てくる数学にパニックに陥りました。この状態を、パンドラの箱を開けたと表現しています。

    やがて、素朴集合論を公理化したZF集合論などの公理的集合論が生まれて、なんとか矛盾を回避しました。

    でも、「解決」ではなく「回避」です。つまり、公理的集合論はパンドラの箱を再び閉めただけなのです。

    ここで大切なことは、公理的集合論はパラドックスを解決したのではなく、パラドックスをパンドラの箱に再び押し込んで、ただ単に元通りの蓋をしただけです。臭いものに蓋をしただけです。ⅿ(__)m

    つまり、数学的には何も問題は解決しておらず、一見無矛盾に見える公理的集合論も、本当は矛盾しているのです。

    ここで大切な考え方は「矛盾が見える」「矛盾が証明される」と「矛盾が存在している」は、違うということです。

    公理的集合論は矛盾しています。しかし、表向きは無矛盾な顔をしているだけです。表向きの顔にだまされていること自体が、とても恐ろしいことなのです。ⅿ(__)m 数学は、決して実無限にだまされてはなりません。

  • 素朴集合論の間違った仮定とは、ズバリ言うと「実無限」です。

    >いいえ。素朴集合論における「集合の全体」には最後の元は存在しません。つまりヒデのいう「実無限」ではありません。

    あなたは「無限集合は実無限から成り立っている」という事実を否定なさるのでしょうか?「無限集合は実無限の無限集合である」「集合全体の集合は実無限の集合である」を否定なさるのであれば、数学には実無限は存在しないことになります。

    1.「自然数全体の集合」は実無限から成り立っている。
    2.「実数全体の集合」は実無限から成り立っている。
    3.「複素数全体の集合」は実無限から成り立っている。
    4.「集合全体の集合」は実無限から成り立っている。

    これらを認識することができる人が、数学的センスのある人です。

    >「集合の全体」が集合だとしたのが、素朴集合論の誤りです

    いいえ、その前に「自然数全体の集合」が集合だとしたのが誤りです。自然数全体の集合Nは集合ではありません。

    >公理的集合論では集合の全体は集合ではありません  つまりラッセルのパラドックスは、公理的集合論では通用しません 残念でしたwwwwwww

    公理的集合論の数学的な意味をご存知でしょうか?なぜ、人々は公理的集合論を作ろうと考えたのか?それは、素朴集合論が矛盾していたからです。なぜ、素朴集合論は矛盾していたのか?それは「完結する無限」という自己矛盾した実無限を採用していたからです。

    カントールは対角線論法で矛盾を作り出しました。彼は「自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間に1対1対応が存在する」と仮定して矛盾を証明したのです。この矛盾の真因は「実無限」でした。

    しかし、彼は実無限を否定したくはなかったのです。この「完結する無限を否定したくはない」という感情が「NとRの1対1対応を否定する」というスケープゴートを生み出したのです。

    はっきりってしまうと、残酷なようで申し訳ないですが、「公理的集合論は姑息的な公理を寄せ集めて作られた、それこそハリボテの集合論」です。ⅿ(__)m

  • ところで、直観が女性であれば、証明は男性です。男女どちらが欠けても、社会は成り立ちません

    >数学は単為生殖なので性を分ける必要はない。証明さえあればいい

    その証明が正しいかどうかは、どうやって判断するのでしょうか?やはり証明ですか?だったら、自分で自分を判断することになってしまいます。

    要するに、証明の不備を補うのが直観です。直観と証明、どちらが欠けても数学は成り立ちません

    >直観は正当化には必要ない

    正当化とは何でしょうか?矛盾した無限集合論を正当化するために、矛盾を排除できる公理を経験的に取捨選択して作り上げた公理的集合論は正当化の極致にあります。このような数学における正当化は、許されることなのでしょうか?

    あなたの『直観をすべて排除する』という立場は、この世の中からすべての女性を排除することになります

    >単為生殖なので問題ない

    女性排除ですか?数学には直観と証明が不可欠です。パッと見て判断する直観が優れているのは女性のほうで、じっくりと見て論理的に行なう証明が合っているのは男性でしょう。

    社会に男女が必要なように、数学には直観と証明が不可欠です。数学は証明だけの学問でもないし、直観だけの学問でもありません。

    両者はお互いにないものを補完し合っています。だからこそ、直観と証明の微妙なバランスが要求されるのです。

  • 数学でも、直感と証明はバランス良く配合していく必要があります。

    >バランスをとる必要はない トートロジーでもアンチトートロジーでもない命題Pについて真だとか偽だとか直感で決める必要はない

    突然、無関係のトートロジーやアンチトートロジーを引っ張り出してきますが、そのような詭弁は、これからは通用しなくなります。

    ところで、平行線公理はなぜ『トートロジーでもアンチトートロジーでもない命題』と言い切ることができるのでしょうか?ここまで断言することができるからには、『平行線公理はトートロジーでもアンチトートロジーでもない命題である』という主張を導き出す証明をお持ちのはずです。それをここで披露してもらえませんか?

  • あなたは、AからBが証明された場合、論理式A→Bを真だと言いました。『Aも真理ではない、Bも真理ではない。唯一の真理はA→Bである』と…。

    この考え方がヒルベルトの形式主義です。

    でも、ヒルベルトもあなたも『A→Bが真である』ということを証明していないのです。肝心のこの部分は、あなたもヒルベルトもご自分の直観だけで述べているのです。

    AからBが証明されたら、どうしてA→Bが真の命題になるのでしょうか?

    直観を否定したあなたにとっては、もはや、直観を使うことは許されません。つまり、あなたは『AからBが証明されたら、A→Bは真の命題になる』を証明する義務を負っているのです

    >その証明は必要ない

    ということは、あなたの論理は次のようになりませんか?

    【あなたの言い訳】
    私は「AからBが証明されたら、A→Bは真の命題になる」と言っているが、この主張を証明する必要はない。なぜならば、これは私の直観だからである。

    あなたは「人類に直観があることを認めない」と断言しました。でも、あなたは論理に行き詰ると、自分独自の直観をこっそりと引き出してきて、「必要ない」とか「定義である」とかいって、発言の根拠を隠し通します。

    結局は「必要ない」という言い訳も「定義である」という言い訳も、その正体は「自分だけの直観」なのです。失礼なことを申し上げてすみません。ⅿ(__)m

  • 物理学は、直観と現実をバランス良く組み合わせて、作られます。おかしな現実を否定できるのは、正しい直観だけでしょう

    >バランスをとる必要はない。直観は負ける。人間は真理を直接認識できない愚か者なのだ

    あなたは『人間は真理を直接認識できない愚か者』と言いました。では、それは真理と言えるのでしょうか?

    もし、自分の言っていることが正しいと言いたいのであれば、『人間は真理を直接認識できない』ということを証明していただけないでしょうか?その際、次の答えはダメですよ。

    1.その必要はない。
    2.物理学の定義である。

  • 物理学においてはバランスが大事です。直観が正しいかどうかは現実で判断する。現実が正しいかどうかは直観で判断する

    >それでは堂々巡りになる。後者は必要ない。直観によって現実を否定することはできない。前者だけで十分だ。現実は正しい。つまり、直観が現実によって否定されるだけだ

    私が述べているのは総合判断です。なぜ、現実は正しいのでしょうか?あなたが今後も『現実が正しい』という主張を繰り返すのであれば、その主張を導き出す証明を公開していただけないでしょうか?

    もし、その証明が存在しないのであれば、あなたはご自分の直観でだけで『現実が正しい』を繰り返していることになります

    【あなたの主張のまとめ】
    1.ご自分の直観で、他人の直観をすべて否定する。
    2.意味もなく「現実が正しい」と言い続ける。

    物理学もまた、直観と現実をバランスよく配合して行かなければならない学問でしょう。直観だけではダメなように、現実だけでもダメなのです。

  • 現実が正しいかどうかを、現実で判断できません

    >判断の必要はない。現実は正しい。これが科学の前提である

    科学ではそんな前提を置いていません。ところで、現実の定義は何でしょうか?

    >科学においては、現実とは真実である

    堂々巡りですね。日常生活では現実は真実です。しかし、科学においては現実と真実は異なります。これは、脳科学が証明しています

  • >対角線論法とは、ごく普通の意味で無限集合、つまり可能無限集合を前提として主張された論法であって、あなたの言っているような、 意味不明の単語を用いて主張された命題ではない。

    「普通の集合」=「可能無限集合」でしょうか?可能無限では、無限集合は存在いません。

    >あなたはこういうごく基本的なことが分っていない。2chに参加すれば多くの人があなたのそういう欠点を矯正してくれるだろうが、あなたは参加しないから、 自分の欠点にいつまでたっても気付かない。

    あなたは2chに参加していても、「可能無限では無限集合は存在しない」ということを教えていただいていないのでしょうか?ⅿ(__)m

    >また市川氏の連続投稿が始まったようだ。このひとはおそらく投稿に夢中で、 他人の投稿が間に挿入されていても気付かないだろうから、59674 の投稿を再掲しておこう。あなたは基本的なところを間違えている(笑  対角線論法とは自然数と実数の間に1対1の対応が付くかどうか、ということを考察した論法であって、無限集合とか有限集合とか、そんなことは前提としていない。 一応、ごく普通の意味で無限集合であることを前提としているが、あなたのいうような実無限集合を前提としているのではない。

    あなたはまったく無限集合論の主張を理解していませんね。1対1対応とは「集合と集合の関係」なのですよ。もっと正確に言うならば「ある集合の濃度と別の集合の濃度の関係」なのです。だから「自然数と実数の間に1対1の対応が付くかどうか」など問題にしていません。あなたは、この辺がまだ理解できていないのですね。ⅿ(__)m

    ある主張文の中に、意味不明の単語が含まれている場合、その主張文は真偽を決められない意味不明の文章です。

    >そうではない。 意味不明の単語や間違った前提から主張された命題は偽の命題であって、非命題ではない。あなたはそういう基本的なことが分っていない。

    あなたは1対1対応を理解していないばかりか、命題も理解していないのですね。そんなことでは、「無限小数は数ではない」といくら言ったところで、無視されたり馬鹿にされたりするだけでしょう。ⅿ(__)m

  • 意味不明のハラホロヒレという単語があります。このハラホロヒレは、数学では無限集合であり、物理学では4次元時空です。このハラホロヒレを使って次のような主張文を作ります。

    P:自然数はハラホロヒレである。

    私は、この主張文を非命題と思っています。なぜならば、命題として最も重要な「(真偽を持っている)意味」を有していないからです。でも、あなたはこれを「偽の命題」と思い込んでいるのですね?もし、これが偽の命題であれば、¬Pが真の命題になります。

    ¬P:自然数はハラホロヒレではない。

    これで、よろしいでしょうか?

  • >考えることが嫌いな数学バカ乙(笑 お前のアホさがますます分ってきた(笑 ダメだ、こりゃ(笑 ――― 数学バカ、物理バカ乙(笑 お前がアホであることがはっきり分った(笑 ダメだ、こりゃ(笑 ――― 0.33333…とは何か?0.99999…とは何か?こんな質問には簡単に答えられますよ(笑 どうせ「0.33333…とは0.33333だ。・・・は無意味」 「0.99999…とは0.99999だ。・・・は無意味」と答えるんだろう。 国文バカは考えることが嫌いだからなw  率直にいって[0,0.3] [0,0.33] [0,0.333]・・・
    の和集合は[0,0.333…]ではなく[0,0.333…)だ つまり、閉区間の無限和は閉区間とは限らず0.333・・・は上記の無限和区間の最大元ではない ところでヒデは開区間を見ると発狂するw 最大元や最小元がない区間などない、とわめき散らすww 国文バカも同様の症状を示すのかね?www

    開区間と閉区間という概念がありますが、閉区間は直線ですが、開区間は直線ではありません。ユークリッドの言っているように、両端のない長さは線ではないからです。

    〇――――――〇 これは線ではない。

    〇――――――● これも線ではない。

    ●――――――● これが線である。

    現代数学の直線と半直線は、本来のユークリッド幾何学では線ではないのです。ユークリッドが書き上げた原論が述べている直線とは、現代数学の線分のことです。

  • 返信をありがとうございました。

    現代数学では、3.141592…を「πを数字で完璧に表している=これはπの近似値ではない」とみなしています。

    > 否。全くの誤解である。 数学においてπの小数展開はπの表現としての意味を持たない。

    π=3.141592… という等式の右辺は意味のない表現なのですね?だったら、右辺を書かなければいいと思います。なぜ、右辺を書くのでしょうか?

    >これは数学界の常識だが、高校までの”なんちゃって数学”しか知らない サルどもには分からんようだw 

    あなたから見れば、周囲の人たちはサルに見えるのでしょうか?ⅿ(__)m

    >必要ならばいくらでも計算できる、という条件を満たせばπの存在は認められる

    それを証明してみてください。「πの近似値をいくらでも計算できるならば、πは存在している」を証明するのです。この証明の仕方はわかりますよね?

    A:πの近似値をいくらでも計算できる。
    B:πは存在している。

    あなたはA→Bを主張したのです。それならば、AからBを導き出してくださいませんか?

    【あなたへの課題】
    「πの近似値をいくらでも計算できる」という仮定から、「πは存在している」という結論を導出すること。

    私は逆の立場を取っています。私はB→Aを主張しています。つまり、「πが存在しているならば、πの近似値をいくらでも近づけることができる」という考え方を持っています。よって、あなたのように π=3.141592… という式をπの存在証明とはみなしていません。

    >「全ての桁の値が示されなければπを数とは認めない」といいきるヒデにとってπは存在しないw

    小学生にお戻りください。ⅿ(__)m π=円周÷直径という式で存在しているのです。集合論者の言うようなπ=3.141592…という式で存在しているのではありません。

    【ヒデの思想】πは円周÷直径という式で定義され、実数比として存在する。
    【集合論者】π=3.141592…という式で定義され、無限小数として存在する。

    正しいのは私ではないのでしょうか?ⅿ(__)m なぜならば、無限集合論は初めから矛盾しているからです。

  • 返信をありがとうございました。

    結局、無矛盾な理論はどうやっても無矛盾であることが証明できない

    >そもそも無矛盾だと証明する必要がないw

    「無矛盾な理論は、己の仮定を使って無矛盾であることを証明できない」のであって、他の理論から無矛盾であることが証明される場合もあるのではないでしょうか?

    それゆえに「理論が無矛盾であることを証明する必要はない」という消極的な考え方は、数学の発展を邪魔する思想のような気がします。そもそも、「必要はない」という概念が数学には存在していないようです。なぜならば、これを(あなたがこだわっている)論理式で書き表せないからです。試しに、「無矛盾な理論は、己の仮定を使って無矛盾であることを証明する必要はない」を論理式化してみてください。

    A:無矛盾な理論は、己の仮定を使って無矛盾であることを証明できない。
    B:無矛盾な理論は、己の仮定を使って無矛盾であることを証明する必要はない。

    私が上記のAを主張すると、あなたはBを主張して私の発言を妨害します。でも、数学で正しい命題という場合、BよりもAのほうではないのでしょうか?

    > 矛盾したら否定すればいいのであって、矛盾する前から否定したがる貴様の態度が他人を疑って殺す、殺人鬼の態度なのだw

    私はあなたを殺そうとしている殺人鬼ではありません。「矛盾したら否定すればいい」と書かれていますが、相対性理論からは双子のパラドックスが出てきます。つまり、相対性理論は矛盾しているのです。それなのに、どうして世界中の物理学者たちは「矛盾したら否定すればいい」という態度を相対性理論に対して示さないのでしょうか?物理学の世界であなたの発言が無視されている理由を、どのようにお考えでしょうか?

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