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投稿コメント一覧 (32302コメント)

  • 論理にも欠点があります。論理は3つの段階からなります。

    第1段階:公理を置く。
    第2段階:公理から定理を証明する。
    第3段階:定理を述べる。

    論理の欠点は直観の欠点と証明の欠点です。

    第1段階の欠点:仮定が真の命題であるとは限らない。
    第2段階の欠点:証明が正しいとは限らない。


    kでっ天下欄リンス、

  • 帰納法と演繹法は、両方ともに欠点があります。

    【帰納法の欠点】
    帰納法は、有限個A1,A2,A3,A4,A5などの命題から一般的な命題Anを導き出します。しかし、この導き出し方は正確ではありません。A1,A2,A3,A4,A5がすべて真であっても、Anが偽である可能性があるからです。

    【演繹法の欠点】
    演繹法では、一般的な命題Anから個別の命題A1,A2,A3,A4,A5などを導き出します。しかし、A1,A2,A3,A4,A5が全部、真であるとは限りません。なぜならば、Anが偽である可能性があるからです。

  • 紙面上に書かれた言葉や、紙面上に書かれた数式、紙面上に書かれた論理式は、普通は「真の命題」と解釈します。その理由は、人間が無意識のうちに性善説を取っているからだと思います。

    人を疑うよりも、人を信じたほうが生きやすい世の中です。私たちは信頼関係の上に人間関係を築き、相手の言葉を信じて行動しています。そのような集団が素晴らしい集団であり、理想とする組織でもあります。


  • >物理学では「間違った現実」というものはないw

    それを狭い視野と呼んでいます。

    > 物理学は宗教ではない

    「現実はすべて正しい」と思い込んだ時点で、すでに宗教のレベルに入っています。科学では、「現実はすべて正しいとは限らない」という懐疑心から成り立っています。

    >現実に反する結論を導く考え方は(物理学では)間違ってる。つまり、(物理学における)正しい考え方は現実に沿う結論しか導かない。

    それを現実の奴隷と呼んでいます。

    > 我々人類は、「教祖」ヒデの奴隷ではない。

    私の奴隷になってほしくはありません。ただ、真実の前にはひれ伏す奴隷になりたいものです。「現実にはひれ伏せず、真実にひれ伏す」という謙虚な態度をいつまでも保持しましょう。

  • >原子時計が静止している座標系での時刻ではあるが、別の原子時計の座標系ではそうならない

    なぜ別の座標系が登場してくるのでしょうか?

    >時計は一つではない。この世に生きているのはあなた一匹ではないw

    時計がいくつあろうと、座標系は1つでないと矛盾します。

    >本当の時刻=誰にも共通の時刻、という意味なら そんなものは存在しない

    では、あなた流の本当の時刻で結構ですから、3時を表示している時計は、一体全体、本当は何時なのでしょうか?

    >われわれ人類は、本当の時刻は存在しないと思っている。したがって、あなたの質問は無意味であって、答えは存在しないと思っている。

    「本当のことは存在しない」といことは「真実は存在しない」ということです。真実を否定した物理学に未来はありません。

    【本当の時刻は存在するかどうか?】
    ニュートンは「本当の時刻が存在する」と言ったが、アインシュタインは「本当の時刻は存在しない」と言った。すなわち、ニュートンは「物理学的な真実が存在する」と言ったが、アインシュタインは「物理学には真実は存在しない」と言った。

    「本当の時刻など存在していない。存在しているのは、見かけの時刻だけである」というアインシュタインと同じ答えでもかまいませんが…。

    >そうなる。逆になぜ貴様は「誰にも共通の時刻があるはずだ」とおもうのか?今や根拠は何もないはずだ。

    いいえ、根拠は「数学には真実が存在する。平行線公理が真実ならば、平行線公理の否定は嘘っぱちである」「物理学にも真実は存在する。絶対時間が真実ならば、相対時間は嘘っぱちである」です。

  • 観測結果だけを信じている科学教の信者には、耳の痛い話かもしれませんが…ソクラテス、プラトン、アリストテレスの3巨人が言ったことの中に、現代数学と現代物理学がとっくに忘れた重要な内容が含まれています。

    私たちは、「究極的な真実を放棄し、問題解決ばかりに重点を置いた矛盾した数学と矛盾した物理学」から自由になるためには、原点に戻る必要があります。今から2500年前です。

    今の国際社会も、やがてはとても悲惨な結果を生むかもしれません。人間としての良識がまったく叫ばれていません。正しさを求める、真実を求めるということを忘れて、実益―――国益を含む―――ばかりを優先しています。

    利益の追求は、結果的に戦争を生み出します。はやり私たちは、今から2500年前の孔子の考え方に戻るべきでしょう。世界中の人々がお互いにwin-winの関係になるためには、思いやりを持って真実を追究する姿勢が大切かと思います。

  • >真実は塗り替えられる。つまり真実の否定は延々と続くのだ。

    その表現は自己矛盾しています。真実とは、「うそ偽りのないこと。本当のこと」です。だから、真実を否定したら、逆にその結果がうそ偽りになります。つまり、真実は決して否定はされません。

    >何の矛盾もない 常に最新の測定が真実だ

    それはあなたの完全なる思い込みです。

    >否定された瞬間、真実でなくなるというだけのことw

    その考え方は物理学の素人が行なうことでしょう。正確に表現するならば、「真実と思われていたものが、どうやら真実ではなかったようだ。でも、それを否定したことが真実とは限らない」です。

    >真実と思われているものは塗り替えられる。つまり真実と思われているもの否定は延々と続くのだ。真実と思われているものは決して否定されない、という貴様の良識は全くの誤りだ

    要するに「真実」と「真実モドキ(真実と思われているのも)」は違うということです。

  • ヒルベルトの形式主義では、公理は真の命題とは言えず、定理も真の命題とは言えないのです。

    言葉を大切にしましょう。『公理は真である』と『公理は真の命題である』はまったく意味が違うのです。この2つには雲泥の差があります。

    『命題』という言葉があるかないかで意味が異なってきます。この事実を、言葉を用いない記号のみの数学では判別できないのです。つまり、記号のみの思考(記号論理学)は、数学をダメにするのです。数学に日常生活の言葉は不可欠です。

  • 物理学においては、『すべてが仮説である』との思い込みを持つ背景には、『公理は仮説である。だから、公理から証明された定理も仮説である』という数学上の偏見があるかと思います。結局、いくら証明をしても、その証明された結果をあなたは『正しい』と思っていないのです。あなたにとって、真実などこの世の中には存在しないのです

    >当たり前だ。この世の中に真実など存在しない。真実を求める数学?真実を求める物理学?真実を求める科学?青くさ!数学の問題など解ければそれで良いのだ。物理学の問題も解ければそれで良いのだ。その解法が真実かどうかなど関係ない。賞を取れるかどうかだけが問題なのだ

    あなたのようなソフィストと戦って死んで行った人がいました。その人の名前をソクラテスと言います。今から2千年以上前の人であり、『真実は存在する』と主張し、数学や物理学のもととなる哲学を興した人です

    >真実を議論する哲学など、いったいどれだけ金や地位につながるというのだ?クソテラスを見てみろ!

    ソクラテスです

    >どっちでも良い!この世の中においては、科学はうまく説明できてなんぼの世界や。うまく説明できない無矛盾なニュートン力学よりも、うまく説明できる矛盾した相対性理論の方が、ずっと長い間、社会が求めてきた理想の理論や

    それには、断固反対です。

  • 数学における論理は、直観と証明の組み合わせです。手順としては、良識的な直観を用いて真の命題を仮定に置き、正しい証明を用いて結論を導き出し、最後に良識的な直観で結論を吟味します。

    仮定(真の命題を拾ってくる)
      ↓
    証明(正しく論理展開をする)
      ↓
    結論(真の命題を生み出す)

    >背理法は上記のやり方には全く当てはまらないw

    仮定(ウソっぽい命題を立てる)
     ↓
    証明(正しく論理展開をする)
     ↓
    結論(明らかな矛盾が導かれる)

    >「矛盾」は「Pかつ¬P」と決まってるので、直感もヘッタクレもない。要するに直感は一切必要ない

    あなたの思い込みも激しいですね。「Pかつ¬P」が、なぜ矛盾なのでしょうか?あなたはそれを証明できますか?できませんよね?

    >背理法で得られるのは「¬A1⋁・・・⋁¬An」という形の式だが このあと、どれが真とか偽とかいう判断すらしない。

    それを「詰めの甘い数学」と呼びましょう。要するに、中途半端に終わっている「推論停止状態」です。

  • >ヒデは無闇に判断したがるが、それは畜生の強迫観念でしかないw  人間は無意味な判断はしない

    ¬A1⋁・・・⋁¬Anが真ならば、A1,A2,A3,…,Anのどれかが偽なのです。どれが偽の命題でしょうか?あなたは、この謎を知りたくはないのでしょうか?「数学における謎を知りたくない」というのであれば、あなたは数学をやる資格はありません、ⅿ(__)m

    >結論:伝家の宝刀も機関銃も原子爆弾も必要ないw

    それを「詭弁を用いた思考停止状態」ということができるでしょう。ⅿ(__)m たとえば、もっと簡単な例を挙げましょう。命題Pがある場合、Pと¬Pのどちらかは偽です。一般的な命題であれば、偽の命題を知りようがありません。

    しかし、具体的な命題であれば、それが定理であれば証明できるのです。だから、数学者たちは「Pを定理と考えて、公理から証明しよう」としたり、「¬Pを定理と考えて、公理から証明しよう」としたりしているのです。

    ゴールドバッハの予想を例に出しましょう。数学者たちは「ゴールドバッハの予想を定理と考えて、公理から証明しよう」としたり、「ゴールドバッハの予想の否定を定理と考えて、公理から証明しよう」としたりしているのです。

    でも、あなたはこのような状況でも、「ゴールドバッハの予想とゴールドバッハの予想の否定の論理和は真である。これが答えだ。各々も命題の真偽など、決めないのがヒルベルト数学だ。どれが真とか偽とかいう判断すらしない!」と言っているのです。ご自分がどれほどバカげた発言をしているのか、おわかりでしょうか?ⅿ(__)m

  • >公理や定理の真偽値が、真か偽のいずれかである必要はない。

    結局、あなたにとっては数学における真偽など、どうでも良いのですね?「俺には関係ない」と…ⅿ(__)m

  • >いいや、お前は何も知らないのだ。ユークリッド幾何学も非ユークリッド幾何学も無矛盾な幾何学だ。ただし、ユークリッドと非ユークリッド幾何学はお互いに矛盾しているだけだ

    では、改めて質問します。理論Xと理論Yが存在していて、両方とも無矛盾なのにお互いに矛盾しているのはどうしてでしょうか?

    >そこまで普通は聞くか?この150年間というもの、そんな質問をしてきた学生は1人もおらんぞ

    普通は聞かなければならない質問でしょう。特に、数学科の学生ならば、絶対に幾何学の先生に尋ねるべきです

    >いいや、間違っても尋ねてはいかん!もし強引に尋ねてきたら、その学生を拘束し、単位を人質にして卒業はさせん

    卑怯です

    >何を言っておる!非ユークリッド幾何学が消えることは死活問題だぞ!ましてや無限集合論も消えて、相対性理論も消えたら、もっと死活問題だぞ!

    それはわかります。当時の人びとにとっては天動説が消えることは死活問題だから、ブルーノを生きたまま火あぶりにして、ガリレオを死ぬまで閉じ込めたのですからね m(__)m 

    長い間続いてきた理論が消えるということは、確かに死活問題です。でも、だからと言ってその理論を崩壊させた人物を殺しても良いのでしょうか?

    ・天動説を論破した人物を殺す。
    ・無限集合論を論破した人物を殺す。
    ・非ユークリッド幾何学を論破した人物を殺す。
    ・相対性理論を論破した人物を殺す。

    このような危険な行為は学問の自由を脅かし、学問の活性化を邪魔するだけだと思います。

  • >そもそもユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学を同時に使うバカはいない

    あなたは無矛盾な数学理論を同時に使わないのでしょうか?ある命題が正しいことを証明するために、複数の数学理論を使わないのでしょうか?

    >使うに決まっているだろう。自然数論とユークリッド幾何学と微分積分学を同時に使って、ある1つの数学的な問題を解くこともある

    でも、あなたは『ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学を同時に使うバカはいない』と言いました。この2つだけ、どうして同時に使えないのでしょうか?他の数学理論は、いくらでも同時に使えるのに…

    >それは例外だからだ

    何が例外なのでしょうか?あなたは自然数論とユークリッド幾何学を同時に使うのですよね

    >同時に使える

    では、非ユークリッド幾何学とユークリッド幾何学はどうして同時に使えないのでしょうか?

    >お互いに矛盾しているからだ…こんなことを俺に言わせるな!

    では、どちらの幾何学が矛盾しているのでしょうか?

    >両幾何学とも無矛盾だ!

    A理論とB理論がともに無矛盾なのに、お互いに矛盾している…そんなことは数学では起こり得ません。

  • 返信をありがとうございました。

    >まったくお前は進歩しない奴だな(笑  一体何度同じことを説明すれば分るのか(笑 

    申し訳ありません。

    >全体という語は有限なまとまりのある集合にしか適用できないのである(笑  自然数も実数もいくらでもあるのだから、 自然数全体の集合も実数全体の集合もないのだ(笑

    「自然数全体の集合も実数全体の集合も存在しない」という意見には私も賛成です。

    > 自然数も実数も数えられるのである(笑  1個、2個、3個…と数えられるではないか(笑 どんなに多くても数えられる(笑

    でも、無限に大きくては数えられません。

    >お前は「すべての自然数を数え上げた人はいない」というが、すべての自然数などというものはないのである(笑

    だから、すべての自然数を数え上げた人はいないのです。

    > 「すべて」という語は「全体」という語と同じで、まとまりのある有限な集合にしか適用できない語なのである(笑 

    それには私も賛成です。「すべて」や「全体」は、無限に関しては完結した状態を作り出すので、結局は実無限になってしまいます。

    >たぶんこう説明しても理解しないだろう(笑 またアホな質問をしてくるだろうが(笑

    その点は理解しているつもりですが…

  • 返信をありがとうございました。

    あなたは「命題Qと命題¬Qのうち、どちらかは真である」を認めないのですね?では、どうして「Q∧¬Qは偽である」と主張するのでしょうか?

    >そう決めたから。「そう感じたから」ではない。ルールの設定に直観は必要ない。

    それは間違いです。ⅿ(__)m というのは「命題Qと命題¬Qのうち、どちらかは真である」から「Q∧¬Qは偽である」が証明されて出てくるからです。

    【正しい考え方】
    「Q∧¬Qは偽である」が正しいのは、そう決めたからではない。「命題Qと命題¬Qのうち、どちらかは真である」から証明されるからである。

    正しい理論の仮定は真の命題でなければならないことを、あなたはご存知でしょうか?「仮定の真偽などどうでも良い」と思っている限り、あなたは無矛盾な理論などを作ることはいっさいできません。

    >サッカーのオフサイドに直観は必要か?ま、実際には、 「まちぶせしていいんなら試合つまんなくなるだろ」というのはあるが、そういうのは直観とはいわないw

    サッカーと数学は違います。

  • >横から、対して第五公準だけは定理の姿をしている真の命題である

    「第五公準だけ」と言い切ることができるのはどうしてでしょうか?

    >ω=2ω=nω=ω^2=ω^n=2^ω=ω^ω=Ω 無限は一つということだよ、君!  自然数は【有限可延長】ってんだw(ちょっと前からこう言ってます・・)

    有限可延長の定義は何でしょうか?

  • 返信をありがとうございました。

    >可能無限では、有限数列の有限延長列がいくらでも伸ばせるだけで、無限列は存在しないw

    動的に変化するものを無限数列と呼んでいるのです。その瞬間瞬間は、もちろん有限数列です。

    >変化の全体を想定するなら、やっぱり実無限

    変化の全体とは何でしょうか?

    >ある瞬間までの変化しか想定しないなら、有限数列しかない。 その場合、収束は語れない

    それは可能無限ではありません。可能無限では、その変化が止まらないのです。有限と可能無限の違いを理解していただきたいと思います。有限はある瞬間で停止し、それ以降は変化しない静的な状態です。可能無限では瞬間瞬間は有限ですが、全体としては変化の終わらない動的な状態です。つまり、「最後」がありません。それに対して、実無限とは有限と可能無限の合成したものです。

    >要するに収束を語るには、どっかでヒデがいうところの実無限を認めるしかないw

    あなたは「収束は実無限によって得られる」と勘違いしているだけです。収束は有限と可能無限によってえられるものではありません。

  • > つまり、実際には「有理数とも無理数とも判定できない場合」が存在する

    それは人間の証明能力が完璧ではないからでしょう?すでに決定している命題の真偽を、人間は「証明だけでは決定できない」だけです。これを「証明の能力不足」と呼ばせていただくならば、もう1つの概念も追加しなければなりません。それは「証明の非存在」です。人間が証明できないケースには2つあります。

    ケース1:証明能力の不足
    ある命題Pが真であることを証明できないのは、ただ単に、人間の能力が不足しているからである。

    ケース2:証明の非存在
    ある命題Pが真であることを証明できないのは、そもそも、証明(直接証明も背理法も)が存在していないからである。

    実は、この2つは判別不可能です。人類は、いまだにゴールドバッハの予想が真であるは偽であるかを証明できません。その理由がケース1に相当するのか、ケース2に相当するのか、判定できないのです。

    「ある実数rを数学理論Zに持って行くと有理数になり、その実数rを数学理論Yに持って行くと無理数になる」などという扱いは許されません。

  • >rが有理数であると証明できず、また有理数だと前提しても矛盾が導けないのなら、rを無理数としても有理数としても許される。

    それはまた、とんでもない数学を作り出しますよ。今でも十分に矛盾しているのに、さらに現代数学を矛盾化させたいのでしょうか?

    たぶん、あなたは「真とは、証明されること」「偽とは、矛盾が証明されること」と、異なった定義を与えていることがそもそも、間違いの発端なのです。

    定義は素直に行なわなければなりません。これを論理的な定義と呼んでも良いかもしれません。論理には、素直さが必要なのです。

    「真とは、証明されること」と定義したら、「偽とは、証明されないこと」と定義しなければなりません。真を否定したら偽になるように、定義に否定をはめ込むのです。あなたが「偽とは、矛盾が証明されること」と定義したら、「真とは、矛盾が証明されないこと」と定義しなければなりません。

    【間違った定義】
    真とは、証明されることである。偽とは、矛盾が証明されることである。

    【否定が使えるようになる定義その1】
    真とは、証明されることである。偽とは、証明されないことである。

    【否定が使えるようになる定義その2】
    真とは、矛盾が証明されないことである。偽とは、矛盾が証明されることである。

    真を否定すると偽になるようにするためには、真の定義の否定が偽の定義に一致するように工夫しなければなりません。

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