ここから本文です

投稿コメント一覧 (30918コメント)

  • >「この世のすべてがハウスドルフ空間」は無理っぽいですね。まあ、そうする必要もないのでこれはいいや。

    ハウスドルフ空間とは何でしょうか?

  • 「自然数をnまで作り出した場合、「nは自然数である」ということまでしか言えません。この時点では、次の自然数は議論の対象外です」
    「だろ?だからA(n)⇒A(n+1)のn+1は議論の対象外」
    「あなたがそう記載した時点で、n+1が議論の対象に入ったのです。」
    「いいや、上記の式はA(n)⇒矛盾、つまり¬A(n)となる ヒデ自爆!www」
    「A(n+1)が紙面に記載された瞬間、あるいはあなたが議題の中に入れて話をした時点で、n+1は自然数化しています。もし、n+1と書いてしまうと、この時点で、これは新たな自然数になっています。つまり、まだ作り出されていない自然数を作り上げたことになります。」
    「はい時点が2つになった!はい2枚舌!はい矛盾!」
    「いいえ、時点は次から次へと移動するのです。これが、可能無限です。あなたは「可能無限」と「有限」の違いすら分かっていないのです。ⅿ(__)m」
    「「自然数をnまで作り出した場合」と言い切った時点で、 n+1と書こうが自然数になっていない」
    「いいえ、頭の中でnの次の数n+1を思った瞬間から、n+1は立派に自然数化しています。」
    「ヒデはウソツキの卑怯者。 人間でなく畜生 丸焼きにされて食われるブタw ヒデ大爆死wwwwwww」
    「有限では最大の自然数nで最終的にストップします。でも、可能無限では、最大の自然数nはいくらでも大きくなれるのです。それに対して、実無限はいかなる自然数よりも大きな自然数∞を取り入れています。」

    あなたは100<∞という不等式を見たことはありますか?100は自然数です。この不等式を満たす100<xには、xとして「実数しか代入してはならない」のです。この規則はおわかりでしょうか?

    ところが、100<∞は、この規則を犯した記載です。「xには実数以外を代入すれば、不等式に意味がなくなる。つまり、大きいとも大きくないとも言えなくなる」という数学における基本的な考え方を見失っています。

    ∞は数ではないのです。だから、これを数である100と比較して大小を決めることはできません。つまり、次の不等式はナンセンスです。

    100<∞

    これは、まったく意味のない形式上の不等式です。形式主義ばかりを重んじる形式主義って、恐ろしいですね。大事なのは、形式よりも意味のほうです。

  • 「ゴールドバッハの予想については、自然数論で決定可能な範囲の命題だと分かっている。―――というのは誤りだw つまり、ゴールドバッハの予想は自然数論で決定不能の可能性もある。その場合、ゴールドバッハ予想を前提しても、その否定を前提しても無矛盾だ」
    「それは、ゴールドバッハの予想が定理ではなく、公理の場合でしょう。定理は必ず公理から証明されます。証明されない定理など、数学には存在しません」
    「ゴールドバッハ予想を前提しても無矛盾だと証明できるならゴールドバッハ予想は真だろう、という考え方もあるが、形式主義の立場からは逸脱している」
    「形式主義そのものが数学から逸脱しているのです。もう、人類は形式主義を捨てる時代に突入しているのです。」

  • 「数学において一番大事なのは、命題が真か偽かということです」
    「いいえ。分かりようがないことなどちっとも大事ではありませんよw」
    「数学において命題の真偽は大事ではないという意見は、多分、ヒルベルトの形式主義から出てきた受け売りでしょう。でも、彼は『すべての数学上の命題は真偽を明らかにすることができる』と信じていた楽観的な一面もあります。『われわれは知らなければならない。われわれは知るであろう』というのは、数学上の命題に対して言及されたものです。でも、彼自身は実際には、それと正反対の行動を起こしていました。彼は、『命題を真と偽に分類する』というブラウアーの直観主義と対立し、『命題を真偽に場合分けする』という形式主義を主張しました。

    【直観主義による平行線公理】
    平行線公理は、真か偽のどちらかに分類される。

    【形式主義による平行線公理】
    平行線公理は、真と偽の2つに場合分けされる。

    直観主義では、「平行線公理は真の命題である」で決まりです。これが2000年の歴史を誇るユークリッド幾何学です。

    それに対して、形式主義では平行線公理を真と偽に分けます。真の場合はユークリッド幾何学になり、偽の場合は非ユークリッド幾何学になります。つまり、場合分けにおいては、真偽は重要ではなくなるのです。いかなる命題も真と偽に場合分けできるので、これはとても便利な道具です。

    【形式主義の本質】
    ヒルベルトの形式主義の本質は、「命題を真と偽に分類する従来の素朴な定義から、命題を真と偽に場合分けするようになったこと」すなわち、命題の定義を改ざんしたことです。

    "Wir müssen wissen - Wir werden wissen"

    彼はこう言いました。彼はとても楽観的であり、すべての命題の真偽を証明できると信じていました。一方では、命題を場合分けすることによって、真の命題を偽の命題として扱うことも、また、その逆も可能になりました。つまり、真偽を不明にしたのです。これを「ヒルベルトは言っていることと、やっていることが違う」と言います。ヒルベルトは、矛盾した言動を取っていたのです。表現が過激で申し訳ありません。ⅿ(__)m

  • ヒルベルトの形式主義では、出てきた結論が正しいとは限りません。よって、ある数学理論Zから矛盾が証明されても、「数学理論Zが矛盾している」という結論が真とは限らないことになります。つまり、数学が滅茶苦茶になります。

    【形式主義の結論】
    ある数学理論から矛盾が証明されても、その理論が矛盾しているとは限らない。

    これが、ヒルベルトの形式主義の成れの果てです。ⅿ(__)m

  • ユークリッド幾何学Egの公理を次のように置きます。

    Eg:E1,E2,E3,E4,E5

    「E1,E2,E3,E4からE5(平行線公理)が証明されるとも証明されないとも、証明されていません。これは『公理同士は証明不可能である』と定義することによって、また『平行線公理は公理である』と直観で定めることによって、丸く収まります」
    「貴様が決め付けで誤魔化しただけ。貴様は誤魔化しばかり。知性がないから誤魔化すことしかできない。貴様は数学界の負け犬」
    「わんわん」

    「公理はお互いに証明不可能でなければならない=公理はお互いに独立した存在である」は、公理の持っている本質的な性質です。でも、仮定にはこのような性質は必要ありません。だから、仮定はお互いに証明可能であってもよいし、お互いに独立していなくても構いません。ということは、あなたは「公理は単なる仮定に過ぎない」とヒルベルトと同じことを言ったのですから、公理の大切な性質を失うことになります。

    【公理の大切な性質】
    (1)真の命題であること
    (2)他の命題から証明されないこと

    (2)の「他の命題」は「他の公理」も含まれるので、(2)からは次なる命題も出てきます。

    (3)他の公理から証明されないこと

    (3)からは次なる(4)も、芋づる式に出てきます。

    (4)公理はお互いに独立している。

    一方、仮定の性質は以下のごとくです。

    【仮定の性質】
    (1)偽の命題であっても良い
    (2)他の命題から証明されても良い

    これから、明らかに公理と仮定は異なっています。公理には厳しい制約が求められますが、仮定は自由気ままでり、どんな制約にも縛られません。したがって、両者を混同して数学を構築すると、おかしな数学になります。この数学を「ヒルベルトの形式主義」と呼んでいます。ヒルベルトの形式主義は、その教義がゆがんでいます。

    【形式主義の教義】
    公理は単なる仮定に過ぎない。(よって、定理は単なる結論に過ぎず、公理系は単なる数学理論に過ぎない)

  • 「ヒデ教の経典―――公理は真でなければならない―――なぜなら公理から演繹された定理が真でなければならないから」
    「あなたは『公理も定理も、偽であってもかまわない』といういい加減な態度で数学に接しているのでしょうか?だからこそ、ヒルベルトと同じように『公理は単なる仮定に過ぎない』とおっしゃっているのですね?私は『ヒルベルトの形式主義は、数学をいい加減な学問に貶めた』と思っています。m(__)m」
    「公理は直観しなければならない。なぜなら、公理は自分以外の前提から演繹される定理ではないから」
    「その通りだと思います」
    「公理から証明されず、また、公理との間に矛盾も導かれない命題は、新たな公理かその否定かのいずれかでなければならない」
    「その通りだと思います」
    「集合の要素は有限個でなければならない。なぜなら集合は完結しなくてはならないから」
    「{1,2,3,4,…}という集合を完結しないとするならば、有限集合が1個ずつ増えて行く集合の膨張に過ぎません。

    {1}→{1,2}→{1,2,3}→{1,2,3,4}→…

    これらのどれもが有限集合であり、『完結する無限集合を作る』ことなど誰もできません。」
    「小数は有限小数でなければならない。なぜから小数の表記は完結しなくてならないから」
    「いかにも。0.N1N2N3N4…という小数を完結しないとするならば、桁数が1個ずつ増えて行く有限小数の単調増加に過ぎません。

    0.N1→0.N1N2→0.N1N2N3→0.N1N2N3N4→…

    これらのどれもが有限小数であり、『完結する無限小数を作る』ことなど誰もできません」
    「平面において直線外の1点を通り、元の直線と交わらない直線は、元の直線と同じ距離を保たなければならない」
    「もちろんです。直観にしたがえば、まったくその通りです。」
    「2つの事象の間の経過時間は時刻の差であって、その間物体がいかなる運動をしようが経過時間は同じ値でなければならない」
    「おっしゃる通りです」

  • 返信をありがとうございました。

    >たぶん、このアホは対義語の意味が分ってないのだ(笑
    「対義語、反義語、反意語、反義詞、反対語、対語」↔「類義語、同義語」
    ↑こういう大きな括りが分ってないのだ(笑  対義語を類義語だとでも思っているのだ(笑 アホすぎて話にならない(笑 どうせまたアホ丸出しの反論を延々と書いてくるに違いない(笑

    反論を書いて申し訳ありません。あなたは次のように書きました。

    「対義語、反義語、反意語、反義詞、反対語、対語」↔「類義語、同義語」

    これは次のような意味でしょうか?

    「対義語、反義語、反意語、反義詞、反対語、対語」と「類義語、同義語」は対義語である。

    あるいは、次のような意味でしょうか?

    「対義語、反義語、反意語、反義詞、反対語、対語」と「類義語、同義語」は類義語である。

  • 返信をありがとうございました。

    >今から50年前、航空高専の1年生になった私は「記号論理学」という1冊の書物と出会いました。そして、数学の世界に「理性に挑戦し続けるたくましさ」を感じました。しかし、今では記号よりも日本語などの言語のほうが、数学的な真理をはるかに正確に表現できる大きな力があることを知りました。――― 要するに記号論理の規則も覚えられず「言葉のほうが正しいもん」と負け惜しみをほざく耄碌爺に成り下がったってことだな。死ねよ爺ィ。お前みたいなバカ生きる価値も資格もねえよ。丸焼きにして食ったろか?このブタw

    無限集合論を否定したくらいで、そんな目くじらを立てることもないと思いますが…。ちなみに、対角線論法に出会ってから、論理の本は山ほど買って読みましたが、今では手もとに数冊しかありません。ものごとの本質を知ることができたら、ソクラテスのように何も手に持っていなくても、あるいは1冊も本を書かなくてもよいと思っています。優れた後輩が出てきたら、自分の思想は代々受け継がれ、やがては花開くと信じています。私は3冊の本を書きましたが、「カントールの対角線論法」「カントールの区間縮小法」「カントールの連続体仮説」で、一応、完結しています。後は、人類がどう判断するかにお任せします。

  • 返信をありがとうございました。

    >対角線論法…たった1つの証明を四半世紀も追い続けてきたエネルギーは、いったいどこから来ていたのでしょうか?――― 自分がバカだと認める屈辱に耐えられないチキンの精神だろ 弱虫は自分のエネルギーを無駄に消費してクタバルw

    いつも、手厳しいアドバイスを感謝しています。

  • 返信をありがとうございました。

    >「事象は(自分の直感と)矛盾しないというのは、ヒデの願望に過ぎない」―――「『事象は、自分の直感と矛盾しない』ではありません。『この世の中は矛盾していない』です。これは、事象自体が自己矛盾していないことと、事象同士の相互矛盾が無いことを言っています。」――― 命題の自己矛盾とは命題から矛盾が導かれることだ

    いいえ、それは言葉の使用としては不適切です。「命題から矛盾が導かれること」という狭い思想ではダメなのです。「命題が矛盾していること」でなければなりません。

    >命題同士の相互矛盾とは二つ(あるいは複数)の命題の連言から矛盾が導かれることだ

    これもダメです。「矛盾が導かれること」と「矛盾していること」は違います。

    > つまり、矛盾がみちびかれない限り、矛盾しない

    それは、あなたの数学的能力が問題である場合も想定できます。つまり、力不足で矛盾の証明が見つけられない場合です。この場合は、矛盾が存在しているにもかからわず、矛盾を証明することができないだけです。

    > にもかかわらず、矛盾がある、という場合、それは「事象と”ヒデの直感”が相互矛盾する」という意味でしかないだろうw

    あなたは「矛盾が導かれない場合」という文章が2つに場合分けされることにまだ気がついていません。

    【「矛盾が導かれない場合」の分類】
    (1)矛盾が存在しないために、どんな努力を重ねても矛盾が導かれない場合
    (2)矛盾が存在するにもかかわらず、力不足のために矛盾が導かれない場合

    つまり「矛盾が存在していて矛盾が導かれない場合」と「矛盾が存在しないので矛盾が導かれない場合」の2つがあるにもかかわらず、あなたはこの2つをゴチャマゼにして、ただ単に「矛盾が導かれない場合」と置いているのです。当然、ご自分では力不足という想定は頭の中にないので、「矛盾が導かれない場合」と言えば「矛盾が存在しない場合」に決まっている、という自己過大評価にもとづく思い込みがあります。

  • >ここまで書いてあげてんのにまだわかんないのか。やばいね、もう。離散的な物でも収束はするんだよね。ああ、君は収束がわかんないんだっけ。 「無限小数」という実数がどうやって連続的に増えてくの?ねえ? 君は自分の頭で考えることもできないし、学校の講義も聞いてないのよね?レベルが違うんだってば。なんでロクな教育受けてない上に地頭も悪い人間がここにいるの。せめて人間性がよければ救いようあるけど。なんつーか褒める箇所がないよね。

    おっしゃる通り、「無限小数が連続的に増えて行く」ということはあり得ません。数学では二乗して-1になる実数が存在しないように、無限小数も存在していません。ところが、現代数学ではこの「存在しない無限小数」が実数に等しいとされています。

    では、ここでもう1つの発想をしてみます。存在しないものは、「もし存在するとしたら」と仮定すると、どんな論理も許されます。これはヒデの論理です。

    ¬A→(A→B)

    これは恒真命題(トートロジー)になっています。証明を下記にあげます。

    ¬A→(A→B)
    ≡¬¬A∨(¬A∨B)
    ≡A∨(¬A∨B)
    ≡(A∨¬A)∨B
    ≡I∨B
    ≡I

    AもBも消えて、I(トートロジーの論理式)に化けました。つまり、Aの中身は何でもよく、Bの中身も何でもよいです。何でもよいとは、真の命題でも偽の命題でも、どんな命題を代入してもヒデの論理式は、いつでもどこでも成立するということです。ここで、AとBに次のような命題を割り当てましょう。

    A:無限小数は存在している。
    B:無限小数は実数である。

    ¬A→(A→B)は次なる意味になります。

    無限小数が存在しないならば、「無限小数が存在するならば、無限小数は実数である」

    無限小数は存在しないから、「  」の中も主張できます。つまり、「無限小数が存在するならば、無限小数は実数である」は真と解釈され、現代数学では(正確に述べると、無限集合論では)無限小数は存在しているので、「無限小数は実数である」という結論が得られます。

  • ちなみに、次なる命題も真であり、無限集合論では「無限小数は連続している」と主張しています。

    無限小数が存在しないならば、「無限小数が存在するならば、無限小数は連続している」

    >「高卒かよ。」と言うのは言い過ぎだと思います。――― 大学生が自らを「高卒」というのはただの事実w  彼は私が同世代の大学生だと思ったんだろうw

    大卒なのに「高卒」と履歴書に書いた場合、学歴詐称に該当しませんか?ところで、東京ディズニーランドに行ったとき、ホテルからランドまでの送迎バスの運転手が面白い人で、突然、「私の最終学歴をお知らせいたします」と言い出しました。みんなは聞き耳を立てました。「東大を卒業しているのか?」「ハーバード大卒なのか?」…そしたら「○○自動車学校卒です」みんなは爆笑しました。

  • 「ゴールドバッハの予想が自然数論の定理か定理の否定かのどちらかであれば、定理のほうが自然数論の公理から証明されます」
    「それ自明だな」
    「あなたにとっては自明ではないはずです。だって以前に、『公理は定理から証明されても良い』と言ったではありませんか。あなたにとっては、公理も定理もへったくれもありません。これがあなたの理想とする数学です。ⅿ(__)m」
    「しかし、自然数論の定理か定理の否定かのどちらか、とはいえない。そうでない場合があり得る」
    「あなたにとっては公理も定理もありません。公理は単なる仮定に過ぎないから、真でも偽でもかまいないはずですよね?また、あなたはこうも言いました。『定理は単なる結論に過ぎないから、真でも偽でもかまわない』これって、『公理系は単なる数学理論に過ぎないから、矛盾していても無矛盾でもかまわない』ということです。これこそ、ヒルベルトの形式主義そのものです。結局、形式主義にとっては公理系も数学も矛盾していようが無矛盾であろうが関心がないのです。ヒルベルトプログラム(公理系や数学の無矛盾性を証明しよう)はポーズではないのでしょうか?ⅿ(__)m」

  • 「君たちガワナメ星人は、地球人の形式主義を勘違いしているのである。とても難しい考え方であるので無理もないのである」
    ボヤイ隊員は形式主義を説明し始めました。
    「形式主義とは、ヒルベルトによって確立された主義であり、数学の基本的な態度を述べているのである。これは、命題を記号によって表し、推論を純粋に記号の操作とみなす考え方のことである」
    みんなは、あまりよくわかりませんでした。反応がなかったので、ボヤイ隊員はもう一度、言いました。
    「形式主義では、命題は記号列であり、公理は記号列を変形する出発点としての記号列である。推論は記号列の変形規則であり、変形した結果に出てきた記号列が定理である。この際、命題の意味や内容をいっさい問題としないのである」
    「どういうこと?抽象的すぎるわ」
    ボヤイ隊員は、いらいらしてもう一度説明し始めました。
    「形式主義では、命題があらかじめ真とか偽という値を持っているとは考えていないのである。命題とは、規則にのっとって記号を書き並べた単なる論理式である。形式主義では、明らかに正しい命題を公理に置くようなことはしないのである」
    「では、何を公理にしているのですか?」
    「公理は、単に推論の前提とする命題のことである」

  • 「じゃあ、何でもよいのですか?」
    「もちろんである。次に命題を並べていくルールを規定して、これを推論規則と呼ぶのである。そして、推論規則を適用して論理式を変形していくことを証明と呼ぶ。そして、その変形によってえられた新しい論理式を定理と呼ぶのである」

    「ナンセンスな論理式も命題なの」
    「論理式に意味がなくても良いから、命題と考えるのである」
    「意味がなければ、真偽の判定はできないわ」
    「意味で真偽の判定を行なうことなど、形式主義ではしないのである」
    「だったら、それから証明された命題も、真偽を判定しないのね」
    「そうである。形式主義では、公理も仮定であり、定理も仮定に過ぎない。すべてが仮定に過ぎず、真偽を問わなくなっているのである」
    「それじゃあ、数学とは言えないわ。真偽を問わなくても良いのならば、いくらでも正反対の理論を作り出すことができるわね」
    「そうである。だから、地球ではユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学という正反対の幾何学が両立できているのである。これもすべて、形式主義のおかげである」
    「形式主義がなければ、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学は両立できないの~?」
    「まあ、そんなことになるかもしれないのである」

  • はっきり言うと、形式主義が特別人間的であるとか、寛容の精神であるとか、賞賛されるものだとか、私は思っていません。

    形式主義では、形式的であることが真であって、各命題の真偽を議論したりはしません。だから、形式的であれば何でも認めてしまうのです。

    お役所の方には申し訳ありませんが、役場でも書類が形式的にそろっていれば、受理を拒否できないそうです。役場の形式主義と数学の形式主義とは少し違いますが、要するに、ヒルベルトの形式主義は矛盾した理論を拒否できないのです。だから、彼は結果的には矛盾に寛容な数学に作り変えて、現代数学を矛盾化させてしまったのです。

    形式主義で数学を矛盾化させたその勢いから、数学を守るのは直観主義だと思っています。実際のところ、数学の形式主義を理解している人であれば、本当に全員が寛容な精神を持っていると言えるのでしょうか?

    真の命題も偽の命題も「証明されない」という理由だけで受け入れることは、寛容の度を越しているでしょう。数学の形式主義は理解していても、日常生活や社会的思想においては寛容でない人というのは、おそらく少なくないと思います。

    形式主義は本当に民主主義に似た真の自由をもたらす寛容な考え方なのでしょうか?形式主義者は本当に寛容な精神の持ち主でしょうか?

    形式主義は、「形式的なものはすべて認めてしまえ」という荒い主義ではないかとさえ思えます。この結果、矛盾が証明されなければ、偽の命題まで真と認めてしまいます。矛盾が証明されなければ、矛盾した理論まで受け入れてしまいます。「受け入れるかどうか?」に直観を働かせていないからです。

    ヒルベルトの形式主義から数学を守るのは、直観主義でしょう。その際、「数学者の直観」を重視したブラウアーの直観主義ではなく、「万人の直観」を重視したヒデ先生の直観主義のほうが優れています。自画自賛…ⅿ(__)m

  • 命題P:点Aと点Bを通る直線はただ1本だけ存在する。

    「この命題Pにおいて、概念はいっぱいあります。点という概念、線という概念、通るという概念、あるという概念などです。ところで、この命題における関係は、どんな関係でしょうか?」
    「そこまで突き詰める必要はない」
    「私が言っているのは、公理の真理値を証明抜きで決めるためには、良識的な直感が最適であるということです」
    「数学では、『公理が真である』とか『定理が真である』とかなんてことはいっさい言っておらず、あくまで『公理が真ならば定理も真である』と言っているだけだ。だから、公理が真かどうか直感で判断する必要はない」
    「その場合、問題になるのは公理が偽の命題の場合です。公理から定理が証明されたとき、『公理が真ならば定理も真である』は真となります。しかし、公理が偽の命題の場合は、この証明は無効化されます」
    「そんなことはない。偽の命題である公理から定理が証明された場合でも、『公理→定理』は真の命題であると言える」
    「いいえ、偽の命題を用いて行なわれる証明は信用できない証明になります。偽の命題を根拠として用いる証明が有効になるのはただ1つ、矛盾が証明されたときのみです。それを背理法と呼んでいます」
    「そんな話はどうでもよい。とにかく、すべての公理は間違っている可能性がある」
    「公理だけですか?」
    「もちろん、その公理から証明される定理も、すべて間違っている可能性がある」
    「公理も定理も命題ですよね?すると、すべての命題は偽の可能性がある、ということですね?」
    「そうだ、すべての命題は真の可能性があり、おまけに偽の可能性もある」
    「でも、命題の真偽は決定していますよね?真か偽のどちらかではないのですか?」
    「それは狭い考え方だ」

    狭い考え方:命題は真か偽のどちらかである。

    「我々はもっと広い視野に立って、命題を見直さなければならない。それが次なる考え方である」

    広い考え方:命題は真の可能性もあり、偽の可能性もある。

  • 「そして、矛盾が証明されたときにのみ、偽と結論づける。矛盾が証明されなければ、その命題を真とみなすことも許され、おまけに偽とみなすことも許される」
    「実例を挙げてください」
    「よかろう。真とみなすことも許され、偽とみなすことも許される命題の実例を3つ挙げてみよう」

    実例その1:平行線公理
    実例その2:選択公理
    実例その3:連続体仮説

    「でも、これはおかしいよ。ここに1人の人間がいるとするよね。その人が男か女かわからないとするよね。おまけに、男女を判別する手段が存在しないとするよね」
    「何を言いたいのだ?」
    「人間は男か女か決まっているということだよ。性別を判定する手段がないときにも、男女は決まっているのだよ。だったら、この人を男とみなす場合と、女とみなす場合は、どちらかが間違っているはずだよ。それなのに、どうして男とみなしても女とみなしても良いという結論が出てくるの?」
    「男女が判別できないのだから、仕方がないだろう」

  • そして、次のように書きました。

    命題Pを導き出す証明と命題¬Pを導き出す証明がともに存在しないならば、命題Pを真とみなすことも自由であり、命題¬Pを真とみなすことも自由である。

    「この数学の自由性から形式主義が生まれたのだ。形式主義は命題の真偽を決めずに、その可能性だけを論じる考え方であり、言ってみれば『何でもあり』の数学である。これをカントール先生は数学の自由と呼んだ」
    「『何でもあり』が、『矛盾した数学理論もあり』を招くのよ。形式主義が現代数学を崩壊の道に追い込んだのよ」
    「そんなことはない。それはただの言いがかりだ」
    「数学から正しい直観を排除して、形式的な証明だけで数学を構成したい気持ちはわかります」
    「そうだろう。それが、数学を厳密化するという作業だ」
    「でも、結局は形式主義もその根底で直感を採用しているのよ。その自己矛盾を意識してほしいわ」
    「形式主義に自己矛盾などない!」
    「あるわ!次のように命題を置きます」

    A:命題Pを導き出す証明と、命題¬Pを導き出す証明がともに存在しない。
    B:命題Pを真とみなすこともできるし、命題¬Pを真とみなすこともできる。

    「形式主義では、A→Bという命題が真であることを主張しているわ。でも、AからBは論理的には出てこないのよ。つまり、A→Bは証明されない命題だわ。これは、Aという仮定からBという結論を非論理的に下した間違った直観そのものよ。形式主義が直観を完全に否定するのであれば、形式主義は自分自身をも否定しなければいけないのよ」
    「ガ~ン。そんなバカな。自己否定など恥ずかしくてできるわけがないだろう」

本文はここまでです このページの先頭へ