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投稿コメント一覧 (46765コメント)

  • そもそも、『現実が正しい』と思い込むことが宗教であり、科学を否定する行為です

    >そもそも、『直感が正しい』と思い込むことが宗教であり、科学を否定する行為です

    私は「すべての直観は正しい」とは言っていません。でも、あなたは「すべての現実が正しい」とはっきり言っています。「現実を否定することは物理学を否定する」とも言い、「現実が正しいことは物理学の前提である」とも言い切っています。

    >科学においては現実と矛盾した時点で、ウソとして否定される

    それが「物理学とは現実であるという極端な現実至上主義」という新興宗教ではないのでしょうか?

    > 直感至上主義とかいう新興宗教の教祖の言いがかりだなw

    私は「すべての直観は正しい」とは言っていません。私たちは現実を疑うことを忘れてはなりません。そして『間違った現実』を、勇気をもって真正面から否定できるのは『正しい直観』です

    >自分の直観が正しいと思うのは狂気である

    では、直観という公理から成り立っているユークリッド幾何学は、狂気の幾何学ですか?間違った現実を否定することに、何か問題があるのでしょうか?

    > 自分の直観が間違ってると否定することに、何の問題があるのか?

    では、ユークリッド幾何学の公準と公理のうち、どれが間違っているのでしょうか?具体的に述べていただけないでしょうか?

    > 自分なんて所詮ただの馬鹿ではないかw  勇気をもって間違った自分を焼き殺せw

    自分とは、誰のことでしょうか?

  • 私たちの日常生活では、事象と現象は同じです。目の前で車が通り過ぎれば、「今、車が通り過ぎた」と認識できます。

    しかし、物理学では状況が異なります。正確な論理を扱う物理学では、事象と現象は異なります。というのは、一般的にはこの2つは意味がもともと異なっているのです。

    実際のあるべき姿が事象であり、それを認識した結果が現象です。日常生活を送る上では、この2つはほぼ一致しているから、面倒臭いから両者を区別しないだけです。

    一方、物理学では(面倒くさくても)事象と現象をしっかり分けなければなりません。ちなみに、数学では原則として現実を扱わないからあまり現象を話題にしません。サイコロを転がす場合も事象であり、どんな目が出たかという話題をするときにも、数学では現象とは言いません。

  • πという長さを持ったまっすぐな線分は、定規とコンパスだけでは作図できないでしょう。

    >「でしょう」は不要

    作図できないけれども、頭の中ではπの線分を思考作図できます。

    >ヒデの思考は妄想だから、作図できたと主張する根拠にはならないw

    物理学には思考実験があります。頭の中だけで実験をするのであり、これを得意としたのがアインシュタインです。数学には思考作図があります。定規やコンパスを実際に用いないで、頭の中だけで作図します。πの長さを持った直線は、サイクロイド曲線がx軸と再び交わるまでのx軸の長さとして思考作図できます。

    また、曲線をまっすぐな線に自由に変えられる文房具は、曲線定規として市販されています。

  • 長さπの線分は存在します。

    >では作図してください。

    直径1の円をコンパスで描きます。

    >円周ではなく、同じ長さの線分を描いて下さい

    1つ整理をしたいのですが、あなたは「直径1の円をコンパスで描くことができる」には同意していただいておりますか?もし、同意していただけるのであれば、「πの長さを持った曲線が存在する」も認めたことになります。

    A:長さπの曲線は存在する。
    B:長さπの曲線は作図できる。

    ここで、注意していただきたいのは、AとBは異なる日本語だということです。円が存在する以上、AとBは異なるにもかかわらず、ともに真です。では、これを真っ直ぐな線分に言い換えることができるのでしょうか?ここが焦点です。

    C:長さπの線分は存在する。
    D:長さπの線分は作図できる。

    私たちは、サイクロイド曲線という思考によって、「長さπの円周」を「長さπの線分」に変換することができます。だから、私は「長さπの線分は存在します」という冒頭の発言をしたのです。

    でも、あなたは「では作図してください」という要求を私に突き付けてきました。私は、定規とコンパスで長さπの線分を作図できません。ただし、長さπの定規があるならば、ぴたりと作図ができます。

    ここでわからないのは、長さπの線分が存在することをあなたが認めているにもかかわらず、なぜ、あなたは私個人にだけ、その作図を要求してきたのかということです。あなた自身も作図できないことを、なぜ、私に求めたのか?その真意は、いったい何だったのでしょうか?

  • 結局、0.999…の正体が何なのか?数学でもみんなが納得できるようなコンセンサス(統一見解)が出てきていないのです。

    「命題」のコンセンサスがない。
    「真」のコンセンサスがない。
    「偽」のコンセンサスがない。
    「証明」のコンセンサスがない。
    「直観」のコンセンサスがない。
    「論理」のコンセンサスがない。
    「背理法」のコンセンサスがない。
    そして
    「0.999…」のコンセンサスがない。

    このような定義の不在には、ヒルベルトの「無定義主義」…定義しないで数学を実行して行く…が背景にあると思います。

    0.999…は数なのか? 0.999…は実数なのか?0.999…は数列なのか?0.999…は極限値なのか?0.999…は集合なのか? 0.999…は集合の同値類なのか?

    結局は、何も決まっていないのではないのでしょうか?ⅿ(__)m

  • フラクタル操作を自然数回行なった有限回コッホ曲線は存在します。有限回コッホ曲線とは、第nフラクタル図形のことです。第nフラクタル図形とは、原図にn回のフラクタル操作を行なった図形です。

    しかし、無限回コッホ曲線は存在しません。なぜならば、形がないからです。普通、コッホ曲線と呼んでいるのは無限回コッホ曲線(第∞フラクタル図形)のことだから、次なる結論が得られます。

    コッホ曲線は、図形としては存在しない。

    これより、コッホ曲線の頂点は無限個あり、その長さは無限大であるという特徴はむだな議論です。形のないものには、そもそも、頂点の数も辺の長さもないからです。マンデブロ先生、ごめんなさい!ⅿ(__)m

  • フラクタル図形としてのコッホ曲線は間違っています。そもそも、「同じ操作を無限に繰り返すと、最後はコッホ曲線になる」という思い込みが間違いです。「無限に繰り返す」とは、「可能無限に繰り返す」と、「実無限に繰り返す」の2つがあります。

    「無限に繰り返す」の可能無限的解釈:
    無限に繰り返し続けるだけ。無限は終わらないから、ある1つの図形にはなり得ない。よって、コッホ曲線などは存在しない。

    「無限に繰り返す」の実無限的解釈:
    無限に繰り返すと、ある1つの図形に収束すると考える。その図形は、フラクタル操作を無限回「行ない終わった」図形である。「完結しない無限を完結したと考えた架空の図形」である。そのため、その図形は形を持たない空想上の図形であるがゆえに、当然、誰も作図もできない。つまり、コッホ曲線は(絶対に描くことはできない)「存在しない曲線」である。

  • コッホ曲線はフラクタル図形の1つです。ここで、コッホ曲線の作り方を説明します。

    まず、1本の有限の線分から始めます。線分を3等分し、中央の線分を1辺とする正3角形を描き、下の辺を消します。でき上がった線分に対して、それぞれ同じ操作を繰り返します。

    ここでわかりやすいように、フラクタル図形に記号をつけます。左に記号を書き、右にその名前を書きます。

    F(0):原型となる図形
    F(1):第1フラクタル図形=F(0)に第1回目のフラクタル操作を行なった図形
    F(2):第2フラクタル図形=F(1)に第2回目のフラクタル操作を行なった図形です。

    F(n):第nフラクタル図形=F(n-1)に第n回目のフラクタル操作を行なった図形

    以下同様

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%9B%E6%9B%B2%E7%B7%9A

    肉眼的にこの図形がある図形に収束すると思われるとき、その収束先としての図形は次のように書けるでしょうか?

    lim(n→∞)F(n)=F(∞)

    現在、フラクタル図形と言われているのは有限回のF(n)ではありません。無限回行ない切ったF(∞)のことです。しかし、無限の操作を完全に行ない切ることは不可能であり、これがゆえに、フラクタル図形は数学では存在し得ません。

    そもそも、フラクタル図形に微分積分学の記号を転用していることが間違いです。微分積分学における収束という概念を拡張して、ただ単に図形に対して転用しただけであり、その転用が正しいという根拠は何もありません。つまり、フラクタル図形は論理的ではないのです。

    その結果、誰もフラクタル図形を描けません。操作を無限に繰り返した結果として作られるコッホ曲線の頂点は無限個あり、その長さは無限大です。この完全な図形は作図することができません。ただし、その近似形である第nフラクタル図形は、いくらでも思考ないしは作図ができます。

    これは、πを表す無限小数を完全に作ることができないけれども、いくらでも有限小数で近似値を作ることができるのと同じです。フラクタル操作は有限回で終わらせなければならず、それゆえに無限回フラクタル図形は数学では存在し得ないのです。

    フラクタル図形は実無限の図形であり、正しい数学では存在しない。

  • 「正しいと判定されるのは証明だけである」と思い込むことは危険です。なぜ、正しいと判定されるのは証明だけであると断言するのでしょうか?それを証明することは誰もできません。

    「正しいと判定されるのは証明だけである」という命題が正しいことを証明できないということは、ご自分の勝手な直観だけで『正しいと判定されるのは証明だけである』と言い張っているだけです。他人の直観を否定していながら、自分だけこっそりと独自の直観を使うのはどうかと思われます。

  • 論理と証明は異なります。証明は、命題Aから命題Bに移行する筋道に過ぎませんが、論理は命題Aと命題Bの真偽をも含む大きな概念です。

    相手の直観をすべて否定するのであれば、ついでに、ご自分の直観をすべて否定なさってはどうでしょうか?そうでない限り、『命題Aから命題Bが証明されたら、そのときは、論理式A→Bも真の命題になる』という命題を、直観抜きで正しいことを証明してもらえないでしょうか?

  • 真の命題を仮定に持ち、それらを使って正しい証明を行なえば、必ず真の結論が得られます。これが数学理論の信頼性を支える基本的な姿です。

    『正しい仮定を設定し、正しい証明を行なえば、必ず正しい結論が出てくる』という正しい論理の存在を認めることは大切です。

  • 返信をありがとうございます。

    衝突したとき、2物体は同じ場所に存在し、なおかつ、同じ時刻を有します。

    > 相対論でも上記の定義は満足するw  要するに経過時間=時刻の差、とはならないというだけのことw

    あなたは小学校で習った時計算を否定するのでしょうか?3時から4時になったとき、経過時間は1時間です。この時の計算は4-3=1という引き算です。

  • 今まで順調に印刷していたプリンターが突然に動かなくなったら、そこには必ず原因があります。だからこそ、その原因を見つけるために、すぐにプリンターのふたを開けたりして、あちこちをチェックして異常がないか調べます。

    私たちのこの無意識的な行動は「どんなできごとにも、必ず原因がある」という信念に基づいて行われます。これは、「ものごとには因果関係が存在する」という考え方であり、科学の基礎をなしています。

    因果とは、原因と結果のことです。事象Xが事象Yを引き起こすとき、Xを「Yの原因」といい、Yを「Xの結果」といいます。このとき、XとYの間にある関係が因果関係です。

    原因:結果という事象を引き起こす事象
    結果:原因という事象によって引き起こされる事象

    『どんな事象についても、その前に原因となる事象が存在し、その後には結果となる事象が存在する』という考え方が因果律です。

    【因果律】
    任意の事象Yについて、事象Yを引き起こす事象X(原因)がその前に存在し、事象Yによって引き起こされる事象Z(結果)がその後に存在する。

    事象X→(因果関係)→事象Y→(因果関係)→事象Z

    これより、1つの事象は過去の事象の結果であると同時に、未来に起こる事象に対しては原因として働きます。

    この世の中のいろいろな変化は、因果関係の連鎖で成り立っていると考えられます。そして、この因果関係を定性的な関係から定量的な関係に持って行くのが数式であり、この数式を中心に成り立っている学問の1つが物理学です。

    物理学にはいくつかの基本的な法則があります。その順番もある程度、決まっています。真っ先に必要な法則は無矛盾律(事象の無矛盾律と物理学の無矛盾律)です。そのすぐ後に因果律が来ます。

  • 物理学は、事象の因果関係を扱う学問なので、因果律は物理学の基本な法則です。この因果律を否定すると、原因の存在しない事象を大幅に認めることができるようになります。

    たとえば、印刷中のプリンターが突然に動かなくなっても原因は存在しない。交通事故と事故死との関係もない。そのため、交通事故が起きても誰にも責任はない。人が死んでも死因などない。爆発が起きても原因を探す必要はない。財布が消えてもあきらめる…なぜならば、ものごとには原因など存在しないから。

    因果律を否定すると、科学的な探究や科学的な捜査はすべて無意味になります。

    ここで、「因果律が存在しない」と「因果関係が存在しない」の違いを明確にしておかないと、誤解が生じるでしょう。物理学では「どのような事象にも必ず原因がある」という立場をとっていますが、「どのような2つの事象の間にも必ず因果関係がある」とまでは言っていません。

    ちなみに、原因は1つとは限らず、結果も1つとは限りません。

    ところで、因果律を否定しているのがビッグバン理論です。ビッグバンが起こる前には空間も時間もありません。でも、原因となる事象が生起するためには、空間と時間は絶対に必要です。ビッグバンの前に時間と空間が存在していなければ、ビッグバンが起こらないのです。でも、ビッグバン理論ではそれが起こったとされています。これは矛盾だから、結論としては背理法によって、ビッグバン理論は否定されます。

  • 返信をありがとうございました。

    >宇宙は存在しない。だから物体の位置は存在しない。

    では、宇宙論は全滅ですね。存在しない宇宙について論じる学問など、物理学の名を汚すだけです。失礼な表現がありましたら、大変申し訳なく思います。ⅿ(__)m

    > 時空論に変えればいいだけw ローレンツ変換でも因果関係は否定されない。

    ローレンツ変換は因果関係を説明する理論ではありません。

    > 説明はしないが、否定もしないw 時空の2点の時間的前後関係が変化する場合があっても そのような2点の間は光速未満の速度では移動できない。したがって因果関係はないので問題ない。

    因果関係があるかないかは、そう簡単に語れるものではありません。

    > 君が語りたがらないだけで、他の人間は簡単に語るw

    では、アフリカで蝶が羽ばたいて、その後にアメリカでハリケーンが起こったら、因果関係はありますか?あなたが大きな声でどなった後に、近くにいた人が心筋梗塞で倒れた場合、因果関係はありますか?

  • ある事象がきっかけとなって、それとは別の事象が起きたとき、前者を原因と呼び、後者を結果と呼びます。そして、この2つの異なった事象の間には「因果関係(原因と結果の関係)がある」といいます。

    物理学は、事象の因果関係を明らかにする―――なぜ、その事象が起きたのかを探る―――学問です。

    個々のできごとの原因を考えるのは、「すべてのできごとには原因がある」という考え方、いわゆる「因果律」の考え方を前提にしています。

    しかし、任意の2つの事象を取り上げて、この2つの事象の間に存在している因果関係を科学的に解明することは難しいことが多いです。例えば、バタフライ効果です。アフリカで一匹の蝶が羽ばたいたこととアメリカでハリケーンが起こったことに、因果関係の有無を判断することは極めて困難です。

    ここで、1つの因果関係を提示してみたいと思います。ある少年が学校の帰りに道端に落ちていた石ころを蹴りました。石ころは電柱に当たって、電線に止まっていた鳥たちがいっせいに飛び立ちました。それに気をとられた運転手はハンドル操作を誤って人身事故を起こしてしまいました。交通時の被害者は病院に入院して治療を受けています。この場合、ケガをした被害者は事故の原因を招いたとして、少年に損害賠償を請求することは可能でしょうか?

    私たちの社会も自然界も、因果関係の連鎖で成り立っています。上記の場合も、どこかで連鎖を断ち切らないと、それこそ過去のできごとに無限の責任を負わされます。その場合は、良識で判断します。裁判所は、少年に損害賠償を言い渡すことも、電線の鳥に損害賠償を言い渡すことも、電線を設置した技術者に損害賠償を言い渡すこともないでしょう。

  • ここに1本の棒があるとします。観測者が動けば、相対性理論によるとその棒の長さは縮みます。絶対時間と絶対空間を仮定したニュートン力学では、観測者がどんなに速く動こうが、棒の長さは元のままです。

    また、観測者が動けば、相対性理論によるとその棒が存在している空間の長さは縮みます。棒の長さが縮むとき、あるいは棒が存在している空間が縮むとき、その原因として「観測者が動くから」というのはこじつけでしょう。

    観測者が動くだけでは、観測者がまったく手も触れずに棒の長さを縮めることはできません。ましてや、空間を1方向だけ縮めることなどはとてもできません。容器にリンゴが1個入っていて、リンゴにはまったく手も触れずに、容器だけ1方向に圧縮して、中のリンゴもその方向だけ圧縮できるとは思えません。もし、このようなことが起こるならば、これは物理学を否定した超常現象です。

    棒が縮むこととも空間が縮むことも、観測者が動くこととなんら因果関係はありません。実際の棒を、断面積をまったく変えずに縮めるために必要なのは、それこそ巨大な力です。観測者がいくらドタバタ走り回っても、ただそれだけで棒の断面積がまったく変わらずに長さだけ縮む、あるいは空間ごと縮むと主張することは非科学的です。相対性理論は、典型的な非科学理論―――トンデモ理論―――です。アインシュタイン先生、申し訳ありません!

  • 私たちが「独立した命題」を考えるとき、次の2つの分けて考える必要があります。

    (1)n個の「命題」から独立した命題
    (2)n個の「真の命題」から独立した命題

    (1)による「独立した命題」と(2)による「独立した命題」はまったく異なります。私たちが「独立した命題」を定義する場合、どちらで定義したほうが良いのでしょうか?ここで、極端なケースを考えてみます。

    (3)n個の「偽の命題」から独立した命題

    ちなみに、偽の命題からはどんな命題も証明される可能性があります。つまり(3)のケースでの定義はとても困難です。実は、(1)の場合も同じです。(1)の命題は断りがないので、偽の命題を含んでいても構わないのです。

    ということは、独立を定義する場合、「n個の真の命題から独立している命題」のみを定義しなければなりません。

    ここで、公理系を思い出してください。公理系を構成している命題は4種類です。「公理」と「公理の否定」と「定理」と「定理の否定」です。

    次に、この公理系の公理をE1,E2,E3,E4,E5の5個とします。ユークリッド幾何学を連想してみてください。これらが公理である以上は、すべて真の命題です。

    次に、これらの公理から独立しているE6という命題を考えます。独立とは、証明も反証も存在しない命題のことです。よって、E6も¬E6もE1,E2,E3,E4,E5からは証明されません。

    ここで、E6を真の命題とし、¬E6を偽の命題とします。偽の命題は真の命題からは証明されないので、¬E6が証明されないのは当然のこととなります。では、E6は真の命題であるにもかかわらず、どうして証明されないのでしょうか?

  • 独立した真の命題E6は、E1,E2,E3,E4,E5を公理とする公理系では証明されません。この問題を根本的に解決するのは、次の考え方です、

    命題を、「公理系内の命題(公理系に属する命題)」と「公理系外の命題(公理系に属さない命題)」の2つに分ける。

    これで、今までの謎は解決します。

    ユークリッド幾何学を公理系(E1,E2,E3,E4,E5を公理とする)と仮定します。これから平行線公理E5を取り除いた公理系(E1,E2,E3,E4を公理とする)を作ります。公理が1個なくなったのだから、この4公理の公理系はユークリッド幾何学を縮小した公理系です。

    これに平行線公理の否定¬E5を加えて数学理論を作ります。この場合、偽の命題を仮定しているからE1,E2,E3,E4,¬E5を仮定している数学理論は本物の公理系ではありません。実は、この数学理論は矛盾しているにもかかわらず、矛盾が証明されないのです。

    次に数学基礎論を思い出してください。数学基礎論では、「矛盾が証明されない理論を無矛盾な理論と定義する」という定義ミスを犯しています。でも、この定義ミスに気がつかなければ、矛盾が証明されない非ユークリッド幾何学を「無矛盾である」と結論するしかなくなるのです。つまり、結果的には数学基礎論は、非ユークリッド幾何学の矛盾を隠蔽している役割を果たしています。ごめんなさい!!!

    このような、数学基礎論と非ユークリッド幾何学の相互関係(ある意味では矛盾を隠すための共謀とみなすこともできる)という隠された真実を見抜くことが大事です。表現が露骨で申し訳ありません。ⅿ(__)m

  • 数学内では、直観と証明は仲良く共存していかなければなりません。直観の不備は証明が補い、証明の不備は直観が補うのです。

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