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投稿コメント一覧 (43863コメント)

  • 光子は宇宙の端から端まで、瞬間的に移動できます

    >距離0だからなw

    その速度は無限大です

    >否。速度=距離/時間であり、距離が0で、時間も0なら、速度は定まらない。しかし極限としてcという値を取ることはあり得るから問題ない

    光速度で飛行する光子にとっては、相対性理論が正しければ、周りの空間、すなわち、宇宙全体が進行方向に短縮し、その距離は138億光年から0光年に縮まっています。その距離を飛行するのだから、速度は∞ではないのでしょうか?これは、光子のパラドックスです。

    >上記のように光子の速度がcであってもよいからパラドックスではないw

    私が指摘しているのは、「光速度はcであると同時に無限大である」というパラドックスです。

  • 相対性理論は、発生したパラドックスを得意の非論理によってごまかしているだけです

    >ヒデこそ、得意の直感混入技で、ニセのパラドックスを発生させてるだけだろ。ヒデのやってることは、小保方晴子のES細胞混入と同レベルの不正行為w

    双子のパラドックスもリンゴのパラドックスも光速度のパラドックスも、すべて正真正銘のパラドックスです。物理学では「現実は必ずしも正しくはない」ということを認識することが重要です。

    >物理学をつくったのはアザラシの貴様じゃない。 貴様こそ物理学は「現実は必ず正しい」という前提に立っていることを認識しろw

    「現実が必ず正しい」とは極端な思想ですね。結局、あなたは現実と真実を混同しているのです。プラトンの洞窟の比喩をもう一度、読み返してみてください。目の前に現れた現実と、本当の姿である真実は、一致しないこともあるのです。

    幸い、私たちの周囲で起こっている日常生活レベルでは、そのほとんどは現実イコール真実です。でも、究極の世界を追求する物理学では、洞窟の比喩が生きてくるのです。目で見た世界の延長である「観測装置で得られた現実」が、真実ではないことは、科学する人ならば十分に認識していなければならないことです。現実が正しいという保証はありません。

    >アザラシの貴様がうなずけないからといって、「正しくない」という保証はないw

    「この現実は正しい」という保証と「この現実は正しくない」という保証は、いったいどうやって区別するのでしょうか?まさか「現実を用いて区別する」とでも言い出すのではないのでしょうか?幻覚は、それを体験している人にとってはまさに現実です。現実は、1人1人違っています。それが、真実との違いです

    >貴様のいう真実は、貴様一人の幻覚だw

    現実が正しくて、真実が幻覚ですか?それが相対性理論の世界なのでしょうか?

  • 相対性理論が正しければ、動いている物体から見た場合、物体の背景はすべて短縮しています。たとえば、ミューオンが地球に降り注ぐとき、地球が短縮しているので、飛行距離が延びます。

    実は、ミューオンからすれば、短縮しているのは地球だけではなく、太陽も月も銀河系も短縮しています。それだけではありません。宇宙全体が短縮しているのです。

    宇宙船が速度vで飛行しているとき、相対性理論によれば、宇宙全体が進行方向に短縮します。その短縮度は次式になります。L0は静止時の宇宙の大きさであり、それは138億光年です。Lはミューオンが速度vで飛来したときの宇宙の大きさであり、もちろん、短縮した以上は138億光年よりも小さいです。

    L=L0√(1-(v/c)^2)

    では、この式を光子に適用します。光子は速度cで宇宙空間を飛来します。その光子から見ると、自分以外の世界が相対性理論の式にしたがってすべて短縮します。その結果、宇宙全体も短縮して幅が0になっています。つまり、光子は宇宙の端から端まで、瞬間的に移動できます。その速度は無限大です。これは、光速度のパラドックスです。

    【光速度のパラドックス】
    光速度はc(299792458 m/s)であると同時に∞である。

    ニュートン力学からはパラドックスは1個も出てきません。でも、相対性理論からは(まるで素朴集合論のように)非常にたくさんのパラドックスが湧き出てきます。なぜ、山のようなパラドックスが相対性理論から発生してくるのでしょうか?

    今回の光速度のパラドックスは、その真因は「運動物体の短縮」にあります。こんな無理なことを主張しなければ、パラドックスは起こり得ないでしょう。

  • 真空中の光速度 c=299792458m/s

    観測者が光の速度を観測する場合、それは速度を測定することです。そのとき、「測定値は有効数字までの桁数を持つ小数×指数で出す」という暗黙の了解があります。そのため、測定値は有効数字を持ち、誤差も伴っています。では、この測定値cの誤差はいくらでしょうか?観測をすると、真空中の光の速度が299792458m/sという整数値になるはどうしてでしょうか?小数点以下の数値が消えているのはどうしてでしょうか?

    測定値が整数値になるのは、ちょっとおかしいと思います。どの観測者が観測しても測定値が例外なく整数値になるのは、何となく納得が行きません。

    現在では光の速度は299792458 m/sとされており、誤差が完全に消えてなくなりました。その理由は、光の速度がこの数字であると定義されたからでしょう。定義された以上は、距離と時間の基準になっことを意味しています。

    光速度の単位はm/sです。c=299792458 と置くことによって、これを用いて距離も時間も定義することができるようになります。

    これは、本末転倒です。本来、距離と時間はそれぞれ独立に単位の大きさを決めるべきです。「距離は時間に干渉せず、時間は距離に干渉しない」という独立の精神が必要です。これに重さkgも加わります。

    【3単位分立の精神】
    三権分立とは、立法、司法、行政がお互いに独立を保つべきです。物理学も、この精神を忘れてはなりません。m(距離)とkg(質量)とs(時間)は、お互いがお互いに影響を与えたり、あるいは光速度のように単位を支配したりしてはならないはずだと思います。

    m(距離)とkg(質量)とs(時間)は、それぞれが独立に定義されなければなりません。そして、独立に定義された単位を持って表現するのが組立単位としての光速度です。このような3単位分立の精神を保っていれば、光速度cが整数値であり、おまけに誤差がないなど良識的にはあり得ないことです。「測定値は、必ず誤差を伴う」というのは、誤差論の基本です。

  • 幼稚園の園庭に棒が1本落ちています。その周りを10人の園児たちが様々なスピードで様々な方向に向かって走っています。棒の周りをぐるぐる回っている園児もいます。彼らは10人の観測者です。でも、誰がどんな動きをしていても、棒の長さは変わりません。棒の長さという物理量は、誰にとっても同じ客観的な存在なのです。

    相対性理論は矛盾しているから、縮んでいない棒を「縮んで見える」とか、幻想的なことを言い出すのでしょう。ニュートン力学は「どうあるか?」という本質に迫る理論です。しかし、相対性理論は「どう見えるか?」という「ものの見え方を研究する理論」です。

    ニュートン力学…事象を扱う理論
    相対性理論…現象を扱う理論

    もちろん、見え方を研究する物理理論が悪いわけではありません。ニュートン力学の一部である光学は、光の反射、光の屈折、光の回折を研究しています。これによって、実在しないものが存在しているように見えたり、ものの長さが短く見えたり、ものが大きく見えたり、小さく見えたりすることを、光の経路で納得いくまで十分に説明できます。

    しかし、相対性理論では物体が短く見えたりすることも、納得できる説明とはとてもいいがたいです。

    例)ニュートン力学では、屈折によってものが短く見えることを説明できる。

    例)相対性理論は、高速で運動する物体が短く見えることを謳っているが、それは光の反射や屈折や回折による納得できる説明ではない。「なぜ、運動している物体が縮むのか?」という問いに対して「光速度不変の原理によって」としか答えられない。

    しかし、そもそもこの原理が「光の速度は、誰にとっても同じ速度に見える」という見え方を原理化したものにすぎないのです。つまり「光の速度は誰にとっても同じ速度に見えるから、運動している物体は短く見える」と言っているのにすぎません。このような見え方を扱った相対性理論は、本当に科学理論と言えるのでしょうか?

  • ヒルベルトは「無限ホテル」という次のようなパラドックスを考案しています。

    ホテルが満室であれば新たな客を入れることはできない。しかし客室が無限に連なって存在するならば、満室であるにもかかわらず新たな客を入れることができる。つまり無限個の部屋は「どの客室にも隣室がある」ということであり、「隣室がある客室の客は隣室に移動することができる」のだから、満室状態であるにもかかわらず、客の移動によって空室を作ることができ、何人でも新たな客を入れられる。

    まず、突っ込みですが、無限ホテルという命名に問題があります。これは「無限に作られるホテル」でしょうか?それとも「無限に存在しているホテル」でしょうか?ヒルベルトは「ホテルが無限に存在していること」とは考えていません。彼は「客室が無限に存在していること」と考えたのです。もう、この時点で十分に実無限です。

    無限は存在するものではありません。というのは、「無限に存在している=無限個存在している」となって、無限を自然数として無意識に扱っています。無限は自然数ではありません。
    無限とは、あくまでも終わらない変化のことです。「ホテルの客室が限り無く作られること」が無限本来の意味であり、「客室が限り無く作られてしまった状態」は自己矛盾した表現です。
    結局、新たな客がn人来たら、急いでn部屋を作ればいいのです。これで、いくら客が来られても、困ることは何もありません。ヒルベルトの考えたような「1人ずつ部屋を隣に移ってもらう」という面倒なことはしなくてかまいません。増設すれば済むことですから。

  • 「明らかなことが1つ言えます。無限のプロセスを持った計算は終わりません。だから、無限プロセスを使ったネイピア数eの値は計算不能です」
    「終わる必要はない。プロセスそのものが値だから」
    「有限のプロセスの結果は値となり得ます。5÷2は2.5であり、『5を2で割る』というプロセスによって2.5という値が出てきます。しかし、『3を2で割る』というプロセスでは1.333…と無限に続くので、これは有限のプロセスではなく無限のプロセスです。したがって、最終的な値は得られません。πや√2という無理数を小数展開する場合も無限のプロセスとなって、最終的な値は得られません」

    無限プロセスには結果はない。

    「つまり、循環小数も無理数も小数表示が不可能になります。しかし、実生活においてはもちろんのこと、アバウトな数字を扱う物理学においても、無理数は10桁や20桁の表示でちっとも困りません。だから、一時しのぎとして『…(点点点)』というあいまいな記号ですべての桁を表し切ったとして考えています。つまり、一時的に『表せないものを表すことができた』として扱っているのです。これは矛盾そのものですが、この矛盾がとても便利なのです」
    「どいうことかな?」
    「これは、一種の数学トリックです。子どもたちの数学教育において、このトリックを使えば数学が簡単に理解できたような錯覚に陥ります。でも、それでは数学を本当に理解したことにはなりません」

  • 「円周率の小数点以下の桁の数字をすべて確定させること―――円周率を小数で表示すること―――を考えてみます。円周率が無限小数として存在するためには、小数点以下のすべての桁の数が決まらなければなりません」
    「すべての桁を確定させる必要はない。確定できない桁が存在しなければいい」
    「その発言は矛盾しています」
    「どうしてだ?」
    「確定できない桁が存在しないためには、すべての桁を確定させる必要があるからです」
    「ありゃ、おかしいな。だから、無限は嫌なんだ」
    「忌み嫌わないでください。無限は実に単純です。それは、終わらないことであり、それがゆえに無限を含むものは完成しません。要するに、ある1つの値を持った無限小数は完成しないのです」
    「それって、無限小数は実数ではないことになるぞ」
    「その通りです。でも、計算すると0.999…=1になるぞ」
    「その計算は間違っています」
    「でも、子どもたちの数学の教科書にも、その証明が書かれているぞ」
    「それは単純な証明ミスです」

  • 無限の操作を伴う計算は可能かどうか?という問題には2つの意味が含まれています。

    【計算可能】
    (1)計算を継続させることが可能である。(可能無限の立場)
    (2)計算を終了させることが可能である。(実無限の立場)

    実無限の立場では、πの小数点以下の桁数をすべて一瞬に計算し終えています。だから、実無限の立場を取る人は「πの小数点以下の確定されていない桁は存在しない」と言っています。
    一方の可能無限では、確定された桁と確定されない桁が両方とも存在し、いくらたくさんの桁を確定させても、この状態が限り無く続くだけです。

  • 有限と無限は異質な存在です。有限は静止を使い、無限は変化を扱います。これから言えることは、「無限は有限を含まない」ということです。

    有限は「限りが有る」、無限は「限りが無い」という意味であり、お互いがお互いを否定し合っています。問題は「有限の○○」と「無限の○○」の関係です。
    「有限の長さ」を否定すると「無限の長さ」になるでしょか?「有限の個数」を否定すると「無限の個数」になるでしょうか?「有限の値」を否定すると「無限の値」になるでしょうか?

  • 「無限」とは「終わらないこと」です。何が終わらないのかというと、動作が終わらないのです。「作業」「工程」「過程」「伸長」「生産」「増加」「減少」「プロセス」「アルゴリズム」「運動」などなど、すべてに共通していることは「変化」です。無限とは「変化に限りが無いこと」です。つまり、無限の本質は変化し続けることであり、それゆえに、変化が静止した静的な状態は「変化の完了した状態」です。変化の終わり切った状態は、普通は、無限とは呼びません。

    無限の本質は「変化」である。

    「 誤ってるのは、ヒデの 「(可能)無限集合間の1対1対応の定義」
    「無限集合は存在していません」
    http://park20.wakwak.com/~ichikawa-clinic/2-two-interpretaions.htmによれば、ヒデは以下のような『要素の数が増える』集合は認めてるらしい」

    {φ}→{φ,φ’}→{φ,φ’,φ’’}→・・・

    「上記は自然数の集合についてのものだが  おそらく実数の集合についても以下のように考えているんだろう」

    {r1}→{r1、r2}→{r1、r2、r3}→・・・

    「ポイントは、実数が1つづつ増えていき、しかも いかなる段階でも集合の要素が有限個である点。実数の全体を、『要素の数が増える』集合と考える限り実数には自然数の番号がつく筈だと思い込んでるわけだ」
    「その考え方は正しくはありません。正しく言い直させていただくと、『実数に自然数の番号を割り当て続けることが無限に続く』です。無限の操作は終わらないから『すべての実数にすべての自然数を割り当てた状態』は存在しません」

  • 無限の本質は変化し続けることであり、それゆえに、それは運動であり、操作であり、工程であり、作業です。線で言うならば、線を無限に伸ばすことが「無限の線」の本質です。∞という長さを持った線が存在するわけではありません。「無限に存在する」という表現の正確な解釈は「無限に生み出すことができる。無限に繰り返すことができる。無限に伸ばすことができる。無限に縮めることができる」です。無限に生み出された状態(無限個を生産し終わった状態)、無限に繰り返された状態(繰り返しが完了した状態)、無限に伸ばし切った状態(無限の長さを持った状態)、無限に縮めることができた状態(無限小)などは、無限の定義上、数学的には存在できないのです。

  • 無限とは、いつまでたっても終わりがないことです。つまり、動きを伴っていることであるがゆえに常に動的です。終わってしまったら、そのとき以降は動きを伴わずに静的な状態で落ち着きます。それが有限です。

    有限…静的であり、動き(変化)を伴わない。
    ある瞬間という概念は無意味である。
    無限…動的であり、動き(変化)を伴う。
    ある瞬間を考えれば、それはいつも有限である。

    9を無限に書き続ける0.999…という記号を考えましょう。9は無限に続くのであれば、この値は単調に増加して行きます。そして、ある瞬間を考えれば、それは常に有限小数です。
    もし、この0.999…に1という値を求めたいのであれば、単調増加する値を止めなければなりません。つまり、動的な状態から静的な状態に移行させなければなりません。
    そのときに使われる概念が「無限先で1に一致する」という極限の概念です。これは「単調増加が終わると、最後に1に一致する」という終わった無限そのものです。この「終わった無限」「完結した無限」「完成した無限」を実無限と呼んでいます。実無限を導入すれば、次の等式が成り立ちます。

    0.999…=1

    しかし、実無限を導入しなければ、次の非等式が成り立ちます。

    0.999…≠1

    無限小数は、変化の止まった実無限であり、無限集合も変化の止まった実無限です。両方とも「無限」という接頭語がついているのにもかかわらず、値が一意に決まっていたり、要素が決まっていたりしています。つまり、静的な状態で落ち着いています。
    それに対して、無限数列は動的なままです。無限小数や無限集合のような静的な存在ではないから、無限数列からは自己矛盾が出てきません。
    直線の定義も「どこまでも伸びて行く線」という動的な定義であれば、自己矛盾が出てきません。しかし「無限大の長さを持った線」という静的な定義だと、即座に自己矛盾が発生します。これは「どこまでも伸びて行く」という動的な要素が終わってしまった「完全に伸び切った線」だからです。

  • 返信をありがとうございました。

    神格化されたアリストテレスを引きずり下ろす…殺人事件が発生した。

    > 神格化されたニュートンを引きずり降ろしても殺人事件は発生しなかったがな  そもそもニュートンを引きずり降ろしたのはアインシュタインではない マイケルソンとモーリーだ  しかも、二人ともそんなつもりは毛頭なかった  ニュートン力学に基づいて地球の動きを観測しようとしたら案に相違して「全然動いてない」という結果が出てしまった  しかし、実際には動いてないのではなく、ニュートン力学が間違ってた

    いえ、間違っていたのは「自己矛盾をしている相対性理論」のほうでした。

  • 返信をありがとうございました。

    でも、2chに行ったら数学の能力が格段に上がる、とも思われません。

    >2chでは、明らかに間違ったことを書くと一斉に叩かれ嘲笑される。たとえばデデキントの切断は有限集合とか無限集合とか、そんな問題とは何の関係もないなのに、あなたがそんな問題であるかのように書くと、一斉に笑われる(笑

    デデキント切断は間違っているから、間違っていると言ったまでです。

    >また対角線論法は明らかに背理法だから、あなたが背理法ではない、などと書くと、一斉に笑われる(笑

    対角線論法は、自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間の1対1対応を否定する「背理法ではない」と言えます。

    >あなたはこんなスレにいるから自分の間違いに気付かない。 一石のようなアホを相手にしているから、いつまで経っても自分の間違いに気付かない。 僕があなたの間違いを指摘しても、あなたは気付いている様子がない。いつまでたっても同じような間違いを書き続けている。だから2chに参加すべきなのである。 多くの聴衆がいる場に参加すべきなのだ。 一石も2chに参加しないから、自分がいかにアホであるか、 全然まったく気付いていない(笑 ただし2chも、その八割は一石と同類のアホである。 知識のひけらかししかできないアホどもだ(笑 だから2chに参加しても、その多くはあなたより一石に賛同するだろう。 非ユークリッド幾何学や相対性理論は正しいと2chの大多数のアホどもは言うだろう。そのことは覚悟しておくべきだ。とにかくこんなスレで一石のようなアホを相手に どんなに熱心に真剣に語りかけても無駄なのだ。

    そうでしたか…

  • 返信をありがとうございました。

    この世の中で起こった唯一無二の事象であるとみんなで合意できることが大事です。

    >現象が唯一無二であることは、ニュートン力学でも相対論でも同じ。

    ニュートン力学では現象は唯一無二ではありません。

    > 違うのは「2つの現象は同時刻か」「2つの現象の間の経過時間は唯一か」ニュートン力学ではどちらも然り。相対論ではどちらも否

    現象を扱うのは相対性理論ですが、ニュートン力学では事象を扱っています。

    > 事象の同時刻性は現象そのものではないが2つの現象間の経過時間が無数にあることは時計の表示という「現象」として示される

    現象は観測者1人1人によって違います。

    > もちろん、時計の運動状況が決まれば表示は一種類である  その意味ではこの現象は唯一無二である

    現象には唯一無二という概念は不適当です。

    > ヒデは「2つの現象が決まれば経過時間が決まる」と思ってるが それでは不十分だというだけのことである

    現象と事象は違います。

  • 返信をありがとうございました。

    物理学では、座標を客観的に表示しなければなりません。

    >その必要はない。つまり皆がある一つの座標系に縛られる必要はない。

    いくつもの座標系を複雑に交錯させると、矛盾が満載した相対性理論が得られます。

  • 返信をありがとうございました。

    絶対時間と絶対空間はなぜ正しいのか?それは、宇宙における1つの事実が「万人にとって同じものであるから」です。

    > 事象(というか現象)の唯一性から、絶対時間と絶対空間の存在は導かれない。

    衝突という事象の唯一性から、絶対時間と絶対空間の存在は導かれます。ただし、現象には唯一性がないから、導かれるのは矛盾だけです。

    > 時空内の座標と座標変換があればいい。時空を「空間の変化の積み重ね」と考える必要はない万人共通の空間はないし、万人共通の時間もない。万人共通の時空があればいい。それが相対論の考え方だ。

    現象から万人共通の時空は導かれません。

  • 無限は本来、終わらないものです。なぜならば、その字の示すように『限り(終わり)が無いもの(こと)』を『無限』と命名したからです。このような、無限の素直な解釈による概念を可能無限と呼んでいます。
    それに対して、無限に似た別の概念が新たに作り出されました。それは、『限り(終わり)のある無限』です。これを『完結する無限』あるいは『実無限』と呼びます。

    これより、無限と思われているものは2つに分類されるようになりました。

    【無限と思われているものの分類】
    (1)可能無限=限りの無い無限=終わりのない無限=完了しない無限=完結しない無限=完成しない無限=でき上がることのない無限
    (2)実無限=限りの有る無限=終わりのある無限=完了した無限=完結した無限=完成した無限=でき上がってしまった無限

    限りが有るものは有限です。よって「限りのある無限」としての実無限は、有限としての性質も兼ね備えています。つまり、実無限とは「有限と無限の合成物」です。これより、次なる結論が得られます。

    実無限は、実は無限ではない。

  • 「有限時間で無限に存在している点を通過するという考え方が矛盾しています。有限時間で有限の距離を通過するというのが正しい表現です」
    「有限の距離は、無限に分割できる」

    1=1/2+1/2^2+1/2^3+…

    「無限に分割できません。その証拠に、途中から必ず…という3点リーダーでごまかしています。分割できると言いたいのであれば、責任もって最後まで分割してください。それができないならば、あなたには是非、『分割できませんと』白旗を上げてもらえませんか?」

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