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投稿コメント一覧 (41604コメント)

  • 返信をありがとうございました。

    日常生活の言葉は、数学でも大事です。

    > 言葉以前に、日常生活に閉じこもろうというヒデの態度が卑屈w

    「日常生活の言葉のほうが、数学記号よりも表現力が豊かである」ということを認められたのでしょうか?

    > 単にヒデが、数学記号が読めず、読む為の勉強もする意欲がないだけだろw

    では、あなたは∀xという記号が正確に読めますか?

  • すべてのことに真偽があるというわけではありません。しかし、少なくとも命題は真偽を持っています。

    命題の真偽を決めるとき、すべて証明で片を付けようとすることに問題があります。根源的な命題に関しては、証明は無力です。ここに、良識的な直感(すなわち直観)が必要になってきます。

    数学では、「無限は終わらない」という考え方は仮説に過ぎないとして、実無限を数学に導入しました。そして、壮大な無限集合論を作り上げました。

    「平行線公理」は仮説に過ぎないとして、平行線公理の否定を幾何学に導入しました。そして、壮大な非ユークリッド幾何学を作り上げました。

    「命題の真理値は最初から決まっている」という考え方は仮説にすぎないとして、命題Pも命題¬Pも受け入れてしまう寛容な数学を作り出しました。これが、形式主義の正体です。形式主義は、今までの命題の定義を否定することから誕生したのでした。

    アリストテレスは、日常生活の経験から「軽いものは遅く落ち、重いものは速く落ちる」という命題を真とみなしました。ガリレオは、実験結果から「重くても軽くても同じ速さで落ちる」という命題を真とみなしました。実はこの2つには共通点があります。それは、帰納法を用いていることです。

    アリストテレスは、日常生活から経験を通して結論を下し、一方、ガリレオは実験という経験から結論を下しています。彼らは二人とも有限回の経験から全称命題を導き出しています。これを帰納法と呼んでいます。

  • 「帰納法が正しい」という証明はないので、これは一種の直観です。アリストテレスもガリレオも直観で判断したのです。

    ガリレオによる落体の法則は、実験を根拠としての直観が生み出した法則です。つまり、落体の法則は実験以前の直観によって成り立っている法則です。実験結果という有限回の帰納法を用いて『落体の法則はすべての物体に成り立つ』という無限回の実験にまで拡張する際には、直観が使われています。

    落体の法則は、物理学のいろいろな場面で出てきて、現象と見事に一致しますが、それでも『現象と一致するから正しい』という証明はないので、結局はこの法則もまだ仮説の域を出ていません。

    一般的に評価するならば、直観はいい加減な判断であり、直観で物を申すのはいい加減な行為です。しかし、「有限回の試行が無限回にも成り立つ」という拡張は、直観以外の何者でもありません。

    理論が明らかに間違っているとして破棄されるケースはただ1つです。その理論に矛盾が含まれていることがわかったときです。無限集合論と非ユークリッド幾何学と相対性理論が、このケースに該当します。特に、相対性理論は実験では反証できないでしょう。でも、相対性理論の持っている本質的な自己矛盾1個で、完全崩壊させるとこができます。

  • 純粋な事実を「事象」と呼び、事実かどうか不明なものを「現象」と呼び、明らかに事実ではないものを「仮象」と呼んでいます。

    たとえば、鏡の中に自分自身が映っていますが、「鏡の中にいる自分」は明らかに事実ではないので、仮象と呼ばれます。

    事象…実際に起こっているできごと
    仮象…実際には起こっていないできごと
    現象…事象と仮象を合わせた概念

    よって、現象は事実のこともあれば、事実ではないこともあります。

    現象が事実かどうかを判断する1つの手段として、「理性」(ロゴス)があります。もちろん、ロゴスも完全ではありませんが、せっかく人間が持っているだから、使わないよりも使ったがほうが良いでしょう。

    実際、ロゴスを使ったからこそ、人類は他の惑星までロケットを飛ばすことができるようになったのですから。無人の自動車がうまく駐車できるのも、AIがプロ棋士を打ち負かしたのも、真理を追究する手段として、古代ギリシャの哲学者たちがロゴスの使用を提案してくれたおかげです。

    私たちは、AIを目の前にして、もう一度、ソクラテスに感謝したいと思います。願わくば、これからもずっとAIが人間としての良識に反しない判断をしてくれますように…。

  • 私たちは、事象と現象をほぼ同じ扱いにしています。でも、言語の使い方を重視する哲学では、事象と現象は似て非なる言葉です。

    事実は内部にある本質そのものであり、それを観察したときに外部から見えるものが現実です。

    事実…内部
    現実…外部

    この「見え方の観点」からすると、事実と現実は正反対の存在とも言えます。

    >そもそもこのアホは言語に対する常識的な理解力が完全に欠如している(笑  現象とは頭の中で認識されたことです、とアホ丸出しのことを臆面もなく言う(笑  現象とは目などの感覚器官で認識されたことであって、本質・本体とは異なる仮象であるというような意味なのだが、このアホはそういう常識すら理解していないのだ(笑 ったくアホすぎて話にならない(笑

    仮象とは何でしょうか?事象と現象と仮象の相互関係を教えていただくことができますか?

  • 現象は、事象の影に過ぎない。

    >実体は影を否定しないw

    それは擬人化です。

    >影からデッチ上げられる実体を以て、「こんな影ができるわけない」と否定するヒデの態度は間違ってるわけだw

    私は、いかなる影をも否定する立場には立っておりません。日常生活においては、影はほとんど実体と一致しています。テーブルの上にリンゴが見えれば、99.999%の確率で実際にリンゴがそこに存在していることでしょう。でも、幻覚剤を使っていたり、鏡を使ったり、投影機を使ったりして、本当はリンゴがそこに存在していない確率が0.001%残されています。なお、数字はいい加減です。

  • > 「ストローが曲がって見える」ことは現象であり事象であるが、 現実でもあり事実でもある。なぜなら実際に「ストローは曲がって見える」からである。しかし「ストローは実際は曲がっていない」ことも現実であり事実である。

    何でもかんでも現実であり、事実であるのでしょうか?

    >こういうことをよく考えてみればいい。とにかく普通は、「ストローが曲がって見える」ことを現象・事象というのである。

    いいえ、「ストローが曲がっている」という現象です。観測者は、観測内容に自分自身を入れてはならないのです。

    「ストローが曲がっている」……現象A
    「ストローが曲がって見える」…現象B

    現象Aと現象Bは、異なった現象です。前者には観測者が入っていませんが、後者には観測者自身が入り込んでいます。つまり、現象Bには、もう1人の観測者がいることになります。この「隠れた観測者」を見落とさないようにしてください。

  • >たとえばオーロラという現象がある。オーロラは、お前がそれを目という感覚器官で認識しようがしまいが、客観世界に現実に起きていることである。

    「現実に起きている」と「実際に起きている」は違います。

    >客観世界に客観的に起きていることである。

    それは、あなたが自分の直観で判断したことであり、見たことをそのまま真実と思い込んだからです。

    >要するにオーロラという現象は、現象でもあり事象でもあり現実でもあり事実でもある。

    ということは、現象は事実という意味もあり、事象も事実という意味を持っているのですね?あなたは「現象にも事象にも、事実という意味などまったくない」と辞書を提示して言いましたが、あなた自身は事実という意味で現象や事象を用いているのです。自己矛盾していませんか?

  • >それからお前は現象=頭の中で認識されたこと、と定義しているが、それも間違いである。

    いいえ、現象は起きていようと起きていまいと関係なく、人間が頭の中で「起きている」と思ったことです。

  • 結論その1:(前提としての公理が真の命題であるから)結果としての定理は真の命題である。

    結論その2:経過としての公理→定理も真の命題である。

    あなたは視野が狭いため、結論その2しか目に入らないのです。ⅿ(__)m

    > 結論その1は数学とは関係がない。 数学では公理が真だと保証しないし、したがって定理が真だとも保証しない。 保証されているのはあくまで「公理⇒定理」だけである。これ数学の常識w

    「公理が真とは限らない」「定理が真とも限らない」「でも、証明だけが真である」というのですね。私は、「証明だけが真である」を証明してくださいと、お願いしているのですが…数学の常識が正しいとは限らないのです。でも、それは無理もありません。ヒルベルトだって、結論その2しか目に入らなかったのですから

    >ヒルベルトはフレーゲとは違うからね。フレーゲはヒデ同様にナイーブなヤツだったから「公理も定理も真でなければならん!」と思ってた。しかしヒルベルトはそうではなかった

    ヒルベルトはひねくれていたのです。ⅿ(__)m

    >公理が偽でなければいい。それで定理も偽でないといえる。ただし、ヒルベルトの「公理が偽でないという保証」は結局得られなかったわけだが

    ヒルベルトの「直観の排除」は失敗しているのです。それを彼は自覚できていませんでした。ⅿ(__)m

    >数学として「公理が偽でないという保証」が必要かといえば、必要ない。 公理が偽だと分かれば、その時捨てればいい。それだけのこと。

    あなたの言っている「保証」とは「証明」のことですよね?だったら、あなたの発言は、下記のように変わります。

    >数学として「公理が偽でないという証明」が必要かといえば、必要ない。 公理が偽だと分かれば、その時捨てればいい。それだけのこと。

  • さらにあなたは「公理は単なる仮定にすぎない」と言いました。これに従って、蒸気をさらにあなたの真意に沿って変えてみます。

    >数学として「仮定が偽でないという証明」が必要かといえば、必要ない。 仮定が偽だと分かれば、その時捨てればいい。それだけのこと。

    「仮定が偽ではないという証明」は「仮定が真である証明」と同じです。これでさらに、あなたの言葉の真意に迫ります。

    >数学として「仮定が真であるという証明」が必要かといえば、必要ない。 仮定が偽だと分かれば、その時捨てればいい。それだけのこと。

    これであなたの正体が判明しました。あなたは、真の命題でも偽の命題でも、何でもかんでも理論の仮定にしてしまうのです。そして、たまたまその仮定が背理法で否定された場合に、その仮定を認めないのです。ということは、背理法が十分に機能しなかった場合、あるいは背理法で証明する力が足りなかった場合、見逃された「偽の命題を仮定する理論」を放逐できないまま数学に取り入れてしまうのです。これが、私の言っている「矛盾した理論を数学内に蔓延する事態」を招くことになったのです。数学を崩壊に導いたのはヒルベルトです。同じく、物理学を崩壊に導いたのはアインシュタインでした。アインシュタインの相対性理論をきっかけとして、現代物理学に矛盾した物理理論が大量生産され続けているのですから…。

  • 「公理⇒定理」は正しい公理の存在を仮定しているのです。

    >仮定していない。

    公理が存在しないのならば、存在しないものを記載することは間違いです。正しい公理から正しい証明を経て定理が出てきたとき、定理も真の命題になります。

    >「公理⇒定理」が真の命題だといったまで。公理も定理も真の命題だ、とはいってないw

    なぜ、「公理⇒定理」が真の命題になるのでしょうか?あなたもヒルベルトも、それを証明せず、勝手に使っているのではないのでしょうか?証明できないことを使うのは、あなたもヒルベルトも、「公理から定理が証明されたとき、公理⇒定理が真の命題になる」と直観で判断しているからです。直観を否定した者が、こっそり自分だけの直観―――俺様だけの直観―――を使うのは、自己矛盾していませんか?

  • ヒルベルトは前件肯定式よりも背理法を優遇したみたいです。何でもかんでも背理法で証明したかったみたいです。

    でも、前件肯定式と背理法では、前件肯定式の方がずっと信頼性が高いです。背理法は、前件肯定式が使えない場合に使うような「伝家の宝刀」のように、普段はさやに収めておくべきでしょう。

  • >デデキント(というより実はユークリッド)が切断でいいたかったのは 「√2が有理数でないとしても、任意の有理数rについて、r<√2か√2<rかは言えるだろう 逆に任意の有理数rについて、r<xかx<rかがいえるのなら、xを無理数と認めてもいいだろう」ということ

    表現が難しいですね。「任意の有理数rについて、r<xかx<rかがいえるのなら、xを無理数と認めてもいいだろう」ということですが、それならば円周率πで、これを無理数と認めることができるように「r<xかx<rかがいえる」ことを示していただけないでしょうか?

    >有理数の切断自体の大小の比較は、上界もしくは下界の包含関係でわかるのであって いかなる有理数の切断も自分自身とは等しいのだから、 有理数の切断を実数と認めて、さらにその切断を考える場合  自分自身は上界か下界のいずれかに入れざるを得ない それが実数の連続性である、と定めたわけだ 別に大した話じゃない

    実数には連続性などありません。あなたは「線の連続性」と「実数の連続性」を混同しています。線はどこでも連続しています。でも、実数は線ではないのです。ここを勘違いしたのがデデキントです。彼は、実数全体の集合を線だと思い込んだのです。だから、線の切断が実数の切断だと誤解したのです。

  • 返信をありがとうございました。

    「相対性理論は間違っている」と主張する人たちは、精神の異常を来たしているわけではありません。先見の明を持っている人たちです。

    >そう思ってることが精神の異常w

    「そう思ってることが精神の異常w」と思っていることが精神の異常ということは考えられませんか?

    ところで、あなたは「背理法に異常な関心」を持っていますね?ふつうは、証明は前件肯定式を中心に行ないます。でも、ヒルベルトもそうだと思いますが、証明の中心に背理法を置いています。でも、どうして単純な前件肯定式を使わず、わざわざ複雑な背理法を証明の中心に置くのでしょうか?背理法が複雑であるのは、前件肯定式にない「仮定を否定する」という操作があるからです。

    そして、実際、この操作を誤ったのがカントールの対角線論法です。彼は最後の最後になって「実無限」を否定すべきところで、誤って「自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間の1対1対応」を否定してしまったのでした。このような否定ミスを伴わない前件肯定式のほうに分があります。

    【前件肯定式】
    正しい仮定→正しい証明→正しい結論
    操作はこの3つです。とてもシンプルです。実際には、正し証明を行うことによって自動的に正しい結論が下されるから、実質的には2段階操作です。操作ミスがあるとしたら、最初の段階で間違った仮定を置くことと、証明ミスだけです。

    【背理法】
    正しい仮定→そこに間違った仮定を加える→正しい証明→矛盾した結論→間違った仮定を否定(正しい仮定は否定しない)
    操作段階は5つです。前件肯定式よりも2つの操作が増えており、そのため、操作ミスも起こりやすくなっています。
    仮定の設定ミスは前件肯定式だけではなく、背理法でも考えられます。このミスは、最後の仮定ミスに関連しています。というのは、隠された仮定に気がつかなければ、当然のように、仮定の否定ミスが起こるからです。

  • 返信をありがとうございました。

    もし、物体Aに対して物体Bが運動しているとします。ニュートン力学では、物体Aか物体Bのどちらかに座標系の原点を置きます。両方同時に原点を置いたりはしません。

    > 誤りw  例えば太陽系の星の運動を計算する場合 ニュートン力学では、太陽系の「重心」に原点を置く

    太陽系の重心はどこにあるのでしょうか?

    >物体そのものに置かなければならない理由なんかどこにもない 計算が一番ラクな場所に原点を置くのがリコウなヤツw

    だったら、太陽がいいですよ。

    仮に、物体Aに座標系X(空間座標系Xsと時間座標系Xt)の原点を置いたとします。もし物体Bにも別の座標系Y(空間座標系Ysと時間座標系Yt)を設定するのであれば、物体Aもその座標系Yで表現すべきです。

    > 当然だ。みなそうしているw

    だったら、「座標系Yから見ると座標系xの時間が遅れている」という相対性理論の主張は間違っていることになります。

    2つの物体は常に同じ座標系で表現しないと、共通な数字を用いた計算ができないからです

    > どの座標系で計算するのも自由だが、 物理的に意味があるのは、座標変換で不変な量だけだ

    物体の長さ、物体の時間、物体の重さは座標変換でも不変です。だから、「座標変換で物体が縮んだ」「座標変換で物体の時間が遅れた」「座標変換で物体が重くなった」ということはあり得ません。このあり得ないことを言っているのがアインシュタインの相対性理論です。

    >例えば、ヒデは物体の経過時間を、「座標系による時刻の差」としているが こんなのは、ローレンツ変換では不変じゃないから、無意味

    時間の経過は座標変換でも変わりません。物理学は数学と違って、座標変換する場合、物理量が変わらないように単位変換も行います。ローレンツ変換では、この単位変換をすっかり忘れています。

  • >ローレンツ計量の式は、ローレンツ変換で不変だから、意味がある

    どんな座標変換をしても、時間、距離、質量、温度などの物理量は不変です。例えば、100cmの棒を1/100まで縮める座標変換を行なったとします。その時、棒の長さは1cmになります。でも、棒を「断面積を変えずに1/100まで縮めることは、実際上は不可能です。どんなに大きなエネルギーを加えても、長さ短くなった分、体積は一定に保とうとするため、断面積が増えるのです。でも、相対性理論では「断面積は増えない」と言い切っています。こんな不可思議な変形はありません。これを唱えた相対性理論が一発でトンデモ理論とわかります。

    そもそも、2つの座標系を同時に扱ってもいいのですか?

    >それぞれが、それぞれの座標系で計算してもかまわない  どの座標系でも同じ値になる量だけが意味がある

    具体的にはローレンツ変換では何が不変なのでしょうか?どうして2つの座標系を絡めて議論するのでしょうか?

    >絡まってるのはヒデのオツムだけw どの座標系で計算してもかまわんよ。しかし、物理量として意味があるのは、座標系に依存しない量であって、それは座標変換で不変となる式で計算されるものだといってるだけ。

    同じ時間軸を共有しているならば、時間座標は同じです。

  • > 同じ座標軸を共有していないんだから、時刻の差で経過時間を求めても無意味w

    時刻がt1からt2に変化したとき、経過時間はt2-t1です。これが、小学校で教えられた時計算です。

    >そんな話は聞きたくない

    聞いてください。

    >ヒデの捏造する会話では、「そんな話は聞きたくない」というのは必ず相手のほうだが 実際に、「そんな話は聞きたくない」という態度をとり続けるのはヒデのほう 私は「聞いてください。」とはいわない。 聞こうが聞くまいが、ヒデの勝手だが、聞かなきゃ死ぬのはヒデのほう。 生きていたいんなら、オレの話を聞いたほうがリコウってことさ。 自分自身のマインドコントロールで、野たれ死ぬなんてアホの極致w

    私は、現代物理学の標準理論である「アインシュタインの相対性理論」よりも、小学校で「担任の教師が教える素朴な時計算」のほうが正しいと思います。

  • AからBが証明されたら、命題A→Bは真です。しかし、これだけでは仮定の真理値と結論の真理値はわかりません。それでも、A→Bが真ならば、Aが真でBが偽の可能性はありません。

    >公理系から矛盾が導かれるとはA→(P⋀¬P)が真ということであり、P⋀¬Pは常に偽であるから、Aが真の場合はあり得ないということ

    それは、必ずしもAから矛盾が証明されたとは限りません。Aの裏にBが隠れていて、AとBから矛盾が証明された場合、必ずしもAを否定できません。次なることも可能性として否定はできません。

    公理系から矛盾が導かれるとはA→(P∧¬P)が真ということであり、P∧¬Pは常に偽であるけれども、Aが真の場合もあり得る。

    そのケースは,隠されたBと真の命題Aから矛盾が証明されたときです。その場合、次なる論理式が真になります。

    (A∧B)→(Q∧¬Q)
    ≡(I∧B)→O
    ≡B→O
    ≡¬B∨O
    ≡¬B

    つまり、否定されるのは隠された仮定であるBのほうです。

  • 背理法では、『前提は真である』として矛盾が出てきています

    >その場合、前提が真である場合が存在しない、とわかる。

    問題は、その前提が本当の前提であるかどうかでしょう。もしかしたら、知らずに別の前提を置いていて、背理法はそっちの前提のほうを否定していることもあります。

    たとえば、対角線論法です。対角線論法は『自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間に1対1対応が存在する』という前提1つで証明される背理法と勘違いされてきました。しかし、実際にはこの前提の裏にもう1つの前提が隠されていたのです。それが実無限です

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