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投稿コメント一覧 (39274コメント)

  • 間違った現実よりも、正しい現実に信頼性を置いたほうが良いと思います

    >現実が正しいか否かを直観で判断するな

    現実は万能ではありません。現実が正しいかどうかを現実で判断できません。だったら、残された手段は正しい直観でしょう。結局は、物理学においては次のバランスが大事なのです。

    直観が正しいかどうかは現実で判断する。
    現実が正しいかどうかは直観で判断する。

    直観と現実をバランス良く組み合わせて物理学を構成していく必要があります。これは、数学にも言えることです。数学でも、直観と証明はバランス良く配合していく必要があるのです。

    直観と証明、どちらが欠けても数学は成り立ちません。だから、「直観をすべて排除する」という形式主義の立場は、数学を崩壊に導くだけです。

  • >そもそも+1の繰り返しで到達できる全体を自然数として定義した

    全体などという数学の専門用語はありません。

    >では、ヒデにとってはペアノの公理は認められないw

    ペアノの公理は「全体」を議論する公理ではありません。ペアノの公理は「全体」なるものを作り出す公理ではありません。

    >「全体」は作り出すのではなく、既に存在している、とする公理だw

    それは無限公理です。あなたは無限公理とペアノの公理をゴチャマゼにしているのです。あなたにとっては、ペアノの公理は、自然数を1から作り出すという地道な作業を飛び越えて、一気に「自然数全体の集合を認めろ」という要求でしょうか?これは、「瞬間的に自然数をすべて作り出した=自然数を作り出すという行為を完了させた」ということであり、終わらない無限を終わったとしている「間違った仮定」です。

  • 数学における定義ミスはいっぱいあります

    >数学の定義が、貴様の気に入らなくても それをミスだという資格など、畜生の貴様にはない 人間面するな、クソアザラシ!!!

    クソで悪うございました。無限の定義はご存知でしょうか?それは「完結しないもの」です。実無限の定義はご存知でしょうか?それは「完結する無限」です。実無限は、完結しない無限を完結したと仮定している矛盾した理論なのです。

    これとまったく同じ間違いが非ユークリッド幾何学に見られます。直線の定義は「真っ直ぐな線」です。非ユークリッド幾何学で使われている直線は「曲がった直線」です。非ユークリッド幾何学は、曲線を直線と仮定している矛盾した幾何学です。

    理論を作るとき、間違った仮定は極力、避けたほうがよろしいかと思います。クソアザラシからでした。

  • >現実には完成した無限など存在しない。これは数学的議論の対象としての無限小数は現実には存在しないという意味であって、物理的現実とかそういう意味ではない――― どうだかなあ(笑―――僕や市川氏が述べているのは直観ではない(笑 論理的な数学的論証である(笑―――ヒデは「オレ様の直観は論理の核だ!」みたいなことほざいてるし あだっちーの論理とやらも実際にはまるっきり直観である(笑

    対角線論法による矛盾の発生は、「無限小数を実数と仮定したからである」という解釈も可能です。

    1.対角線論法による矛盾の発生は、「自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間の1対1対応が存在する」と仮定したことが原因である。よって、NとRの間の1対1対応を否定すれば、問題は解決される。

    2.対角線論法による矛盾の発生は、「無限小数は実数である」と仮定したことが原因である。よって、無限小数は実数ではないとすれば、問題は解決される。

    3.対角線論法による矛盾の発生は、「無限集合は集合である」と仮定したことが原因である。よって、無限集合は集合ではないとすれば、問題は解決される。

    4.対角線論法による矛盾の発生は、「実無限は正しい考え方である」と仮定したことが原因である。よって、実無限は間違っていると結論すれば、問題は解決される。

    上記のどれを採用しても、対角線論法から出てくる矛盾を回避できます。でも、本当の解決方法は、おおもとの実無限を否定することでしょう。実無限という仮定から無限集合が誕生し、無限集合という仮定から無限小数が誕生しています。これらを背景として、カントールは「自然数全体の集合Nと実数全体の集合Rの間の1対1対応が存在する」と置いただけに過ぎません。

    つまり、カントールはもっとも深淵である実無限まで、カントールのパラドックスやラッセルのパラドックスの真因を探り切れなかったことになります。数学というものは、本当に奥が深いですね。でも、現代数学における間違い(ある意味では膿とも言えます。直截的で申し訳ございません)を今すぐにすべて出し切ってしまわないと、再び、蓋をされてこれから何百年も、何千年も実無限は生き続けることでしょう。

  • >ヒデの妄想  命題は真か偽かのいずれかでなくてはならない →× 真でも偽でもない命題が存在する

    いいえ、命題の定義は「正しいか間違っているかがはっきりしている主張」です。つまり、真か偽のどちらかに分類されます。

    >ヒデの妄想  公理も定理も真の命題でなくてはならない →× 公理も定理も一般的には真の命題でない

    「一般的には」とはどういう意味でしょうか?

    >ヒデの妄想  公理が真であることは直観でのみ確認できる →× 推論手続き以外に命題が真だと判定する方法は無い

    推論手続きそのものが真だとする証明は存在していません。あなたはすべて「証明」に還元したいようですが、証明が正しいかどうかは推論手続きだけではわからないのです。

    >ヒデの妄想  直観に反する命題は偽である →× その命題のみから矛盾が導けないかぎり偽とは判定できない

    直観には正しい直観と間違った直観があります。よって、あなたの記載である「直観に反する命題は偽である」は偽です。

  • >ヒデは「命題は真か偽かのいずれかでなくてはワタシが神に焼き殺される(恐れ慄く)しかし証明だけでは真か偽か判定しきれない 私に許された方法は直観しかない そうだ!これこそ神が私にくだされた最終兵器に違いない!(恍惚状態)」と勝手に一人相撲をとってるだけw

    私の主張を誤解しないでいただきたいのですが、私は数学を「直観と証明のバランスの取れた学問にしたい」という希望を抱いています。あなたは「公理は証明できない」「公理の否定も証明できない」ということはご存知でしょうか?この2つの文章が省略形であることもご存知でしょうか?

    「公理は証明できない」→「公理は、真であることが証明できない」 
    「公理の否定も証明できない」→「公理の否定は、真であることが証明できない」 

    実は、これも文章としては省略形であることもご存知でしょうか?

    「公理は、真であることが証明できない」→「公理は、真であることが他の公理から証明できない」
    「公理の否定は、真であることが証明できない」→「公理の否定は、真であることが他の公理から証明できない」

    このように、文章を正確に分析することが、現代数学の間違いを見つけるコツです。要は、数学の記号の前に言葉としての日本語を大切にすべきです。

    日本人なら、素晴らしく美しい日本語でより正確に命題を表現しましょう。非常に数の少ない数学記号や論理記号だけで、命題をきちんと表すことが困難な場合は結構あります。

  • >無限公理は「自然数全体の集合」の存在を主張する論理式

    ∃x.{ }∈x&(∀y.y∈x⇒y∪{y}∈x)

    >「ある集合xが存在し、xは{ }(=0)を要素とし、かつ 任意の集合yについて、がxの要素であるなら y∪{y}(=y+1)もxの要素である」

    あなたは「ある集合が存在し」という書き出しから始めていますね。私は、「これを証明していただきたい」と申し上げているのです。

    >貴様は「無限公理は矛盾している」と主張したのだから、貴様こそ無限公理から矛盾を導いてみせろ。

    無限公理は「実無限による解釈」と「可能無限による解釈」の2通りの意味があるので、これらはお互いに矛盾しています。

    >つまり ∀x.{ }∈x⇒(∃y.y∈x&¬(y∪{y}∈x))
    「任意の集合xについて、xが{ }(=0)を要素とするなら ある集合yが存在し、yはxの要素であるが、y∪{y}(=y+1)はxの要素ではない」を証明してみせろ。

    私は「無限公理の否定が正しい」と言っているのではないのです。「無限公理が矛盾している」と言っているのです。

    「無限公理が間違っている」≒「無限公理が偽の命題である」

    「無限公理が矛盾している」=「無限公は命題ではない」

    「間違っている」と「矛盾している」は似ているので、その否定を取ると混乱してしまうことがあります。日本語に注意しましょう。この類似性は数学記号では表記できず、分析もできません。

  • 観測や実験をいくら繰り返しても、相対性理論の間違いを暴くことはできませんでした。

    >ま、今後もそうなるかどうかは知らん  そんなことは誰にも断言しようがない 物理理論が正しい、という保証など誰にもできない  いえるのは「間違いだとはいえない」というだけのこと

    「間違いだとは言えない」という断言は誰にもできません。それなのに、なぜ、あなた1人が「言えるのは、間違いだとは言えないというだけ」という決めつけを与えているのでしょうか?もちろん、確実に真であるとは言えないことを言っているのだから、あなたはご自分の直観で「間違いだと言えない」と個人的な意見を述べているだけです。

  • >適用範囲とは、間違っている理論の『間違いが無視できる範囲』である

    それはおかしくね?

    >おかしくはない

    もっと、広い目で見てください。『正しい』と『間違い』と無視を含む文には、いくつかあります。

    (1)正しい理論の『正しさが無視できる範囲』
    (2)正しい理論の『正しさが無視できない範囲』
    (3)正しい理論の『間違いが無視できる範囲』
    (4)正しい理論の『間違いが無視できない範囲』
    (5)間違っている理論の『正しさが無視できる範囲』
    (6)間違っている理論の『正しさが無視できない範囲』
    (7)間違っている理論の『間違いが無視できる範囲』
    (8)間違っている理論の『間違いが無視できない範囲』

    あなたは、適用範囲を(7)と決めました。どうしてでしょうか?

  • マルチユニバース理論では、私たちの宇宙のほかに別の宇宙が存在するという怪しい理論です。

    では、「ユニバースAの中にユニバースBが存在している」という事態は考えられますか?マトローシカのような宇宙構造です。

    私たちが住んでいるこの宇宙に中に、別の宇宙が存在している…例えば、道路を歩いているときのアスファルトの切れ目に、小さく折りたたまれた別の宇宙が存在し、その中ではたくさんの恒星があってたくさんの惑星があり、宇宙人もいっぱい暮らしているという構図です。

    さらに、その宇宙の中では、もう1つの宇宙が小さく折りたたまれて存在する「宇宙の3層構造」は考えられるのでしょうか?

  • マルチユニバース理論という概念がありますが、ユニバース同士の距離はどうなっているのでしょうか?例えば、ユニバースAとユニバースBの間の距離はどれくらいでしょうか?

    私たちの存在する宇宙は直径(?)が138億光年です。マルチユニバース理論では、次から次へと子宇宙、孫宇宙、ひ孫宇宙、玄孫宇宙が誕生してきます。すると、子宇宙の直径(?)は138億光年よりも小さく、孫宇宙はそれよりも小さく、ひ孫宇宙はもっと小さいでしょう。

    すると、私たちの宇宙のほかに他の宇宙が存在するならば、宇宙同士の距離はどうなっているかが物理学的に重要な話題となります。宇宙がA、B、Cと3つあるならば、次なる事実を明らかにしなければなりません。

    1.宇宙Aと宇宙Bの間の距離
    2.宇宙Bと宇宙Cの間の距離
    3.宇宙Cと宇宙Aの間の距離

    それぞれの距離が同じなのか?それとも異なっているのか?これが「宇宙の解明」という研究作業でしょう。もし、お互いに独立して存在するのではなく重なり合って存在しているならば、重なり合う距離、あるいは重なっている体積はどれくらいでしょうか?もし、ユニバースAとユニバースBが重なっているならば、その重なった二重宇宙(?)に存在している人は、どうなっているのでしょうか?ユニバースAにいてジュースを飲んでいる人が、ユニバースBではテニスを楽しんでいる…というようなことがあるのでしょうか?

    マルチユニバース理論は相対性理論から理論的に導出された「相対性理論の申し子=マルチユニバース理論の生みの親は相対性理論である」です。相対性理論が崩壊したら、マルチユニバース理論も崩壊するのではないのでしょうか?

  • マルチユニバースを日本語でいうと「多宇宙」になります。これは、「宇宙は1つではない。物理法則や物理定数が異なる宇宙がいくつも存在している」という考え方です。

    これは超ひも理論によって予言された主張であり、理論的に見積もると、宇宙は10の500乗個もあるそうです。これは、もうアンビリーバボーでしょう。

    このマルチユニバースは、固有時間と同じく間違っています。相対性理論では、物体ごとあるいは物質ごとに固有の時間座標系を設定しています。同じく、マルチユニバースでは、おのおのの宇宙ごとに時間と空間の座標系を設定しています。これは、まさに各物体あるいは物質ごとに宇宙を設定することと同じようは作業です。

    宇宙とは、存在するものすべてをまとめた概念ですから、必然的に1つとなります。この良識を失ったのが、マルチユニバースというSF小説まがいの理論です。架空の小説の段階でとどまっていればいのですが、現在は架空の物理理論が物理学を支配しているのが実情でしょう。ⅿ(__)m

  • >貴様の直観が正しいとは限らない。そして「貴様の直観が間違っている」とは「貴様の直観から矛盾が導かれる」(論理的な誤り)もしくは「貴様の直観と現実から矛盾が導かれる」(物理的な誤り)の何れかだ。

    どちらでしょうか?「現実は間違っているかどうか?」を一般論で話し合っても、らちがあかないと思います。個別の現実について話し合いませんか?

    >一般相対論では「光速度不変の原理」は成り立たない

    ならば、特殊相対性理論と一般相対性理論はお互いに矛盾しています。

    >特殊相対性理論は、重力がない場合であり、 その場合には「光速度不変の原理」が成り立つ というだけのことである

    読んでいて、よくわかりませんが…絶対時間はもともとなくなってはいません

    >現実とは矛盾する。だからなくなったw

    現実は事実とは異なります。絶対時間が事実と矛盾するならば、絶対時間は否定されなければなりません。しかし、現実と矛盾したくらいでは否定されることはありません。「3時から4時になったら、経過時間は1時間である」あなたは、これを否定せよ、というのでしょうか?

    >貴様が否定したわけだがw

    はあ?私は否定していませんが。相対性理論が否定したから、相対性理論を間違っていると指摘したのです。

    >「二つの事象の間の経過時間は一つに定まる」貴様のこの勝手な前提から「2つの時計の時刻の差が異なるなら、どちらかの時計の経過時間は時刻の差と等しくない」となる。

    何をおっしゃりたいのやら…それが相対性理論的なものの見方なのでしょうか?

  • >実際には、時計の経過時間は時刻の差だ  したがって「二つの事象の間の経過時間は時計によって異なる」となるw

    故障している時計もありますよ。絶対時間は絶対に故障しませんが。

    >時計の経過時間 =時計が静止している座標系の時刻の差であって、それらは座標系ごとに異なるから「座標系によらない2つの事象間の経過時間」というのは存在しない  しかし時空内での時計の移動経路が分かれば どの座標系で計算してもその経過時間は等しい これが固有時間

    座標系ごととおっしゃいますが、座標系から別の座標系に乗り換えたとき、これを座標変換と呼んでいます。この際、「一部の座標系だけを座標変換して、残りの座標系を座標変換しない」という身勝手な座標変換は数学では御法度です。相対性理論では、このご法度をしているのです。

    観測者の周囲の座標系だけ残して、それ以外の座標系を座標変換しているのです。要するに、まばらな座標変換をしているのです。

    >ある時計Aの固有時間の計算式は 時計が静止していない座標系では その座標系で静止している時計Bの時刻の差とは異なる。

    まばらな座標変換をしたら、おかしな現象が多数発生することは当然ではないのでしょうか?

  • >直観は悪徳だ

    数学に善悪を持ち込まないようにしましょう。

    >貴様の目を覚まさせるために云っている。 人間になりたいだろう?

    私はもともと人間ですが…

    >現実から背理法によって貴様のいう「最も基本的な前提」を否定することができる

    では、否定してみてくださいませんか?

    >何度も否定している。しかし貴様が「現実は間違っている!」と発狂して受け入れないだけのことだw

    「現実は間違っている!」ではありません。「現実は間違っていることがある」です。私は「すべての現実は間違っている」という極端な思想ではなく、「現実の裏には事実が隠されている。現実と事実がほぼ等しい場合は、現実は事実と一致するとみなしてかまわない」と申し上げているのです。現実は正しいとは限りません。

  • ネットより
    19世紀後半には、ニュートン力学の再構成が盛んになり、できれば「絶対空間」という概念(仕組み)は抜きで運動を理解しよう、とする試みが盛んに行なわれるようになった。 例えば、エルンスト・マッハ(1838-1916)も、観察されることをそのまま記述する方法で科学を再構築することを構想しており、ニュートン力学体系における「絶対空間」や「絶対時間」の概念を、形而上学的な要素の残滓(のこりかす)だとして否定した(『力学の発展史』)。また、カール・ノイマンやルートヴィヒ・ランゲは、ニュートンのように先に空間と時間を仮定してから運動を定義するのではなく、反対に、(観察される)運動と運動の法則から「慣性系」という基準系の構造を構築しようとした。「絶対空間」と呼ばれるものを見たり認識したことがある人は、未だかつて誰もいなかったのである。

    第1原理としての形而上学は、実際の世界には存在していません。私たちの脳細胞のネットワーク上に存在しているのです。

    絶対時間は、私たちのニューロンのネットワーク上に存在している情報です。柱時計のような実在する時計ではありません。だから、誰も見たことがないのです。

  • マッハは言います。
    「われわれは、ものごとの変化を時間に即して計ることはできない。時間というものは、むしろ、ものごとの変化を通して到達した1つの抽象である」
    「わしは頭が悪いんじゃ。そんな抽象的なことを言われても理解できんよ」
    「われわれは特定の尺度に頼るわけにはいかないのだ」
    「特定の尺度とは、絶対時間のことかな?」
    「そうです。時間に対して、外界とまったく無関係に流れる絶対時間を考えることはできない。この絶対時間はどんな器具を用いても測定できず、したがって、それは実用上の価値もなければ科学上の価値もない。それは無用な形而上学的概念である」
    「手厳しいな」
    ニュートンはため息をつきました。

    マッハは絶対時間の形而上学性を暴き出しました。しかし、こんなことは、ニュートンはとっくに知っていました。

    マッハは言いました。
    「絶対空間や絶対時間は、形而上学的の残りカスだ。君たちは絶対空間というものを見たことがあるのか?」
    「ありません」
    「それ見ろ。われわれは観測されたことをそのまま記述する方法で科学を再構築しなければならない。絶対空間や絶対時間を使わないで運動を理解しよう」
    ニュートンは言い切りました。
    「無理で~す」

  • 動く座標系があれば、それは動いていない座標系に対してです。もし、その座標系が動いていれば、今度は別の動いていない座標系に対してです。これを無限連鎖し続けることは危険であり、やはりどこかで静止させなればなりません。このときを絶対静止系と呼んでいるのではないのでしょうか?

    > 違いますなw

    では、動いている系と動いていない系に関してのあなた流の正しい考え方を示していただくことができますか?

  • >マイケルソン・モーリーの実験により、光速度は誰が観測しても一定であることが明らかになりました。

    明らかになったのは「エーテルが存在しない」ということではなかったのでしょうか?

    > 違いますなw

    では、マイケルソン・モーレーの実験からどのような正しい論理を展開しているか、検証してもらえませんか?あなたのなすべき仕事は「マイケルソン・モーリーの実験から、光速度不変の原理を導き出すこと」です。「マイケルソン・モーレーの実験から、光速度不変の原理が出てくる」という一語ではダメです。証明を省略することなく「マイケルソン・モーレーの実験」から「光速度不変の原理」を正確に導出してみてくださいませんか?途中の論理的飛躍はいっさいなしですよ。

    【あなたの課題】
    「マイケルソン・モーレーの実験」という仮定から「光速度不変の原理」という結論を、正しく証明すること。

  • 相対性理論は、2つの物体の衝突という定義に反しているのです。

    > 衝突の定義には反しない。

    衝突の定義をご存知でしょうか?

    >2物体の2回の衝突の間の経過時間は双方とも同じ、というヒデの妄想に反してるだけw

    1回目も2回目も2つの物体の衝突時間が同一ならば、2物体の経過時間も同じです。

    >間違ってるのはヒデの妄想w

    衝突は妄想ではありません。「絶対時間は正しい」は証明された事実です。

    > 全くのウソ。ヒデは完全に発狂した。

    いいえ、衝突の定義から絶対時間の正しさは証明されます。しかも、衝突の定義から絶対空間の正しさも証明されて出てきます。2つの物体がAという場所で1回目の衝突をして、Bという場所で2回目の衝突をしたとします。AとBは別の場所とします。すると、2物体にとってAという場所が共通していて、Bという場所も共通しています。これは、任意の2物体の衝突に関しても言えることであり、それゆえに、すべての物体にとって空間は共有しています。つまり、空間は1つしかないということであり、これを絶対空間と呼んでいます。

    【衝突の定義より、次の2つが言える】
    (1)絶対時間が存在している。
    (2)絶対空間が存在している。

    >非ユークリッド幾何学では、平行線の距離は一定ではない

    それは非ユークリッド幾何学が矛盾しているからでしょう。

    >で、なぜ、ヒデは「相対論からは矛盾が導ける」と主張するのに「非ユークリッド幾何学から矛盾が導ける」と主張しないのか

    なんだ。いまさらそんな基礎的なことを聞いてくるのですね。非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学の公理を1個だけ否定しているから、矛盾しているにもかかわらず、その矛盾が証明できないのです。相対性理論から矛盾が証明されて出てくるのは、絶対時間と絶対空間を否定したからです。

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