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投稿コメント一覧 (3545コメント)

  • >>No. 16935

    数学というより算数、算術だな。哲学的思考の定番のパターンの精緻化、システム化。

  • >>No. 16934

    まあ、とにかくフッサールはある主流のある哲学の主流のアプローチを整理しシステム化したとはいえよう。なんとなく行き当たりばぅたりで解いていた段階から、つるかめ算の段階を経て連立方程式といった具合に、数学の発展のような感がある。

  • >>No. 16933

    哲学というものは、あっ、、似たようなこと俺も考えてことがある!感がいくらかは必要だと思う。こういうのが全くないくせにおやおや?なにやら難しそうでかっこいこと言ってるな、どれどれ、みたいな連中がすくなからずいるがこれ最悪てある(笑)こいつらは不思議なことに哲学者などを崇めたりもする。ほんとのところまるで理解も共感も出来ないからこそ崇めるのだろう。仲間感覚は生じないのだ。

  • >>No. 16932

    フッサールの最大の功績はそこだろう。それまでは、「徹底した懐疑」とかなんとかスローガン止まりだったものを形式化しマニュアル化、具体化した感がある。ただそれは裏を返せば、哲学では常道的な、定番のよく知られたアプローチデモ版るわけだ。デカルトのコギトにしてもアウグスティヌスみたいなビゥグネームを出すまでもなく、他に無数の人間の頭に浮かんだ発想だろう。いや私自身、小学生の頃、自力で到達した。自慢したいわけではなく、いまでも到るところにそういうちびっこはいることだろう。むしろこの程度の自力的なセンスは哲学やる者にはそなわっていてもらいたいものだ。

  • >>No. 16931

    この哲学の普遍化というか、共通化や整理こそがフッサールの功績ではなかろうか?実際、デカルトの焼き直し&リメイケかリニューアルであろう。もちろん進化もしているが。そしてデカルトと違い、神の存在照明やそこから導かれる物の実在照明のような早まった結論をだすことはなく禁欲的である点が異なる。しかしコキトは明証性の源泉として認めているようだ。つまりは主観までは認めているのか。

  • しかしフッサールの超越は本当に便利である。数学の用語みたいに、最初にちょつと説明すればあとは断りなく使える。これが使えないといちいち簡単なことを説明するのに一苦労するだろう。やはりフッサールは、哲学に数学のように普遍性を与えたかったのではないだろうか。というか普通は学問というのは自然にそういう力が働くものだろう。

  • >>No. 16929

    哲学がわかりにくいと感じられるのものもそういったところからだろう。普通は日常知識だろうと学問的な知識であろうと、、超越に乗っかりその安定的な基盤の上で思考するが、哲学は基盤自体を反省するのだ。しかしながら、はっきりいって言われてやるような人は無理してやる必要はないと思う。

  • >>No. 16928

    しかしこういった超越と内在のような分類というか区別は一般人がもっともけげんがるところではないかな。車と食べ物とか、超越を前提した思考が、しかも複雑にさまざまな超越が絡まりあったなかでなされる思考があたりまえになっているからだ。認識上の分類は他の知的ぶんやでもなされるかもしれないが、せいぜい前提と結論とか、公理と定理とかのレベルの話であろう。主観からの「距離」を基準にした分類などほとんどなじみがないだろうから大いにとまどうことだろう。ついでにいうば、主観のなることばも本当は判断保留されねばならないのだが、それを言い出したら何物かたれなくなってしまうのだ(笑)

  • >>No. 16927

    もっと言えば、超越にまみれているからこ還元もかのうなのであり。、還元の例としてあげられることの多いマッハの絵の意味するところを掴むには、その狙いや思惑といった超越した知識がひつようであり、本当の引きこもりでは理解できないのである。

  • >>No. 16926

    もちろん他者の実在などを本気で疑うわけではない。方法的に疑うのだ。何かの新発見に期待してあえて普段慣れ親しんでいる空間から身を引いてみるわけだ。、しかも、本当にひきこもりであり、生活を始めるわけでもなく、そうぞうじょうでそれをやるのである。

  • >>No. 16925

    現象学の射程は言わずと広大である。それは裏を返せばそれだけ我々が超越しまくって生活しているということである。現象学的還元の世界はいわば極度のひきこもりであり、徹底すれば、家どころか部屋のなかに引きこもるようなものだ。この非常に限定された内部空間の住人の目から見れば総ての外部は異質なものに見えるのだ。それは単なる科学的な知識や理論にとどまらない。日常知や普通に他者の自我が存在したり、目の前に広がる映像は本当は平面ではなく奥行があるといった認識までに及ぶのだ。

  • >>No. 16923

    結局のとこラ、存在の意味はそっちのけか、あるいは自明と考えているるのかもしれない。しかしながらそうであっても、存在の意味が問われるべきとのハイデガーの主張が正しかったとしても、なお別の意義はあろう。存在の意味は常識の水準にとどまっていたとしても、例えば夢と現実の区別をつけることはナンセンスではないだろう。あれは夢だったんだという認識はじゅうようであるし、存在の完全な把握なくとも実在度合いの比較くらいは可能だろう。

  • >>No. 16923

    結局のとこラ、存在の意味はそっちのけか、あるいは自明のことと考えているかなのである。あるいは、自明とまではい

  • >>No. 16922

    ハイデガーノはかっこ「存在と時間」において、いわゆる外界実在論争をナンセンスだと切利捨てていた。まあ、私はそこまで不毛な議論とも思わないし、ハイデガー自身、持論を際立たせるために派手にやり玉にあげた面もあるのかもしれない。まあ、しかしハイデガーノのいいぶんとしてはおそらく、そもそも実在云々以前に存在の意味が不明瞭なのだからどうしようもないだろう。不誠実な研いであろうと、そういったことではないだろうか。もっともだと思う。そもそもこの手の問題、論争は、ほとんど主観の問題から生じていると思われる。実際に映るのは単なる映像てあり、それも心に写るものであり、常に幻の可能性が拭えないのだ。他者の心とて同様である。現象学的に言えば、内在に止まっていてはけして到達できない超越した知識によるのだ。

  • >>No. 16921

    例えばフッサールの超越の使い方はおもしろい。超越~内在とセットで使う。内在とは(現象学的還元後の)主観の内分という意味だろう。超越とは主観からは本当は見えてないもののことである。我々は直接見ていなくとも、東京やニューヨークが存在すると思っているし、重力なんて目に見えないがあると考えている。そういったものが超越なのだ。この用い方は極めてシンプルで便利ではないか。いかにも数学出身のフッサールだけあって超越をプラスやマイナス記号のごとくいい意味で軽く用いている。もちろん数学者が哲学をやれといいたいわけではない。たまたまいいこともある程度の話というか、文系が馬鹿すぎるという話だ。

  • >>No. 16920

    私が最近好んで多用する超越という言葉であるが、全く自由に使っている。自分でも制御できないほどだ(笑)といってもそれが本来的であり、文字通り越える程度の意味しかないのだ。馬鹿な文系どもが過剰な意味をしかも不明瞭な意味を帯びさせ逆に用語を機能不全にしてしまっているのだ。それよりは遥かによい。要は詩的に用いているということで、これこそ本来の文系のはずではないか。

  • >>No. 2180

    こんばわんはーポエティカ姉さん(^o^)

    お久しぶりです。

    今度はいつ日本にもどろれるんですか?

    今度こそ一戦交えましょうね♪

    いえ、商業ですよwいま話題の。

    エキサイティングでメガな勝負になるといいですね(*^.^*)

  • >>No. 16919

    しかしこれはよくある不可知論とは間決定的に異なる。カントは時間と空間は考え知る対象ではなく、考え知るための条件とした。そこまではよい。しかし結局は不可知論てきであり、知るた対象はあるものの、人間の知性には及ばないというところに行き着く。ウェトゲンシュタインにしても不可知論のニュアンスがあり、そういったタ態度は和足のような知性の無限の超越性を感じる者には受け入れがたいのである。そもそもし?対象ではない、このアクセントの違いがじゅうようである。リンゴは食べるものであり、読むものではないようにである。

  • >>No. 16918

    では、私自身の立場はどうか?基本給スタンスとしては、悟りなんぞにはたよらないが、単純な論理を越えた知性の力でもって世界は理解可能だとの立場でありるが、最近はやや変化し、そもそも知る対象ではないのではないかという気がしてきた。これがおそらく新しい鉄各のスタンスとして広がるのてはなかろうか?

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