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投稿コメント一覧 (1306コメント)

  • >>No. 3268

    54 税吏と贈賄問題
     別府晋介が加治木の区長として居た頃、翁に次のような質問をした。

    「先生、税を取り立てる役人の所へ村民たちが薪や野菜などを進物と云って持ってくるが、かかる弊は矯めねばならぬと思いますが云々」と。

    ところが翁は、

    「打ち棄てておけ、それらの事は大した害もないことだ。寧ろ村民が斯様な事から役人に近づきとなり、打明けて事情を話すようになると、役人も村の利害がよくわかって、村民も役人も双方利益する所が大きい」と云われた。

    翁はかかる小事にも注意が深かった。

  • >>No. 3267

      53 翁と伊地知正治

     これも明治七年の末か八年初頭の話であるが、伊地知正治が翁を東京へ引き出す下心で鹿児島へ帰国した。

    先ず翁を武の屋敷に訪問して、

    「俺もお前が承知通り身体が人並みで無い(跛者隻眼)から避寒の為帰って来た」と言った。

    翁は

    「そうか、それなら暖気(あたたか)になる迄ゆっくりして行くがよい、就いてはお前も養生の為と言うなら政治向きの話はしないだろうな。」

    と先手を打たれて了ったので、伊地知も余儀なく、「うん」と云ってしまった。

    それ故最後まで心底を話す機会が無く、帰郷して吉井友實に語って、

    「翁はとても我々の及ぶ所ではない」と云ったそうである。

  • >>No. 3266

    開墾は翁が狩猟に次いでの楽しみであった。

    翁は鍬をとって自ら耕し、又は青年と共に労働小屋に宿泊するなど、所謂きらずの汁芋飯の時代を現出して全くの農人と化し去った。

    翁の武村の草廬(そうろ)よりは略程大よそ一里半も有るべく、常に日帰りに往来したりと云えばその熱心の程も察せられる。

    開墾の場所は旧藩時代に於ける吉野牧場の東南端に位置する約五十町歩の地域で、教導園青年百名がこの地の労働小屋に起臥して一意農事に従事しつつ、やがて西南の役に、薩南健児の中堅となったのは、この開墾中の修養に依った点が多かったであろう。

  • >>No. 3265

    52吉野村の開墾
     明治九年4月5日、翁が大山巌に与えた書中の一節にいう。

     「当今は全く農人と成りきり一向勉強致し居り候。

    初めの程は余程難儀に御座候得共、只今は一日二つか位は安楽に鋤調い申し候。

    もう今はきらずの汁に芋飯食い馴れ候処、難渋にもこれ無く落着、どの様にも出来安きものに御座候」云々。

    これは翁が吉野村開墾に於ける生活的情景でもある。きらすの汁芋飯に落ち着ける処、最も趣味がある。


     翁の該開墾に着手したる原因に至っては、当時の事情に精通するものの言に依れば、征韓論破裂以前よりして翁以下諸将と共に皇都に在って、時の教導園に入学して居りたる陸軍志望の青年が、諸将勇退の跡を追うて故山に帰りたるもの、自活の道なきに察至したる翁が早くも開墾に着眼して、一は以て心身の鍛錬、他は以て農事の振興を期せむが為、偖ては悔恨に着手したるものであったという。

  • >>No. 3264

       51 私学校と綱領
     征韓論破裂と同時に飄然皇都を去りて故山に帰った翁は、時勢の趨向に臨み人材養成の急を感じ、その維新の功により下賜せられたる賞典録を以て経費の支出に充て、一学校を旧厩跡(今の県立病院のある所)に設立した。

    これ実に当年の私学校である。

    なお一校を鶴嶺社外(今の山下町興業館のあるところ)に設け外人を傭聘して仏蘭西学を教授し、主に陸海軍志望の者を収容した。

    私学校の主義綱領とする所は実に次の如くなり。

    第一、道を同じうし義相協(かな)うを以て暗に集合せり。故にこの比理益々研究して、道義に於いては一身を不顧必ず踐(ふ)み行うべき事。

    第二、王を尊び民を憐れむは学問の本旨。然らばこの天理を極め人民の義務に臨みては、一向(ひたすら)難に当たり、一同の義を立つべき事。

    この精神が終に勃発して西南戦争となったのは是非も無い事であった。

  • >>No. 3263

    朝鮮と清国とはコケ脅しで決して恐るるに当たり申さん、露西亜は国民の耳目を外国でそらさんことを始終致し申さんでは自己の身体が危ないのでごわす。

    大兵を出して日本を征するなんちことはとても出来もさん。

    今おいどんが言うことをお聴きにならんと、後日この倍も骨が折れ申す。そしてどう骨を折っても、おいどんが今言うことをせんばならんとごわす。

    どうでもこうでも日本の神慮天職でごわすけん、結局朝鮮を外垣として、後に朝鮮を策源地とし申して露西亜と手を退き会うことになり申す。

     然し一度は戦争をしませんと相手の事情も本当に呑みこみませんから、たとえ仲良くなり申しても皮相の同盟で、誠意の同盟は出来ませんから、一寸の利害で直ぐ崩れます。

    この通りなり行くことはこの隆盛が判断したことでは無か。実は天祖の御神旨日本の国命がこの通りでごわすから、いやでも遅かれ左様になります。

    おはんな、おいどんより年下じゃけん、おいどんより後に生き残りましょうで、只今申したことはよう覚えちょって下され。

  • >>No. 3262

       50 大陸運営の大識見…征韓論の真相

     翁が征韓論の経緯は、最近内閣の記録が発見され、翁がアジア大陸に足を踏み入れるべき大識見と、その序幕としての征韓論の真相が歴々と窺われる。

    太政大臣は言うまでも無く三條實美で明治六年は征韓論破裂の年である。


    今次に全文を挙げる。
     明治六年(月日不明)内閣記録に依る(原文のまま)

    「太政大臣な、篤と聞いて下され、今の太政大臣な昔の太政大臣で無く、王政復古、明治維新の太政大臣でごわす。

    日本を昔からの小日本で置くも、大神宮の御神勅の通り大小広狭の各国を引き寄せて、天孫のうしにき給う所とするも皆おはんの双肩にかかって居り申すでごわす。

    日本もこのままでは何時までも島国の形体を脱することは出来申さぬ、今や好機会好都合でごわすので欧羅巴の六倍もある亜細亜の大陸に足を踏み入れて置かんと、後日大なる憂患に遇いますぞ。・・・続

  • >>No. 3261

    惜しいかな、当時岩倉、大久保等の文治派は、内治未だ緒に就かず、事端を外に開くべからざるとなし、殆ど定まらんとした国策も一朝に挫折した。

    翁の恨事知るべし、決然身を退いて故山に帰臥したが、ここから前原の山口騒動、江藤の佐賀の乱となり、果たして同志血を流したのみか最後は西南戦争の惨劇となって現れた。

    これが為我が大陸発展の国策が半世紀遅れ、漸く昭和の御代に入って今や聖戦たけなわという現状である。

    国運の推移偉人の言動は常規に拘々たる者の窺い得ぬ所がある。

  • >>No. 3260

    49 東亜発展と朝鮮問題
     国力を東亜に発展せしむるは、これ翁の伯楽たる島津斉彬の雄図にして翁はこれが継承者であった。

    これがため翁は鋭意対内問題に努めた。

    樺太問題、台湾問題、朝鮮問題相次いで起こり対外関係頗る多難となった。しかも一方には士風ようやく弛むと共に、不逞の武人は時事に飽き足らず同志相撃つの形勢が見えた。

    翁は内外情勢を察して膨張的大日本の機運ここに熟すと観取した。

    折柄朝鮮頑迷にして隣邦の道を尽くさざるは国力伸展を塞ぐ第一の癌である。これを切開せねばならぬ。

    よし己が使節となって彼を開諭せん、もし聴かずば徐に兵を用いるも晩(おそ)からずと、これが翁の征韓論の発起点であった。

    世に征韓論というもその実は使節派遣開諭の平和的国策であったのである。

  • >>No. 3259

       48 西瓜を真っ二つ

     明治天皇が明治五年九州御巡幸を遊ばれた時、翁も供奉員の列に加わった。

    御召し艦が熊本県百貫港を発して鹿児島に向かった時、船脚が非常に遅かった。

    翁は海軍の技術がまだ幼稚であるのを憤慨し、覚えず巨拳を揮って席上の西瓜を一撃したところ、流石の巨大の西瓜も真二つに割れた。


    それから日露戦後大観鑑式の時、天皇は明治初年における海軍の御回想あらせられ、翁が西瓜を打ち割った当時の光景など侍臣に御物語あらせられたとのこと。いとも畏き極みである。

  • >>No. 3258

          47 攻勢ありて守勢全うし

    前項意見書に更に次の条文がある。

    攻める勢い有りて漸く守らるるものなり。

    本朝攻戦に体を据え、治乱の政治一途に帰し、海陸軍を以て国家を護し、終には攻守の権我に返る所へ目的を立つべし。これ廟堂の標準なり。

    勢を計らず、即ち手を下すべしというにはあらず。





    能く攻むるものにして初めて能く守ることを得る。
    翁の一言経国の要諦、古今の名言である。
    今や大東亜戦は攻めるにあらで守るなり。故にこれを聖戦というのである。侵略争奪に終始する彼れ米英には我が皇道精神は不可解であろう。

  • >>No. 3257

    46 外国交際・・・自立独裁

     明治三年、岩倉卿特使として鹿児島に来たり翁を起こす。

    翁聖旨もだし難く翌年二月東京に上がる。

    当時の意見書中に次の項がある。


    「外国交際は方今の急務、忽(ゆるが)せにすべからず。

    早く自立独裁の体を定め、約束を一々履行し一事たりとも信義を誤り礼節を失うべからず。

    彼、我を要し兵威を以て約定外の事を推さば、修理分明に示諭し、些しも動揺恐懼すべからず。

    もし戦の一字を畏れ枉(ま)げて彼の説に従えば、因循苟且(いんじゅんこうそ)に陥り国体相立たざるのみならず、却って和議破れ、遂に彼の制を受くるに至るべし。


    故に道を以て斃れ如何なんきものと定むべし。

  • >>No. 3256

    右に就いては過分本金二百両の塲(ところ)、数十年の利息相掛かり候えば、過分の金高に及び候儀に御座候へども、

    右等の処宜しく御汲み取り下され、纔(わずか)に二百金だけ、只利息の心持を以て御肴料に差し上げ候付き、これを以て返済の御引き結びを成し下され候へば重畳大慶の仕合せこの事に御座候。


    然れば亡き父の霊魂をも安んぜしめ申度く御座候に付、その節差上置候証文、御返し下され候わば亡父へも右の首尾相済み候儀を申解かせ候らわんかと相考え候に付、宜しく御了解成し下され候処、偏に希(ねがい)奉り候。

    いづれ参上仕り候て、得と申しあぐべき筈に御座候えども、わずか中両日の御滞留にてとても罷り出で候儀相叶わず候に付、書面を以て申し上げ候間、傍お汲み取り下さるべく候。 頓首。

     六月廿三日             西郷吉之助

    板垣與三次様 

    板垣は北薩川内の富豪である。

  • >>No. 3255

       (44)亡父の旧債務返済

     翁は明治四年上京して木戸孝允(たかすけ)と共に参議に任ぜられ、翌五年明治天皇に供奉して、二十二日鹿児島に還った。

    その翌二十三日、亡父の数十年前の旧借金を返済した。次の手紙はその詳細を語っている。



     「酷暑の砌に御座候え共、いよいよ以て御堅固に御座成らせられ珍重に存じ奉り候。

    さて小弟この節供奉を仰せ付けられ昨日安着仕り候間、憚りながら御放意下さるべく候。

    陳れば先年亡父拝借金いたし居り、その後私共にも度々の災難に逢い、一向に御挨拶等も致さずそのまま打ち過ごし居り候次第、何とも申し訳なき仕合い。

    亡父に対しても相済まぬ事に御座候処、御承知も下され候半ば、昨年出京仕り候処、容易ならぬ重職を蒙り、何とも恐れ入り候次第に御座候。

    ついては過分の重任を受け候も、畢竟亡父御懇請を以て莫大な金子の拝借を得、これが為に多くの子供を生育いたし候故にて、全て右のお陰を以て活動を得候次第。

    折々亡父よりも申し聞かせ候儀にて、何卒御返済致したく、色々手段を廻し候えども頓と御返済の道も相付かず候のみならず、利息さえもわずかに一年くらい差し上げ候のみにて、何とも申し訳なき仕合に御座候。

    就いては、この度帰省に付いては是非亡父の思い煩い居り候儀を相解きたき念願に御座候て、元利相揃えて差し上げ候こそ相当の訳に御座候えども、只今とても多人数の家内を相抱え居り候上、全く無高のことに候えば十分の義も相調わず候に付、何卒右辺の処、御憐察成し下されたく願い奉り候。

  • >>No. 3254

    (44)  司馬温公にはとても叶わぬ

     或る人が翁に、古来人物は多いが、先生が所詮及ばぬと思い給う人は誰であるかと尋ねた。

    翁はその時

    「司馬温公にはとても叶わぬ、公の腹の中は他人に隠さねばならぬ事は一つもなかったということだ。

    ところが我輩などは他人に話せぬことが沢山ある。

    自分が公に遠く及ばぬはその点だ。温公にして今日若しおわすならば、自分は喜んでお供をするつもりだ。」と。

  • >>No. 3253

    書物の蟲と活学問

    明治二年、翁は青年五人を選び、京都の陽明学者春日潜庵の門に遊学せしむ。

    五人とは伊瀬知好成(後の陸軍中将)、吉田清一(同上)、西郷小兵衛(翁の弟)、和田正苗、安藤直五郎なり。

    その時翁は吉田に告げて言う。

     「貴様等は書物の蟲に成ってはならぬぞ、春日は至って素直な人で、従って平生も厳格な人である。貴様等修業に丁度宜しい。」 と。

    又伊瀬知に告げて言う。

     「これからは武術許りでは行けぬ、学問が必要だ。学問は活きた学問でなくてはならぬ。それには京都に春日と云う陽明学者がある、其処に行って活きた実用の学問をせよ。」と。

    春日は名は襄、僣菴と号し京都に於ける有名な陽明学者で、翁は多年これを敬重した。

  • >>No. 3252

     「はい委細承知し申した」

    そう翁は答えたものの一向立ち上がる気ぶりもない。相変わらず字を書いている。

    使者も急かれていること故気が気でない。

    「甚だ僭越ですが、直ぐお供して来るようにと言い付けられて参りましたからお仕度して頂けませんか」と促した。

    すると翁は別に慌てる様子もなくこう言った。

    「はあ、じゃア夕景まで待っちゃい」

     使者は翁の暢気(のんき)なのにまた呆れて、

    「お言葉を返して恐縮ですが゛早や先刻から主人初め一同が閣下のお出でを首を長くしてお待ち申して居りますので直ぐお供が願えませんか」と重ねて云った。

    「実はな」と翁は答へた。

    「今日、たった一枚の着物を洗濯し申したので、それが乾き次第、すぐにまかんさ」。

     これには使者も二の句が出なかった。

    成る程庭前には薩摩緋(かすり)の単衣がカンカン照りつける夏の日ざしを受けて一枚乾かされていた。止む無く使者は、木戸邸へ引返した。

    そして委細を伝えると、木戸始め一同もこれには腹を抱えて笑った。が、ともあれ至急に来てもらはねばならぬので木戸は自分の着物を持たせて再び使者を翁のもとへ走らせた。

    翁は木戸の着物を着ると出掛けて来たが座敷の真ん中に通って、にゅっと両手を左右に突出して見せた。その様子はまるで大人が子供の着物を着たよ恰好でめったた。

    「木戸どんの着物の短いことじゃが裸で道中は成りもはん。お蔭でここまで来もうした」

    翁はこう云って大笑いした。

  • >>No. 3251

       着物が無い

    「児孫の為に美田を買はず」

    と詠じた翁は、物慾に恬淡(てんたん)というよりも、著しく物に執着がなかった。


    その私生活は清廉そのもので、実に徹底していた。

    或る時木戸孝允が自分の邸で会議を開くことになって、政府当路の要人にそれぞれ来邸を求めた。

    ところが定刻を過ぎても、来る筈になっている翁がやって来ない。木戸初め一座の人は待ちくたびれて気を揉んだ。

    已むなく使者を遣ることにして、至急翁の来邸を促すことにした。

    使者が日本橋の翁の家まで急いで飛んで行った。


    折から夏のことであったが、翁はふんどし一つの丸裸で座敷に坐って頻りに字を書いていた。

    使者は呆れたが、兎も角主人一同が先刻から閣下のお出でをお待ちしていると口上を言った。

  • >>No. 3250

    歩哨に立つ陸軍大将

     明治六年五月、明治天皇は近衛の御親兵を御統率遊ばされて、初めて千葉県小金ケ原の古戦場に演習を行わせられた。「習志野」と命名を賜わったのはこの時である。

    颯爽(さっそう)たる馬上の御英姿、これに随従し奉る翁がのっしのっしと歩く状は眼に見えるやうな気がする(翁は体重かったので馬に乗ることが出来なかった)。

    翌日は風雨烈しく、一軍ぐしよ濡れになった。此の機、此の時、翁の姿や何処。


    翁は陸軍大将の正服を裝い、自ら歩哨として御野営所の前に雨に濡れて一夜を立ち尽した。

    陸軍大将自身が歩哨となったのは日本の陸軍始まって以来、後にも先にも翁一人。

    それにしても忠誠無二の此の翁を城山一坏(ほう)の土と化せしめしはかえすがえすも千秋の痛恨事である。

  • >>No. 3249

    (四〇) 雨中に立往生す                I
     翁、陸軍大将たるの日、太政官より退庁せんとし履物を求めたるも、下僕在らず、やむを得ず足袋はだしのまま退出した。

    時に驟雨(しゅうう)沛然として至り、雨滴衣袂(いぺい)を絞れるも、翁は平然庁門を出かかった。

    門衛怪しみて之を咎む。

    翁は実を告ぐるも門衛は信ぜす、いよいよ翁を引止めた。

    翁も強ひては争わず雨を浴びて門頭に佇んだ。

    恰も好し岩倉右大臣馬車にて退庁し、事情を聞いて門衛に説明すらく

    「これは西郷大将なり」と。

    門衛大いに驚き無礼を陳謝した。

    翁は却ってその職務に忠実なるを賞し右大臣の馬車に同乗して退出した。

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