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投稿コメント一覧 (1235コメント)

  • >>No. 3194

     前述の通り談判には西郷さんは殆ど無関係であったが、後で考えてみると凡そ談判というものは講和条約が成立しても必ず国内には不平の起るものだ。

    その時に西郷も与って居るのだという建前で、必要に応じて国内の世論を善導する目的で行われたのである。


    これなどはI寸出来ぬ事である。

    余程遠くを慮って伊藤に疵のつかぬように努められたのである。

    無論これは個人開係ばかりではない、当時政府に伊藤以上の人は居らねから出来るだけ援けるという気分である。

  • >>No. 3193

     明治十七年に朝鮮に騒乱が起った翌年、伊藤さんが始末のために大使としてシナに出張せられたことがある。

    その時私も随行の一員となって行ったが、当時西郷さんは農商務大臣をして居られた。ただ農商務大臣だけの費格で、全権の一人でも何でもなく、伊藤さんと一緒に行かれた。

    どういう役割で行かれるのかと吾々は不審に思って居ったが、船中でも朝鮮問題を話されるでもなし、伊藤さんと
    相談される様子もない、骨牌(こっぱい・カルタ)などをやって随行員の放費を取上げるなど云ってからかわれて居った。

    天津へ行っても伊藤さんは領事館に滞在されたが、西郷さんはホテルに泊って居って談判の席へは一遍も出られたことはない。

    ただ談判のある度にあとで食事がある。

    これは議論後の感情を和らげる意味もあったろうが、その時は西郷さんも必ず出られて李鴻章を捉へて冗談を交へたりして居られた。

    その時の軍人の隨行員は野津(後の元帥)、仁禮海軍中将を主席とした。

  • >>No. 3192

    この間も「中央公論」で水野錬太郎君が追獎して居られたが、政務に就ても大きな事は自分で責任はとるが、大抵なことは部下堪能の人に十分働かして居られる。

    そうかと云って政治にも好んで容喙(ようかい)されない。

    政治は伊藤だ、政治は伊藤だと度々聞かされた。常に伊藤さんを援けて伊藤さんの意気の挫けぬように始終努
    めて居られた。

    伊藤さんも西郷さんには非常に感謝して居られた。大抵皆呼び捨てて居られたが、西郷さんだけは西郷さん西郷さんと言って居られたのを記憶して居る。

    あの時分はまだ薩長の軋轢(あつれき)気分が、上の方では緩和しても下ッ端には残って居った。

    それで始終薩長間の融和を図られたのも西郷さん大山さんであった。

  • >>No. 3191

    従道さんも男らしい型の人で、学問は長所でなかったが常識は天性とでも云う程に発逹して居られた。

    何時も政府では重きを為して居って、大西郷に似た所もあった。

    大局を能く観る人で、器も非常に大きかった。人を容るる量に至っては、或は隆盛さんに勝って居られたかも知れぬ。

    どうしてああいう風な人が兄弟揃って出きたかと思う位である。


     早くから外国を見て居られたので見聞も広く、外同人などと能く交際され、食事に呼ばれたり招んだりした。

    その点は大山さんも同じであった。

    西洋生活には慣れで居られて、西洋人には親しみがあった。

    それで政府に居られた時も代表的に交際せられて居った。


    言葉は何も判らぬのだけれど相手の見通しは出来たのである。

    その秀でて居られたのは物事にのみ込の早い点で、部下の信頼はどの方面でも深かったために政府では都合のいい人で、陸軍大臣にもなり、文部大臣、農商務大臣にもなり、内務大臣、海軍大臣にもなられた。

    どの椅子でも部下が非常に歓迎した。

  • >>No. 3190

       西郷従道侯の思い出

     大西郷の弟従道さんも確に偉人であったが、あまり大西郷さんが良く大きく光って居るので、従道さんのことは比較的少数者を除くの外は一般にはあまり知られて居らぬ。

     私が初めて会ったのは明治四年であったと思う。

    明治の初めに洋行されてから間もなく、夫人を迎えて今の永田町の議事堂のある所に居宅を構えられたが、そこには私の竹馬の友である西郷菊次郎(隆盛の長男)が居ったから毎日遊んで居ったが、従道さんの方は私が物心ついてからであるから具体的な思出もある。

    大西郷の方は後から顧みたり、遠方から見たりして居って、あまり子供であったから直接話を聴いたことは少なかった。

  • >>No. 3189

    然し西郷のためには何千人という人が死んで居るのであるけれども、西郷を怨むという者はない。

    今でも神様のように思って居る。


    つまり少しも私ということがない。

    始終、人のため国家のためという一念に駆られて居ったからこそ、そういう風に世人からも言われて居るのだと思う。

    結局は人の信用である。

    その信用が七十年後の今日毫も変わらぬ処に大西郷の姿を窺うべきである。

  • >>No. 3188

     大局は非常に能く見透しがついて自分の一身は殆ど顧みない、そればかりかと思うと細かいことにも又徹底的である。

    例えば大島では島の子弟を教育し産物の砂糖の増産製法の改良等に就いて細かい意見書を認めて、その向に差出して居られる。

    又外交の問題などについても非常に細心で、例えば英吉利の書記官で能く日本語の解る男が居ったが、この男と会った時の問答や何かは細かく書いてそれを一々報告して居られる。

    こんなことは今なら書記官のするような仕事である。

    西南騒動の時に人吉から出され記手紙が家にあるが、鹿児島の一味に宛てたもので書記役のものが不足であるから誰かを寄越してくれという意味のもので、大本営とした自筆の書面である。

  • >>No. 3187

     征韓論の時もそうであった。

    自分が行けば必ず朝鮮人が危害を加える、それが宣戦布告の名義を為すのであるとして、自分が初めから犠牲になる積りで居られる。

    私はそこが大西郷さんが人を動かした大きな原因だと思う。

    西郷という人は自分を考えない、私ということの無い人である、しかし義のためなら全力を注ぐ人だ、というところを世人は崇拝したのだと思う。


    かの月照と抱き合い投水されたことなどでも一寸不思議に考えられる。あれだけの大志の持主である人が、如何に忠誠の坊さんとは云え、軽々心中されることは合点の行かぬ気持もするが、その時なども自分という観念は働かず、月照に対する義理のため動作されたのだと思う。

    そういう風に考えれば稍合点が出来るようにも感ずるのである。


     長州征伐の時の長州に対する態度などは、当時薩長の間は非常に悪かったにも拘らず、二度目の長州征伐は意味がないというので幕府に反対して居る。

    又愈々王政復古成って奥州戦争となり、庄内を明渡す時の条件なども極めて寛大であった。

    庄内の人が大西郷を非常に慕うて、のちに薩摩に留学した者さえある。

    西郷も亦大変庄内人を労りその旧藩主の西洋留学の事など心配して居る。


    江戸城明渡しの時でもその態度は周知の通りである。

  • >>No. 3186

     又文久二年には馬関で久光の到着を待って一緒に上京するという約束が出来て居った。

    それを久光の着く以前に出発して行ってしまった。

    その時分は久光は藩主ではなかったが実権を握って居った。

    それで西郷に対する憤怒は和ぐことは出来なかったのであるが、西郷が馬関に行って見ると京都で大分同志の連中が騷いで居って、薩摩の有志もこれに加わり、京都の所司代を襲うというやうな情報が到達してをった。

    それを聞いて、これは容易ならぬことである、君命ではあるが事態は切迫して看過を許さぬと見て軽挙を戒める目的で京都に駈け上った。

    そうするとよく誤解のあるもので、西郷もその連中と共に運動して居るのじゃないかとの誤伝もあり、約束にも背いたというので、一層久光の怒を増した。


    種々側近者の弁解もあったが終に聴き容れられず、到頭島流しになったのであるが、非常に義に固い人で、自分の命というものは少しも眼中に置かず、こうしなければならぬと思うと、義のために命を抛つことは何とも思っていなかった。

  • >>No. 3185

     西郷さんの性格は伝記や歴史に十分尽して居るかも知れぬが、例へば月照と薩摩潟へ飛込まれた時の話なども、実にその性格をよく現している。

    当時の大西郷さんの考えでは、月照はどうしてもこれを自分が保護しなければならぬ、幕府の追手は既に来ている、その時分はまだ幕府の勢力も強かったのであるから、薩摩でも幕府の追手が来たというとそれを無視するわけに行かぬ。

    どうしても両人を捕えて出さなければならぬような状態で助けるわけに行かぬ。

    そこで到頭西郷は時期も迫って居り考える迄もない、月照と船に乗って行って海上で一緒に処決しようという決心をしてしまった。

    それからが、月照は死に、大西郷も殆ど息絶えていたのだったが、手当を加えて漸く蘇生するというような結果になったのである。

  • >>No. 3183

     当時(明治四年頃)築地三十間堀の辺に船宿があった。

    今で言う待合みたいなものであるが、御用の合間に船遊びに出掛けられた。

    大西郷さんは平生着物などにはあまり頓着されなかったが、そんな時には大久保の衣服を着用して行かれたこともあった。

    芸者などが来るので大西郷さんでも矢張り服装を氣にされましたと家族の者が笑談したことを覚えて居る。

     ああいう人は中々評し悪(にく)いもので、如何にも器の大きな所があると思うと非常に細心な所がある。

    手紙など見ると実に細心な手紙を書いて居られて、書記などの書くように細かに書いてある。

    そうかと思うと暇さえあれば…暇さえあればどころではない、態々暇を作ってでも出来るだけ煩劇な政務などを避けられる。


    一寸矛盾した性格を持って居られた人のように見える。

  • >>No. 3182

     西郷は又時々友人間に悪戯を試むることもあった。

    或る折支那人の名筆を丁寧に模写して巻物に仕立て、態々入念に燻をかけて色をつけ、これを大山に授け

     「大久保に売りつけてこい。その代金で鰻飯を奢るべし」

    と約したが大久保はその密計を看破したか応じなかったために失敗に終わったが、この巻物は今は家宝となって松方家に保存されて居る筈である。


    その密計の顛末は大山さんの自筆で巻末に付記せられて居る。

  • >>No. 3181

    私的方面に就いて吾々子供心に残って居ることを述べてみよう。

    西郷さんは東京に居られると父の家で会食されたり、遅くなると泊まられたこともある。

    余り屡々御会合があるのを能くあんなにはなしがあるものだと思ったこともある。



    或る時、自分が三年町の家へ帰って見ると、大西郷さんが玄関に座り込んで居られる。

    どうした訳かと思ったが、子供心で大した推察も出来なかった。

    後で聞くと、大久保の会計をしているものが金を使い込んで身分不相応な贅沢をして、月の支払いもせずにこれを着服して私消したのである。


    それを大西郷さんが聞かれて、不届きだというので同人を玄関に呼んで糺弾してをられたのである。

    これは後から判ったのであるが、あの大西郷さんが自分の友達の家の執事の不都合を質すために玄関に坐り込んでいられたという事は、考えると実に不思議に思われた。

    併し段々考えて見ると、そういう所があの大西郷さんにあった。


    今のは一例であるけれども、自分の位置とか偉いとかいうことには頓着のない方であったと思う。

    お出でになるとよく字を書かれた。

    吾々は唐紙の端を押える役目を勤めたことがある。

    あの大きな体で股を開いて書かれる。

    肝腎の処まで見えるので笑うと、

    「何を笑うか」

    と一喝される、こわいような親しみのあるような思いをしたこともあった。
    何しろ人間の大きな方で、普通の人間とは吾々は思わなかった。

  • >>No. 3180

    伊藤さんは、あの時止めた方が宜かったか悪かったか、或いは今になると行かれた方が宜かったかも知れぬが、まあ心配の余り止めたわけだと云われておる。

    そうした訳でこの征韓論は両人の間に悲劇を起こしたもので、これがために三十年来の竹馬の友で、死生を共にした関係がああいう始末に終わったのである。

  • >>No. 3179

     西南の騒動が始まって、その蜂起の報が京都に達した時、(この時聖上陛下は京都に行幸在らせられて居った)大久保は、西郷は出ないだろう、若し出たとすれば、西郷の流儀で若い者のやることなどは大抵放って置いて愈々最後の断を下す必要に迫る時、

    一喝して之を抑える癖があったが、その流儀で行く積りだったのがもうそれも間に合わぬようになってしまったのかもしれぬとの観察をして居ったようである。


    そこで自分が出向いて行って西郷と直面して話をすれば解決が出来ると思い、その意見を政府に述べた。

    ところがその時の出席者逹は暫く沈默を守られたが、伊藤さんが、

    「後はどうなさる積りですか」

    と尋ねると、

    「後(内務卿)はあなたにお願いする積りだ」

    といわれたので、

    「それは御辞退します。この際私が起つことはできない」と反対された。

    それがために他の政府の方々も伊藤さんの反対論に賛成して、大久保の意見は終に成立しなかった。


    その時の伊藤さんの反対した理由は、第一、西南騒動が始まろうという時大久保さんが京都の政府に居らぬということは困る。

    もう一つは平生の二人の開係やら性格から考えると、幸い了解が出来るかもしれないが、何しろ周囲の勢というものが出来て居るのだから、二人の間に了解はついてもそれがために形勢を一変することは出来ないかも知れない、

    その場合になったら二人の平生の気質もあるから、刺し違いでもしやせんかというようなことを心配したので反対した、という事を後で伊藤さんが漏らして居られる。

  •  明治九年の秋頃だったと思う。

    どうも鹿児島が不穏だというので大山が帰県して様子を見、又西郷にも会って見ようと思い立ったことがある。

    それは大西郷は常に大山を愛し従兄弟の間柄でもあり信用が厚かった。

    それで一番遠慮がなくて宜かろうと自分でも思い、東京の同志仲間でもそう考えたのであろう。


    大山が帰って見ると西郷は何処といって変わったところはなく、今迄通りである。

    そこで東京へお出でになったらどうですかと勧めて見たがこれには取合われず、

    『いや東京へは行かぬ、東京は大久保が居ればいいじゃないか』

    と云われた由、

    これは大山さんから直接自分が聴いたことである。

  • >>No. 3177

    一例を挙げると、大久保は西南の騒動が済んだ直後、東京に帰り、重野博士を招致して

    「西郷の事は自分でないと総てのことを尽すことは出来ぬが、自分が筆を執ることは今事情が許さぬから、私が話すところを書いて置いて呉れ」

    と依頼した。


     この約を果さぬ中に、自分が遭難してしまったのでそれきりになってしまったが、その遭難当時、西郷の書翰一通を懐中に所持しておったのである。

    これは多分参考のため取り出して携帯しておったのであろう。これを依頼されたことは重野文集にも記載した筈である。


     後年勝田孫彌氏が西郷伝を書きたいとの申込があった時は、前述の事情もあったので遺志の幾分を履行する考へで、我々兄弟で出来るだけ記録、手紙、その他便宜を提供して編纂して貰った。

    彼の「西郷隆盛伝」三冊がそれである。

    その序文にもこの伝記編纂事情の顛末は書いてあると記憶する。

  • >>No. 3176

    鹿児島に加治屋町というところがある。

    この辺は周囲を一望の下に見渡すことの出来る位の狹い所ではあるが、この小区域に西郷、大久保、黒木、東郷、大山というような偉人が成長されたのである。

    そういう訳で一町内に住まって居って、私の父と西郷は二十前後から非常に親しくなり、意気相投合したもので、私共はその時分は知らないのだけれども、私の伯母などの話では殆ど毎日のように行ったり来たりして、夜など遅くまで何か話合って居ったらしい。


    伯母なぞも茶を運んだり膳を据えたり何かするので自然に話も聴いたのであろうが、それによると、時事問題を話合い、又は漢書を購読したり、連れだって参禅したりしたのである。

    尚吉井とか税所などの人々もこの会合に加わったのであるが、併しこの二人が中心であった。


    のちの征韓論では政治的に意見が別れたがそれまで始終協力を続けたのであって、私情に於いては終いまで少しも変って居らなかった。

  • >>No. 3175

    兎に角、あれだけ深山の傑出した人が出て呉れゝば、何時の時代でも大変仕合せだが、これは中々望めない。

    それであるから、難かしいという以上は少しでも秀でた長所のある人があれば、それを皆で持ち上げて、短所は周囲よりこれを補い、協力して事に当ることが一番好い事だらうと思う。

    どうも兎角人の瑕(きず)を見て、その瑕につけ込んだり蔑んだりすることがあるけれども、そういうことより人の長所を見てその長所を十分に働かせるように同志の人が努力するのが一番宜しかろうと思う。


    維新前後の恵まれた時代でも、そういう心懸けがあって先輩方も大成されたと思う。


    維新当時の薩摩も亦、こうした人物輩出の点で萩や土佐と同じような形をとっているのである

  • >>No. 3174

     嘗て私が山口県の萩に行った時のことである。

    同市には明倫館という藩時代の学舍があるがその講堂に額が懸って居った。

    その額には荻町の図が描いてあり、士族屋敷の跡がしるされて維新前後に亙って出世された著名な人の誕生地が朱でぽつぽつと明記されてあった。

    あの小さな町に歴史に名を遺した人々が目立つ程多数に登ってをるのに驚いたが、これは人物生成の問題として大いに考えさせられた。

    尤もこれは萩に止まらず、当時では土佐でも水戸でも佐賀でも程度は相違してもその傾向は共通して居ったと思う。

    どうしてこんな小さな孤域にそんなに傑出した人物が績出したか、それが教育の結杲とすれば、今の数育家などは大いに研究して宜い事だらうと思う。

    尤も大処から見れば、大体時勢がそういう人を大成させたのだろうと思う。



    各人の生れながらの素質に学問が加わり、これを時勢の要求がその各自の才幹を鍛練させ、夫々の人物を作り上げたものだろうと思う。

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