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投稿コメント一覧 (1155コメント)

  • >>No. 3110

    薩南の一隅にいよいよ烽烟が揚ったと聞くと、荘内藩の我々壮年の者共は、そりゃ来たやるべしと云う勢いで刀を砥ぎ銃を磨いて今度こそはと骨鳴り肉動くの概に堪えなかったが、藩の死命を握って居る菅は如何に迫っても、決して動かなかった。


     その云い分は、

    『西郷先生と何か御約束でもして居た事なら、固より成敗を顧みる迄もなく事も挙ぐべきだが、あれ程親密な変際をして居ながら、未だ一言半句も斯様の事に及んだことは無い。

    加えるに今藩公は御二方共御洋行中であり、殆んど定った天下の大勢に抗して再び一藩を挙げて窮地に陷るに忍びない』

    と云うのであっった。



    藩老の意見がこういう風で致し方なくも無かったが、血気の連中は切歯扼腕(せっしやくわん)して天の一方をにらむという有様で、殺気紛々たるものがあった。

  • >>No. 3109

    明治十二年に私が西郷先生の御墓に詣り旁(かたが)た彼等の死状を聞くが為に鹿児島に往(い)った時に、皆々が
    『御気の毒をしました、断って帰国を御勧めした訳でしたが、どうしても肯かれませんで。』

    などと云われるから、

    『いや武士として当然の事です、ムザムザ帰るような事では私共が唯で置きません。』

    と云うと、流石は薩州男児の人々、

    『それでこそ西郷先生が深く貴藩を信ぜられた訳です、御二人の御方も実に到る所奮戦せられて実に美事な御最期でありました。』

    と大に誉められて恐縮したが、彼等二人若年ながら多少荘内男児の元気を発揮してくれたのは、実に嬉しい次第であると感じた事であった。

  • >>No. 3108

    この二人の少年の中、伴は私の実弟で鹿児島に往く時十八歳、榊原は十六歳であったと思う。

    二人は篠原の家に厄介になっていて賞典学校で勉強していた。

    十年の事起るに及んで、先生始め篠原その他の人が頻りに帰国を勧めたが、断固として肯せず、篠原の部下に属して各所に転戦し、伴は三月十日肥後の植木の敗軍の時、流弾に中(あた)って殪れた。


    官軍は大挙して追撃してきたが、榊原は憤然として、我ら二人西郷先生の教えを受ける為に、千里を遠いとせずして来たり、相携えて軍に従いながら如何に大敵とは云え友の屍を見捨てて逃ぐる訳に行かないと、唯一人面(おもて)も觸(さわ)らずにむらがる大軍の中に切り込んだ。

    味方も壮烈なるこの一言に感奮して勇気を振り起して引き返し、遂に官軍を撃退してしまい、榊原は伴の死骸を負うて安全の地に至り深く埋め、一夜そこに通夜してくれたという事である。


    この勇ましき少年榊原も、その後暫くして肥後の三船で戦死して相共に西郷先生に殉する事となった。

  • >>No. 3107

     是より先き我が藩では六人の少年を選んで東京に留学させて置いたが、西郷先生が帰薩せらるるに及んで、この中より更に榊原政治、伴兼之の二人を選んで鹿児島に遣り、先生に教育を御頼みする事にした。

    先生は、、他藩の事ならこの際御引受は出来んが、貴藩は格別の事だから承知しますと云われたと云う事である。


    酒井玄蕃は東京に帰って病に臥して居て、別れに往った二人の少年を誡めて、能く西郷先生の教えを守って豪い人になれよと云ったそうだが、酒井は三十五の壮齢を以て明治九年の二月に惜しむらく病没した。

  • >>No. 3106

    さて、平常金穀の事などに御座候得ば、如何なる英雄豪傑かと思われ候え共、血の出る事と相成り候えば誠に張合い無く、元来朝鮮の事は僅かに両三人ならで相話し申さず候ことに御座候得ども、その内追々全隊の者共聞き付け、遂に今日の次第に相なり。

    帰り来たり候間、段々の始末相話し候ところ、是非一緒に死すべしと申し候間、如何にも死ぬべき義に当たりて人の死するは気の毒にも痛敷くもこれ無き義、唯四十七士の内さえ長々の内には心変わりの者も出で来たり候。

    今日酒色乱暴に心を蕩(と)られ候ては、大事の志を遂げ兼ね候こともこれ有るべし。

    いよいよ今日を堅く慎む候様と申し聞け、今日大いに慎み罷り在り候訳にて、元来小隊長は心一杯の軍(いくさ)も出来、甚だ愉快のものに候間、折角それを楽しみに致し居り候間、御話し御座候間、中殿様の御事申し上げその日は罷り帰り申し候。』

      である。

  • 唯今日の通りなれば露国は必定近日中に襲い来たるは相違いなく、その節は小隊長となり同志の者を率い、死に候だけのこと。

    今日政府の御覚悟にては、是非御降参成らせられ、その節私一人は決して降参致さず候。

    魯兵を討って斃れ候覚悟にて、右の外何もこれ無く、人々露国を甚だ畏れ候えども、私は左まで恐ろしき共存ぜず候。

  • >>No. 3104

    又北海道の札幌鎮台を置くとの事もこれ有り、さ候はば私は直に札幌本営にすわり申すべく、樺太分営へは篠原冬一派遣遣わせと申し候き。

    元来三條公にて、私の見込御探用、それ迄は是非運び申すべしとの御事に候処、遂に御決着の日に到り、御不快にて今日の次第と相成り、岩倉より申すには畢竟見込み違いの事にこれ有り。

    双方共に具に奏聞に及び、何分にも宸断(しんだん)次第に仕るべくと申す事に候間、それは如何に仰せ上げられ候や、三條の見込みはケ様ケ様、私見込はケ様カ様、そうして三條の見込みは天下の為よろしからず、そして私の見込みは天下の為然るべしと仰せ上げられ候や申し候。

    如何にもその通りと申され候間、さ候はば私は退き申すべしと、それにて事分かれに相成り候儀にて、最早今日の処しては何もこれ無く、然るを色々に手をまわし、所々に探りに遣り候間、それにて決して返答は致すなと申し置き、

    実に岩倉は過って改め候事なら、自分が朝鮮にまかり向き一命を捨て申すべく、さも無くば今度は中々出(いづる)べしとは更に存ぜず、又敢えて心配も決して致さぬ。

  • >>No. 3103

     その段々屹度申し述べ候処、岩倉は総て軍(いくさ)は恐敷し共難く申す儀に候えば、それにては順序を失うと云い、その順序と申し候は全く平常無事の日の順序にこれ有り。

    今日既に戦争と御決定相相成り候上は、直と戦略の上にて御運び相成らずば相済み難き儀、畢竟国家の為その義務を尽くすとの順序に御座候はばたとい異同これ有り候共、始終見込一定致ず儀にはこれ無く、

    始めには参議の方へ手を入れ、その論を致し候積りに侯処、都(す)べて参議は大抵同存と相成り、是より戦争に決候以上は、軍略を説くべき次第に候処、

    彼岩倉は今日平生の順序を云々す、さ候はば御軍略は如何と岩倉へ承り候処、軍略は知らぬと申し、御存知これ無く候はばにヤ何に迚存知候者より御聞ならせられず侯やと迄申し候事にて、

    軍が恐しくて出来申さずば、今日政府と申す事は御止めに成られ、商い方支配所とでも名を易え候事なら夫と申すもの、

    今日政府と申候上は、その義務不揚と申す訳はこれ無く、義務を落し喉なら更に政府にはこれ無しと申す事にて、随分甚敷き議論もいたし候。

    その内には副島抔(など)は職掌上に於てその使節は是非自分相勤ると申し、私は兼ねてもう勅命候義、何れ空敷(むなしく)相済む事にはこれ無く、直ぐ打果し外これ無しと申迄に相成候き。

  • >>No. 3102

    御取受これ無く、仍て私も尚又篤と相考へ、いよいよ所存を一方に取極め候事にて、今日の御国情に相成り候ては、所詮無事に相済むべき事もこれ無く、畢竟は魯国と戦争に相成候外はこれ無く、既に戦争と御決着に相なり候日には、直ちに軍略にて取運びもうさずば相成ず、只々北海道を保護し、それにて魯国に対峙あいなるべきか、さすればいよいよ以て朝鮮の事御取運びに相成り、「ホツセツト」の方より「ニコライ」迄も張出し、此方より屹度一歩彼地に踏み込みて北地を護衛し、且如聞ばトルコへは魯国よりも是非このままにて相済み申さず、振って国体を引起せと泣いて心付候由。

    又英国よりも同然位にて、右之通にいたし候趣。

    これ是何故に候や、兼ねて綺角の勢(きかくのせい)にて英魯の際に追々事起り申べしと、この頃フランス国公使の極め内心付もこれ有り。

    且つヨーロッパにては、北海道は、各国雜居の地に致し候目論見、頻にこれ有りと相聞き、大方その事も追々懸けあいに相成るべく。

    兎に角英国は海軍世界に敵なく候間、すべて北海道は暫時英仏に借し候方は如何抔と申す事にて、

    ヨーロッパに於いても、魯の北海道を目懸け候は、甚だ以て大体に関係致し候事故、趣向も付け候には相違これ無く、

    右の通りの事情御座候へば、日本にてもその通りに奮発致し候とならば、トルコに於ても是非一憤発は致すべく。

    さすればいよいよ英にては、兼ねてよりの「ポーランド」より事を起すには相違これ無く、わざわざ英国と申合せ事をあぐるに於ては、魯国恐るるに足りずと存じ候。

  • 兼ねて政府の義務上に当たって一命をば抛(なげうち)度き宿志に候間、右の使節は私屹度(きっと)承り、是迄の曲直だけは是非分明に致すべしと申しのべ候処、政府の御評議とは違い余程模様もこれあり。

    面倒に候得ども追々その事に取運び、既に御内勅迄も承り候わせ、然るところ、又樺太の事一時に差し起こり、黒田儀は是非この度は戦に致さずば相成ぬと申す事にて、一昨年魯国に事起り候節も、是非此度は死に申すべしと存候趣に付、是非とも死でくれと申し候。

    三條公へもその事に申上候趣に候え共、外務省より議論起こり、その儀能わず。

    此度の事も黒田に聞かれ候はば、是非我参り死すべしと申すには相違いなく、わざと相聞かれず、三條公へ使節の儀は、誰申し候その外は一切御許し下され申し間敷くと兼ねて申し上げ候。

    黒田果して三條公へ自分で進み候て申上候由に候え共、御取受これ無く、仍て私も尚又篤と相考へ、いよいよ所存を一方に取極め候。

  • >>No. 3100

     戌(明治七年)一月九日、西郷先生へ御逢い申上げ、兼々之儀具(つぶさ)に申上候処、それは誠に有り難き趣にて先生の仰せられ候には、

    『元来この度の儀は、私不快にて引込中より之儀にて、兼ねて彼の地の模様有之、和館護衛の為、一大隊御差遣り相成候と申す事申し来たり。

    それは以ての外、御宜しからぬ御事と存じられ候間、押して出勤致し、抑々(そもそも)御一新以来これ迄御運びに相成り候は、全御交誼の為には御座無く候や。

    然るを只々こちらより兵隊御遣わしに相成り候ては、是非それより事の起こるに相成るべし。

    左様の事にて軍(いくさ)を始め候共、皇国一般誰も存知も之無く、奉るべき承服様もこれ無く、以ての外の御事にこれあり。

    此方よりはいずく迄も御信宜を尽くさせられる御事に。

    これまでの使節にては、是より出れば彼にて避け、彼にて一歩進めば是にて二歩退くと申す様にて、遂に屹度引き受けたる応接は一度もこれ無く候間。

    今度は厳然と使節御さしだすに相成り、是非是までの是非曲直判然致し候わば、彼にて決して無事に承知致すまじく。

    つまりは使節もそのままにては帰り申すまじく、さ候えばこそ皇国の一般の人気(じんき)も揃い、誰穏便と相済むべしとも、唯このままにては所詮御出兵などは為らず寄存次第に御座候。・・・

  • >>No. 3099

    然るに彼の征韓論勃発の為、西郷先生は官を辞して帰薩せらるる事となったので、我が藩より出て居た連中も先生と行動を同じうした者が少くない。

    中にも戊辰の際我が二番大隊長としで武名を揚げ、明治五年陸軍七等出仕を拝命せる酒井玄蕃の如きは、官を辞すると共に直ちに先生の後を追うて鹿児島に到り、親しく先生の意中を確め、心中窃かに期する所あったものの如くで、

    その手記に係る先生の意見聞取書は当時の形勢一班を窺う事の出来る許りでなく、西郷先生の意中の幾分を揣摩(しま)する事が出来ようかと思う。

  • >>No. 3098

    その時官軍よりその交渉の衝に当たったのは、参謀黒田了助であったが、その機敏にして大胆なる行動と、悠揚謙譲なる態度とは、痛く我が一藩人士の心を動かした。

    しかもその公明正大なる処置には全く敬服の念を禁じ得なかったのである。

    そこでその翌年藩の大夫菅實秀が東京に出で、黒田に謝礼に往くと、黒田は、イヤ飛んでもない、あれは皆な西郷先生の指図に出たもので、私などは唯だその通りに遣った迄で御礼など受ける訳はありませんと云う話である。

    そこで始めて西郷先生の聞きしに優る大豪傑である事が分り、今後一藩の指導を托するは此の人を措いて他に決して無いと、堅く藩議を定める事となった。

    乃ち明治三年に、藩公真先に鹿児島し御出になって先生の教えを受けらるる事になり、藩士約四十名も砲術修業という名目の下に入薩した。

    翌四年に西郷先生は近衛都督となって上京せられる事になったから、愈々便宜を得て先生の指導を仰ぐ事となり、幾多有為の者共も陸軍に奉職するという事になった。


    先生もまた殆んど他藩を以て目せずして、よく薫陶誘掖(くんとうゆうえき)せられたのである。

  • >>No. 3097

    南洲先生と庄内藩   秋保親兼

     維新前に在っては薩摩藩と我が荘内藩とは、その主義上より仇敵ただならざる有様であり、彼の鳥羽伏見衝突の導火とも云うべき三田薩摩屋敷焼討ちの如きも、我が荘内藩でやったような始末で、互いの間の嫉視は容易ならざるものであった。


    しかも戊辰の戦争となるや、我が荘内藩は多年錬磨の武威を輝かすはこの時にありと、出でて四隣を攻撃し、天童、新荘、横手、亀田、屋島、本荘等の諸藩を忽ちの間に屠り尽くして、直ちに秋田の城下に迫り、荘内強兵の名四方に轟くに至ったのである。

    しかしながら如何に勇気を振えばとて、僅々一藩の力を以て到底天下の大兵に抗する事の出来ないのは知れ切った亊で、遂に謝罪降伏と云う事になった。

  • >>No. 3096

    流石に勝海舟は西郷の美点を認めてこの事を云って居る。

    朝廷でも西郷の関知せざる事を明かにしたから、その罪を御宥(おゆる)しになる許りか、その子に侯爵まで御授けになって居る次第である。

    西郷の美点は、情に厚い、慈悲深い、涙もろい、全然己れと云うものを眼中に置かなかった点にあるので、西郷と雖も幾多の欠点はあるが有形上より見ず無形上から見れば、あれ位の人物は歴史にも稀れである。

    ずっと高い所から見ないと中々西郷の真価は分るものでない、却って贔負の引き倒しをやるような事になる。

  • >>No. 3094


    柴田勝家ですら時勢の運命を知って居たから、唯だ一戦の後未だ施すべき手段があったに拘らず、永く人民を苦しむるに忍びずと云って、前田利家に勧めて和を秀吉に結ばしめて自分は潔よく切腹したじゃないか。

    西郷がもし自分で指揮したとすれば、ああ云う見苦しい戦さをし、非常に人民に迷惑をかけてあの結末に至った事になり、時勢を見る事一猪武者の勝家にも及ばぬ事になる。


    これでは丸で西郷の豪い所を没却して凡人以下に落すものと云ってよい。

  • >>No. 3093

    いくら己れ一身を子分等の犠牲に供すると云っても、見て居る目の前で無謀極る戦さをしたり、色々ぶざまな事をやられると、人間として活きて居る以上、つい何とか彼とか小言の一つも云いたくなるのは人情である。

    それを一言半句も干渉せずに、桐野以下の我武者連のやり次第に全然任せ切った点に至っては、古今東西、あまり歴史にも見受けぬ豪(えら)い所であって、この点から見なければ西郷の豪い所は分らぬので、凡人に卓越した所はここにあるのである。


    それを凡人の考えから無闇にえらい者にしようと思つて、何もかも西郷が指揮してやったようにするなどは飛んでもない間違いじゃ。

    若し西郷が指揮してやったとすれば、あんな拙い戦もしまいし、新政厚徳だの、贋札だの、幾多反逆に類したつまらぬ事を行う筈はない。


    甘んじて子分の犠牲たるを覚悟して居たから、何もかも為すがままにして、あっちに引っぱられ此方に引っぱられして、平然として運命に倒れた所は実に尋常人傑の為し難い所である。

  • >>No. 3092

    河野主一郎と野村忍助から聞いた亊じゃが、私学校連が愈々爆発した時に、西郷は温泉に往って居たさうだ、ところが使いの者が来てこれこれだと話すと、西郷はウムと云ったきり柱に頭を寄せかけて暫く目をつぶって居たが、そうか、それじゃ俺も帰るからお前逹は先に帰れと云った丈で、あとから悠然と帰って往ったと云う亊じゃ。


     これれが本当の事だろう、こうなくてはならぬ。ここが西郷の西郷たる所以で尊い価値のある所である。

    それだからああいう拙いイクサをしたり、ぶざまな真似をしても一かまわずに子供を相手にして座り相撲を取ったり、冗談を言ったり、兎狩りをして居られた訳じゃ。


    それで始終別府晋介に向って、

    『オイ死んでヨカ時が来たらこれを頼むぜ』

    と云って掌を頸(くび)に当てる真似をするので、別府は先生のあれには困ると苦説いて居ったという事である。

  • >>No. 3091

     私学校の連中が愈々事を挙げようとして、火薬を掠奪したと云う事を西郷に話した時に、西郷はこれまでになく立腹したそうじゃなどと云う者もあるが、こんなのも贔屓の引き倒しで、そんな事なら西郷は凡人以下である。


    三年も引っ込んで居てその間に子分等がどういう事をする、どういう成り行きになるいう事も分からずに、愈々という場合に初めて分かって立腹するなどは、尋常人の考え以下と云っても良い。

    又分かっていたとしても、それまでは叱りもせず止めもしないで、その時になって立腹するなどは、愈々目先の見えぬ話で、その場合に怒ったって止めたって、止まるものでもない位の事は誰にも分かるべきはずじゃ。

    実に贔屓の引き倒しもこれに至って極まるというべきじゃ。


    凡人の心を以て英雄の心を忖度した結果は、ついこういう間違った事を言うようになる。

  • >>No. 3090

    それを凡夫の浅墓な考えから、この無形上の豪い点が分からずに、自分共の豪さのように思う所に西郷を引き付けようとするから、つい凡夫以下に引き落とすような事になる。

    西郷の美点は、情けに厚い、慈悲深い、全く己というものを眼中に置かない処にある。

    十年の事でもあれ位の成敗利害の分からぬような男ではない。

    どうなるという事はちゃんと分っていても、多年相提携した子分等がみすみす淵に陥ろうとするのを自分独り傍観することは出来ぬ、逆賊と云われようが構わない。これまでに自分を慕う子分等をして思う存分やりたい通りにやらせれば良いと思ったのじゃ。

    それだから何もかも関わらず彼等の言いなり次第に引き回されて、従容として運命を共にした訳である。

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