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投稿コメント一覧 (1186コメント)

  • >>No. 3143

    予退けり、既にして五月十四日に至り東叡山を進撃するの議決せり。


    西郷参謀予を招き、ポロリと一滴の涙を垂らし、且つ予を慰労して曰く、

    『足下の朝廷を重んじ主家に報いる誠忠、逐次詳悉(しょうしつ)せり、今暴徒を進撃するや、足下の快(こころよか)らざるを諒せざるにあらず。余、深くこれを察す、それ傷(いた)む事なかれ』と。


    予厚くこれを謝して帰る。

    時に大総督府、人をして徳川に告げしめて曰く、

    「明朝東叡山に嘯集(しょうしゅう)する暴徒は誅滅すべし。聞くその山の中堂には徳川数代の重器を蔵めたりと。宜しく灰燼にふすべからず、直ちにこれをその家に齎(もた)らせよ」と。

  • >>No. 3141

    渡辺氏曰く、

    「彼らの暴行、日一日より増し大総督宮に於いて寛典を施す能わず。」

    予曰く、

    『慶喜に於いては恭順謹慎朝命に遵奉(じゅんぽう)するの外他念なしと雖も、彼らの妄りに東叡山宮の名義を主張し、慶喜を見る事偶像の如く、何ぞその意に応ぜんや、是を以て止む事を得ず。

    大総督宮と東叡山宮と一戦に及ぶべきか』と。


    渡辺氏黙念たり。



    暫くありて曰く、

    「その事に至りては卒然答え難し」と。

  • >>No. 3140

    参謀曰く、

    「心中正しければ何の恐懼か之有らん、必ず私邪の致す所為り、猶それこれを厳責せよ」と。

    予曰く、

    『諾せり』と。


    翌日参謀復た予を召す。

    至れば渡辺清左衛門席に進んで曰く、

    「彰義隊を鎮撫するの命(めい)数回に及ぶも未だその効を見ず、速やかにこれを処置せよ。然らざれば慶喜恭順の意貫徹せざるなり。」


    予曰く、

    『彼らの所為は決して慶喜の意より出でたるにあらざる事前に云々する所の如し、且つ解除の方に於いて、予が見る所あり。

    然れども蜂巣の乱るるが如く、遽(にわ)かにこれを収むる事易からず、請う暫く猶予せよ。』

  • >>No. 3139

    そのこと口酸を覚える至りても未だ寸効を見ず、且つ彰義隊の予に遇う、或いは無状を以てす。

    隊長などに談ずれば、面前に首肯して退けば否ならず。

    これを要するにその任に当たらざるものの指令なれば兵士に行わるべからず、然れども未だ鎮撫の方なきにあらず。

    予、必ずこれを処置せんと言いしに、西郷参謀又急に予を促して曰く、


    『覚王院の召喚に応ぜざるは不審千万なり、この条如何。』

    予曰く、

    「覚王院は彰義隊等の従惥(しょうゆう)する所となり、むやみに議論を吐くのみにて、己の精神に出るにあらず。然るに一たびその類(たぐい)に与す、故に恐懼する所ありて来たる能わざるなり。」

  • >>No. 3138

    予曰く、

    「彰義隊及び諸隊に於けるその長たるもの皆虚称にして指揮すべからず。故に節制ある事無し。

    主人慶喜をも顧みず、ただ徳川家に報ぜんというに過ぎず。頑冥凝結して遂に空しく東叡山に斃るるのみ。

    然るに数代恩義の覇絆(きづな)に繋がるものすみやかにこの極に至るは、その衷情或いは然らずや。

    而してもし予を官軍の隊長となし、彼の烏合の衆を撃たしむるときは、地形と言い人物と言い明瞭なれば、これを壊滅するは半日を出ず。

    然れどもこの如きは、予、実に憫諒(びんりょう)に勝ちえざるなり、猶精力を尽くして解散を図るべし」

    と答え、そして予は屡々西郷、海江田両参謀に面接して情実を縷述(るじゅつ)し覚王院に諭示す。

  • >>No. 3137

    大総督府より鎮撫の命下る事数回なり。

    西郷参謀の内話により、予、極力をその道に尽くしたれども、彰義隊といい何隊と云うもその挙動をみるに、恰も烏合に似たり。

    隊長は有れども無きが如く、規律立たずして兵士は狂気の如く紛々擾々(ふんぷんじょうじょう)たるのみ、故に修理を以て説諭すべからず、隠遁に日を送りたり。


    一日、大総督府より覚王院を召喚すべきとの命あり、予、覚王院に到りその旨を諭達せしに、ただ諾して果たさず。

    予を大総督府に召し、西郷参謀促して曰く、

    『覚王院を召喚せしに肯して来らざるは何ぞや、近頃彰義隊等の動静を見るに、官兵を殺傷する事数たび、乱逆の蹤蹟(しょうせき)判然たり、故に覚王院の来たらざるを知るべきなり。』

  • >>No. 3136

    予曰く、

    『何をか嘆願するや。その可なる者は宜しく具申すべし。』


    覚王院曰く、

    「他なし、この山に屯集するもの多数なり、日光山に退去するも準備金無きを如何せん、請う二万金を恩賜せられんことを。

    貴殿の義胆を以て這(これこれ)の事情を酌量して上申せられよ。」



    予曰く、

    『後の一条の如きも不可なりと云うにあらず、宜しく具申すべし。』

    以上覚王院と議論多端、寖く局を結び、前条の如く具申に及びしが、その時の都合と云うを以て、彼が請うところの金円を与え難く数日を経過せしに、彰義隊の輩(やから)日に暴行を為し、処々に官兵を殺傷す。

    典刑に於いて許さざる所なり。

  • >>No. 3135

    予曰く、

    『何ぞ前には剛にして後には怯(きょう)なるや、既に決心を示す、今將(は)た何を何をか言わんとす、断然戦うべし。

    予は前幕下の慈仁を伸張せんと欲するのみ。背くものは留めず、諸隊ことごとく背くも予に於いては毫も心を動かさず、命の厚き、飽くまで報ぜざるべからず。』


    覚王院曰く、

    「以上の言語甚だ凶暴に陥るも、皆徳川家累代の鴻恩(こうおん)に報ずるの赤心なり、而して貴殿に於いて愚僧が苦陳する所一つも諒察する事無くば、またこれを如何ともするなし。

    今より蹶然(けつぜん)彰義隊及び諸隊を援引(えんいん)し、日光山に退去して謹慎すべし。」



    予曰く、

    『日光山に退去謹慎の一条は諾せり、必ず偽りなくばその意を具申すべし。』


    覚王院曰く、

    「誓って違えず、日光山に退去謹慎して当宮を衛(まもる)べし。因りて嘆願する所あり、請う情誼を含んで憐察せられよ。」

  • >>No. 3134

    予曰く、

    『ああ然るか、貴僧の思考する処乃ち判然たり。

    専ら宮を衛(まも)るなれば徳川家に与る所なし、果たして前幕下を衛(まもる)なるか。』



    覚王院曰く、

    「然り。」

    予曰く、

    『貴僧の抗弁すでに了せり、予敢えて遏(と)めず、その決答を大総督府に告(も)うさん、彰義隊及び諸隊は徳川家の兵隊に非ずと。

    然る後貴僧の欲する所にしたがい之を指揮して、以て両宮の一戦を心むべし、而してこの戦に於いては、徳川家に関係ある無きの確証を出せ。』


    覚王院曰く、

    「妄りに戦争を好むに非ず、愚僧この大事に遭うや中心切迫して暴論を吐きしなり、その不敬に渉(わた)るものは請う許せ、貴殿一たび去らば踵(きびす)を旋(めぐ)らさず、この山将に戦地となるべし。

    高論或いは感ずる所あり、猶一言を陳ぜん、請う暫く止まれ。」

  • >>No. 3133

    覚王院曰く、

    「貴殿には万国の交際を挙げ内国の事情を説けり。

    聞くが如く貴殿は大目付にして、眼球巨大なる故に、万国と内国の修理明白なるべし、愚僧は山中歴日なしにて世界の形成における絶えて知らざるなり。

    ただ徳川家の盛運を謀るのみ。他事に至りては復た何ぞ管せん。東照宮の神慮如何と顧みれば、愚僧が人間界に在らん限りは執着止むべからず。



    予曰く、

    『僧侶は人を救い乱を治むるを以て慈悲の本願とす。

    知らずや前幕下は人の生命を救い世の無事を祈る事を。

    貴僧は到底我意を張り、東照宮の神慮を矯飾して、その後裔(こうえい)に於いては関せずとするや。』



    覚王院曰く、

    「予は当営に随従す、前幕下に於いては敢えて関せず。

    彰義隊及び諸隊も亦然り、その除たる前幕下の命を以て編成する者に在らじ、これ則(すなわち)宮を衛(まも)るの証(あかし)なり。

    且、貴殿には大総督府宮大総督府宮云々と云わるるが、当宮も宮なり、何の差別か之あらん。」

  • >>No. 3132

    覚王院怫然として曰く、

    「かかる癡言呆語は聴くに耐えざるなり、今日の事名は朝廷と雖も、実は薩長の所為なり。

    貴殿が参謀に応接するも亦薩長に誑惑(きょうわく)せられたるにて、朝廷には非ず。

    貴殿は世世徳川家の御澤に沐浴(もくよく)しながら、一朝これを忘却するか、徳川家祖先もあらかじめ後世にこの事のあるを知り、この山を経営し皇族をこれに主たらしめしなり。

    且一幅の錦旗を日光山に蔵したるは、もし朝廷残暴にして禍乱を作(な)すの変ある時は、当宮を以てこれに易(か)え、万民を安んずるの言あり、貴殿の如き軟弱にして恩を知らざるものは徳川の賊臣にして、これを蜂腰士と云わずや。」

    予曰く

    『前幕下は思慮深遠にして、貴僧の如き頑鈍の者の窺い知る所にあらず。

    朝命に違(たが)い国体を乱す事を恐れ、且つ方今は内国のみの事にあらず、万国の交際多事なり、名は正しくとも言順(した)がわざれば禦侮(ぎょぶ)道立たず。

    況や一朝の忿(いきどおり)を以て数代蒼生(人民)安んぜし積徳の祖宗に汗辱与うべからず、これに於いて貴僧が順逆を弁ぜず是非を分かたず、紛々口吻に任せて罵詈(ばり)極むるも、予は敢えて取らず徹頭徹尾この山に屯集せる兵隊を解散せずんば已まざるなり。』

  • >>No. 3131

    山岡鉄舟 覚王上人と論議の記

    今日公命を奉じ来たる所以のものは、前幕下朝廷に対し恭順謹慎を表せられしに、誰の命ずるありて彰義隊及び諸隊この山に屯集するや、この際嫌疑少なからず覚王院速やかにそれこれを解散せしむべし。

    覚王院曰く、

    「事既にここに至る、何ぞそれ容易ならん、故にいやしくも志あらんものの期せずして相集まり各自主家に報効する所以にして、唯前幕下の為に守衛するに非ず。

    東照宮より歴代の神霊として当宮を警衛するに在り、而してこの危急存兦(ぞんぼう)を座視するに忍びず、これを以て遽(にわか)に諸隊解散の命を奉じ難し。


    予曰く、

    『大総督府参謀と応接すでに終了して、城郭及び海軍軍器等悉く朝廷に献納す、これ則天位を尊び国体を重んずる所以なり。

    抑々(そもそも)徳川家祖先以来殆ど三百年、天下奉平に帰す、その功業徳澤(とくたく)歴々として炳焉(へいえん)たり。

    今これを失墜せざらんと欲せば、君臣の名分を明らかにし、蒼生(そうせい)の艱苦を救わざるべからず、前幕下の至誠これに在り、故にその守衛を除くの外、各自組織する所の兵隊は、決して許すべからず、速やかに解散の命を奉ずべし』

    と。

  • >>No. 3130

    両雄の会話傍人を驚かす

    山岡先生、南洲と刎頸の交わりありしとは世人の知る所なれども、維新後久しく相会せず。

    一日宮内省に於いて相逢う。

    傍人両雄にて何事を談ずるやと聞き居りたるに、南洲突如として曰く、

    『貴君剣に於いては海内無双なり』と。

    『然らばこの南洲の首は斬れ申すか。』


    山岡先生少しく襟を開きその胸辺を指して黙笑するのみにて何の言葉もなし。


    傍人未だその意たるを解すこと能わずと云う。

  • >>No. 3129

    鉄舟西郷南洲を評す

    門下生西郷南洲の伝を読み、その城山没落の際、破裂断四面より来りて隆盛の頭上に開くも更に動ずる気色あらざりしと云うに至りて疑問を生じ、先生に問うて曰く、

    「西郷の剛勇たるは夙(つと)に知れり、然れども破裂弾の頭上に飛散するを意とせざりしと云うに至っては、記者の虚構にあらざるや」と。

    先生喝して曰く、

    『汝ら小人の心を以て英雄を視る故にその疑問あれども、西郷は禅に於いては天地同体の理を悟了せり、また何ぞ破裂弾を恐れんや、しかしこれ等は学得したるもににあらざれば軽々には言い難し、汝らもその境味を知らんと要せば須(すべか)らく学得する所無かるべからず』云々。

  • >>No. 3128

    両士もその時軍監にて陣営を守りながら、卒然その職務を失いたりしを遺憾に思いしと見えたり。


    斯くの如きの形勢なれば、予が輩、鞠躬尽力(きっきゅうじんりょく)して、以て旧主徳川慶喜が君臣の大義を重んずる心を体認し、四カ条の実効を奏し、且つ百般の難件を処置する者、これ即ち予が国家に報ゆる所以の微意なり。
     
     明治十五年三月  山岡鉄太郎誌

  • >>No. 3127

    その時西郷氏従容として笑いつつある間に、その兵は何れかへか去る。全く脱兵と見えたり。

    斯くの如きの勢いなれば、西郷氏応接に来る毎に、余、往き返りを護送す。

    徳川家の兵士議論百端殺気云うべからざるの秋(とき)、もし西郷氏を途中に殺さんと謀るものあれば、余、前約に対し甚だこれを恥ず、万一不慮の変ある時は西郷氏と共に死せんと心に盟(ちか)って護送せり。


    後日大総督府下参謀より、急の御用これあり出頭すべしとの御達しあり、余出頭せりに、村田新八出で来たり。

    『先日官軍の陣営を足下猥(みだり)に通行す、その旨先鋒隊より報知す。我と中村半次郎と足下を跡より追いつき切り殺さんとせしが、足下早くも西郷方へ至り面会せしに依りて切り損じたり。余りに残念さに呼び出しこれを云うのみ。」

    別にご用向きは無しと云う。

    余曰く、

    「それはさもあらん、我は江戸っ児(こ)なり、足は尤も早し、貴君方は田舎者にてノロマ男ゆえ、余が速きにはとても及ぶまじ。」

    と云うて共に大笑いして別れたり。

  • >>No. 3126

    旧主徳川慶喜の歓喜言語を以て言うべからず。直ちに江戸市中に布告をなしたり。


    その大意は斯くの如し

    「大総督府下西郷吉之助殿へ応接相済み、恭順謹慎実効相立ち候上は、寛典の御処置相成り候に付、市中一同動揺致さず、家業致すべし」

    との高札を江戸市中に立て、これに於いて市中の人民少しく安堵の色あり。


    これより後、西郷氏江戸に着し高輪薩邸に於いて西郷氏に勝安房と、余と相会し、共に前日約せし四カ条必ず実効を奏すべしと誓約す。

    故に西郷氏承諾進軍を止む。



    この時徳川家の脱兵なるか軍装をせし者同邸なる後ろの海に小舟七八艘に乗込み、およそ五十人ばかり同邸に向かい寄せ来たる。


    西郷氏に付属の兵士、事の出来るを驚き奔走す。

    安房もこれを見て如何なる事かと思いたり。

    西郷氏神色自若、余に向かい笑って曰く、

    『私が殺されると兵隊がフルイマス。』

    と云いたり。

    その言の確乎として不動なる事まことに感ずべし。



    …(今氏は国賊の汚名を受けて地下に葬られたりと雖も、余、仄(ひそか)に往時を挽回して知己の念に堪えず、この人必ず死する人にあらず、嗚呼)

  • >>No. 3125

    官軍先鋒既に同駅に在り、番兵余に馬を止めよと云う。聞かずして行く。

    急に三名走り来たり、一人が余が乗りたる馬の平首に銃を当て、胸間に向け放発せり。

    奇なるか哉発して弾丸発せず、益満驚いて馬より下り、その兵の持ちたる銃を打ち落とし、西郷氏に応接の云々を示すに聞かず。

    伍長体の人出で来たり(後に聞く薩藩山本某という人なり)その兵士を諭し不服ながら退く。

    もし銃弾発すれば其処にて死すべし。幸いに天の余が生命を保護する所ならんかと。

    益満と共に馬上に談じ急ぎ江戸城に帰り、即大総督府宮より御下げの五箇条、西郷氏と約せし云々を詳らかに参政大久保一翁、軍事総裁勝安房に示す。

    両氏その他の重臣等、官軍と徳川との間の事情貫徹せし事を喜べり。

  • >>No. 3124

    西郷氏余に云う、

    『先生官軍の陣営を破り此処に来たる、縛するは勿論なれども縛せず』と。

    余答えて曰く、

    「縛に就くは余が望む処、早く縛すべし」と。

    西郷氏笑って曰く、

    『先ず酒を酌まん』と。

    数盃を傾け、暇(おいとま)を告げれば、西郷氏大総督府陣営通行の苻を与う、これを請けて去る。


    帰路急行、余、神奈川駅を過ぐる頃乗馬五六匹を牽行あり、何れの馬なるかと尋ねしに、江川太郎左衛門より出す処の官軍用馬なりと。


    「余は官軍なりその馬に二匹を借りるべし」と。

    直ちに益満と共にその馬に跨り馳せて品川駅に至る。

  • >>No. 3123

    西郷氏曰く、

    『朝命なり』と。

    余曰く、

    「たとい朝命なりと雖も拙者に於いて決して承伏せざるなり」

    と断言す。


    西郷氏又強いて

    『朝命なり』と云う。

    余曰く、

    「然らば先生と余とその位置を易(か)えて之を論ぜん、先生の主人島津公もし誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征伐の日に当たり、その君恭順謹慎の時に及んで、先生、余が任に居り、主家の為尽力するに当たり、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生その命を奉載し速やかにその君を差し出し、安閑として傍観する事君臣の情先生の義に於いて如何ぞや、この儀に於いては、鉄太郎決して忍ぶ事能技る所なり」

    と激論せり。

    西郷氏黙然暫しありて曰く、

    『先生の説最然なり、然らば徳川慶喜殿の事に於いては、吉之助屹度引受取計らうべし、先生必ず心痛する事なかれ。』

    と誓約せり。

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