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投稿コメント一覧 (544コメント)

  • >>No. 1869

    >会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、
    勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

    >「三日松平容堂上書して…会桑遅速に拘らず、一日も早く上京の御沙汰ありたしと奏請したれども、会桑帰国の儀早々慮置に及びたる後、徳川内府上京のやう御内命なり」(徳川慶喜公伝)
     このように、会桑をさっさと追い返して、それから慶喜に上京せよというのが結論だ。

    上記の簑田宛西郷書簡の日付や上記の徳川慶喜公伝の資料を改竄しておるが、なぜそのようにするのかね?

  • >>No. 1860

    >何度同じ事を言わせるの?
     慶喜では、幕府の沸騰を抑えられないと言う事だ。あるいは、慶喜が幕臣の沸騰を裏で操っているかもしれんが。何にしても鳥羽伏見の戦いは不可避だったと言う事だ。

    12月22日、朝廷は「徳川内府宇内之形勢ヲ察シ政権ヲ奉帰候ニ付キ、朝廷ニ於テ万機御裁決候ニ付テハ、博ク天下之公儀ヲトリ偏党ノ私ナキヲ以テ衆心ト休威ヲ同フシ、徳川祖先ノ制度美事良法ハ其侭被差置、御変更無之之候間、列藩此聖意ヲ体シ、心付候儀ハ不憚忌諱極言高論シテ救縄補正ニ力ヲ尽シ、上勤王ノ実効ヲ顕シ下民人ノ心ヲ失ナハス、皇国ヲシテ一地球中ニ冠超セシムル様淬励可致旨御沙汰候事」を命じます。

    現代語訳
    「徳川内府は国内の形勢を察し 政権をお返しし奉るについて、朝廷においてすべてを御裁決なさるについては、広く天下の公儀をとり一定の立場に偏って私心のないことを以て、民心と喜びも悲しみも共にし、徳川祖先の制度の美事良法はそのままにして置かれて、御変更なさることはないので、列藩はこの天皇の意志に留意し、気がついた事があれば憚忌のない意見を述べ議論して救縄補正に力を尽くし、上に対しては勤王の実効を顕し、下に対しては民人の心を失なわず、日本国をしてこの地球上に傑出した国とするよう つとめはげむべきことを御沙汰する事」

    12月9日、西鄕らが御所を軍事的に制圧して、徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、京都守護職・京都所司代の廃止、幕府の廃止、摂政・関白の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職の設置を命じます。西鄕らは徳川慶喜だけ役職もすべて返上し、領地も差し出すことを要求しています。(王政復古の大号令)
    ところが、賊の思惑である「王政復古の大号令」が上記のように完璧に失敗、偽勅による賊の政府転覆の陰謀が未遂に終わったことだけは、教育というものの良心に従って明瞭に教えるべきであろう。それはさておき、12月22日の時点で、上記のように朝廷と慶喜との間には、争うべきものは無くなっておるので、「鳥羽伏見の戦いは不可避だったと言う事」にはならんと思う。

  • >>No. 1852

    >いつ?また嘘かね。

    慶応四年一月二日に開かれた廟議の席で、慶喜が議定職への就任が内定して、慶喜が再上洛して来る前に、賊らが会桑両藩の帰国を強く求めた主張は拒否されておる。この時、追い詰められた大久保は慶喜との対決を決意し、その旨を盟友の西郷と岩倉具視に、それぞれ伝えておる。だから、1月3日、慶喜の新政府入りに備えて上洛して来た徳川軍に対し、薩摩側から攻撃が仕掛けられ戦闘が始まったのは、至極当然の成り行きであったのだ。 

    >「前に、朝廷から軽装で、私に上京しろということであった。軽装で行くというなら、残らず行けという勢いで、そこへ尚上京しろという命令があったから、これ幸い、先共でこざると言って出てきた。」
    「その時の此の方の言い分というものは、上京しろとおっしゃったから上京するのだ、それをならぬと言うのは、朝命違反だと言う。向こうの言い分は、上京するなら上京するで宜しいが、甲冑を着て上京するに及ばぬ、それだから撃ったと斯う言う。それはつまり喧嘩だ。」(昔夢会筆記)

    この時は薩長政府の天下であるので、慶喜の真意を表すことは出来るものでない。だから、マンガチックに言葉を濁して述べたと思うが。

    > 薩長とも、闕下を血で貶すことはせんよ。というか、現実にそんなことはしていない。

    政府軍がどんどん増強される形勢の中で、慶喜が有利な諸侯会議が開かれるのを待ってはいられないので、その機先を制して動いたのである。西郷らは次のように政府転覆の叛乱計画を12月2日に述べている。慶喜から出ている征夷大将軍の辞表を勅許する。京都守護職•京都所司代なども退職、蛤御門の警衛を免除する。幕府の采地を削減して、議事院の給費に当てる。有栖川親王を大政の総栽とする。議定という職を置く、土州•薩州•芸州•尾州•越前などの諸藩を諸門御警衛とし、当日、異論を起こす者を討。

  • >>No. 1851

    >その根拠は?オタクの脳内妄想でなく、何か根拠資料でもあるのかね?
    >幕府は、治安維持には不必要なほど、京阪に兵を集めていると言う事だ。そして、その引き金は慶喜の大政奉還だ。
     それはいいとして「西鄕らの逆賊連合軍を権勢して、朝廷をお守りするためです。」という根拠は?誰の日記?それとも書簡かな?ともかく原文を提示してくれ。
     それとも、これはオタクの口から出まかせ?

    西鄕らは大政奉還直後、偽勅を作り叛乱の兵を集めるために、走り回っておるし、さらには朝敵長州と手を組んで、玉を奪う朝廷転覆の叛乱計画を立ておるからだよ。

    > 話をそらさないように。オタクは、「12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?」と見当はずれのレスをした。

    「只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候」の書簡の12月21日の日付が間違っておらんか。

    > 大政奉還後から、再三にわたって浪士を止めているが。西郷自身は途中、11月23日まで京都を留守にしたが、再度上洛したのちの12月に入っても、念押しで活動を制止している。

    西郷は浪士団に活動停止を命じておらんし、江戸には密偵を配置しておるから江戸ことは、すべて承知なはずである。

    > オタクの粗雑な幕末の噺からみて、明治以後の噺はさらに浮世離れするんだろうな。
     明治維新がなかったら、日本がどうなったか。それは、清国を見ればわかる。ああなった。清国と江戸幕府って、似ているんだよ。
     特に、清国に比べて、日本は国としてのスペックが低い。だから江戸幕府が続いていたら、清国以上にたいへんなことになったかもしれない。

    江戸幕府は慶喜の大政奉還で無くなっておるよ。

  • >>No. 1841

    > 幕府は、大政奉還し、徳川家は一大名になっている。警察権もなく大名への指揮権も無い。その状態で、薩摩藩の藩邸を攻撃するのは、特別な権限を付与されてないなら、完全な私闘だね。もちろん鳥羽伏見の戦いも同じことだが。

    薩摩藩邸の攻撃は治安維持のためで、特別な権限はいらんよ。鳥羽伏見は天子を道具の一部として扱っておる反乱賊の退治のためだから私闘とは言わんと思うが。

    > 薩摩藩では、大政奉還以後、一貫して江戸の浪士団に活動停止を命じているがね。それを聞かなかったのは、浪士だ。

    西郷は浪士団に活動停止を命じておらんし、江戸には密偵を配置しておるから江戸のことはすべて承知なはずである。

    >すでに会桑や幕臣は抑えようも無いほど興奮していた。慶喜自身が抑えても、抑えきれなかったから、慶喜は会桑を連れて、京都から大阪にくだらざるを得なかった。このように江戸の騒動がなくても、戦闘回避の可能性は限りなく低い。

    西郷らの反乱政府内部でも、慶喜の誠意を認める大勢が多数を占めておるから、西郷の謀略がなければ、戦争する理由はなくなっておる。そして、膨張主義でない、日本の実情にあった近代化が進められ、象徴天皇という本来の国が生まれたと思うが。

    > 慶喜が新政府の中で一定の地位を得ているなら、当然彼自身は京都にいるべきだよな。それができないほど、幕臣がいきり立っていたわけだ。

    反乱の賊軍がおるのに、常識で考えてもできるわけがなかろう。

    > そもそも解任、帰国命令が朝廷から出ていた会津、桑名は、公然と朝廷の命令に逆らっている。それを慶喜がどうすることもできなかった。

    それは撤回されておるよ。

    >ただし大政奉還の時点では、御所を固めていたのは会津桑名で、在京の兵力では、幕府が圧倒している。ちなみに、この兵力差は、鳥羽伏見の戦いまで変わらない。
     
    だからどうだというのかね???

    > ちなみに大政奉還を聞いた江戸では大混乱だ。

    あたりまえだ。
    それがなんだというのかね?

    > 幕臣の慶喜に対する不信感はピークに達している。

    それで?

  • >>No. 1840

    > 西郷は、薩摩藩の利害関係を計算しなければならない要職にある。和戦両にらみで戦略を立てているんだよ。「戦闘ありき」なんて幼稚な男ではない。

    御所占拠の反乱計画は「戦闘ありき」の前提でたてておるよ。

     >慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組織を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。
     もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。

    慶喜は反乱軍と違い宮禁を血でけなすことはせんのだよ。

    > 幕府軍の増援は、10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京、そして28日には陸軍奉行石川総管が幕府歩兵を率いて大阪に向かった。
     一方西郷、大久保、小松は10月17日に京を離れ、再び帰ったのは11月23日だ。この間、西郷らは京都にいなかったわけで。「鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておる」と言うのは、全くの嘘、口から出まかせもいいところ。

    大政奉還直後、逆賊長州と手を組んで、玉を奪う政府転覆の計画を立て、実行しておるよ。

    >慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

    当たり前だ。でも、天子を道具の一部と扱っておる賊軍とちがい会桑は尊王に厚いので闕下を血で貶すことはせんよ。

     >一体、以下の事実の中で、どの日付けが間違っているのかね。必死のおとぼけ、ご苦労

    脳内健忘症におかされておるのか?
    「只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候」の書簡の日付が間違っておらんか。

  • >>No. 1837

    >かろうじて抑えているが、会桑もその他の幕臣も、ちっとも治らんではないか。
     それどころか、幕府側は12月半ばの段階で、完全にやる気で、新政府側を威嚇している。

    それは西鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておるからだと思う。

    >土佐藩の後藤象二郎は、12月16日、二条城に永井玄葉(二条城留守居役)を訪問して会見した。
     その時の永井は「朝廷、過ちを悔い、九日巳前へ返し候はば、それよりまた仕方もこれあるべく、カ様なる不都合を工み出し候根元は、二賊の所爲に候へば、彼二賊を除き候事、方今の急務、大蔵大輔様にもここを御心配下され度く、薩邸に打ち込む勢いは十分にこれあり。少しにても激し候へば、直様暴発致すべし」という有様だった。
    小御所会議の結果を白紙にしろ、さもなくば暴発するぞって、完全に脅迫だよな。それも下っ端ではない。幕府の高官が、土佐の後藤象二郎に向けて言ったわけで。
      >いくら慶喜が抑えても、これが慶喜の本心だと言われても仕方がない。
     慶喜の本心は違っているとすれば、幕府高官でさえ慶喜の意向を無視して、朝廷を脅迫している。慶喜が、幕府をちっとも統制できていないことになる。
     幕府はやる気満々であり、これでは新政府側が全く戦闘の準備を放棄できるはずがないでないか。

    賊が戦闘の準備を放棄するとは考えられんよ。それが賊というものだよ!

     > 小さなボタンの掛け違いや突発事案の積み重ねで、双方のテンションが嵩じて、戦争という大爆発に繋がるんだよ。

    まるで自然の噴火だね!
    君には歴史はいらんと思うが。

    > 一人の悪の黒幕が戦争を引き起こすというのは、三文芝居の世界だけ。オタクの話は、素人じみた時代小説もどきであって、歴史ではない。

    あそう~
    では君が思っている歴史とはなにかね?

    > つまり『「薩摩も長州も、和戦両にらみで動いている」わけではなし、薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。』というオタクの噺が、トンデモな妄想だった。それがわかればよろしい。ようやく理解しえたね! あめでとう!

    脳内妄想で、自己満足しておるのか?

  • >>No. 1826

    > もっとも大阪には関東から続々と増援軍が来ている。しかも大政奉還直後から、増援は続いている。慶喜が下坂すればこれらと合流できるわけ。慶喜の中に、戦闘の意図が全く無いとは言えないよね。

    西鄕らの逆賊が宮禁を占拠しておるからでしょう。

    > だから西郷にとっては、軍事作戦は、情勢によって放棄してもいいものだ。
    > 西郷にとっては、「戦闘ありき」ではなく、目的が達成できればどうしても行使する必要はない。

    誰でもそうですが。なにか?

    > とぼけても無駄だな。

    日付が間違っておらんか!

    > これまで当方は、大政奉還(10月14日)から鳥羽伏見の戦いまで、幕府側は混乱していた。そして、会桑ら強硬派は、ともすれば慶喜の意に従わず、戦いを欲求していたということ。12月に入っても、それが続いている。

    慶喜はそれを押さえておるよ!
     
    > 幕府がこうだから、新政府側が全く戦闘の準備を放棄できるはずがないでないか。

    君の言う新政府とは、天子を「玉」とか「たま」とか、挙げ句の果て「○」とかいう記号で表して天子を道具の一部として扱っておる西鄕らが作った政府のことですか?

  • >>No. 1820

    > その慶喜が、大政奉還直後から、江戸の幕軍を呼び寄せているのはなぜ?

    西鄕らの逆賊連合軍を牽制して、朝廷をお守りするためです。

     >それに、慶喜が幕府の支持を失い、幕軍が沸き立っていたのはすでに提示した史料の通りだ。

    は~
    どちらの史料ですか??

     >私闘でないなら、政府からの命令があるはず。その史料を提示してくれるかね?これがオタクの口から出まかせでないなら、当然提示できるよね。

    盗賊を取り締まるのに、いちいち「政府からの命令」はいらんよ!

    > そもそも大名の藩邸には、幕府全盛時代でも介入できないよ。それを、大政奉還後に焼き討ちするとすれば、旧幕府側の大名が、薩摩藩に戦争を仕掛けたことになる。

    薩摩藩の実質指導者である西鄕から徳川を挑発する使命を受け、伊牟田尚平、益満休之助を盗賊の取りまとめ役として江戸へ下らせている。この薩摩藩賊徒は江戸城の後閣に放火してことごとく炎上させ、さらに、市中取締の兵営を攻撃している。この応戦により、芝三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ薩摩藩賊徒らの犯人の引渡を求めたが、薩摩側が拒否したことにより起こったものである。江戸市民を恐怖に陥れていた薩摩藩のテロ行為にたいしての取り締まり一環としてなされたものであるので私闘とは言わんよ。しかし、薩摩藩はこれにより徳川との決戦に藩論が纏った。つまり、西郷らの陰謀によって、公儀政体派の慎重論に薩摩藩の藩論が変わっていたのが、徳川との決戦に誘導されたということでしょう。徳川家に対して戦争を仕掛けた西鄕らの陰謀により、鳥羽伏見の戦いが始まったといえる。

    > 慶喜が上洛するのに、完全武装の大軍を引き連れてこいなんて詔勅は出ていない。そして北上する幕軍の主力は会桑藩軍だが、この二藩には帰国命令が出ていたよ。それを無視して完全武装で上洛を強行する以上、天子を蔑ろしていること甚だしい。どう見ても彼らは逆賊である。W

    その「帰国命令」はいつ発令されたのですか?

    > 慶喜が大政奉還したにもかかわらず、松平容保がこの段階でもなお長州征伐を公言していること自体、慶喜が幕府組織を統制できていない証拠だよ。そして会桑を統制しかねるからこそ、自らが直率して大阪に引き下げざるを得なかった。

    自らが直率して大阪に引き下げておるから、慶喜が統制している証拠だよ。

  • >>No. 1808

    >それに、オタクは、『西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。』ということで、本当にいいのかね?

    慶喜が朝廷に大政奉還して、朝廷による新しい日本が始まっておる。そして将軍職も返している。朝廷は10月22日、諸大名が上京してくるまで、外国の事情に精通している「両三藩」と申し合わせて外交問題を処理せよ、という指示を下した。25日には慶喜は将軍職も返したが、朝廷は、諸大名が上京してくるまでは、慶喜に政務を一時委任するという指令を発している。さらに朝廷は10月21日に「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮を加う」という指令も撤回した。そして慶喜はこのすべての天子の命を遵守している。しかし、一方、西鄕らは天子を「玉」とか「たま」とか、挙げ句の果て「○」とかいう記号で表していることから分かるように、天子を道具の一部として扱っており、天子を蔑ろしていること甚だしい。どう見ても彼らは逆賊である。

    > そうなれば薩摩藩藩邸の焼き討ちは、大名同士の私闘になる。そして鳥羽伏見の戦いは、政府に対する反乱になる。

    薩摩藩藩邸の焼き討ちは、西鄕の謀略によって盗賊らの巣となっていた薩摩江戸藩邸に彼らを引き渡わすように求めたが、薩摩側が拒否したことにより起こったもので、「大名同士の私闘」とは言わんよ。鳥羽伏見の戦いも、慶喜が詔勅により入朝するための先触れの兵に薩摩藩がいきなり大砲をぶっ放なしたことで、仕方が無く武門の習いで起きたものであるので、「反乱」とは違うと思う。勿論どちらも「私闘」とみる見解もあるがね!

    >オタクとしては、絶対にあってはならないことじゃないのか。w

    そんなものはありゃせんよ!
    強いて言えば、君の資料にたいするピント外れの解説です。

  • >>No. 1806

    >まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)
     会桑に関しては、12月21日付け、簑田宛西郷書簡において「…勤皇の兵、追々出来、勢い盛大に罷り也申し候。只今は会桑両藩限りにて外は傍観の姿に御座候。…」ともある。

    ???

    「12月2日」と「12月21日」付けのだいぶ日付けがあいている資料をもってなにを言いたいのかね?(日付 ?)

    >まず、慶喜その人は、長州藩の上洛を許容していた。12月2日の朝議で、長州藩が大阪にとどまることは承認された。長州藩をめぐる情勢は好転しつつあった。 しかし、会津はこれに反対していた。(嵯峨実愛手記、丁卯日記)

    松平慶永は12月5日、慶喜にニ条城で対面し、何としても会津を抑えるよう求めた。その要請に応じて慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせている。さらに同日、慶喜は慶永に対して、朝廷が長州藩に寛大な処置を下しても異存はない旨を伝えておるよ。

    >オタクは、日本の歴史に疎いようだね。現実の歴史では、慶喜も松平容保(会津)も定敬(桑名)も誅殺されていないんだよ。

    アホか!
    それは西鄕らが用意した名目だよ。強いて言えば、兵を叱咤するかけ声のようなものです。気持ちだよ。だから、実際取消になっても別に構わんのだ。

    > しかし慶応3年11月の段階では、慶喜が大政奉還を宣言しただけ。幕府陸海軍も、幕府側に立つ大名群も多数いる。しかもその幕府勢力を、慶喜は統制できていない以上、戦闘という選択肢は放棄できないのは当然だ。

    上記のように慶喜は松平容保を叱責し、長州藩討伐を求める朝廷へのエ作を止めさせているので、「慶喜は統制できていない」とは、なにかの間違いであろう。

  • >>No. 1801

    > 事態は、新政府側も幕府側も、複雑を極めている。平和一辺倒なら戦争が回避できたというお花畑の妄想は、現実世界では通用しない。まあ、どっちにしろ戊辰戦争を回避できた可能性は、限りなく低いがね。

    複雑ではない、簡単である。現実世界では、たんなる指導権争いである。
    武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたので、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相 桑名中将に「誅戮」をくわえるには、「一ト通リ条理ヲ立テ」る新たなる段取りが必要になったのだ。つまり名目だよ。

    >別に薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?

    幕府は消滅しておるよ!

    >ようやく理解しえたね!

    残念です!

  • >>No. 1793

    > 薩摩藩として軍を上洛させる以上、当然に戦闘を覚悟している。そのための薩長芸の協議をした。
     しかし、同盟軍である芸州は、これより先に動いている。10月16日に芸州軍500が状況している。つまり西郷、小松が帰国し、久光らの御前会議をしている間も、事態は動いている。
     そして既述の通り10月、11月の間も在京幕府軍の増強が続いており、戦闘の危険性は高まっている。
     有事に対する備えの必要性は高まっている。ただし、軍事力を発動するかどうかとは別物だ。薩長芸にとって、絶対戦闘ありきではない。薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われていない。
     長州の品川弥二郎は、島津茂久や西郷の乗る薩摩軍船に同乗させてもらって、上洛して情勢探索をしている。
     11月27日付けで報告書を国許に送っている。その中で「火急二一発ト申訳二参サル」「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付イテハ一ト通リ条理ヲ立テ、其上聞サル時ハ、コノ前ノ秘書通リ御事ノヨシ…」と書いている。
     薩摩も長州も、和戦両にらみで動いているんだよ。

    「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮を加う」という戦闘の名目が「将軍、大政ヲ朝廷へ帰シ候二付」「火急二一発ト申訳二参サル」になった。そこで、「一ト通リ条理ヲ立テ」新たなる戦闘する名目が必要になったのだ。
    つまり慶喜を「殄戮」して、さらに会津宰相と桑名中将を「誅戮」するという西鄕らの武力をもってでも打倒を目指した幕府は消滅していたからです。これが「薩摩軍の増援部隊が到着して以後も、戦闘は行われ」なかった理由です。だから、「薩摩も長州も、和戦両にらみで動いている」わけではなし、薩長芸にとって、「賊臣慶喜を殄戮せよ」さらに会津宰相、桑名中将に「誅戮」を加えよとすれば「戦闘ありき」でなければならんのだ。

  • >>No. 1790

    >久光が代理として送り出した茂久は長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して上洛する。

    >>「長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して」とは何ですか?それはいつ取り決めをしたのですか?取り決めのその実際の内容はどのようなものですか?

    > 11月18日に三田尻で長州藩世子の広封と茂久の両人が面会を果たします。つまり薩長両藩トップが初めて対面した、この日に、薩・長・芸の三藩の軍勢で大阪を占拠したあと、薩摩藩がその軍力によって御所を制圧し、天皇の身柄を確保する。そのあと長州藩兵が上洛するという政府転覆の反乱計画を取り決めます。
    慶応三年十一月十八日、長州藩の海の玄関三田尻では、「薩長芸三藩出兵同盟」が約定されていた。
    一、三藩とも浪華根拠のこと。
    一、根拠守衛、薩藩ニ小隊へ長芸のうち相加へ候事。
    一、薩侯御一手は京師を専任とす。
    一、長芸のうち一藩、京師を応援す。
    一、薩侯御著坂二十一日にて、二十三日御入京。(長州藩は)廿六日、三田尻出浮(輸送船上)の兵出帆、西之宮著。薩藩より京師の模様報知の上、進入の・。
    一、○義は山崎路よ西之宮へ脱、詰まり芸州までの事。(維新史 第五巻)
    最後の項目の○は、マルでは なく、タマないしはギョクの符号である。事がうまく運ばなかった場合には、玉体を擁して京都 から山崎を経て西宮へ脱出し、船に乗せて海路広島へ拉し去るという「奪玉」の計画である。


    ようやく理解しえたね!

    あめでとう!

  • >>No. 1780

    >・・この事態を受けて、慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。」

    「慶喜との政治的妥協の可能性を最終的に断念した久光の決断により、薩摩藩指導部は武力倒幕路線を確定する。」のは、いつですか?
    その時の薩摩藩指導部とは、だれだれですか?
    その会議の内容は?
    「久光の決断」であった歴史的資料はなんですか?

    >そして、久光が代理として送り出した茂久は長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して上洛する。

    「長州、芸州と戦闘勃発時の協力を約して」とは何ですか?
    それはいつ取り決めをしたのですか?
    取り決めのその実際の内容はどのようなものですか?

    >別に薩摩藩の動きに変動はない。幕府との決別、新政府の確立という大戦略はいささかも変わっていませんが、何か?

    それは政府に対する反乱ですね。

    > 幕府を倒し、新政府を樹立するのに、和戦両睨みの柔軟な戦略を駆使するのは、久光にしろ西郷にしろ、同じだ。

    では、久光と西郷は反乱の首謀者ですね!

    >根本的なことを言えは、800万石の直轄領と分厚い譜代大名をもつ幕府が、たかが薩長主体の勢力に押されまくって、結局潰れざるを得なかった。そこまで失政を重ね、衰弱していた。
     幕府は第一次長州征伐から鳥羽伏見まで、圧倒的優勢の軍事力を持って戦いに臨み、しかも敗れた。

    根本的なことを言えば明治維新とは統治経験がない少数の若者らによって日本をダメにしただけだ。

    >慶喜にしても、この動きを全く制止していない。まあ制止できなかったのかもしれないが、いずれにしても新政府、幕府双方とも可燃性の高い状態にあった。この時点でも、在京薩摩藩では、江戸の別働隊(後方かく乱用の浪士団)の動きを静止している。

    慶喜が大政奉還の考えを表明したとき、その実現に向けてことさら尽力したのが、薩摩側です。だから、薩摩側に戦う戦意は無くなっている。だが西郷と大久保と君は別だがね。


    >「政府転覆の反乱」などではない。大政奉還した後に、慶喜の統制を離れた幕府急進派が攻撃を仕掛ける場合の対策だ。

    政府転覆の反乱でなければ、なんというのかね?

    >だから、兵を上洛させた時点では何ら戦闘は起きていない。

    戦かう名分が無くなてしもたからです。戦かうには名分が必要です。名分がなければ、兵たちに戦う気力は生まれんからね。

  • >>No. 1772

    >長州藩との協議は、藩主の島津茂久や家老の島津伊勢も列席している。また薩長以外に芸州藩も加わっている。一方、大久保は長州に寄らず土佐を経て先に京都に行っている。
     長州にいる西郷が暴走したって、彼だけで薩摩、長州、芸州の三藩をまとめてリードできるはずがないじゃないか。

    「薩摩藩の本意でないなら」ですが???
    いずれにしても、11月18日に三田尻で長州藩世子の広封と茂久の両人が面会を果たします。つまり薩長両藩トップが初めて対面した、この日に、薩・長・芸の三藩の軍勢で大阪を占拠したあと、薩摩藩がその軍力によって御所を制圧し、天皇の身柄を確保する。そのあと長州藩兵が上洛するという政府転覆の反乱計画を取り決めます。

    >旧幕府側は、10月の大政奉還直後から江戸にいる陸海軍や諸藩の軍事力を上げて、戦争に動き出している。その一環として薩摩藩江戸屋敷の焼き討ちがあり、幕府側のやる気は新政府側にも伝わっている。

    薩摩藩江戸屋敷の焼き討ち前は、慶喜の努力により戦いは回避されていた。12月23日の三職会議の沙汰書で、辞官納地について領地返上を求めない内容に修正され、諸侯も新政府に応分の差出を行なうこととなり、慶喜の議定就任の内定も確定している。その政府の決定を慶喜は受け入れているで、両者とも戦争する名分は無くなっている。勿論、西鄕と大久保と君は別だがね。

    >久光はバカではないし、また実質的な藩主として、薩摩藩を統制している。

    慶応丁卯の夏、更に上京す、料らすも脚気の病に罹り、永く滞京する能はす、……季秋に至り病勢愈加り、終に腰脚瘘痺寸歩も行かす、時勢日に紛擾に赴と雖とも……已を得す請て藩に帰る、爾来荏苒病蓐に在り……」(島津久光「謹上書」)

    これは、久光自身が明治7年に振り返った話です。慶応三年下半期以降体調を崩し、彼の気力が衰えていたこと示すもので、この時点で、久光の意思に基づく藩の最高方針決定を原理とする薩摩藩の在り方に大きな変化が生じたのである。

    >オタクの話は安っぽい。戊辰戦争への流れを、西郷という一人の人間に起因するという。小説、演劇の世界ではそれで十分だが、歴史という学問では通用しない。

    おいおい、「西郷という一人の人間に起因する」とはおかしなことを言うね。
    そんなアホなことを言うわけはなかろう。いつもの病気がでているぞ!

  • >>No. 1753

    >小松も西郷も久光も、軍事力は手段であって、目的ではない。状況に応じて切るカードの一枚だ。だから久光は、西郷を再度上洛させたのであり、また軍も上洛させている。彼らは幕府軍の動向如何で戦争になるか回避できるかを慎重に見極めようとしていた。
    > しかし上記の通り幕府側は、軍事対決を目指して動いている。それが慶喜の本意でないなら、幕軍は慶喜を捨てて暴走し始めたということだ。

    西郷らの軍勢は上洛の途中、三田尻で長州藩と会談して、薩・長・芸の三藩の軍勢で大阪を占拠したあと、薩摩藩がその軍力によって御所を制圧し、そのあと長州藩兵が上洛するという政府転覆の反乱計画を取り決めておる。だから、「彼らは幕府軍の動向如何で戦争になるか回避できるかを慎重に見極めようとしていた。」とはならん。
    つまり、西郷らは上記の通り、新政府転覆の反乱計画を取り決めて軍事対決を目指して動いている。それが薩摩藩の本意でないなら、病状の久光と小松の目が届かなくなることで、西郷らが暴走し始めたということだ。よって慶喜は新政府に将軍職に再任されておるので、西郷らの暴走し始めた政府転覆の反乱を未然に防ぐため、軍の増強は当然といえよう。

    >江戸時代の西郷は、殿様に引き立たられた藩重役だ。西郷が要職にあるのは殿様の引き立てによるもので「尊皇の若者ら」の支持は全く関係ない。

    薩摩藩は藩主の権限は強力であり、とくに国父島津久光は、大久保もその一員であった藩士たちの尊王攘夷派の誠忠組が文久2年の春、久光の意向を無視して行動しようとしたとき、これを徹底的に弾圧するなど、その苛烈な指導力を発揮した。
    薩摩藩の大久保は、そうした久光の意向や性向を熟慮のうえ、久光の把握する藩権力を通して遂行すべく、逆に誠忠組の若者らの突き上げを利用するという巧みな操作で藩内の権力の座を手に入れたのである。

    おまけ

    >そもそも薩摩藩邸焼き討ちは、公然たる戦争行為だから、密偵など使わなくても噂は広まるよ。

    谷は西鄕曰く「江戸の報は薩の未た来らせれは」というておる。

  • >>No. 1746

    > それはおたくの方だ。慶応四年一月一日付西郷書簡で、薩摩藩江戸屋敷の焼き討ち事件の報告を受けた西郷が、江戸の事件に狼狽していることが証明されている。それをおたくは何の根拠もなく、一方的に否定している。

    西郷から急使が来て、谷は西郷の下に駆けつけた。その時の模様を、谷は次のように記している。「二十八日に至り西郷より急使来る。余直に行く。西郷莞爾として日く、はじまりました、至急乾君に御通じなされよ。」谷は次のように続けている。
    「去二十五日、庄内、上の山の兵、三田の藩邸を砲撃し、邸は已に灰燼と成り、兵端已に彼れより開く。寸時も猶予すべからず、と。」谷に、西郷は、「此度は中々二十日や三十日にて始末の附く事にあらず、一刻も早く行かるべし」、と答えている。この時点で西郷は、鳥羽・伏見の一戦だけではなく、本格的な戊辰戦争を想定していたのである。

    「・・・併し計画は予てあられたと見えますけれども二十日(25日)江戸邸の焼撃の為に此の伏見の戦端はひらけましたのでありますと云はれて、大層喜ばれてござりましたが、此の二十五日の事は予て配って置いた探索方の手元より二十八日に通知がありました、三十日には江戸の閣老より大阪の将軍家に出した届書の写が手に入って、是は亊に成るわいと思って心構へ して居ると昨日より今日の事になったのであると云はれました亊でありました。・・・」(明治26年3月23日 吉川竹次郎速記)西鄕は江戸に探索方を配って置いていたのであるから、すべて承知していたと言える。

    市来君の言葉によれば三田屋敷の留守居役、添役、監察など貴任者は俗吏の者を除けて有志の者(尊王討幕の賛成者か)を嵌め込んであり、浪士隊が充分活動できるようできるだけ力を尽したとのべている。さらに、落合君は「小島四郎は京都に於て西郷氏に度々逢ひ事を謀りまして・・・既に此間も申しました益満休之助、伊牟田尚平との二人が参りまして人を集めし前よりして、此江戸に人を集めます事を計画して居りましたのは此小島四郎の一人で御座りまして、是は予て承知して居た様子でございました。」というておる。

  • >>No. 1739

    >戦争責任に絞れば、幕府にも薩摩にも原因はある。というより、戦争は一方が熱望して起こるものではなく、双方の加熱による事態の悪化が引き起こすものだ。
    >繰り返すと、戊辰戦争への道は、新政府と旧幕府の相互作用で高まっていった。
    > 大政奉還の混乱の中で、戦争回避という可能性は限りなく低い。幕府側も新政府側も、京阪に兵力の集中を行なった。
    11月13日、薩摩藩主島津茂久は、西郷らを帯同の上、4隻の軍艦に1000名を分譲させ上洛。その主力艦は、11月8日に購入したばかりの春日(1015t)だ。そして長州藩も、陸路と海路で約3000名が兵庫入りをした。
    > 一方、10月下旬には幕府側も、軍を上洛させた。10月19日、洋式陸軍の歩騎砲兵3個大隊に、遊撃隊120名が進発。10月24日には、老中稲葉正巳ら首脳が、4隻の幕府軍艦を率いて上京。12月14日にも、長鯨丸、長崎丸に歩兵2個大隊等が乗船して上京。
    > 兵力を増強した幕府側の戦意は高まるばかりで、兵庫にいた開陽丸艦長の榎本武揚は、実家への書簡で「とても一戦これなく候わでは、徳川氏の天下とても盛んに相成り申さず…クズクズさえ致し申さず候へば勝利は十分…」(12月14日、母親宛書簡)と書き残している。

    慶喜は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬をニ条城に呼びつけて他出を禁じ、衝突を未然に阻止している。さらに感情にかられて騒ぎたてる幕軍兵力2万3千余を、京都のニ条城から大坂城に移して暴発を回避する。そして松平春嶽や伊達宗城らによる努力により、12月23日の三職会議の沙汰書は、辞官納地について領地返上を求めない内容に修正された。また、諸侯も新政府に応分の差出を行なうこととなり、慶喜の議定就任の内定も確定している。勿論、政府の決定を慶喜は受け入れておる。

  • >>No. 1735

    >オタクの話は、いちいち漫画的だな。「密偵により江戸で起こったことはすべて分かっていた」なら、それはいつ誰が通報したんだ?史料名を言ってみろよ。ただの妄想だから、根拠はないだろうけど。W

    歴史的資料を前に提示しても、君はそれを認めようとしないから、無駄なことはせん!

    >「過激派の突き上げによる」とは?誰がどんな動きをしたのかね?逃げ回ってないで、根拠史料を提示してくださいよ。この部分も、オタクのフィクションかね?

    西鄕が今あるのは、そもそも久光に対する誠忠組過激派の突き上げによる。

    >小松も西郷も久光も、軍事力は手段であって、目的ではない。状況に応じて切るカードの一枚だ。だから久光は、西郷を再度上洛させたのであり、また軍も上洛させている。彼らは幕府軍の動向如何で戦争になるか回避できるかを慎重に見極めようとしていた。

    そもそも久光は長く西郷と敵対関係にあった。藩内でも西郷の武力倒幕に対する風当りは強くなってきていたが、久光や家老の小松を含む上層武士と下級武士出身の西郷や大久保らの力が逆転しておったから、久光は、西郷を再度上洛せざるを得なかったのである。

    >それが歴史というものだ。オタクの話は、歴史小説、映画の脚本であって、歴史ではない。現実の歴史は、複雑で将来は不透明なものだ。

    「現実の歴史は、複雑で将来は不透明」だから、それを解明するのが歴史学というものだと思うが。

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