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投稿コメント一覧 (544コメント)

  • >>No. 1730

    >上記の西郷書簡には「いまだ譯も不相分、何れを可正筋も無之、其内決て暴動は不致段御届申出置候儀に御座候。」と書かれている。浪士の後方撹乱活動が停止しているという前提のもとに書かれている。

    これをか書いたときは、西郷は密偵により江戸で起こったことはすべて分かっていたのだよ!それに、戦いの準備をするよに提携している藩に催促している。だから、この手紙は久光にたいする報告書のようなものだから、とぼけて書いたものだ。

    >「過激派の突き上げによる」とは?誰がどんな動きをしたのかね?
     久光が、完全に軍事行動に反対なら、そもそも大久保を帯同する説明がつかない。また西郷を置き残せばいいだけだし、上洛後も西郷の動きを規制していればいいだけ。

    藩の方向は、藩内の勢力関係に依存して決定されるんですよ。これが基本です。当時の藩内の中心は、精忠組と言われた下士層出身の過激な若者らが大勢を占めていたのだよ。

    >必死で噺を混乱させようとしているのが、相変わらず姑息だね。
     戦争責任に絞れば、幕府にも薩摩にも原因はある。というより、戦争は一方が熱望して起こるものではなく、双方の加熱による事態の悪化が引き起こすものだ。

    それなら別に歴史を語る必要はないと思うが。

  • >>No. 1724

    >「岩倉公実記」のいったいどこに? 書いてないよ。

    これまでの通り相心得候様御沙汰候事とある。

    > 帰国した小松は、その日のうちに西郷らとともに藩主や久光、重役を交えた席で、倒幕の密勅を示して出兵要請しているがね。
     久光らは出兵に消極的だったが、出京に当たって、大久保一人を帯同する予定だったがすぐに西郷にも随行を命じている。小松は急病でやむなく鹿児島に残ったが。
    >そんな状況は一切ない。久光は藩を掌握していた。西郷を始め、藩人事に一般藩士の影響力はない。長州藩とは全く状況が違い、薩摩藩では藩主の統制は崩れていない。西郷は、久光から追放も恩赦儲けているが、いずれも久光の都合に過ぎない。

    小松は京都を出発する時点で土佐藩の後藤象ニ郎と固い約束をしておる。そして再上洛後の協力を互いに誓いあい、小松は「外国議事院」についての「取調」を引き受けて鹿児島に帰った。これは、ヨーロッパに滞在した経験の寺島宗則や五代友厚、岩下方平から知識を仕入れるつもりであろう。それが小松の足痛による上洛の延期によって約束を果たせなくなったのである。ついで、このあと小松は、土佐行はおろか上洛も出来なくなる。

    久光は夏に上京したとき体調を崩し志半ばで鹿児島に帰ってから歩けない状態であった。茂久の京都への派遣が決定を見た時点で、久光は西郷の従軍を差し止めた。これは、賊臣慶喜を討てという密勅を持って走り回っておる過激な挙兵論者であった西郷を上洛させれば事態が悪しき方向に転じることを危惧したためです。ところが、過激派の突き上げによる西郷擁護論が高まり、 病中の久光もそれに押されて、結局は西郷の随行を認めることになる。

    こうしたことは、久光の体調が万全で、彼の気力が充実していたならば、まずありえなかつたことであろうし、そして、小松の体調が強度に悪化したことにより薩摩藩ひいては日本国そのもののその後の運命を大きく変えることになったと言ってよい。

    >オタク、日本語がおかしいよ。それに日本史の知識も変んだ。
    「成功したクーデターの政府内部でも政策的に慶喜にやりこまれ」って、一体何のことかね。w

    わからんなら別に構わん。

  • >>No. 1718

    > 戦闘に備えて、軍を上洛させ、他藩と連合し、英国の協力も取り付け、えどにおける後方撹乱部隊も用意する。
     しかし朝廷や他藩への多数派工作をして、政治決着の場になっても、主導権を確保できるようにする。

    公儀政体論では慶喜に分があることを西鄕は認識しておった。だから、クーデターで一気に慶喜を討とうとしたが、成功したクーデターの政府内部でも政策的に慶喜にやりこまれ、窮地に陥っていたのだよ。

    >そんな小松も、10月26日に鹿児島へ帰郷して、藩主と久光に出兵の要請を行っている。
     久光らは出兵に消極的だったが、出京に当たって、大久保一人を帯同する予定だったがすぐに西郷にも随行を命じている。小松は急病でやむなく鹿児島に残ったが。

    小松が選択した対応策です。すなわち、この段階で小松は、穏やかな形での新国家の樹立を強く望み、そのため過激論者の西郷と大久保を京都から引き離す必要もあって三人揃っての帰国を急ぐことにしたのだよ。ところが久光の体調不良により過激論者の西郷らを押さえることができなくなり、小松自身も急病でやむなく鹿児島に残ったのである。

    > いいかね。幕末の動乱は、我々には時代劇の舞台でしかないが、当時の人間にとっては真剣勝負の政治変動だ。戦争か平和か、どちらかに一本化して別路線は考えないというのは、お芝居の世界だけ。大勢の利害関係に関わる政治判断をする責任者は、そんなバカなことはしない。

    いいかね。幕末の動乱は、我々には時代劇の舞台でしかないが、動乱期おける当時の人間にとっては真剣勝負の政治変動だ。勝つか負けるか、どちらかに一本化の路線しか考えないというのが動乱期における下級武士出身である指導者の辛いところだ。

    >現実の政治は、そんな割り切りは有り得ない。Aプラン、Bプランを用意して、状況で切り替えられるようにするのは、当たり前のことだ。

    現実の政治は、「Aプラン、Bプランを用意して、状況で切り替えられるようにする」ような、そんな単純な割り切りは有り得ない。まして歴史においてはいわんや。

  • >>No. 1717

    > それでは論ではなく君の希望をのべているだけだよ!
     西郷は江戸藩邸の浪士団活動停止の指示を承知していた。だから、12月10日に吉井が念押しの書簡を江戸に発している。
     しかも、江戸の情勢が、藩邸焼き討ちまで緊迫していたことは、西郷にとって想定外だった。だから国元に向けて送った書簡には、在京や在江戸の浪士に対して「大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を倒し候策かと被相察候儀に御座候」(慶応四年一月一日付西郷書簡)とある。

    上記は事件が終わった後のもので、実際の「西郷は江戸藩邸の浪士団活動停止の指示を承知していた」その時の歴的資料はなんですか?

    >だからこの根拠史料は?と聞いている。こんな愚かな押し問答を続けたくない。でも、一行で回答できるだろ。

    「岩倉公実記」ですが。

    >これも嘘だ。江戸時代の西郷は、薩摩藩以外ではただの藩重役であり、一般民衆には名前すらしられていない。
     また西郷の身分は、藩主や家老の引き立てによるものであり、藩内外の下級武士の支持などまったく影響はない。
     西郷は、久光には嫌われていたが藩運営に使える人材であり、罷免することができなかっただけ。
    久光は、お芝居で描かれるほど愚物ではない。西郷の才能を客観的に評価したり、藩の殖産興業政策を理解し推進するなど、水準以上の君主であった。少なくとも

    それは久光の体調不良により彼の威望が陰り、一方阻害されていた下士出身改革派の勢力が次第に増大していたからです。西鄕はかれらの救世主ともいえるし、久光は公儀政体論に高い評価を加えておったから過激派の突き上げに悩んでいたのだよ。

    > しかし、情勢は不透明である。我々は事態の結果を知っているが、当時の人間は薩長も幕府側も、将来に確信を持っていたわけではない。
     重大な決定をするに、乾坤一擲の勝負はしない。和戦いずれにも対応できるように、準備をしておくのが普通だろ。

    西鄕は事態の結果を知っておったのだよ。つまり勝つか負けるかのどちらかだ。なぜなら西鄕らは賊臣慶喜を討てという密勅を持って走り回っておる時点で後に引かれないことを認識しているからだ。岩倉は恐れをなして、賊臣慶喜を討てという密勅を無かったことにしたがね。

  • >>No. 1697

    >  吉井も、大政奉還前には対幕府との戦闘を覚悟していた。
    「(陰暦11月19日)、土曜、吉井幸輔が来たので、いろいろ話をした。…薩摩、土佐、宇和島、芸州の間で連合が成立しており、われわれは主張を貫徹するため、事態をとことんまで推し進めていく決意でいる。…長州問題の解決は難しい。というのは、大君支持派の中に、長州の壊滅を狙って、戦争の再開を強行しようとしている者がたくさんいるからである。」(アーネストサトウ日記)
    このように、吉井は、「事態をとことんまで推し進めていく決意」だった強硬派である。

    「事態をとことんまで推し進めていく決意」とは、薩.長.芸三藩兵がその軍事力によって天皇の身柄を確保し、そのあと長州藩兵が上洛するというクーデ夕―計画のことで当時の薩摩藩の状況を述べたものである。吉井個人の決意とはちがうものだと思うが。吉井は「長州問題を平和のうちに解決することは至難であろう。」(11月19日アーネストサトウ日記)というておるから、彼は平和的解決を望んでいることが読み取ることができる。

    > また西郷とともに帰郷している小松は、大政奉還前の10月11日に土佐の神山を訪ねて、「薩挙兵不可然、土州建白(大政奉還の建白書)の幕に採用之無時勿論、本国より挙兵洲へし」(神山郡廉日記)と言った。
     薩摩倒幕派も、大政奉還が無かった場合、挙兵するというのが方針だった。
     
     だから吉井の行動停止命令は、西郷や小松の腹案に沿ったものだ。

    大政奉還後の西鄕、小松、吉井の腹案は三者三様です。西鄕は賊臣慶喜を討てという密勅を持って兵を集めに走り回っておる。小松は慶喜が大政奉還の考えを表明したあとその実現にむけて慶喜に尽力しているし、10月16日に西鄕と大久保を「暴激之議論」者としての名指しで非難している。西鄕らが不在中、京都藩邸内にあって中心的位置を占めた吉井、関山、伊地知らは旧徳川方との融和関係の樹立に熱心になり出している。

  • >>No. 1707

    >これは失礼した。10月13日は、10月3日の転写間違いでした。

    その元は私だから、わらちゃいました。

    ネットの恐ろしさを感じるきょうこのごろです。

  • >>No. 1707

    > 西郷は、7月の時点で長州藩の山県、品川宛書簡において、後藤象二郎の献策(大政奉還の建白書)について「弊邸へも談判有之候儀にて、実に渡りに船を得候心地致し…」と書き送っているよ。
     もっとも幕府がこれを呑むか否かは、不確定なんだがね。
    そして、大政奉還の後、12月まで在京薩摩藩首脳は、再三にわたって江戸藩邸に「動くな」と指示している。

    9月末から10月にかけての話をしておるんだよ!

    7月から12月まで飛び過ぎだ。それでは論ではなく君の希望をのべているだけだよ!

    >そして、大政奉還の後、12月まで在京薩摩藩首脳は、再三にわたって江戸藩邸に「動くな」と指示している。

    慶喜を将軍の座から引きずりおろすためには武力発動も辞さないという西郷の方針に、薩摩藩の京都代表とも言うべき西郷が京都詰の藩士の間で支持されていたかというと、そうではなかったからです。つまり、薩摩藩首脳内部でも、大政奉還さらに24日の将軍職辞職をみて、一連の慶喜の決断を評価する動きがみられていたからです。こうした過程で小松さえも西鄕や大久保とその方向性を異にすることになる。

    >この10月26日という日付の根拠は?

    10月22日、諸大名が上京してくるまで、外国の事情に精通している「両三藩」と申 し合わせて外交問題を処理せよ、という指示を朝廷は下している。ところが、早速、翌23日に10万石以上の24藩の藩士が会合し、この指令への対応を協議した。24日、将軍職辞職の上表を提出する。ここに、事実上、鎌倉幕府以来、七百年に及んだ幕府制は廃絶されることになる。25日に、親藩譜代大名の家臣たちが幕府への政務委任を求める嘆願書を提出。それを受けて26日に朝廷は、慶喜に政務を委任するという指令を発している。

    では、次の問題をお願いします。

    だだし、2問だけにしてほしい。

  • >>No. 1703

    >その言葉は、まず自分が実行しなけりゃね。君が日付の間違いを指摘しているから、そのことについて君自身がちゃんと説明しなきゃならん思う。子供なら別だがね!

    なーんだ!もっと早く言えばいいのにね。!
    「10月3日の「江戸を雑ぜ返して来い」という密命です」と言うている。
    君からそれについてのリクエストがなかったから、気が付いていると思っていたよ。
    「(桐野日記10月13日条)」は(桐野日記10月3日条)です。
    ネット上の情報は正しいと限らんから注意するようにしたまえ。

  • >>No. 1701

    > さて、話題をそらしている努力は同情するが、話が進まない。上記以外の点については、反論はできませんでした、ということでいいね。
     反論があるなら、その点を列挙して、反論をどうぞ。

    大事な歴史的日付を説明なしに否定されては論にはならんよ!

  • >>No. 1699

    >図書館へ行って、本を読めよ。w

    君が日付の間違いを指摘しているから、そのことについて君自身がちゃんと説明しなきゃならん思う。子供なら別だがね!

  • >>No. 1695

    >そもそも君の提示している慶喜への政権委託の日付がまちがっておる。ネット上の情報は正しいと限らんから注意するようにしたまえ。

    どのように日付がまちがっておるのかね?

  • >>No. 1692

    >薩摩藩江戸屋敷の焼き討ち事件の報告を受けた西郷は、江戸の事件に狼狽しているよ。
     国元に向けて送った書簡には、在京や在江戸の浪士に対して「大に舊幕の輩惡居候儀に御座候えば、早く江戸の浪士を倒し候策かと被相察候儀に御座候」(慶応四年一月一日付西郷書簡)とある。

    西鄕は、もうこの時はすでに、江戸での事件の事は密偵によって詳細を知っておったのだよ。国元への書簡は久光にたいする報告でもあるので、「江戸の事件に狼狽している」ふりをしていたんだ。西鄕は江戸のことを知った時点で、決戦の準備をしている。


    >大政奉還は慶応3年(1867)だが、実質上幕府の寿命は、慶応2年(1866)の第二次長州征伐の敗戦で終わっていた。

    だから慶喜は幕藩体制に見切りをつけて大政奉還をして新しい日本が始まったのだよ

  • >大政奉還で一旦は遠かった戦争の危機が、幕府軍の動きで、再び高まるということだ。
     大政奉還で幕府に戦意なしと判断したから、西郷は江戸の浪士隊の行動を停止させた。しかし、以前幕府側の戦意が旺盛で、軍隊が活発に動いている。当然、新政府側は、幕府への見方を厳しくする。鳥羽伏見の戦いの伏線だよ。

    「江戸を雑ぜ返して来い」という西鄕の密命があった資料があるが、「西郷は江戸の浪士隊の行動を停止させた」資料はありゃせんよ。

    「幕府側の戦意が旺盛で、軍隊が活発に動いている」が、在京の幹部らは、薩摩藩は慶喜の大政奉還と将軍職の辞表を見て、それを評価する方向に流れていたから、薩摩側の戦意はくじけられていたのだよ。
    もちろん決戦を望んでいる西鄕はそんなことは許されるものではない。なぜなら西鄕はあくまで徳川に喧嘩腰であったから、尊皇の若者らが、西鄕を支持しておった。つまり、「武力倒幕の過激な主張も自分が主体となるために、同じ境遇の者らや尊皇攘夷派を操るためのひとつの手段だということを理解していたからだと思う。」ということになる。

  • >>No. 1689

    >益満の江戸下向は、大政奉還の前だよ。
    「一、益満休之助(ますみつきゅうのすけ)外に弓田正平、今日より江戸へ差し立てられ候事、尤(もっと)も彼(か)の表において義挙賦(つも)り」(桐野日記10月13日条)
    『二十五日 在京鹿児島藩士吉井友實書ヲ在江戸藩士益満休之丞伊牟田尚平ニ贈リ大政奉還トナリ藩主島津忠義上京ノ朝命アリ小松清廉西郷隆永大久保利通等帰藩藩主島津忠義ヲ奉シテ更ニ出京スルニ決定セルヲ以テ江戸藩邸ノ諸士ヲシテ鎮静ヲ守ラシメ再命アル迄決擧スヘカラサル旨ヲ勧告ス』(『大日本維新史料稿本』)

    9月23日に西鄕は安芸藩も土佐藩の建白書に深く同意していることを知って「大ニ相驚」いておる。さらに10月2日に薩摩藩から土佐側に対して大政奉還建白書を提出することを了承する返答がなされた。そこで、その対策として西鄕らが奇策したのが、「討幕の密勅」と10月3日の「江戸を雑ぜ返して来い」という密命です。つまり西鄕としては、大政奉還は織り込み済みだから、「益満の江戸下向は、大政奉還の前」でも構わんのだよ。
    25日付吉井書簡は、西鄕らは大政奉還の対抗策として賊臣慶喜を討てという密勅を持って兵を集めるために京を離れておったから、その間の在京幹部らが10月24日の慶喜の将軍職の辞表の展開を見て「江戸藩邸ノ諸士ヲシテ鎮静ヲ守ラシメ再命アル迄決擧スヘカラサル旨ヲ勧告ス」ことにしたんだ。そもそも君の提示している日記の日付がまちがっておる。ネット上の情報は正しいと限らんから注意するようにしたまえ。

  • >>No. 1683

    >大政奉還で一旦は遠かった戦争の危機が、幕府軍の動きで、再び高まるということだ。
     大政奉還で幕府に戦意なしと判断したから、西郷は江戸の浪士隊の行動を停止させた。しかし、以前幕府側の戦意が旺盛で、軍隊が活発に動いている。当然、新政府側は、幕府への見方を厳しくする。鳥羽伏見の戦いの伏線だよ。

    「江戸を雑ぜ返して来い」という西鄕の密命があった資料があるが、「西郷は江戸の浪士隊の行動を停止させた」資料はありゃせんよ。

    「幕府側の戦意が旺盛で、軍隊が活発に動いている」が、在京の幹部らは、薩摩藩は慶喜の大政奉還と将軍職の辞表を見て、それを評価する方向に流れていたから、薩摩側の戦意はくじけられていたのだよ。
    もちろん決戦を望んでいる西鄕はそんなことは許されるものではない。なぜなら西鄕はあくまで徳川に喧嘩腰であったから、尊皇の若者らが、西鄕を支持しておった。つまり、「武力倒幕の過激な主張も自分が主体となるために、同じ境遇の者らや尊皇攘夷派を操るためのひとつの手段だということを理解していたからだと思う。」ということになる。

    >大政奉還が慶喜の本心なら、なくなるはずだったんだがね。もしくは、慶喜が幕府をしっかり統制できているなら、無くなるはずだった。
     しかしながら、大政奉還が行われたのに、幕府側は関東で尊皇派を攻撃し、同時に大阪に軍隊を増援している。
    > 新政府を上回る軍事力を幕府が大阪に駐留させ、京を圧迫している状況では新政府側も軍を集めて対抗せざるを得ない。倒幕運動を長引かせているのは幕府の動きである。

    「幕府側は関東で尊皇派を攻撃」は盗賊狩りの一環の処置だし、10月26日に新政府は慶喜に政務を委任しておるから、「同時に大阪に軍隊を増援している」のは新日本の政局の安定の為だから、君からどうのこうのと言われる筋じゃない。

    いずれにしても、慶喜の大政奉還で新政府ができた。その後のことは新政府の責任になるとおもうがね!

  • >日本の伝統的な天皇の象徴的価値をも否定することによって、「玉」を自由に操り、そこに国家建設が可能となった。つまり、明治維新とは、天皇の信仰から解放された若者らによって構築されたものです。だから伝統的価値から醒めていたからこそ、天皇を「玉」として操作し、それを原点として、若者らが支配する正当性の根拠として制度化したものです。

    日本の徳川が支配していた政治を田舎者達が一か八かのクーデターで、いっきに徳川を倒壊させて、天下の政権を握った。しかし、この田舎者達が政治を興していかなければならなかった。最大の課題は、これからの日本の政治のあり方と自分達がこの政治を動かすことの理由が必要であった。みんな徳川家のような権威も経験もありませんから、無理をして日本の国を作りあげていった。天皇が絶対君主でもあり、同時に立憲君主でもあるという理解しがたい制度が出来上がってしまったのもこの辺にあったのでないかと思う。

  • >>No. 1652

    >益満らの江戸下向は、大政奉還前だよ。しかし、オタクが冒頭に言っているのは、大政奉還の後の話ではないか。エスパーじゃあるまいし、じかんを停止することはできんよ!

    じかんを停止することはできるんだよ!

    大政奉還前でも構わんのだよ。「益満らの江戸下向」のときは、大政奉還はオープンになっておる。

    >たとえ新政府側に和平を進める勢力があっても、その工作を幕府の側からぶち壊しているんだからな。

    だから、どうだというのかね?

    >大政奉還という新事態により、西郷ら薩摩藩首脳は関東での工作活動をやめさせようとしていた。

    西鄕は江戸藩邸の焼失を聞いたときに、事になるわい、と大変喜んでおるよ!

    >致命的な無知と歪曲ばかりだな。これはひどい。

    君よりは、ましだと思うが。

    王政復古の大号令で新しい日本が生まれます。その日の夜、京都御所で新政府にとって最初の首脳会議である小御所会議が開かれ、西鄕は議論なんかではらちがあき申さん、短刀一本でけりがつくことでごわす、というて、反対するものは全部斬ってしまうつもりだったようです。

    >貧乏と倒幕運動とも関係はない。坂本龍馬の家は、郷士身分ではあるが、有数の富商でもあり大金持ちだ。薩長とも上級武士も多く倒幕派に加担している。

    倒幕運動は大政奉還により無くなっておる。

    >このクラスは、日本経済を実務面で動かしていた階層であり、また知識階級でもあった。経済的にも思想的にも政治的にも、この日本の中間層が幕府を見限った。これが幕府にとどめを刺したのだ。

    ほんの一部の中間層が幕府を見限っただけだよ!(笑ふたつ)

  • 武力討幕派が慶喜の排除に熱心であったのは、新たな権力を作り、これを把握するためだと思う。討幕の密勅を画策した西郷・大久保は、事実上、薩摩藩を指導していた。木 戸・広沢は、事実上の長州藩の指導者であった。指導者とはいうものの、あくまで事実上のそれであって、身分は薩摩藩士であり長州藩士にとどまる。岩倉具視は村上源氏に属する下級の廷臣であった。今の秩序のなかで、いかに上昇をとげようとも、藩士は藩主をこえることはできない。岩倉についていえば、摂家をこえて、朝廷を主宰することはできない。武力討幕派のだれ一人として、全国にわたって自己の政治指導を進めうる公式の場をもたない。ここから、今の否定がはじまる。幕府そして朝廷、天皇、さらに自己の所属する藩をも否定しなければならないほどの、強い動機が生じる。今の秩序を否定しなければ、新たな権力を造出して、これを手中に収めることができない。日本の伝統的な天皇の象徴的価値をも否定することによって、「玉」を自由に操り、そこに国家建設が可能となった。つまり、明治維新とは、天皇の信仰から解放された若者らによって構築されたものです。だから伝統的価値から醒めていたからこそ、天皇を「玉」として操作し、それを原点として、若者らが支配する正当性の根拠として制度化したものです。

  • >>No. 1644

    >西鄕は徹底して、武力倒幕を主張していたからです。武力倒幕の過激な主張も自分が主体となるために、同じ境遇の者らや尊皇攘夷派を操るためのひとつの手段だということを理解していたからだと思う。

    参考
    慶応3年12月25日、有馬は中村半次郎(=桐野利秋)とともに岩倉のもとを尋ねた。岩倉は、中村に「この戦争が終わると攘夷をしなければならないが、準備はできているか?」と聞いた。
     すると中村の答えは、有馬が想像だにしないものだった。中村は、攘夷などという言葉は御前(=岩倉)の口から出されるものではありません!あれは倒幕の口実であり、これからは開国です、といった。
    仰天した有馬が中村に真意を問いただすと、なんと中村は、それは西郷隆盛の見解だ!といった。更に驚いた有馬が西郷に問いただすと、西郷は平然と言った。
     「アお前にはまだ言わなかったかね。モー言っておいたつもりジャッタが。アリャ手段というモンジャ。尊王攘夷というのはネ、唯幕府を倒す口実よ。攘夷攘夷と言うて、他の者の志気を鼓舞するばかりジャ。つまり尊王の2字の中に倒幕の精神が含まれているわけジャ」。之を聞いて有馬は、「多年の迷夢」から覚めた。(平河祐弘「和魂洋才の系譜」)

  • >>No. 1641

    >幕府を討つ名義のきっかけとして江戸を「雑せ返して来い」とゲリラまがいの行為は 当時無宿者か牢破りのやることで、武士の取組めるものでないと思う。その点、西鄕は目的の為には手段を選ばないのは下層士分の出身の者であったからこそ、下劣な手段に抵抗を感じなかったからではないか?岩倉に「戦いをいどみ、死中に活をうけるのが、いま、もっともだいじなことである」と必死になることは、下層士分の出身の者であったからこそ、後に引けない状況に追い込まれていということかも知れん。

    薩摩藩の西郷と大久保は二人ともその日を食うや食わずやで過ごしてきたほど貧乏な家の出身で、そして長州藩の伊藤、山縣に至ってはどん底もいいところというほどの下級武士でした。では、なぜ多くの者らが西鄕を支持したかですが、それは、西鄕は徹底して、武力倒幕を主張していたからです。武力倒幕の過激な主張も自分が主体となるために、同じ境遇の者らや尊皇攘夷派を操るためのひとつの手段だということを理解していたからだと思う。

    これと似たようなことは、昭和にも見られます。東条英機は、最初からアメリカに対しては喧嘩腰であった。喧嘩腰であったればこそ、中堅軍人は氏を支持し東条は彼等に操られその器にあらずして総理となります。かくして東条は権力魔に魅入られて中堅軍人のロボットとなり、自らは日本歴史上未だかって見ざる英雄たらんとした。東条が総理となって対米交渉の継続に尚熱意がある如く見せ掛けたのはこの野望のカムフラージュに過ぎぬのである。

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