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投稿コメント一覧 (319コメント)


  • 〇A・スマナサーラ様のキリスト教批判○

    A・スマナサーラ『無常の見方』でキリスト教批判があるので引用してみたい(134頁)

    ●中東の宗教は「天国」と「地獄」の二者択一

    中東の宗教では、「神」が現象世界を創造して、やがて神が決めた場所で、神が決めた状態で世界を
    安定させるのです。
    キリスト教が提示する「安定した状態」には二つあります。
    神を信仰する人には「永遠の天国」、神を信仰しない人には「永遠の地獄」です。
    中東にはキリスト教以外にたくさんの宗教がありますが、いずれ「永久的な神」と「創造されたもの」
    は完全に二つに分かれていて、同一ではありません。この点はヒンズー教とは違います。

    また二つの状態の割り振りは神の気分次第ですから、安定したとは言いにくい状態にあります。
    神の機嫌が変わったらどうなるのでしょうか。怒るは、嫉妬するは、大量に殺すは、そんなやりたい
    放題で気まぐれな神が、「ずっと君は天国でよろしい」ということがあるのでしょうか?
    天国ごと壊さない保障はないでしょう。

    神に対する個人の立場は常に圧倒的に低くて、恐ろしい神に始終怯えることになります。

    ………

    スマナサーラ長老は、新約の愛の契約や三位一体論を知らないのでしょうか。
    偏見が強いように私は感じます。

  • >>No. 2967

    ●我なし 相手なし〇

    >では、お好きに書き込みしてくださっていいんですけど、私、今の所、唯識ややこしそうやなーとあまり
    >興味がわいてこないので、あまりY和弘さんの書き込み読まなかったらすみませんm(_ _)m

    テーラワーダにしても倶舎論にしても唯識にしても、アビダルマは煩瑣です。

    で、「相手なし」で、あなたに読んで頂くために書いてはいませんのでアシカラズ。

    >それではお互い善く生きれますように🍀🍀
    >お互い、がんばりましょうp(^_^)q

    はいはい、
    よく生きるためのレス利用の学習です。
    学習は楽しいですね。

  • >>No. 2963

    ●説一切有部を批判するテーラワーダ●

    >倶舎論って、どこか固定の部派のアビダンマなのかな?

    スマナサーラ長老は、倶舎論の説一切有部を批判していますね。
    スマナサーラ長老は、部派仏教でもっとも強大だった説一切有部は
    テーラワーダから分かれた部派仏教であるして、テーラワーダこそが正統としているようですね。
    しかし、正統を作らなかったのが仏教だと思うのですので、その辺も不信感があります。

    説一切有部も問題、大乗仏教も問題があり、テーラワーダが正統としているでしょう。
    まあ、それはそれでいいのでしょうが、何か心が狭いなと感じます。

    根本的に、仏教の歴史観が違うのかなと感じます。

    それはそれで、そんな狭い考えでなく、普遍性を求めていくべきかとおもいます。

  • >>No. 2955


    〇『無常の見方』が残っていた――他宗批判に疑問〇

    >『ブッダの実践心理学第2巻』p68〜72
    >『ブッダの実践心理学第3巻』p117〜122
    >スマナサーラ長老、藤本晃氏共著、サンガ

    10年前、スマナサーラ長老が話題なり、この辺りの本を購入したました。
    しかし、大乗仏教批判、ヒンズー教批判、イスラム教・キリスト教批判が
    酷過ぎまして、リサイクル行きとなりました。

    私和弘は、
    他を排除しない宗教が正教。
    他を排除する宗教は邪教。
    としておりますので、スマナサーラ長老様に????になったわけです。
    でも、書棚を探したら、『無常の見方』を見つけました。

    今はどうかしりませんが、開いてみる他宗批判。
    どうもついて行けません。


  • 〇我空法有と我空法空〇

    竹村牧男『唯識の構造』16頁~

    さて、部派仏教ではほぼ有とされた法(ダルマ)について、大乗仏教はさらに進んた立場を明瞭にした。
    すなわち、法(ダルマ)すらもまた空であると宣揚したのである。
    その理由として、色とか心とかいう、およそ諸法は仮名にすぎないという反省があった。
    名そのものは、対応する実体そのものではあり得ない。
    故に仮名の上のことについて、有るとか無いとかするのは無意味である、というのである。

    したがって空ということも空じれなければならない。その意味で、諸法は空であると説かれた。
    さらに、縁起の思想が一転している。
    すでに在る諸々の法が後に因・縁を織りあい結ぶというのではなく、そもそも縁起の世界において始めて
    存在しえているものは、結局、それ自身において存在しているのではなく、真の意味で有るとはいえない。
    縁起によって成立する法は無自性である。無自性のものは空である。そう説かれたのである。

    このように人の我の空のみではなく、法我の空も説かれた。
    このため、部派仏教は我空法有を説き、大乗仏教は我空法空を説いたと称される。


  • 〇法(ダルマ)多元論〇

    その後、部派仏教では五蘊をさらに科学(分化)し、自己自身の性質(自性)を維持するという意味で
    究極的な存在というべきダルマ(法)について、七十五を数えた(『倶舎論』)。七十五法は色、心、心所
    (心に所有されるもの)、心不相応、無為の五つの範疇に整理されるのであるが、これを見て察せられる
    ように、法(ダルマ)の分析は、物―心、主観―客観の二元論を前提としてその一方の物もしくは客観
    界のみを分析するのではなく、物的現象(色)、心的現象(心・心所)等を同一の地平において、両者
    とも同じ現象として、ただ「自性を維持するもの」として法を追及するのものである。ここにすでに
    一方を証すれば一方が暗しという隘路を脱する契機を見出すことができる。対象論理の一面性を透脱
    する真実の智慧の立場が看取されよう。

    こうしてこの数々の法の和合の上に、我なりものなりが仮設される。そしてその仮設されたものに実体
    を錯覚し、ということはほとんど妄に執着するが故に、苦悩があると説いた。
    このように、部派仏教では、いわば、法(ダルマ)多元論の哲学を組織したのである。なお、何故、諸法
    が一つの和合体を形成するかについて、因(直接原因)・縁(間接原因)・果の縁起の道理が詳しく分析さ
    れたのであり、(故に和合は仮和合である)、特に「我」に関しては、その一個の和合体が営む心的・身的
    ・言語的行為の場における因果の道理(業報因果)が究明された。

  • 〇仮に有る(五蘊無我説)〇

    竹村牧男『唯識の構造』14頁~

    ……しかしながら、「有る」という言葉は、実は大変厄介な言葉なのである。何気なく使う分には、
    さほど問題にならないが、一たび反省を加えると、そう簡単には使えなくなってしまう。何故なら、
    有る、という以上は、それは無と異なるもの、故に決して無とならないものでなければならない。
    「有る」ものは、永遠にそれ自体として存在しうることによって、はじめて「有る」といいうる
    はずである。そうでなければ、本当の有るのではなくて、”仮に有る“にすぎないからである。

    ……中略…

    釈尊は、五蘊無我、すなわち自我は五つの要素(そしてその要素自身が幾つもの要素の集合なのであるが)
    の和合の上に仮設されたものにすぎず、我という実体があるわけではない、と説いたという。
    我々は、何の反省もなく、自我は有ると思っている。しかし仏教の説くところによれば、身体的要素や個々
    の精神作用は有るとしても、そこに我という実体があるわけではないというのである。
    本は本の実体は無いと同じ道理で、我に我の実体は無い。本は決して有であり得ないと全く同じく、我は
    決して有であり得ないのである。


  • 〇第七末那識四煩悩の縁起〇

    我癡・我見・我慢・我愛の第七末那識の四煩悩は、相互に関係し合っていて、明確に区別できない。
    自分の本当の姿を知らないから〈我癡〉。
    自分に対して誤った気持ちをもつ〈我見〉。
    高慢になってしまたり〈我慢〉。
    自惚れてしまう〈我愛〉。
    こんな不一不異の煩悩が、無意識の領域である第七末那識で働いているのだから、目の前のものを
    見る、人の話を聞くというだけで、我執我愛が侵入し、善行をしたということにおいても、この
    第七末那識の四煩悩が働くのだから、この仮設の我はまったくどうしょうもなく、虚妄の自己である。

    さて、どうしたらよいのだろうか?
    仏弟子たちに聞くしかあるまい。


  • 〇四煩悩の四――我愛〇

    我癡・我見・我慢・我愛の第七末那識の四煩悩の最後の〈我愛〉は、
    我貪ともいって、自分のみをひたすら愛し続け、自分の愛にのみ耽ることだという。
    唯識はこの〈愛〉を染汚の愛と無染汚の愛に分け、〈我愛〉は染汚の愛。
    無染汚の愛とは、師匠を敬愛するような場合の愛だという。

    ナルシスの神は美男子で、水に映った自分の姿にほれぼれとして、溺死してしまい、水仙の花は、
    ナルシスの生まれ変わりだと言われる。
    しかし、ナルシスならずとも、私のような不細工な顔をしていても、人は、自分を愛し続ける。
    実体的な自分はないと知っていながら、やはり無意識裡に自分に耽著すという、どうしょうも
    ない私がいる。

    どうしょうもない自分に気づくと、届かぬ理想としての仏を礼拝せずにはいられなくなる。

  • >>No. 2957

    〇煩悩を智慧に換える――煩悩の整理整頓(中道智)〇

    >最終の悟り、阿羅漢果に達するとき、やっと完全に消えるのです

    煩悩の法ですから、上座部のアビダルマでも煩悩分析はあるでしょう。
    人は煩悩によって生きていて、生きている以上煩悩はあります。
    また唯識の修行論でも、煩悩が完全に滅するのは十地の最後の「法雲地」です。
    そこまで行くには「無限の時間」を要して時間が無意味になりますが、
    歴史上「法雲地」に至ったのは釈尊ただ一人で、その「法雲地」は届かぬ理想です。

    その法雲地。大法の雨を、悉く能く人々に与え、人々の煩悩を除く境界といいます。

    唯識にあっては、煩悩の消滅することはなく、仏であっても廻向の行をなしている
    ことになります。

    >阿羅漢まで残る煩悩だもんねー、と自分をヨシヨシしてもいいですよね。

    煩悩を薄くしていく必要があるから、瞑想という修行があるのではないのですか。
    阿羅漢にてらされ照らされて、その理想に向っての修行の中に生きる喜びがあるのでは……。
    というのが唯識の修道論です。

    煩悩もまた縁起であり滅せません。
    滅せられない煩悩を整理整頓するのが仏の智慧だと思います。

  • >>No. 2953


    〇比較宗教学というのもあります〇

    >このアビダンマスレッドに唯識の記事を載せたいですか?

    お許しを得て載せています。

    どちらも「法の分析」で、
    唯識学は、中道の智慧で、部派のアビダルマ『倶舎論』と大乗の空を和合させたもので、
    唯識を学ぶ過程で倶舎論も学ぶことになります。

    比較宗教学というのもあります。
    「唯識学のアビダルマ」と、「上座部のアビダルマ」をタイアップさせたら、
    真実がより明確になるのではないのでしょうか。

    このトピは私のものでもないですが、誰のものでもありません。
    公共のためにものでしょう。

    比較すれば、公共のためになりますよ。

  • >>No. 7302


    〇ゴミの中に純粋な宝が〇

    無視リストの方のご発言のようなので、このレスから失礼します。

    >カズマの仏は形骸化した。
    要するに、信仰心が無かっただけだ。<

    私がレスで個人的な対話をしたくないのは、ちょっとした言葉に尾ひれがついて
    創価学会だの真如苑だのとなってしまうことです。

    私の菩提寺は御本尊は聖観音菩薩で、小さい頃から「オン・アロリャカソワカ」
    という観音信心で育っていて、三十三応身、その「何から何まで」がブレないだけです。

    形骸化した博物館のガラクタの中に純粋な宝があるものです。
    お寺やお仏壇に飾ってある観音像が観音菩薩であるはずはなく、『観音経』を唱える日々のなかで、
    観世音菩薩とは「真実の自己」「理想の自己」、それを目指す「生きる力」と受け取ってます。

    私にとっては、その決して届かぬ「理想の自己」が「観世音菩薩菩薩」なのです。
    そういう意味で「仏心信心」ですから、天界の神さを崇めるような信仰心は無いかも知れません。
    しかし、「理想の自己」を常念恭敬し、「理想の自己」に照らされて、どうしょうもない仮我を
    生きています。

    「仏とはなにか」と問われた南陽慧忠は、「土塀や瓦や小石」と答えたいいますが、
    ゴミタクの中に純粋は宝がものです。

  • >>No. 7285


    〇仮我の認識機能は虚妄分別(空見と空観)〇

    >>空を解してそれを服用したまま排泄しないと、かえって病状は悪化、不治の病を得るものである。
    ………
    >私は 竹村牧男先生の教えを支持します。出ないと苦しむ。 仮我の我々でも、認識はできます。
    >頭から有に対しての薬が空薬だったのでしょう。 仮我だけれど、認識機能はあります。
    >それを無だ、無だとしてしまうのは苦しの >不治の病から抜け出せない。
    >オレ我オレ我の自己中の我の壁を外せば、大きなものの見方ができる。

    竹村牧男先生を読んでいただきありがとうございます。
    しかし、「空」はこの世界の「縁起のあり方」であり、その空が縁起のあり方であると
    解さないで、空は無であると解する「空見」を排泄するいうのです。

    「空見」=二者択一の見方。
    「空観」=二者を同時に観る智慧(慈悲)――縁起の世界

    ということです。

    >仮我の我々でも、認識はできます。

    仮我の認識はありますが、それは虚妄分別です―――――――――――――世間虚仮
    その仮我の虚妄分別そのままのところが「空見」ではないのでしょうか。
    仮我の虚妄分別を見究め手離したところに「仏の智慧」が現成する――――唯仏是真

    私たちの認識が虚妄で当てにならないから、八正道や六波羅蜜の修行があるのだと思います。
    「南無妙法蓮華経」という唱題も、仮我の認識を手離すという方向さえ間違わなければ、
    そこが、正念・正定で精進するところに「仏の智慧」が現成するのではないのでしょうか。

    『法華経』は空を説かずに空を比喩で見事に説いていますし、『涅槃経』の仏性も、
    第一義空・中道というように、無の空(空見)ではなくて、中道の空(空観)を説いて、
    間違った解釈した空を正しています。

    大乗経典のすべては、空を証修した後の智慧の世界ではないのでしゅか。
    「空」は、一切を否定し、一切を肯定します。
    『法華経』が、一切を肯定し、すべての宗教を排除せず、一切衆生と共に生きるという
    菩薩道を一乗を説いていると思います。

    他の宗教を排除しない限りにおいて、その宗教は正しい。
    他の宗教を排除する限り、その宗教は邪となる。

    『法華経』は、一切の宗教を包含し、時空を超越して一切衆生と共に生きるという、
    久遠であり無限大の経典です。


  • 〇三性説によって中道を宣明〇

    竹村牧男『唯識の構造』9頁~

    この八識の世界が、一面、縁起の世界に他ならないのであるが、そのことを示すように、それは
    「依他起性」とも呼ばれる。一方、この八識の相分―見分等(識はそれ自身に相分を浮かべ、
    これを見る。一つの識の中で、見るものを見分といい、見られるものを相分という)の上に、
    実体として執着された我・法は「遍計所執性」といわれた。さらに、縁起の世界は、直ちに空性
    の世界・中道の世界なのである。依他起性の空性に、かえって存在する真実がある。それは
    「円成実性」と呼ばれた。これが唯識にいう三性説である。すなわち、唯識は、二諦よりも
    三性説によって中道を宣明した。


  • 〇自ら対象界に映出してこれを認識するもの〇

    竹村牧男『唯識の構造』9頁~

    もちろん、その仮設の所依の世界が、実体有であることはできない。そうであれば、一切法有自性
    ということになる。無自性でかつ何らかの意味で有でありうるものでなければならない。中観派の
    教説でいえば、それこそが縁起の世界なのである。実体的に把捉された世界ではなく、縁起のあり
    方にある世界である。この世界を唯識は識において説明していくものである。識とは、単なる認識
    主体ではない。実は「自ら対象界に映出してこれを認識するもの」をいうのである。その識に、
    唯識では、眼・耳・鼻・舌・身の五識・第六識のほか、さらに第七末那識、第八阿頼耶識と、八つ
    の識を立てる。今、それぞれについての説明は、略しておく。この八識の変化しながら相続流転し
    ていく世界、八識が各識とも「対象界を自ら映出しつつ」刻々変化して流れていく世界の上に、実
    我と実法が仮設される構造を唯識説は余すところなく整合的に説明したのであった。


  • 〇悪取空の克服と教導(如来蔵思想と唯識思想)〇

    竹村牧男『唯識の構造』7頁~

    さて、悪取空の克服と教導を企図したのが、如来蔵思想と唯識思想である。如来蔵思想では、一切法
    は無自性だと失望してはいけない。如来蔵(仏性)は有るという一面を忘れてはならないと説いた。
    唯識説はどのように説いたのか。今は『瑜伽論』第七十五の説を紹介してみよう。

    悪取空者は、世俗によっては有るといい、勝義(究極の立場)によって無いという。そこで世俗とか
    勝義とかは何なのであろう。彼はいう。一切法の無自性が勝義であり、この無自性の中で、自性ある
    ものと考えられたものが世俗である。この自性有るものが考えられるのは、無所有のところに、世俗
    の仮設の名言をたてて説くからである、と説明する。ようするに彼は、一切は無なのである、ただ
    名言によってあれこれ「もの」をあげつらっているにすぎない、という意味のことを言っていること
    になるわけである。さて、唯識説の者は、ひとつここを問題にする。一体、名言をたてるというが、
    それは、実際に自体有るものに対してたてるのか、それとも名言をたてる依処となるべきものは
    全く無く、あれば、およそ名言をその上にたてるべき依処となるべくものは全く無く、あるものは
    ただ言葉のみというのか、と。前者であれば、一切法無自性という立場と矛盾する。後者であれば、
    およそ名言をその上に立てるべき依処となる「事」がないということはありえない。必ず何かに依処
    して名言はたてうるのであるから、これも理に合わない。

    これが唯識の反駁である。実は唯識としても、一切法無自性は、事柄の真の意味においては継承し
    ているのである。ただ、勝義と世俗、無と有の二元論のみに終始すると、無自性の意が直ちに有無
    の無そのものと解されやすく、空の真義が損なわれることを衝くのである。したがって唯識では、
    二の他にもう一つの契機を見出す。名言には、その所依、仮設にはその依って立つ基盤としての
    世界がなければならないのであろうということである。もちろん、自体有るものの上に名言がある
    という考えはもとより否定される。しかし無自性の上に仮設するという、それが全然無の上に仮設
    することであってはならない。そういうことはありようがない。そこで、必ず仮設の所依の世界が
    なければならない、というのである。ここでは、名言によって措定され、実体視された”もの“の
    世界と、その名言が依処しているのである。ここで名言によって措定され、実体視された“もの”
    の世界と、その名言が依拠している事象としての世界の区別がある。その厳密な区別が明確になさ
    れている。我々が名言によって把得した“もの”は、実は実体あるものでも何でもない。名言に
    表わすものはそのものとしての本体ではない。その本体という意味では正に無である。しかし名言
    が依って立つ事象の世界は、その無とは違って、何らかの意味で有でなければならない。この何ら
    かの意味で無であってはならない世界を、積極的にとり上げたのが唯識である。この意味で一切は
    決して無ではないのである。

  • 〇三性説によって中道を宣明〇

    竹村牧男『唯識の構造』9頁~

    この八識の世界が、一面、縁起の世界に他ならないのであるが、そのことを示すように、それは
    「依他起性」とも呼ばれる。一方、この八識の相分―見分等(識はそれ自身に相分を浮かべ、
    これを見る。一つの識の中で、見るものを見分といい、見られるものを相分という)の上に、
    実体として執着された我・法は「遍計所執性」といわれた。さらに、縁起の世界は、直ちに空性
    の世界・中道の世界なのである。依他起性の空性に、かえって存在する真実がある。それは
    「円成実性」と呼ばれた。これが唯識にいう三性説である。すなわち、唯識は、二諦よりも
    三性説によって中道を宣明した。

  • 〇自ら対象界に映出してこれを認識するもの〇

    竹村牧男『唯識の構造』9頁~

    もちろん、その仮設の所依の世界が、実体有であることはできない。そうであれば、一切法有自性
    ということになる。無自性でかつ何らかの意味で有でありうるものでなければならない。中観派の
    教説でいえば、それこそが縁起の世界なのである。実体的に把捉された世界ではなく、縁起のあり
    方にある世界である。この世界を唯識は識において説明していくものである。識とは、単なる認識
    主体ではない。実は「自ら対象界に映出してこれを認識するもの」をいうのである。その識に、
    唯識では、眼・耳・鼻・舌・身の五識・第六識のほか、さらに第七末那識、第八阿頼耶識と、八つ
    の識を立てる。今、それぞれについての説明は、略しておく。この八識の変化しながら相続流転し
    ていく世界、八識が各識とも「対象界を自ら映出しつつ」刻々変化して流れていく世界の上に、実
    我と実法が仮設される構造を唯識説は余すところなく整合的に説明したのであった。

  • 〇慢⑦邪慢〇

    〈邪慢〉は、まったく徳がないのに、徳があると思い込む慢心。

  • 〇慢⑥卑慢〇

    〈卑慢〉は、自分よりもはるかに優れた人に対して「なあに、たいしたことはない」と思う慢心。

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