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投稿コメント一覧 (5360コメント)

  • >>No. 9089

    〇「因縁全奪」はシマトリ神道(サンエ神道)〇

    >「因縁全奪」「相即相入」の「還相の縁起論」ともいえる「事事無碍法界」は
    >論理や知性では決して読み解けるものではないんじゃね!

    「因縁全奪」だから、釈尊の縁起と、「俺の新興宗教」の縁起とは違うというのか?
    「縁起の法則」から解放されこそ涅槃があると、法則性からの自由になり「何でもあり」が神道だ。
    シマトリ神道も、「縁起の法則」からの自由を宣言したが、サンエ氏も「法則性からの自由」を説く
    「サンエ神道」の樹立かな?

    知性と論理を放棄したサンエ神秘主義には華厳哲学を理解しようがないが、尽一切自己に向けて
    書いておこう。

    「……是て即ち期の六義に由りて、因縁全奪して縁起の勝徳を現ず」

    は「縁起因門六義法」の言。龍樹の『中論』の四句否定を「否定即肯定」の相依性の縁起の観点
    から説いている。

    四句否定という、「空の否定は肯定を含む」ということで、
    因縁全奪――絶対否定において、縁起の勝徳――絶対肯定の世界が開けるということ。

    「因縁全奪」即「縁起の勝得」
    という相依性から、相依性が分からずに、自分勝手に「縁起の勝得」を排除するのを偏見という。
    そして、空を否定の意味にしかとれない「空見者」を不治の病と、龍樹は厳しく糾弾する。
    両方向性の「観」と、一方向性の「見」は違うのである。

    サンエ氏は「空見」という不治の病で、仏法を知らないから、神道になってしまうのである。
    サンエ神道と呼ぼうか。

  • >>No. 9089

    〇華厳哲学は、知性と論理の挑戦だ!〇

    >「因縁全奪」「相即相入」の「還相の縁起論」ともいえる「事事無碍法界」は論理や知性では
    >決して読み解けるものではないんじゃね!

    知性と論理を放棄した神秘主義に落ちた外道さん。どこの新興宗教の教義かな?
    それとも「坐れば分かる」なんいう似非禅僧にでもなったつもりかな。

    悟りは、何かしら表現できて悟りです。

    だから、道元は『正法眼蔵』を書き、親鸞は『教行信証』を書いた。禅僧の語録は数知れず、
    空海も多くの論書を残した。

    で、華厳哲学というのは、中国華厳宗の「悟りの表現」。
    戯論寂滅の「語り得ぬ世界」に向っての論理の極限の挑戦だ。
    その知性と論理の挑戦を放棄したら華厳哲学を放棄したのと同じなのだよ。

    知性と論理を放棄したということは、「華厳哲学がわかりません」と証明したことだ。

    サンエ氏は、知性放棄の呆れた神秘主義者です。

  • 〇見とどけようとする、外道サンエ〇

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』125頁~――

    真宗の篤信者に三田源七という人がおります。この人若いころからなんとかご安心がいただきたく、
    諸国の篤信なる人から道を聞こうを、丹波からはるばる東海地方に出かけたり、三河国田村の和兵衛
    さんという人をたずねたのは、文久2年12月30日の夕刻でした。こういう熱心な求道者の眼には
    暮も正月もないようです。和兵衛さんはそのとき70余歳。しかも死の病の床に臥しており、それから
    3日目の正月2日に亡くなったそうですから、骨と皮ばかり気息奄々たるありさまでありました。
    源七さんはその姿を見て深く感動しましたが、早速聞いてみました。

    「ちょっとおたずね申し上げます。私は後生が苦になって、あなたのお育てを蒙ろうとわざわざたず
    ねてまいったものでありますが、お見うけすれば実にご大病のご様子、さぞお苦しいいことでござい
    ましょう。いよいよその身におなりになされては再びご全快のできますまいが、いまいよいよ出てゆ
    かにゃならぬと思いなされたら、先は明るいものでございますか、暗いものでございますか」

    和兵衛さんはニッコリ笑っていいました。「後生は明るいといえば明こうもなし、暗いかといえば
    暗ろうもなし、ただ病気が苦しい一つよりないわいの。もし明るい暗いをこちらで見にゃらならぬ
    ようなことなら、無になるお方があるでのう。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」。

    今度は源七さんを案内していった政四郎さんがたずねました。
    「このご大病のなかに念仏称えなさるは、ご恩を思うて称えるなさるか」
    そのとき病人は声を張り上げ、
    「政四郎さん、正四郎さん、往生は仏仕事と聞かせてもらう上からは、機(こちら側)の上のこと
    は聞かぬでもよいわいの!」
    「分かったようで分らぬが、たのむ一念のこと。たのむ一念を一口お知らせください」
    「そう、そう。それは凡夫では分からぬことじゃげな。蓮如さまでも分からぬと大背られげな。
    なぜ分からぬというたら、蓮師はご相承のまま伝えているじゃ。故に蓮師のいわくとして、「たのむ
    一念の沙汰をしたことはない」。『南無というは帰命』とか『南無とたのめば』と教えのままを伝える
    のじゃ。弥陀の仕事で弥陀のあたえることが、凡夫で知られるものかと仰せられたとある。故にたの
    む一念が知れたら往生不定、聞いても聞いても分からにゃ分からぬほど、いよいよ往生間違いなしと
    聞くじゃ」(三田老人物語「信者巡り」)

    この和兵衛さんの、後生の明るい暗いも、分かるも分からんぬも、たのむたあのまぬも、すべてこ
    ちら側で「見とどけようということなし」のところに大磐石のごとくどっかりと坐り込んで称えら
    れている念仏には、ことに胸をうたれます。

    「覚知せざれども一心称名の故に一心称名す」
    良寛さまのお歌に次のようなのがあります。深く味わいたいと思います。

    手にさはる物こそなけれ法の道 それがさながらそれにありえば」

    …………

    コピに疲れたが、その分だけ身体に染みこんでくる。
    守って、説いて、深められるのだから外道サンエ氏にも「ありがとう!」と言いたい。
    これは江戸時代の話である。サンエ氏のいう近代仏教でない。
    その昔から、真の真宗人は「見とどけようとしない」で、往生は仏の仕事と信頼し切るにである。
    仏を信頼し消えないで、後生が明るいとか暗いとか、自力で求め「見とどけよう」としている
    我執の欲張りサンエ氏じゃ、弥陀の本願を知見することはないだろう。

  • 〇我れまさに心を一切衆生と等しうすべし〇

    >感応出来る自分は
    >選ばれし法華の行者と思いますか?

    オイ! 菩薩道さえ知らない外道サンエ、いい加減にしなさい。
    選民意識でも、非選民意識でもない。
    「世界中の人々が幸せになれなければ人は幸せにれない」という宮沢賢治が法華の行者だ。
    大智度論には、
    「取得なきをもっての故に菩薩は常にこの念、所謂大悲の念を離れざるべし」とある。
    親鸞の念仏が「無所得」のように、私欲のない大悲を起こし、慈悲の手を一切衆生に差し伸べる
    のが菩薩である。

    「我れまさに一切所有を捨つべし」と地上の所有一切を否定し、
    しかし同時にキリスト教的天上をの否定し、
    「我れまさに心を一切衆生と等しうすべし」と地上の人間的生き甲斐に還帰する生き方を理想と
    して生きるのが、菩薩という理想的人間像だ。

    親鸞は「べきなり」……「なかなかできないなぁ」というが、その通りでなかなかできないで
    ある。できないのは当たり前であるけれど、それでも、そういう永遠なる理想的人間像を目指
    すのが「永遠の菩薩道」という「法華の行者」である。

    ところで退廃堕落したサンエ氏は、「無所得の念仏」「無義の念仏」にも目を向けない恥知らずで、
    とても仏教者といえないのである。

    小さな教団の小さな教義ばかりに担いでいないで、本物の仏法の少しは学びなさい!

  • 〇見とどけようとする、外道サンエ〇

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』125頁~――

    真宗の篤信者に三田源七という人がおります。この人若いころからなんとかご安心がいただきたく、
    諸国の篤信なる人から道を聞こうを、丹波からはるばる東海地方に出かけたり、三河国田村の和兵衛
    さんという人をたずねたのは、文久2年12月30日の夕刻でした。こういう熱心な求道者の眼には
    暮も正月もないようです。和兵衛さんはそのとき70余歳。しかも死の病の床に臥しており、それから
    3日目の正月2日に亡くなったそうですから、骨と皮ばかり気息奄々たるありさまでありました。
    源七さんはその姿を見て深く感動しましたが、早速聞いてみました。

    「ちょっとおたずね申し上げます。私は後生が苦になって、あなたのお育てを蒙ろうとわざわざたず
    ねてまいったものでありますが、お見うけすれば実にご大病のご様子、さぞお苦しいいことでござい
    ましょう。いよいよその身におなりになされては再びご全快のできますまいが、いまいよいよ出てゆ
    かにゃならぬと思いなされたら、先は明るいものでございますか、暗いものでございますか」

    和兵衛さんはニッコリ笑っていいました。「後生は明るいといえば明こうもなし、暗いかといえば
    暗ろうもなし、ただ病気が苦しい一つよりないわいの。もし明るい暗いをこちらで見にゃらならぬ
    ようなことなら、無になるお方があるでのう。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏」。

    今度は源七さんを案内していった政四郎さんがたずねました。
    「このご大病のなかに念仏称えなさるは、ご恩を思うて称えるなさるか」
    そのとき病人は声を張り上げ、
    「政四郎さん、正四郎さん、往生は仏仕事と聞かせてもらう上からは、機(こちら側)の上のこと
    は聞かぬでもよいわいの!」
    「分かったようで分らぬが、たのむ一念のこと。たのむ一念を一口お知らせください」
    「そう、そう。それは凡夫では分からぬことじゃげな。蓮如さまでも分からぬと大背られげな。
    なぜ分からぬというたら、蓮師はご相承のまま伝えているじゃ。故に蓮師のいわくとして、「たのむ
    一念の沙汰をしたことはない」。『南無というは帰命』とか『南無とたのめば』と教えのままを伝える
    のじゃ。弥陀の仕事で弥陀のあたえることが、凡夫で知られるものかと仰せられたとある。故にたの
    む一念が知れたら往生不定、聞いても聞いても分からにゃ分からぬほど、いよいよ往生間違いなしと
    聞くじゃ」(三田老人物語「信者巡り」)

    この和兵衛さんの、後生の明るい暗いも、分かるも分からんぬも、たのむたあのまぬも、すべてこ
    ちら側で「見とどけようということなし」のところに大磐石のごとくどっかりと坐り込んで称えら
    れている念仏には、ことに胸をうたれます。

    「覚知せざれども一心称名の故に一心称名す」
    良寛さまのお歌に次のようなのがあります。深く味わいたいと思います。

    手にさはる物こそなけれ法の道 それがさながらそれにありえば」

    …………

    コピに疲れたが、その分だけ身体に染みこんでくる。
    守って、説いて、深められるのだから外道サンエ氏にも「ありがとう!」と言いたい。
    これは江戸時代の話である。サンエ氏のいう近代仏教でない。
    その昔から、真の真宗人は「見とどけようとしない」で、往生は仏の仕事と信頼し切るにである。
    仏を信頼し消えないで、後生が明るいとか暗いとか、自力で求め「見とどけよう」としている
    我執の欲張りサンエ氏じゃ、弥陀の本願を知見することはないだろう。

  • >>No. 189591

    和弘さんは『涅槃経』にも生きている者ですよ。
    そして『涅槃経』は、中道という「修行の経典」です。
    『涅槃経』語るなら「修行」をしましょうね。

    釈迦も達磨の修行中!
    修行生活は、常楽我浄だ!

  • 〇親鸞聖人の念仏に値段をつけるお粗末サンエ氏○

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』122頁~――

    ところでそれでは坐禅乃至称名の信仰とは何かと言えば――正しい坐禅、正しい称名をすることです。
    「正しい」とは坐禅するときは坐禅にまかせ、称名するときは称名に任せるということです。
    そこに我を働かせ、こちら側の思いで坐禅の行き先を見届けようとしないことです。
    やれ悟りをひらこうの、なんのかんのと。称名も場合も同じこと。称名の効果をこちらの思いで味わ
    おうとしないことです。皆得解脱したろうか、極楽行き間違いなかろうか、なんのかんのと。

    ところがどうも私たちときたら、どこまでも「私たちの思い」によい値段のつくことがうれしいのです。
    たとえば坐禅をするといっても、スカーッと透明に澄んだ、よい気分で坐禅せねば坐禅ではないと思い、
    称名念仏するといっても、いかにもこれが皆得解脱であり往生必定の結構な念仏と思えなければ物足りず、
    承知しない心があります。

    この「よい値段のつくこと」がすでに「値段のついたお粗末品」でしかないことについては、すでにくり
    かえし述べてまいりましたが、まことに「これこそいい坐禅になった」と思い「いい境涯の称名」と思う
    ことさえ、もはや坐禅にまかせ称名にまかせていることにならないのであって、結局正しい坐禅、正しい
    称名にはならないのです。

    その点、道元禅師の坐禅とか、親鸞聖人の念仏というものは、こちら側の覚知にゴッツときたとか、パッ
    とひらめいたとか、などという冗談みたいな坐禅や念仏ではないのです。どうせ凡夫の迷情にゴツンと
    きても、パッとひらめいても、タカが知れています。そんなことではなく、一生を通じて喜びも悲しみも
    幾山河――それを乗り越え、乗り越えしているなかを通じて、どこともいえず、なんということもできな
    いところで、しぶい底光りをしているような、あるいは「不動の坐り」とでもいったような「生きる力」
    「真実の宗教」としての坐禅であり、念仏です。

    …………

    親鸞聖人のように三回の「夢告」を受けて、「俺はいい境涯になった」というのは、親鸞の念仏以前の
    絵空事にうつつを抜かしているということでしょう。親鸞の念仏は、そういう「俺はいい境涯になった」
    と、我執の思いを持ち込まない、先を見届けようとせず、ただ念仏するという、意義を求めない念仏。

    ところが、我執を手離せないサンエ氏は、オレも思いを持ち込み、先を見届けようとする信心で、
    信仰態度が外れてしまっているのです。

    私が学んだ、親鸞の信仰態度とは真逆だから外道というのです。
    サンエ氏は、真宗の中でも、主流の東西本願寺派から全く外れた異端ですが、仏法からの外れてしまっ
    ているようです。

  • >>No. 580

    〇我れまさに心を一切衆生と等しうすべし〇

    >感応出来る自分は
    >選ばれし法華の行者と思いますか?

    オイ! 菩薩道さえ知らない外道サンエ、いい加減にしなさい。
    選民意識でも、非選民意識でもない。
    「世界中の人々が幸せになれなければ人は幸せにれない」という宮沢賢治が法華の行者だ。
    大智度論には、
    「取得なきをもっての故に菩薩は常にこの念、所謂大悲の念を離れざるべし」とある。
    親鸞の念仏が「無所得」のように、私欲のない大悲を起こし、慈悲の手を一切衆生に差し伸べる
    のが菩薩である。

    「我れまさに一切所有を捨つべし」と地上の所有一切を否定し、
    しかし同時にキリスト教的天上をの否定し、
    「我れまさに心を一切衆生と等しうすべし」と地上の人間的生き甲斐に還帰する生き方を理想と
    して生きるのが、菩薩という理想的人間像だ。

    親鸞は「べきなり」……「なかなかできないなぁ」というが、その通りでなかなかできないで
    ある。できないのは当たり前であるけれど、それでも、そういう永遠なる理想的人間像を目指
    すのが「永遠の菩薩道」という「法華の行者」である。

    ところで退廃堕落したサンエ氏は、「無所得の念仏」「無義の念仏」にも目を向けない恥知らずで、
    とても仏教者といえないのである。

    小さな教団の小さな教義ばかりに担いでいないで、本物の仏法の少しは学びなさい!

  • 〇親鸞聖人の念仏に値段をつけるお粗末サンエ氏○

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』122頁~――

    ところでそれでは坐禅乃至称名の信仰とは何かと言えば――正しい坐禅、正しい称名をすることです。
    「正しい」とは坐禅するときは坐禅にまかせ、称名するときは称名に任せるということです。
    そこに我を働かせ、こちら側の思いで坐禅の行き先を見届けようとしないことです。
    やれ悟りをひらこうの、なんのかんのと。称名も場合も同じこと。称名の効果をこちらの思いで味わ
    おうとしないことです。皆得解脱したろうか、極楽行き間違いなかろうか、なんのかんのと。

    ところがどうも私たちときたら、どこまでも「私たちの思い」によい値段のつくことがうれしいのです。
    たとえば坐禅をするといっても、スカーッと透明に澄んだ、よい気分で坐禅せねば坐禅ではないと思い、
    称名念仏するといっても、いかにもこれが皆得解脱であり往生必定の結構な念仏と思えなければ物足りず、
    承知しない心があります。

    この「よい値段のつくこと」がすでに「値段のついたお粗末品」でしかないことについては、すでにくり
    かえし述べてまいりましたが、まことに「これこそいい坐禅になった」と思い「いい境涯の称名」と思う
    ことさえ、もはや坐禅にまかせ称名にまかせていることにならないのであって、結局正しい坐禅、正しい
    称名にはならないのです。

    その点、道元禅師の坐禅とか、親鸞聖人の念仏というものは、こちら側の覚知にゴッツときたとか、パッ
    とひらめいたとか、などという冗談みたいな坐禅や念仏ではないのです。どうせ凡夫の迷情にゴツンと
    きても、パッとひらめいても、タカが知れています。そんなことではなく、一生を通じて喜びも悲しみも
    幾山河――それを乗り越え、乗り越えしているなかを通じて、どこともいえず、なんということもできな
    いところで、しぶい底光りをしているような、あるいは「不動の坐り」とでもいったような「生きる力」
    「真実の宗教」としての坐禅であり、念仏です。

    …………

    親鸞聖人のように三回の「夢告」を受けて、「俺はいい境涯になった」というのは、親鸞の念仏以前の
    絵空事にうつつを抜かしているということでしょう。親鸞の念仏は、そういう「俺はいい境涯になった」
    と、我執の思いを持ち込まない、先を見届けようとせず、ただ念仏するという、意義を求めない念仏。

    ところが、我執を手離せないサンエ氏は、オレも思いを持ち込み、先を見届けようとする信心で、
    信仰態度が外れてしまっているのです。

    私が学んだ、親鸞の信仰態度とは真逆だから外道というのです。
    サンエ氏は、真宗の中でも、主流の東西本願寺派から全く外れた異端ですが、仏法からの外れてしまっ
    ているようです。

  • 〇信仰態度が外れたサンネ氏(聖道門?)○

    >素直に聖教を読む謙虚さが君には著しくかけてる。

    ほう「聖教」って、サンエ氏は浄土門ではなくて聖道門なのかな?
    正道門にとても入れない、戒も守れない悪人だから浄土門に入る以外にないというのが親鸞だ。
    それを、「俺の浄土門こそ正教だ!」と我教になるからチグハグになるのだよ。
    聖道門だというのなら、正法のレスをしよう。

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』116頁~――

    ……居眠りの格好をしながら、自分の思い描くサトリについて「サトリとはあれではないか」
    「これではないか」と追い求めていることが、坐禅であるはずがないということは、よくよく
    呑込んでおきたいものです。

    坐禅が「身構え」という全身行動であるのに反し、称名念仏が「心の中での音」「口で称える音」
    という部分的身体行動であるため、「信仰態度」と「称名念仏という行」とが、ともするとなお
    いっそうチグハグになってしまう場合が多いことは、どうも止むを得ないことでしょう。
    その点からいえば浄土教系の人々の言葉とは反対に、なんといっても念仏称名は難行であり、
    坐禅こそ易行です。親鸞聖人が信を特に大切にされるのも、念仏においては信仰態度が外れれば
    まったくチグハグになってしまうからです。

    …………

    親鸞聖人の信仰態度は、信用取引の念仏ではく、たとえ騙されてもという見返りを求めない
    「信頼関係」の念仏である。その無義という信頼に背負むけて、見返りを求める信用取引を
    しているのがサンエ氏だ。信仰態度が外れているからチグハグなのさ。

  • ○「本願召喚の勅命」に屁をするサンエ氏○

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』116頁~――

    一心称名とは「値段づけによってちっともよごされないところからの一心称名」ということなのです。
    しかもこの一心とは三界宇宙ぶっ続きの一心なのですから、その称名はいわば「宇宙から鳴る音」です。
    私が覚知しよとしまいとにかかわらず、私の正体においてこの「宇宙からの音」が鳴りひびいています。

    「覚知せざれども一心称名の故に一心称名す」
    一心称名とはこの「宇宙からの音」をそのまま口に称えるだけです。

    親鸞聖人はこの自己の正体からのナントモナイという音が立てられていることを、「本願召喚の勅命」と
    呼ばれます。その「絶対性」が天子の勅命のごとくだというのでしょう。それにまかせて念仏することを
    「他力本願の念仏」と呼ばれますが、この際「他力」と呼ばれても、アミダという他人の力をいっている
    のではないことはもちろんです。もしもアミダが他人なら、このアミダに「まかせる」という「自力」だ
    けは少なくとも働かなくてはならなくなりますから――そうではなくアミダ(無量寿、無量光)とは普段
    の私に覚知されないで、一応他力といいますが、実はほかならぬ私自身の正体なので、それ故、正確にい
    ばそれは絶対他力であると同時に絶対自力というべきです。

    ………

    「本願召喚の勅命」に現在呼ばれているのに、それに屁をして、厚化粧した自分のアタマを求めている、
    というのがサンエ氏の正体なのです。

    呼ばれているのだから、首を回して、「ハイ!」と返事をしなければ聞こえるものの聞こえない。

  • ○計らない――唯嫌揀択――無相離念――無義の念仏○

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』81頁~――

    つまりここのところは、どうしても名前や言葉にクラマサレズ、教理や神話にマヨワサレズ、
    「実物がなんであるか」ということに対して大きな目をひらいてよく見るべきです。実物につき
    当たらぬかぎりいかなる言葉をもってしても「絶対という名のミイラ」をつかんでいるにすぎな
    いのだし、実物にさえ出逢えば、もちろんそれらいずれの言葉をもってしてもいいはずですから。
    ではその実物とは何か――。

    信心銘には「至道難きことなし。ただ揀択を嫌う」とあります。「至道無難」とは、いまいう絶対
    現成は何も深遠難解な教理教説の向こう側にあるのではなく、いかなる人の前にも実に坦々たる
    大道としてひらかれてあるぞということです。それでは大道は何かといえば「唯嫌揀択」―――
    つまり「モノサシを当てぬことだ」と。――これはまたどうして、神だの空だの諸法実相だのと
    いうよりは、ずんとわが身に引き寄せられ、「われわれ自身いま採るべき態度」という実物に即し
    て具体的に教えられてあります。われわれ寸分のモノサシでももつかぎり、もはや相対性のなか
    に引き込まれてしまうからです。そこで同じ信心銘の中には「須く見を止むべし」ともあります。

    ところがどうもわれわれときたら、この親切な教えを聞いですらなお、「それではどうしたら揀択
    せずにいられるか」「どうしたら見を息めることができるか」とまた考え込んでしまいます。
    まさにこう考え込むことこそが「揀択し」「見をもつ」ことにほかならないのですのに。――――
    まず「見を息める」とは、そんなふうに「どうしたらいいか」とも「そんなことができるだろうか」
    とも――「とも何とも思わないことなのだ」というところをよく決定しておくべきです。
    そしてむしろ「唯嫌揀択」「須息見」とは、すでに存在するところの揀択や見をやめようとするこで
    はなく、かえって「揀択が成立する以前」「モノサシで測る以前」ということなのです。

    ………

    「計るな」と教えた親鸞は、揀択が成立する以前」「モノサシで測る以前」を「無相離念」と示し、
    その実践行として、「無義の念仏」という、「意義を求めない念仏」、なにも思わない念仏を勧めた。

    それが如来(釈尊悟りの内容・空)と交流する道なのに、欲の皮の熱いサンエ氏は、それ以上の
    宝物がある想念して絵空事を描いて、「煩悩のままでいい」と退廃堕落して恥知らずになっている
    である。

  • ○「あるがまま」を人間根性のままとする退廃堕落サンエ〇

    9076の続き。退廃堕落サンエの証明です。

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』80頁~――

    古代、インド人は早くからこの絶対ということを積極的に定立することの論理的矛盾について
    気付いていたようです。彼らはわれわれ人間の言葉をもって「絶対者が在る」と、取りたてて
    その「実在」をいおうとすれば、その絶対者には当然相対者が対立させられ、そのために絶対
    者「相対に対する絶対」に変貌してしまうであろうことを知っていました。すでにウパニッシ
    ャドのヤージュニャヴァルキア仙の言葉に、

    「この我(絶対)はただ『あらず、あらず』と説き得るべきのみ。彼は不可促なり。なんと
    なれば彼は捕捉せらればなり」

    とありますが、同じく仏教でも真なる絶対なるものを表現するのに、決して積極的「実在」と
    していわずに、かえってただ「否定」を通じて暗示しようとしました。――つまり「空」とか
    「無性」という否定的言葉をもっていいあらわされるところは、単に空無(虚無)なのでしょ
    うか。もしそうであったら再び単なる「有に対する無」「相対に対する絶対」でしかなくなって
    しまいます。そこでさらに言葉を替えて「諸法実相」(ありのまま)などという言葉さえも出て
    くるのです。――しかしああ、なんとヤッカイなことでしょう。

    しかもこの際、実はこれらの言葉さえも当たらないようです。なんとなればこれはまったく言
    葉の問題ではないのですから。ごらんさない! なるほど述べたように、絶対者神を積極的に
    「実在」として定立すればこそ、キリスト教徒はともにこの神を「人間根性をもって」受け取
    り、神の名の下に「選民的傲慢さ」をもったり、謙遜の名を下に「徳の誇り」というトゲをも
    ったり、さらには「神の名による裁き」までしてしてしまっています。

    それでは仏教のように「空」とか「無性」とかいう否定をもって表現すればどうかというと、
    今度はその否定さえも「人間根性をもって」受け取ってしまい、小乗的隠遁の気楽さ、灰身滅智
    の利己主義を絶対的生き方と思う。――これではいけないと諸法実相(ありのまま)といえば、
    「人間根性」は人間根性のままでいいのだと、まったく退廃堕落して恥を知らぬということに
    なる――いまの仏教界の現状がその一目瞭然の見本を提供してくれています。

    …………

    テレゼ氏に、神の名の下の「選民的傲慢さ」が見え隠れしますが、「人間根性のままでいい」と
    いうサンエ氏が、退廃堕落の恥らずの見本を提供してくれているではありませんか。

  • ○ありのまま「勝たず負けず、得せず損せず」○

    サンエ氏ように「ありのまま」を、「煩悩は煩悩のままでいいのだ!」という人は、内山興正は
    退廃堕落の恥知らずと叱ります。それが本覚のボタンの掛け違いという日本仏教の堕落でしょう。
    観音信心の聖書のような内山興正『観音経・十句観音経を味わう』78頁~。

    ところでここに絶対ということ、神ということ、戒律ということ、悪ということ、悟りということ、
    無我ということ――宗教とはまさしくこれらのことを問題とするわけですが、このことは大変むず
    かしい問題です。というのは、だいたいわれわれ人間の理知というものは相対的なもので、
    「勝った負けた、得した損した」の話ならとてもよく分かるのですが、「勝たず負けず、得せず
    損せず」の絶対の話となると、不通の電話みたいにてんで話が通じなくなります。いやんやこの
    理知にのせて「絶対」ということを取りたてていおうとすることは、それ自身論理的矛盾を惹起
    することにもなります。

    といって絶対に対するアコガレは誰にでもあるわけで、そこでこの需要に応じて神話やら伝説やら
    の形でさまざま語られ、あるいは教義として教権としアタマから教えられ命令されるでしょう。
    ところがそうしたなかにいよいよ絶対は真の絶対から遠くなり、単なる博物館行きの「絶対として
    のミイラ」がおしつけられてしまいます。いや博物館でおとなしく横たわっているならいいです
    けれど、この絶対という名のミイラをご神体として、教団とう神輿に乗せ、好んでお祭り騒ぎを
    したがる宗教的偏執者はいつの時代でも多く、またそれをかついで一儲けしようというヤマコ連中
    もいるわけで、こうなると宗教という名の下にとんだ社会的害悪を流してしまいます。

    …………

    教義をそのまんま信じて、教団という神輿に乗せてお祭り騒ぎをしている代表的な存在が、退廃
    堕落したサンエ氏である。だから「勝った負けた」と騒いでいる。
    宗教とは「勝たず負けず、得せず損せず」ことだが、サンエ氏と同様にテルゼ氏も「勝った負けた」
    と騒いでいる。二人との社会的害悪を流していると言えよう。

    まあ、煩悩具足の私は、知らぬ間に人を傷つけているようだから、仏の前に立ってみようか。

  • >>No. 9095

    〇信仰態度が外れたサンネ氏(聖道門?)○

    >素直に聖教を読む謙虚さが君には著しくかけてる。

    ほう「聖教」って、サンエ氏は浄土門ではなくて聖道門なのかな?
    正道門にとても入れない、戒も守れない悪人だから浄土門に入る以外にないというのが親鸞だ。
    それを、「俺の浄土門こそ正教だ!」と我教になるからチグハグになるのだよ。
    聖道門だというのなら、正法のレスをしよう。

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』116頁~――

    ……居眠りの格好をしながら、自分の思い描くサトリについて「サトリとはあれではないか」
    「これではないか」と追い求めていることが、坐禅であるはずがないということは、よくよく
    呑込んでおきたいものです。

    坐禅が「身構え」という全身行動であるのに反し、称名念仏が「心の中での音」「口で称える音」
    という部分的身体行動であるため、「信仰態度」と「称名念仏という行」とが、ともするとなお
    いっそうチグハグになってしまう場合が多いことは、どうも止むを得ないことでしょう。
    その点からいえば浄土教系の人々の言葉とは反対に、なんといっても念仏称名は難行であり、
    坐禅こそ易行です。親鸞聖人が信を特に大切にされるのも、念仏においては信仰態度が外れれば
    まったくチグハグになってしまうからです。

    …………

    親鸞聖人の信仰態度は、信用取引の念仏ではく、たとえ騙されてもという見返りを求めない
    「信頼関係」の念仏である。その無義という信頼に背負むけて、見返りを求める信用取引を
    しているのがサンエ氏だ。信仰態度が外れているからチグハグなのさ。

  • ○如来は空性である〇

    『法華経』の久遠実成の仏、すなわち釈迦牟尼仏は空性である。

    空性とは有でも無でもなく、自己の囲いを開き、十方に自己を消散し拡散できるゼロなる無限である。
    空性とは有での無でもなく、自己の囲いを開き、十方に自己の波動を広げることできるゼロなる無限。

    「ゼロなる無限」という法身だからこそ、多くの菩薩に自己を拡散できる。
    その菩薩も「ゼロなる無限」だかこそ、多くの神に自己を拡散できる。

    その「ゼロなる無限」の法身を、一方向的な根源神にしてしまうと、如来の働きとしての菩薩たちは
    消えてしまうのである。すると菩薩(如来の働き)は消える。

    「ゼロなる無限」の法身は自己否定し自己を消散させ、私たちに智慧と慈悲を降り注いでくれている。
    私たちが気づかない自己の本性も「ゼロなる無限」で、自己を囲った「我執の自己」の囲いを開き、
    自己を消散し拡散しないと、「ゼロなる無限」と「ゼロなる無限」の交流はない。

    釈迦牟尼仏は空性だから、一切が自己として無限へと拡散する。
    それを一方向的な根源神にしてしまったら、自己は孤立するばかりだ。

    如来が空性なら、真実の自己のまた空性である。
    空性どうしなればこそ、二極の相依統合という愛の道が開ける。

  • ○「本願召喚の勅命」に屁をするサンエ氏○

    ――内山興正『観音経・十句観音経を味わう』116頁~――

    一心称名とは「値段づけによってちっともよごされないところからの一心称名」ということなのです。
    しかもこの一心とは三界宇宙ぶっ続きの一心なのですから、その称名はいわば「宇宙から鳴る音」です。
    私が覚知しよとしまいとにかかわらず、私の正体においてこの「宇宙からの音」が鳴りひびいています。

    「覚知せざれども一心称名の故に一心称名す」
    一心称名とはこの「宇宙からの音」をそのまま口に称えるだけです。

    親鸞聖人はこの自己の正体からのナントモナイという音が立てられていることを、「本願召喚の勅命」と
    呼ばれます。その「絶対性」が天子の勅命のごとくだというのでしょう。それにまかせて念仏することを
    「他力本願の念仏」と呼ばれますが、この際「他力」と呼ばれても、アミダという他人の力をいっている
    のではないことはもちろんです。もしもアミダが他人なら、このアミダに「まかせる」という「自力」だ
    けは少なくとも働かなくてはならなくなりますから――そうではなくアミダ(無量寿、無量光)とは普段
    の私に覚知されないで、一応他力といいますが、実はほかならぬ私自身の正体なので、それ故、正確にい
    ばそれは絶対他力であると同時に絶対自力というべきです。

    ………

    「本願召喚の勅命」に現在呼ばれているのに、それに屁をして、厚化粧した自分のアタマを求めている、
    というのがサンエ氏の正体なのです。

    呼ばれているのだから、首を回して、「ハイ!」と返事をしなければ聞こえるものの聞こえない。

    守って、説いて、深める材料になっていただき、感謝で一杯です。
    ありがとう!ありがとう!ありがとう!

  • >>No. 9095

    〇守って、説いて、深める〇

    >ストーカー行為は君の道ではなかろん!?

    と意味づけたらなら、警察に訴えてみてはいかがかな?
    餓鬼だから「川の水が膿に見えるのだろう」
    意味づけはアナタの勝手だが、私のレスの目的は、

    外道サンエから、仏法を守って、説いて、そして深めているんだよ。

    守って、説いて、そして深める。

    その材料にサンエ様が成ってくれているのです。
    正法を深め広めるために外道に身を落としてくれて、ありがとう!ありがとう!

    これからもよろしく !(^^)!

  • 2017/07/29 13:00

    ○如来は空性である〇

    『法華経』の久遠実成の仏、すなわち釈迦牟尼仏は空性である。

    空性とは有でも無でもなく、自己の囲いを開き、十方に自己を消散し拡散できるゼロなる無限である。
    空性とは有での無でもなく、自己の囲いを開き、十方に自己の波動を広げることできるゼロなる無限。

    「ゼロなる無限」という法身だからこそ、多くの菩薩に自己を拡散できる。
    その菩薩も「ゼロなる無限」だかこそ、多くの神に自己を拡散できる。

    その「ゼロなる無限」の法身を、一方向的な根源神にしてしまうと、如来の働きとしての菩薩たちは
    消えてしまうのである。すると菩薩(如来の働き)は消える。

    「ゼロなる無限」の法身は自己否定し自己を消散させ、私たちに智慧と慈悲を降り注いでくれている。
    私たちが気づかない自己の本性も「ゼロなる無限」で、自己を囲った「我執の自己」の囲いを開き、
    自己を消散し拡散しないと、「ゼロなる無限」と「ゼロなる無限」の交流はない。

    釈迦牟尼仏は空性だから、一切が自己として無限へと拡散する。
    それを一方向的な根源神にしてしまったら、自己は孤立するばかりだ。

    如来が空性なら、真実の自己のまた空性である。
    空性どうしなればこそ、二極の相依統合という愛の道が開ける。

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