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投稿コメント一覧 (839コメント)

  • >>No. 19302

    ●拝啓、道徳心理学者様●

    「気に入らないやつ」
    という言語による思惟でしょう。

    あなた様は、仏教以前の「道学者」、道徳心理学者のようですね。
    苦の根本原因を探る深い世界があるのですがね……。
    参禅したらいかがですか?

    貴女の目指しているのは真空地帯のようですので、
    対話にならないから、毒と薬を和合して、

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

  • >>No. 19302


    ●善悪を思わず、是非を管することなかれ――言語以前●

    臨済禅に参じている私は『坐禅和讃』だが、道元の『普勧坐禅儀』については内山興正老師を通じて
    学んでいる。内容の本質は、『坐禅和讃』でも『普勧坐禅儀』でも変わりはしない。

    『普勧坐禅儀』に次のようにある、
    坐禅の時には、
    「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を管すること莫れ、心意識の運転を停め、
    念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ」
    とある。
    これは、言葉では何とも表現できない世界で、善悪という言語に発生する以前である。
    実践的に言い換えれば、思い浮かんでくる言語を捨離すること、興正さんの言葉を借りれば
    「思い手放し」。深層から浮かんでくる言語を手離し続けて「ただ坐る」
    悟りという言語も手放し続けてただ坐るとなる。

    言語以前に帰り続けることである。
    そこから、ふわっと、智慧が現成する。

  • >>No. 19297

    >さらにつきつめると、「生への欲望」ということに帰結されるらしいけど。

    「生への欲望」とは生きることでしょう。
    その欲望を整理整頓するために、真っ新な、言語による分別のない世界に帰る
    というが禅の禅定です。
    貴女に禅の経験がないということを知りました。

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

  • 2018/06/22 16:42

    >>No. 19294

    ●禅がボンクラだと●

    >対立感情の原因が「言語」だなんて、ぼんくらすぎる。

    そうお思いですか。
    禅は、言語以前に帰るといいますから、
    「禅が、ボンクラ過ぎる」ということですね。
    貴女が禅嫌いだということが分りました。

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

  • >>No. 19292


    ●貴女の気にいることだけが、愛ではありません●

    イエスは、ユダヤ教会に嫌われ、十字架にかけれらたでしょう。
    目連尊者は、布教先で撲殺される。

    貴女の解する愛は、貴女に得るもがあるかどうかの「有償の愛」
    仏の慈悲(無償の愛)には、嫌われる勇気を伴うのです。

    貴女の気にいることだけが、愛ではありません。

  • 2018/06/22 16:26

    >>No. 19289

    19288は、19284に対しての投稿です。
    19287に対しては、19292です。

    ホラホラ、掲示板は、対話ではなく争議になってしまいますね。
    優しいだけが愛でありません。
    厳しい愛もあります。
    だから、毒と薬を和合し、

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

  • >>No. 19287

    「気に入るか、気にいるか」
    という、
    貴女の二元対立を和合するという「愛」が必要だということです。

    「すべては愛」でしょう。

  • >>No. 19284

    >全然違いますよ。 言語などではありません。

    言語が世界を二分します。
    全体性を阻害し、他立概念を作る根本原因は言語でしょう。

    人間は欲望で生きいてるのであり、欲望がなければ生きられません。
    表面的な分析ではなく、苦しみの根本原因を探っているのです。

    自己を深く内省するのが禅ですがね……。

    知識がないと対話は無理でしょうね。
    だから、

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

    ただ風に抗するだけです。

  • >>No. 19283


    ●対話の条件が整わないから、毒と薬が仲良く手をつなぐ●

    >鳩は、真空では飛べない。
    >鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。

    >↑これ。 ナルシストの象徴だと思います。

    という方がいるようだが、これは、カントの「純粋理性批判」で学んだもの。
    掲示板は、「対話の条件」が整わないから、そこで、何ができるかの試験飛行。
    毒も薬になります
    お得意の、毒と薬の非二元。
    毒と薬の不二一元などというのはいかがでしょうか。
    毒と薬が仲良く手をつなぐ――愛です。

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

  • 2018/06/22 15:50

    >>No. 19279

    ヨコから失礼。

    >やはりお互いに視点がことなるのでしょうね?

    人は主観で生きているようです。

    >私は、まずはじめに人間の対立感情の原因を探りたいと思います。

    突き詰めれば「言語」だと思います。
    「言語以前」に帰ると、関係性という現象世界の真実が見えて来るようです。

    「言語以前」が「不可分一体性」なのでしょうが……。
    行ったきりにはならず、帰り続ける凡夫でいることが幸せのようです。

    『中論』が言語哲学のようです。

  • >>No. 19280

    >相変わらず、人の投稿の趣旨を読み取ることに関して、異様に鈍感だね。

    ハイ!
    尽一切自己ですから、ナルちゃんの一面はありませんね。

    それはそれとして、
    リアルと違って、掲示板は、顔が見えませんから、対話の場でないと思っています。
    掲示板に対しての「意味付け」が違うのでしょう。
    逆風に対して、ただ空を舞うだけです。

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――

  • 掲示板では「大乗批判」が多い。
    というか、日本仏教批判だろう。
    葬式仏教の坊主さんが為体になっているからそれも分からいわけではないが、
    寺の維持にも金がかかり僧侶も困っていることは確かだ。

    だから不二一元(梵我一如)という、仏教以前のインドの先祖返りになるだろうか?
    難しいことに挑戦することの良いことではないか。

    しかし、「一元」に対しては、反対を表明し続けて行きたいと思う。

  • >>No. 19276

    ●チンプンカンプンも仏の慈悲○

    一般的に、「ナルちゃん」とは、皇太子徳仁(なるひと)親王を指す幼少期の愛称。
    ですから、それは無理でしょう。
    それとは別に、貴兄の造語でしょうか。
    凡夫の和弘には、チンプンカンプンです。申し訳ありませんね。
    しかし、大乗批判なのでしょうが、チンプンカンプンの逆風も仏の慈悲。
    面白い方です !(^^)!

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――


  • ●唯識は大乗仏教の基礎学(心の世界遺産)●

    竹村牧男『成唯識論を読む』15ページから。

    そのように唯識は極めて正統的な立場を表明します。唯識があってこそ、たの学派の考え方も
    意味がでてくるのです。そのことにおいても、大乗仏教の基礎学であり、標準となるものです。
    そういう意味で、唯識はなかなか重要な思想体系であると思うのです。そういう壮大な思想体系
    が我々には残されているわけ、最近、建造物等で世界遺産というものがいろいろ指定されていま
    すが、興福寺に伝わるこの唯識の思想こそは、まさに最高の「心の世界遺産」ではないでしょうか。


  • ●親鸞の横超は、唯識の三劫成仏において際立つ●

    竹村牧男『成唯識論を読む』15ページから。

    親鸞聖人になりますと「信満成仏」というか、信を得たときにもう弥勒と等しい、如来と等しいという
    かたちになります。それは横超というようなことになるわけですが、その意味は、唯識で、凡夫から
    仏になるまで大変長い時間がかかる、三大阿僧祇劫という気の遠くなる時間がかかる、ということが
    きちんと、ということがきっちと述べられている、そのことに対して際立ってくるものです。
    『華厳経』では、初めて菩提心を発したときに正覚を成ず、といいます。その『華厳経』の立場も、
    唯識をきちっと修行してのプロセスが招かれているからこそ、大きな意味を持ってくるのです。


  • ●法然の背景に唯識の仏身論●

    竹村牧男『成唯識論を読む』14ページから、

    日本の多くの人々を捉えている仏教というと、やはりいわゆる鎌倉仏教になるのでしょう。
    一番最初にその道を開いた法然上人は、比叡山で長く勉強したのでしたが、南部にも留学して
    法相宗の学問も修めています。法然上人が思うには、凡夫が真実の仏国土、報身、化身でいうと
    報身の仏国土(報土)に往生させていただくことは、本当に可能なのであろうか。天台によれば、
    一見可能なようだけれども、仏身、仏土論が弱い。唯識は仏身・仏国土が非常に懸命に克明に分析
    されているけれども、凡夫が報土へ行くことは否定している。どうしたものであろうか。法然上人は
    その思いの中で、ようやく善導の『観経疏』の一文に出会って、凡夫であっても阿弥陀仏の本願に
    よって報土に往生させていただける。そういう確信を持って、念仏を広められた。ですからその背景
    に唯識があるのです。

  • >>No. 19273


    ●今の命を真剣にただ生きるだけ●

    >中年過ぎの大乗仏教独学でナルちゃんやるってのは、絶対むりだね。

    何が無理なのでしょうか?
    大乗仏教とは「今を真剣に生きる」――ただそれだけです。
    どんな境遇でも主体的に生きる。
    逆風の中でこそ、今の命を真剣に生きる。

    鳩は、真空では飛べない。
    鳩は、抵抗する風を揚力として空を舞う。
    逆風をありがとう。

    ――風に抗して――


  • ●スポーツ経験の中で(涙の底の喜び)●

    高校時代、花園から帰って来たラグビー部の友二人が、家に帰る前に、私の家に寄ってくれて言った。
    「この気持ち何なのだろう。和弘は分るよな。」
    勝つために、自分の限界に挑み、真剣にスポーツをし、県で優勝し、全国大会に出場できたとしても、
    敗けない優勝校は一校であり、いつかは必ず負けるのがインターハイである。
    勝つために、苦しい練習をしてき負けるのは悔しくて、涙が出る。
    それでも、その悔しい涙という深い悲しみの底に、言葉には表現できない「言語道断の喜び」がある。
    悔しさという悲しみの底の喜び。
    悲しみと喜びが交差し、悲しみと喜びの対立を超えた「深い感動」。
    その感動が、再び、苦しい練習を再開さることになる。
    その深い悲しみと深い歓びの交差する中で、スポーツは人の鍛え、また人間の心を知る。

    勝つために懸命に努力をし、勝ち、そして敗けることに意味がある。
    敗者となって悔しさに泣くことに意味がある。

    そんな相対を超えた禅的な世界を教えてくれたのは剣道部の監督であった。

    高校時代に剣道をしていて、県の団体戦で優勝し、インターハイに出場して二回戦で敗れた。
    私が敗けために団体戦で負けたので、悔しさよりも責任感を感じて茫然としていると、キャップ
    が「悔しい!悔しい!」と大泣きしている。彼に駆けよって「俺が悪かった」と慰めていた。

    一泊して学校に帰って来ると、キャップ以外の選手4人が職員員室に呼ばれると、監督が言った。
    「キャップが泣いているのに、なぜ和弘は泣けなかったのか! 悔しくないのか。真剣に練習し
    ていれば悔しいはずだ。スポーツというのは、真剣に練習して負けて泣くことに意味がある。
    敗けて泣けない奴は真剣に練習していなかったのだ」
    私は眼が覚めた。キャップのように、真剣に練習していなかったのだ。
    苦しい練習の日々の一コマ一コマを、キャップのように真剣に生きていなかったと思った。
    スポーツの真の目的は、日々自己の身心を深め向上させる今にある。

    人生とは、常に途中である。
    届かぬ理想を求めての旅の途中こそが命なのだ。
    剣禅一如というが、高校時代に、すでに「即今・今ここ」の禅的生き方の尻尾を見せてもらっていた。

    ワールドカップも、チャンピオンを目指し、幾つもの山を越える「今・ここ」に意味がある。


  • ●多くの別々の心が仮に和合●

    読みながら書くとまとまるから、この場をお借りして、読みながら書いてみたい。
    竹村牧男『成唯識論を読む』12ページから、

    仏教は昔から心を一つのものと見ません。
    多くの別々の心が仮に和合して心理現象を構成するとかんがえます。
    釈尊のもっとも初期に説法に「五蘊無我」という教えがあります。
    五蘊の色・受・想・行・識の、最初の色は物質要素。
    受・想・行・識は別々の心として分析されたものです。
    受は、感情、
    想は、認知、
    行は、意志、
    識は、智性、
    それらは別々の心であって、そういうものが縁によって仮に和合して流れている。
    その相続があるのみなのであり、常住で、不変で、かつ主体的な存在、常・一・主宰の我、
    すなわちアートマンは、一切ない。これが無我の教えです。

    無我というのは、自分が全く存在しないわけでもなくて、常・一・主・宰であるものは存在しない
    ということです。

    無我というのは自分が全く存在しないのではなくて、常・一・主・宰であるものは存在しないと
    いうことです。現象としての自己はないわけではありません。その現象の自己において、根本的な
    主体な主体をどこで見出すかが問題になるかと思いますが、ともかく、五蘊無我の教えでも、心を
    別々のものの複合体として考えていて、単一の自我はないということです。
    唯識はその心がさらに細かく分析されているわけです。


  • ●『成唯識論』人間まるごと煩悩(苦諦)●

    『成唯識論』がご登場したので、読み返したいと思うが、人間まるごと煩悩と苦諦の証明
    分析であったと思う。
    輪廻の生存という、人間まるごと苦。人生まるごと苦。という根本苦悩の自覚から仏教は
    始まる。

    さて読書だ。

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