ここから本文です

投稿コメント一覧 (1894コメント)


  • ●日本人の血脈に流れる儒教の精神●

    薬師寺は唯識の寺で、高田好胤はその薬師寺の住職をされていた方で、龍谷大学で深浦正文博士かから
    煩瑣な唯識学を学んでいる高僧である。今、高田好胤『観音経法話三巻』を再読すると「仁して威あり」
    とか儒教の精神が登場する。私たちは、儒教的な精神が封建的であるとして捨ててしまっていたようで
    である。日本人の寛容のアイデンティティーで受け入れられ、練られ高められた儒教の精神という忘れ物
    を探しに行きたいものである。

    神と仏と儒教――その「寛容の威厳」に日本のアイデンティティーがある。

    忘れ物は何ですか?


  • ●十地という、覚り後の修道論●

    龍樹も在家の一般大衆には“念仏”の正念相続を勧めたが、それも在家向けの“修道論”である。
    私の場合も、在家の一般大衆だから、観音菩薩の三界唯一心における“一心称名”の正念相続が修行だ。

    龍樹以前に、華厳経の煩瑣な修道論があり、龍樹も聖教量としてそれを受けている。
    その煩瑣な修道論を、瑜伽行の実践の中でまとめた唯識の修道論は、頭の悪い私にもわかりやすい。
    それは、華厳の修道論を五位にまとめたものである。簡略して示す。

    1、 資糧位(尋牛)
    自分の向上をたすけるあらゆる修行、華厳における十住・十行・十廻向で、十住の最初が“信”。
    “信心”が仏道への出発点ということ。(『十牛図』でいえば「第一・尋牛」)

    2、 加行位(見跡)
    信心により、資糧位で得た〈智慧と慈悲の思想〉を支えに、真実に向かって、その思想に生きる。
    権力闘争や知益追求でなく、智慧と慈悲の仏陀の人格を目指して生きるということである。
    しかし、ここではまだ「思想に生きる」段階で、知識が智慧に転換されていない。
    (『十牛図』でいえば「第二・見跡」)
    而して、親鸞に傾倒した三木清でさえ、次のように詠う。専念というのは念仏の正念相続である。

    真実の秋の日の照れば専念に 心をこめて歩まざらぬや

    3、 通達位(見牛)
    加行により、自分の真相が空なることを自覚する。“蒙昧な自分”が崩壊し、“真なる自己”が体証される。
    身心脱落(自我崩壊)という見性である。唯識からでは、「唯識性に住する」「真如を証す」と言う。
    大乗(龍樹)的には、我空法空を体証するということになる。
    仏教が体験として分かる(体証)段階である。(『十牛図』では「第三・見牛」)。

    4、 修習位(得牛以降)――十地の修行。
    通達位で我空法空の自己が体証されると、識が崩壊し、識が根本無分別智に転換される。
    さらに、後得智といって、末那識の一部が“平等性智”に変り、意識の一部が“妙観察智”に変わると、
    「修行と悟りの平等性」を観察できる「妙観察智」が直接経験される。

    「悟りという仏」に導かれての「仏と衆生と共に在る修行」――自他不二の修行。
    そこから大乗の修行、菩薩の修行が始まる。禅が始まる。
    唯識でいえば、阿頼耶識を大円鏡智に換え、五識を成所作智に換える「四智円明への修行」である。
    しかし、ここからは、「仏と衆生と共に在る修行」だから、その修行が苦でなくなり歓喜の行となる。
    修行することが生きる喜びとなる。

    十地の第一極喜地から第十法雲地までは永い。56億7千万年という永遠である。
    それを、「俺は四智円明の仏だ」という膨張した自我の妄想をいだく似非禅坊主は害になる。
    というわけで、自己を阿修羅に貶めた闡提菩薩が登場しているというわけである。

    因果一如――修行が証りである(修証一等)

    仏にも実体ない。凡夫との此縁性によって生起する――身心脱落・見性しなければ自覚されないが…。
    身心脱落・見性が先決だ。


  • ●「再生力」と「八百万(寛容)」のアイデンティティー●

    店の道の向うに神社があって、二つに出入り口から見える高木に時折、「払いたまえ、浄めたまえ」
    と一礼しておりますと、それが「再生の儀式」だということに気づき、眼から鱗でした。
    生きている限り“自我の煩悩”は無くならないので、一度それを、払って、浄めて、生れ変わって、
    “清浄な自己”に再生する。その再生の儀式が本来の「祭り」と気づいたのですよ。
    気づくと、仕事で心が疲れて来ると、時折、出入り口の外に出て、家並みの上に少し見える神社の
    森の高木に「払いたまえ、浄めたまえ」と一礼すると、自我に疲れた心が“払われ”そして“浄め”
    られる。仏教的に深めれば「自我に死し、自己の蘇る」ということになる。

    天照大神が岩宿にお隠れになり、再び出てきたという神話があるように、夏至も冬至も「太陽再生」
    の儀式。季節の節目、人生の節目の儀式や祭りの心底には「再生」への思いがある。

    モンスーン気候の中で見せる季節・自然・命の再生。その自然の再生力に礼拝したきた遺伝子。
    その「再生の信仰」が、仏教の諸行無常との習合融会への下地があったのでしょうね。

    日本人のアイデンティティーは「再生力」である。と自覚しています。

    そして、モンスーン気候の中の豊かな自然の中に生きていますと、砂漠的な一神教とはちがって、
    自然のあちらこちらに、人間の力を超えた力を見出すという八百万神という“多神教”になるのは
    必然です。それが、「縁によって生かされている自己」という「諸法無我」の仏教的な真理と習合
    融会できる下地となった。「八百万」と「諸法無我」の習合融会の歴史が日本人の血脈に流れている。

    日本人のアイデンティティーは、八百万という「寛容力」である。と自覚しています。

    日本神話で、この世界と創ったのは、「ご夫婦二人の神様」で、世界の始まりは二の習合融会。
    日本人のアイデンティティーは、「再生力」と「寛容力」の二ということなります。

    今フランスで「日本展」というものをしていますが、フランス人のアイデンティティーと、
    日本人のアイデンティティーは対極にあるが、「美意識」において共通するというようなことを
    言っていました。二つの“対極”が美意識という「太極」によって習合融会されているのが、
    日本とフランスの関係ではないのでしょうか。

    対極があっての習合融合ですから、日本人も、日本人のアイデンティティーをしっかりと自覚しな
    ければならないのだと思います。中国にいた頃、それをつくづくと感じています。

    日本人の“八百万”と“再生”のアイデンティティーは、キリスト教的な西欧の一神教的な自我と
    とは対極にある。対極にあるからこそ、そこに新たな生成力がはたらき、人類の進化もあるという
    ものです。

    一神教や西洋近代の自我に飲み込まれないで、日本人の「再生力」「寛容力」のアイデンティティー
    をしっかり自覚したいですね。

    日本人のアイデンティティーのまとめるためご縁に感謝です。

    入力ミスはお許しを。


  • ●始覚――始めに覚りありき――目的を明確にする●

    禅の見性(本性の覚)というと、煩悩のすべてが無くなった境地と、お気楽な貪欲を旺盛にする
    人も多いが、そうではない。それは、菩提という目標、ゴールを明確にすることである。

    人生はマラソンのようなものである。
    マラソンのゴールがなければマラソンにならない。
    そのゴールを明確にして、マラソンという旅の途中を、深刻にならず真剣に生きる。

    ゴールが菩提であり、そのゴールを明確にして目指す志をもつということを菩提心という。
    人生は、この菩提心に尽きるではないか。


  • ●『信心銘』モノサシを当てない志●

    『信心銘』の要は至道無難 唯嫌揀擇
    道に至るに難しいことはない、ただえり好みすることを嫌うのである――これに尽きる。
    澤木興道老師はこれを「モノサシを当てないことだ」と端的に言った。
    親鸞的には「計るな」である。

    いわば『信心銘』というのは「モノサシを当てない」ことを信解して心に銘記。
    すなわち、「モノサシを当てない志」を持つことである。これが菩提という目標となる。

    そのための坐禅だろうが、生活人としたら時間のかかる坐禅ばかりやっていられない。
    ならば生活人はどうするか?
    そこに「モノサシを当てない念仏」「モノサシを当てない観音信心」がある。

    澤木老師は「天地一杯観世音菩薩」という。
    これは、道元禅師の「悉有は仏性なり」である。
    何から何まで観世音菩薩(仏性)――これを信解し志して一心称名して生きる。
    これが「モノサシを当てない」修行となる。
    モノサシとは人が煩悩で心に描いた虚構の絵である。
    その「モノサシを当てない」とは「坐禅の尽界」である。

    「モノサシを当てない」という目標を明確にし、「モノサシを当てる自己」をしっかり見つめ、
    煩悩の整理整頓をしつつ生きたい。


  • ●随喜善、随喜功徳●

    始点の帰ったというか、12年ぶりに薬師寺の高田好胤に帰り、原点でのある『観音経法話』を読んでいると、
    12年前には心に触れなかったことが、やたらに脱落身心してくる部分がある。それは「随喜善、随喜功徳」
    でやたらに泣けて心が洗われた。今頃になって、ブッダの慈悲の深さに随喜の涙を流した。

    高田好胤『観音経法話』155頁~

    …その人の中には布施をしたい気持ちがあっても、布施をしたい気持はあっても、布施する物をもたない
    人々もおりました。実際世の中、ましてその当時のインドのことです。富者よりも物質に恵まれぬ人の方
    がはるかにたくさんです。その人々を見やれたお釈迦さまは、その人々のために、

    「よく布施する財宝をもたずとも、布施する人を見て、その善い行いを心からほめたたえ、共に心から
    それを自分のことにように喜ぶならば、その報いは、布施をした人と同じだけの功徳を身につけ、あや
    かることができるのである」

    とお説きになりました。この布施する人を見てそれを心から讃嘆し、それを我がことのように喜ぶ、
    これを随喜善、または随喜功徳と申すのです。

    お釈迦さまのこのお話を聞いた人々は、どんなにこれを喜んだことでしょうか。慈悲を以て念とされた
    お釈迦さまの何とあたたかい、また行き届いたお心づかいでありましょうか。この全ての人々へのお心
    くばり、お気づかい、これはまさしくその人の身、その人の心になりきって衆生済度に励んで下さる
    観音さまの慈悲とまたっく一如でございます。

    この随喜善といわれ、随喜功徳と説かれれる教えの、さて実行するとなると、人のしている善いこと
    を見て、僻んだり、嫉んだりすることのみ多いのが私どもの常です。嫉妬することが人さまを幸福に
    する道でないどころか、自分を苦しめる、不幸にする以外のなにものでもないことが理屈でわかって
    いても、どうすることのできない、いやらしい根性に巣食われている私どもの心中です。

    人の善い行いをしておられるを見て、聞いて、それを心から讃めたたえられる人になりましょう。
    心からそれをわがことの如く喜べる気持の人になりあいましょう。
    随喜善です。随喜功徳です。
    この言葉を、この文字を、この後訓化をよく胸におさめておいてください。

    ……

    これに気づなかったとは、なんと観音信心の足りなかったことか。
    懺悔の涙と共に、更なる菩提心を欲する歓喜を得た。

  • ●「此縁性の縁起」は悟り後の智慧(後得智)●

    ものには順番がある。釈尊は、無上正等正覚を悟り、その後に、バラモン教的は直線的因果論を離れ、
    「此縁性の縁起」を発見された。お悟りの後の「此縁性の縁起」である。

    それを大乗の修道論でいえば、
    法空我空を覚り→無分別智が現成し→平等性智と妙観察智が現成し→十地の境界に入る…である。
    法空我空を覚ってそれでお終いではない。

    この無分別智(平等性智・妙観察智)の普遍的な論理化が「此縁性の縁起」である。
    覚りという直接経験は、観念的自己満足の恐れがあるが、それが、実践として、普遍的な論理となってこそ
    真実が現成する。

    「此縁性の縁起」は、後得智という、悟り後の智慧である。そしてそれが慈悲へと連なる。


  • ●日本人の血脈に流れる儒教の精神●

    薬師寺は唯識の寺で、高田好胤はその薬師寺の住職をされていた方で、龍谷大学で深浦正文博士かから
    煩瑣な唯識学を学んでいる高僧である。今、高田好胤『観音経法話三巻』を再読すると「仁して威あり」
    とか儒教の精神が登場する。私たちは、儒教的な精神が封建的であるとして捨ててしまっていたようで
    である。日本人の寛容のアイデンティティーで受け入れられ、練られ高められた儒教の精神という忘れ物
    を探しに行きたいものである。

    神と仏と儒教の習合――その「寛容の威厳」に日本のアイデンティティーがある。

    忘れ物は何ですか?

  • >>No. 55031


      真実の秋の日照れば専念に 心をこめて歩まざらめや

    親鸞は、信満成仏(即得往生)で、そこから仏道が始まると解していて、
    三木清からも、親鸞を学ぶ。
    そんなことで、貴方には理解不能と思うが、大乗の修道論をここでも記しておきたい。

    ●十地という、覚り後の修道論●

    龍樹も在家の一般大衆には“念仏”の正念相続を勧めたが、それも在家向けの“修道論”である。
    私の場合も、在家の一般大衆だから、観音菩薩の三界唯一心における“一心称名”の正念相続が修行だ。

    龍樹以前に、華厳経の煩瑣な修道論があり、龍樹も聖教量としてそれを受けている。
    その煩瑣な修道論を、瑜伽行の実践の中でまとめた唯識の修道論は、頭の悪い私にもわかりやすい。
    それは、華厳の修道論を五位にまとめたものである。簡略して示す。

    1、 資糧位(尋牛)
    自分の向上をたすけるあらゆる修行、華厳における十住・十行・十廻向で、十住の最初が“信”。
    “信心”が仏道への出発点ということ。(『十牛図』でいえば「第一・尋牛」)

    2、 加行位(見跡)
    信心により、資糧位で得た〈智慧と慈悲の思想〉を支えに、真実に向かって、その思想に生きる。
    権力闘争や知益追求でなく、智慧と慈悲の仏陀の人格を目指して生きるということである。
    しかし、ここではまだ「思想に生きる」段階で、知識が智慧に転換されていない。
    (『十牛図』でいえば「第二・見跡」)
    而して、親鸞に傾倒した三木清でさえ、次のように詠う。専念というのは念仏の正念相続である。

    真実の秋の日の照れば専念に 心をこめて歩まざらぬや

    3、 通達位(見牛)
    加行により、自分の真相が空なることを自覚する。“蒙昧な自分”が崩壊し、“真なる自己”が体証される。
    身心脱落(自我崩壊)という見性である。唯識からでは、「唯識性に住する」「真如を証す」と言う。
    大乗(龍樹)的には、我空法空を体証するということになる。
    仏教が体験として分かる(体証)段階である。(『十牛図』では「第三・見牛」)。

    4、 修習位(得牛以降)――十地の修行。
    通達位で我空法空の自己が体証されると、識が崩壊し、識が根本無分別智に転換される。
    さらに、後得智といって、末那識の一部が“平等性智”に変り、意識の一部が“妙観察智”に変わると、
    「修行と悟りの平等性」を観察できる「妙観察智」が直接経験される。

    「悟りという仏」に導かれての「仏と衆生と共に在る修行」――自他不二の修行。
    そこから大乗の修行、菩薩の修行が始まる。禅が始まる。
    唯識でいえば、阿頼耶識を大円鏡智に換え、五識を成所作智に換える「四智円明への修行」である。
    しかし、ここからは、「仏と衆生と共に在る修行」だから、その修行が苦でなくなり歓喜の行となる。
    修行することが生きる喜びとなる。

    十地の第一極喜地から第十法雲地までは永い。56億7千万年という永遠である。
    それを、「俺は四智円明の仏だ」という膨張した自我の妄想をいだく似非禅坊主は害になる。
    というわけで、自己を阿修羅に貶めた闡提菩薩が登場しているというわけである。

    因果一如――修行が証りである(修証一等)

    仏にも実体ない。凡夫との此縁性によって生起する――身心脱落・見性しなければ自覚されないが…。
    身心脱落・見性が先決だ。

  • >>No. 20989


    ●尋牛(資糧位)にも入っていない●

    >区別的な考え(=分別?)をさしはさまないことが正見、
    >区別的な考え(=分別?)をさしはさむことが偏見。

    この相対矛盾を高次元に統合するのが仏智(平等性智・妙観察智)という「空の智慧」だ。
    水月さんが、その仏の智慧を信じることができないから、誰かさんの知識にしがみつく空蝉だ。

    水月さん、貴方は仏法を信じていないから、修道論からすれば、 資糧位(尋牛)の門も入っていない。

    それで、十牛図も坐禅和讃も信心銘とは、水月さんの外見を着飾る“張り子の虎”に過ぎない。
    それは、世の中の害になるだけだ。
    愚氏の妄想を崩壊させなければ禅は知れない。

    水月さん、貴方が仏教や禅に口を挟むと害になる。
    あの世で、閻魔さまに熱球を口に入れられるぞ、
    臨済和尚なら言うだろう。
    道元禅師には三十棒食らわされる。

    くわばら、くわばら。


  • ●十地という、覚り後の修道論●

    龍樹も在家の一般大衆には“念仏”の正念相続を勧めたが、それも在家向けの“修道論”である。
    私の場合も、在家の一般大衆だから、観音菩薩の三界唯一心における“一心称名”の正念相続が修行だ。

    龍樹以前に、華厳経の煩瑣な修道論があり、龍樹も聖教量としてそれを受けている。
    その煩瑣な修道論を、瑜伽行の実践の中でまとめた唯識の修道論は、頭の悪い私にもわかりやすい。
    それは、華厳の修道論を五位にまとめたものである。簡略して示す。

    1、 資糧位(尋牛)
    自分の向上をたすけるあらゆる修行、華厳における十住・十行・十廻向で、十住の最初が“信”。
    “信心”が仏道への出発点ということ。(『十牛図』でいえば「第一・尋牛」)

    2、 加行位(見跡)
    信心により、資糧位で得た〈智慧と慈悲の思想〉を支えに、真実に向かって、その思想に生きる。
    権力闘争や知益追求でなく、智慧と慈悲の仏陀の人格を目指して生きるということである。
    しかし、ここではまだ「思想に生きる」段階で、知識が智慧に転換されていない。
    (『十牛図』でいえば「第二・見跡」)
    而して、親鸞に傾倒した三木清でさえ、次のように詠う。専念というのは念仏の正念相続である。

    真実の秋の日の照れば専念に 心をこめて歩まざらぬや

    3、 通達位(見牛)
    加行により、自分の真相が空なることを自覚する。“蒙昧な自分”が崩壊し、“真なる自己”が体証される。
    身心脱落(自我崩壊)という見性である。唯識からでは、「唯識性に住する」「真如を証す」と言う。
    大乗(龍樹)的には、我空法空を体証するということになる。
    仏教が体験として分かる(体証)段階である。(『十牛図』では「第三・見牛」)。

    4、 修習位(得牛以降)――十地の修行。
    通達位で我空法空の自己が体証されると、識が崩壊し、識が根本無分別智に転換される。
    さらに、後得智といって、末那識の一部が“平等性智”に変り、意識の一部が“妙観察智”に変わると、
    「修行と悟りの平等性」を観察できる「妙観察智」が直接経験される。

    「悟りという仏」に導かれての「仏と衆生と共に在る修行」――自他不二の修行。
    そこから大乗の修行、菩薩の修行が始まる。禅が始まる。
    唯識でいえば、阿頼耶識を大円鏡智に換え、五識を成所作智に換える「四智円明への修行」である。
    しかし、ここからは、「仏と衆生と共に在る修行」だから、その修行が苦でなくなり歓喜の行となる。
    修行することが生きる喜びとなる。

    十地の第一極喜地から第十法雲地までは永い。56億7千万年という永遠である。
    それを、「俺は四智円明の仏だ」という膨張した自我の妄想をいだく似非禅坊主は害になる。
    というわけで、自己を阿修羅に貶めた闡提菩薩が登場しているというわけである。

    因果一如――修行が証りである(修証一等)

    仏にも実体ない。凡夫との此縁性によって生起する――身心脱落・見性しなければ自覚されないが…。
    身心脱落・見性が先決だ。


  • ●「再生力」と「八百万(寛容)」のアイデンティティー●

    さんねさん、「小悟数知しれず」とは本当で、最近、日本人のアイデンティティー(自己同一性)の
    尻尾がしっかりと見えたのですよ。

    店の道の向うに神社があって、二つに出入り口から見える高木に時折、「払いたまえ、浄めたまえ」
    と一礼しておりますと、それが「再生の儀式」だということに気づき、眼から鱗でした。
    生きている限り“自我の煩悩”は無くならないので、一度それを、払って、浄めて、生れ変わって、
    “清浄な自己”に再生する。その再生の儀式が本来の「祭り」と気づいたのですよ。
    気づくと、仕事で心が疲れて来ると、時折、出入り口の外に出て、家並みの上に少し見える神社の
    森の高木に「払いたまえ、浄めたまえ」と一礼すると、自我に疲れた心が“払われ”そして“浄め”
    られる。仏教的に深めれば「自我に死し、自己の蘇る」ということになる。

    天照大神が岩宿にお隠れになり、再び出てきたという神話があるように、夏至も冬至も「太陽再生」
    の儀式。季節の節目、人生の節目の儀式や祭りの心底には「再生」への思いがある。

    モンスーン気候の中で見せる季節・自然・命の再生。その自然の再生力に礼拝したきた遺伝子。
    その「再生の信仰」が、仏教の諸行無常との習合融会への下地があったのでしょうね。

    日本人のアイデンティティーは「再生力」である。と自覚しています。

    そして、モンスーン気候の中の豊かな自然の中に生きていますと、砂漠的な一神教とはちがって、
    自然のあちらこちらに、人間の力を超えた力を見出すという八百万神という“多神教”になるのは
    必然です。それが、「縁によって生かされている自己」という「諸法無我」の仏教的な真理と習合
    融会できる下地となった。「八百万」と「諸法無我」の習合融会の歴史が日本人の血脈に流れている。

    日本人のアイデンティティーは、八百万という「寛容力」である。と自覚しています。

    日本神話で、この世界と創ったのは、「ご夫婦二人の神様」で、世界の始まりは二の習合融会。
    日本人のアイデンティティーは、「再生力」と「寛容力」の二ということなります。

    今フランスで「日本展」というものをしていますが、フランス人のアイデンティティーと、
    日本人のアイデンティティーは対極にあるが、「美意識」において共通するというようなことを
    言っていました。二つの“対極”が美意識という「太極」によって習合融会されているのが、
    日本とフランスの関係ではないのでしょうか。

    対極があっての習合融合ですから、日本人も、日本人のアイデンティティーをしっかりと自覚しな
    ければならないのだと思います。中国にいた頃、それをつくづくと感じています。

    日本人の“八百万”と“再生”のアイデンティティーは、キリスト教的な西欧の一神教的な自我と
    とは対極にある。対極にあるからこそ、そこに新たな生成力がはたらき、人類の進化もあるという
    ものです。

    一神教や西洋近代の自我に飲み込まれないで、日本人の「再生力」「寛容力」のアイデンティティー
    をしっかり自覚したいですね。

    日本人のアイデンティティーのまとめるためご縁に感謝です。

    入力ミスはお許しを。

  • ●始覚――始めに覚りありき――目的を明確にする●

    禅の見性(本性の覚)というと、煩悩のすべてが無くなった境地と、お気楽な貪欲を旺盛にする
    人も多いが、そうではない。それは、菩提という目標、ゴールを明確にすることである。

    人生はマラソンのようなものである。
    マラソンのゴールがなければマラソンにならない。
    そのゴールを明確にして、マラソンという旅の途中を、深刻にならず真剣に生きる。

    ゴールが菩提であり、そのゴールを明確にして目指す志をもつということを菩提心という。
    人生は、この菩提心に尽きるではないか。


  • ●『信心銘』モノサシを当てない志●

    『信心銘』の要は至道無難 唯嫌揀擇
    道に至るに難しいことはない、ただえり好みすることを嫌うのである――これに尽きる。
    澤木興道老師はこれを「モノサシを当てないことだ」と端的に言った。
    親鸞的には「計るな」である。

    いわば『信心銘』というのは「モノサシを当てない」ことを信解して心に銘記。
    すなわち、「モノサシを当てない志」を持つことである。これが菩提という目標となる。

    そのための坐禅だろうが、生活人としたら時間のかかる坐禅ばかりやっていられない。
    ならば生活人はどうするか?
    そこに「モノサシを当てない念仏」「モノサシを当てない観音信心」がある。

    澤木老師は「天地一杯観世音菩薩」という。
    これは、道元禅師の「悉有は仏性なり」である。
    何から何まで観世音菩薩(仏性)――これを信解し志して一心称名して生きる。
    これが「モノサシを当てない」修行となる。
    モノサシとは人が煩悩で心に描いた虚構の絵である。
    その「モノサシを当てない」とは「坐禅の尽界」である。

    「モノサシを当てない」という目標を明確にし、「モノサシを当てる自己」をしっかり見つめ、
    煩悩の整理整頓をしつつ生きたい。


  • ●始覚――始めに覚りありき――目的を明確にする●

    禅の見性(本性の覚)というと、煩悩のすべてが無くなった境地と、お気楽な貪欲を旺盛にする
    人も多いが、そうではない。それは、菩提という目標、ゴールを明確にすることである。

    人生はマラソンのようなものである。
    マラソンのゴールがなければマラソンにならない。
    そのゴールを明確にして、マラソンという旅の途中を、深刻にならず真剣に生きる。

    ゴールが菩提であり、そのゴールを明確にして目指す志をもつということを菩提心という。
    人生は、この菩提心に尽きるではないか。


  • ●随喜善、随喜功徳●

    始点の帰ったというか、12年ぶりに薬師寺の高田好胤に帰り、原点でのある『観音経法話』を読んでいると、
    12年前には心に触れなかったことが、やたらに脱落身心してくる部分がある。それは「随喜善、随喜功徳」
    でやたらに泣けて心が洗われた。今頃になって、ブッダの慈悲の深さに随喜の涙を流した。

    高田好胤『観音経法話』155頁~

    …その人の中には布施をしたい気持ちがあっても、布施をしたい気持はあっても、布施する物をもたない
    人々もおりました。実際世の中、ましてその当時のインドのことです。富者よりも物質に恵まれぬ人の方
    がはるかにたくさんです。その人々を見やれたお釈迦さまは、その人々のために、

    「よく布施する財宝をもたずとも、布施する人を見て、その善い行いを心からほめたたえ、共に心から
    それを自分のことにように喜ぶならば、その報いは、布施をした人と同じだけの功徳を身につけ、あや
    かることができるのである」

    とお説きになりました。この布施する人を見てそれを心から讃嘆し、それを我がことのように喜ぶ、
    これを随喜善、または随喜功徳と申すのです。

    お釈迦さまのこのお話を聞いた人々は、どんなにこれを喜んだことでしょうか。慈悲を以て念とされた
    お釈迦さまの何とあたたかい、また行き届いたお心づかいでありましょうか。この全ての人々へのお心
    くばり、お気づかい、これはまさしくその人の身、その人の心になりきって衆生済度に励んで下さる
    観音さまの慈悲とまたっく一如でございます。

    この随喜善といわれ、随喜功徳と説かれれる教えの、さて実行するとなると、人のしている善いこと
    を見て、僻んだり、嫉んだりすることのみ多いのが私どもの常です。嫉妬することが人さまを幸福に
    する道でないどころか、自分を苦しめる、不幸にする以外のなにものでもないことが理屈でわかって
    いても、どうすることのできない、いやらしい根性に巣食われている私どもの心中です。

    人の善い行いをしておられるを見て、聞いて、それを心から讃めたたえられる人になりましょう。
    心からそれをわがことの如く喜べる気持の人になりあいましょう。
    随喜善です。随喜功徳です。
    この言葉を、この文字を、この後訓化をよく胸におさめておいてください。

    ……

    これに気づなかったとは、なんと観音信心の足りなかったことか。
    懺悔の涙と共に、更なる菩提心を欲する歓喜を得た。


  • ●『信心銘』モノサシを当てない志●

    『信心銘』の要は至道無難 唯嫌揀擇
    道に至るに難しいことはない、ただえり好みすることを嫌うのである――これに尽きる。
    澤木興道老師はこれを「モノサシを当てないことだ」と端的に言った。
    親鸞的には「計るな」である。

    いわば『信心銘』というのは「モノサシを当てない」ことを信解して心に銘記。
    すなわち、「モノサシを当てない志」を持つことである。これが菩提という目標となる。

    そのための坐禅だろうが、生活人としたら時間のかかる坐禅ばかりやっていられない。
    ならば生活人はどうするか?
    そこに「モノサシを当てない念仏」「モノサシを当てない観音信心」がある。

    澤木老師は「天地一杯観世音菩薩」という。
    これは、道元禅師の「悉有は仏性なり」である。
    何から何まで観世音菩薩(仏性)――これを信解し志して一心称名して生きる。
    これが「モノサシを当てない」修行となる。
    モノサシとは人が煩悩で心に描いた虚構の絵である。
    その「モノサシを当てない」とは「坐禅の尽界」である。

    「モノサシを当てない」という目標を明確にし、「モノサシを当てる自己」をしっかり見つめ、
    煩悩を整理整頓して生きたいものである。

  • 2018/09/14 16:31


    ●随喜善、随喜功徳●

    始点の帰ったというか、12年ぶりに薬師寺の高田好胤に帰り、原点でのある『観音経法話』を読んでいると、
    12年前には心に触れなかったことが、やたらに脱落身心してくる部分がある。それは「随喜善、随喜功徳」
    でやたらに泣けて心が洗われた。今頃になって、ブッダの慈悲の深さに随喜の涙を流した。

    高田好胤『観音経法話』155頁~

    …その人の中には布施をしたい気持ちがあっても、布施をしたい気持はあっても、布施する物をもたない
    人々もおりました。実際世の中、ましてその当時のインドのことです。富者よりも物質に恵まれぬ人の方
    がはるかにたくさんです。その人々を見やれたお釈迦さまは、その人々のために、

    「よく布施する財宝をもたずとも、布施する人を見て、その善い行いを心からほめたたえ、共に心から
    それを自分のことにように喜ぶならば、その報いは、布施をした人と同じだけの功徳を身につけ、あや
    かることができるのである」

    とお説きになりました。この布施する人を見てそれを心から讃嘆し、それを我がことのように喜ぶ、
    これを随喜善、または随喜功徳と申すのです。

    お釈迦さまのこのお話を聞いた人々は、どんなにこれを喜んだことでしょうか。慈悲を以て念とされた
    お釈迦さまの何とあたたかい、また行き届いたお心づかいでありましょうか。この全ての人々へのお心
    くばり、お気づかい、これはまさしくその人の身、その人の心になりきって衆生済度に励んで下さる
    観音さまの慈悲とまたっく一如でございます。

    この随喜善といわれ、随喜功徳と説かれれる教えの、さて実行するとなると、人のしている善いこと
    を見て、僻んだり、嫉んだりすることのみ多いのが私どもの常です。嫉妬することが人さまを幸福に
    する道でないどころか、自分を苦しめる、不幸にする以外のなにものでもないことが理屈でわかって
    いても、どうすることのできない、いやらしい根性に巣食われている私どもの心中です。

    人の善い行いをしておられるを見て、聞いて、それを心から讃めたたえられる人になりましょう。
    心からそれをわがことの如く喜べる気持の人になりあいましょう。
    随喜善です。随喜功徳です。
    この言葉を、この文字を、この後訓化をよく胸におさめておいてください。

    ……

    これに気づなかったとは、なんと観音信心の足りなかったことか。
    懺悔の涙と共に、更なる菩提心を欲する歓喜を得た。


  • ●「此縁性の縁起」は悟り後の智慧(後得智)●

    ものには順番がある。釈尊は、無上正等正覚を悟り、その後に、バラモン教的は直線的因果論を離れ、
    「此縁性の縁起」を発見された。お悟りの後の「此縁性の縁起」である。

    それを大乗の修道論でいえば、
    法空我空を覚り→無分別智が現成し→平等性智と妙観察智が現成し→十地の境界に入る…である。
    法空我空を覚ってそれでお終いではない。

    この無分別智(平等性智・妙観察智)の普遍的な論理化が「此縁性の縁起」である。
    覚りという直接経験は、観念的自己満足の恐れがあるが、それが、実践として、普遍的な論理となってこそ
    真実が現成する。

    「此縁性の縁起」は、後得智という、悟り後の智慧である。そしてそれが慈悲へと連なる。

  • >>No. 54992

    お気楽に生きる方ですから、
    日々是好日という深い禅語を自我を飾る道具にすることで、禅語が乱れる。
    それが問題なのでしょう。

    禅なんていう、得にもならないものは放っておいて、
    恙なく、お気楽に生きてくださいね。

本文はここまでです このページの先頭へ