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投稿コメント一覧 (17522コメント)

  • 昔、青田昇という野球評論家がいた。日テレ系で本音をズバズバ言う「じゃじゃ馬解説」として人気の解説者でもあった。昭和46年の南海キャンプ、キャンプ地を訪れた青田に、野村監督が前年ドラフトの新人を紹介した。1位の選抜優勝投手・島本や6位の黒田などが挨拶し、「期待してるぞ」「頑張れよ」等と、青田が声をかける。。。

    最後が、八代東高校出身のドラフト8位の柏原純一であった。柏原が「頑張りますので、よろしくお願いします。」と挨拶すると、「お前は、酷いガニ股やな。ガニ股の選手に大成したやつはおらんのや。早めに諦めて、田舎に帰った方がええぞ。。。」と、入ったばかりの新人に、残酷な事を言う。。。横で聞いていた野村監督、「これから頑張ろうという若者に、何というデリカシーの無さだろう。。。」とハラワタが煮えくり返る程の怒りを覚えたという。

    その日の練習終了後、ノムさんが柏原を監督室に呼んだ。。。「俺は、17年前、ブルペン捕手として南海に入った。誰にも期待されず、毎日毎日、投手の球を捕る事だけが仕事だった。。。練習が終わって、死ぬほどバットを振り、今日を築いたんだ。。。お前も、今日の悔しさを決して忘れるな。。。死ぬほどバットを振ってレギュラーをつかみ、青田さんを見返してみろ!」。。。聞いているうちに、柏原の目は涙で赤くなり、そして何より、闘志が溢れていた。

    5年後、柏原は見事にレギュラーを獲得、ホームラン16本、打点55、打率260の立派な成績を収める。。。2軍の穴吹監督は、「あれ程、練習する選手は久しぶりに見た。。。中百舌鳥の秀鷹寮の柏原の部屋は、いつも夜中まで電気がついていた。バットを振り込んでいたのだろう。。。青田さんに言われた言葉を、絶対忘れなかったからだと思う。。。」と語っている。。。こうして、「ガニ股は使い物にならない。」とらく印を押された熊本出身の若者は、生涯1642試合に出場、232本塁打、打率268の名打者に成長した。これは、青田氏の生涯成績とほぼ同じ数字である。。。

    男は、心の中の怒りを決して忘れてはならないと思う。。。。。

  • >>No. 2713

    同じ優勝でも、楽勝の年はあまり印象が残りません……去年も、ラミちゃんに苦しめられたから、思い出深い優勝になりましてね……

  • 昭和48年のプレーオフ最終戦には、実はもう一つドラマがあった…9回表0-0の均衡を破るスミスの本塁打の後、気落ちした山田から広瀬が追撃ちアーチをレフトスタンドにかける…三塁側はお祭り騒ぎとなったが、一人だけ青ざめた顔をしている男がいた。7回から山内をリリーフした佐藤である。

    それまで「マウンド度胸と緩急」で阪急打線を抑えてきた佐藤も、流石に後1回を抑えれば優勝という場面になり「自分を見失ってしまった」という。2死後、当銀に一発を食らったのである。次打者は代打本塁打世界記録保持者の高井だ…マウンドに駆け寄ると佐藤の顔は緊張で強張っている。「ここまで、よう投げた。」ボールを取ろうとすると、佐藤が抵抗を示す…最後のマウンドに立っていたいと思う気持ちもわかる…しかし、心を鬼にしてノムさんが諭した「このシリーズ、お前はMVPや…それで我慢せい…」

    野村監督はベンチの江本を探した…「おい、江本!…何してるんや!…準備せんかい!」…その時、江本は自分の出番がある等とは夢にも思っておらず、帽子もグラブもロッカーに置いていた…江本は慌てて他の選手の物を借り、ベンチ前でキャッチボール…2日前に140球投げ、完投勝利を上げたばかりである。肩はバリバリに張り、投げる度に「アイタタタ…」と痛みが走る状況だったという。

    10球程のキャッチボールでマウンドに上がったが、球が上ずる…コントロールしようと意識するので、球も全然行かない…高井のカウントが2ボールになったとき「もう、どうにでもなれ!」と思い切り腕を振った…いつもの「うなりを上げるような」快速球が行ったが、やや高めのボールに見えた…ここで、審判も球威に押されたか「ストライク!」をコールする…次の球も全く同じ高さ、やはり「ストライク」と言ってくれた。

    最後の球もボール気味であったが、高井も手を出さざるを得ない…ついに空振り三振で、南海の優勝が決まった…最後の場面「あのノムさんが、真っ青な顔をしてボールを受けている…肩が痛く、思うように投げられない状態だったが、このオッサンを何とか助けてやりたい…そんな一心でボールを投げた…2ボールからの3球は『神様、助けてください…』と、念じながら投げたのを覚えている…」と江本が振り返っている。

    野球の神様は、より強い思いを持っている方に味方してくださるのだろう…

  • >>No. 2688

    ベテランになると、首脳陣は若手に切り替えたくなりますからね……

    今までの貢献と、これからの育成をバランスをとりながらチーム造りをするんでしょうが、これが、難しい……

  • >>No. 2688

    プロ野球界の様々な出来事も、実業界に起こる様な話に似ている事がよくあります……

    子供のころから、野球の世界の人間模様を見てきて、非常に人生勉強になりました……

  • 江夏は、19歳で奪三振の世界記録(401個)を作ってしまうなど、若くして、投手として頂点を極めたので、監督やコーチから叱られた事がないという。。。阪神時代の末期は、体調不良で成績が下降したが、吉田監督や投手コーチも「腫れ物に触る」様に江夏に接した。。。父親は生後間もなく失踪しているので、母子家庭で育ったこともあり、誰にも叱られずに人生を送ってきたのだ。・・・・・「全体練習をサボったり、自分でも、ワガママな態度を取っているなと思った事もあるが、それでも阪神のユニフォームを着ているときは、怒ってくれる人がいなかった。。。」江夏は語っている。

    南海移籍後の初戦は見事なピッチングであった。昭和51年の大阪球場開幕戦、近鉄打線を相手に8回まで散発3安打に完封した。。。かつての速球は見られなかったが、コーナーにきっちり決まる制球力と、緩急を使った投球術で猛牛打線はきりきり舞いの9三振に終わった。。。ところが、長年酷使してきた左腕の状態が、安定しない・・・この頃、血行障害も発症して、50球を超えると極端に握力が落ち、生命線のコントロールを乱す事が多くなった。

    5回でノックアウトされたある日、野村監督が声をかける。。。「今日は、俺の車で帰れ。家まで送ってやる。。。」。。。車内でノムさんが話し出した。「お前、八百長をやってるんと違うか?・・・開幕の近鉄戦、俺は1ミリもミットを動かさずに済んだ。。。それほど完ぺきだったお前の制球が、なんであんなに乱れるんや!」厳しい口調で、江夏を叱責したのだ。

    これを聞いた江夏。。。「生まれて初めて叱られ、胸が熱くなった。。。俺におやじがいれば、こんな感じだったのかも知れない。。。」そう思ったという。。。この時、江夏は血行障害のことを、監督に打ち明け、ようやく治療に入ることになるが、何より「自分の左腕をしっかり治して、監督の期待に応えたい。。。」そんな気持ちになったと言うのだ。。。その後、江夏は治療を続け、翌年、見事にセーブ王として復活する。

    教育評論家の尾木ママがこんな事を話している。。。「例えば、引きこもりの子供たち。。。彼らは、親から叱られず、寂しい思いをしている事がある。。。本当に、その子の事を思うなら、叱る場面では、思い切り叱るべきだと思う。。。」

    愛情を持って叱れば、部下は分かってくれるはずだ。。。。。

  • >>No. 2677

    江夏は、純粋で曲がった事が大嫌い……組織の中では扱いにくい事、この上ない選手……

    上手く使いこなしたのは、野村監督と大沢親分だけでした……

  • 江夏豊は、昭和42年阪神入団以来9年間に、最多勝2回・最優秀防御率1回・沢村賞1回、昭和43年には奪三振世界記録の401、昭和46年にはオールスターで9連続三振の記録を残した。。。ノムさんは、「私の見てきた投手の中で、一番速い投手は、金田と若い頃の江夏。。。頭の一番良い投手も、やっぱり江夏。。。」と語っている。

    その江夏が、昭和50年、肩肘を痛め、持病の心臓病も出て低迷、阪神は放出の方針を決定した。。。吉田監督からの「江夏、要りまへんか?」とオファーを受けた野村監督は、肩肘の状況はある程度察知していたが、球団側から「営業面の効果が大きいので、是非取りたい」との意向を受け、江本・島野らとの交換トレードを承諾する。。。昭和51年1月、阪神は移籍を発表したが、突然の通告に江夏がへそを曲げた。。。「阪神は俺の青春・・・もし必要ないと言われるなら、引退しかない。。。」

    球団や吉田監督に不信感を持ち、肉体的にも、もう今までの様に速い球は投げられないと感じていた江夏。。。引退会見を考えていたその時、野村監督から「ちょっと会いたい。。」と電話があった。。。大阪市内のホテルで食事をした二人・・・野村監督は「南海に来てくれ」とか、「俺と一緒に野球をしよう」等とは一言も言わなかったと言う。。。前年優勝の広島との最終戦、2死満塁で衣笠を迎えた場面、江夏はボール球を振らせ、三振でピンチを脱した。。。偶然テレビで見ていた野村監督、その話から切り出した。。。。「あの衣笠の最後の球、満塁でツースリーだったが、あそこはワザとボール球を投げたんだろう?」・・・それまで、緊張で強張ってた江夏の表情が一気に笑顔に変わる。。。「この人は、野球を物凄く深く考えている人だ。。。この人と、もう一度野球をやってみたい。。。」江夏はそう思ったという。

    移籍を承諾した江夏・・・その後2年間の間でリリーフ・エースに変身し、抜群の制球力と投球術で、日本における「ストッパー」の地位確立に貢献することになる。。。野村監督の1本の電話がなければ、後の広島や日ハムで活躍した「優勝請負人・江夏」は誕生していなかった。。。。。

  • >>No. 2670

    9連覇時代、巨人にどうしても巨人に勝てなかった阪急が、昭和47年、来日して巨人を蹴散らしたボルチモア・オリオールズのユニフォームのデザインをそっくり真似ました。……それを受けて、南海は、そのオリオールズをワールドシリーズで倒したピッツバーグ・パイレーツ型のユニフォームを導入。……ベルトレスのユニが格好良かった……

  • 巨人9連覇のラストイヤー昭和48年の日本シリーズは、大阪球場からスタートした。初戦は、藤原の逆転タイムリーを江本が守り切り、南海が先勝、幸先の良い出だしとなる。ところが試合後、風雨が強まり、翌日曜日・第二戦の開催が危ぶまれた。試合前に雨は上がったが、グランド状態は悪く、その上、台風並みの強風がライトから本塁方向に吹き続けている。

    普通なら中止と判断するところだが、南海球団の営業サイドが野村監督に泣きついた…「日曜日で前売り券は完売している…何とか、開催に応じてくれないか…」…日頃から観客動員に心を配るノムさんとしても、「折角の日曜日…何とか実施の方向で考えましょう。グランドコンディションは悪いが、2軍選手総出で、整備を手伝うという事で、川上監督を説得しましょう…」と、巨人側と協議、説得して試合は無事始まった…

    巨人側は倉田・堀内、南海は山内・佐藤とつなぎ、試合は1対1の投手戦で8回裏まで来た…ここで打席に立った門田、堀内自慢の速球をジャストミート、打球はライトスタンドへ向かっていく…誰もが「決勝ホームラン…これで南海の2連勝!」と思った瞬間、10メートルを超える強風に押し戻され、ボールはフェンス手前で失速、ライトフライに終わってしまった…試合は、延長戦に入り、11回堀内のタイムリーで南海は敗れ去った…この第二戦が分岐点となり、流れが巨人側に行って後楽園で、南海は3連敗、巨人はV9を達成する…返す返すも、「あの風さえなければ…」と、当時の南海ファンは悔しがったものである。

    それにしても、常に営業面を考えていた野村監督…シーズン中も「大阪球場での3連戦の初戦は絶対に取ろう…そのあとの観客動員に響くから…」と、営業面をいつも頭に入れたチーム運営をしていた…これは、当時のパリーグの監督、例えば勝利至上主義の西本監督や上田監督からは聞けなかったコメントであったし、増してやセリーグの人気球団には「観客動員は、営業の仕事…」という考えが浸透していた。

    球団経営の改善にまで、心を配る監督の存在を、当時は誇らしく思ったものだが、そんな野村監督を、この4年後、球団は解任することになる。。。。解任理由は、「サッチー問題」などという訳の分からないものだった。。。どんな力が働いたかは知らないが、私はあの決定は、40年経った今でも、大きな間違いだったと思う。。。。。

  • >>No. 2653

    お褒めに預り、恐縮てす……(^-^;

    広瀬のホームランの逸話、探したんですが、どうしても見つからず……本人が照れ屋で話さなかったかもしれまへん……その辺が、また広瀬の魅力でんな……😌

  • >>No. 2652

    今日は、名古屋に来てます!

    暖かく、天気も良くて、このまま春になってくれたらええんやけど……


  • 「死んだふり優勝」と野村監督が表現した昭和48年、前期優勝のあと、後期南海は、王者阪急に一度も勝てない0勝12敗1分けだった。。。。決して、わざと手を抜いたわけではなく、全力で向ったが、ちょっと流れが変わると全く歯が立たないほど、当時の阪急は強かったといえる。

    米田・梶本・山田・足立の投手陣に、福本・加藤・長池・森本の攻撃陣も盤石で、南海ナインの中にも「やっぱり阪急は強い。前期優勝は、たまたま運が良かっただけ・・・」と、あきらめムードが出始めていた。。。そんな中、野村監督だけは、「今は、死んだふりをしているだけ。。。この間に、阪急対策はバッチリ準備させてもらった。。。プレーオフは、うちが勝つと思う。。。」と強気の姿勢を変えなかった。

    前期、南海投手陣のクイックモーションで、世界の盗塁王・福本の足を封じたが、敵もさるもの・・・後期はそれを上回るスタートで、盗塁を成功させていた。。。そこで、野村は、もう一段速いクイック・・・『すり足クイック』を各投手にマスターさせ、プレーオフでは、再度、福本の盗塁を封じた・・・・・後期復活した阪急米田のフォークを打つため、左手一本で拾い外野の手前に落とす「ポテンヒット打法」も練習させた。。。これは、第一戦の相羽の決勝タイムリーにつながることになる・・・・

    そして、何より大切な「心理的に上回る」為、初戦に全てをかけた。。。佐藤・江本の2本柱を初戦に投入し、全力で初戦を取りに行った。。。。結果、4-2で勝利し、「監督が言うように、本当に勝てるかも・・・」と選手たちの間に、自信めいたものが生まれてきた・・・・野村は後に、「これが一番大きかった・・・」と話している。

    「死んだふり」など、本当にした訳ではないが、そう表現することで、ナインの中に消えかけていた希望の光を再点灯させたのである。。。。リーダーは、時には心理学者であらねばならない・・・・・

  • >>No. 2642

    御気遣い、ありがとうございますm(__)m

    日曜日は、体を休めてます(^-^)/

  • 昭和48年当時、南海には2名の黒人選手がいた。C・ジョーンズとW・スミスである。メジャー経験が殆どないジョーンズに対し、2歳年上のスミスはメジャーで49発のホームランを打っており、ジョーンズは、スミスに敬語で話す関係でもあった。

    性格は、ジョーンズが真面目一徹なのに対し、スミスは、ややチャランポランな所があった。……5月のある時、ブレイザーヘッド主導のフォーメーションプレーの練習で、スミスに手抜きプレーが見られた。……怒ったブレイザーは、スミスを練習から外し、その日のスタメンからも、彼の名前を消した。……この措置に逆ギレしたスミスは、翌日の練習からサボり、野村監督は登録を抹消した。

    前期優勝にも貢献できず、二軍で腐っていたスミスに、9月、野村監督が声を掛ける……「これからチームは、プレーオフに向けて大事な時期になる。……メジャーで頑張って来たお前の力も、必ず必要だから、もう一度、力を貸してくれ……」……これを受け、スミスはブレイザーヘッドに謝罪し、チームに復帰したのだ。

    阪急とのプレーオフは、一進一退。……2勝2敗で迎えた最終戦も山田・山内の投げ合い……0-0の投手戦で9回2死まで来た……この日の山田は浮き上がって来るような速球が冴え、南海打線は手も足も出ない。……ここで打席に入ったスミス……いつもなら、胸の前で十字を切り、「神様、打たせて下さい…」と祈ってバッターボックスに入る所だが、この時、何故か三塁ベンチの野村監督を見たという。……「思い切り叩け!」ノムさんが大きな声をかける。……うなずいたスミス、次の球を意を決してフルスイングすると、ジャストミートした打球は、ライトスタンドに吸い込まれて行った……優勝を決定づけるホームランとなったのだ。

    ブレイザーに干され、腐っていた自分に再度チャンスを与えてくれた日本人の上司……スミスにとっての神様は意外と近くにいたのかも知れない……

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