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投稿コメント一覧 (783コメント)

  • >>No. 3073

    『カント入門講義 - 超越論的観念論のロジック -』(冨田恭彦)
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    ・ロックの二重存在は懐疑論の根源だ。なぜなら、実在物が心の外に存立し、自分たちの知識が実在物と合致する限りにおいてのみ本当の知識だと考える限り、自分たちが本当の知識を持っていると確信することはできないからだ。というのも、知覚されるものが、知覚されないもの、或いは心の外に存在するものと合致することが、どうして知られようか。(冨田 訳, バークリ『人間の知識の諸原理についての論考』引用を参照)
    ・バークリ ・・・ 物質否定論
    ・カントの立場はバークリ的観念論と何が違うのかと批判する「ゲッテインゲン批評」に対するカントの反批判
    (pp.109-118参照)

  • >>No. 2987

    『フロイト講義 <死の欲動>を読む』小林敏明
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     よく知られているように、カントはわれわれは感性的直観をとおして得られる現象の世界しか認識することはできず、その背後にある「物自体」は認識できないと考えました。言い換えれると、それは主観によって構成的に認識された世界のみが現実的だということです。ショーペンハウアーも基本的には認識論の構図を受け入れ、世界は直接的な物自体の世界ではなく、あくまで「表象/観念 Vorstellung」の世界だと考えます。ではしかし、そもそもその表象ひいては認識という働きはどこから出てくるのか。こう問うことによってショーペンハウアーはカントから分かれます。表象や認識が可能になるのは、ほかならぬわれわれの内部に何かが働いているからです。それも直接に。

      (・・・) われわれはたんに"認識する主観"ではなく、他方でまた"自ら"認識する本質に属している、つまり"自ら物自体なのである"。したがってわれわれには、"外からは"迫ることのできない、かの事物の自らに固有な内的な本質には、"内なる"道が開かれている。その道はさしずめ、裏切りによって一挙にわれわれを外からは攻撃できない要塞に入り込ませる地下道、あるいは秘密の通路のようなものである。(Die Welt als Wille und Vorstellung Ⅱ, S.253)

     この比喩はトロイの木馬でも念頭においたものでしょうか。この「秘密の通路」は、他のもろもろの表象とはちがって、むしろ認識者の主観内部に直接感じ取られるものであり、その意味で「物自体」だとショーペンハウアーはいうのです。物自体はカントでは対象の背後に想定されていたのですが、ショーペンハウアーでは逆に主観の奥に想定されていることがわかります。そしてこの対象の側にひっくり返された物自体としての通路こそがショーペンハウアーのいう「意志」にほかなりません。(pp.44-46)

  • >>No. 2881

    『ロック入門講義 - イギリス経験論の原点 -』冨田恭彦
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    ・ロックの言う「物そのもの」は、私たちが日常「物」と思っているものとは違う
    ・ロックの「物そのもの」は、「粒子仮説」(古代原子論の近代における復活形態)で存在を想定される「物」
    ・ロックの見解は「知覚のヴェール」説ではない・・・ 仮説の論理の誤解(p.106参照)
    ・粒子仮説の「粒子」は(本来)、一次性質(形、大きさ、固性、運動・静止等)しかもたないが、それらが私たちの感覚とぶつかることで、感じられた色、味、熱さ(物にはないが私たちがそれに感じる性質)といった「観念」が知覚される。
    ・物そのものはもっていないが私たちにそれらの性質を感じさせる「能力」が、物にはあるとロックは考える。
    ・その「能力」を、ロックは二次性質とする。(参照, pp.80-100)

  • >>No. 3080

    『純粋理性批判』,カント, 篠田 訳
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    <2>
    無縁仏氏が、大トロやステーキを食ってるときは別に表象を食ってるわけじゃないと言っていた。大トロもステーキも私の好物ではないが、それらを食ってるとき、表象を食っているわけじゃないことは私にもわかる。他方、目の前にある大トロやステーキについて語るとき、私は大トロ自体やステーキ自体を認識しているわけではない。「認識」というのは、ある意味で視覚的な喩えなのかもしれない。目は対象に直接触れずとも、そこに映るものであればそれを認識する。このとき認識する主体が対象自体の存在を疑うことは余程のことがない限りないだろう。例えば「しかし、それは本当にそれなのか?」等と問わないかぎり。

  • >>No. 3071

    『純粋理性批判』,カント, 篠田 訳
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    私にとって「物自体」が認識不可能だとするならば、そもそも私はそれについて何事も知ることはできず、それについて語ることはできないはずである。にもかかわらず、私は「それ」について何事か語っている。これはどういうことなのか。確かに「物自体」とは私が認識対象について経験し語ることができるための単なる前提でしかないといえる。だが、はたして私は今目の前にある対象について総て語り尽くすことができるのだろうか。「物自体が認識不可能」とは、少なくとも私にとっては、己の認識能力がいかに貧弱であるかの言い換えといえる。

  • >>No. 3073

    『認識論史の終焉』

    冨田恭彦

    岩波書店(岩波講座哲学14 哲学史の哲学), 2009

  • >>No. 2930

    『カント入門講義 - 超越論的観念論のロジック -』(冨田恭彦)
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    第2章 なぜ「物自体」vs 「表象」なのか

    ・私たちが今「感覚によって」知覚しているさまざまな「物」、それと、「物」が持っているさまざまな性質は、それが感覚によって知覚されているものである限り、カントに言わせれば「物自体」ではなくて、「物自体」が私たちに刺激を与えた「結果」なのです。(p.92)

    ・私たちが感覚によって知覚しているのは、みなその結果ばかりで、当の刺激を与えている物自体は、私たちの知覚の対象とはならないのです。(p.92)

    ・カントの場合、外には「物自体」があり、他方、それが私たちの感覚能力を触発して私たちに知覚させる色や形など-あるいはそういう性質を持つ「物」- は、すべて「心の中」にあるというわけです。そして、そういう、「心の中」にあって意識の対象となるものを、カントは「表象」と呼ぶことにします。(p.94)

  • >>No. 3068

    『カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論』, 影浦亮平, 2015
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    <4>
    ・メイヤスーの提案:私たちの認識能力に問題があるから物自体(の秩序)を認識しえないのではなく、そもそも物自体は理由もなく存在しているのであって、理由、原因、法則性のないありのままの世界の姿を私たちは直接的に認識していると考えてみるのはどうか
    *************
    >いま私の目の前にある事物にはことごとく、そこに在る理由が存在すると思うのだが… 
    >「物自体」に遭遇するのは、こんなにも困難なことなのだろうか。

    覚え書き。例えば、いま私の目の前にある椅子にはそこに配置されている理由がある。配置した私の意図がそれである。他方、私にとって(コトバ上ですら)認識不可能なものについては、そもそも、そこに在る理由を問うことはない。

    >>理由、原因、法則性のないありのままの世界の姿を私たちは直接的に認識していると考えてみるのはどうか

    理由や原因からはなれた「認識」なんてあり得るのだろうか。それとも、「物自体」との邂逅は、目に映るもの、耳に入るもの、鼻に臭ってくるもの、等など"について"一切考えないときに起きているのだろうか。

  • >>No. 2100

    『純粋理性批判』,カント, 篠田 訳
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    >ところで − これは十分注意されねばならぬことであるが、 − 我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として"認識"することはできないにせよ、しかし少なくともこれを物自体として"考える"ことができねばならないという考えは、依然として留保されている。さもないと現象として現われる当のもの〔物自体〕が存在しないのに現象が存在するという不合理な命題が生じてくるからである。(上巻,p.41)

    >そこで今度は次のような仮定をしてみよう、道徳哲学は、自由(最も厳密な意味での)を我々の意志の性質として必然的に前提している、− 換言すれば、我々の理性に存する根源的な実践的原則を、理性にア・プリオリに"与えられているもの"(data)として用いている、かかる原則は、自由を前提しなければまったく成立し得ないからである。ところで思弁的理性が、自由は全く考えられ得ない、という証明をしたとする。するとこういう仮定のもとでは、上記の道徳的前提は、思弁的理性に屈服せざるを得なくなるだろう、思弁的理性の言分の逆は、明らかに矛盾を含んでいるからである。従って"自由"およびこれと共に道徳は、(自由が前提されなければ、道徳の反対は矛盾を含まないから)"自然機構"に席を譲らざるを得なくなる。それだから私が道徳哲学に必要とするのは次のことにほかならない。即ち − 自由が自己矛盾を含まないこと、従ってまた自由は少なくとも考え得られするが、しかし我々は自由に関してそれ以上の知解を必要とするものではないということ、− また自由は、同一の行為(他の〔思弁的な〕関係において解せられた)の自然機構をいささかも妨げるものではない、ということである。そうすれば道徳に関する学と自然に関する学とは、おのおのその地歩を確保して互いに相侵すことがない。しかしもし批判が、物自体に関する我々の無知の避けがたいことを前もって我々に教えていなかったとしたら、また我々が理論的に"認識"し得る一切のものを現象だけに制限しておかなかったとしたら、このことは不可能であったろう。(上巻,pp.42-43)

  • >>No. 2980

    『チャンドス卿の手紙 他十篇 』,ホフマンスタール , 檜山 訳
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    >ようするに、当時は、ある種の陶酔の持続のうちにあって、存在全体が一箇の大いなる統一体と見えていたのです。精神と肉体の世界が対立するとは思えず、同様に、洗練されたものと獣めいたもの、芸術と非芸術、ひとりと集団などが対立するとは思えませんでした。すべてのもののうちにわたしは自然を感じていたのです。
    (pp.106-107)

    >わたしの症状といえば、つまりこうなのです。なにかを別のものと関連づけて考えたり話したりする能力がまったくなくなってしまったのです。
     まずはじめは、高尚であれ一般的であれ、ある話題をじっくり話すことが、そしてそのさい、だれもがいつもためらうことなくすらすら口にする言葉を使うことが、しだいにできなくなりました。「精神」「魂」あるいは「肉体」といった言葉を口にするだけで、なんとも言い表しようもなく不快になるのでした。… ある判断を表明するためにはいずれ口にせざるをえない抽象的な言葉が、腐れ茸のように口のなかで崩れてしまうせいでした。…
     そして、ちょうど錆が周囲をむしばむように、この気がかりな悩みはしだいに広がっていきました。気のおけないふつうの会話にあっても、… だれそれにとって得になったあるいは損になった、州長官Nは悪人で牧師のTは善人だ… などなど…こうした会話はすべて、裏づけもなく、偽りで、ひどく粗雑に思えたのです。このような会話にあらわれる事柄すべて、不気味なくらい近くから眺めるよう、わたしの精神は強制しました。…もはやそれらを、なんでも単純化してしまう習慣的な眼差しでとらえることはできませんでした。すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものはありませんでした。個々の言葉はわたしのまわりを浮遊し、凝固して眼となり、わたしをじっと見つめ、わたしもまたそれに見入らざるをえないのです。それははてしなく旋回する渦であり、のぞきこむと眩暈をおこし、突きぬけてゆくと、その先は虚無なのです。
    (pp.109-111、「… 」部分は略)

  • 『カント - 世界の限界を経験することは可能か -』, 熊野純彦,2002
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    ・誰もみたことのない世界の始まり、世界の果て。それでも人はいつかそれを考え始めてしまう。
    ・カントにとって「理性」とはなによりもまず推論する能力のことである。理性はその能力にもとづき経験を超えたものについても、その条件をつぎつぎと問いもとめる。→ 「奇妙な運命」にとりつかれた人間の理性
    ・「信じることに場所をあけるために、知ることに制限をくわえなければならなかった」(p.16)

  • >>No. 3067

    『カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論』, 影浦亮平, 2015
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    <3>
    ・メイヤスーの提案:私たちの認識能力に問題があるから物自体(の秩序)を認識しえないのではなく、そもそも物自体は理由もなく存在しているのであって、理由、原因、法則性のないありのままの世界の姿を私たちは直接的に認識していると考えてみるのはどうか
    *************
    いま私の目の前にある事物にはことごとく、そこに在る理由が存在すると思うのだが… 
    「物自体」に遭遇するのは、こんなにも困難なことなのだろうか。

  • >>No. 3066

    『カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論』, 影浦亮平, 2015
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    <2>
    ・「物自体」とは、人間の認識が介在せず、ありのままの姿の世界のありかたである
    ・カント以前では「物自体」が真実であり客観的であるとされ、「現象」は人間の目にみえる世界、つまり主観の見せる幻影なり偽物とされた(プラトンの洞窟の比喩)
    ・これに対し、カントは「物自体」ではなく「現象」こそが"私たちにとって"リアル、つまり真実であり客観的であるとした ⇒ 「現象」に付随する時間性、空間性、因果関係といった概念は、私たちの側の認識能力に由来する
    ・"私たちにとっては、"認識できない「物自体」よりも「現象」のほうが客観的。「現象」の「物自体」に対する優位。

  • >>No. 3064

    『カンタン・メイヤスーの思弁的唯物論』, 影浦亮平, 2015
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    ・相関関係主義の難点。過去を取り扱う科学的言説、例えば人類誕生以前の出来事についての言説は、私たち人間の存在なしに、つまり私たちの思考なしに世界が存在しているということを示す。このことは私たちの思考なしには世界が存在しないとする相関関係主義とは両立しがたい。(p.4参照)

  • >>No. 2980

    『見者ランボー』, 粟津則雄, 2010
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    ・ランボーはデカルトをふまえて、「われ思う」というのはまちがいで「われを思う」というべきだと言ったとのこと(p.17参照)

  • >>No. 3061

    『亡霊のジレンマ - 思弁的唯物論の展開 -』, カンタン・メイヤスー,岡嶋 他訳,2018
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    ・強い相関主義は、主観主義者が信じているような相関の絶対化よっては論駁されえず、むしろそれは事実性の絶対化によって論駁されうる(p.25参照)

  • >>No. 2998

    『四方対象 - オブジェクト指向存在論入門 -』,グレアム・ハーマン,岡嶋 他訳,2017
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    ・ハーマンとメイヤスーの違い。カントの物自体がドイツ観念論によって破棄されたことを残念に思っているのがハーマン。一方、メイヤスーは不可知な即自の切り落しを合理主義的哲学への真の道として賞賛する (p.215参照)

  • >>No. 3055

    『時間と自由意志』, 青山拓央, 2016
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    ・これまで自由意志/決定論の対立として論じられてきた難問を、自由とは何かという議論からいったん離れ、「分岐問題」の枠組みのもとで考察しなおす
    ・さまざまな歴史の問題は、樹形図としてしばしば表現されるが、過去の歴史は一通り
    ・未来の歴史はいくつもある。人は決断することによって、ただ一つの現実を選択していくようにみえる、しかしそれは本当か。
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    未来の歴史?というのがまだわからない。
    記述された(過去の)一連の諸行為のなかで起こる、どの選択肢にするか、その都度の決断?

  • >>No. 3056

    『シュルレアリスムとは何か』、巖谷國士,2002
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    ・「シュール」は、現実とは対応していない非現実、現実ばなれといった意味合いで使われることが多い
    ・シュルレアリズムでは、現実そのものが超現実のはじまり
    ・現在、シュルレアリズムは容易にできることではない。なぜなら現実のほうがものすごい力で私たちの想像力や創造力を規制してしまっているから。

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    「別の領域にポンと配置されて」しまった「単に変なもの」(p.96)。
    配置された意図(配置した者の意図)を考えるのは、ときに過剰だ。

  • >>No. 2906

    『シュルレアリスムとは何か』、巖谷國士,2002
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    ・シュルレアリスムとは、主観的な幻想ではなく、むしろ主観をできるだけ排して客観、客体にいたろうとした思想
    ・超現実は現実の度合いが強い、現実以上の現実。現実はある意味で超現実とつながっている。
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    現実の度合いの強い現実。
    (自分より)年増の現にある存在感、どこか現実とつながる○○○億年後とされる世界像

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