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投稿コメント一覧 (3コメント)

  • >>No. 166

    >「分析哲学はプラグマティズムを厳密にしようとするものだ」(キティ)

    >「プラグマティズムの主張の要点は われわれ人間の知性活動の目的は、経験を処理する場合に生ずる困難を解決することであるとし、その思想(理論)を使用してみて分ることであるとする。論理実証主義や分析哲学は、これを厳密にしようとするものである。」(川田)

    川田のいう「論理実証主義や分析哲学は、これを厳密にしようとするものである」という場合の「これ」は、プラグマティズムというよりは、それの要点と川田の考えた「われわれ人間の知性活動の目的は、経験を処理する場合に生ずる困難を解決することであるとし…」云々じゃないのかな?「論理実証主義」は「論理経験主義」ともいうし。

    でなければ、川田は1975年当時「論理実証主義や分析哲学」が「(古典的)プラグマティズム」との関わりのもとで発展したと考えていたのだろうか。「分析哲学」の章を担当した佐藤徹郎(ウィトゲンシュタイン全集の訳者の一人だね)は両者の関係にふれているのかい?「プラグマティズム」の担当は誰なのかな?

    >思うに、ダメットのような分析哲学者は世界哲学史のような見地から自らを内省することはあまりなく、どちらかというと自分の立場から自らを評価する傾向にある。

    時間がないのでざっくりと書こう。駆け足で書いたので誤っているかもしれない。
    ダメット本をみて判断してほしい。

    『分析哲学の起源』の著者ダメットは、この本を「本書が歴史書だというつもりはない」という。彼の意図は「分析的伝統のルーツへの一連の哲学的反省」なのだ、と。彼は思想の分野での因果的な影響を「誰が何を読み何を聞いたかとは独立に働いているようにみえる」と考える。ダメットは(この本では)ラッセル、ムーアや、ウィーン学団、プラグマティストについて言及していないに等しいのだと言う。ダメットは「分析哲学の源流」をおもにドイツ語で、あるいはドイツ語だけで書いた哲学者のうちにみる。ダメットはフレーゲの研究の副産物としてボルツァーノに関心をもった。ダメットの試みは分析哲学の起源に現象学との共通基盤をみいだそうとする試みであったと考える。その動機は、序の最後にあるように対立する分析哲学派と現象学派の相互理解だったが、分析哲学に従事する自分が決して中立ではなく分析哲学派の有利に論ずる他はなかったと書いている。

  • >>No. 147

    岡本裕一朗の『ネオ・プラグマティズムとは何か』(2012)のサブタイトルは「ポスト分析哲学の新展開」だ。岡本が冒頭でさらっと「プラグマティズム」と「分析哲学」の「交流」を描いている。

    ●1870年代にC.S.パースが提唱し、W.ジェームズ、デューイ、ミードらが続いた ⇒ 「プラグマティズム」
    ・20世紀中ごろ ⇒「プラグマティズム」の衰え
    ●ナチスの台頭による「論理実証主義者」たちの亡命 ⇒「分析哲学」の拠点がアメリカに移る
    ・1970年代 ⇒「分析哲学」の衰え
    ●「プラグマティズム」(古典的プラグマティズム)が再び注目され「分析哲学」のプラグマティズム化(ネオ・プラグマティズム)が進展 ⇒ 「ポスト分析哲学」の新展開

    パトナムは2016年に亡くなった。彼自身が自らの思想遍歴にふれた文献もあるようなので(※未邦訳文献も含める)、少なくともパトナムの(古典的)プラグマティズムかの影響を、彼自身がどのように述べているのか、彼のC.S.パースへの関心の内容も含めて、再考できるといいよな?、キティ。

  • >>No. 143

    >分析哲学の成立自体にプラグマティズムが関係しているということにもなってくる

    キティのいう「分析哲学(の成立)」とは、ウィトゲンシュタインを念頭においたものなのか?
    また「プラグマティズム」とは、ジェームズを念頭においたものなのか?
    キティのいう「分析哲学の成立」が、いつ頃のだれを想定したものなのか不明なのが、例によってキティの「仮説」の残念な点である。

    パース黒幕説についても、論敵をあげつらう意図で「黒幕」という言葉を使ったのであろうが、私にはこの言葉に込められた意図が、先行するC.S.パースの哲学こそが(今は注目されていないが)パトナム実在論の「転向」を決定づけた大立て者なのだという主張に読めた。

    しかし現段階の私の見解としては、パトナムを軸に追っていく限り、彼の「転向」の-決定的な-要因をパースの哲学に帰することは困難ではないかと考えている。たしかに『実在論と論拠』(1976)にはパースの実在論(真理論)が、自身の支持する実在論(真理論)の崩壊の理由としてあげられてはいるが、そもそもなぜパースの実在論なのか、「検証論者」のよくできた例としてあげられている(※『意味と精神科学』序文参照)以上の役割が感じられない。

    パトナムの「転向」はパースの哲学とは無関係ではないが、かといって「黒幕」という表現を与えるほど決定的な役割を果たしているかは疑問である。むしろ「パース」と限定するのではなく、パトナムが通じていたであろうジェームズ、デューイの哲学も視野にいれた(古典的)プラグマティズムの真理論が、1976年代に彼が論を交わした同時代のダメット等との議論の成果にどのように関わってくるかを今一度整理したほうがよいのではないかと感じている。門外漢としては不可能な作業ではあるが。

    最後に付け加えるならば、パース研究、プラグマティストの観点からパトナム「転向」をパースに帰する作業は、私にとってはあまり魅力的ではない。なぜならパースはプラグマティズムの出発点だし、明らかにパトナムの先行者であるし、そのパトナムがパースを読んでいることは周知の事実だからだ。だからこそ多くの研究者は、両者の類似を指摘するとか、パース主義だとか評するに留めているのだろう。さてウィトゲンシュタインもまたジェームズを読んでいた。彼の哲学にジェームズが関わっていたと評することはあまりに容易い。

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