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投稿コメント一覧 (735コメント)

  • >>No. 3152

    『「ウィトゲンシュタイン的独我論」 の構造と意義
      - 永井均著『ウィトゲンシュタインの誤診 ―『青色本』 を掘り崩す』について -』

    古田徹也

    科学哲学47 巻 (2014) 1 号

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/47/1/47_53/_article/-char/ja/

  • >>No. 3148

    永井 均『〈子ども〉のための哲学』
    ---------------------------
    ●永井の問い… 「ぼくはなぜ存在するのか」← 誰にでもあてはまらない、普遍性が成り立たない問題?

    ◎この問いに答えるために<3>
    ■"ぼくの"自分、"ぼくの"私の特別さ

    → A、B(ぼく永井)、C、D … Bがまったく特別であるのは、Bがぼく永井であるからにすぎない。A,C,Dは、ぼくがぼく永井であるのと同じ意味では、「ぼく」であることはできない。ぼく永井がこの世にいない場合でも、A,C,Dは、みんなそれぞれ、ぼくA,ぼくC,ぼくDなのだが、そのときいないものこそ、本当の意味でのぼくなのだ。(pp.49-51参照)

    ********************
    さて「独在性と言語ゲーム」(pp.96-102)において、永井の思索はどこへ着地するのか。

    …この思考は個別化された脱人格的自我(各人のもつ、しかし各人から離脱可能な、世界の物種としての「魂」)にしか行きつかなかった。"このぼく"の特別さは出てこなかった。(p.97)

  • >>No. 3141

    永井 均『〈子ども〉のための哲学
    ********************
    認識論的な独我論とは、永井が言うような、

    「ある一つの心〔もしそういうものがあるとすれば〕にとって、その外部にあるもの〔他の心の存在をふくめて〕の存在は認識できない」

    というものなのだろうか。

    それと、

    「自分だけが存在し、自分以外のものは(自分の心の中にしか)存在しない」

    というのでは、どうも違う気がする。

    永井は、「以上のような議論は、自分だけではなくて、そのままひっくり返して、他人についても当てはまる、ということである。」(p.37) という。彼によれば、上で言われる「自分」とは任意の主観である。

    しかし、どうもよく分からない。

    認識論的独我論を何らかの理由から否定し、彼の語りたい次の独我論(「存在論的独我論」?)へ論をすすめるために、認識論的~を"誰にでもあてはまる独我論"としたのでないか。

  • >>No. 3095

    『「観念論論駁」におけるカントの論証』

    飯野由美子

    科学基礎論研究21 巻 (1992-1994) 2 号

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/kisoron1954/21/2/21_2_71/_article/-char/ja

  • >>No. 3125

    『「ポチは白い」は要素命題でありうるか
      野矢茂樹著『『論理哲学論考』を読む』を読む』

    野村恭史

    科学哲学, 37 巻 (2004) 1 号

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj1968/37/1/37_1_61/_article/-char/ja/

  • >>No. 3141

    永井 均『〈子ども〉のための哲学』
    ---------------------------
    ●永井の問い… 「ぼくはなぜ存在するのか」← 誰にでもあてはまらない、普遍性が成り立たない問題?

    ◎この問いに答えるために<2>
    ■"ぼくの"自分、"ぼくの"私の特別さ

    → A、B(ぼく永井)、C、D … Bがまったく特別であるのは、Bがぼく永井であるからにすぎない。A,C,Dは、ぼくがぼく永井であるのと同じ意味では、「ぼく」であることはできない。ぼく永井がこの世にいない場合でも、A,C,Dは、みんなそれぞれ、ぼくA,ぼくC,ぼくDなのだが、そのときいないものこそ、本当の意味でのぼくなのだ。(pp.49-51参照)

  • >>No. 3140

    永井 均『〈子ども〉のための哲学』
    ---------------------------
    ●永井の問い… 「ぼくはなぜ存在するのか」← 誰にでもあてはまらない、普遍性が成り立たない問題?

    ◎この問いに答えるために
    ■独我論…「自分だけが存在し、自分以外のものは(自分の心の中にしか)存在しない」

    →認識論的な懐疑論に端を発する「認識論的独我論」(ある一つの心〔もしそういうものがあるとすれば〕にとって、その外部にあるもの〔他の心の存在をふくめて〕の存在は認識できない)

    →もし自分と同じように心を持つ者がいるとすれば、つまり自分と同じ種類の他の者がいれば、そいつにもこの種の独我論が平等にあてはまることは決まっている。その意味でこの独我論は誰にでもあてはまる普遍的な独我論なのだ

    →「誰にでもあてはまらない、普遍性が成り立たない」問いに、普遍的な独我論で答えてしまった!
    (pp.30-39)

  • >>No. 3138

    『〈子ども〉のための哲学』

    永井 均

    講談社現代新書, 1996

    http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000146763

  • >>No. 3005

    中島義道『不在の哲学』
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    ・無と不在との違いの一つは、前者にはそれを語る視点がないが、後者にはその視点があるということである。

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    語る視点が無いなら、なぜ「無」について語り得るのか。結局、(生きている)私は、(死んでいる)私を、「無」について、という体で「不在」として語ることになる。「不在」には、認識不可能(無)という体で認識している、あの「物自体」と言いたい者の欲を感じる。

  • >>No. 3136

    永井 均「他我問題」(『<私>のメタフィジックス』,pp.3-27)
    ----------------------
    ・およそ私が体験しうる精神的・心理的諸状態はすべて例外なく私自身のものであり、私が他者の精神的・心理的諸状態を体験することはありえない。
    ・私が他者について体験できるのは、外にあらわれた彼の身振り、表情・発声、発言といったものだけである。

    *******************
    私は他人の死を体験できない。しかし、私が他人について体験できることが、永井が言うように、他人の外的表出であるならば、それが完全に無くなれば他人の死は体験できることになるのかもしれない。さらに言えば、外的表出が生起しないよう他人から表出してるそのモノ(身体)を破壊してしまえば、他人の死を体験できると考える人がいてもおかしくはないだろう、その「他人」の死を願う者がいるとするならば。

  • >>No. 3135

    永井 均「他我問題」(『<私>のメタフィジックス』,pp.3-27)
    ----------------------
    ・およそ私が体験しうる精神的・心理的諸状態はすべて例外なく私自身のものであり、私が他者の精神的・心理的諸状態を体験することはありえない。
    ・私が他者について体験できるのは、外にあらわれた彼の身振り、表情・発声、発言といったものだけである。
    ・私にとって、他者の外的表出の背後に、実際に精神的・心理的諸状態が生起しているかは、謎である。
    ・さらに、それが生起している精神や心が他者にあるのか(つまり、他者が私と同様「我」であるのか)どうかも、謎である。(p.4)

  • >>No. 3126

    「他我問題」

    永井 均

    『<私>のメタフィジックス』(pp.3-27)に所収,1986

    勁草書房

    http://www.keisoshobo.co.jp/book/b26771.html

  • >>No. 3133

    永井 均『他者』(『<私>の存在の比類なさ』,pp.3-62)
    -----------------------
    ・「他者」とはもちろん外部から与えられる規定であるにもかかわらず、他者性のうちには外部からの接近を絶対的に拒絶する地点が必ず存在する(p.17)

    ****************
    <3>
    自らの存在の比類のなさを、対象として認識する私からの絶対的な隔絶によってつなぎ止めているのが「他者」だといえるだろうか。

  • >>No. 3132

    永井 均『他者』(『<私>の存在の比類なさ』,pp.3-62)
    -----------------------
    ・「他者」とはもちろん外部から与えられる規定であるにもかかわらず、他者性のうちには外部からの接近を絶対的に拒絶する地点が必ず存在する(p.17)

    ****************
    <2>
    「他者性」とはいかなるものなのか?他者(対象)に属するものなのか、それとも私のみかた(主観)に因るものなのか。おそらくどちらでもあるだろう。とはいえ、そこにもし-他者にとって-外部(私)からの接近を絶対的に拒絶する地点があるとするならば、それについては他者に属するものだと言えるかもしれない。だとすれば、それは私から絶対的に隔絶した、差異であり、、、-他者にとって-自らの存在の比類なさを示すものなのかもれない。

  • >>No. 3126

    永井 均『他者』(『<私>の存在の比類なさ』,pp.3-62)
    -----------------------
    ・「他者」とはもちろん外部から与えられる規定であるにもかかわらず、他者性のうちには外部からの接近を絶対的に拒絶する地点が必ず存在する(p.17)

    ****************
    類似と差異。私はいま目の前に在る様々な対象を「他者」とは認識しないだろう。それは単なる視界、単なる風景の一部でしかない。そこで、もし或る対象について他者性を感じるとするならば、まずは、私との類似においてである。ただし永井が言うように、類似を感じた私は直ちに、私の接近を絶対的に拒むものとの差異を感じることになるだろう。というのも、もし私の接近を拒まないものがあるとしても、その「他者性」は、私との同一へと解消していくだろうか。

  • >>No. 3125

    『他者』

    永井 均

    『<私>の存在の比類なさ』(pp.3-62)に所収,1998

    勁草書房

    http://www.keisoshobo.co.jp/book/b26890.html

  • >>No. 2970

    『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』を読む① 
      『哲学探究』とはいかなる書物か - 理想と哲学』

    鬼界彰夫

    勁草書房, 2018

    http://www.keisoshobo.co.jp/book/b373841.html

  • >>No. 3123

    『デカルト  方法序説ほか』

    デカルト

    野田又夫・井上庄七・水野和久・神野慧一郎 訳

    中公クラシックス,2001

  • >>No. 3084

    ロック入門講義 - イギリス経験論の原点 -』冨田恭彦
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    ●日常的な見方
    私たち(心) ---------→ 物(あるがまま)
           直接的

    ●ロック的な見方
    私たち(心 ------→観念) 物
         直接的

    ●ロックの粒子仮説
    私たち(心 ------→観念)←のものそ物(=粒子["微小なため知覚不可能な原子"])
        (   質性次2/ 質性次1 )

    ■ロックによる粒子仮説的ロジックに対するバークリ (-ヒューム-カント) の誤解

    ・ロックの二重存在は懐疑論の根源だ。なぜなら、実在物が心の外に存立し、自分たちの知識が実在物と合致する限りにおいてのみ本当の知識だと考える限り、自分たちが本当の知識を持っていると確信することはできないからだ。というのも、知覚されるものが、知覚されないもの、或いは心の外に存在するものと合致することが、どうして知られようか。(冨田 訳, バークリ『人間の知識の諸原理についての論考』引用を参照, pp.84-85)

    ・「私たちの心の直接的対象が観念でしかないなら、「物そのもの」のあり方がどうしてわかるのか」(p.110)

  • >>No. 3073

    『カント入門講義 - 超越論的観念論のロジック -』(冨田恭彦)
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    ・私たちが今「感覚によって」知覚しているさまざまな「物」、それと、「物」が持っているさまざまな性質は、それが感覚によって知覚されているものである限り、カントに言わせれば「物自体」ではなくて、「物自体」が私たちに刺激を与えた「結果」なのです。(p.92)

    ・カントの場合     
    物 自 体?     →触 発→      【 ◎表象 ←知覚← 心】
      原因----------------------------------------------------結果

    こう考えてみる。なんであれ、ある物が認識不可能だとすれば、そもそも私はソレを認識し得ない。しかしソレが私に刺激を与えた結果として、私が何らかの形でソレを受けたのであれば、いずれにせよ、その物自体(原因)は私に達しているのではないか。

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