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投稿コメント一覧 (769コメント)

  • >>No. 2980

    『リヒテンベルクの雑記帳』

    ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク

    宮田眞治 編訳

    作品社,2018

    http://www.sakuhinsha.com/nonfiction/26900.html

  • >>No. 2998

    『四方対象 - オブジェクト指向存在論入門 -』,グレアム・ハーマン,岡嶋 他訳,2017
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    ・ハーマンとメイヤスーの違い。カントの物自体がドイツ観念論によって破棄されたことを残念に思っているのがハーマン。一方、メイヤスーは不可知な即自の切り落しを合理主義的哲学への真の道として賞賛する (p.215参照)

  • >>No. 3055

    『時間と自由意志』, 青山拓央, 2016
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    ・これまで自由意志/決定論の対立として論じられてきた難問を、自由とは何かという議論からいったん離れ、「分岐問題」の枠組みのもとで考察しなおす
    ・さまざまな歴史の問題は、樹形図としてしばしば表現されるが、過去の歴史は一通り
    ・未来の歴史はいくつもある。人は決断することによって、ただ一つの現実を選択していくようにみえる、しかしそれは本当か。
    ************
    未来の歴史?というのがまだわからない。
    記述された(過去の)一連の諸行為のなかで起こる、どの選択肢にするか、その都度の決断?

  • >>No. 3056

    『シュルレアリスムとは何か』、巖谷國士,2002
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    ・「シュール」は、現実とは対応していない非現実、現実ばなれといった意味合いで使われることが多い
    ・シュルレアリズムでは、現実そのものが超現実のはじまり
    ・現在、シュルレアリズムは容易にできることではない。なぜなら現実のほうがものすごい力で私たちの想像力や創造力を規制してしまっているから。

    ****************
    「別の領域にポンと配置されて」しまった「単に変なもの」(p.96)。
    配置された意図(配置した者の意図)を考えるのは、ときに過剰だ。

  • >>No. 2906

    『シュルレアリスムとは何か』、巖谷國士,2002
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    ・シュルレアリスムとは、主観的な幻想ではなく、むしろ主観をできるだけ排して客観、客体にいたろうとした思想
    ・超現実は現実の度合いが強い、現実以上の現実。現実はある意味で超現実とつながっている。
    ******************

    現実の度合いの強い現実。
    (自分より)年増の現にある存在感、どこか現実とつながる○○○億年後とされる世界像

  • >>No. 3053

    『時間と自由』,ベルクソン, 中村 訳, 2001
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    ・原題は「意識に直接与えられたものについての試論」
    ・英訳のタイトルは1910年以来「時間と自由」

  • >>No. 3050

    『<自由>の条件』, 大澤真幸, 2008
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    > ・自由は選択の可能性を不可欠の前提とする
    > ・選択は偶有性に対してのみ可能である
    > ・選択の選択性が帰せられるところが「責任」と呼ばれ、「責任」は自由な行為者に対してしか問うことはできない
    > ・因果関係のネットワークに埋め尽くされたこの世界のどこに自由があるのか
    > ・原因の帰属と責任の帰属の区別
    **************

    辞書的な意味をしめしておくと、「自由」には、~からの自由(他から強制・拘束・妨害などを受けないこと)と、~への自由(自主的、主体的に自己自身の本性に従うこと)がある。〔goo辞書より〕

    可能な選択肢を前に、私が自らの意志で選択することは、「自由」と言えるだろうか。それは後者の意味では自由な行為と言えるかもしれないが、前者の意味では、選択肢という制限つきの自由だと言えるかもしれない。

  • >>No. 3050

    『自由意志』,トーマス・ピンク,戸田他 訳,2017
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    ・自由意志 … 自由と意志
    ・自分の行為の仕方はコントロールできる、行為は私たち次第

    ・自由という言葉には、政治的自由と私たちの行為のコントロールという二つの用法がある、両者は別だが、類似点がみられる

  • >>No. 3032

    『<自由>の条件』, 大澤真幸, 2008
    ------------------
    ・自由は選択の可能性を不可欠の前提とする
    ・選択は偶有性に対してのみ可能である
    ・選択の選択性が帰せられるところが「責任」と呼ばれ、「責任」は自由な行為者に対してしか問うことはできない
    ・因果関係のネットワークに埋め尽くされたこの世界のどこに自由があるのか
    ・原因の帰属と責任の帰属の区別

  • 『不在の哲学』(中島義道)
    ---------------------
    ・無と不在との違いの一つは、前者にはそれを語る視点がないが、後者にはその視点があるということである。

    語る視点が無いなら、なぜ「無」について語り得るのか。結局、(生きている)私は、(死んでいる)私を、「無」について、という体で「不在」として語ることになる。「不在」には、認識不可能(無)という体で認識している、あの「物自体」と言いたい者の欲を感じる。

    ・私は他人が死んでも私の視点を有する。/私は他人の死について「彼は死んでしまった」と語れる

    こうも言える(言いたい)。私は彼が死んで、彼を有意味に語る視点を失ったのだと。では視点を失ってなおも私が語る「彼」とは誰(何)か。それは墓(物自体)に触発された、私の妄想の産物である。路傍の石は、ただの観念かもしれない。しかし彼の名の刻まれた墓石は私を触発し、彼の無を不在という体で認識させるのだ。

  • >>No. 3002

    『不在の哲学』

    中島義道

    ちくま学芸文庫,2016

    http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097217/

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    無と不在との違いの一つは、前者にはそれを語る視点がないが、後者にはその視点があるということである。私は他人の死について「彼は死んでしまった」と語れるが、「私は死んでいる」と語れない。なぜなら、私は他人が死んでも私の視点を有するが、私が死ぬとその視点を失うからである。この場合、私にとって彼はまさに不在であるが、死んでしまった彼にとって彼自身は無である。

    ・・・<いま>語る「私」と未来あるいは過去における語られる「私」が乖離しており、<いま>語る私が現存している限り、後者の「無の私」でさえ、不在としてとらえられる (上掲書,pp.9-10)

  • >>No. 2754

    『双書 哲学塾 「死」を哲学する』

    中島義道

    岩波書店, 2007

    https://www.iwanami.co.jp/book/b260011.html

    【目次】
    はじめに
    ・講義の七日間 「死」を哲学する
    第1日 死と人生の意味
    第2日 死ぬ時としての未来(1)
    第3日 死ぬ時としての未来(2)
    第4日 私の死・他人の死
    第5日 不在と無
    第6日 「無」という名の有
    第7日 「無」という名の無・死の超克

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    ・私が飛行機に乗ってこれが墜落したら私は確実に死ぬだろう。私の家族や知人は私の死を知ったらなにごとか感じ考えるにちがいない。死んでしまった私は彼らにとって永遠の「不在」となった。しかし、死んでしまった私は、私にとっては「不在」ではなく、単に「無」なのだ。(上掲書, p.91参照)

  • >>No. 2991

    『クオリア入門 - 心が脳を感じるとき -』 (茂木健一郎)
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    【メモ】
    ・逆転クオリア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E8%BB%A2%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2

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    『反転スペクトルのパラドックス 』

    塚原典央

    福井県立大学論集, 2008

    http://jairo.nii.ac.jp/0103/00000050

  • >>No. 2990

    『クオリア入門 - 心が脳を感じるとき -』 (茂木健一郎)
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    ・私たちの心の中の表象が、全て脳のニューロンの発火として生じるということを認めるということは、必ずしも「私」の外の客観的世界の存在を否定する「独我論」に結び付くわけではない。
    ・私の目の前の机も、外の道路を走る車も、彼方の山も、太陽も、銀河系も、おそらくは客観的な物質として存在する。それは否定できない。
    ・私たちは、頭蓋骨の中に閉じ込められつつ、広大な世界と結び付くという、パラドキシカルな存在なのである。

    (上掲書,pp.11-12参照)

    ・クオリア qualia とは、赤い色の感じ」とか「ヴァイオリンの音色」といった、私たちの感覚を特徴づける独特の質感を指す。この質感は、従来、客観的な自然法則を構成する上で使われてきた長さ、面積、質量、電荷といった物理的な量とは何の関係もない、ユニークで鮮明な存在感を持つ。
    ・私たちの心は、このような-qualiaの住まう世界-なのだ。

    (上掲書,pp.16-17参照)

  • >>No. 2985

    『クオリア入門 - 心が脳を感じるとき -』

    茂木健一郎

    ちくま学芸文庫, 2006

    http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480089830/

    >“私たちの心のすべては、私たちの脳のニューロンの発火に伴って起こる「脳内現象」にすぎない”。人間を、世界のほかのあらゆるものと区別するのは、「心」の存在だ。そして、われわれの心の中のすべての表象は、クオリアというそれ以上分割できない単位からできている。風にそよぐ木々の動きや葉の色、鼻孔をふるわす芳香―さまざまなクオリアたちを表象する“心”が、脳内にいかにして現象するか。さらにクオリアと「私」の心を結ぶ「志向性」の新たな展開とは?

  • >>No. 2207

    『フロイト講義 <死の欲動>を読む』

    小林敏明

    せりか書房, 2012

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     よく知られているように、カントはわれわれは感性的直観をとおして得られる現象の世界しか認識することはできず、その背後にある「物自体」は認識できないと考えました。言い換えれると、それは主観によって構成的に認識された世界のみが現実的だということです。ショーペンハウアーも基本的には認識論の構図を受け入れ、世界は直接的な物自体の世界ではなく、あくまで「表象/観念 Vorstellung」の世界だと考えます。ではしかし、そもそもその表象ひいては認識という働きはどこから出てくるのか。こう問うことによってショーペンハウアーはカントから分かれます。表象や認識が可能になるのは、ほかならぬわれわれの内部に何かが働いているからです。それも直接に。

      (・・・) われわれはたんに"認識する主観"ではなく、他方でまた"自ら"認識する本質に属している、つまり"自ら物自体なのである"。したがってわれわれには、"外からは"迫ることのできない、かの事物の自らに固有な内的な本質には、"内なる"道が開かれている。その道はさしずめ、裏切りによって一挙にわれわれを外からは攻撃できない要塞に入り込ませる地下道、あるいは秘密の通路のようなものである。(Die Welt als Wille und Vorstellung Ⅱ, S.253)

     この比喩はトロイの木馬でも念頭においたものでしょうか。この「秘密の通路」は、他のもろもろの表象とはちがって、むしろ認識者の主観内部に直接感じ取られるものであり、その意味で「物自体」だとショーペンハウアーはいうのです。物自体はカントでは対象の背後に想定されていたのですが、ショーペンハウアーでは逆に主観の奥に想定されていることがわかります。そしてこの対象の側にひっくり返された物自体としての通路こそがショーペンハウアーのいう「意志」にほかなりません。(pp.44-46)

  • >>No. 2984

    『現代現象学 -経験から始める哲学入門 -』(植村・八重樫・吉川 編著, 富山・森 著)
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    ・経験を経験にする特徴とは何かという問いに対する有望な答え。経験が-何かについてのもの-であるという特徴をもつということ。
    ・例。家の前の猫を見るという経験。またそれをあの馴染みの猫と同じ猫だと特定する経験。見られて同定された猫という対象を抜きにしては、それらの経験がどういうものかを描写することはほとんどできない。
    ・こうした経験の特徴は志向性intentionalityと呼ばれ、志向性を持つ経験は志向的intentionalであると言われる。

    (上掲書,p.72参照)

  • >>No. 2983

    『現代現象学 -経験から始める哲学入門 -』(植村・八重樫・吉川 編著, 富山・森 著)
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    ・現象学は私たちの「経験」を探究する。
    ・例えば「物」の現象学的解明。物は、知覚という経験の進行のなかで、- 私にとって- さまざまな側面から与えられる。
    ・「私にとって」。私たちの経験のある種の不完全性。私たちは自分の身体のある「ここ」から物を知覚する。
    ・「ここ」に拘束されること。私たちの知覚は物を一側面からのみ見ており、すべての側面から一挙に捉えるわけではない。
    ・経験の「私」という一人称観点をもつこと。経験は「私にとって」という性格をもつ。

    (上掲書, p.5参照)

  • >>No. 2432

    『チャンドス卿の手紙 他十篇 』

    ホフマンスタール

    檜山哲彦 訳

    岩波文庫,1991

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    >ようするに、当時は、ある種の陶酔の持続のうちにあって、存在全体が一箇の大いなる統一体と見えていたのです。精神と肉体の世界が対立するとは思えず、同様に、洗練されたものと獣めいたもの、芸術と非芸術、ひとりと集団などが対立するとは思えませんでした。すべてのもののうちにわたしは自然を感じていたのです。
    (pp.106-107)

    >わたしの症状といえば、つまりこうなのです。なにかを別のものと関連づけて考えたり話したりする能力がまったくなくなってしまったのです。
     まずはじめは、高尚であれ一般的であれ、ある話題をじっくり話すことが、そしてそのさい、だれもがいつもためらうことなくすらすら口にする言葉を使うことが、しだいにできなくなりました。「精神」「魂」あるいは「肉体」といった言葉を口にするだけで、なんとも言い表しようもなく不快になるのでした。… ある判断を表明するためにはいずれ口にせざるをえない抽象的な言葉が、腐れ茸のように口のなかで崩れてしまうせいでした。…
     そして、ちょうど錆が周囲をむしばむように、この気がかりな悩みはしだいに広がっていきました。気のおけないふつうの会話にあっても、… だれそれにとって得になったあるいは損になった、州長官Nは悪人で牧師のTは善人だ… などなど…こうした会話はすべて、裏づけもなく、偽りで、ひどく粗雑に思えたのです。このような会話にあらわれる事柄すべて、不気味なくらい近くから眺めるよう、わたしの精神は強制しました。…もはやそれらを、なんでも単純化してしまう習慣的な眼差しでとらえることはできませんでした。すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものはありませんでした。個々の言葉はわたしのまわりを浮遊し、凝固して眼となり、わたしをじっと見つめ、わたしもまたそれに見入らざるをえないのです。それははてしなく旋回する渦であり、のぞきこむと眩暈をおこし、突きぬけてゆくと、その先は虚無なのです。
    (pp.109-111、「… 」部分は略)

  • >>No. 2975

    『墓碑銘のすてきな乱れ』

    ドナルド・デイヴィドソン

    荒磯敏文 訳

    春秋社(『真理・言語・歴史』),2010

    http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-32325-0/

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