ここから本文です

投稿コメント一覧 (2954コメント)

  • >>No. 10268

    >結構、船も使ってたようです。
    川には殆ど橋が無いから、その感覚で海でも安全な所は船で行った?<

    江戸時代の例を出すと・・・。
    薩摩の篤姫はドラマ設定とは異なり西海道、山陽道、東海道と全て陸路だったようだ。
    皇女和宮は中山道を陸路。諏訪から和田峠は強力に背負われて越えたとか。

    朝鮮通信使は船で対馬経由で来日し関門海峡を通過して瀬戸内を難波まで来た。
    ここで船を乗り換えて淀川を遡って京へ到着し、江戸へは東海道を陸路で行ったとか。

    朝鮮からの来日には船は必須だから、京へは乗船したまま瀬戸内を行くのは合理的だ。
    難波と京は水運が発達してたので川舟を使ったのか?
    そうなると目的地が大和なのに、わざわざ九州に上陸して悪路を進んだ魏志の行程が不自然。

  • >>No. 10265

    >結局、吉備や東部瀬戸と河内などが纏向に集まったことは、出雲は裏切られたという図式を示している。<

    うん、うん♪

    これは全くの私見で根拠レスですが、出雲は日本海側勢力の盟主だったわけで、
    その勢力は日本海に面する各地域から列島の内陸部に及んでいた。
    一つのネットワークは日本海の沿岸に分布する潟を良港とする海運網、
    一つはそこから内陸に向かう物流網。
    おそらく瀬戸内勢侵入以前の大和は出雲の影響下にあったのではないか?
    滋賀を通路とすれば奈良はとても日本海に近い。
    その連携を断ち切ったのが瀬戸内勢による纏向の建設と、
    その後の勢力拡大だった。

    でも、その頃は九州には女王国を盟主とする国家が形成され、
    国際的にも認知されて繁栄を謳歌してたんサ。

  • >>No. 10257

    >大和が博多恫喝する前に、博多の盟友であった出雲が、周防灘へ下ってきて大和派遣軍が周防灘を渡海するのを妨害する事態を前もって取り除いた事件が、書紀の国譲りのエピソードに用いられた。<

    出雲が盟友であったかどうかは解りませんが、
    弥生時代には九州から山陰への物の流れがあったので、
    盛んに交流を行っていたことが認められる。

    一方で出雲の王墓と目される西谷3号墳からは、吉備産の埋葬用土器が出土するから、
    吉備に盾築墳墓が造営された頃には、両者は政治的に結びついていたと推定される。
    瀬戸内海は大きく3つにわかれるが、中部瀬戸内の吉備と
    淡路島以東の阿波・讃岐・播磨は連帯を強めていたようで、
    この集団が大和に進出して纏向を建設したと考えている。
    その時には出雲は既に瀬戸内勢力と同盟関係にあったのではないか?

  • >>No. 10254

    律令時代に国家が整備した街道の一つに西街道がある。
    これは呼子までは陸路だが、あとは海路で壱岐から対馬までつながっている。
    今風に言えば国道2号線だが、魏志が歩んだ道と思うが?

  • >>No. 10253

    >大和は恫喝が得意で、出雲を恫喝だけで退けた。<

    神話によれば出雲の国譲りは高千穂への天孫降臨の前になされた。
    天孫による大和攻略はその後のことだ。
    大和建設の時には既に出雲は高天原勢の傘下にあったので、
    大和が恫喝で出雲を従えたことは無かったと思うヨ♪

    列島を統一した集団は、最初に出雲を攻略し、
    ついで九州の瀬戸内側勢力とよしみを結び、
    瀬戸内を東進した後に軍事力で大和を勢力下に置いたんだ♪

    ここに登場しない地域が高天原ってこと。
    吉備が有力な場所と見るが・・・。

  • >>No. 10251

    >ただ、大和が独自の海運力で瀬戸内海から玄界灘、朝鮮半島へ貴重財を仕入れに行っていたとは考えにくい。
    博多の海運勢力を傘下に収めるほうが、はるかにコストがかからない。<

    博多商人が簡単に利権を手放すとは思えないし、米が採れない対馬だって交易は死活問題だ。
    瀬戸内や大和は貴重なマーケットだったから結構な利を乗せて商ってたんじゃないか?
    鏡一枚につき米10俵とか。
    これを九州勢が手放すには相当な抵抗があったと考えるから、
    大和としては時間がかかり戦闘に多大なコストを払ったことでしょう。

    ところで、古代の大和が国際社会と交流するには、日本海に出る必要がある。
    一つのルートは山城を攻略して、琵琶湖から若狭あるいは丹波へ抜けること。
    二つ目は阿波・讃岐・播磨や吉備と連携し、加古川や高梁川を遡って丹波や出雲・米子に出るルートだ。
    三つ目は瀬戸内のさらに西の安芸や周防灘と連携し関門海峡を抜けるルートだが、
    対岸の瀬戸内沿岸の九州まで傘下に収める必要がある。

    苦労して日本海に出ても、半島への渡海に有利な幅の狭い海峡を通過するには、
    玄海灘の航行権が必要だ。
    だから3世紀末から4世紀前半にかけて関門海峡の制海権を得たとしても、
    伝統的な松浦→壱岐→対馬→狗邪のルートを北部九州が独占してしまえば、
    沖ノ島を中継ポイントに選ぶようなコースで並立するしかない。
    沖ノ島が中継点の意味を失うのは北部九州を傘下に収めてからのこと。

  • >>No. 10249

    「私は4世紀の2Qから3Qにかけて大和の勢力に組み込まれたと考えている。」

    誤解があったかもしれないが、
    Qはコーターすなわち25年間を意図してます。
    2Qなら325年~349年、3Qなら350年~374年のこと。
    日本語だと2四半期とか3四半期とか言うかな?言わないか><

    記紀だと日本武尊や景行天皇や仲哀天皇や神功皇后が活躍した時代。
    考古的には纏向が全盛期を向かえた後、突然に空になる頃。

    5世紀になると難波や河内の開発が盛んになるから、
    その前に関門海峡や瀬戸内各海峡の制海権を握ったと考えている。
    5世紀は記紀だと応神や仁徳や雄略の時代に相当する。
    倭の五王や獲加多支鹵大王の頃だな。

  • >>No. 10247

    >2世紀後半から博多が輸入する鉄器ほかの貴重財が途絶えたとは考えにくい。<

    博多の相対的な衰退は2世紀ではなく3世紀末か4世紀から。
    2世紀後半は卑弥呼が共立され繁栄していた時代だ。

    韓伝には「國出鐵韓濊倭皆従取之」とあるから、鉄は半島南部で生産されており、
    楽浪や帯方ばかりでなく周辺国もこれを取っていた。
    半島南部には良質の鉄原料が有り、これを北方へ運んで製鉄するよりは、
    現地で加工した方がメリットがあったので漢か燕かは製鉄技術を出したのだろう。

    華人は周辺国との交易をするのに朝貢外交を行ったわけだが、
    相手にするのは一地域一集団に限定していたとか。
    それが、漢なら「漢委奴国王」だし、魏なら「親魏倭王」だ。
    つまり鉄は「韓」から自由に手に入るが、大陸製の威信在は帯方経由でしか入手出来ない。
    むろん「韓」経由でなら入手出来たろうが、それも元を絶たれれば枯渇するだろう。

    鉄は3世紀半ばまで九州が列島の他地域を圧倒する出土量を誇る。
    おそらく海峡の制海権を握って、実力で独占していたのであろう。
    やがて大和の古墳から豊富に出土するようになるから、
    彼らが独自の航海ルートを開拓し、半島との交易を自主的に行うようになったと思う。

  • >>No. 10243

    >書紀の仲哀天皇紀で、宗像の首長が天皇に響灘から周防灘までの海の領有権を差し出していることが書かれているが、そういうことも表していると思う。<

    安芸は九州にも吉備にも属さず独立性が高かったし、両者にとって重要な地域だったんじゃ?
    神武東征の記述に安芸に立ち寄ったとある。
    海や陸の複雑な地形が他国の干渉を防いだのか、両者の緩衝域として存在したのかだろう。

    >ワイは3世紀中頃だと思うが、4世紀前半から後半にかけて解体したと<

    卑弥呼没後に再び女王が立ち、使者を送ったのが3世紀の後半だから、
    邪馬台国を九州王朝とすれば3世紀中頃はまだ王権も外交も継続してた。
    記紀の熊襲征伐の様子を見ると、北部九州は複数の地域に分かれていた。
    おそらく統合している意味が無くなり地域ごとに独自の支配に戻ったのであろう。
    それは高句麗による帯方郡の攻略により漢人の半島での権益が消滅し、
    東夷地区での交易が不可能になったので、
    それによって繁栄していた九州は衰退し、統合も維持できなくなった。
    その開始が2Qであったってこと。
    邪馬台国は間接的には高句麗に滅ぼされた!

  • >>No. 10240

    >大和から九州まで統べていた勢力が3世紀前半のいつ頃成立したか、明確に仮定する必要がある。
    それによって、結論が変わってくる。<

    九州から出土する青銅製の祭器に、銅戈と銅矛がある。
    前者は北部九州に集中し、後者はそれより広く、瀬戸内に面する山口や愛媛からも出土する。
    銅戈を祭器とする集団をコアに、瀬戸内西部までを含めた地域を九州国と想定する。
    南は熊本北部までで、人吉は含まれず、東も安芸は含まれないと考える。

    各地には支配者がおり、それを束ねる王が存在した。
    これが「九州王朝」だ。
    古田はこの王朝は「白村江」の敗戦まで続いたと主張する。

    私は4世紀の2Qから3Qにかけて大和の勢力に組み込まれたと考えている。

  • >>No. 10228

    『後漢書倭伝』に倭國大乱後に独身で年長になっていたた卑弥呼が立ったとある。
    「桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼年長不嫁」

    この時期をAD170年から190年頃とすれば、2世紀末に卑弥呼は女王となり、
    3世紀前半に死去したことになる。
    2世紀末は未だ弥生時代後期であり、伊都に平原、出雲に西谷、吉備に盾築と、
    列島の有力な地域にそれぞれ特徴ある墳丘墓が造営されていた。
    ちなみに大和では纏向遺跡の建造が開始された頃で、
    未だ纏向型古墳と呼ばれる前方後円墳の造営は開始されていない。

    卑弥呼が在位していた時代に、大和から九州まで統べていた勢力があったとすれば、
    3世紀に入る頃に急速に統一事業が進んだことになるが、
    それを女王国が推進したのか、大乱を終わらせるのに統合を選んだのかであろう。

  • AD57年に日本から使者が出向いたと『後漢書』に記載がある。
    この者に印綬ともある。
    志賀島から「漢委奴国王」と刻された金印が出土した。
    これから奴国は博多付近の国のことと考えられている。
    弥生後期が始まる頃だが当時の列島は、
    それぞれに王がいる百余りの国に分かれており、漢と交流があったのは三十国くらい。

    それから50年後のAD107年に帥升王の記載がある。
    この王は従来は北部九州の王と考えられていた。
    しかし百年後に登場した卑弥呼を大和の王とするには、
    列島で国々の統合がダイナミックに進んだ結果との主張が出て、
    出雲の王、丹波の王、吉備の王などの諸説が考古学者から出始めた。
    弥生中期では大陸からの遺物は九州から豊富に出土し、
    他の地域からの出土は貧弱だから「帥升」を九州以外の王とするのは、
    新たな考古的な発掘が無い限り筋悪であろう。

  • >>No. 238787

    >炭火も火だから、火炎である必要は無さそう。<

    炭は素材を一旦高温処理して、揮発成分を除去してあるから、
    火を点けてもガスも出さず液状にもならず、
    固形のままで炎を出しませんが、
    酸化反応を継続して高温を維持するので、
    「炭火」と火の扱いをするんでしょうか?

    >炭火で熱した鉄はいくら真っ赤でも「火」とは言わない<

    鉄も燃えるが、鍛治場ではそれ以下の温度だから燃焼に至らず、
    じきに冷めてしまうので「火」の扱いをしないのでしょう。

    溶岩は地中で高温に熱せられ、それが噴火時には急に放出されるので、
    あたかも「火」を起こしたように見えるだけじゃないかな。

    いずれにしろ石は燃えませんから♪

  • >>No. 238744

    >「燃焼」の定義も必要かと v(^ ^;<

    う~ん。
    火山の噴火現象と燃焼とは必ずしも一致しないのですが敢えて指摘しますか?

    燃焼とは可燃物と支燃物の発熱的な化学反応を差します。
    その反応速度が極めて速い場合は爆発と呼びますナ。
    支燃物には塩素などのハロゲン類も含まれますが通常は酸素を言います。
    すなわち空気中に2割含まれる気体で地上のどこにもある分子です。
    だから燃焼は空気があれば地球のどこでも起きる現象です。

    ところで可燃物が最初から気体であったり、個体から燃焼の熱でガス化すると、
    その反応は空中で盛んに起き、その結果、火炎が見られますナ。
    これを「火」と人は呼ぶんじゃないかナ。

    それでは墳火はどう捉えたら良いんでしょうか?
    火山が火を噴いたように見えても、それは必ずしも燃焼現象では無いわけです。
    ポンはその違いを理解出来ていないのに偉そうなのが苦学不足かと♪

  • >>No. 238739

    >ちなみに、
    上海辞書出版社版『辞海』が言う現代的「火」の解説は、
    【火】:物体燃焼時所発的光和熱<物体燃焼時に発する光りと熱> <

    はあ、おいちゃんはアホでしょ。
    オラが薀蓄を披露したのに理解してないネ↓
    「火」は物質が燃焼している時に生じる光や熱を発するものを差すんだ。

    >未来の言葉の定義は自由だが、
    過ぎてしまった過去の言葉の定義に、
    自由はない。<

    あのネ、言葉はサピエンスがコミュニケーションに使用するツールなんだ。
    独りよがりって訳にも行かないから、未来でも過去でも定義は自由じゃないんだ。
    もっとも、ものを考えるのにも言葉は使うから、
    独り言をまき散らす花畑脳のおいちゃんの場合は自由で良いが、
    偉そうなのは駄目だ。

    「無故火起」がどんな「火」かを記述出来ない時点で詰んでいることを理解せよ!
    あほぽん!

  • >>No. 238601

    >君の「火」の主観的講釈じゃ無く<

    あのね、オラは燃焼に伴う火炎現象を物理的に理解してるのサ。
    古代の漢人がどう理解していたかは、人さまざまだろうが、
    「無故火起」がどんな「火」を想定してたかが重要なんだ。

    おいちゃんには真面な返答を期待するのが無理かも知れんが、
    これがどんな「火」を言ってるかの意味がわかります?

  • >>No. 10216

    銀河は登場しては他人への罵倒投稿を繰り返して消えちゃうが、
    どうせ消えるならザラさんやハイエナのようにパッタリいって欲しいネ♪

  • >>No. 238573

    >「火」だけでは、炎や火事などの意味しか無い。<

    やれやれ、相変わらず意味不明のカキコだな。
    おいちゃんには「火」について薀蓄を披露しなければならないか?
    「火」は物質が燃焼している時に生じる光や熱を発するものを差すんだ。
    転じて熱せられた状態やそれに準じた状況をあらわすのにも使われるだけ。
    火事と言うのは火がついた状況がコントロール下にないから大事ってこと。
    「火の車」は同じようにコントロール不可な火に包まれた状況から来てるだけ!

    ところで「石」が「無故火起」とはどんな現象を示すか解るか?
    まさか山から切り出した冷めた石が火を起こすとでも?
    それとも其のピンク色が炎を連想させたとも言うんか!

  • >>No. 10209

    >hn2602mk2とmkpoと糞銀河は以前から怪しい関係^_^<

    何~か怪しいよネ♪
    つか見え見えだナ♪
    これに青ちゃんを加えれば、疑惑のカルテットだ!
    いやカルトか♪

本文はここまでです このページの先頭へ