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投稿コメント一覧 (9348コメント)

  • >>No. 2050

    してないんなら、そんな簡単にやめないでしょ。
    麻生さんも、録音の声を聴いて、福田さんの声だ、と言ってたし、本人も「全体を聴いてもらわないと。」みたいに言ってるからね。

    こうした場合、どこの局かという先入観はもたずに捜査しないとね。

    福田さんが不服なら、逆に訴えることも可能なんだし。 絶対してないならそうすればいい。

    今、言えるのはそういうこと。

  • >>No. 2046

    テレビ局の女性が名乗り出ましたね。
    彼女の局内での仕事に影響しないといいな、というのをまず思いますね。
    勇気を出して名乗り出てくれたのですし。

    権力をもてるぐらいになる人というのは、男性も女性も、場合によってはパワハラになってしまいそうな我の強さがある人も多いのでしょう。
    昨年話題になった女性議員などもそうかな。

    福田さんという人、辞任したのですし、それでいいのではないでしょうか。

    告発してくれた女性のおかけで、今後、セクハラが減ることを願って。

    ほんとは、自分たちの自覚が必要なんですけどね。

  • >>No. 16740

    ある意味、たのしい方ではありますね。 こういうキャラの方、なにかいそう。
    思いつかないけど(´Д`)

  • >>No. 16741

    16729に答えてくださいね~。

    「法華経」が中国で捏造されたものであるというあなたの説の根拠というのは、「丁子やサンゴは、後漢以後の中国でしか知られ得ないものだから。」なんですよね。

    でしたら、「丁子やサンゴは、後漢以降の中国でしか知られ得ないものであった。」という証拠を出さないと。

    それをしなければ、

    >少しまとめて出版したいとも考えています。創価学会の人たちや日蓮正宗の人たちにとっては、驚愕の事実となります。

    こんなこと言っても、誰も見向きもしないでしょう。

  • >>No. 16690

    法華経は、インド産ではない。といいますのは、釈迦の話の中に、後漢以後の中国しか知られ得ない数々の物品が記載されているからです。たとえば、丁子や貴重品としてのサンゴなどです。ざっと確認しただけでも、14の証拠があります。

    少しまとめて出版したいとも考えています。創価学会の人たちや日蓮正宗の人たちにとっては、驚愕の事実となります。

    ・・・・・・・

    丁子やサンゴは、後漢以後の中国でしか得られないものであった、という証拠がありますか?

  • >>No. 16690

    >ということで、復活についての事実と「法華経」に記述されている絹に関する事実には、歴然とした相違が在ることを理解していただけましたか?

    あなたは、そもそも、「法華経」がインドで作られたものではなく、後に中国で作られたものである、という確固たる証拠を出したのですか?
    一度も出していないですよね。

    イエスは神か、復活は事実か、などについては、信仰される方々にとっては事実でしょうから、それについては追及してもしかたないのはないのです。
    ですので、それについてはいいです。

    しかし、「法華経」の成立がインドではなく、後の中国で作成されたものであるというあなたの説は、それではすまない話でしょう。

  • >>No. 2042

    売春にあたるから犯罪なんでしょうね。
    売る方も買う方も。

    記者会見で、原発の話が出たら涙を流してました。
    せっかくがんばってたのにね~。。。

    独身でもだめなものはだめだということで。。。 厳しいといえば厳しいですね。。

  • >>No. 16669

    あなたがだんだんと愛おしい人に感じられてきました。(笑)

    だって、私はいつも正しいもん、間違いなんてするわけないもん。
    と、思ってる人みたいで。

  • >>No. 16669

    >信念よりも事実の方が大切なのに、事実よりも信念を絶対視する。信念は、事実に従って形成されなければならない。事実には謙虚に向き合わねばならぬのに。

    そんなこといったら。 イエスは神というのは事実なんですか?となりますよ。
    イエスは神というのは、事実ではなく信念でしょ。

    信念も、信じる人たちのなかでは事実となる、という例が信仰ですね。

  • >>No. 6150

    そして方便法身としての阿弥陀仏とは、その無上仏、自然のさまを、われら衆生に知らせんための「れう」(料)であるというのである。
    この阿弥陀仏が、究極的真実としての真如、自然を知るための「れう」(料)であるという理解は、親鸞の阿弥陀仏思想においてはことに充分に注目されるべき点である。

    ・・・・・・・・

    こんな文章がありました。

    阿弥陀仏に対しての、このような理解のしかたというのは、中国でもなされていたものなのか、親鸞独自のものなのか、私はわからないのですが、「ただ信じれば救われる」という、庶民に伝わっていた教えのような単純化されたものではないものを、親鸞は考えていたというのは伝わる気がします。

  • >>No. 6148

    「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいゆくとき、ちからをもいれず、心をもついやさずして、生死をはなれて仏となる」(「生死」)

    道元の↑これと、親鸞の自然法爾は、似ていると感じます。

  • >>No. 6147

    「弥陀仏は自然のやうをしらせむれう(料)なり。」
    と、親鸞が最晩年に書いた手紙の中にあるそうです。
    自然法爾の章として、後にまとめられたものだそうですが。

    れう(料)というのは、手段、道具 と言ってもいいのだと思うのです。
    つまり、方便です。

    そうすると・・・「歎異抄」の「唱えても救われた気になれない」でしたっけ・・・、そんなふうに言っていたというのも納得がいく気がします。

    景教にも触れていたというのはもちろんでしょうけれど、私は、親鸞個人は禅に近い人だったのでは?、という気がするのです。

  • >>No. 16588

    >私やクリスチャンにとってではなく、「キリスト教の外でも、多少は誰でも触れているだろう」その感覚が、私は上げたようなものだろうということです。

    了解です。

    >聖書の霊をそういうものに狭く限定して理解するのはよくないです。

    私がした質問として、特に聖書を意識してしたものではありませんでしたよ。

  • >>No. 16575

    そう。 心がめちゃくちゃ硬いよね。 鎧つけてる感じ。
    信仰によって、心が柔らかくはならないの?

  • >>No. 16575

    そういう話の持っていき方ばかりしてたら、あなたと対話したいと思う人は、あなたの思い通りのことを言う人だけになってしまわないですか。

    あなたは、勝ち負けに拘りすぎなんじゃないかな。  穏やかに楽しいくらいにしたらいいんじゃないですか~。

    お~、クリスチャンの人ってやっぱり違うね、ってなれば、キリスト教に興味をもつ人も例えばここのトピでも増えるかもね。^^

  • >>No. 16554

    >三位一体というのはキリスト教の捉え方ですが、神である霊が源泉であるということです。これを受け入れればさほど問題はありません。

    神と名付けられているような、なにかはあるのだろう、というのは否定しずらいとは思うのです。

    ただ、それが畏敬すべきものなのか、というのが正直、私はわかりません。
    畏敬すべきもの、としておけば、たしかに人心は整えられる部分はあるとは思いますが。

    神学的なキリスト教を否定する気持ちはありません。
    (オリさんは理解してくださっていると思いますが、他の人向けの情報として。)

  • >>No. 16553

    >自分が創造されているという感覚。

    >何か悪いことをやったら良心が疼くという感覚。

    オリさんは、そういうところに、霊に触れているという感覚を持たれているのですね。

    教えていただいてありがとうございます。

  • >>No. 16552

    >>例えば、どんなふうにですか?  できるだけ具体的にお願いします。

    こんなふうに、一見つっけんどんに質問しているように文章上ではなってしまいますが(笑)、私は、霊と表現されるようななにか、を否定はしていません。
    かといって、積極的な肯定をするだけの根拠が、目には見えないものだけに確定できないところはある、と考えています。
    自分が体験したものについてもそう考えています。

    先日、さんこうさんからお聞きした、赤ちゃんの霊が知らせたお話しも、そういうことはあるのだろうな、と思っています。

    >言霊というのは、発した言葉が単に音としてだけではなく、その言葉が魂をもち、その言葉のきっかけで現実に何かしらの影響を与えてしまうというような事です。   ですから仏教では身、口、意に対して注意し怒りや、恨み等の汚い言葉は苦の原因になるといわれています。

    これに関しては、魂という言葉を持ち出すまでもなく、普通にあるのではないでしょうか。

  • >>No. 16542

    >その霊の究極の源泉が三位一体の神だ。

    キリスト教では、神、子(イエス)、聖霊 の三位一体ですね。

    これを、「一つの命、一つの命の表れとしての私たち一人一人、それを知ること(聖霊)」と、一般化(誰にでも納得しやすいもの)すると受け入れる人は増えると思います。
    アドヴァイタはこれですね。

    キリスト教の三位一体は、イエスが出てくるので、やはりクリスチャンでないと受け入れづらいというのは、自然だとは思います。

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