ここから本文です

投稿コメント一覧 (9932コメント)

  • 昨日、昭和の文豪・太宰治の墓に参拝しました。
    桜桃忌にあたり、多くの参拝者で、墓前は混んでいました。
    参拝後、三鷹市内の太宰治ゆかりの場所を巡りました。
    玉川上水の自殺場所の近くには、石碑が建立されていました。
    ありし日の太宰治の苦悩を偲びました。

  • 昨日、東京・三鷹市の禅林寺へ行きました。
    桜桃忌に、文豪・太宰治の墓に参拝しました。
    多くの参拝者で、墓前は混んでいました。
    参拝後、三鷹市内の太宰治ゆかりの場所を巡りました。

  • 明日、6月19日には、東京・三鷹市にある禅林寺を訪れます。
    今年は、作家・太宰治が亡くなって70年になります。
    誕生日にもあたる6月19日の節目の桜桃忌には、
    全国から数多くのファンが太宰の眠る東京・三鷹の禅林寺を訪れます。
    在りし日の作家をしのぶことにします。

  • 続く  ~  太宰治  ~

     1939年(同14年)に、29歳で石原美知子と結婚してからの太宰は、「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」「津軽」「お伽草紙」など、戦時下の暗い世相に抗するかのように、人間の滑稽と悲惨を明るく描く作品を量産した。その時期の太宰は「懶惰(らんだ)の歌留多(かるた)」という作品の中で、遺作とはまったく違う文脈で「人間失格」という言葉を使っている。

     〈苦しさだの、高邁(こうまい)だの、純潔だの、素直だの、もうそんなこと聞きたくない。書け。落語でも、一口噺(ばなし)でもいい。書かないのは、例外なく怠惰である。おろかな、おろかな、盲信である。人は、自分以上の仕事もできないし、自分以下の仕事もできない。働かないものには、権利がない。人間失格、あたりまえのことである。〉

     太宰を愛読した作家・司馬遼太郎は〈太宰文学は破滅型で、『人間失格』が太宰の人生だというのは、先入観です〉と、1987年(同62年)の講演「東北の巨人たち」で語っている。「人間失格」だけではない、明るく、前向きな太宰治もいたのである。それを誕生させたのは、太宰治の「三つの空白」であった。

       ↓ この「太宰治」を描いた人物のプロフィル ↓
    鵜飼 哲夫(うかい・てつお) 読売新聞編集委員。文化部で文芸担当を四半世紀、読書面デスクなどを経て現職。三度の飯より本が好きで、夕刊読書面にコラム「ほんの散策」を月に1回連載している。著書に『芥川賞の謎を解く 全選評完全読破』(文春新書)、今年5月に出した新刊に『三つの空白 太宰治の誕生』(白水社)。

  • 続く  ~  太宰治  ~


    ■誰の中にも潜む「ずるさと愚かさ」描いた太宰

     だが、思いはかなわなかった。それどころか、中毒が高じて、師の井伏鱒二や同居していた初代の願いで、精神科病院に入院させられる。後にいう「人間失格」体験である。苦しみはそれで終わらなかった。入院中、同居していた初代が、弟のようにかわいがっていた親類の画学生と悲しい過ちを犯していたことがわかったのだ。

     かつて銀座のカフェの女性と心中を図り、さんざん迷惑をかけた自分である。人を責める資格がないのはわかっている。それでも、自分の感覚が、初代を許せなかった。

     太宰、第3の空白時期は、傑作意識に取りつかれて、生活をないがしろにし、生活をともにした女性を捨てた自分という存在、自分の中に巣食う虚栄心と、どこまでも向き合う時間だった。

     そうして空白の果てに生まれた小説「姥捨(うばすて)」で太宰は、「単純になろう。単純になろう」と繰り返したうえで、「あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない」と宣言している。

     その頃に書いた随想「一日の労苦」では、「無性格、よし。卑屈、結構。女性的、そうか。復讐(ふくしゅう)心、よし。お調子もの、またよし。怠惰よし。変人、よし」と書いている。

     太宰の三つの空白は、さまざまな挫折と別れを経て、太宰が、自らの弱さ、駄目さととことん向き合うための時間だった。太宰の弱さは、人間の弱さである。そのずるさ、駄目さは、人間であれば誰の心の中にも潜むものである。太宰の小説を読み、自分のことが書かれているかのように思う若者が多いのは、人一倍とことん悩み、苦しんできた太宰が、自らを含めた人間の弱さ、愚かさを否定するのではなく、ユーモラスに描いたからだろう。

  • 続く   ~  太宰治  ~

    ■「私の生涯の黒点」…衝撃的だった第2の空白

     そんな矛盾が露呈したのが、東京帝大に入学した年に始まる第2の空白だ。非合法運動への関与、芸妓(げいぎ)・小山初代との結婚問題で、それに反対する実家の怒りを買い、分家除籍処分を受けたことが、事の始まりだった。さらに、その絶望から銀座のカフェの女性従業員と心中を図り、女性だけを死なせる事件を起こしてしまい、言葉を失う。この空白時代について、太宰は小説「東京八景」で、〈阿呆(あほう)の時代である〉と書いている。大学にはほとんど通わず、ぐずぐずと左翼運動をつづけ、自らが〈私の生涯の、黒点である〉という心中事件の痛みを抱え続ける。

     この苦闘の空白の2年を経た太宰は、ようやく左翼運動から離脱し、1933年(同8年)、太宰治のペンネームを使った随想「田舎者」を発表する。もはや地方の名家の生まれであるという自負も、優等生であるという自尊もなく、「私は、青森県北津軽郡というところで、生れました。(中略)何をかくそう、私は、もっとひどい田舎者なのであります」と書いている。

     そうして生まれたのが、幼少年時代を叙情的につづった記念碑的な作品「思い出」だった。その後、心中事件を見つめた「道化の華」で、同世代の作家から「天才」と騒がれ、「逆行」では35年(同10年)の第1回芥川賞の候補にもなった。しかし、これで順風満帆とならないのが太宰である。過去の優等生という栄光、自尊心、地主の子という自負をなげうっても、自分は「天才」の小説家という自負の念だけは捨てることができなかったのである。

     その頃の太宰の口癖は、「傑作を一つ書いて死にたいねえ」であり、檀一雄ら親しい文学仲間と話すときには、「ゲーテの処女出版が幾つの年、チェホフが幾つの年、芥川が幾つの年」と、いちいち数え上げていたという。もはや芥川は雲の上の存在ではなく、その名を冠した芥川賞は是が非でも欲しかった。しかし、落ちた。しかも、選考委員の川端康成からは、「作者、目下の生活に厭(いや)な雲ありて、才能の素直に発せざる憾(うら)みあった」と評された。

  • 続く  ~ 太宰治 ~

    そんな太宰には、ほとんど小説を書かない三つの空白期間があった。空白の期間を経るたびに太宰は、私たちが知る作家へと脱皮していった。

     第1の空白は、旧制弘前高校に1927年(昭和2年)に入学してからの1年間であり、翌年5月に「無間奈落」を発表するまで一つも創作を発表していない。第2の空白は、30年(同5年)に東京帝国大学文学部仏文科に進学後、「学生群」を7月から11月まで連載してから、33年(同8年)2月に、太宰治のペンネームで初めて書いた小説「列車」を発表するまでの2年以上の長いブランクである。そして、第3の空白は、鎮痛のために使ったパビナールという薬の中毒になり、治療のため36年(同11年)10月、精神科病院入院という「人間失格」体験を経てからの1年半ほどである。その「空白」期間に起きた別離と挫折を経るたびに成長し、「弱くて明るい太宰」が誕生していく。

     第1の空白では、高校入学直前に貴族院議員だった父・津島源右衛門の死に見舞われ、高校1年の夏、作家・芥川龍之介の自殺に遭遇した。エリートであり続けることを期待する父の死は、悲しみではあったが、自由への一歩だった。そして、敬愛した作家・芥川の自殺が新聞で騒がれ、作家という存在がクローズアップされたことは、優等生という道から、親兄弟が反対する作家への道を歩ませる大きなきっかけとなった。

     事実、太宰は、芥川の死の直後から突如、芸者遊びを始め、優等生の道から外れ、翌28年、同人誌「細胞文芸」を創刊。創作を再開してからは、文体をがらりと変え、当時流行していたプロレタリア文学を意識した長編に取り組み、地主階級の実家を批判する内容が主流となった。しかし、もしここで、太宰が時流に乗るような作家だったら、後年の太宰治の誕生はなかった。「創作ハ技芸ナリ」という考えがある太宰には、「マルクス主義の宣伝文に過ぎない」という疑念があるプロレタリア文学にはなじめず、長編はすべて中絶している。当時、学生の多くが参加した社会主義運動にもなじめずに芸者遊びを繰り返し、成績は急降下していった。

  • 続く  ~ 太宰治 ~


    ■小説を書かなかった「三つの空白期」とは

     故郷・青森県の蟹田町(現・外ヶ浜町)に1956年(昭和31年)に建てられた文学碑には、太宰の「正義と微笑」の一節、「かれは人を喜ばせるのが何よりも好きであった」が刻まれている。代表作「人間失格」の主人公・大庭葉蔵も、道化によって他人を笑わせる人物で、実はサービス精神の塊である。

     死を前にした晩年の小説には、「子供より親が大事、と思いたい」(「桜桃」から)、「家庭の幸福は諸悪の本」(「家庭の幸福」から)など、心中という結果から見ると、破滅型で、無頼な文章が目立つ。しかし、作品をよく読むと、子どもを育てる甲斐性(かいしょう)も自信もない主人公が、家を飛び出し、酒場に逃げて、子どもたちに食べさせたらさぞ喜ぶであろう桜桃を、食べては種をはき、食べては種をはき、「子供より親が大事」と心の中で虚勢みたいにつぶやく、なんとも弱い人間の困った姿をユーモラスに書いている。

     津軽の新興地主の家に生まれ、金木村(現・青森県五所川原市)の尋常小学校時代、「全甲」を通し、エリート校の旧制青森中学(現・県立青森高校)でも成績はトップクラスだった太宰治(本名・津島修治)の幼少年時代は、陽気で明るかったが、決して弱い性格ではなかった。母親が病弱で、乳母や叔母、子守に育てられたため、母の愛を渇望していたが、文学好きな兄たちに囲まれ、何不自由ない生活をしている。いたずら好きで、自分で脚本を書いては家でミニ芝居をし、家族たちを楽しませる少年で、高等小学校時代の綴(つづ)り方では県下でも有数の豪邸に生まれ育った自分について、無邪気に「無上ノヨロコビデアル」と書いている。太宰は、親元を離れて暮らした旧制青森中学生の頃から、親の金で同人誌を発行し、創作を始め、自尊の精神とそれが破れるさまをコント風に描く小説で同級生たちをあっと言わせていた。

  • 没後70年、作家・太宰治を生んだ「三つの空白期」
    6/18(月) 5:21配信
    読売新聞(ヨミウリオンライン)

     今年は、作家・太宰治が亡くなって70年になる。誕生日にもあたる6月19日の節目の桜桃忌には、全国から数多くのファンが太宰の眠る東京・三鷹の禅林寺を訪れ、在りし日の作家をしのぶことだろう。太宰文学は、今も多くの人たちに読み継がれているが、実は、太宰には小説を執筆しない「三つの空白期」があった。その空白期は、いずれも死や別れと関係していた。太宰は、その空白期を経るたびに脱皮し、明るく前向きな作品も書ける作家へと変わっていった。

    ■「人間失格」累計700万部、「こころ」に次いで2位

     戦後、「斜陽」がベストセラーになり、遺作となった「人間失格」を書いて世を去った太宰治(1909~48)は、今も読み継がれる人気作家である。明治の文豪・夏目漱石は「国民作家」として幅広い世代で読まれるが、太宰の場合は「青春の文学」「青春のはしか」と言われるように、自意識が芽生え、過剰になる思春期にはまる若者が多い。

     名作文学の充実で知られる新潮文庫の売り上げでは、「人間失格」は累計698万8000部で、漱石の「こころ」(735万2500部)に次いで堂々の2位。没落貴族の家に生まれた女性の恋と革命を描く「斜陽」は約377万部、教科書にも掲載された「走れメロス」は201万6000部。このほか、第1創作集「晩年」をはじめ、「津軽」「ヴィヨンの妻」もそれぞれ100万部以上売れており、計6冊がミリオンセラーになっている。

     平成になってからも人気は衰えていない。生誕100年の2009年には、「斜陽」「ヴィヨンの妻」「パンドラの匣(はこ)」が映画公開され、翌10年には生田斗真主演で「人間失格」が映画化された。

  • >>No. 17979

    tibiさん
    こんばんは♪
    今回、神奈川県へ旅されるとのこと、
    いま、神奈川・東京地方は、梅雨の真っ最中です。
    今日も、朝から一日中、しとしとと雨模様です。
    思えば、旅行は身体と頭脳を使う運動です。
    梅雨の神奈川・東京を大いに動き回って下さい。
    首都圏で、旅友と、いい旅をして下さい。
    動くのが好きな私は、今日は、近くの体育館へ行って、
    ウォーキング・マシンで身体を鍛えました。
    dan

  • 敬愛する太宰治は、波乱に満ちた生涯でした。
    検索で、「太宰治」を入力すると、沢山の情報があります。

          ↓    ↓     ↓


    本名、津島修治。青森県津軽の大地主の家に生まれる。父親は貴族院議員も務め、邸宅には30人の使用人がいた。小学校を首席で卒業。14歳の時に父親が病没し、長兄が家督を継ぐ(太宰は六男)。16歳の頃から小説やエッセイをクラスメートと作った同人雑誌に書き始めた。高校では芥川、泉鏡花に強く傾倒し、中高を通して書き記した習作は200篇にも及ぶという。18歳の時に敬愛する芥川が自殺。猛烈に衝撃を受けた太宰は学業を放棄、義太夫を習い花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓(げいぎ)・小山初代と知り合い深い仲になる。1929年(20歳)、秋頃から急激に左翼思想に傾斜し、12月10日深夜に最初の自殺未遂。資産家の子という自己の出身階級に悩み、下宿で睡眠薬(カルモチン)による自殺を図り昏睡状態に陥ったのだ。

    翌年、東大仏文科に入学。かねてから『山椒魚』等で井伏鱒二を尊敬していた太宰は、上京後すぐ井伏のもとを訪れ弟子入り。治安維持法によって非合法化されていた左翼活動にも、具体的に係わっていく。秋頃、愛人関係にあった小山初代に、地元有力者からの身請け話が持ち上がり、動揺した太宰は彼女を上京させる。名家の息子が芸妓を呼び寄せたことが郷里で騒ぎになり「全ての肉親を仰天させ、母に地獄の苦しみをなめさせた」(東京八景)という。2人が同棲し始めると、生家から長兄が上京し、“(初代が芸妓でも)結婚は認めるが本家からは除籍する”と言い渡される。これを受けて兄と初代は落籍の為にいったん帰郷、11月19日に分家を届出、除籍された。11月24日、長兄が太宰の名で小山家と結納を交す。

       ~~  以下  省略  ~~

  • 一昨年、私は、青森県金木町の太宰治(本名:津島修治)の生家を訪れました。
    生家は、青森県では、大地主であり、銀行家でした。
    私は、太宰治の「人間としての弱さ」に共感するものがあり、
    太宰治の人間性やその小説も大好きです。

        ↓       ↓       ↓


    太宰の墓がある東京都三鷹市の禅林寺では、
    太宰と富栄の遺体が引き揚げられた6月19日には毎年多くの愛好家が訪れている。
    これは一般に「桜桃忌」と称されている。
    太宰の出身地・金木でも桜桃忌の行事を行っていたが
    「生誕地には生誕を祝う祭の方がふさわしい」という遺族の要望もあり、
    生誕90周年となる1999年(平成11年)から「太宰治生誕祭」に名称を改めた。

  • 6月19日は、小説家:太宰治の誕生日です。
    また、6月13日は、太宰治の命日です。
    太宰治は、三鷹市の玉川上水で、愛人と一緒に、入水自殺しました。
    そこで、来る6月19日には、三鷹市へ行く予定です。

    検索ウイキペディアの太宰治について ↓

    太宰 治(だざい おさむ、1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は、日本の小説家である。本名、津島 修治(つしま しゅうじ)。自殺未遂や薬物中毒を克服し戦前から戦後にかけて多くの作品を発表。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称された。主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。

  • 米朝の首脳会談は、日本の拉致問題について、

    どのような進展を見せたのか?

  • 毎日、私は、丹念に、ニュースを閲覧しています。
    刑事裁判における「真実の解明」にも、関心を抱いております。
    本日、次のようなニュースが飛び込んできました。

       ↓     ↓     ↓

    <袴田事件>東京高裁、再審開始認めず
    6/11(月) 13:34配信
    毎日新聞


     1966年に起きた「袴田事件」で死刑が確定し、2014年の静岡地裁の再審開始決定で釈放された袴田巌元被告(82)の即時抗告審で、東京高裁(大島隆明裁判長)は11日、地裁決定を取り消し、再審請求を棄却した。静岡地裁の決定の決め手となったDNA型鑑定は「種々の疑問があり、信用できない」とした。弁護側は高裁決定を不服とし、最高裁に特別抗告する可能性が高い。

     今後、審理は特別抗告審に移るとみられるが、地裁と高裁の判断が分かれたことで、袴田さんの再審開始の可能性は不透明な情勢となった。高裁は、死刑と拘置の執行停止は取り消さなかった。

     地裁は14年3月、確定判決で犯行時の着衣とされた「5点の衣類」について、「血痕が袴田さんや被害者と一致しない」とする弁護側のDNA型鑑定などを「新証拠」と認めて「後日捏造(ねつぞう)されたとの疑いを生じさせるもの」と結論づけ、再審開始決定を出した。

     同時に地裁は、死刑と拘置の執行を停止する決定も出し、袴田さんは逮捕から約48年ぶりに釈放された。検察側は、地裁決定を不服として即時抗告した。

     即時抗告審の東京高裁は15年12月、地裁で新証拠の一つと認められたDNA型鑑定(筑波大の本田克也教授が実施)の検証を決定。検察側が推薦した鈴木広一・大阪医科大教授に検証を依頼した。

     鈴木氏は昨年6月、本田氏が鑑定で用いた「特別なたんぱく質」が「DNAを分解する成分を含んでいる」などとして、鑑定手法を否定する報告書を高裁に提出。弁護側は「鈴木氏の検証は本田鑑定と同じ器具や手法を用いておらず、高裁から求められた(本田鑑定の)『再現』をしようとしていない」などと反論した。こうした経緯から、対立する2人の専門家の意見を踏まえ、高裁がどんな判断をするかが注目された。

     過去の死刑確定事件では、免田(発生は48年)▽財田川(同50年)▽島田(同54年)▽松山(同55年)の4事件で再審無罪が確定している。【石山絵歩】

  •  東海道新幹線の車内で乗客3人が死傷した事件で、
    殺人未遂の疑いで逮捕された男について、
    実の父親は10日朝、取材に応じました。

    小島容疑者の父親:
    「亡くなった人、ケガをした人の家族に対しては大変申し訳ない。それに対して彼がどう行動を起こせるのか見守っていきたいです」

     小島容疑者は中学時代、包丁と金槌で実の父親を威嚇するなどの家庭内トラブルがあり、その後精神的な疾患があると診断され、病院へ入退院をしていました。

  • 旅は、普遍的なものです。
    元気で生きている限り、旅をしたいと思っています。

  • 日本は、治安の良い国だと言われています。

  • <東海道新幹線>刺され男性死亡 22歳男を逮捕「誰でも」
    6/9(土) 22:55配信
    毎日新聞

     9日午後9時50分ごろ、神奈川県内を走行中の東京発新大阪行きの東海道新幹線「のぞみ265号」(16両編成)内の男性乗客から「包丁を持った男がいる。1人がけがをしている」との110番があった。新幹線は緊急に小田原駅で停車し、駆けつけた県警小田原署の署員が、切りつけたとみられる男を殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。3人が刺されて小田原市内の病院に運ばれ、男性1人が首の右側を切られて死亡し、20代とみられる女性2人が頭や肩に重傷を負った。

  • 人生、いろいろです。

    人も、いろいろです。

    オトコも、いろいろです。

    オンナも、いろいろです。

    毎日、新聞を読むのが怖い。

    殺人事件に、心が痛む。

本文はここまでです このページの先頭へ