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投稿コメント一覧 (384コメント)

  • [5635] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: 愚
    > > あなたはPCを見ています。「あなた」がいない、となると、いったい何が見ているのですか?というのが
    > > 問です。

    >  『いったい何が見ているのか?』という問いを無理に出す必要もなく、
    >  それならそのままでいい(=ただ、見ていればいい)と思います。
    >
    それで気が付くのであれば、それでいいのですが・・・
    >
    > > >
    > > > 今の私の感覚を理屈で表現すると、こうなんですが、すなわち、これが私の今の『手の内』のすべてなんですが、それだけに、言うほどに自分でそれができるかというと、たいへん恥ずかしいものがあります。
    > > >
    > >
    > > なにが恥ずかしがっているのですか?

    > アラヤシキにそういう種が残っている、それがということです。

    それは、説明でしょ・・・アラヤシキとか、そんなこと忘れて、もっと素朴になれませんか?

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5629] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: ubik0101
    > > そのない、って、どいうことなんでしょう?ない、っていう、その、そのこととは?です。
    >
    > 自由というのは、主語がないとなりたたないでしょ。なになにが自由、というように・・・・
    >
    > わたしは自由だ、とか・・・
    >
    > 抽象的にいえば、自由とは関係性でしょ。関係がないとき、束縛に対立するものとしての自由という概念はなりたちません。

    それはそうなんですが・・・そいうことが問題ではなくて・・・私が、ない、という、ない、そのことが話題です。ひとつには、個別の、特定のこととしては、自分はない・・・これはでも、ない、とも呼べません。あるでもないでも、どう呼んでも間違い。と言います。

    また、自我は虚構であり、その中心は、台風の眼のように、ない、です。また、あるは、あるに、ありきって・・・知覚とは差の認識です・・・どこにも差がないから、ない、です。ここで、ない、も、ない、です。ある、も、ないです。

    > > > ものすごく簡単なことをいっています。あなたはいまPCを見ています。それは「あなた」が見ているんじゃなくて、宇宙が「あなた」を通して、見ているんです・・・

    > > > ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

    > > まったく同じだと、どちらも消えませんか?あなたは、どこかの掲示版で、世界が自分に飛び込んで来た。とか話していましたが、消えませんでしたか。それで、時間とか空間の距離をつくって、見てる焦点がつくられるのでしょうが・・・この世界は不思議です。

    > それはそれでいいんですが・・・

    > ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

    たとえば歩いてて・・・来る人、来る人、誰も彼も、自分だった。この部屋の壁が自分・・・これはなぜなんだろう、と探ってみたことがあります。見える、聴こえる・・・と・・・磁石に接近した鉄片が新しい磁石になるように・・・そこで見てる中心がつくられる・・・それはまだ(自)意識の範疇、あるいは、その境界という、気がします。

  • [5626] Re: オーハイ オークグローブ 1945/6/3
    投稿者: 愚

    > 蓋をせずに、解放するということです。
    > 自我と闘わず放置しておくことが、苦悩になり切るということです。
    > なり切れば、脱落します。

    自我と苦悩とふたつあるんでしょうか?

    >だって、苦悩がやってくるなら、それに身を任せるだけですから・・・・
    >
    > 自我と闘わず、苦悩を放置するということが、苦悩に身を任せるということです。
    > それが、苦悩をいじらないということです。
    > 闘うということは、身を任せていないということであり、逃げるということと同じです。
    > 苦悩をいじくりまわしていることになります。

    どこにも自我の居場所なんかないでしょう・・・
    >
    > > > > これだけエネルギーを注ぎ込んでいるのに、
    > > > > なんでもう少しなんとかならないのかという苛立ちは、私も含め皆さんお持ちなんだと思います。
    > > > > なんか、そこのところにやりきれないものがありますね・・・・。
    > > >
    > > > そのやりきれなさ・・・、何十年も抱えてきました。
    > > > しかし、今は腑に落ちたので、そこのところは越えることが出来ました。
    > > > またひっくり返されて探求が始まるかもしれませんが、それも楽しめると思っております。
    >
    > > 腑に落としちゃダメなんです。気持ちはわかりますが、ぐっとがまんして、「やりきれなさ」のままにいるんです。動いちゃダメなんです。
    > > 気合をいれて、耐えるんです。探求なんかしなくていいです。
    > > そうすれば、その「やりきれなさ」が、救ってくれるんです・・・
    >
    > 腑に落としたのではなく、自然に落ちたのです。
    > そうしたら、やりきれなさが消えちゃったんです。
    > で、人生が楽しくなり、アクティブになっちゃたんです。
    > 今後どうなるか分かりませんが、今はこの状態を楽しみます。(笑)

    それでよしというのであれば、なにも申し上げることはありませんが・・・
    楽しんじゃダメなんですが・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5625] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: 愚

    > > なんか説明がいまいちですが・・・・要するに、分離しているものがないとき、自由、不自由の
    > > 主体がないんで、問の出しようがないんです。
    >
    > そのない、って、どいうことなんでしょう?ない、っていう、その、そのこととは?です。

    自由というのは、主語がないとなりたたないでしょ。なになにが自由、というように・・・・

    わたしは自由だ、とか・・・

    抽象的にいえば、自由とは関係性でしょ。関係がないとき、束縛に対立するものとしての自由という概念はなりたちません。

    > まったく同じだと、どちらも消えませんか?あなたは、どこかの掲示版で、世界が自分に飛び込んで来た。とか話していましたが、消えませんでしたか。それで、時間とか空間の距離をつくって、見てる焦点がつくられるのでしょうが・・・この世界は不思議です。

    それはそれでいいんですが・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5622] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: ubik0101。
    >
    > 風と雲とは一体です。ひとつの全体です。これが空です。
    >
    > ひとつの全体ではありますが、マッシュルームのようなペタッとしたものではないです。
    > さまざまな局面があります。風は風、雲は雲、これが色です。
    >
    > なんか説明がいまいちですが・・・・要するに、分離しているものがないとき、自由、不自由の
    > 主体がないんで、問の出しようがないんです。

    そのない、って、どいうことなんでしょう?ない、っていう、その、そのこととは?です。

    > > 色と空の区別があれば、そのエゴが、色は壊滅しても、空は残るのではないかと、時間の要素を持ち込んで、自分の生き残る所を探す。そのバリエーションが自由不自由の問題として現れる。色=空でしたら、そいうことは問題にならない。
    > >
    > > なのですが、色=空だと、人は死んだら死にっぱなし・・・そこで、死んだところで、何があるか?動く主体がなくなります。これは見えたり聴こえたりしてる生きてる今でも同じです。それを調べる。なにかが動いてる?たぶん不動の動者。そんなもの空だから知覚できないけど、動いてる自分。その自分は決して知り得ない。
    > >
    > > もう違うかもしれませんが、空から色に向かうところ。禅とか瞑想とかしたことないですが気のせいか、この部屋を取り囲んでる裏側の、見えない空間が濃厚です。この部屋の空間は自分の奥まで連続してます。身体に何か、力が動いてる・・・歩くことも食べることも、みんな・・・なにも知らない・・・なんて簡単なことじゃないでしょうけど。名前があったので投稿します。
    >
    > ものすごく簡単なことをいっています。あなたはいまPCを見ています。それは「あなた」が見ているんじゃなくて、宇宙が「あなた」を通して、見ているんです・・・
    >
    > ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

    まったく同じだと、どちらも消えませんか?あなたは、どこかの掲示版で、世界が自分に飛び込んで来た。とか話していましたが、消えませんでしたか。それで、時間とか空間の距離をつくって、見てる焦点がつくられるのでしょうが・・・この世界は不思議です。

  • [5620] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: 愚
    > そうですね。
    > わたしも、空は同化という意味だととらえています。
    > だけど、空であるときは、空であることを知ることができないんですよね~。

    対象的には知ることができませんが、自分が空であるということに気が付くことはできます。
    すると、世界が空であることに気づきます。


    > 愚さんが戻られたら、ここのとこ聞きたいんです。
    >
    > 1、悟りというのは、知り得ないところなのか?、それともわかったところのことをいうのか?

    上と同じですが、対象としては知りえませんが、自分がそうであることがわかったところです。

    > 2、動く主体は、思考である、と理解してよいのか?

    違います。思考は思考です。心臓がドッキン、ドッキンするのと同じです。

    > 3、時間の終焉では、基底から空がうまれると書いてありました。
    >   そこを、禅者の人に聞いたら、基底も含めて仏教では空という、と言われました。
    >   クリシュナムルティと禅の空の分け方?の違いは、どういうことですか?
    >
    そういう流れでいえば、基底は、話頭・・・公案・・・でいえば、無字の根源、ということになります。

    空の根源、といいかえてもいいです・・・聞いたことない言葉ですが・・・・


    > わたしは、仏教の本は、これといって読んだことがないので知識がなく、末那識(第七識)とか阿頼耶識(第八識)とか、わからないんですが、なりきる、しかないんでしょうね。
    >
    本読めば、難しいけど、実際は、全然、難しくありません・・・知らなくてもいいですが、唯識は説明には
    便利ですね・・・>
    >

    とにかく、ガードせずに、裸でこの世界に身をさらしていき、あとはなりゆきにまかせていく、楽しいことも
    あるだろうし、悲しいこともあるでしょう。楽しいときは笑い、悲しいときは泣く、どうなることやら、
    風任せ・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5616] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: 愚

    色と空と、ふたつあって、それらが、同じだ、ということではないんです。

    風と雲とは一体です。ひとつの全体です。これが空です。

    ひとつの全体ではありますが、マッシュルームのようなペタッとしたものではないです。
    さまざまな局面があります。風は風、雲は雲、これが色です。

    なんか説明がいまいちですが・・・・要するに、分離しているものがないとき、自由、不自由の
    主体がないんで、問の出しようがないんです。

    > > ところが、観察する対象に対して、観察者が色々とコメントをする、内部で葛藤が起きる、同一のものが分断される、これが問題、おそらく、このコメントや批判を入れるものが、エゴと呼ばれるものかも知れません。

    > 色と空の区別があれば、そのエゴが、色は壊滅しても、空は残るのではないかと、時間の要素を持ち込んで、自分の生き残る所を探す。そのバリエーションが自由不自由の問題として現れる。色=空でしたら、そいうことは問題にならない。

    > なのですが、色=空だと、人は死んだら死にっぱなし・・・そこで、死んだところで、何があるか?動く主体がなくなります。これは見えたり聴こえたりしてる生きてる今でも同じです。それを調べる。なにかが動いてる?たぶん不動の動者。そんなもの空だから知覚できないけど、動いてる自分。その自分は決して知り得ない。

    > もう違うかもしれませんが、空から色に向かうところ。禅とか瞑想とかしたことないですが気のせいか、この部屋を取り囲んでる裏側の、見えない空間が濃厚です。この部屋の空間は自分の奥まで連続してます。身体に何か、力が動いてる・・・歩くことも食べることも、みんな・・・なにも知らない・・・なんて簡単なことじゃないでしょうけど。名前があったので投稿します。

    ものすごく簡単なことをいっています。あなたはいまPCを見ています。それは「あなた」が見ているんじゃなくて、宇宙が「あなた」を通して、見ているんです・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • 2016/09/22 00:09

    [5615] Re: (無題)
    投稿者: 愚

    > でも、攻撃に反撃しないでも、ほんとうには深く傷つく、それはとても悲しいのです。そんな相手のことも悲しい、自分の悲しみと相手の悲しみも区別がつきません。私も、その傷を、憂さ晴らしなどして、癒そうともしなかった。探求になければ、耐えきれなかったと思います。また相手のことを考えてるから戦うのだし、自分が嫌な奴を好きな人もいるし、自分を正義としてはならない、とか学びました。
    >
    そんな理屈つけないで、もっと単純になれませんか?

    バカといわれりゃ、腹が立って、こんちくしょう、と思う。
    リコウといわれりゃ、いいきぶんで、いいやつだと、思う。

    それだけのことでしょ。そのままでいいじゃないですか・・・自我がどうだとか、相手がどうだとか、
    そんなことどうでもいいじゃないですか・・・・話をややっこしくしても、いいことないです

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5614] Re: 『自己が空であるとき』
    投稿者: 愚 投稿日:


    >  今、 ubik0101 さんが、自由意思の問題(自由か束縛・不自由か)を論じておられますが、
    > この問題は過去にもしばしば、この掲示板で取り上げられ、
    >  ① これは、主体と客体(対象)が分かれているという錯覚(無明)のもとで発生する問題である。
    >  ② 主体がなくなる(=錯覚がなくなり、これが真実だと覚醒する)と、この問題は自然に消えて問題にはならない
    > という形で解決される、という(愚さんの)結論になっております。
    >
    > とすれば、自由意思の問題(自由か束縛・不自由か)も、『自己が空であるとき、動く主体がなくなります。』という上記の問題の解決を通して解決されるということになります。
    >
    ものすごく簡単です。雲は動いています。自由でしょうか?束縛でしょうか?

    自由といえば、自由、束縛といえば、束縛・・・・つまり、問自体に意味がないんです。

    泣いたり、笑ったり、憎んだり、なんでもいいんです。そこに主体を想像しちゃうから、ややっこしくなっているだけなんです。

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5613] Re: 大海の水を飲み干すことができる
    投稿者: 愚

    >  この言葉、すばらしく・晴れ晴れする気持ちになります。おいらはひしゃくで川の水を汲むことしかできていないのですが。時間でない何時か、わたしも宇宙を掌中に納める力となると思いつつ深呼吸すると晴れ晴れした気分になります。(長続きはしないですぐ、宝くじ当たらないかなあという自我に覆われしまいます)
    >
    >  今一番知りたい事は、おいらの自我が個人の持ち物ではなく、人類に共通した一つの自我(共我?)ということです。理解だけでも、このところ知りたいと思考をこねくりまわしています。
    >
    >  自我は無くならないと思っています。親鸞が妻帯し道元禅師がお金に執着した弟子を破門したのも自我がかかわった結果ではなかろうか。(自我が無いならば、いわゆる神様仏様のような行動になると想像しています)

    神様仏様にはなりません

    > 自分の行動をスクリーン(自我の分身)から見ていると、自分の行動がどれほど自我(何もかも自分を優先)に支配されているか解ります。

    それはそうですね・・・

    >  自我と戦うという表現よりも、自我に注目しない・自我が意識に登らない様に他の事(今行っている行為)に意識を集中させる、のだろうと感じます(おいらひとりよがりの、ある単語の言語イメージですから言葉そのものには大きな意味なし)。

    それはそうなんですが・・・・その意味がわからないと、なかなか実行するのは大変なんですね・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • [5612] Re: オーハイ オークグローブ 1945/6/3
    投稿者: 愚

    > > これだけエネルギーを注ぎ込んでいるのに、
    > > なんでもう少しなんとかならないのかという苛立ちは、私も含め皆さんお持ちなんだと思います。
    > > なんか、そこのところにやりきれないものがありますね・・・・。
    >
    > そのやりきれなさ・・・、何十年も抱えてきました。
    > しかし、今は腑に落ちたので、そこのところは越えることが出来ました。
    > またひっくり返されて探求が始まるかもしれませんが、それも楽しめると思っております。
    >
    腑に落としちゃダメなんです。気持ちはわかりますが、ぐっとがまんして、「やりきれなさ」の
    ままにいるんです。動いちゃダメなんです。

    気合をいれて、耐えるんです。探求なんかしなくていいです。

    そうすれば、その「やりきれなさ」が、救ってくれるんです・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • 2016/09/22 00:04

    [5611] Re: (無題)
    投稿者: 愚

    > > >昔の私は、不安と問題だらけで大変でした。
    > > 今の私は、嫌われてる? あっ、そ!で終わりです。
    > > >思考に巻き込まれることも無ければ、苦悩することもなくなりました。
    > >
    > > 苦悩と探求は、実に、何の関係もありません。苦悩を解決したら仏陀になれるかも?というのは空想、妄想、幻想です。
    >
    > 苦悩を解決したら仏陀になれるという大それたことは考えておりません。
    > 自我と闘わず放置しておけば、つまり思考を巡らさず直感に従って生活すれば、思考に巻き込まれることも無ければ、苦悩することもなくなることを経験したということです。ゼロではありませんが。
    >
    それは臭いものにフタ、でしょう。苦悩するときは、苦悩すればいいじゃないですか・・・

    苦悩から逃げることはなんの解決にもなりません。

    逆に、苦悩になり切ってしまえばいいんです。恐れることはない、大丈夫ですから・・・

    苦悩になり切ったとき、苦悩は脱落します。

    苦悩を逃れようとするものこそ、自我です。逃げれば逃げるほど自我を強めます。

    この構造を理解することは・・・・それは難しいことではありません・・・重要です。
    これを実践することだけで、ああだこうだの理屈を超えて、解放されていきます。

    ものすごく簡単です。努力がいらないんです。だって、苦悩がやってくるなら、それに身を任せる
    だけですから・・・・

    ライナス.・愚・スペースエクスプローラー

  • >>No. 174

    (続き)

     今、 ubik0101 さんが、自由意思の問題(自由か束縛・不自由か)を論じておられますが、
    この問題は過去にもしばしば、この掲示板で取り上げられ、
     ① これは、主体と客体(対象)が分かれているという錯覚(無明)のもとで発生する問題である。
     ② 主体がなくなる(=錯覚がなくなり、これが真実だと覚醒する)と、この問題は自然に消えて問題にはならない
    という形で解決される、という(愚さんの)結論になっております。

    とすれば、自由意思の問題(自由か束縛・不自由か)も、『自己が空であるとき、動く主体がなくなります。』という上記の問題の解決を通して解決されるということになります。

    そこで、元にもどりますが、たいへん気になる上記の愚さんのお話しをみんなで参究する必要があるのではありませんか。
    これだけでも、人によって、気になるポイントがいろいろと分かれるんではないかとも思うのですが・・・・。

    禅宗以外の方ですと、宇宙の全体運動から切り離されて、独立して実体(本質)をもつカタマリなど一切ない、
    したがって、錯覚のもとでそう思いこんでいたカタマリとは、実は独立したカタマリではなく、
    全体へと不可分一体に(境目なくストレートに)つながる部分即全体の問題ととらえていただければいいのではないかと思うのですが・・

    ・。但し、愚さんは、そういう『概念的なものではなく、自己が空になるとき』、真実が開示される・・・と書かれています。

  • [5589] 『自己が空であるとき』
    投稿者: 水月 投稿日

    『 空というのは、概念化されたものではありません。
    自己が空であるとき、動く主体がなくなります。
    そのとき、なにかが動いてるわけです。
    それは決して知りえないのですが、自分がまさにそれであることがわかります。

    これが宇宙の根源です。この性質を調べていけば・・・これは対象としては調べられませんが、
    自己として調べることができます・・・・』


    退院直後の愚さんから、ダル王さんへの返信の一部分です。

    この部分って、たいへん気になりませんか。
    私も気になるのですが、loco さんも気になって書いていらっしゃいます。

    私たち・・・禅宗的表現になりますが・・・の基本的な出発点は、自分が無明(錯覚)の中にいる、ということです。
    その場合、自分が自然にこうだと思うところだけを見ていて、自分が自然にこうすればいいということをやっているだけだと錯覚のままで、錯覚の外に出る(=真実に覚醒する)ことはできないと思います。
    それは、ちょうど、イスに腰掛けながら腰掛けたイスごと自分を持ち上げようとしているのと同じで、不可能なことを一生懸命にやっていることになるのではないでしょうか。

     ということは、
       ① いつも自分の自然な感覚・自然な見え方・自然な理解のうちの、どこに錯覚があるかを見つけること。
       ② どうしたら、錯覚から覚醒(真実の気づき)へと向かうことができるのか
       ③ そして、その作業自体(修行)をする
    というような手順になるのだと思います。

    (続く)

  • [5570] Re: ユング引用
    投稿者: 愚

    > 同様にして、経験者と経験、知覚する者と知覚。。。。とすべて主体=客体というのがKのおっしゃっていることだとおもうんですが、この場合、例えば知覚に気づくのはなんでしょうか?
    > 主体=客体となった宇宙でしょうか? 個人ではなく宇宙の感覚の知覚する?

    知覚に気づくものですね・・・・たとえば、PCを観ているという知覚があり、そして、知覚していると
    いうことに気付いている。そこで、気づいているものはなにか?というのが問いですね・・・

    二通りの表現があります。

    一つは、気づいているものは無い・・・気付きだけがある
    もうひとつは、宇宙全体が気づいている

    >
    > 以前も伺おうと思いましたが、つい忘れてしまいました。
    >
    > > > > これを前提に本を書こうかとも思ったんですが・・・・ネットで始めてみるかな・・・自画自賛ですが これ大発見だと思ってんだけど・・・・そうでもないかな・・・
    >
    > 苦悩はユニヴァーサルです。ですから、ネットでもなんでも、色々な媒体を使われてなさってみてください。
    > テキストも英語もあれば面白いかもしれませんね。
    >
    > 復活なされて、体力も頭脳力もパワーアップしたというのか、リカバリーなさったような感じがします。
    >
    > 災い転じて福・・・ではないですが、このノリでぐぐっと行っていただきたく思います。
    >
    > > > よろしくお願いいたします。で個人的に教えていただきたいのは「HOW]です。
    > > >
    > > 簡単です。理解と実験です。構造を理解し、だまされたと思って簡単な実験を行い、そして、その結果を
    > > 自分で確かめるんです。
    > >
    > > 自分で見つけた真理は、強要なく、働き始めます・・・努力の必要はありません・・・それが英知です
    >
    > やってみたいと思います。
    > 私はかなりレイジーで努力からは程遠い人間です・・・
    >
    もちろん、努力という場合もありますが、その努力は自発的なものでなければなりません・・・それは努力とはいわないんでしょうね・・・・

    わたしもレイジーです・・・・・だらけているのが好きで・・・だから、今回みたいに病気になったり
    しちゃうんでしょうね・・・

    ライナス・愚・スペースエクスプローラー

  • [5569] Re: ユング引用
    投稿者: フローラ

    こんにちは

    > > これはクリシュナムルティのいう[The observer is the observed]ではないのでしょうか?
    > > つまり本来観察する者と観察されるものが一体なのに、分離して、観察している自分にコメントを付ける、分離。葛藤」が起こる・・・と・・・ニュアンス的には同じですか?
    >
    > そうです。要点は、なぜ観察すると、すぐに観察者が分かれてしまうのか?ということだったんですが、
    > これですっきりします。苦痛からの逃避なんです。これがますます問題を大きくしていきます。

    同様にして、経験者と経験、知覚する者と知覚。。。。とすべて主体=客体というのがKのおっしゃっていることだとおもうんですが、この場合、例えば知覚に気づくのはなんでしょうか?
    主体=客体となった宇宙でしょうか? 個人ではなく宇宙の感覚の知覚する?

    以前も伺おうと思いましたが、つい忘れてしまいました。

    > > > これを前提に本を書こうかとも思ったんですが・・・・ネットで始めてみるかな・・・自画自賛ですが これ大発見だと思ってんだけど・・・・そうでもないかな・・・

    苦悩はユニヴァーサルです。ですから、ネットでもなんでも、色々な媒体を使われてなさってみてください。
    テキストも英語もあれば面白いかもしれませんね。

    復活なされて、体力も頭脳力もパワーアップしたというのか、リカバリーなさったような感じがします。

    災い転じて福・・・ではないですが、このノリでぐぐっと行っていただきたく思います。

    > > よろしくお願いいたします。で個人的に教えていただきたいのは「HOW]です。
    > >
    > 簡単です。理解と実験です。構造を理解し、だまされたと思って簡単な実験を行い、そして、その結果を
    > 自分で確かめるんです。
    >
    > 自分で見つけた真理は、強要なく、働き始めます・・・努力の必要はありません・・・それが英知です

    やってみたいと思います。
    私はかなりレイジーで努力からは程遠い人間です・・・

  • [5568] Re: 碧巌録 第二十九則 大隋の劫火洞然
    投稿者: 愚

    > > この僧は、なにかこわれない実体が欲しいんです。ですから、そう問うたわけです。
    > > それを観て、大ズイ禅師は、分別を取ります。壊れないものなどありません。その壊れていくところ、そこと
    > > ひとつになっているところを示しているわけです。
    > >
    > > つまり、構造的には、わたしたちは、本質的に恒常的なものがあり、表現は変化する、というに説明されます。
    > >
    > > これは、これで間違っていません。つまり、世界を、色と空、と観るわけです。
    > >
    > > そして、色は変化するが、空は変化しないと、理解します。
    > >
    > > ところが、色即是空です。
    > >
    > > つまり、変化になりきったところが、変化しないところです。
    > >
    > > ライナス・愚・スペースエクスプローラー
    > >
    >
    > こういうところまで、お話しを聞くと、
    > 釈尊から数えて二十二代目の祖といわれる、有名なインドのマヌラ尊者の偈(げ)が思い浮かびます。
    >
    > 心は万境に随って転ず
    > 転ずる処、実に能く幽なり
    > 流れに随って性を認得すれば
    > 喜びも無く、憂いも無し
    >
    > なんか、本当にいい感じですね。
    > まだ、ぼんやりそう憧れる程度ですが、
    > 無常無我なんだから、バンバン変化に成り切っていっちゃえばいいんだな、という勇気が出てきます。

    自己を分離しなければ、自己をたてなければ、それで終わりです。欲しい、惜しい、憎い、可愛い・・・
    悟りのマルダシです。ただ、サラサラ流していくだけです・・・

    原理的には難しいところはありません。しかし、実行していくのは、大変だ・・・・やんなっちゃう・・・

    ライナス・愚・スペースエクスプローラー

  • [5567] Re: オーハイ オークグローブ 1945/6/3
    投稿者: 愚
    ]
    > > > > >  >あなたは、これらを探し求めるなら、その内的な真実を逃すでしょう。--とクリシュナムルティ述べ、そして、>渇いた人が水を探し求めるように、私たちもまた探し求めなければなりません。--と、クリシュナムルティは述べている。
    > > > > >
    > > > > >  渡辺さんが行っていることは、クリシュナムルティは否定していないように感じます。
    > > > >
    > > > > 当たり前です。わたしたちの大きな障害は、自分が置かれている状況を理解していないということなんです。
    > > > >
    > > > > むちゃくちゃ悲惨な状況にあるんですが、気が付きません。その原因は自我です。これに気が付いたとき、
    > > > > 自我はないから、そのままでいいんだ、なんていう、トンチンカンなことにはならないんです。
    > > >
    > > > それが、無事禅でしょ?
    > > >
    > > > 自我はないから、そのままでいいんだとは、なりません。
    > > > 自我は、本質的には幻想にすぎませんが、この世界においては幻想が現実なんです。
    > > > 自我はないから、そのままでいいんだなどと、アホなことを言ってられないんです。
    > > > そんなことくらい、百も承知です。
    > >
    > > ではどうするんですか?
    > > ああだこうだ、アタマをひねくり回して楽しむんですか?
    >
    > アタマをひねくり回さない方が楽しいことに、気が付いてしまいました。
    >
    大事なのはあなたの人生です。とにかく、知識を捨てちゃわなきゃしょうがない・・・
    知識は敵です。

    ラマナマハリシだろうが禅だろうが、捨ててしまわなきゃダメだ・・・・捨ててしまう、きれいさっぱり・・・

    そして、スクラッチから始めたらいいと思うけどな・・・・そうすれば、いつか、いまの知識が役に立つと
    思うけど・・・・

    ライナス・愚・スペースエクスプローラー

  • [5566] Re: ユング引用
    投稿者: 愚

    >  - - - 以上引用 - -

    ゴテゴテ書いてありますが、感情が観念をつくり、観念があらたな感情を求める、ということですかね・・・

    たしかに、ポジティブに見ていくとそうもいえるんですかね・・・・欲望が観念をつくり、観念が欲望をつくる、そのプロセスの中で、欲望する主体が欲望から分離する・・・

    それはそうですね・・・というのは、欲望は苦痛だから・・・・

    ライナス・愚・スペースエクスプローラー

  • [5564] Re: ユング引用
    投稿者: 愚

    > ⑤しかし、④で苦痛が和らぐというのは錯覚で、事実は逆にそれを強める結果になってしまう。

    そうなんですが、思考が起こるだけでは、思考と思考者の分離は起きないんです。暑い、寒い、うれしい、
    悲しい、ここには分離はありません。

    しかし、実際には、強烈な分離が生まれてしまうわけです。大乗起信論などでは、無明=分離は、ヒョイっと
    生まれる、とかいうことになっているんですが、この分離の強さを説明していません。

    時間の終焉でも、クリシュナムルティとボームで、どうしてこんなに強いんだろう?なんて、やってました。

    なぜかな?と思ってたんですが、おそらく、それは痛いからです。痛さに反射的に反応してしまうんで、
    痛みを抑圧しちゃうんです。これは理性では対応できない・・・

    この痛みは、その前があるはずで・・・・

    >
    > それから、ひとつ気づいたのですが、
    >
    > そうすると、この観察(思考)の積み重ね・あるいは累積の逃避防衛行動で強まるのは、観察者(思考者)と観察されるもの(思考)の分離構造全体なので、
    >
    > 強まるのは、観察者(思考者)=自我だけでなく、
    >
    > 同時に比例して、観察されたもの(思考)の実体化(自性化=全体から分離したカタマリ化)も強まっているということになるのでしょうか。
    >
    その通りでしょう。わたしが、世界は実在すると感じるのは、つまり、その実在感は、自我の実在感から
    来ています。自我の実在感というのは、葛藤ですから・・・痛みですから、苦しければ苦しいほど、
    自我を強め、また、世界のリアリティが増すはずです。

    ライナス・愚・スペースエクスプローラー

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