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投稿コメント一覧 (284コメント)

  • 【こんな話もある】
    「ことば花咲くものは、必ず実なし」
    標題の語は、江戸時代の易学者として知られた新井白蛾(あらいはくが)の書いた『白蛾冠言』に出てくることばである。
    …ことばを飾って話しかける人というのは、裏面では何か自分のためにうまいことをしようとする下心が潜んでいるものである。人のきげんをとり、うまくとり入ってその歓心を買おうとする者にとっては、そのことばは全くうわべだけのもので、一時の方便でしかない。ただ舌先三寸の芸当で、心のなかには信義というものはなく、行き当たりばったりといったいい加減なことを言って、相手をごまかす、その場限りの無責任無節操のものであるということである。(古谷綱武)
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    政策のスローガンや説明の言葉の中には、花を咲かせているようなものが少なくない。華々しく飾って、インパクトを与えることが目的かもしれないが、実態が伴っていなければ、「道半ば」とか「看板倒れ」とかになりそうな気がする。

  • 【こんな話もある(2)】
    「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」
     日本でも人気の『三国志』より。蜀(しょく)の名軍師・諸葛孔明は街亭(がいてい)の戦いの際、部下の馬謖に戦わぬよう指示した。しかし馬謖は従わず、敗戦を招いた。諸葛孔明は馬謖を処刑し、涙を流したという。これより、「規律を守るためには、有能で愛すべきものであっても罰せねばならない」という訓戒として、現代に語り継がれている。なお、『正史』では諸葛孔明は馬謖のために泣いたとされているが、『演義』では「亡き劉備が『馬謖を重用してはならない』と言ったのに守れなかったのが情けなくて」泣いたとされる。(別冊宝島編集部)
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    有能で愛すべき人材であっても、何らかの理由で指揮官には適していないと判断される場合には、重用すべきでないこともあるのだ。「泣いて仲間を斬る」ことはないと思うが。

  • 【こんな話もある(1)】
    「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」
    諸葛亮(孔明)が魏討伐に乗り出したのは、建向6年(228年)のこと。が、緒戦でいきなりつまづく。先鋒の指揮を命じた馬謖が、諸葛亮の指令にそむいて拙劣な陣を敷き(馬謖が独断で山上に陣を敷き、水を絶たれて)、魏の名将張郃(ちょうこう)に大敗を喫したためである。
     馬謖は、「才器、人に過ぎ、好みて軍計を論ず」といわれた俊英。諸葛亮はその才能を愛し、ともに語り合うときは夜の更けるのも忘れるほどだったという。だが、いかに最愛の部下であるとはいえ、馬謖の責任は明らかである。諸葛亮は、軍法会議に照らして馬謖を斬罪に処し、全軍に詫びたのである。
    「泣いて馬謖を斬る」の名言が生まれたくだりであり、後世、信賞必罰の例としてよく引き合いに出される。現代でも経営の神様といわれた経営者がこんなことをいっている。
    「いざというときに、可愛い部下のクビを切れるのが、真の経営者である」
    (守屋洋)(続く)

  • 【こんな話もある】
    「新しき時代には新しき人物を養成して、新しき事物を処理せねばならない。」(渋沢栄一)

    時代が変われば、求められる人も変わる。時代に合った人材を育て、事に当たらせるべきだ。

    社会は常に変化し、進化し続けています。
    新しい発明、流行、経済活動、戦争………
    昨日には想像もつかなかった出来事が、今日は当たり前のようにあちこちで起きるのです。

    そうなった場合、昨日までの常識では、対処しきれないこともあるでしょう。
    過去に成功した方法や事例だからといって、それを状況の変わった現在へ持ち込もうとしても、うまく適応せず、抵抗を受け、物事は悪化します。

    新しい時代には、新しい方法で行動できる、新しい人間が必要なのです。
    そしてこの“新しい人”こそが、時代のイノベーションを引き起こすのです。
    イノベーションを繰り返して、常に新しい時代を築く。
    それは人類にしかできない営みなのです。
    (澁澤健)

  • 【こんな話もある】
    …もちろん芸術家だって生活していかにゃならん。去年は茶わん一つ売って暮らした。たった一つと思うかもしれんが、一万個は壊している。カメラマンが納得のいく写真を撮るのにフィルム何本も使うやろ。あれと同じで楽な仕事じゃない。芸術と生産活動は全く逆なんだ。
     もっとも最近は芸術家をかたる事業家が多いがね。経済が高度成長したからバイ菌がふえて、そういうイカサマ師がはびこるんだ。ピカソほどの実力があって結果として金が貯まるのは当然だが、連中はきれいごとと美をすり替えて素人をだますんだ。そういう商売はまもなく時代の力で整理されると思うね。
    (加藤唐九郎 陶芸家)

  • 【こんな話もある】
    「積み重ねが成功への道」
     こんなに長い間、(床の間に生けた)一本の松の枝がもつのは、うちの者たちの手入れが好いからである。絶えず窓をあけて、新しい空気を入れかえるのは勿論であるが、一日に何回となく、松の上に飽きずに霧を吹きかける。これで百日ももったと思うと、そのもったということが面白くて、まだ、この上にも、もたせて見たいと思うから不思議である。面白いことであるが、この、まだ、この上にも、もたせて見たい、と思うようになると、その気持ちが弾みになって、もたせるということに専念するのが人情であるから、ほんとうに、いつまでも、もつようになるのである。財産でもそうである。仕事でもそうである。思いもかけないことであるが、もたせたいと専念することは、どんなことでも積み重なっていく。このことは、決して馬鹿にはならない。成功するということの、一番の早道ではないか、と私は思うのである。
    (宇野千代)

  • 【こんな話もある】
    「長者の秘訣」
     私はかつて日本橋地区での百万長者八十件について、どうして「長者」になったかを調査してみたら、ほとんどが江戸時代からの先祖が倹約で金をためたものだった。会社でも、家庭でも、ながらく繁栄を保とうとするのには、不時の事変に備えるためつねに相当の予備金を持つことが絶対の条件であろう。予備があれば、デフレとか、インフレとか、火事とか、戦争とか入院とか、冠婚葬祭とか、いろいろ不時の出来事に際し、臨機応変の善後処置が迅速適切に運べるからである。
    (山田忍三 蛇の目ミシン元社長)

  • 【こんな話もある】
     家庭の利殖は、儲かることよりも、損をせぬための用心こそ必要でありはせぬか。
    (石川武美 主婦の友社元社長)

  • 【こんな話もある(3)】
    …バブルが尋常でない状態を作り出していたその頃、私は何をしていたかというと、90年3月から93年の4月まで、南アフリカの日本大使館へ一等書記官として出向していた。赴任する前に、持っていた株や不動産はほとんど売った。理由は単純で、海外から取引するのが面倒だったからだ。当時はまだインターネットが発達していないので、いちいち電話をかけて値段を聞かなければならなかったのだ。私は日本にいなかったから助かったと言える。遠い南アフリカから日本の様子を見て、「これは間違っている。大変なことが起きるぞ」と感じていた。
    バブル崩壊のきっかけについては諸説あるものの、そんな異常な状態が長く続くわけもない。日銀の金融引き締め政策をきっかけに、バブルは一気に崩壊へ向かった。…(村上世彰)
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    尾上縫事件については、清水一行著『女帝 小説尾上縫』があり、真行寺君枝主演『女帝』で映画化されている。テレビドラマも渡辺えり主演『銭女』があった。
    多額の資産を有する、金融知識のない素人や高齢者の方に対しては、特殊詐欺も含め、必ず蜜を求めてアリが集まってくると思う。

  • 【こんな話もある(2)】
     大口の取引先企業へ十分な貸し出しができなくなっていた興銀は、収益確保のために、プライベートバンク事業にシフトしようとしていた。事件は、大阪支店長の飛び込み営業から始まる。有力者から受け継いだとされる多額の資金を保有していた尾上は、足繁く通ってくれる支店長への「義理」として、1987年に興銀の割引金融債ワリコーを10億円分も購入する。同時に株の取り引きも開始されるが、尾上は全くの素人だった。にもかかわらず、毎週日曜日に尾上の料亭では、「行」という宗教的な儀式が行なわれ、神がかった尾上が、銘柄について「まだまだ上がる」とか「まだ早い」などとお告げを下していたそうだ。もとより専門知識や戦略に基づく投資判断ではなかった。
     尾上は1990年に、不動産管理法人まで設立する。株取り引きに続く、興銀の指南だ。しかしバブルはすでに、崩壊に向かっていた。株は下落を始めており、1989年末に約6,200億円あった尾上の金融資産は、わずか1年後に2,650億円まで減っていた。一方で、負債は7,300憶円に膨らみ、金利負担は1日で、1.7憶円を超えていたという。その債務超過を穴埋めするため、尾上と親交のあった東洋信用金庫は、3,420憶円の架空預金証明を発行する。
     1991年、興銀関係者によるメディアへの情報提供をきっかけに、このあまりに異様な事態が表面化。尾上縫は逮捕され、懲役12年の実刑に服した。2002年に尾上の破産が確定し、事件は幕を閉じた。
     この事件を振り返ると、バブル末期の銀行や証券会社の異様な在り方がよくわかる。全くと言っていいほど金融や株式に関する知識のない尾上に対し、仕組みを理解できないのをいいことに、興銀をはじめとする証券会社や不動産会社が、いかに残酷に収益計上に走ったか。常識では考えられない、狂気の世界だ。興銀に至っては、当初からワリコーを担保に融資を行なっている。逆ザヤによって尾上が損をすることがわかりきっている仕組みを提供し、自分たちはリスクを負うことなく、手数料や金利で収益を確保した。最終局面でも、尾上の危機的状況を察知した興銀は、ほかの金融機関が気づく前に自らの債権をしっかり回収していたのだ。(続く)

  • 【こんな話もある(1)】
     …1985年のプラザ合意をきっかけに、ドル高是正で不況に陥った日本の景気対策として、5%ほどだった公定歩合が2.5%まで引き下げられた。借入コストの下がった企業は、その後の地価上昇を見込んで、銀行から金を借りて土地を買うことが主流となった。銀行は、担保対象の土地の価値をはるかに超えた貸し付けを行なうようになっていた。同じ頃、株式市場でNTTが新規上場。その株価が急激に値上がりしたことをきっかけに、一般の個人までもが投資を始める。地価とあわせて、株価も飛躍的に上昇した。
     そうなると企業は、銀行借入よりもコストが低いと信じられていた市場での資金調達を選択する。貸し出し先に困った銀行は、個人への貸し出しに力を入れるようになった。バブル終了の直前には、銀行はいよいよ貸し出す先がなくなり、尾上縫事件という象徴的な事件が起きる。
     あの時代がいかに狂気に満ちたものだったか、わかりやすい例として、この事件に触れておきたい。私の出身地でもある大阪のミナミにおいて、日本興業銀行大阪支店と、千日前の「恵川」などの複数の料亭を経営する女将として知られていた尾上縫との間で行なわれた、バブル時代の金融犯罪で、最高額となった詐欺事件だ。(続く)

  • 【こんな話もある】
    …私の鉄道会社への投資は、…M&Aコンサルティング創業後に初めて請け負った、東急グループの再建コンサルティングに始まる。この時に、鉄道事業以外にもさまざまな事業を行なう「鉄道会社」という業種を広く勉強したことが、西武鉄道と阪神鉄道に投資するきっかけとなった。
     …ちょうど、資産価値を企業価値に正しく反映させるために再編できる鉄道会社はどこかと、ファンド社内でリサーチしているタイミングでもあった。私は、西武鉄道は必ず再建できると信じた。だから株を買い続けたのだ。

    …(堤氏と付き合いのあるオリックスの)宮内氏とともに…東京プリンスホテルの堤氏専用の部屋で時間をいただき、私の考えと想いを伝えた。(のちに二人だけで会ってじっくりと話もした)
    …どんな案件でも同じだが、私は投資先の不動産を見に現地に足を運んだり、運営するレストランへ食べに行ってみたりと、その価値を見極めるために自分自身で動く。西武鉄道に関しても、有価証券報告書の分析をベースに、保有不動産の登記を取った上で現地へ行ったり、主要ホテルの稼働率や状況を自分の目で確かめるため、ロビーに長い時間座って観察した。西武電車に乗って遊園地にも行ってみた。電車の車両は、新規投資が行なわれていないようで古く、遊園地も少しさびれていた。…(村上世彰)
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    以前に次のような話を投稿した。
    【こんな話もある】
     時代は確かに変わって情報やデータはボタン一つの距離になっているものの、あらゆる真剣な投資家は、ポジションをロングにするか、ショートにするかを判断するためには、引き続きやはり現場に出かけて行ってデータを収集している。(ダニエル・A・ストックマン)
     村上氏は現場に出かけて行ってデータを収集するタイプの投資家に属するようだ。近年、「AI投資ロボ」が活躍しているが、現場の情報については、どのように処理しているのだろうか。

  • 「人づくり革命」
    まずは議員から始めてほしい

  • 【こんな話もある(4)】
     私は組織の論理に従うより、自分が正しいと思う道、あるべき姿の追及に拘る正確であり、人をマネジメントしていく上での妥協や、必要以上の情けといったものを「よし」とできない。プロジェクトの長として、目標に向かって70人もの人を動かし、外務省と通産省との見えない戦いの中でお互いを立てながら妥協しあい、時には目をつむってやり過ごすようなことは到底できなかった。目標に向かって物事を進めるという本来の任務を超えて、横道に逸れる人の軌道修正をしたり、見えない戦いを見えないままにしておくために一人一人をどう動かすかなどと考えることも、無駄にしか思えない。私はこのAPECのプロジェクトを通じて、自分が組織の中で生きていくことに全く向かず、人を率いる経営者の資質もないことを強く認識したのだ。
     1999年にM&Aコンサルティングという会社を立ち上げ、私は自分が苦手とする経営者ではなく、投資家になったのだと思った。ところが結果的に、これは大きな間違いだった。ファンドでやっていることは投資だが、人のお金を預かって運用する会社の経営者に徹する必要があった。……ファンドの経営者である以上、自分の信念を貫くためということだけを理由にリターンを度外視することはできない。自分の信念にたいして妥協ができない、したくないという私の性格と、このファンドの経営者という立場に私は非常に苦しむことになった。現在私が人から預かった資金を運用するのではなく、自らの資産だけで投資を行なっているのは、とことんまで自分の信念を貫くことができるようにするためである。
    (村上世彰)

  • 【こんな話もある(3)】
     私が経営者の資質を持っていないと自覚する決定打となったのは、1995年11月に大阪で行われたアジア太平洋経済協力(APEC)の、事務局の仕切り役に選任された時だ。この時のAPECは、通産省が初めて外務省と共同開催する大規模な国際会議で、失敗は許されなかった。そのため両省から選りすぐりの人材によるドリームチームが構成された中で、私は筆頭課長補佐に任命された。チームは通産省だけで70名を数え、さらに異なる省庁の人間が入り交じったために現場は混乱した。正しいと思うことをやっても、省庁間のしがらみがあったり、政治家から体面を保つための横やりが入ったりの連続。その調整には時間を取られるばかりで、プロジェクトにプラスになるような成果はほとんどなかった。私は自分が「意味がない」と思うことをやり続けることがもともと苦手だから、こうした日々は非常に辛かった。官僚という立場の限界、そして自分の立場の限界を感じた。
     象徴的なエピソードとして、こんな出来事があった。APECと合わせて開催される経済界の会合で、幹事国の挨拶がある。これは元次官クラスが行なう慣例になっていて、通常なら外務省か通産省の役割だが大蔵省まで含めて誰が挨拶をするか、省庁間で揉めていた。私はこんな形式的な挨拶などどうでもいいと思っていたから、しきりに拘っていた外務省と大蔵省に対し、「挨拶は、そっちでやってくれて構わない。代わりに、通産省が目指している関税障壁の撤廃について同意してほしい」とお願いした。これは完全に私のスタンドプレーだったが、国益のために当然のことをしたと思っていた。誰が挨拶をするかより、国民の利益につながる関税障壁を取り払うという実をとるのは、私の思考回路の中で当然の話だった。しかし当時の局長から、「君は責任者ではない」とこっぴどく叱られた。あやうくプロジェクトから外されるところだった。(続く)

  • 【こんな話もある(2)】
     プロジェクトは大盛況で、エジプト政府からもとても喜ばれ、成功裏に終わった。日本でもテレビ朝日が特集番組を作ってくれたり、週刊文春のグラビアが取材に来てくれた。
     余談だが、エジプトの首都カイロに「なにわ」という日本食レストランがあって、私たち日本人の集いの場となっていた。何度も行っているうちにオーナーから、娘がアナウンサーをやっているので会ってほしいと言われ、日本でお目にかかった。それが小池百合子・現東京都知事だ。カイロ大学出身の小池氏には、エジプトについていろいろと教えていただいた。
     このプロジェクトに夢中になっていた六ヵ月は、私の人生で最も楽しく充実していたといっても過言ではない。完全に虎の威を借る狐ではあったが、二十代半ばの若者があのような大きなイベントを手がけ、結果を残すことができた。面白さを実感したと同時に、お金を集める大変さ、集めたお金を成果が見える形で使う大変さ、人のお金を使わせていただくことのプレッシャーと説明責任を、非常に重く感じた。
     あの時の私は、プロジェクトをマネージしていく経営者的な資質があるのかもしれない、と思っていた。しかし、その後通産省でいくつかのプロジェクトをまとめていくうち、その感覚は徐々に減少していった。それはエジプトのプロジェクトと比較して、規模が大きくなるにつれて私の実働部隊が増え、人をマネジメントする要素が加わってきたことが要因だったと思う。(続く)

  • 【こんな話もある(1)】
    …自分が経営者に向いていないと強く実感したのは、通産省時代だった。私が最初に経営者的な立場でプロジェクトを仕切ったのは、入省して3年目の1985年。外務省の中近東アフリカ局に出向していた時だ。……
     プロジェクトの目的は、「エジプトで日本という国を理解してもらい、プレゼンスを高めるために、企業から協賛を得てイベントを行なう」というものだ。当時のエジプトでは、「日本は極東の小さな国で、経済成長しているらしい。」程度の認識しかなく、日本のイメージといわれても、車や電化製品以外は浮かんでこない。それでも、知っていればまだいい、という状況だった。……
     初めて大役を仰せつかった私は、無我夢中でこのプロジェクトを進めた。エジプトという国にどうやって日本を売り込んでいくか。一時的な宣伝に終わらず、継続的な関係を維持するためにはどうすればいいか。そんなことばかり考えていた。……
     協賛金は幸いにも、ステージ建設などの現物出資を含めおよそ5億円も集まり、……財界人の団体もムバラク大統領に面会することもできた。同時に経済という切り口だけでなく、エジプト人にもわかりやすく日本の文化をアピールするためのイベントを行なった。鹿島建設にスフィンクスの前に特設のステージを作ってもらい、人気歌手の岩崎宏美さんのコンサートを開催したり、繊細で精巧な日本の花火を打ち上げたり、和太鼓の演奏をしたり、ミス着物10人を日本から連れて行って、着物ショーを開いたりした。小堀遠州の茶道、小原流の生け花、徳田八十吉の九谷焼を紹介するなど、伝統文化も本格的に伝えた。
     やりたいと思っていることを一つ一つ実現していった結果、予定より大がかりになってしまった。従業員ゼロの一人取締役状態だった私は、とにかく多忙で寝る時間も取れなかったが、業務が追い付かなかった。せめて書類作成やコピー取りなどの雑務をやってくれるアルバイトを雇いたいと役所にお願いしたところ、「予算がないから無理」と断られてしまい、仕方なく自費でアルバイトを一人雇うことにした。ところが業務量が多くて勤務時間が膨大になり、私の月給がそのままアルバイトの給料になってしまう有り様だった。(続く)

  • 【こんな話もある】
    …アメリカの投資家のお金を預かってみると、驚きの連続だった。日本の投資家は私の理念に賛同して出資をしてくれたが、アメリカの投資家は違う。まず理念を説明すれば、「日本の資本市場を変えたいという君の理念は分かったが、実際にはどうやっていくら儲けるんだ? どうやってエグジットする(利益を確保する)んだ」と必ず聞かれ、「日本の資本市場をどう変革するかなんて、私には興味がない。とにかく儲けてこい」とだけ言われた。彼らは極めてシビアかつビジネスライクで、いくら儲けたかの数字のみですべてを評価する。2000年の訪米時に、(ゲストスピーカーとして講演した際に)私の理想論が響かなかった理由がよく分かった。
    (村上世彰)

  • 【こんな話もある】
    俺は資本もなければ、学問もない。だから人並みの道を進んだんじゃ出世はできないのだ。儲かると思われる事にゃ、資本と学問のある人が手を出す。世間から棄てられて見向きもされないところに、金儲けの糸口を発見しなくちゃならん。これが資本と学問のない俺の、採るべき手段なんだ。
    (浅野總一郎 浅野セメント創業者)

  • 【こんな話もある】
    …同和鉱業株は一週間ほどストップ高を続け、最高900円までいった。しかし私には、最高値で売る決断が出来なかった。その後に急落する途中の700円で売却したので、結果として利益は60万円ほどだった。このジェットコースター相場で、株は怖いものだという実感をもった。私は利益を得たうれしさよりも、900円の最高値で売れなかったことが悔しかった。
     父はいつも「上がり始めたら買え。下がり始めたら売れ。一番安いところで買ったり、一番高いところで売れるものだと思うな」と言っていた。
    (村上世彰)

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