ここから本文です

投稿コメント一覧 (133コメント)

  • 台湾居留の日本人、漢人、アミ族の生徒比率が
    『KANO』の野球部の民族比率とほぼ同じだったそうだ。

    ★嘉義農林学校校歌
     http://www.katakura.net/xoops/html/modules/wordpress2/index.php?p=171


    最弱野球部が、近藤監督の指導の下で
    甲子園を目指してランニングする嘉義の市街地
    http://liondog.jugem.jp/?eid=197

    主人公の呉選手の切ない初恋?
    青春の象徴の自転車を走らせる長閑な田園風景。
    農民を苦しめる過酷な塩害や洪水・干ばつ・・・

    映画では、
    台湾バナナの品種改良に励む佐藤先生など
    日本人教師による農業指導の日本語の授業風景も
    野球部の部員の成長と共に描かれる。

    しかも、
    大沢たかおが演じる台湾の水利事業に生涯を捧げた
    「八田與一」のエピソードまで挿入されている。
    八田氏が10年の歳月をかけて造った壮大なダム。

    その水が、嘉義の水路を初めて流れる光景を
    工事の困難さと農家の感動を、丁寧に描いている。

  • ★戦前外地の高校野球
     http://www.koishikawaunit.net/shop/html/products/detail.php?product_id=8

    この映画「KANO」は
    甲子園の伝説の重要な鍵を握っている。
    嘉義農林学校に勝って3連覇した中京商業。

    この試合以降、
    甲子園で3連覇を果たした高校はないそうだ。
    日本にとっても、伝説の一戦である
    三連覇を掛けた中京商業と、正々堂々と互角に戦い
    『天下嘉義』と称賛されたKANOは、

     
     
     
     
     
    日本人が大好きな甲子園の精神に繋がっている。

  • 戦後日本の教育では、
    八田與一氏のような優れた技術者の功績を
    子供達は教わる事が無い・・・

    台湾元総統の李登輝氏のスピーチに有るように
    大規模ダムというハードウエアを建設するだけでなく
    それを維持管理し有機的に活用するための
    ソフトウエアまでも考案し、連日農業指導を行い

    三年輪作給水法によって全農民の稲作技術を向上させ
    農民にあまねく水の恩恵を与え、生産が共に増え、
    生活の向上ができて初めて工事の成功であると考えた
    八田與一氏の偉業は、
    日本人の子供達にとっても、大いに学ぶべき発想です。

    プロデューサーであり、脚本も手がけた
    台湾の魏徳聖(ウェイ・ダーション)氏は
    日本統治下の台湾原住民セデック族の抗日運動
    「霧社事件」を題材にした映画『セデック・バレ』も製作。

    日台の歴史の光も影も、事実を描いてこそ、
    『KANO』が問いかける台湾の人々の誇りが見えてくる。
    日教組の「人権教育」よりもずっと
    子供達の純粋な心に浸透すると思う。

    李登輝氏の
    「国家百年の大計に基づいて
     清貧に甘んじながら
     未来を背負って立つべき世代に対して、
     「人間いかに生きるべきか」という哲学や理念を
     八田氏は教えてくれたと思う」
    という言葉の重みを深く感じる・・・

    戦争中、フィリピンに向かう大洋丸に乗っていた
    八田氏はアメリカ潜水艦の魚雷攻撃に遭い沈没。

    奥様の八田外代樹さんはその三年後、
    敗戦後の台湾から日本人が一人残らず去らねばならず
    夫の遺した烏山頭ダムの放水口に身を投じて
    夫の後を追ったという・・・
    http://www.a-eda.net/asia/hatta1.html

  • テレビドラマなどでおなじみの鉄道公安官は、よくご存知ですよね!!



       では、その鉄道公安官が、拳銃を所持していたことをご存知でしたか??



         ダーティーハリーのキャラハン刑事と同じ、必殺の45口径!!



           なぜ、鉄道職員が、拳銃を所持するようになったのでしょうか???




    鉄道公安職員(てつどうこうあんしょくいん)は、日本国有鉄道が存在した時代に司法警察権を持っていた国鉄職員。現在の鉄道警察隊の警察官の前身にあたる特別司法警察職員である。正式名称は「鉄道公安職員」だが、「鉄道公安官」と俗称されることも多かった。


    列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、「戦争に負けた六等国の日本人が、二等国の朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」と叫び、その男性を直江津駅のホームに引きずり降ろした。

    3人組は駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した。

    犯人は3人とも在日朝鮮人で、戦時中は工場に勤務していたが、終戦後は闇米ブローカーに転身した。事件当日も農家から米を買い集め大阪方面に売りに行く途中であった。犯人の在日朝鮮人3人は殺人の容疑で検事局に送られたが、まもなく逃走し行方知れずになったため、司法で裁かれることはなかった。


    無法の限りを尽くした朝鮮進駐軍問題が一段落すると、実際の拳銃の携帯は「第1種警備」と呼ばれていた天皇や皇族の警衛、国賓の警護、日本銀行券(お札)の輸送警備時(積卸時の構内警備・輸送中の専用荷物車への添乗)などの際に行われていた。


    1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、民間企業のJR社員が司法警察権を持つのは適当ではないとされ、鉄道公安職員はJRから離れて警察組織に組み込まれた。

    これが、1発ブチ殺しの鉄道公安官用45口径だ ↓通称“ブタ殺しのヨンゴ(45)”

  • テレビドラマなどでおなじみの鉄道公安官は、よくご存知ですよね!!



       では、その鉄道公安官が、拳銃を所持していたことをご存知でしたか??



         ダーティーハリーのキャラハン刑事と同じ、必殺の45口径!!



           なぜ、鉄道職員が、拳銃を所持するようになったのでしょうか???




    鉄道公安職員(てつどうこうあんしょくいん)は、日本国有鉄道が存在した時代に司法警察権を持っていた国鉄職員。現在の鉄道警察隊の警察官の前身にあたる特別司法警察職員である。正式名称は「鉄道公安職員」だが、「鉄道公安官」と俗称されることも多かった。

    在日朝鮮人が起こした直江津駅リンチ殺人事件を教訓に、1947年(昭和22年)に、鉄道内の犯罪に対応する為に創設された。当時、全国各地で朝鮮進駐軍と名乗る悪逆非道の無法者が、徘徊・跋扈していた。その後1949年(昭和24年)の日本国有鉄道発足に伴い、「鉄道公安職員の職務に関する法律」(昭和25年法律第241号)により鉄道公安制度が確立された。鉄道公安職員は、鉄道管理局及び主要駅に置かれた鉄道公安室に所属し、統括部署として日本国有鉄道本社の中に公安本部が置かれていた。人数はおおよそ3000人規模であった。

    1950年(昭和25年)に定められた「鉄道公安職員の職務に関する法律」施行後は司法警察職員としての権限も強化され、武器(拳銃・警棒)の携帯・事件事故の捜査・令状の取得・被疑者の逮捕・証拠品の差し押さえが可能となった。しかし、現行犯人又は被疑者を逮捕した場合には、これを検察官又は警察職員に引致しなければならないとされ、留置できなかった(従って留置施設も存在しなかった)。

    戦後、多くの日本人を激怒させた直江津駅リンチ殺人事件とは・・・
    1945年12月29日午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄(現:JR)信越本線黒井駅に到着した。3人組の在日朝鮮人の男が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客(当時29歳のセールスマン)に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。

    列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、「戦争に負けた六等国の日本人が、二等国の朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」と叫び、その男性を直江津駅のホームに引きずり降ろした。

    3人組は駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した。

    犯人は3人とも在日朝鮮人で、戦時中は工場に勤務していたが、終戦後は闇米ブローカーに転身した。事件当日も農家から米を買い集め大阪方面に売りに行く途中であった。犯人の在日朝鮮人3人は殺人の容疑で検事局に送られたが、まもなく逃走し行方知れずになったため、司法で裁かれることはなかった。

    拳銃の携帯は法律上は認められていたものの、GHQの指導のもと導入された機種がコルト社製のオフィシャルポリスで日本人の手に余る大型なものであったが、日本の警察官が所持する22口径拳銃より、殺傷力は数十倍高かった。この45口径拳銃の射撃で、衝撃・反動のあまりの激しさのため、手首を傷める公安官がかなりの数に上ったといわれる。

    無法の限りを尽くした朝鮮進駐軍問題が一段落すると、実際の拳銃の携帯は「第1種警備」と呼ばれていた天皇や皇族の警衛、国賓の警護、日本銀行券(お札)の輸送警備時(積卸時の構内警備・輸送中の専用荷物車への添乗)などの際に行われていた。

    なお拳銃の訓練は委託を受けた警察学校で行われていたが、鉄道公安職員の中には国民体育大会のけん銃競技に出場し、警察官よりも高い得点を取って金メダルを獲得した者も存在した。
    また、鉄道公安職員で編成する集団的警備組織(警察の機動隊に相当)として、鉄道公安機動隊が全国で5隊(東京・大阪・札幌・新潟・門司)編成・配備されていた。

    1987年(昭和62年)4月1日の国鉄分割民営化に伴い、民間企業のJR社員が司法警察権を持つのは適当ではないとされ、鉄道公安職員はJRから離れて警察組織に組み込まれた。

    これが、1発ブチ殺しの鉄道公安官用45口径だ ↓通称“ブタ殺しのヨンゴ(45)”

  • 在日韓国朝鮮人が密航者であるという証拠 …




    戦後(昭和21年・1946年)の密航朝鮮人取締りの記録


    2014年10月25日



    特別永住者
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%B0%B8%E4%BD%8F%E8%80%85

    特別永住者(とくべつえいじゅうしゃ)とは、平成3年(1991年)
    11月1日に施行された日本の法律 「日本国との平和条約に基づき
    日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により
    定められた在留の資格のこと、または当該資格を有する者をいう。

    米国戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印日(昭和20年
    (1945年)9月2日)以前から 引き続き日本内地に居住している
    平和条約国籍離脱者(朝鮮人及び台湾人)とその子孫を対象とし
    ているが、 実際には朝鮮、韓国系の特別永住者には戦後の密航者
    が多く含まれる。

    平成23年(2011年)末時点での特別永住者の実数は、前年より
    1万23人減少し38万9083人である。
    国籍別では「韓国・朝鮮」が38万5232人と99%を占める。


    昭和21年度 密航朝鮮人 取締に要する経費追加豫?要求書↓

    密航朝鮮人取締に要する経費内訳↓

  • 橋下と石原はなぜ決裂したか・・・




    橋下、石原ともにカジノの日本導入には積極的です。

    問題は、在日がやっているパチンコをどうするかということです。

    石原は、パチンコの全廃を主張しました。

    ところが橋下は最大の資金源である在日パチンコ屋の解体に

    猛烈に反発したのです。

    パチンコは韓国ではすでに、国民生活に極度の害を及ぼすとして

    禁止・全廃されました。

    アヘンを中国人に売りつける英国人は自らは決してアヘンを吸わない。

    同様に、在日は決してパチンコをやらない。

    在日は実に利口である。


    こいつが橋下の財政パトロン、民団の団長でパチ屋と呼ばれる

    デブ呉公 ↓

  • 国家、国民は今や差別用語となり、




        憎悪の対象になっているのでしょうか・・・




    それとも国家、国民という言葉は




         ヘイト用語になるのでしょうか・・・




    在日や反日左翼は、(日本)国家とか(日本)国民という
    言葉を使いません。禁忌語になっているのでしょう・・・

    国家という言葉の代わりに、社会とか公共とか公共性とか
    公共の利益という言葉を使用します。最近は西洋かぶれか、
    コミュニティといういかがわしい言葉も好まれているよう
    です。コミュニティとは共生社会とでも訳すのでしょうか。
    (コミュニズムといえば共産主義と訳しますので)

    同じく、国民という言葉の代わりに庶民とか市民とか住民と
    いう言葉を使います。

    狂信的な日本国家原罪論主義の賜物なのでしょうか・・・

    一例を挙げますと。
    彼らは市民や平凡な庶民を装い、憲法改正反対、憲法擁護等
    声高に主張しますが、決してそして死んでも日本国憲法擁護
    とか、日本国憲法改正反対とは言いません。

    彼らにとって日本国という言葉はおぞましい言葉であり、口が
    裂けても言えない言葉なのです。

    彼らにとって、国家は断罪すべきもの、解体覆滅すべき対象
    以外の何物でもないわけです。

    日本国憲法第10条に(日本)国民の規定があります。
    いわく、日本国民は別途法律により規定する、と。
    確かに日本国憲法には、公共とか住民という言葉は登場
    しますが。社会とか庶民とか市民とかコミュニティなる
    言葉は一切出てきません。

    なぜならば、日本国憲法は日本国民の生命、生活、財産を
    外敵=外国や国家権力の不当な侵害から守るためにあるか
    らです。

    また日本国家の覆滅解体を最終目標としている在日や反日
    左翼は、市民が参加する裁判員裁判制度に異常な敵愾心を
    持っています。

    なぜかというと、国家権力の一つである司法権=裁判も
    打倒・覆滅解体および断罪すべき対象であるにもかか
    わらず、その国家権力の行使に直接庶民、市民、国民が
    参加することは、何とも我慢のならないことなのです。

    かって小沢一郎や民主党が”国民の生活が第一”というス
    ローガンを掲げ選挙に大勝したことがありますが。
    今ではなぜか国民という冠(カンムリ)がとれて、”生活
    が第一”というスローガンに置き換わっています。

    やっぱり国民という言葉は禁忌なのでしょうか・・・
    それとも生活とは在日の生活を指すのでしょうか??

  • 22日、中国のインターネット掲示板に、「世界は韓国を
    どう見ているのか」とのスレッドが立ち、そのなかで自
    身の欧米人の友人の韓国人に対する印象を紹介した書き
    込みが注目を集めている

    米の友人たちの韓国人に対する印象について記している。

    1.極端な民族主義
    友人たちの描写によると、韓国人は全力で韓国の栄誉と
    利益を守ろうとする。自分たちに非があろうがなかろう
    が関係ない。韓国人にとっては、永遠に韓国人が正しい
    のだ。欧米人に対して敵意を示す一方で、英語学習の重
    要性を認識し、国家の発展には英語が不可欠だと考えて
    いる。スポーツの国際大会で敗れたときの韓国テレビ局
    の中継の解説を聞いても、民族主義がどれだけひどいか
    がわかる。

    2.おかしな流行
    友人たちの韓国男性アイドルに対する印象は、「ファッ
    ションはごちゃごちゃしていて、ヘアスタイルは奇抜」。
    そして、「ジャスティン・ビーバーよりもゲイっぽい」
    である。女性アイドルにはひと言、「みんな同じ顔に見
    える」だ。

    3.恋愛とビジネス
    韓国人は、恋愛をするときはまず、相手の能力や家庭
    の経済状況を見るが、ビジネスをするときはまず、いっ
    しょに食事に行き、相手の趣味や性格を知ることから始
    める。友人曰く、「この2つの物事の始め方は逆なので
    は?」。

    4.性差別
    韓国ではセクハラ問題は非常に深刻である。友人のカナ
    ダ人女性は、韓国で何度も見知らぬ男におしりを触られ
    たと話す。また、教室で韓国人学生から無断でおしりの
    写真を隠し撮りされたこともあるという。彼女の友人
    (同じくカナダ人女性)はタクシーに乗ったとき、運転
    手に乱暴されそうになったこともあるそうだ。

    5.短気
    韓国の街ではいたるところでケンカが起きている。バー
    が集まる繁華街では特に顕著。関わらないのが一番だと
    友人は話す。

    6.キリスト教
    韓国ではキリスト教徒が多い。しかし、北米の友人は違
    和感を覚えたという。多くは語らなかったが、周りの韓
    国人キリスト教徒はキリスト教徒に見えず、他人に対し
    てもまったく友好的ではなかったという。

    なお、友人たちが唯一、韓国を称賛したのは、ネットの
    通信速度が速いことだった。

  • これを知らずして、戦後の日韓史を語るなかれ!!





     第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、1952年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して死亡した事件である。


    1952年1月18日、韓国は李承晩ラインを設定し、竹島、対馬及びその周辺海域における韓国の主権を主張し始めた。

     1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。

     同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。

     しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。

     日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。

     同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の高医院に収容された。

     高医院とは名ばかりの医院で病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。

     しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。

    船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。

     病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。

     しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。

     同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。

     2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。

    この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。これは群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。

     この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。しかし、海図を出して調べるときには丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。
    問題点
    • 民間船に対する無警告攻撃行為
    • 当初より明確な軍事行為目的を持っていた。外務委員会連合審査会によると、韓国船2隻には乗組員各12名のほか、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が分乗していた。
    • 拿捕後の取調べ時の虐待的取り扱い。食料を与えない、過剰な人口密度等、ジュネーヴ条約違反の疑いは払拭できない。

    下は、不当に抑留された日本人漁船員たち ↓

  • あなたは、絶対に本当の事を言えない!!





           なぜなら、本当の事を言うと、“差別者”だと糾弾されるから!!





                 かくて南関東から、牛はいなくなった!!





    東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。
    当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。

    永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。

    そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。
    かくて南関東から、牛はいなくなった。

    家/畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。
    川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。

    翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、

    「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。

    それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。
    幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷、顔面挫傷で、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。

    年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。
    孫共はこれを知らんのだろう。

    直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。
    いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。

    闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。

    今、朝鮮人が駅前の一等地でパチ/ンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。

    たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。

    終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。

    東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。

    当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。

    これを受けて述べたのが、マッカーサーの
    「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。

    1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。

    その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
    不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。

    すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか
    「我々は戦勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。

    警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました

    警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

    この戦後初の戒厳令(正確には非常事態宣言)が敷かれた朝鮮人動乱(阪神教育事件)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。

    死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)

    逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
    勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する
    抗議としてであると述べています。

    下の漫画は、代表的な左翼漫画“はだしのゲン”の一こま。
    “お前ら六等国民は、座るんじゃねエ! さあー、たて!
    俺たち二等国民がすわるんだあー!“

  • 全世界のインド人へ呼びかけた



              “なつかしき同胞達よ、私は今、日本の東京にいる”



        “私は誓う。常にインド国民の先頭に立ち、祖国へ身命を捧げることを!!”



    チャンドラ・ボースはケンブリッジ大学に留学し、帰国後にインドの独立運動に参加。28歳でカルカッタ市長に
    就任し、後に国民会議派の議長にも就任した。ジャワハル・ネール(後の首相)と共に反英運動を続け、幾度も獄舎につながれた。昭和16年1月16日、捕らえられていたボースは英官憲の目を盗んで逃亡、アフガニスタン、カブールを経てドイツ領に逃れていた。
       
    昭和18年4月中旬、日本の潜水艦「伊29潜(艦長:伊豆寿一中佐)」とドイツのUボート「U80」が、太平洋の同じ一点を目指して航行していた。4月27日の夜、両艦は季節風が吹き荒れるマダガスカル沖で会合、二人のインド人が「U80」から「伊29潜」へ移乗した。その内の一人こそ、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースである。
     
    潜水艦を乗り継いだボースは北スマトラを経由して5月16日に空路東京へ到着。杉山 元参謀総長、島田繁太郎海軍大臣、永野修身軍令部総長、重光 葵外務大臣等と次々に面談した。

    6月10日には東條英機首相と会談、東條首相は16日の議会にチャンドラ・ボースを招いて世界中を驚かせた。ボースは壇上のマイクを通して全世界のインド人へ呼びかけた。

    「なつかしき同胞達よ、私は今、日本の東京にいる。東條首相は議会においてインド独立の為にあらゆる協力をする事を言明した。私は誓う。常にインド国民の先頭に立ち、祖国へ身命を捧げることを。」

    またボースは6月26日に日本を立つ際に。日本国民に対し次のメッセージを残している。
    「日本の皆さん、今から四十年前に一東洋民族である日本が、強大國のロシアと戦い大敗させました。このニュースがインドへ伝わると昂奮の波が全土を覆い、旅順攻略や日本海海戦の話題で持ちきりで、インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を尊敬しました。(中略)日本はこの度、インドの仇敵イギリスに宣戦布告しました。日本は私達インド人に対して独立の為の絶好の機会を与えてくれました。」

    7月2日、チャンドラ・ボースは昭南島のカラン飛行場に到着、そこには日本の陸軍特務機関によって創設されたインド国民軍13,000人を代表する一個大隊が整列してボースを待っていた。ボースが二十年来求めてやまなかった武力が今忽然と湧現、ボースの目から一筋の涙がつたい落ちた。

    11月5日、ボースは東京で開かれた大東亜会議に、自由インド仮政府の首班としてオブザーバー参加した。
    大東亜会議には日本、満州国、中国国民政府、フィリピン、タイ、ビルマ、インドの各代表が出席し、ボースは席上、これまでの西欧中心の国際会議と対比して日本が主導すべき歴史的必然性を述べ、「大東亜共栄圏の建設は全アジア民族の重大関心事であり、強奪者の連盟に非らずして真の国家共同体への道を拓くものである。」と強調した。
     
    日本の敗戦後ボースはソ連行きの飛行機を日本陸軍に要請。昭和20年8月17日、用意された九七式重爆撃機でサイゴンを飛び立ち台北の松山飛行場に到着。再び大連へ向けて離陸した直後にエンジン故障で墜落、ボースは火だるまになって全身に火傷をおって死亡した。インド民衆は、ボースがどこかに潜伏して再起を図っているものと信じ、彼の死を長い間認めなかった。
      
    戦後、インドは、敗戦国日本に対して、厚い友情を示した。極東軍事裁判で連合国側が日本を弾劾しつづけるなか、インド代表のパール判事ただ一人だけが日本の無罪を主張した。

    また、インドは日本に対する懲罰的な条約に反対してサンフランシスコ講和会議への参加を拒否しまし、日本に対する賠償も放棄している。さらにインド独立運動家のマハンドラ・プラタップ氏は「日本に対してこそ賠償を払うべき」という「逆賠償論」を主張している。
     

    在りし日のガンジーとボース ↓

  • あれだけの犠牲を払って戦わなかったら・・・






                 いまも






                    植民地のままだった!!






                          宣言は歴史に輝く!!






     1955年(昭和30年)になると、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ二十九カ国が集まって、国際会議が開かれた。参加国は戦後独立した国がほとんどで、「黄色と黒の団結」と独立をアピールする会となった。

    この会はインドネシア(スカルノ大統領)の提唱で、コロンボ・グループと呼ばれたビルマ、セイロン、インド、インドネシア、パキスタンの五カ国が招請国となった。

     参加国はそのほかに、アフガニスタン、カンボジア、中華人民共和国、エジプト、エチオピア、ゴールドコースト、イラン、イラク、日本、ヨルダン、ラオス、レバノン、リベリア、リビア、ネパール、フィリピン、サウジアラビア、スーダン、シリア、タイ、トルコ、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、イエメン、ほかにオブザーバーとして数カ国が加わった。

     日本は高崎達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を次のように語っている。

    「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と危惧していた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。

    出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。

    それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。

    やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。

     ところがこのように評価されている大東亜戦争の勇戦や、大東亜会議の意義だが、日本のマスコミや学会では取り上げられない。この辺にも日本の歴史認識や外交の未熟さがあるように思われてならない」

     この話は平成十九年に無くなった名越二荒之助氏の「昭和の戦争記念館第5巻」(展転社)に掲載されているものです。


    これが、アジア・アフリカ会議、非同盟諸国会議またの名をバンドン会議 ↓

  • あれだけの犠牲を払って戦わなかったら・・・






                 いまも






                    植民地のままだった!!






                          宣言は歴史に輝く!!






     1955年(昭和30年)になると、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ二十九カ国が集まって、国際会議が開かれた。参加国は戦後独立した国がほとんどで、「黄色と黒の団結」と独立をアピールする会となった。

    この会はインドネシア(スカルノ大統領)の提唱で、コロンボ・グループと呼ばれたビルマ、セイロン、インド、インドネシア、パキスタンの五カ国が招請国となった。

     参加国はそのほかに、アフガニスタン、カンボジア、中華人民共和国、エジプト、エチオピア、ゴールドコースト、イラン、イラク、日本、ヨルダン、ラオス、レバノン、リベリア、リビア、ネパール、フィリピン、サウジアラビア、スーダン、シリア、タイ、トルコ、ベトナム民主共和国、ベトナム共和国、イエメン、ほかにオブザーバーとして数カ国が加わった。

     日本は高崎達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を次のように語っている。

    「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と危惧していた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。

    出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。

    それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。

    やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ。

     ところがこのように評価されている大東亜戦争の勇戦や、大東亜会議の意義だが、日本のマスコミや学会では取り上げられない。この辺にも日本の歴史認識や外交の未熟さがあるように思われてならない」

     この話は平成十九年に無くなった名越二荒之助氏の「昭和の戦争記念館第5巻」(展転社)に掲載されているものです。


    これが、アジア・アフリカ会議、非同盟諸国会議またの名をバンドン会議 ↓

  • あなたは、絶対に本当の事を言えない!!





           なぜなら、本当の事を言うと、“差別者”だと糾弾されるから!!





                 かくて南関東から、牛はいなくなった!!





    東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。
    当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。

    永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。

    そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。
    かくて南関東から、牛はいなくなった。

    家/畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。
    川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。

    翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、

    「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。

    それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。
    幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷、顔面挫傷で、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。

    年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。
    孫共はこれを知らんのだろう。

    直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。
    いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。

    闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。

    今、朝鮮人が駅前の一等地でパチ/ンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。

    たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。

    終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。

    東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。

    当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。

    これを受けて述べたのが、マッカーサーの
    「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。

    1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。

    その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
    不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。

    すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか
    「我々は戦勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。

    警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました

    警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

    この戦後初の戒厳令(正確には非常事態宣言)が敷かれた朝鮮人動乱(阪神教育事件)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。

    死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)

    逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
    勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する
    抗議としてであると述べています。

    下の漫画は、代表的な左翼漫画“はだしのゲン”の一こま。
    “お前ら六等国民は、座るんじゃねエ! さあー、たて!
    俺たち二等国民がすわるんだあー!“

  • これを知らずして、戦後の日韓史を語るなかれ!!





     第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじけん)とは、1952年2月4日に公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』及び『第二大邦丸(57トン)』が、韓国の漁船『第一昌運号』及び『第二昌運号』(各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃、拿捕され、その際に第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎(34)が被弾して死亡した事件である。


    1952年1月18日、韓国は李承晩ラインを設定し、竹島、対馬及びその周辺海域における韓国の主権を主張し始めた。

     1953年1月22日に、第一大邦丸及び第二大邦丸は、福岡を出航し2月4日には二百八十四農林漁区で操業していた。

     同日午前7時ごろに、第一大邦丸の南西より韓国の漁船である第一昌運号及び第二昌運号が北上して接近してきた。そして日本語で「魚は獲れますか」と話してきた。韓国船はそのまま行過ぎ、付近で停止して操業(を装って日本船を監視)していた。

     しばらくして第一大邦丸が揚網作業に入ると、そのとき船尾から30メートル程度の距離にあった韓国船が、自動小銃で第一大邦丸への銃撃を開始した。

     日本側二隻は逃走を開始したが、8時15分には第二大邦丸が拿捕され、逃走していた第一大邦丸も銃撃が熾烈で、逃走を断念した。この時操舵室内に坐っていた漁撈長は、後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。第一大邦丸は8時30分に拿捕され、第一昌運号の船員に「翰林に行け」と日本語で命令された。

     同船は11時30分に済州島の翰林面に入港させられ、日本人船員は憲兵によって警察に引き渡され、船内の目ぼしい私物、装備及び漁獲物は警察に没収された。その際に日本人船員側が憲兵に対して負傷者がある旨を伝えたので、船員は翰林面の高医院に収容された。

     高医院とは名ばかりの医院で病室はもちろん設備も全く無く、医師は見ただけで「これは駄目だ」といって漁撈長の手当てを拒否した。船員たちは警察に行き軍病院かどこかへの入院を依頼した。

     しかし警察は「我々は軍の命令によって行動したのであって、我々に責任はない」と拒絶した。そこで船員たちは憲兵隊へ行き、病院への収容を再度依頼したが、憲兵隊長に「盲貫銃創だからとても駄目だ」と言われて再度拒否された。

    船員側の度重なる依頼の末、軍病院への入院が許可された。その際に「車は直ぐ来ますから」と言われたため、船員はそのまま漁撈長の元へ行った。

     病院までの搬送の間に漁撈長が死なないように、医者にリンゲルの注射を求めたが、医者はリンゲルは高価だと躊躇。結局船員が私物を売り払って金を払う約束をしてリンゲルを一本射ってもらった。

     しかし韓国側は結局車を出さず漁撈長を放置し、漁撈長は2月6日の23時に死亡した。翌日漁撈長の遺体は命中弾が軍のものか警察のものか判明させる為に韓国側によって解剖され、結果憲兵の銃撃によるものであることが判明した。

     同日より警察に火葬の手配を頼んだが黙殺され、船員は残った私物の一部を売り払って葬儀一式を整え、足りない薪を付近の松の枝などで補ってさらに翌日に火葬した。

     2月9日から、船員は全員警察署の前の防空団詰所に監禁された。詰所は約4畳の広さで、そこに18人が監禁され、食料は一切支給されなかった為、船内食料で食いつないでいた。

    この際に韓国は自国の領海は島と島を結んだ線から計測されると主張した。これは群島基線に基づく主張であるが、韓国は群島国家であると主張していないため国際法的には無効であると思われる。

     この後、警察は船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をハングルで作成し、これに捺印させ、日本への通知とした。しかし、海図を出して調べるときには丁字定規一本とたばこ及びマッチを以て測るという具合に適当に作成された調書の矛盾より公海上の事件であった事がわかり、佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将が、李承晩に会見を求め、これに対して李承晩は遺憾の意を表し、第一大邦丸の釈放に応じた。
    問題点
    • 民間船に対する無警告攻撃行為
    • 当初より明確な軍事行為目的を持っていた。外務委員会連合審査会によると、韓国船2隻には乗組員各12名のほか、憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が分乗していた。
    • 拿捕後の取調べ時の虐待的取り扱い。食料を与えない、過剰な人口密度等、ジュネーヴ条約違反の疑いは払拭できない。

    下は、不当に抑留された日本人漁船員たち ↓

  • 22日、中国のインターネット掲示板に、「世界は韓国を
    どう見ているのか」とのスレッドが立ち、そのなかで自
    身の欧米人の友人の韓国人に対する印象を紹介した書き
    込みが注目を集めている

    米の友人たちの韓国人に対する印象について記している。

    1.極端な民族主義
    友人たちの描写によると、韓国人は全力で韓国の栄誉と
    利益を守ろうとする。自分たちに非があろうがなかろう
    が関係ない。韓国人にとっては、永遠に韓国人が正しい
    のだ。欧米人に対して敵意を示す一方で、英語学習の重
    要性を認識し、国家の発展には英語が不可欠だと考えて
    いる。スポーツの国際大会で敗れたときの韓国テレビ局
    の中継の解説を聞いても、民族主義がどれだけひどいか
    がわかる。

    2.おかしな流行
    友人たちの韓国男性アイドルに対する印象は、「ファッ
    ションはごちゃごちゃしていて、ヘアスタイルは奇抜」。
    そして、「ジャスティン・ビーバーよりもゲイっぽい」
    である。女性アイドルにはひと言、「みんな同じ顔に見
    える」だ。

    3.恋愛とビジネス
    韓国人は、恋愛をするときはまず、相手の能力や家庭
    の経済状況を見るが、ビジネスをするときはまず、いっ
    しょに食事に行き、相手の趣味や性格を知ることから始
    める。友人曰く、「この2つの物事の始め方は逆なので
    は?」。

    4.性差別
    韓国ではセクハラ問題は非常に深刻である。友人のカナ
    ダ人女性は、韓国で何度も見知らぬ男におしりを触られ
    たと話す。また、教室で韓国人学生から無断でおしりの
    写真を隠し撮りされたこともあるという。彼女の友人
    (同じくカナダ人女性)はタクシーに乗ったとき、運転
    手に乱暴されそうになったこともあるそうだ。

    5.短気
    韓国の街ではいたるところでケンカが起きている。バー
    が集まる繁華街では特に顕著。関わらないのが一番だと
    友人は話す。

    6.キリスト教
    韓国ではキリスト教徒が多い。しかし、北米の友人は違
    和感を覚えたという。多くは語らなかったが、周りの韓
    国人キリスト教徒はキリスト教徒に見えず、他人に対し
    てもまったく友好的ではなかったという。

    なお、友人たちが唯一、韓国を称賛したのは、ネットの
    通信速度が速いことだった。

  • 国家、国民は今や差別用語となり、




        憎悪の対象になっているのでしょうか・・・




    それとも国家、国民という言葉は




         ヘイト用語になるのでしょうか・・・




    在日や反日左翼は、(日本)国家とか(日本)国民という
    言葉を使いません。禁忌語になっているのでしょう・・・

    国家という言葉の代わりに、社会とか公共とか公共性とか
    公共の利益という言葉を使用します。最近は西洋かぶれか、
    コミュニティといういかがわしい言葉も好まれているよう
    です。コミュニティとは共生社会とでも訳すのでしょうか。
    (コミュニズムといえば共産主義と訳しますので)

    同じく、国民という言葉の代わりに庶民とか市民とか住民と
    いう言葉を使います。

    狂信的な日本国家原罪論主義の賜物なのでしょうか・・・

    一例を挙げますと。
    彼らは市民や平凡な庶民を装い、憲法改正反対、憲法擁護等
    声高に主張しますが、決してそして死んでも日本国憲法擁護
    とか、日本国憲法改正反対とは言いません。

    彼らにとって日本国という言葉はおぞましい言葉であり、口が
    裂けても言えない言葉なのです。

    彼らにとって、国家は断罪すべきもの、解体覆滅すべき対象
    以外の何物でもないわけです。

    日本国憲法第10条に(日本)国民の規定があります。
    いわく、日本国民は別途法律により規定する、と。
    確かに日本国憲法には、公共とか住民という言葉は登場
    しますが。社会とか庶民とか市民とかコミュニティなる
    言葉は一切出てきません。

    なぜならば、日本国憲法は日本国民の生命、生活、財産を
    外敵=外国や国家権力の不当な侵害から守るためにあるか
    らです。

    また日本国家の覆滅解体を最終目標としている在日や反日
    左翼は、市民が参加する裁判員裁判制度に異常な敵愾心を
    持っています。

    なぜかというと、国家権力の一つである司法権=裁判も
    打倒・覆滅解体および断罪すべき対象であるにもかか
    わらず、その国家権力の行使に直接庶民、市民、国民が
    参加することは、何とも我慢のならないことなのです。

    かって小沢一郎や民主党が”国民の生活が第一”というス
    ローガンを掲げ選挙に大勝したことがありますが。
    今ではなぜか国民という冠(カンムリ)がとれて、”生活
    が第一”というスローガンに置き換わっています。

    やっぱり国民という言葉は禁忌なのでしょうか・・・
    それとも生活とは在日の生活を指すのでしょうか??

  • 橋下と石原はなぜ決裂したか・・・




    橋下、石原ともにカジノの日本導入には積極的です。

    問題は、在日がやっているパチンコをどうするかということです。

    石原は、パチンコの全廃を主張しました。

    ところが橋下は最大の資金源である在日パチンコ屋の解体に

    猛烈に反発したのです。

    パチンコは韓国ではすでに、国民生活に極度の害を及ぼすとして

    禁止・全廃されました。

    アヘンを中国人に売りつける英国人は自らは決してアヘンを吸わない。

    同様に、在日は決してパチンコをやらない。

    在日は実に利口である。


    こいつが橋下の財政パトロン、民団の団長でパチ屋と呼ばれる

    デブ呉公 ↓

  • 在日韓国朝鮮人が密航者であるという証拠 …




    戦後(昭和21年・1946年)の密航朝鮮人取締りの記録


    2014年10月25日



    特別永住者
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%B0%B8%E4%BD%8F%E8%80%85

    特別永住者(とくべつえいじゅうしゃ)とは、平成3年(1991年)
    11月1日に施行された日本の法律 「日本国との平和条約に基づき
    日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」により
    定められた在留の資格のこと、または当該資格を有する者をいう。

    米国戦艦ミズーリ艦上での日本の降伏文書調印日(昭和20年
    (1945年)9月2日)以前から 引き続き日本内地に居住している
    平和条約国籍離脱者(朝鮮人及び台湾人)とその子孫を対象とし
    ているが、 実際には朝鮮、韓国系の特別永住者には戦後の密航者
    が多く含まれる。

    平成23年(2011年)末時点での特別永住者の実数は、前年より
    1万23人減少し38万9083人である。
    国籍別では「韓国・朝鮮」が38万5232人と99%を占める。


    昭和21年度 密航朝鮮人 取締に要する経費追加豫?要求書↓

    密航朝鮮人取締に要する経費内訳↓

本文はここまでです このページの先頭へ