ここから本文です

投稿コメント一覧 (2012コメント)

  • >>No. 19571

    >送信した後ディディモさんのことをかき落としたのに気づき、どうしよう……と、思って
    いる間に ご本人様からご挨拶をいただいてしまいました。
    ディディモさん、私の不手際をお許しください。
    そして、メッセージ ありがとうございました。<

    いえいえ、そういうことは本当に気になさらないでください・・私の方はそういうことを気にするような繊細な性格を幼児期の成長の過程でどこかに落とし忘れてしまったような、全くの無粋者です・・まったく気にしておりません。^^

    丁寧な返信をいただき・・
    ixtlanさんの部屋で、骨壺を見つめるmuwa さんの視線が痛かったです。

    どうか気を落とさず・・
    健やかにお過ごし頂ける日々が還ってこられますよう・・祈っております。

  • 2017/11/11 23:30

    そんじゃ・・GOOD NIGHT !

    はは、英語がうつってしもうた・・(;^ω^)

    https://www.youtube.com/watch?v=WVCiV-uBF_A

  • あったぜよ!・・やっぱこのトピに。 (^-^)

    ============

    18158

    卑弥呼
    11月4日 07:57


    (3)死への勝利

     一コリ15:54-55節でパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」という旧約の言葉(イザヤ25:8、ホセア13:14)がイエスの「復活」において実現したと宣言しています。これまで人間は死の恐怖に怯えながら生きたが、イエスの「復活」によって人間はもはや死の恐怖から解放されたということです。イエスの「復活」という出来事によって、わたしたちも必ずイエスと共に「復活」すると神が約束してくださった以上、わたしたちはもはや死を恐れる必要がないのです。

  • >>No. 19400

    >パウロの金言って何だっけ?(笑)

    有名な、あまりにも有名な・・これ↓です。・・ありやぁ~、このトピじゃなかったっけ? ^^;

    【死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか】(第一コリント15:55)

  • >>No. 19304

    >私たちがイストランさんの、病状を知った時点からの対策としては、代替療法がベストでしょう。これは間違いないと思います。
    実際、医師の宣告の期間がとうに過ぎていても、元気に投稿できていたことが、何よりの証拠です<

    はい、わたしもそう思います。^^

    イストランさんは、お堅い主題を好んで書く方でしたが・・その反面、どこかにユーモアを隠し持っていて、楽天的な気質もお持ちの方だからあれだけ元気に投稿できたんでしょうね・・さいごまで、自分は治ることを目指しているんだという気概が嬉しかったです。無理なカラ元気だったらと、本当はハラハラしていましたが・・。

  • >>No. 19242

    そうですね、それにもまして
    muwa さんによると・・苦しみもなく、そこそこ穏やかに闘病を続けていたということですから、それが一番良かったです。

    卑弥呼さんがUPしたパウロの金言、よかったですよ。^^

  • >>No. 19290

    一度床についたのだけど、イストランさんの死が悔しくて、あれこれ考えるうちに目が覚めてしまった。
    で、寝酒をチビチビやりながらの投稿です。

    >民間療法の選択は、第一義的にイクストラン君自身の意思であっのだ

    それはそうなのだけれど・・そして今年の夏の段階で標準療法が出来ないということが判って、僕らは代替療法でいくことを前提として、あれこれの療法を勧めてきたのだけれど、いまだスッキリとした気持ちの収まりが出来ないのも事実なんです・・。

    イストランさんには心臓疾患のカテーテル手術歴があって、外科手術が出来ないことを知った衝撃は、私としてはデカかったんですが・・それでもやはり標準療法を勧める人達もいて・・それはそれで判らないことではないけど・・それはつまり、標準療法という名の抗ガン剤療法のことであるのは明白なことだった。こういう人たちはその名を使わず、標準療法をと言い張っていたたけど、実態は抗ガン癌療法をやれと言ってるに等しい。そして、もうひとつの放射線療法にしても、外科手術に較べては各段に効果の劣る療法であるのもコモンセンス。
    また、それらをやって癌細胞を小さくしてからの手術ということも医師の言う常套句ですが、それを続ける内に癌細胞に耐性が出来るのかどうか。その辺はよく判らないが・・小さくなるという・・思わしい結果が出ることは少ないようです。現に私の義兄もそのケースを辿ったが手術に至らなかった。他の人たちのケースでもそれが成功したという話は聞いたことはないです・・まぁそれは医学の素人である私が奏功した例を知らないだけかもしれませんが・・。

    それらを鑑みると、やはり外科手術の威力は絶大だと言わなければならない。それが出来ないとなれば、またそれを本人が望んでいないとなれば、やはり副作用で命を縮める危険性のある抗がん剤・放射線療法よりも代替療法の方が良かったのではないかと思いたいのです・・いま「思いたい」という、気の弱い願望表現にしましたが・・しかし、それが結果的に正しかったのかどうかを判断できるのは・・神の領域でしかないでしょう。

    あぁもうこんな時間・・はやく」寝なくては。

  • >>No. 18725

    >大変残念なお知らせですが、11月8日未明
    ixtlan は永眠いたしました。<

    muwa さん、ご報告ありがとうございます。そうですか・・亡くなられましたか・・残念です。

    8日のことだったんですか・・わたくし丁度その日は長旅の最中で、フト長らく掲示板を閲覧していないなー、ixtlanさんどうしているかなぁ・・と、一瞬そのことが頭をよぎったのですが・・いま思うと、あれが虫の知らせであったのかも知れません。

    とにかく、ここにいる皆はixtlanさんの純粋さを愛していました・・議論において決して諂うことなく、堂々と自分の思うところを書いていました・・闘病生活においてもそのままの姿勢を・・自分の信ずることを真っすぐに歩まれる姿を・・まざまざとお見せになりました。立派です!!

    ixtlanさん、ゆっくりお休みください・・そして、またどこかで会いましょう!!

  • ところで、わたしは明日から2週間ほどPCから離れます。

    レスがあっても返信できませんから悪く思わないでくださいね 。m(__)m

  • >>No. 1514

    >ケンブリッジ大の研究グループによると、ヨシュア記10の12、13は知られている限りでは最も古い日食の記録だそうで、その時期が計算でわりだせるようですね。

    へぇ~、ヨシュア記のあの箇所を日食の現象とみましたか・・

    あるファンダメンタル・クリスチャンは、世界中の暦は一日ずれている、なぜならヨシュアがこう言ったからだ・・と宣ったそうです。(^0^)

    ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った。
    「日よとどまれギブオンの上に
    月よとどまれアヤロンの谷に。」
    日はとどまり
    月は動きをやめた
    民が敵を打ち破るまで。
    『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。(ヨシュア記10:12~)

  • こう見てくると・・マルコ伝にある「 And Jesus said, I am:」邦訳では『イエスは言われた。「そうです・・」』この言説は、真のイエス自身の肯定の言葉だったという解釈はそもそも成り立たず、このイエスの言葉はなかった・・福音書記者マルコがイエスの伝承を収集する時、ルカやマタイの収集した伝承との混同・混乱がみられるのではないかと・・つまりマルコのこの記述は他の福音書に比べて史実には遠いのではないか、疑わしいのではないか・・と私は個人的に考えております。もちろん一ディレッタントの勝手な意見に過ぎないのですが。

    やはり、“イエスがI amと言った”というのは、サンヘドリンの司をした大祭司、律法学者、パリサイ派のでっち上げではないかと私は思っています。その伝承をイエスの死後30数年たってマルコは収集したのではないかと。そしてルカ・マタイ・ヨハネには別系統の伝承が資料としてあったと・・そういうことで四福音書はああいう形態になったんでしょう。

    ただマルコ伝は、最古の福音書と言われており、一般的には史的信ぴょう性は高いと言われております。(まず60年代にマルコ伝が成立、そのあとマタイ伝とルカ伝が80年代に成立、最後に90年代にヨハネ伝が成立したとみられています。ということで、マルコ・マタイ・ルカの共観福音書に平行個所が多いというのは、マタイ伝とルカ伝はマルコ伝の“原マルコ”と言われる資料を下敷きにしているからです・・それプラスそれぞれの独自資料、それプラスQ資料・・これでその二つの福音書は成り立っています。したがって先行してあったマルコ伝の史的信ぴょう性は高いというのは判るのですが、ことこの裁判の事例の場合に限って、あえてマルコよりもマタイ・ルカ・ヨハネの記述の方が信ぴょう性が高いと判断しました。)

    これらのことは私の独断と偏見で書きました、決して信をおかないでくださいね。^^

  • から・・イエスは言われた、そうだ・・となりますよね。とくにI amは前に説明した通りモーセがヤハウェから直接聞いた言葉ですから、神を隠喩している・・この言葉を相手の問いに対して強く肯定したと解釈するのは当然のことです。

    しかし、ルカ伝とマタイ伝ではどうでしょうか。

    ルカ伝でも「I am」 は使われております・・ただその前後を見てみると、 Ye say that I am.(あなた方が言った、そうだと)ですから、マルコのようにJesus said, I am:(イエスは言った、そうだと) といったわけではありません、言ったというその主体が、ルカではあなた方、マルコではイエスです。
    ですからルカ伝でのイエスの言葉は新共同訳では「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」となっているのですが、これは1世紀のユダヤ人の場合、相手の問いを否定する語法であったと主張する学者がいる、と前にも紹介した通りなんです・・・「あなたが推論していることであって(私は何も言っていない)」とか「それであるが、その内容の解釈には同意しない」と書いてます。(No1481)

    マタイ伝ではどうか。
    こちらは「I am」は使われていませんが、大祭司の問いに、やはり「それは、あなたが言ったことです。」と答えております。英訳ではThou hast said:云々ですね。つまりこれもイエスの言葉ではありません。Thou(あなた)が言った言葉です。

    あとヨハネ伝がありますが、これは共観福音書(マタイ・マルコ・ルカの3書)とは違う系統の福音書ですので、史的イエスや裁判の史実を探るには注意してみなければなりませんが・・そこでは、単に「大祭司はイエスに弟子のことや教えについて尋ねた」とあるだけで、具体的に、神の子か?とかの問いはありません。それはないのですが、ピラトの方に身柄を送られた後、イエスが「わたしの国はこの世には属していない」と言うと、最後にピラトは「それでは、やはり王なのか」と問います。それに対するイエスの答えが「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」(ヨハネ伝18:37)と・・やはり同型です。

  • その英訳↓です・・マタイもthe Son of Godです。
    【But Jesus held his peace. And the high priest answered and said unto him, I adjure thee by the living God, that thou tell us whether thou be the Christ, the Son of God. Jesus saith unto him, Thou hast said:】

    この↑二福音書が、Son of the Blessedとしているマルコ伝とは違う表現なんですが・・ついでにそのマルコ伝も再び引いておきましょうかね。

    【しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。
    「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」】(マルコ伝14:61~62)
    その↓英訳です。たしかにSon of the Blessedになっておりますね。そしてイエスの返答も追加して載せましたが、イエスの言葉では「人の子」the Son of man になっています。先ほども言いましたが、これも微妙な、あまりにも微妙なところ・・です。^^
    【But he held his peace, and answered nothing. Again the high priest asked him, and said unto him, Art thou the Christ, the Son of the Blessed? And Jesus said, I am: and ye shall see the Son of man sitting on the right hand of power, and coming in the clouds of heaven.】

    >61での質問に対して、イエスは62で「I am 」(そうだ)と言っていますね・・・

    >どう思われますか?

    で、肝心な質問のその件なんですが・・たしかにマルコ伝では「I am 」(そうだ)となっていますね。前後を見ても・・ And Jesus said, I am: です

  • >>No. 1513

    >おそらく、BBCやContemporary English Version (CEV)等は現代的に、その隠された神のコードネーム(Blessed またはBlessed One)の代わりにずばり「神」と置き換えたのではないでしょうか~?

    おそらくそうでしょうね。ですから Son of the Blessed を the Son of God とした場合、その意味を先取りした意訳になります。ここはやはり、直訳ふうの「ほむべき者の子」とする方が「神の子」よりも適切な訳ではないかと思います。というのは、神の子(the Son of God)はマルコ伝には使われていないのですが、同じ共観福音書であるルカ伝とマタイ伝の平行個所に使われているからです。これでは何のためにマルコがコードネームにしたか意味が判らなくなります。また後代の我々がそういう意訳を読まされると、なんだマルコもマタイもルカも同じキリスト観を持っていたのかと、特に聖書(文献)学的な見方が強いディレッタントには解釈の齟齬が生まれかねない・・と思います・・。
    要は、それほど微妙なんですね・・イエスに付ける冠の「神の子」「キリスト」「人の子」の使い方は。その三つが何であるか、が書けるとそれだけで一端のキリスト論になります。^^;
    で、それが使われているルカ伝とマタイ伝を引いておきます。

    まずルカ伝です。
    【そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」】(ルカ伝22:70)
    英訳↓です。見事にthe Son of Godになっております。(BBCはこのルカ伝をマルコ伝と混同したのかとも思っていました。)
    【Then said they all, Art thou then the Son of God? And he said unto them, Ye say that I am. 】

    そしてマタイ伝です。
    【イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。・・以下略 】(マタイ伝26:63~64)

  • >>No. 17348

    >本物の雪担和尚さんから、一応愚さんは認められていた。

    その事情は掲示板だけの人間には判らないでしょうね。
    二人は相性は悪かったけど、私が掲示板で雪担さんを批判がましく書いたら、愚さんはすぐに反論してくることがありました。
    愚さんは「私は何度もその点を雪担さんの処まで糾しに行ったんだ」と言ってましたね。
    二人はリアルの場で相当詰めた話をしているんですよ。

    何が二人の争点だったか?

    それは、最初は漸悟と頓悟の問題だったようです・・禅の世界では、中国禅以来の古典的論争です・・現代バージョンで崩していえば、一発悟り・・それを徹底的に問い詰めに行った。これは相手を好きとか嫌い・・や、相性の悪さ・・とかいう問題ではないし、お手軽な掲示板で解決できる問題でもないでしょう・・最後に雪担さんは「また私をいじめにくるか?」と訊いたそうです。あの世の世界まで?という意味だったかどうかは、私の記憶がはっきりしませんが。(-_-;)

    雪担さんは、俗人としてはゲスな人間でしたが ^^;・・じつは私も雪担さんの寺の門の前で佇んでいたことがあります・・新潟の地震の後で、県の重文か何かに指定されていた仏像がまだ傾いたままでした・・門前の小僧・・。(^-^)

  • >>No. 1511

    補足です。
    マルコ伝14:61ですが、昨日ASV版を引いて紹介してみましたが・・気になって、様々な英訳聖書を検索したところ、Godという文言を含む例文になっている英訳聖書が、少数ながら1~2割あることが判明しました。したがって、BBCの意訳のやり過ぎではないかとの私の疑念は誤りで、BBCはそれらの文言がある聖書を基にしてあのサイトを書いたのだろうと推測します。ですから意訳があるとすればその少数の英訳聖書の方です。牧師に確認したところ、原語のギリシャ語では、神という言葉は、そこ(マルコ伝14:61)にはないそうですから。とうぜん神の子でもなく・・ほむべき者の子、とするのが正しいと。

    ちなみに最も権威のある欽定訳聖書(KJV)でも【Art thou the Christ, the Son of the Blessed?】となっており、これは昨日紹介したASV版と同文であり・・BBCサイトにある神の子(Are you the Son of God?)とはなっていません。あと十数例調べましたが【Son of the Blessed one】とかの類型が多いようで・・そこにもGodという単語は見当たりません。

    少なくともGodという文言が入っているのは、古いところではウィクリフ版で【Art thou Crist, the sone of the blessid God?】です。あとEasy-to-Read Version (ERV)が【Are you the Messiah, the Son of the blessed God?】です。もうひとつ、Contemporary English Version (CEV)が、【Are you the Messiah, the Son of the glorious God?】です。

  • >>No. 1510

    >『マルコによる福音書』の中でのみ、イエスは「神の子」「メサイア」の質問に関して肯定をした、
    ということなんですが、これって本当ですか? これならビンゴ!ですよね・・・

    ===========

    そのBBCのサイトは一寸おかしいです。
    マルコ伝では、大祭司はイエスに「神の子」か?(Are you the Son of God)との質問はしていません。「メシア(キリスト)」」か、とは質問しています。

    新共同訳のその箇所では・・

    【 しかし、イエスは黙っていて、何もお答えにならなかった。大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。】 (マルコ伝14:61)

    となっております。

    その対訳の、American Standard Version(ASV)(1901年版)では、

     But he held his peace, and answered nothing. Again the high priest asked him, and saith unto him, Art thou the Christ, the Son of the Blessed?

    となっております。
    ここにも「神の子」は出て来ておりませんね。

    ただ「メシア」と「神の子」は、それぞれが時代とともに、少しずつ意味の変遷がみられるので、複雑に絡み合った中から一点だけ合致点を見出せば・・1~2世紀において「王なるメシア」という概念が「神の子」と「メシア」に共通してみられたということはあります。ですからBBCはそこを混同してかなりの意訳をしているんじゃないですかね・・。あるいは、前に引いたルカ伝の方には「神の子」が出て来ていますから、ルカ伝の間違いか勘違いか・・と思うのですが。

    まぁ、そのルカ伝22:70(マルコ伝14:61の平行個所です)では、「お前は神の子か」との問いに、イエス返答は「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」ですから、必ずしも肯定とはとれない、というのは前に言った通りですが。

    あと、異例な裁判だったということでabcのケースをあげておられましたが、これはいずれも正しいです。

    では、おやすみなさい。^^

  • >>No. 1497

    >メサイア(キリスト)は聖別された者、という意味だと記憶しているんですが、そうするとメサイア ≠JHWHですよね。 ただ、聖別された者とは、一般的には王であったり聖職者であったり・・ということなんだそうで、そうすると
    キリストがユダヤ人の王であるとピラトが思っても、問題ないのでは?という風にも感じました。

    あ、するどいですね・・そういうことなんですよ。そこが大祭司が「お前はキリスト(メシア)か?」と訊いた巧妙なところなんです。
    大祭司はキリストという言葉の裏に、世俗の王であるとの寓意を持たせて・・ピラトに告発しているんですね。そうすればローマも政治犯として処罰しなければならなくなる・・と。

    たしかに、キリスト(メシア)という言葉を聞けば、当時のユダヤ人の通念ではダビデ系の救済者で、正義と神聖さと武勇の才能を持った人間が現れることを期待していたんですね。ましてや旧約のセプチュアギンタ(古代ギリシャ語訳。通称七十人訳)では、キリストという言葉は受膏者(油注がれた者という意味で、油注がれることは聖別を意味します)という意味の普通名詞としていくらでも使われています。(キリストはギリシャ語でクリーストス、塗油するという意味であるクリオーから出た言葉です)レビ記では祭司はホ・ヒエロス・ホ・クリーストスです。サムエル記では、サムエルは最初の王のサウルの頭に油を注いでいます。ダビデも同じです。ですから祭司も、王も、クリーストス(キリスト)です。

    ただそのキリスト像が新約時代のイエスに当てはまるかというと、多くの学者は否定的に捉えているようです。
    「イエスの生涯と活動が、伝統的なメシア思想に照らしてみれば、すこしもメシア的でなかったという点については、共観福音書の伝承は何の疑いも許さない」と・・ましてやイエス自身はそれについては黙して語らなかったのですから・・。

    ただ新約時代以降、使徒や弟子達のキリスト像は当然違ってきていますね。それは初代キリスト教史の問題になりますが・・。

    まぁ、ピラトにしてもイエスが真に世俗の王であったか否かは、僭称も含めて当然知っていたでしょう、総督なんですから・・そのうえで「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(ルカ伝23:4)と言ったのではないかと思っているんですが・・。

    では、おやすみなさい。^^

  • >>No. 1502

    >ですからエゴエイミーは単にI am ではなくて、おそらく特別なI(私)を強調した使用になるのでしょうね。だからユダヤ人たちも、過激に反応したのかも知れませんね・

    あ、なるほど・・特別なI(私)を強調ですか・・そうですね!! ^^

    >その特別な私とはいわゆる・・・なのでしょうから。。。

    まぁ、ユダ人たちはトーラーによって・・みだりに神の名を呼んではならない、となっていますから・・他の言葉であるエゴエイミーが神を隠喩していることは、当然その前提になっているんでしょうね。ただ、イエスの真意はまた別の問題として取り上げなければならないんですが。

  • >>No. 1492

    >ただ、キング・ジェームス版ですと・・

    >Then said they all, Art thou then the Son of God? And he said unto them, Ye say that I am.

    ======

    欽定訳を引いて下さり、ありがとうございます。^^

    たださっそく、この「Ye」が分からない・・イェーと読むのかな、だったら間投詞かな、そういえばチャゲ&アスカの歌にイェー・セイとかあったような気もするぞ・・とかとか、ばっかげた想念ばかりが頭の中を駆け巡りました。^^;

    真面目になって検索すると・・これは二人称複数の人称代名詞の古語か、擬古文に使う言葉だったんですね・・知らなかった!!^^;こりゃあ確か、中高レベルの公教育では教えていないんじゃないかなぁ・・まぁ僕だけが習わなかったのかもしれませんが。(-_-;)

    それはともかく、「Ye say that I am.」ならば確かに「あなた(がた)は私がそうだと言っている」になりますね。

    ただこの I am.が曲者なんですよ・・新約聖書の原語であるギリシャ語だと、エゴーエイミ・・・エゴーが I で、エイミが am です。で、エゴエイミー。それだけだと「わたしである」という意味ですが・・ユダヤ人にとってはこの言葉が強烈なインパクトを与えるんです。というのは、この言葉はモーセがシナイ山で初めてヤハウェに会ったとき、その名を尋ねるんですが・・ヤハウェは「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えるんです。英語だと「I AM WHO I AM」です。奇妙な返答ですが、神が直接答えた名前ですから、ユダヤ人にとってエゴエイミー(I am.)という言葉には、特別な感性が働いて、聞くと目が引き攣って一気にアドレナリンが上がってしまう状態になるんでしょうね。イエスの言葉は、文法的には、そう言っているのはあなた方だ・・と答えているんですが、エゴエイミーつまりI am.という言葉だけにユダヤ人は過剰反応する・・というか、その言葉だけしか聞こえない・・といった状態になる。

    そのことが、前にも書きましたが・・この↓ようになった要因では、と思っています。
    【大祭司は衣を引き裂き「どうして、これ以上、証人の必要があろう。この汚し言を聞いたか。どう思うか」と全委員の意見を求め、死刑と断定した・・】

本文はここまでです このページの先頭へ