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投稿コメント一覧 (1928コメント)

  • 補足。アルチュール・ランボー「地獄の季節」から。

    もう秋か。それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。
     秋だ。俺達の舟は、動かぬ霧の中を、纜〔ともづな〕を解いて、悲惨の港を目指し、焔と泥のしみついた空を負ふ巨きな街を目指して、舳先をまはす。あゝ、腐つた襤褸〔らんる〕、雨にうたれたパン、泥酔よ、俺を磔刑〔たくけい〕にした幾千の愛欲よ。ーーー中略ーーー 冬が慰安の季節なら、俺には冬がこはいのだ。

    気持ち良いので・・もうひとフレーズだけ ^^:

    この俺、嘗〔かつ〕ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思つた俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ
    俺は誑〔たぶら〕かされてゐるのだらうか。俺にとつて、慈愛とは死の姉妹だらうか。

    それから、ランボーの略歴については・・こんなものも↓ありまする。^^

    https://www.youtube.com/watch?v=hy-z421FwGQ

  • もう秋か・・は、僕の感慨ではなくてランボーの囁きですが・・^^: そういえば、つい先日までは8月だったんですねぇ

    「八月の濡れた砂」石川セリ

    https://www.youtube.com/watch?v=482Lb-dTDJM

  • 私も明日から旅に出ますので、ネットはしばらくお休みです。月末くらいかな、還ってくるのは・・。イストランさん、あまり無理はせず 養生してくださいね・・。

  • >>No. 9790

    >それはともかく、お母さんの場合、丸山ワクチンで、どのぐらい寿命が延びた感じがしましたか?

    それは前にも言った通り、併用治療なので・・それ単独でどれほどの効果があったのかは判断できないです。

    わたしはどちらかと言えば、丸山ワクチンよりも新しい療法であるNK細胞療法とか樹状細胞ワクチン療法を勧めたいんだけど、いかんせん高額過ぎて、あまり強烈に勧めるに臆してしまう・・のです。

  • >>No. 9647

    > 神に我が子の命を差し出せと言われ素直に聞き入れた

    > あれは「ヨハネ?」でしたか、イスラエルの民のご先祖様?にも共通してるかもしれませんね?!

    あぁ、それは“信仰の父”アブラハムが、愛児イサクを神に奉献した有名な話ですね。
    この話はixtlan さんが探求している「宗教と倫理」というテーマに与する絶好のサンプルと思われますのであげておきましょう。殺人、それも我が子殺し・を神が命じるという壮絶な話ですが・・「往生のために千人殺せといはんに、すなはち殺すべし」という歎異抄13条の話が具体化されてます。両方とも、信仰とは何か?にかけた物語ですが、帰結は違います・・歎異抄は因、聖書は神です・・引用はわざとアブラハムが刃を向けたところまでにしました。興味のある方は聖書で続きを読んでください。^^;

    【これらのことの後で、神はアブラハムを試された。
    神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
    神は命じられた。
    「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
    次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
    三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
    アブラハムは若者に言った。
    「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
    アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
    イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。
    「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
    アブラハムは答えた。
    「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
    神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
    そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。】(創世記22:1~10
    )

  • 法相宗の根本経典は解深密経で、その根本論書は瑜伽論と唯識論等ですが・・その中に驚くべき文言がありました・・。
    (これ↓ヨハネスさんに紹介された書物の中公新書「徳一と最澄」P113にあります。)

    【問う、かの法華等、既に一乗と説く。故に定性の二乗も皆成仏すべし。何ぞ強いて五性を立てんや。答う、かの法華等は、これ密意の説なり。且(しばら)く不定性に約して一乗と説く。五性俱(とも)に成仏と謂うには非ざるなり。縦(たと)い一切と言うとも、これ小分の一切なり。無始より法爾の五性格別は改むべからざるが故なり。】

    一乗を説くのは法華の密意であり正説ではない。一切衆生「一切衆生悉有仏性」の一切も、小分の一切であり、全分の一切ではない・・と説いているんですね。

    これでは「一切」も「悉」も、世に喧伝されている意味とは全く違うことになります。

    それで、私が何より驚いたのは・・【全分の一切ではない】・・これが予定説の【特定救済主義】を説明するために、私がある方^^;に対してレスをした論理と全く同じ論理であることなんですね。(限定した中でのすべての人という意味で)いやぁ、これには魂消ました。↓歎異抄トピで、もう13年も前のことになります・・抜粋ですが。

    ====

    >キリストの救いを信じようが信じまいが、人類は皆が救われるとしています。

    わっはっは〜 これは珍教説ですな〜 まるで仏教の悉有仏性説を聞いてる心地がします。

    はっきり言いますが、キリストの救いを信じるものが救われるのです。信じないものが救われるわけではありません。これはパウロが信仰義認説としてロマ書3;21以下ではっきり説いています。

    イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。(3;22)

    あくまでも、信じることにより(与えられる神の義=救い)なのですよ。

    そして、ここのところ、目を木っ端開けて(?)よく見てください。「すべて」に係っているのは「信じる者」ですぞ。つまりウッカリ読むと、「すべて」とあるので類(るい)としてのヒト、要するに人類すべてと読み込んでしまいますが、あくまでもこれは「信じる者すべて」というのであって、信じる者という限定を表わした上で、その「彼らのすべて」を意味しているのです。ですから“人類は皆が救われる”わけではありません

    ====

    また夜にでも。

  • それではおやすみなさい。!(^^)!

  • 2017/08/07 23:45

    無いのです。

    ですから、この論理だと悪人も救われることがあり得るではないかと問われれば、その通り、・・・といわざるを得ません・・・。その夢想がパウロに行き、親鸞に行き、ラスコーリニコフに行き、麻原に行き、永山則夫に行ったのです。

    戻って

    だからといって、神は不正といえないのはパウロがロマ書9−20で言っている通りです。

    だが人間よ、神に口答えする貴方は何者か。造られた者が造った者に向かって,「どうしてあなたはこのように造ったのかといえようか。つぼ造りは同じ土くれをもって、尊いことに用いる器と卑しいことに用いる器を造る権利をもっているではないか」

    ただ、これから先は論理のひっくり返しがあります。つまり、予定説は逆因果律でもあるということです。要するに、善悪の問題で捉えれば、

    善きことをするから神が予定(救済するとお選びたまう)するのではない。
    神が予定した人だから、この人は善きことをするのです。

    悪しきことをするから神が予定しない(救済すると選びたまわない)のではない。
    神が予定しない人だから、この人は悪しきことをするのです。

    予定説(predestination)は目的論(te-leology)ですから当然です。

    ところで、召命ですが、これも一方的に神から来るのです。

    エレミヤのことは前に書きました。今日は内村鑑三の例を出します。彼は告白しています。

    私は神の摂理に余儀なくされて、むりやりキリスト信者となさしめられた者であります。(キリスト教問答)

    パウロのロマ書は福音を告げるため選び分けられた、イエズス・キリストの奴隷パウロより」と、書き出されています。パウロは終生、使徒として己を規定していましたが、パウロを使徒として選んだのはイエス・キリスト(神)であり、パウロが自らの意思決定によって使徒になったのではありません。

  • やはりこれ↓貼っておきます、これでも前半の文だけで端折っていますが・・。

    論理のひっくり返しのところ面白いです。」^^:

    >5893ディディモさんへ

    前のレスのように皆さんに倣って1問1答でレスしようと思いましたが止します。書いてる最中は、丁寧に誠意を見せてレスしているように思ってしまうんですが、それをやると重箱の隅を突付く事にもなってしまうし、揚げ足取りになってしまうような気もします。あんまり良い方法ではないナーと思ったからです。それよりも重要な問題点だけを抽出し総論的に書いたほうがよほど意を伝えられるではないかと思いました。そのような方法で書きますからお許しください。

    結局、煎じ詰めると何が問題なのか?というと私のキリスト教理解にあると考えます。「キリスト教を根本的に誤解している」と言う私の言葉は私の理解しているキリスト教に照らし合わせて、という意味であるのは論を待たないと思います。したがって、ここはどうしても「私のキリスト教」を開陳しなければ筋が通らないし、誤解の素だということになってしまいます。限られた文字数の掲示板での私の筆力では困難を極めますが、要約に要約を重ねて説明したいと思います。

    「私のキリスト教」の要諦は予定説(predestination)です。

    予定説とは何か

    神が、あらかじめ(voher)定めること(bestimmung)をいいます。

    何を。

    恩恵(grace)によって救われる人とそうでない人との選別を。

    キリスト教の救いとは、永遠の命を得ることですから、神の恩恵が与えられた人は救われ永遠の命を得ます。神の恩恵が与えられず救われなかった人には・・・永遠の死あるのみです・・・。これが究極の要約です。

    後はそれにいたる説明です。

    神はまったく無条件で救う人と救われざる人を選別します。
    その人の行為はまったく斟酌されません。ここが因果律の仏教とは根本的に違うところです。因果律は果に対して徹底的に因を求めます。善因善果がそうですし、結局、宿業に行き着きます。芥川の「蜘蛛の糸」にカンダタに糸をたらした釈迦の因が鮮やかに書かれています。ところが、予定説の場合はその人の善行、修行、悟り、能力、人格、いっさいが神の予定に影響されることがありません。神は全く一方的に救う人と救われざる人を選別します。人間の側の救われるための条件は全く

  • >>No. 9609

    あぁそれから、予定説の絶対他力との関連性はどうか、とのお尋ねがありましたが、これはもう予定説は真宗以上に絶対他力です。なにせ人に自由意思はないとしていますから。

    つまり、カルヴァンは神の主権や栄光が絶対としているんです。。ゆえに、神が与えるその恵みは、人間の意志でどうにかできるものではない、神様に選ばれた人間が神様の恵みを拒否することは不可能です。

  • 2017/08/07 23:00

    >>No. 9530

    > 続きです。
    > 仏性という仏の種など微塵もない極悪人と見抜かれたのが
    > 阿弥陀如来
    > だったんですね。
    > 予定説の「絶対他力」との関連性はどうですか?
    > 悪人正機の「純粋他力」との対話も面白いかもしれませんが、どうなんでしょう?

    実は、三吉さんとは前に貼った長文に至る前にも色々なやり取りがあるのですが(増々長くなるので、恐縮してそれは貼りませんでしたが)そこで予定説の概略を説明しています。その中には「仏の種」があるやなしやに関連する部分にも言及しております、この↓部分です。

    【予定説の場合はその人の善行、修行、悟り、能力、人格、いっさいが神の予定に影響されることがありません。神は全く一方的に救う人と救われざる人を選別します。人間の側の救われるための条件は全く無いのです】

    つまり、人間の側に仏の種があるやなしやなど神は一向に斟酌しない・・という事ですね。「人間の側の救われるための条件は全く無い」という事ですから・・そうなります。ということは、その人が悪人であろうが、善人であろうが、救いには全く関係ありません。従って、真宗のように悪人こそ救われるとまでは言っていませんが、悪人が救われることはあり得る・という事になります。まぁ、「プレ悪人正機説」とでも言っておきましょうか。(^^)
    (ただ、実はここの処は、その次に論理のひっくり返しがありますからねぇ・・どうしよう、ここは面白いところだから・・やっぱり、あとで貼っておきましょうかね・・。)

    要するに、予定説は・・私がお世話になった教会の用語で平たく言うと・・救いは【特定救済主義】なんです、救われる人と救われざる人がいる。これをパティキュラー(特定救済主義)バプテストと言います。(パティキュラーとは、特定という意味です、キリストの恵みは神に選ばれた特定の人々に与えられていると説いたカルヴァンの神学に立つバプテスト)
    もう一つは、キリストの恵みは、信じる【一般の人々】に与えられると説いたアルミニウスの神学にたつバプテストで、これがジェネラルバプテストです。

    ただ、キリスト教はですね・・特定救済主義をとる教派だけではありません、万人救済主義や普遍救済主義をとる教派もあって様々です。わたしが、仏教では無性の別を説く法相の五姓各別説に興味を抱くのは、パティキュラーであるという、そういう理由からなんです。

  • 2017/08/06 20:58

    >>No. 9485

    >これだけ全部やる。

    こんばんは、ixtlan さん。
    色々お試しする予定のようですが、免疫療法はどうですか?
    30年ほど前、わたしの母が癌を患った時には丸山ワクチン(当時はそれくらいしかなかった・・)を打っていました。併用治療ですから、それ単独の効果がどれほどあったか判断はできないのですが、今は当時とは比べ物にならないほど色々なものが開発されているようですよ。NK細胞療法とか樹状細胞ワクチン療法とか・・。利点は副作用が少ないこと。欠点は保険適用外で高額なこと。参考までに。

  • >>No. 9444

    >仏性を潜在的に誰にでも「有る」という立場には親鸞はたってません。
    >仏になる「因」を持ってるとも言いません!!
    >所謂 仏性=如来蔵 を 実体化・普遍化してしまうと批判される「如来蔵思想」や
    >天台・法華の十界、三千世界の立場もとらないんですね。
    >むしろ真逆で
    >我ら凡悪には仏になる種・仏種=仏性などさらにない。
    >詰まりは 無慙無愧の一闡提 という事ですね!!!

    >徳一に文句なしで軍配を上げてると領解できます!!!!

    ================

    いや~、驚きました・・親鸞が徳一に軍配を上げるとは思わなかったので・・。
    そもそも鎌倉新仏教の祖師たちはみんな叡山出身なので、最澄大先生の方の肩を持つとばっかり思っていました。日蓮さんも、親鸞さんも、道元さんもまたしかり、と・・。私はそれほど「一切衆生悉有仏性」という経文言は日本の(大乗)仏教では普遍化していると思い込んでいましたし、ネット掲示板(特に禅系)でも、元々アンタは悟っているんですよ、と・・講釈垂れる輩を何人見たことか^^・・・五姓各別説と出会うまでは。(;'∀')

    サンネさんが言う【仏性が潜在的に誰にでも「有る」という立場に親鸞は立ってない】・・これはもう明確に「一切衆生悉有仏性」という経文言がある涅槃経に対する造反ですよね。これは五姓各別説でいえば、第五の“無性有情姓”つまり"無仏性"の者もいる、つまり悟れない・成仏できない(救われない)ということでしょう・・浄土門でいえば往生できないでしょうか・・それが、我ら凡悪の姿だというわけですか・・さらにはそれが親鸞自身の姿でもあると・・こういう事でしょうか?。

    さて、それがどのように結果的には救われ尽くすことになって行くのか・・無仏性の立場に立てば、涅槃経だけでなく、唯除文を抑止の為(つまり、五逆と誹謗正法の者でも救われる)と解釈した善導の観経疏にも造反することになるのですが・・。(;'∀')アセアセ

  • >>No. 9370

    >テルゼの神のハタラキ・メタ宗教なるものをディディモさんはどのように見てるんですか?

    いや、彼女はもう掲示板から去っている筈ですが。( -ω-)y─┛~~~~~

  • >>No. 9349

    >たしかに、加害者の行為は仏性のかけらも微塵もない感じがします。 ただしまだ仏縁にあっていないからでしょうね。 牢獄のなかで仏縁に出会えればよいのですが、命の大切さをしらない現代の人たちはこの加害者によくやったと、差し入れをするものも多くいるようですよ。

    あの加害者によくやったと差し入れ? いくらなんでもフェイクニュースでしょう・・どこでそんなこと言ってました?・・信じられません。

  • >>No. 9392

    サンエさんはこの↓唯除文について、何か見解ありますか?

    「五逆と誹謗正法は除く」となっていますが、往生できると思いますか?

    ===============

    >三吉さんはそこで、あの第十八願の唯除文について言い及んでいます。

    (たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 )

    これ↑ですね。彼はこれを【抑止】と読むんですね。善導の『観経疏』に依るんですが・・。

    この主張は彼の投稿の中で以後にも何回も出てきます。つまりは、要するに、五逆と誹謗正法の者でも救われるということでしょう。

    ところが私はそこのところ(ただ五逆と誹謗正法とをば除く)をまともに読んでいます(以下略)

    ===============

  • >>No. 9293

    > おはようございます。 

    > 最澄は法華一乗をたて、誰にでも仏性は具わっているとして誰もが悟りを得ることができると主張した。
    > 徳一は仏性の無い無性の衆生は、仏果を悟ることは絶対出来ないと主張するのが、徳一ですよね。

    > この違いですよね。 私はやはり経典に従って悟りに至る可能性はどのような人にも具わっていると思っています。

    > 私達の心は極悪人でも地獄や貪りの心から、時には菩薩や仏心というような心も具わっていると思うがいかがですか?

    > 合掌

    ================

    先日もTVニュースで、相模原の身障者大量殺人事件の被告が車で護送されていく映像が流れていましたね・・あの被告は笑っていました。

    sankoutensiさんは、あの被告に仏心がおありと思いますか?

    【具わる】という言葉はファジーに過ぎます。具わっているけれども現出しなかったという説明も可能ですから。そうではなく、貴方があの映像を目にした時のそのままの心象でお答え頂きたいのです。

    ・・いや、ただ・・その具わっているけれども現出しない云々の理屈は、伝教大師最澄が法華秀句で展開していたという記憶があります。その論書は十三年前 青しそさんから紹介された時 直ぐにネットでその断章を読んだのですが、現世で救われ(悟り)得なかったとしても、来世で救われ(悟り)得る・・したがって五性格別説は誤りだという論理展開だったと あやふやながらも記憶しています・・。

    しかしそれはどうでしょうかね、たしかに来世や輪廻転生という因果律を持ち出すのは仏教では正統かも知れませんが、それですべてを言い包めてしまうのは、いかにも牽強附会のような気がします。具わっているけれども現出しない・・それが【悉有仏性】でしょうか・・だとすれば、それが何だというのでしょう?いつかは現出するから人に仏性はある??・・それではいかにも理屈が過ぎるような気がします。まぁ最澄さんは頭の良い方なんでしょう・・だからこそ仏教原理を持ち出して論述できたんでしょうが。

    しかし私としては、徳一のように 人には生まれながに五性がある「無性の者もいる」とした方が、現実に悟れる人もいれば悟れない人もいるのですから・・よほど理屈に適っているような気がするのですが・・。

    註:五性とは 菩薩定性 縁覚定性 声聞定性 不定性 無性の5つ。

  • 対してあてられた「公同書簡」と違います。
    つまりこの書で縷々述べられる要旨は、前の投稿で私が展開した特定贖罪説(人類全般ではなく、特定の人に対する贖罪)をその書き出しから宣言したようなものです。この書物で書かれている、信仰義認による救いは、あくまでも神に召されて聖徒となった「ローマの人たち一同」に対してなのであって、イエスは彼らのため死に給うたのです。パウロは決して抽象的な人間に対して説いているわけではないのです。繰り返しますが「ローマの人たち一同」に対して説いているのです。
    神に召されて聖徒となったのは、神が一方的にそう予定したからです。神の予定は拒絶が不可能ですからローマの人たちの中で望んで聖徒となった者は一人もいません。聖徒となった事はすべて神の恩寵によります。
    すべては

    天地創造の前に、神は私達を愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 (エフェソ書1;4)

    と書いてある通りです。

    これがパウロ書簡において予定説を説いているとする最大の用例です。

    そのほかロマ8;29~30、も良い例ですね。

    同9;12~13は善も悪も行わぬ先に神の予定が下ったという例です

    また、同9;20はNo5916,No5917で触れた事ですが神の絶対性をたくみに表わしていると思います。

    第一コリント2;7も予定説ですね。

    そのほか注意深く読めば、ドブ川からメタンガスがブクブク湧き出でるように、その言説を見ることが出来るでしょう。

    以上、論旨は乱れに乱れましたが、予定説について吹いてみました。

    ***************************

    長々とご清聴、ありがとうございました。m(__)m m(__)m m(__)m

  • 真の〝人間イエス〟が真の死者から蘇った、ということであり、それは生物学的蘇りであり、宗教ではなく科学であって、そんなスタンスを百年採っても信仰には行き着かない、という声がどこからか、聞こえます)(←この括弧内は乱れていますから、無視して読んでくださっても結構です)それはそれで受け入れるしかない、と腹をくくったのです。
    それを〝ラッキョの皮むき〟になぞらえて、結局剥いていったら何も残らないよ、と言ってくれた牧師さんも居ります。〝宣教のイエス〟の皮を纏っているからイエスなのです、と言いましたがね。
    ぶっちゃけた話、福音書に書かれている事柄は事実性という観点からは嘘八百なのだということです。
    アッタリマエの事ですが ・・・。

    話しが少し脱線気味になりましたが、とにかくパウロです。

    わたしはパウロの本質を伝道者とみます。

    だからこそNo5916,No5917で書いたように伝道に都合の悪い事はそれとなく匂わす程度に書きます。表向きは誰もが救われるという(その〝誰も〟が実に曲者なのですが)甘ったるい衣で包み隠していますが、本気で彼の書簡を読めば予定説の言動がポロリポロリはげ採られるように漏れてきます。

    パウロはユダヤ人にはユダヤ人の如く、ギリシャ人にはギリシャ人の如く、語る能力がありました。伝道とは相手のあることであり、その相手の常識の前提に乗って話さなければ、何も伝える事はできない、と先ほど書きましたが、書簡にもそれが言えるのではないかと思っています。ロマ書の書き出しは次の言葉で始まっています。

    キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使途となったパウロから・・・中略・・・神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。(ロマ書1;1~7)

    この挨拶一文で予定説のエッセンスを表わしているとさえ思えるのですが、ここで注意すべきは、ローマの人たち一同へ、と書かれた通り、この書は明らかな受取人を指定している事です。(勿論、ロマ書は新約聖書の正典に入れられた位ですから後世、諸教会で朗読された事は事実です。しかし成立時はあくまでもローマの聖徒にあてて書かれたものです)この点、ペトロの手紙等にみられる、諸教会一般に

  • 2017/08/04 11:42

    に終わります。

    むりもありません、パウロは

    「神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」(同17;31)

    と、〝復活〟という相手の常識外のこと、誇り高いギリシャの哲学者にとっては非常識なこと(あるいは現代の我々にとっても)を言わねばならなかったからです。

    ともあれ、パウロが大伝道者である事は論を待ちません。
    新約聖書27書の内、パウロの名による書簡は(彼の弟子筋や思想的後継者のものを入れて)半数に当たる13書に及び、その意味でも新約聖書の主役はパウロです。
    福音書にしてもマルコとルカは、その著者をパウロ書簡や使徒行伝に出てくる者と同一人物とすれば(異論はあります)パウロの弟子。つまり二福音書共にパウロの息がかかっているともいえる。更に言えば、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はすべて原マルコとQ資料と独自資料をもとに創られた事が解かっていますので、原マルコを下敷きにしている以上、三福音書はパウロの思想そのものを共有しているとまではいえないにしても、パウロの〝影〟を否定する事は出来ない。
    そのうえ福音書の成立はパウロ書簡より時代が下る。最も成立の早い新約聖書は書簡の第一テサロニケでAD50年頃、対して福音書の中で最も成立の早いマルコでさえ、おそらく60年代後半。

    つまり、こういうことが言えるのです。

    (福音書を通した)テルゼさんのイエス像は〝嫌い〟なパウロのメガネを通したイエス像である事の否定は出来ない、とね。

    そこでパウロの視線から解放し、また、福音書から付加やケリュグマ等を整理してイエスを問い直すと、そこから何が見えてくるのか、それは真のイエスとはどういう〝人間〟であったか、また、真のイエスは何を語ったのか、ということを探求するスタンスでもありますが、それがつまり前にも言及した史的イエスの探求ということであり、そのスタンスを私はあくまでも、採りたいのです。
    そのことを徹底的に追求していって、その先に〝信仰〟というものが待っているとしたら、(そんなものが待っているはずがない、史的イエスの探求とは事実性の追求でしかなく真理を得ることではない、復活の事実性の追及とは

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