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投稿コメント一覧 (855コメント)

  • >>No. 78

    >最初に私が言ったのは、96条に国民投票を謳いながら、国民投票を経ていない現行憲法は果たして正しく憲法足りうるのか?また、憲法を国民投票にかけることで、憲法制定権力を一度も顕現させていな国民とは、果たして主権者たりうるのか?
    というものです。議論の発端はそこですね。

    はじめまして。人権トピに居座るyoiyoiと言うものです。横から失礼します。

    (mica氏とのやり取りは一段落ついたようなので)
    ひとつ伺いたいのですが、
    上記国民投票(多数決)をされたうえでの憲法ならば、すべての国民にとって「正しく(正当な憲法)」となるのでしょうか。(いまのところ私は、多数決に同意した一部の国民内での正当性止まりであり、すべての国民にとってとはならないのでは、との立場です)

    (139もよみましたが)結局、多数決「国民投票」に同意しないある国民「一主権者?」にどう正当化できるか、という多数決の正しさ(正当性)の問題になってしまうように思うのですが。

    もちろん私は、仮に私yoiyoiが採決に同意して多数派になっても、正当化できるのはその採決に同意した人に対してのみであり、採決に同意しないもの(参加しないもの)には正当化できない。との立場です。

    もしレスしていただけるのなら、人権トピでも構いません。

  • 2013/01/09 14:23

    >>No. 154

    どうもです。
    micaelさんとは、前の倫理学トピでやり取りさせていただきました。

  • >>No. 157

    レスありがとうございます。
    mica氏とのやり取りが続くようなので、以下レスさせていただきますが、mica氏を優先していただいて構いません。


    >いや、それは憲法以前の前提の問題だと思いますよ。つまり社会契約の問題です。

    はい、そのあたりのことを(も)伺いたかったのです。

    私は人権トピに居座っていますが、
    私は、人権思想を「個の尊重」として支持するのであり、個ではない一般性を尊重せざるをえない法(憲法云々)による強制では個の尊重は出来ない、との立場です。法は、一般性を尊重し、圧倒的腕力を使って人権「個の尊重」を制限するためのもの。と捉えています。


    >当然、この国家建設の約束の中には、国家の意思の統一も含まれています。意思統一しなければ国家はバラバラになってしまうわけですから。

    すみません。すべての人の意志統一ができずバラバラであっても、いわれている国家はある人たちによる意思統一による実力行使で成り立つのでは。。以下のべられている反乱云々もある人たちによる実力行使(腕力勝負)ですよね。


    >それは問うても無意味なのだと私には思われます。

    私は、全員一致でなければ何もするな(何も出来ない)。と主張しているわけではありません。。同意了解しないものに対して強制するのなら、その強制には、多数原理の民主主義であっても、正当性「権利」がないこと(強制に従うことは「義務」とはならず反乱抵抗できること)を主張したいわけです。


    >現行憲法は改正可能ですから、いっそのこと、あなたが「96条を全員一致にする会」などを作って、「96条」改正を訴えられてはいかがでしょうか?

    いや、上で述べたとおり、それ(法)で人権「個の尊重」を目指すつもりはありません。一般性を尊重せざるを得ない法(憲法以下)では「個の尊重」は無理との立場です。

  • >>No. 169

    >ま、これは私の個人的な思いですが、尊重するに値するほどの、貴重な個がそんなにもたくさんあるのか?ということと、本当に尊重しなければならないような個は、特段に尊重などしてやらなくてもいずれ社会に頭角を現すだろうとは思っていますね。

    はい、個人的思いで結構です。
    私と問題(対立衝突)が起きえるpalさん個人の思いを知りたいのであり、私と問題がおき得ない故人ルソー云々を知りたいのではありません。

    「特段に尊重などしてやらなくてもいずれ社会に頭角を現すだろうとは思っていますね」

    といわれていますが、ということは、

    社会問題(TVや新聞等に取り上げられる)にならなければ個の尊重は必要ないということなのでしょうか。

    私は、国(憲法に縛られる「暴力装置」)も個を尊重すべきと主張しているのではなく(それは無理であることは了解しています)、個人個人は(法に縛られることなく)個を尊重できるのでは、としています。

  • 2013/01/18 15:24

    >>No. 302

    はじめまして。横から失礼します。

    >「自己を主体と客体に分割する」ことは、法理論の範疇では、有り得ないことです。

    自己(一つの自我)を主体(認識するものである精神)と客体(認識されるものである身体)に分割できなければ、精神鑑定によって無罪になることなど出来ないと思うのですが。(mica氏もいろいろ説明されていますが)「心身二元論」は現法理論の範疇かと。

    あと、ある身体を己の身体として主権を主張することは、
    >主権は他者が居て、初めて成立する
    自己のみでは成立しない。

    とのことですが、

    例えば、自殺とか奴隷になるとか臓器売買など、そういった(己の身体として)己の思いのままに身体をどうこうする行為は、時にある他者から「したらあかん」と非難されますよね。

    その非難する他者に対して、「(あなたのものではなく)私の身体」として己の所有権を主張し、「主権は我にあり」と反論するわけです。

    個々の身体に対してこうして各々が「主権」を主張することは(他者への反論抵抗であり)おかしなことではないのでは。

  • >>No. 317

    >だから、法律の適用においては、精神分裂病でない限り、一人の人間のうちに主体と客体を認めることは有り得ないのです。
    そんなことを認めていたら、刑法が成立できなくなるからです。

    刑法39条1項は
    精神分裂病(心神喪失者)を認めて成立しているのでは。人がそうなりえることを認めている。

    よって「自我を主体と客体に分割」は現法理論の範疇かと。

    ↓は了解です。失礼しました。

    >ミカ君は、「1人の意思(心)の中に主体と客体が分割されて存在する」と考えることは正当である、と述べているのです。心と身体の分割ではありません。要するに、自分の中に、もう一人の自分が居る、という意味です。

  • >>No. 330

    >僕は、「だから、法律の適用においては、精神分裂病でない限り、一人の人間のうちに主体と客体を認めることは有り得ないのです。」と述べているではありませんか?。
    精神分裂病患者には、例外規定が適応されるのです。

    39条1項適用は、刑法理論内のことなのですから、法理論の範疇なのでは。

    「例外規定」だから法理論の例外。となるわけではありませんよね。

    「自我を主体と客体に分割」は法理論の範疇ではないのでありそれを認めたら刑法は成り立たない。に私は反論しているのです。

  • 2013/01/22 15:21

    >>No. 367

    >パル氏のようにたんに形式的・原理的な理由で憲法を国民投票にかけるべきだ、のような話ではなくて、通常は、憲法論議とは戦後レジームからの脱却とか、九条、集団的自衛権の文脈で議論される話です。

    形式的・原理的に問題にすることも一つの方法(方法論)なのでは。。私もmicaさんに(前論理学のトピで)してきたことかと。。「通常」でないことを理由に、「通常であれ(でないと議論にならん)」と、非難することはどうかと思います。

    なんでやねん?って思ったら、私なら(言葉の定義を含め)相手の理屈に乗ろうとします。


    >私は憲法改正とか国民投票とか、どちらかと言えば賛成なのですが。

    私は投票には参加しないつもりです。

  • 2013/01/23 14:14

    >>No. 415

    >しかし「方法」には、その方法が目的する具体像が、方法(手段)に先立って存在するはずなのですが、彼にはそれがまったくない。

    pal氏が↑をうけて417にてレスされていますが、
    私は、人権トピ13002,13078を(pal氏の具体的目的が見える書き込みとして)micaさんに示すつもりでいました。


    >>私は投票には参加しないつもりです。
    >改憲に反対ということなのでしょうか?それとも直接民主制(国民投票)に反対ということなのですか?

    採決に不参加は、数の論理を正当としない私なりの意思表示です。

    私が法律を辞書と捉えていることはmicaさんはご存知かと思います。よって、内容が書き換わることを否定するつもりはありませんし、その方法(広辞苑的かウィキ的かなど)にこだわるつもりもありません。

  • 2013/01/26 00:28

    >>No. 422

    >パル氏が以前から言っていることです。しかし、それは目的ではありませんよね。

    人権トピ13002にてpal氏は、
    ---主権と法が均衡を保っているような社会、それが健全な法治社会なんだろうなぁ、と思っています---

    といわれていて、「健全な法治社会(国家)」を求めているのでしょうから、それが目的かと。

    軍隊(外的目的実現のための腕力)をもてない国家は健全な国家ではない。とされているのは。。

    今のところ私はかように受け取っています。

  • 2013/02/02 01:16

    >>No. 474

    >たんなる法治主義とリベラリズムの「法の支配」とを同一視しているかもしれないので

    ---悪法も又法なり---が「たんなる法治主義」で、その悪法に対し、近代自然法を以って正当に抵抗できるのが「リベラリズムの『法の支配』」(社会契約説)。という理解でよろしいのでしょうか。。



    >彼の人民主権論では、君主が人民に摩り替わっただけで、多数者の暴力を追認するだけに終わるでしょう。パル氏がシュミットの主権論を手放さない限り、”個人の”自由と平等に対する敵です。この法を尊重する思想に対する敵です。

    いずれ『数の論理』の問題に行き着くと思ってロムしていますが、「追認するだけに終わるから」では、「主権(の意味)とはどういうことか」についてのpal氏の説明への反論にはならないと思います。

    主権の意味(意義)は「抵抗権(暴力性)」ということでよろしいのでは。

    その「抵抗権」は権利(正当)たりうるのか?の問題は、「主権(の意味)とは何か」と分けて考えることは可能かと。

    私は、‘権利’ではなく‘自由’として(主権の行使とされる暴力的抵抗を)認める立場です。

  • >>No. 501

    >いや、分けられません。私が法学板で書いていたことは見ていませんでしたか?「主権」というものの「正しい理解」が、「主権とは何であるべきか」という問題と独立して得られるでしょうか?

    独立して得られるとはしていません。言葉(の使用)には意図がありますから。ただそれを分けないと(一旦「~であるべき}のほうは脇において、相手が「主権」という言葉をつかえている事実「~である」をみとめないと)衝突相手とは対話にならないということです。(実際そんな状態ですよね)

    言葉って「正しい理解」が出来たから使えるわけではありませんよね。何かしら理解すれば使えるわけです。

    (これからされるようですが)
    「貴方のいう主権とは」として(一旦認めて)話をすすめればよろしいのでは。(○○のいう主権とは違うから間違っている。ではなくて)


    >パル氏もずっと、「主権が何であるか」が正しく理解できれば、我々が何を為すべきかについての回答が、あたかも導けるかのように話しています。

    「~である」から「~であるべき」が得れた背景には、そこをつなげている命題「pであるならばqであるべき」がありますよね。

    この命題にしても、「pである」ことを、「qであるべき」は間違っているから、と否定することは出来ないのでは。

    例えば、
    「主権であるから行使せよ」という命題にしても、

    行使すべきか否かと、主権であるかないかは別に出来ます。(pal氏は472にて---立法権力の樹立が主権者の専権事項である以上、これは主権者が直接的に定めるしかないし、定めないのであれば主権者ではない---といわれていますが、私は、主権を行使しなくても主権者であることに変わりはないとする立場ですから)


    >で、功利主義の考え方をパル氏にいよいよ対抗させようとしているわけです。反ロック・ルソー・カントの思考でしばしいきます。

    ロックやルソーに対して同様、おそらく功利主義(として持ち出される人々)にもmicaさんはこだわっておられないでしょうから、

    micaさんがこだわっているご自身の立場を示されたほうがよろしいかと。。(pal氏は己の立ち位置を説明しているのですから)

  • ---たとえ、暴力によって競技力が上がったとしても、それは選手の人権を守る立場から許すべきではない---

    上記は体罰に関して新聞に書かれていたことですが、
    同じことは「主権」に関しても言えるように思います。

    ---たとえ、暴力によって主権が保たれた(守れた)としても、それは人権を守る立場から許すべきではない---

    主権行為を人権の立場からあれこれ評価(価値判断)できるのであり、よって、両者を同じとは出来ず、主権より人権のほうが上位価値となる。のかな、と。(人権と主権の違いに関しては現状私はそんな捉えかたをしています)


    あと、「本を読め(原典に当たれ)」に関しては、
    私は散々抵抗してきた立場であり、その立ち位置は今も変わっていません。(ここに書き込むことを含め)対話においてそんな条件は必要ないとする立場です。

  • >>No. 14753

    >主権とはどんなものなのですか
    >人権とはどんなものなのですか

    人権(の意義)も主権(の意義)も、
    ---納得できない支配(強制)への抵抗---【抵抗権】
    であることは同じように思います。

    違うのは、その方法論(抵抗手段)かと。
    (暴力もありなのが主権であり、あかんのが人権)

    主権を持ち出すということは、人権を持ち出す場合とは異なり、抵抗方法(手段)を限定しない意志(なんでもあり)の表明、と私は捉えています。


    >何時法の世界に登場できるようになりますか?

    人権にしても主権にしても法の世界に登場しなければ意味がない、とされての質問なのでしょうか? 私はそうではなく、

    人権も主権も法(人定法)の上位価値、と捉えていて、人が持ち出した法に対し、人権や主権の立場からあれこれ評価できることに意味があるとしています。

    法の世界(理屈)は、人権や主権を制限する世界(理屈)なのでしょうから。

  • No.14778

    人権の根拠

    2013/02/26 02:23

    >>No. 14755

    >お前が前々から唱えているような『道徳として』というのは

    ?どなたかと勘違いされているのでは。

    私の人権論「個の尊重」(対立衝突が起きたら個を尊重した対話をしましょ)を道徳を根拠に説明した覚えはないのですが。。。(相手からこちらが味わいたくないことをされないために、という己の損得勘定を根拠にしています)

  • 2013/02/26 02:26

    >>No. 14776

    >学者個人の名を出して話をするときには、読んでいなければなりません。
    しっかりと引用しなければ、その学者からしても良い迷惑です。

    その学者の書いた本(原典)を読んでいなくても、その学者名を使うことは出来ます。ウィキなどからでも又聞きからでも引用可能でしょう。

    ここに書き込んだ人が何を言いたいのかより、その学者が何を言っているのかにこだわると、「その学者はそんなことを言っていませんよ(何を読んだのですか)」というやり取りになってしまいます。

    このやり取りは書き込んだ当人からすれば(その学者の信奉者でないならば)重要なことではないでしょう。例え違っていたとしても思い(いいたいこと)は変わらないのでしょうから。

    書き込む本人が言いたいことのために、学者名にしろ専門用語(ジャーゴン?)にしろあれこれ用いるのであり、その学者が正しくは何を言っているのかとか、用いた専門用語の正しい定義がなんであるのかを論議して明らかにするのが目的なのではないわけです。


    >誰の「主権」概念なのか、誰の「人権」論なのか、きちんと整理し、特定しないと、

    それは(書き手が出来てないならば)受け手がすれば済むことなのでは。。わからなければまずは問えばよいのであり、いきなり非難する必要はありません。というのが私の立場です。


    ここへの書き込みにあれこれ条件を付けられるのなら、(スレ主でないならば)それはご自身へのレス限定にされたらよろしいのでは。

    カオス(混沌)になることをこの人権スレを立てられた方は否定していなかったと思いますよ。(私はそのあたりの確認を取った覚えがあります)

  • >>No. 14780

    >考え方として人権概念なるものは、「抵抗」のために用いられたとするそのご指摘は正しいでしょう。(ただ、現在もそうでしょうか?)

    何か異なる現在の事例をご存知なのでしょうか。


    >国家成立時には「抵抗」するために必要な考えであったとされましょうが、そこには主権があったのではなく、ただ、「力」があったのです。その力を政治的に「国民主権」と呼ぶ場合もあっただけです。呼ぶのは自由ですから。「力」を制したのが誰か(憲法の成立)で、国民主権にもなるし、何かほかの政体にもなるわけです。

    そうして「主権」と呼ぶ(そうした概念を持ち出す)ことが、呼ばせないもの(認めないもの)への抵抗(反抗)なんですが。

  • >>No. 14781

    >「主権」を言っているのか、単なる「力」を言ってるのか区別がつかなくはなりませんか?

    私は、主権とか人権というのは、「法的権利権力」(相手に劣後義務を課すことで得られる優先権利、それを実現する力---と私は捉えているのですが)、とは別のものと捉えています。。

    kenさんの
    ---「権利」は、一方の主体が他方の主体に対して自己の利益を主張できる法的な地位もしくは資格---
    ば、私が上で述べた「法的権利」と同じように思います。

    先にkenさんが言われていた「『抵抗』させない」も、この法的権利(相手に抵抗してはならない義務を課して得られる地位)なのでしょう。しかし人権や主権はそんな義務に抵抗するのですからどうしても相手と衝突してしまいます。

    抵抗権(人権や主権)を行使すれば、相手の義務が伴う法的権利を行使する場合とは異なり、衝突を生んでしまうわけです。(よって人権や主権と法的権利は同じでないでしょう)


    >つまり、人権確保についても、それ相応の理由があれば、堂々と暴力は許されるのです。

    それは人権より法を優先しているからなのでは。
    それと、ある人の人権を守るためにある人の人権を制限することは自己矛盾かと(暴力から守るために暴力を使うのですから)。でも法を優先するから認めてしまうわけですね。暴力を認めるのは、人権の立場からというより法の立場からに見えます。


    >最初に結果ありき、の考えですね。

    意図があって言葉(概念)は使われると私は捉えているのですが。。。

    >一方では法制度に守られつつ、他方では法制度の存在を軽視するという、学生にありがちな態度=無責任な考え方

    責任を逃れるために法に頼るのでは。(なによりも法を優先する立場なら)法を守れば責任がないとの立場なのでしょうから。にたいして、自由(法の外)には自己責任が伴います。

  • 2013/02/28 23:11

    >>No. 14782

    >この損得勘定って威力があるんでしょうか。

    己の損得勘定ですから他人(自然人にしても法人にしても)に対して威力はありません。が、己にとって威力があるわけです。己が相手の個を尊重する理由になります。


    >人権の最も基本的根拠である、「個人の尊厳」とくに他人のそれ
       を理解する者同士での考えであって、それを必須のものとして理
       解しないものとの間では、成立は難しい。
    とぼくには思われるのですが、どうでしょう。

    味わいたくないこと(極端な一例ならば殺人)を味わってしまうのを防ぐのでなく、味わっても罰(極端な一例なら死刑)を与える事が出来ればそれでいい。

    という方にはいわれるように私の思い(個を尊重した対話をしましょ)は通じません。

    そうでない(味わいたくない)ならば、どうしても(一般性ではなく)個を尊重した対話が必要になると考えています。

  • 2013/02/28 23:13

    >>No. 14783

    >共通の言語・知識を持てなくてお話合いができますか?

    わたしなら(「何を読んでるの?」ではなく)「どういう意味?」と尋ね説明してもらうことで共通性を探りますが。

    >出典を求めるのは、お話をするうえで一つの主張をされる人が何をベースとされているのか、同じものを読んで、共通した前提に立とうと思うからです。

    ?ベース(基礎前提)がなんで本(原典)限定になるのでしょうか。
    読書以外の経験やら性格(感受性)などもベースになるのでは。

    それとstillさんの場合、
    ---○○を語るのなら××を読め---
    というような非難をしますよね。

    「原典に当たれ」もそうですが、
    これは○○を語れたすでに相手にあるベースを知るためではなく、××をベースにして○○を語れという新たな本の押し付けなのでは。

    >議論の経済ですね。誰のどの本(論文)を読んでいるなら、どれをどう理解しているかくらいは把握できますから、いちいち説明しなくても良くなるのです。

    それは同じ本を既に双方読んでいればの話なのでは。stillさんのようにいろんな本を読んでおられるからいえることかと。(よんでいる本が多いほどその確率は上がりますから)

    >逆に、何を読んだか、出典を書かないというのは何か不都合でもあるのか、不思議でなりません。

    資料を手元において書いているのではなく、何も見ずに記憶を元に書いているのならば、(人名は書けても)出典を書けないことは何も不思議なことではありません。資料があっても、切り離されたものやコピーであったりすれば、原本がなんだったかわからない場合はあります。


    >今は罵詈雑言しか飛び交っていません。

    私は「しか」とは思っていないのですが、ken氏の(a_f氏やstillさんへの)書き込みのことでしょうか?(ならば、お互い様かと)

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