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投稿コメント一覧 (5511コメント)

  • >>No. 17458

    >春の海は必需品

    なんか逆立ちしたような気になっちゃったのですが「春の海」(バランスがいい状態)を求めるということがバランスの悪いことのように思えてきた。

    あははは(笑) 結論 人間やるってことはバランスが悪いことである。嬉しがっているときも悲しがっているときもバランスが悪い。そしてバランスのいい状態(春の海)(機械的な状況)を求めるときもバランスが悪い。

    ・・・だめ?(笑)

    >ふときがつけばかたわらに先人たちがいた なんてことないかな

    なさそうです。

  • >>No. 17440

    こんばんは。

    >あはは!ぷかぷかってたのしそう(^^♪
    「悲しい」がやってきたら そちらの方向にはいかないんだ  うれしい がやってきたらいいね!方向はあってる  春の海は近い

    そですか。
    ・・・「悲しい」がやってきたら そちらの方向にはいかないんだ・・・悲しいがきたら方向があっていないからそっちの方向に行くのはやめる、ということかなぁ。

    「春の海は近い」・・・あはははは。春の海でぷかぷかしたいのはめごちさん♪
    私は春の海に行きたいとそうそう思っているわけじゃない。てか、ほとんど意識していなさそうです。

    ただ、何だろう。悲しみの方向にも春の海はあるような気がするよ。
    それから悲しむ以外方法がないようなときもあるような気がする。

    >人類はいろんな生き物をほろぼし 地球をこわしてるかもしれないね

    そですね。

    >人間にもそれなりの役割があるのかもしれないね  宇宙がまだふかんぜんだったら  宇宙の生末をさがして なんての  わからないけどね ハトさんやらいおんくんができないことをにんげんならできるかも

    めごちさんはそう思われるわけですね。
    そうなのかもしれない。
    でも、個人的な感覚としてはあまり人間に意味とか目的とか、もっと言うならば世界に意味や目的があるようにも思えない。

    >先人たちはそのことをしってるんじゃないかな  だだ人であることによってできることもある ということも

    私はめごちさんほど「先人たち」をイメージできなくて。先人たちが何を考えていたか?なんて皆目見当もつかない。( ;∀;)

  • >>No. 17434

    >いろんなものをひきずっているのが人だから  ねむっているときもだね むしろねむっているときのほうが  かも  悪夢なんてみるから

    「悪夢」かぁ。。。

    (全然関係がないけれどスナフは悪夢を見る人だった。)

    >僕もまたどうぶつだからね ハトさんのことがわかるんだ ハトさんのようすをみていればわかる  すきなひとのようすをみていればすきなひとのきもちがわかるように

    長い間観察されてきたのですね。観察という言葉、抵抗があるな。見てきた のですね。

    ここに行くとわけわからなくなるけれど ↓
    「すきなひとのようすをみていればすきなひとのきもちがわかるように」とめごちさんが思っている・・ということはわかるんだ。
    まったく余計なことなんだけど、私は最近(でもないか)そんな風に考えています。これが面倒くさいことに、どこにも出口がないような感じ。(余談です。)

  • >>No. 17435

    反対の方向に進んだときには「悲しい」で春の海春の海(バランスがいいい。皆さん、お休みください。今からぷかぷかします(笑)みたいな。)は来ないような気がするけれど、・・・だって、痛いもん。・・・そっちも例えば持病だからとかって悲しいままで春の海が来るですか?
    つまり、「満ち足りているときの ハトさんやらいおんくん状態」になるわけですか? 


    >(思考・感情・意志)をもつのはにんげん だよね 幻想ももつ  はとさんやらいおんくんは もたない  たぶんね  本能 自然のルールにしたがってる

    分からないけれど持たなかったら生き延びられていないような気がする。

    >そうはいっても にんげんも動物だからちゃんすはある  人が人のままで 春の海 できるように先人たちはいろんなことを教えてくれてると思うよ

    人間ははとさんやライオンさんに比べてだめだなぁって話?
    もし「にんげんも動物だからちゃんすはある」なら先人に教えてもらわなくてもできるんじゃないか、なんて思ったりする。

  • >>No. 17433

    めごちさん。おはようございます。

    >「春の海」に向かおうとするとき それがただしい方向であれば 嬉しい ですね
      反対の方向  であれば悲しい ですね

    >お腹のぐあいがわるくなったときとおんなじ



    「春の海」に向かおうとするとき(バランスが悪い時)

    それがただしい方向(ただしい対処)であれば →→ 嬉しい
    (・・・この「正しい」は自分にとってだよね?)

    反対の方向(正しくない方向)であれば →→ 悲しい


    ※ 「方向」という言葉が使われているから「対処」を使うのは間違いかも。

    訂正します。


    それがただしい方向であれば →→ 嬉しい
    (・・・この「正しい」は自分にとってだよね?)

    反対の方向(正しくない方向)であれば →→ 悲しい


    >お腹のぐあいがわるくなったときとおんなじ

    ☆お腹の具合が悪くなった(バランスが悪い)→→ 治す「方向」に行く(薬を飲む、病院へ行く)→→ 薬を飲んで治った →→ 嬉しい(バランスが悪い)→→ 春の海(バランスがいいい。皆さん、お休みください。今からぷかぷかします(笑)みたいな。)

    ☆お腹の具合が悪くなった(バランスが悪い)→→ なにもしない「方向」に行く→→ いつまでも痛い →→ 悲しい(バランスが悪い)→→ 春の海(バランスがいいい。皆さん、お休みください。今からぷかぷかします(笑)みたいな。)


    つづく

  • >>No. 17428

    >わっわっ たいへんだ(笑)  えーと! 

    え?なんで大変?なの?

    >ばらんすがいい方向にむかってるんだね(^^♪

    ええと。「ばらんすがいい方向 (=春の海=思考・感情・意志 停止状態)にむかってるんだね(^^♪」

    つまり、目が覚めたときには(あるいは眠っているときには)「バランスが悪かった」ってこと?

    ・・・・そうも思えないのだけれど。

    >これもそうだね 弾んだ気持がんばれ! 

    ということは、凹んでいた、ということ?

    >ハトさんやらいおんくんのように  でもにんげんというのはばらんすをじぶんのほうから崩しながら生きてる  それがにんげん  

    ふと思ったのだけれど、よくめごちさん「ハトさん」って言うけれど・・・
    めごちさんはハトさんじゃないのにどうしてそんなにハトさんのことが(ハトさんのバランスとか)(春の海のハトさんとか)わかるのだろうか。。。なんとなく不思議だったんです。(今、少し疑問が明瞭になった気がする。)

  • >>No. 17427

    >日々のせいかつの中に のどかな春の海 ってわりとたくさんあるんじゃないかな ひなたぼっこしているときとか さんぽしているときとか  熟練を必要とするしごとがとてもうまくいっているときとか  気ごころの合ったひとといっしょにいるときとか 

    ええとですね、 

    >「私」があらわれるのは
    >こころをつかったとき うれしい かなしい あつい さむいなんて とき
    >ふだんはあらわれない  ばらんすがわるいときなんだね (M)

    私が現れるのはバランスが悪い時
    で、バランスが悪い時に「私」が現れて「なんとかする」(問題解決)と「春の海」がやってくる。
    「春の海」は思考・感情・意志傾眠状態。(嬉しくも悲しくも厚くも寒くもない)

    で、

    >日々のせいかつの中に のどかな春の海 ってわりとたくさんあるんじゃないかな ひなたぼっこしているときとか さんぽしているときとか  熟練を必要とするしごとがとてもうまくいっているときとか  気ごころの合ったひとといっしょにいるときとか 

    うん。そう思う。

    >ふとおもったんだけど のどかな春の海 ってところまでいく過程のあれやこれや ってのも だいじなんじゃないかな 
    >にんげんするってのはそういうことかもしれない  なんてね

    ふと思ったけれど「のどかな春の海」は記憶できない。ただ過ぎていく。だって、すべて(思考・感情・意志)お休み状態だもの。・・・本来保持できないことのような気がする。保持できないもの(内容がないもの)をあるように思い込むのは幻想じゃないか?なんて思うのだけれど・・・勘違いかなぁ。

  • >>No. 11628

    こんにちは♪

    >音が聞こえた人は、蛙と池と水しぶき、ひょっとしたら池を囲む緑などが同時に見えるように、蛙や池や水しぶきを想起した人は同じく同時にそれ以外の音や情景を見るというような感覚がありますが、どうでしょうか。・・・(1)

    あると思います。自分の中からその情景を引っ張ってくると思います。その人の蛙、その人の池、その人の緑が関連付られ情景を作っていく。

    (ただ、妄想かもですが、この俳句の場合)
    その人の持つ情景をぼんやりした背景として退かせることをしないと音は響いてこないんじゃないかと思ったりします。
    音を想起させる作業が心の中で起こる時、同時に背景、景色は退いていく(ぼんやりとしていく)
    逆に言えば、音をはっきりと想起するように作られている?と考えてみたりします。だから逆に「古池」で問題ないというかすんなり入っていってしまうのかもしれないかなと思ったりします。

    (関係がないのですが、私の場合は「山吹や」とやられると何となく花札の絵柄的情緒がわいてきてしまい、清楚な山吹と優雅にジャンプする蛙、美しい水辺や水がイメージされて水の音なんて次の次の次ぐらいです。

    >ひょっとしたら私たちが現実と思っている世界もこの俳句によって想起された私の世界というか、私そものであるあるかもしれないということです。

    「この俳句によって想起された私の世界」は「私そものである」ということ同意です。
    そしてリンクしてきたのが「失ったはずの足が痛む」という話や脳のどこかの部位を刺激された患者が(記憶が薄れていてざっくりですみません。)微笑みながら歌を歌いだしたので話しを聞いてみると実際(物理的)にはベッド(あるいは手術台)の上にいる患者が実際(患者自身の感覚?世界?)では記憶の中のどこかの時間にいて誰かと楽しく歌を歌っているところであったという話です。
    なんというのかな、・・ない足が痛む人もベッドの上で野原で歌を歌っている(変な言い方ですが。)人もそれを想起して考えている私も私の世界、私そのものという気がします。

    >ニーチェ的な言い方をすれば「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。そこに自己と対立するものなんてないじゃん!」みたいな話です。^^

    あ。そですか。それなら納得です。
    「自分で創出した世界なんだから、世界も自分でしょ。」というのは全くその通りだと思います。

  • >>No. 17425

    ごちゃごちゃ考えているとよけいまとまらなくなるし(私の場合)話の中心からずんずん離れてきてしまうので具体的なことで行っちゃおうかな、なんて思いました。

    例えば、今日は休日で人と会う約束もない。完全なる休日だったとします。
    朝目覚めて窓の外を見た時曇り空でした。しばらくその景色を眺めていた。(その時、外の景色はいい感じに葉っぱが茂って・・・とにかく秋が来るような(来たような)いい感じの景色だと思った。
    ・・・・これは、めごちさん風に言うとバランスが悪い、ということになるわけですよね?

    その後、例えば今日はロングスカートをはこうとかピンクのブラウスを着ようとか少し弾んだ気持ちで洋服を着た。それもバランスが悪いと言う事になるわけですね。

    ここで気が付いたことは、では昨日はどうだったのか?ということで
    人と会ったり旅行のプランを立てたり、ランチを食べたりしていた。
    普通に生活したというか、特に喜怒哀楽なくそれなりに生活をした。これはバランスがいい?
    そんななかでも、時折笑ったり楽しんだりしてた。その時はバランスが悪い?

  • >>No. 17381

    おはようございます。


    >>>(M)うん  軽快に楽しく もばらんすのとれていないんじゃないかな  ばらんすがとれると 軽快に楽しく もなくなるんじゃいかな   そのかわり のどかな春の海 がやってくる

    >>(T)ああ。のどかな春の海というのは「人じゃなくなる」感じがする。
    危険に対して身構える・・・これは人として当たり前の気もするのだけれどその思考や感情の働きをなくしてのどかな春の海に浮かんでいたら(バランスがいい)滅んじゃう(簡単に死んでいく)気がする。

    >(M)「人じゃなくなる」ってのは そうだね!なんて思う 私 でなくなるというか

    ええと。「バランスがいい、バランスがとれている」=「のどかな海」=「感情さんだけが不真面目な見張り役・傾眠状態 で 思考さんと 意志さんはシエスタ中。」

    なんか。とても機械的だなと。・・・「バランスがいい」というのは、息を吸い、食べ物を食べ排泄し、熟練した作業を繰り返し行い日々を過ごす。ということかな。

    「私 でなくなるというか」ということよりも私がない に近い気がする。

    状況と自分が一致している(何も問題がない)=(感情、思考、意志 傾眠あるいは熟睡でも無問題状態)
    私は ただの機能としてある。確かに私でなくなるのかもしれないですね。

  • >>No. 11624

    は~い。ありがとうございます。

    ただ、難しそうで説明の労を取っていただいたとしても理解できる自信がありません。

    >ホーリズムとかゲシュタルト的なものに重なる感じ

    というのは共感します。

  • >>No. 11622

    >一般に言う、自分が悪いことをしたから報いを受ける、とか、前世の因縁で、とかではなかったと思います。

    それは全然念頭にありませんでした。
    何というか心をよぎったのは、「もし私が豚だったらある日殺されて誰かに食べられるのは仕方がないことだ。私は豚として生き豚として死んでいく。それが自然なことなのだろう。私が豚という存在ならばそれが私の在り方なのだろう。。。」というようなことでした。
    だからもし誰かに自業自得と言われたら、「そうです。」というしかないんだろうな・・・みたいな。

    >↑ こういうところは、たぶんツバメさんはもっと楽観的ですよね。

    私、楽観的というより野蛮なんじゃないかと。野蛮だから楽観的で居られるとか。(笑)

  • >>No. 11621

    こんにちは。

    >あと最初は「蛙飛んだり水の音」だったとも。そうすると「飛び込む」は連体形ではない可能性もあるのかな…。

    連体形ではないかと。

    例えば「古池に蛙飛んだり//水の音」だと、個人的にはテンポがよく好きな感じですが、「水の音」と強調している割に水の音がぼやけていたり遅れて聞こえるような気がする。
    (〇〇〇〇〇・・・〇。ぼちゃん♪・・みたいな。)
    二句で切れるとこの場合水の音の連想が遅れる・・・のかなと。しかも、「蛙飛んだり」が生き生きと独立してイメージされてしまうのでその姿が水の音と競合してしまうような気にもなる。

    「古池や蛙飛びこむ水の音」・・・初句で切って蛙飛び込む水の音と続いていきます。しかも作り(変な言い方かもですね。句の形?)が静か。(蛙飛んだり水の音・・のようなテンポの良さがない。)
    ちょっと思ったのですが「飛び込む」という言い方、面白いかなと。言葉自体にちょっとした緊張をはらむようで、私は「蛙飛び込む」のところで少し緊張し「水の音」で水の音を聞くような気がします。


    >其角はそこに和歌の定番の山吹を配して、定番(因襲)破りを強調して俳諧の面白みを出そうとした。

    其角さんのことはあまりよく知らない(他の人のことも)のですが、それにしても其角さんがなぜ「山吹」を持ってきたのか不思議でした。
    「和歌の定番の山吹を配して、定番(因襲)破りを強調」・・・なるほどです~という感じです。

    芭蕉先生はそういう「面白味」の方にはいかない、という感じかな。

    >未だp28なんで続き読みます。

    面白そうですね。

  • >>No. 11619

    こんにちは。

    >「古池や」の俳句が素晴らしいと思えるのは、そこに観るものと観られるものの区別がないように思えるところです。

    はい。
    句を読んだ人は、実際にはしない水の音を自分の中で聞く。
    蛙を見る(感じる)人、景色を(感じる)見る人もいるかもしれないです。
    自分が自分の中で句のイメージ(姿)を作り上げている。
    その時に観るものと観られるものは一緒に活動してしまうので区別がない状態になるのではないかと思ったりしました。

    (「観るものと観られるもの」を意識とその意識を観察するもの、というように解釈しましたが違っていたらすみません。)

    それから、共通の土壌を持つ人の個人の主観(イメージ)が沢山の人の(全体の主観・共同主観)と重なりあっている、だから句が鳴り響くのではないかと。


    >古池、蛙、水の音が渾然一体で、そこに観るものはいない。

    (「観るものと観られるもの」の解釈について全く不安になってきましたが。)

    私の今のところの感覚としては、観られる者が「古池や」と声掛けすると(合図すると、大まかな図柄を示すと)観る者がたちまちその声に合わせて風景を作る、句に読まれた世界を作る、という感じです。


    >観る者も古池、蛙、水の音と一体化している悟りの世界。
    >事事無礙法界かな。


    なので「観る者も古池、蛙、水の音と一体化している」に共感します・・・が、悟りの世界、事事無礙法界と言う事については全く分かりません。(知識がなさ過ぎて。)

  • >>No. 17365

    >そのうちにおたがいに ああそういうことだったのか! なんてくるかも

    そうですね。ネギさんが見たら「あ~~また。」って笑うかも。

  • >>No. 17361

    >父親はときどき嘘をつく  じぶんで嘘ついたことをすぐにわすれるすごいワザをもってるんだ

    そう言う人いるみたい。
    私、そういう人と接したとき驚愕した。
    どうにも理解ができなくて。

    でも、理解をしようなんて大それたことを考えると罠にはまりそうなのでやめました。
    話を詰めようとするとうんざりするだけだし。(私の場合ですが。)

    思うに、嘘をついたり脅したり、という方法を選ぶ人は割と似通っているかもです。
    他人を思い通りに動かすための「嘘」の「矢の催促」(脅し)

  • >>No. 17360

    >うん  軽快に楽しく もばらんすのとれていないんじゃないかな  ばらんすがとれると 軽快に楽しく もなくなるんじゃいかな   そのかわり のどかな春の海 がやってくる

    ああ。のどかな春の海というのは「人じゃなくなる」感じがする。
    危険に対して身構える・・・これは人として当たり前の気もするのだけれどその思考や感情の働きをなくしてのどかな春の海に浮かんでいたら(バランスがいい)滅んじゃう(簡単に死んでいく)気がする。

    >空気や水がふつうにすったりのんだりできるときは「私」はあらわれない 「私」は空気や水のはたらきといっしょ
    >空気が上手く吸えないと 空気について「思考」してしまうんだ 僕は肺のぐあいがよくないから いつも空気のついて「思考」してしまう  「思考」なんかしたくないんだけどね  ごくまれになにかのかげんで うまく空気がすえるときがある  きもちがいいがやってきて  やがて 春の海  めったにないことだけどね

    「わたし」の捉え方がたぶん違うのではないかと今思いました。

    めごちさんは「わたし」は「思考」で問題解決時にのみ現れ、そのわたしが問題解決をしてくれる。そして「わたし」は消えてゆき きもちがいいがやってきて  やがて 春の海 (バランスがよく肉体の快だけある)・・・・となるわけですね。

    私の場合はちょっと違う。・・・う~~ん。なんて言ったらいいのだろう。。。。やっぱ。「私」は「わたし」でいつも一緒にいる・・・みたいな。

    逆っぽいんです。。「私」は「思考」で日常生活を営んでいる。そこでは、問題を抱えたり、それこそ生活(私の物理的・心理的)バランスをとろうと「私・思考」が活動している。でも、やっぱり思考だけじゃなくて感情も意思も機能してるよ。

    ・・・・私には春の海はないと言ったほうがいいのかな。
    つまり、めごちさん風に言えば「バランスの良い時がない」ということになるのかな。

  • >>No. 17359

    私の説明が悪すぎて本当に申し訳ないです。
    (手数もかけさせてしまっています。時間も消費してますよね。)

    >いや 未来ともそうだんして たとえば ねがいなんての  そうなったらいいな なんての

    その場合は、「○○を私は願いそれはかなった。/○○を私は願ったがそれはかなわなかった。」になるかなと。
    あつかう「時間」の範囲は過去・現在 と関係を持って繋がっているから現在と言っても今この時だけじゃなくて近い過去も必然的に含まれることになる。

    >>「ずーと死なないかも」というのは 死んだら今ここ がなくなってしまうような気がする にたいおうしている  そんなふうにもかんがえられるっていうこと  
    >> わからないがほんとのところ なんじゃないかな

    >> なんかわからないけれど、とりあえず はい と言っておこうかな。
    >> そう思われたわけですね。

    >わからないというところまでこれたんだから わかる にちかづいてきているのかもしれないね

    「(自分が)分からない事が分かった」と言う事がわかった」というならそうかもですね。

  • >>No. 17358

    おはようございます。

    >ことばをもたない外とのコミュニケーションだね  祈ること 待つこと もそのワザのひとつかも

    ごめんなさい。(もう、わからなくなってきてしまって・・・)

    「ことばをもたない外とのコミュニケーション」っいうのが私にはもうわからないです。。。

    例えば画家は風景画を描く時に「ことばをもたない外とのコミュニケーション」をしてるのか?と思うと・・・そうも思えない。
    確かに非言語によるコミュニケーションは言語によるものより多いとは思うのだけれどね。

    待つも祈るも私だけのこと(完全なる私事)のように思います。
    だからそれによって外とのコミュニケーションをしている(外となんらかの交信をしている、外側に作用している)とも思えないのです。

  • >>No. 17333

    >「はげまし」 というのはじぶんが書いた物語りに うん(^^♪

    ここは、わからないです。感じとしてわからない。。

    >下の階層の板と「相談して」だけだとじぶんの物語りが書けるかなあ  aiの書いた物語り 
    最上部が何も描かれてはいない「現在」のガラスの板とも相談しないと

    ・・・・・

    >だれが変えたりしてるんだろう? つばめさんだよね  

    私が変えている。
    今日誰かから手紙が来ました。そこには愛と書かれていました。誰かが私を愛しているらしい。

    今日誰かから手紙が来ました。そこには愛と書かれていました。誰かが私を愛しているらしいと私は思いましたがその手紙は誤配されたものでした。

    書き手は私だけれど私が変えているわけではないかなと。

    >最上部が何も描かれてはいない「現在」のガラスの板というもののとらえかたが僕のほうでまちがえているのかもしれないね

    わかんなくなっちゃいました。私が本をよく理解できていないのかもです。だからめごちさんに説明ができないのだなと。

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