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投稿コメント一覧 (294コメント)

  • 西郷どん 第42回「両雄激突」

    「見たもんじゃないとわからん!」 帰国した大久保が西郷に語る。
    イギリスで見た工業地帯の光景のことだ。
    もしも西郷が 欧米に視察に行っていたら 日本の歴史は変わっていただろうか。
    大久保が、「今度はあんたが行けばいい」と西郷に提案し、もしも西郷がそれを受けていらたと想像する。
    半年程度でもいいから、アメリカやイギリスなどを見ていたら 西郷の考えになんらかの変化をもたらしただろうか。

    大久保と江藤新平は よほど 相性が合わないと見える。
    この後、乱を起こして捕らえられた江藤新平は、さらし首にされた。

  • 西郷どん 第41回「新しき国へ」

    岩倉使節団、権力中枢がこぞって海外視察に出かけるというのは、世界史的にも かなり特異なことだったかもしれない。
    第一の目的が不平等条約の改定にあったが、その時期が熟していないことを悟って、欧米文明の視察に切り替えた。
    二年弱ものあいだ 政権の実力者のかなりの部分が日本を留守にした。いうまでもなく、リスクは小さくなく、その負担が西郷の肩にかかったでしょう。 それはともかく、当時の日本人の意気込みを この大胆な行動に感じとれるような気がする。

    大久保は、ドイツの宰相ビスマルクに謁見している。 
    wikiによれば、「1873年3月15日にはドイツ宰相ビスマルク主催の官邸晩餐会に参加。」とある。ビスマルクがドイツ統一を実現したのが1871年だから、その二年後にあたる。いわば日本の統一を果たした大久保と、ドイツの統一を果たしたビスマルクが会したわけだが、ビスマルクにとっては 未開の国からの若きリーダー以上の印象はなかったかもしれない。

    アメリカの ヘンリーキッシンジャーによれば、自著の外交史において、ビスマルクの築いた土台が その後のドイツを 二度の敗戦にもかかわらず、一流国として生き延びらせたということになる。おそらく、これと同じことが大久保にも言えるのではないか。大久保のひいたレールが、敗戦を通過したにもかかわらず、世界のなかでの日本の地位の維持に貢献していると思う。ドラマの中で 大久保が、100年後の日本を考えて行動しているというようなことを言っていたが、それはあながち外れてはいない。
    その政治家がどのくらい優れているかどうかは、自ら築いたシステム、もしくは体制がどのくらい長期にわたってその国に貢献するかによって測られるというのは、キッシンジャーのことばだ。

  • 西郷どん 第40回「波乱の新政府」

    この回、大変おもしろかった。
    ただ、西郷に大物感を漂わせているのに対して、大久保の扱われ方がすこししょぼい。まあ、西郷が主人公だから仕方がないということかもしれないが。

    新政府の分裂の危機を西郷が救うというシーンがあった。
    かなり前の方の回で、薩摩の若者たちが暴発するのを止められない大久保正助、それができるの西郷吉之助しかいないというのがあった。
    今から嫌な予感がしているのは、不満のあるものたちを西郷が引き受けて、反乱の果てに自分ともども滅亡し、その後の大久保利通の仕事をしやすくする意図を西郷が抱いていたという筋書きだ。
    そうなるかわからないが、いかにも流行作家や脚本家が好みそうなシナリオだ。

    この前の回で、横山安武というのが出てきた。薩摩の侍だ。明治新政府の腐敗を糾弾して諌死した。
    諌死(かんし)とは、死んで目上の人をいさめること、と辞書にある。
    wikiによれば、横山は 陽明学者だ。
    おそらく、作家の司馬遼太郎がもっとも嫌らう部類の人間だ。

    それはそうとして、
    日本の歴史上これほど明るく楽観に満ちた時代はなかったというのが、作家 司馬遼太郎が 明治初期の数十年について述べた感想になるのだろう。 というと、必然的に反対意見が出てくる。 明治にはこんなに悲惨なことがあったではないかと。こんなに暗い出来事があったではないかと。むろん、そういうことを踏まえた上での司馬の感想だ。

    日本人は その歴史においてはじめて国家というものを持った。それは、おもちゃを初めて与えられた子供のようであったかもしれない。明治の日本人は 国家というものに夢中になった。現代のわれわれは、その時の日本人、つまり150年前の祖先の心情は もはや想像しにくくなっている。

    ただ、このドラマのシーンにおいてすら、明治という新しい時代を迎えた人々のうきうきした感じが出でいるような感じがする。

  • 西郷どん 第39回「父、西郷隆盛」

    1871年 西郷隆盛、新政府に復帰
        2月13日 8000人からなる親兵の創設
        8月29日 廃藩置県の詔書が出される
        12月 岩倉使節団出発

    この時系列を見ると、廃藩置県の実行は、その前に創設された親兵の武威と切り離せない。

    ---- 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)  という言葉が、ここでも西郷をよく語っているように思える。

    旧体制の既得権をはく奪するような改革は、普通はかなりの流血を見る事態が常に起こりえるが、それが比較的少なくて済んだのは、倒幕で示された西郷らの新政府の武力が 潜在的不満分子にもひろく認識されたからだ。島津がどのような不平を鳴らそうが、新政府の力には逆らえないという空気が流れていただろう。島津の殿さまが西郷をいかに罵倒しようが、西郷の背後に武力の影がちらついただろう。もはや島流しには出来ない。
    それともうひとつ、明治新政府による最初の10年での一連の改革の成否は、それを担うリーダーたちがどの程度 公の利益を私的利益に優先できるかにかかっていただろう。権力を握った者たちが自分たちの私的利益に走っても不思議ではなかっただろうが、日本にとって幸いだったのは、この時の リーダーたちは、公(おおやけ)のことをより優先的に考えたということだ。
    大きな改革を成し遂げるには、武力による強制力とリーダーたちの公共心が必要だ。そのどちらかが欠けても、うまくいかない。公共心なき武力に支えられた権力は腐敗に至るし、公共心があっても、武力がなければ、改革に反発する古い勢力を抑えることができず、情勢は不安定のまま推移し、日本の国家建設は思うように進まなかっただろう。

  • 西郷どん 第38回「傷だらけの維新」

    西郷の弟で有名なのは縦道で、1974年(明治7年)に軍を率いて台湾へ遠征した。
    まあ、台湾出兵というと 物々しい感じがするが、実際は武士としての身分を失い 食い扶持に困った男たちを掻き集めて 軍隊に仕立て上げたというようなことが、司馬の小説に書かれていたと思う。現地では、伝染病で500名以上が命を失ない 戦死者は12名ほどであった。
    この解決のために、大久保利通が北京に趣き 清の李鴻章と交渉し、一定の外交成果を得た。
    李鴻章は、欧米の列強に立ち向かうのに日本と協力し合えるかもしれないと期待していた向きもあったようだが、大久保の強硬の姿勢に面するうちに 日本に対する考え方を変化させていった。

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    真田丸 第20回「前兆」
    1587年   聚楽第完成
    1588年   聚楽第行幸
    1589年 聚楽第の落書き事件
    7月 秀吉、淀殿との間に第一子誕生

  • 西郷どん 第37回「江戸無血開城」

    冒頭で、江戸総攻撃は3月15日と決まった、というナレーション。これは、旧暦の慶応4年(明治元年)3月15日だろうから、今の暦だといつになるか。おおよそ 1868年4月8日ほどにあたるか。
    大方の視聴者は、「3月15日」とだけ聞いて、西暦として理解する。
    やはり、三月と四月では季節感が異なる。西暦の3月15日は まだ寒さが残る。

    勝と西郷が会談する背景に満開の桜を咲かせていたな。
    4月7日だすれば、江戸では おそらく散っているはずだが。(笑)
    ただし、あの桜がヤマザクラだとすればその限りではない。

    時々、西郷が「民のため」と口走る。
    西郷が「民のため」と言えば言うほど、西郷は自分がその民に属するとは思っていないことを示している。(笑)
    民が民のための国をつくるのならば、民自身が蜂起するのでなければならない。
    おそらくそうなった場合、西郷のような武士階級は鎮圧する側に回ったにちがいない。
    なぜならば、民による反乱は いわゆる国体の維持を揺るがしかねないからだ。

    このドラマが西郷に繰り返し言わせている「民のため」という言葉は、そうした本質的なことを逆説的に表している面があるが、おそらくドラマの制作者たちはそういうことまでは意識していないかもしれない。

  • 真田丸 第19回「恋路」
    1582年 本能寺の変
    1587年 本多忠勝の娘であり、家康の幼女 のちに小松姫と称せられる稲が 真田信之の正室として真田家に嫁いだ。
    1588年 淀殿、秀吉の側室に

  • 西郷どん 第36回「慶喜の首」

    幾島が 西郷と会う場面、大河ドラマ「篤姫」にもあった。二つの大河ドラマにあるのだから、部分的に史実を含んでいるのかもしれないが、ただ 彼女が実際に西郷に会えたかどうかは不明だろう。
    wikiによれば、幾島について「戊辰戦争の際に天璋院(篤姫)の使者として討幕派の薩摩軍に交渉に出向き」とだけある。おそらく篤姫の書状を携えていたのだろう。内容は、慶喜の助命嘆願だ。
    大河ドラマ「篤姫」では、篤姫と西郷の再会はなかった。「西郷どん」では、北川景子演じる天璋院と 新政府軍を率いてきた西郷を江戸の薩摩屋敷で再会させるという感動的なシーンを用意した。二人にとってなつかしい薩摩屋敷だ。
    大地震に見舞われた。
    たしかに感動的ではあるが、その分 史実性が犠牲にされている。
    今時の流行脚本家たちが歴史ドラマを手掛けると、 歴史上の人物たちを直接的に会わせたがる。そのほうがドラマ性が増すからだし、わかりやすい。その分 史実性が損なわれる。ドラマ性と史実性がトレードオフの関係になってしまっている。

  • 西郷どん 第35回「戦の鬼」

    西郷と龍馬の意見の相違は、幕府を武力をもって倒すのか、それとも 大政奉還した旧幕府を新政府に受け入れるのかの路線対立だ。 ドラマでは、吉之助が、 日本を外国の売り渡そうとしている慶喜に警戒心を抱いたことが 幕府を倒さねばならないといと決意させる動機になっていたが、実際のところは 薩摩が新政府で 主導権を握れるかどうかが最大の眼目であったはずだ。
    新政府に 切れ者の慶喜がいては薩摩が主導権を握れない。いかなる場合においても、薩摩が 新秩序では 主役でなければならない、これが倒幕の動機であったはずだ。
    旧秩序を倒すための武力を薩摩が担えば、次の体制では 明確に薩摩が主役に躍り出る。
    このような展望が目の前に開けているにもかかわらず、武力を使わないという選択はなかった。

    薩摩が兵を迅速に動かせたのは、周布正之助などの努力による財政基盤の充実に負うところが大きかっただろう。
    さらに、伝統的に 薩摩の兵は一目置かれていただろう。あまり戦をしたくないと相手だ、薩摩というか、島津兵というのは。関が原のあとの処置で、徳川家康は 負けた側にいた島津に手をつけなかった。

    司馬遼太郎によれば、日本では傑出して薩摩が外交巧者だという。その背景には、島津の武が怖れられていたということがある。 もちろん、武と外交が即結びつくものではなく、そこには結びつけるだけの文化が必要だが、だとしても外交が機能するには まず威嚇する武が背後に控えていたほうがずっと効果的だった。

    1867年7月 後藤象二郎との間で 「薩土盟約」を締結
    1867年11月8日 「賊臣・慶喜を討て」との密勅を岩倉が大久保らに手渡す
           同日 慶喜が大政奉還 発表
    1867年12月8日 龍馬暗殺
    1968年1月3日 西郷らによるクーデター、王政復古の大号令
    1868年1月27日 鳥羽伏見の戦い始まる

  • 西郷どん 第34回「将軍慶喜」

    吉之助が 黒い鞘におさまった刀をじっとみつめていた。
    斉彬から頂戴した刀だ。印象的なシーンだ。
    刀をということで、いよいよ戦う意思を固め、それを斉彬に報告しているようにも思える。
    また、公武合体を推進した斉彬の路線を踏み外し、幕府をつぶすことの決心をもつにいたった心情を告白しているようにも思える。

    この分でいくと、幕末篇は 第36回くらいが最終になるのかな。 とすれば、明治編に14回相当 費やすことになる。
    個人的な願望からすると、できるだけ 幕末に時間をかけて、明治編は 4,5回くらいで済ませて欲しい思ったりするのだが。
    まあ、しかし、西郷が維新政府の初めの数年で果たして役割は、その後の日本の近代化にとって極めて大きいものがあることも事実だ。とくに、廃藩置県に伴う改革は 西郷という存在なくして実現しなかった。おそらく、この点については、後世の日本人が僥倖とすべきことかもしれない。

    ---- 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)

    廃藩置県のような大胆な改革で、西郷の武力による脅しが効いた。その武力の核になったのは、西郷の人間的魅力というところが 実に西郷らしい。 西郷の周りに糾合した薩摩の若者たちは、西郷のためなら命も捨てられるくらいだから、このように形成された武力集団は無言の圧力と不気味さを周囲に漂わさせただろ。
    「花神」(司馬遼太郎原作)で、村田蔵六が、西郷とその取り巻きについて、「危ない」と直感し、日本の将来に災いをなすと予期したのは、こういう西郷の私兵的なありかたを見てのことだろう。

  • 昨日 投稿した文章が はじかれた件だが、突き詰めると 赤で囲った部分が原因となって はじかれているようだ。
    えっ、これで なぜ、だめなのか。 もしかしたら、「暗殺」という言葉が悪いのか。 まさかね。 くりかえし、この赤で囲った文を見ていて、 あっ !!! と思った。 これか。(笑)  こちらが意図していない文の区切り方によって NG言葉が 浮き上がってくる、という  なんというか、まるで 透かし文字 のような世界だな。(笑)

    それで その部分を修正してみた。

    西郷どん 第33回「糸の誓い」

    寺田屋での龍馬襲撃は旧暦の1月23日、現在の暦では3月初めにあたる。
    この事件が、龍馬暗殺の伏線になっているという説がある。
    この寺田屋の事件が 1866年3月初めごろで、 
    龍馬暗殺が1867年12月初めだから、一年と十か月ほどの間(あいだ)があるが、 この寺田屋の一件で 
    捕り手の何人かが負傷したか死亡したはずで、そのため 龍馬の動静には無関心ではいられなかっただろう。

    これらの捕り手たちは闘う集団などではなく、北辰一刀流の使い手の龍馬にたいして最初から及び腰だった。旅籠の女主人 お登勢にたいする尋問で やっと龍馬が二階にいると確信してからでも、なかなか踏み込もうとしない。おそらく、そうやって数時間もグズグズしていただろう。
    もしもこの中に 新選組の隊長クラスの誰かが混じっていれば、結果はだいぶ違っていたにちがいない。
    沖田総司とか斎藤一がいたら、どうなっていたか。おそらく二階にいると知るや、時をおかず斬り込んでいただろう。龍馬がピストルを構える余裕はなかっただろし、ましてやお龍が風呂場から駆け上がって 龍馬たちに異変を知らせる時間もなかった。 機先を制する、これが修羅場をくぐってきた者たちが身につけた 生き残るための鉄則だ。
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    ということで、今度は 全文 拒否されずに掲載できた。

  • 投稿が拒否されている前半の 一番目の文

    西郷どん 第33回「糸の誓い」
    寺田屋での龍馬襲撃は旧暦の1月23日、現在の暦では3月初めにあたる。
    この事件が、龍馬暗殺の伏線になっているという説がある。

  • 6323の投稿は、実際に書いた文章全体の後半部分のみ。
    ということは、前半がひっかかって、投稿がはじかれているということになる。

    おそらく、マイナスの言葉が決められていて、そのひとつひとつならば許容されるが、そのいくつかが一定量の文章の中に含まれていると 自動的に投稿が拒否されるという仕組みになっているのか。
    龍馬を論じるのに、「暗殺」とか「襲撃」という言葉を複数回使った。
    その一個一個ならば 問題にはならないが、同じ文章の中に しばしば使われていると自動的にはじかれる、こんなところか。

  • 西郷どん 第33回「糸の誓い」
    寺田屋での龍馬襲撃は旧暦の1月23日、現在の暦では3月初めにあたる。

    これらの捕り手たちは闘う集団などではなく、北辰一刀流の使い手の龍馬にたいして最初から及び腰だった。旅籠の女主人 お登勢にたいする尋問で やっと龍馬が二階にいると確信してからでも、なかなか踏み込もうとしない。おそらく、そうやって数時間もグズグズしていただろう。
    もしもこの中に 新選組の隊長クラスの誰かが混じっていれば、結果はだいぶ違っていたにちがいない。
    沖田総司とか斎藤一がいたら、どうなっていたか。おそらく二階にいると知るや、時をおかず斬り込んでいただろう。龍馬がピストルを構える余裕はなかっただろし、ましてやお龍が風呂場から駆け上がって 龍馬たちに異変を知らせる時間もなかった。 機先を制する、これが修羅場をくぐってきた者たちが身につけた 生き残るための鉄則だ。

  • 何度 投稿しても 「コメント投稿、スレッド作成を制限しています。」と表示されるので、今回は下記の投稿のみとした。どの言葉が差し障って 投稿が防がれているのか さっぱりわからない。

    真田丸 第18回「上洛」

    松の記憶が戻った。 真田は、秀吉の命により、徳川の配下に置かれた。

  • 西郷どん 第32回「薩長同盟」

    --------- 薩長両藩の外交能力の格段のちがいが、幕末にいたって露骨に出ている。薩摩人にかかっては長州人はこどものようなものであった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)

    「西郷どん」では、薩長同盟にいたるはなしが感動的に、ドラマチックに仕立て上げられている。
    薩摩、もしくは西郷には、冷徹な計算があったはずだ。薩摩というのは、情のみでは動かない。
    そういうところが ドラマには 描かれないね。 まあ、それを期待するのは無理か。

    最近の大河ドラマの癖として、主役が演説をぶつと、聞いている人たちがこころを打たれ、それまでの姿勢をにわかに改めるというのがある。
    「龍馬伝」にもあったし「花燃ゆ」にもあった。

    それで、「竜馬がゆく」から別の一節
    ------------ 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)

    この時点での薩摩と長州の力関係は、薩摩が強者だ。薩摩は、幕府と長州を天秤にかけている。その姿勢は、薩長同盟の密約を結んだ後でも まだ維持していていただろう。万が一の場合、長州を見放す可能性を捨て去っていない。
    それが、「薩摩人にかかっては長州人はこどものようなもの」ということでもある。

    こういう凄味を大河ドラマの西郷に期待するのは 無理だろうな。

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    真田丸 第17回「再会」

    出雲阿国が登場。その一座のなかに姉の松がいた。どうも記憶を失っているらしい。

  • 1864年8月-65年1月 第一次長州征討 
    1865年1月 絵堂の戦い 
    1865年5月 下関で桂と会う約した西郷があらわれなかった事件 
    1866年1月 薩長同盟締結
    1866年7月 - 10月 第二次長州征討

    ここに 大河ドラマ「花燃ゆ」を重ねるとおもしろい。
    1864年秋から翌年の1月の長州内での政変についてのくだりです。
    「花燃ゆ」では、椋梨藤太に比較的焦点が当たる描き方をしていたので、この人物に注目してもいいかもしれない。
    内藤剛志が好演していた。藤太の妻を若村麻由美が演じていて、文(ふみ)たちに高飛車な態度をとっていた。
    実は、第一次長州征討は藩内での椋梨藤太の実権を回復させ、同時に高杉や桂たちを苦境に陥れた。
    それが、幕府軍が退くや、クーデターが起きて高杉晋作らが実権を握り返した。その結果、椋梨藤太は処刑されている。

    長州内でこういうことがあって、その数か月後、下関に西郷が現れなかった件が起こった。内藤剛志の演じていた椋梨藤太が藩の実権を握り続けていたら、 桂が長州を代表すること自体がありえず、だから西郷と会うと約束するという話もありえなかったことになる。この約半年間の長州の政情の変化が きわめてめまぐるしかったことを示している。

  • 西郷どん 第31回「龍馬との約束」

    今回は、満足して楽しめた。長崎で待つ西郷を待つ桂小五郎の話は 大河ドラマ「龍馬伝」にもあったが、龍馬伝はひどい描き方で辟易したが、それからすると今回は ぐっと納得できた。

    「この時点で」、西郷吉之助はまだ薩摩に立脚して物事を考えている。それにたいして、龍馬は脱藩で身であり、藩を離れて日本のことを考えやすい立場にあった。勝にしても、足場である幕府が弱っていて その将来に見切りをつけているから、やはり藩とか幕府にとらわれず 日本のことを射程に入れやすい。それからすれば、吉之助は、立脚する薩摩が強固で、藩に縛られている。あくまでも薩摩のためであり、薩摩の利害の観点から幕府をどうするかというのが吉之助の「この時点での」立場であり、彼の職務だ。

    坂本龍馬が脚光を浴びるようになったのは1960年代以後といわれる。それ以前は 西郷隆盛が歴史上の人物として圧倒的な人気を誇っていた。龍馬が西郷を人気で凌駕するようになった1960年代は、日本が欧米などの西側の一員としての地歩を固め 高度成長の軌道に乗り欧米との貿易を活発化させていった時期だ。司馬遼太郎の描く龍馬像が、ビジネスで世界へ雄飛する日本人像と重なった。とくに商社マンだ。60年代は商社が日本経済をリードする象徴的な企業体だったが、龍馬は 商社マンのイメージとも重なっただろう。
    龍馬が国際派だとすれば、西郷隆盛のイメージは アジア派であり国内派だ。最近 坂本龍馬による業績とされるものについて疑問が呈され、人気に陰りを見せるなか、西郷の人気が回復してきているのは、日本人が内向きになり、いささか内省的になっていることの反映だという見方が出ている。

  • 西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」

    岩倉具視と交流をほぼもったのは大久保の方だが、西郷を主人とするドラマからすれば それではおもしろくないのか、とにかく西郷を様々な歴史上の人物に紐づけしたいのだろう。 西郷を一橋慶喜に個人的に結びつけ、こんどは 岩倉具視に結びつけるというわけか。いずれにしても、どちらの交流も作り話だ。


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    真田丸 第16回「表裏」

    秀吉が真田信繫に 家康には若いころ会ったきりで、それ以来会っていないと言ったが、
    それはいつのことだ。
    おそらく 1570年の朝倉との戦いのときだろ。このとき 家康、27歳。

    茶々との関係が疑われる馬回りが消されるというミステリー。
    茶々に近づきするな、お前も消されるぞと信繫が警告される。

  • 西郷どん 第29回「三度目の結婚」

    ドラマの中で 吉之助が「民のため」としばしば口走っている。
    そういえば、前の方の回で、吉之助が「革命」という言葉をやはり口走ってましたね。(笑) 「革命」と「民のため」という二つの言葉を掛け合わせると 横井湘南あたりを思わせる。
    日本では、吉田松陰がそうであるように、革命といっても天皇を肯定したうえでの革命であり、 孟子の革命論も それにそくして読み換えがおこなわれる。日本では 革命と天皇は 矛盾しないのであり、天皇は革命側に擁されるのである。ということで、倒幕勢力が天皇を擁するのもこの原理に当てはまる。

    司馬良太郎によれば、西郷は幕府を倒した後の明確な青写真をもっていなかった。明治維新が成立するまでに示された西郷の権謀術数、政治能力があまりにも鮮やかであっただけに、以前と以後のちがいがきわだっている。司馬によれば、これが西郷についての最大の謎ということになる。
    坂本龍馬が青写真を持っていたのは横井湘南からの受け売りだ。その点で、西郷は横井湘南、もしくは湘南の影響を受けたひとびとの薫陶を受けていなかったか。あるいは、斉彬のビジョンを深く自分のものにとして身に着けていなかったか。でなければ、倒幕後の新しい時代の日本のあるべき姿への青写真をなぜ彼が持たなかったのか。あれほど、斉彬の薫陶を受けた吉之助が? これも謎の一つだ。

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