ここから本文です

投稿コメント一覧 (286コメント)

  • 西郷どん 第35回「戦の鬼」

    西郷と龍馬の意見の相違は、幕府を武力をもって倒すのか、それとも 大政奉還した旧幕府を新政府に受け入れるのかの路線対立だ。 ドラマでは、吉之助が、 日本を外国の売り渡そうとしている慶喜に警戒心を抱いたことが 幕府を倒さねばならないといと決意させる動機になっていたが、実際のところは 薩摩が新政府で 主導権を握れるかどうかが最大の眼目であったはずだ。
    新政府に 切れ者の慶喜がいては薩摩が主導権を握れない。いかなる場合においても、薩摩が 新秩序では 主役でなければならない、これが倒幕の動機であったはずだ。
    旧秩序を倒すための武力を薩摩が担えば、次の体制では 明確に薩摩が主役に躍り出る。
    このような展望が目の前に開けているにもかかわらず、武力を使わないという選択はなかった。

    薩摩が兵を迅速に動かせたのは、周布正之助などの努力による財政基盤の充実に負うところが大きかっただろう。
    さらに、伝統的に 薩摩の兵は一目置かれていただろう。あまり戦をしたくないと相手だ、薩摩というか、島津兵というのは。関が原のあとの処置で、徳川家康は 負けた側にいた島津に手をつけなかった。

    司馬遼太郎によれば、日本では傑出して薩摩が外交巧者だという。その背景には、島津の武が怖れられていたということがある。 もちろん、武と外交が即結びつくものではなく、そこには結びつけるだけの文化が必要だが、だとしても外交が機能するには まず威嚇する武が背後に控えていたほうがずっと効果的だった。

    1867年7月 後藤象二郎との間で 「薩土盟約」を締結
    1867年11月8日 「賊臣・慶喜を討て」との密勅を岩倉が大久保らに手渡す
           同日 慶喜が大政奉還 発表
    1867年12月8日 龍馬暗殺
    1968年1月3日 西郷らによるクーデター、王政復古の大号令
    1868年1月27日 鳥羽伏見の戦い始まる

  • 西郷どん 第34回「将軍慶喜」

    吉之助が 黒い鞘におさまった刀をじっとみつめていた。
    斉彬から頂戴した刀だ。印象的なシーンだ。
    刀をということで、いよいよ戦う意思を固め、それを斉彬に報告しているようにも思える。
    また、公武合体を推進した斉彬の路線を踏み外し、幕府をつぶすことの決心をもつにいたった心情を告白しているようにも思える。

    この分でいくと、幕末篇は 第36回くらいが最終になるのかな。 とすれば、明治編に14回相当 費やすことになる。
    個人的な願望からすると、できるだけ 幕末に時間をかけて、明治編は 4,5回くらいで済ませて欲しい思ったりするのだが。
    まあ、しかし、西郷が維新政府の初めの数年で果たして役割は、その後の日本の近代化にとって極めて大きいものがあることも事実だ。とくに、廃藩置県に伴う改革は 西郷という存在なくして実現しなかった。おそらく、この点については、後世の日本人が僥倖とすべきことかもしれない。

    ---- 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)

    廃藩置県のような大胆な改革で、西郷の武力による脅しが効いた。その武力の核になったのは、西郷の人間的魅力というところが 実に西郷らしい。 西郷の周りに糾合した薩摩の若者たちは、西郷のためなら命も捨てられるくらいだから、このように形成された武力集団は無言の圧力と不気味さを周囲に漂わさせただろ。
    「花神」(司馬遼太郎原作)で、村田蔵六が、西郷とその取り巻きについて、「危ない」と直感し、日本の将来に災いをなすと予期したのは、こういう西郷の私兵的なありかたを見てのことだろう。

  • 昨日 投稿した文章が はじかれた件だが、突き詰めると 赤で囲った部分が原因となって はじかれているようだ。
    えっ、これで なぜ、だめなのか。 もしかしたら、「暗殺」という言葉が悪いのか。 まさかね。 くりかえし、この赤で囲った文を見ていて、 あっ !!! と思った。 これか。(笑)  こちらが意図していない文の区切り方によって NG言葉が 浮き上がってくる、という  なんというか、まるで 透かし文字 のような世界だな。(笑)

    それで その部分を修正してみた。

    西郷どん 第33回「糸の誓い」

    寺田屋での龍馬襲撃は旧暦の1月23日、現在の暦では3月初めにあたる。
    この事件が、龍馬暗殺の伏線になっているという説がある。
    この寺田屋の事件が 1866年3月初めごろで、 
    龍馬暗殺が1867年12月初めだから、一年と十か月ほどの間(あいだ)があるが、 この寺田屋の一件で 
    捕り手の何人かが負傷したか死亡したはずで、そのため 龍馬の動静には無関心ではいられなかっただろう。

    これらの捕り手たちは闘う集団などではなく、北辰一刀流の使い手の龍馬にたいして最初から及び腰だった。旅籠の女主人 お登勢にたいする尋問で やっと龍馬が二階にいると確信してからでも、なかなか踏み込もうとしない。おそらく、そうやって数時間もグズグズしていただろう。
    もしもこの中に 新選組の隊長クラスの誰かが混じっていれば、結果はだいぶ違っていたにちがいない。
    沖田総司とか斎藤一がいたら、どうなっていたか。おそらく二階にいると知るや、時をおかず斬り込んでいただろう。龍馬がピストルを構える余裕はなかっただろし、ましてやお龍が風呂場から駆け上がって 龍馬たちに異変を知らせる時間もなかった。 機先を制する、これが修羅場をくぐってきた者たちが身につけた 生き残るための鉄則だ。
    ------------------------------
    ということで、今度は 全文 拒否されずに掲載できた。

  • 投稿が拒否されている前半の 一番目の文

    西郷どん 第33回「糸の誓い」
    寺田屋での龍馬襲撃は旧暦の1月23日、現在の暦では3月初めにあたる。
    この事件が、龍馬暗殺の伏線になっているという説がある。

  • 6323の投稿は、実際に書いた文章全体の後半部分のみ。
    ということは、前半がひっかかって、投稿がはじかれているということになる。

    おそらく、マイナスの言葉が決められていて、そのひとつひとつならば許容されるが、そのいくつかが一定量の文章の中に含まれていると 自動的に投稿が拒否されるという仕組みになっているのか。
    龍馬を論じるのに、「暗殺」とか「襲撃」という言葉を複数回使った。
    その一個一個ならば 問題にはならないが、同じ文章の中に しばしば使われていると自動的にはじかれる、こんなところか。

  • 西郷どん 第33回「糸の誓い」
    寺田屋での龍馬襲撃は旧暦の1月23日、現在の暦では3月初めにあたる。

    これらの捕り手たちは闘う集団などではなく、北辰一刀流の使い手の龍馬にたいして最初から及び腰だった。旅籠の女主人 お登勢にたいする尋問で やっと龍馬が二階にいると確信してからでも、なかなか踏み込もうとしない。おそらく、そうやって数時間もグズグズしていただろう。
    もしもこの中に 新選組の隊長クラスの誰かが混じっていれば、結果はだいぶ違っていたにちがいない。
    沖田総司とか斎藤一がいたら、どうなっていたか。おそらく二階にいると知るや、時をおかず斬り込んでいただろう。龍馬がピストルを構える余裕はなかっただろし、ましてやお龍が風呂場から駆け上がって 龍馬たちに異変を知らせる時間もなかった。 機先を制する、これが修羅場をくぐってきた者たちが身につけた 生き残るための鉄則だ。

  • 何度 投稿しても 「コメント投稿、スレッド作成を制限しています。」と表示されるので、今回は下記の投稿のみとした。どの言葉が差し障って 投稿が防がれているのか さっぱりわからない。

    真田丸 第18回「上洛」

    松の記憶が戻った。 真田は、秀吉の命により、徳川の配下に置かれた。

  • 西郷どん 第32回「薩長同盟」

    --------- 薩長両藩の外交能力の格段のちがいが、幕末にいたって露骨に出ている。薩摩人にかかっては長州人はこどものようなものであった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)

    「西郷どん」では、薩長同盟にいたるはなしが感動的に、ドラマチックに仕立て上げられている。
    薩摩、もしくは西郷には、冷徹な計算があったはずだ。薩摩というのは、情のみでは動かない。
    そういうところが ドラマには 描かれないね。 まあ、それを期待するのは無理か。

    最近の大河ドラマの癖として、主役が演説をぶつと、聞いている人たちがこころを打たれ、それまでの姿勢をにわかに改めるというのがある。
    「龍馬伝」にもあったし「花燃ゆ」にもあった。

    それで、「竜馬がゆく」から別の一節
    ------------ 西郷という人は、武力こそ外交を好転させる無言の力だという思想の信奉者で、これは終生かわらなかった。 (司馬遼太郎著「竜馬がゆく」)

    この時点での薩摩と長州の力関係は、薩摩が強者だ。薩摩は、幕府と長州を天秤にかけている。その姿勢は、薩長同盟の密約を結んだ後でも まだ維持していていただろう。万が一の場合、長州を見放す可能性を捨て去っていない。
    それが、「薩摩人にかかっては長州人はこどものようなもの」ということでもある。

    こういう凄味を大河ドラマの西郷に期待するのは 無理だろうな。

    ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
    真田丸 第17回「再会」

    出雲阿国が登場。その一座のなかに姉の松がいた。どうも記憶を失っているらしい。

  • 1864年8月-65年1月 第一次長州征討 
    1865年1月 絵堂の戦い 
    1865年5月 下関で桂と会う約した西郷があらわれなかった事件 
    1866年1月 薩長同盟締結
    1866年7月 - 10月 第二次長州征討

    ここに 大河ドラマ「花燃ゆ」を重ねるとおもしろい。
    1864年秋から翌年の1月の長州内での政変についてのくだりです。
    「花燃ゆ」では、椋梨藤太に比較的焦点が当たる描き方をしていたので、この人物に注目してもいいかもしれない。
    内藤剛志が好演していた。藤太の妻を若村麻由美が演じていて、文(ふみ)たちに高飛車な態度をとっていた。
    実は、第一次長州征討は藩内での椋梨藤太の実権を回復させ、同時に高杉や桂たちを苦境に陥れた。
    それが、幕府軍が退くや、クーデターが起きて高杉晋作らが実権を握り返した。その結果、椋梨藤太は処刑されている。

    長州内でこういうことがあって、その数か月後、下関に西郷が現れなかった件が起こった。内藤剛志の演じていた椋梨藤太が藩の実権を握り続けていたら、 桂が長州を代表すること自体がありえず、だから西郷と会うと約束するという話もありえなかったことになる。この約半年間の長州の政情の変化が きわめてめまぐるしかったことを示している。

  • 西郷どん 第31回「龍馬との約束」

    今回は、満足して楽しめた。長崎で待つ西郷を待つ桂小五郎の話は 大河ドラマ「龍馬伝」にもあったが、龍馬伝はひどい描き方で辟易したが、それからすると今回は ぐっと納得できた。

    「この時点で」、西郷吉之助はまだ薩摩に立脚して物事を考えている。それにたいして、龍馬は脱藩で身であり、藩を離れて日本のことを考えやすい立場にあった。勝にしても、足場である幕府が弱っていて その将来に見切りをつけているから、やはり藩とか幕府にとらわれず 日本のことを射程に入れやすい。それからすれば、吉之助は、立脚する薩摩が強固で、藩に縛られている。あくまでも薩摩のためであり、薩摩の利害の観点から幕府をどうするかというのが吉之助の「この時点での」立場であり、彼の職務だ。

    坂本龍馬が脚光を浴びるようになったのは1960年代以後といわれる。それ以前は 西郷隆盛が歴史上の人物として圧倒的な人気を誇っていた。龍馬が西郷を人気で凌駕するようになった1960年代は、日本が欧米などの西側の一員としての地歩を固め 高度成長の軌道に乗り欧米との貿易を活発化させていった時期だ。司馬遼太郎の描く龍馬像が、ビジネスで世界へ雄飛する日本人像と重なった。とくに商社マンだ。60年代は商社が日本経済をリードする象徴的な企業体だったが、龍馬は 商社マンのイメージとも重なっただろう。
    龍馬が国際派だとすれば、西郷隆盛のイメージは アジア派であり国内派だ。最近 坂本龍馬による業績とされるものについて疑問が呈され、人気に陰りを見せるなか、西郷の人気が回復してきているのは、日本人が内向きになり、いささか内省的になっていることの反映だという見方が出ている。

  • 西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」

    岩倉具視と交流をほぼもったのは大久保の方だが、西郷を主人とするドラマからすれば それではおもしろくないのか、とにかく西郷を様々な歴史上の人物に紐づけしたいのだろう。 西郷を一橋慶喜に個人的に結びつけ、こんどは 岩倉具視に結びつけるというわけか。いずれにしても、どちらの交流も作り話だ。


    ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
    真田丸 第16回「表裏」

    秀吉が真田信繫に 家康には若いころ会ったきりで、それ以来会っていないと言ったが、
    それはいつのことだ。
    おそらく 1570年の朝倉との戦いのときだろ。このとき 家康、27歳。

    茶々との関係が疑われる馬回りが消されるというミステリー。
    茶々に近づきするな、お前も消されるぞと信繫が警告される。

  • 西郷どん 第29回「三度目の結婚」

    ドラマの中で 吉之助が「民のため」としばしば口走っている。
    そういえば、前の方の回で、吉之助が「革命」という言葉をやはり口走ってましたね。(笑) 「革命」と「民のため」という二つの言葉を掛け合わせると 横井湘南あたりを思わせる。
    日本では、吉田松陰がそうであるように、革命といっても天皇を肯定したうえでの革命であり、 孟子の革命論も それにそくして読み換えがおこなわれる。日本では 革命と天皇は 矛盾しないのであり、天皇は革命側に擁されるのである。ということで、倒幕勢力が天皇を擁するのもこの原理に当てはまる。

    司馬良太郎によれば、西郷は幕府を倒した後の明確な青写真をもっていなかった。明治維新が成立するまでに示された西郷の権謀術数、政治能力があまりにも鮮やかであっただけに、以前と以後のちがいがきわだっている。司馬によれば、これが西郷についての最大の謎ということになる。
    坂本龍馬が青写真を持っていたのは横井湘南からの受け売りだ。その点で、西郷は横井湘南、もしくは湘南の影響を受けたひとびとの薫陶を受けていなかったか。あるいは、斉彬のビジョンを深く自分のものにとして身に着けていなかったか。でなければ、倒幕後の新しい時代の日本のあるべき姿への青写真をなぜ彼が持たなかったのか。あれほど、斉彬の薫陶を受けた吉之助が? これも謎の一つだ。

  • 西郷どん 第28回「勝と龍馬」

    龍馬が西郷にあったのはいつか
    1864年
    6月5日 池田屋事件
    7月19日 禁門の変
    8月5日 下関戦争
    8月中旬 龍馬、勝の紹介で西郷に面会

    「竜馬がゆく」(司馬遼太郎)では、錦小路の薩摩藩邸に竜馬が西郷を訪ねたことになっている。その前に、西郷が勝に会っていて、「長州をはやく打つべし」と催促している。西郷は 長州を攻めるべしということでは強硬派だ。場合によっては、幕府よりも強硬。ためらっている幕閣を西郷がたしなめる。弱腰の幕府官僚を薩の西郷が責めたてる。

    大河ドラマでは逆になっていて、西郷を平和主義者に見せたいらしい。(笑) まあ、いつものことだが。
    「竜馬がゆく」にあるように、長州を成敗することでは西郷は強硬な態度を示した。戦も辞さずという姿勢であるのは、軍事を生業とする武士においては当然のこと。西郷は、戦(いくさ)と外交が密接にリンクしていることをよくわかっている。交渉で相手を動かすには、戦も辞さないという本気の姿勢を示すことが必要だ。
    司馬遼太郎によれば、薩摩は伝統的に外交能力に長けているという。そこが長州とは違う。

    前々からそうだが、大河ドラマは 「戦争は悪」という価値観を中に入れ込んでおきたいようだな。
    この時代、日本のみならず、世界的に「戦争は悪」という価値はまだない。
    しかも、大河ドラマで主に活躍しているのは武士たちだ。武士とは本来、鎌倉以来「戦うこと」を生業としている者たちだ。
    また、 「戦争は悪」という考えであれば、外交は機能しない。戦争という手段に訴えることにおいて西郷は本気を示さなければならない。でなければ、交渉事は動かない。司馬遼太郎によれば、このころ 西郷は外交では ずば抜けた才能を発揮した。

    ふきという 慶喜のそばに使える百姓出の女が、民を苦しめる戦(いくさ)はやめてくれという。
    奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)としか言いようがない。武家に仕える女が、本来 戦(いくさ)を生業(なりわい)とし、征夷大将軍たる武家の棟梁(とうりょう)の家柄にあるものに向かって「戦を止めて」というのはない。それ以上に この時代の常識からすると殿さまにこういう政策のことで物申すのは、女として出すぎている。

    伝統的な歴史小説に寄らない、いまの脚本家が書きそうなことだ。まずもって、権力というものを描けない。

  • >>No. 3545

    ここでは、初めての投稿です。よろしくお願いします。
    青葉ずくさんが書かれているなかで、ケビンコスナー、クリントイーストウッド、荒野の決闘の言葉が見えるので、
    俄然 何かしら投稿したいという気持ちになりました。(笑)
    ケビンコスナー監督、主演で「ワイアット・アープ」(1994年)という作品があります。私が好きな作品なんですが、名保安官ワイアット・アープを比較的等身大に描こうとしていています。ワイアットは、普通の人というよりも、もしかしたら普通以下の男だった。若いころは人の金を盗んだり、投獄されたり、保安官補になってからも冷酷で 嫌われもので、ドッジシティーから追放もされた。そのワイアットが巻き込まれた銃撃戦、のちに「OK牧場の決闘」として名高い伝説的銃撃戦ですが、実態は決闘というよりも、いざこざによる、しかも偶発的撃ち合いというものに近い。しかも、これは数分で終わっています。それ以前の、OK牧場での事件を取り上げた映画とはえらい違いです。(笑)
    ただ、この映画がすごいと思うのは、ワイアットがふつうのひとであり、どうしようもない男があるがゆえに
    銃撃戦に立たされたときに示された彼の緊張感や勇気が観ているわたしにびんびんと伝わってきたこと。 これは、クリントイーストウッドの「15時17分、パリ行き」(2018年)(ただし、わたしは未見です)という新作のテーマにも通じるもので、英雄とかヒーローという色を排除し、普通の人がある状況に立たされたときの行動というものを通して 怖れとか緊張とか、それゆえの勇気が示される。
    ケビンコスナーの「ワイアット・アープ」に関していえば、西部劇の英雄伝説の否定という側面もあると思います。
    この映画、アメリカでの評価が低く 駄作とされた。だらだらと長く、しかも肝心の「OK牧場の決闘」がこれかよ、という失望があったかもしれない。 まあ、わたしはひじょうにいい作品だと思うですけどね。私のように、この作品はかつての西部劇に一石を投じたと考える人たちは高い評価を与えるんでしょうが、はたしてケビンコスナーの真の意図はどこにあったのかな。

  • 西郷どん 第27回「禁門の変」

    西郷が歴史の表舞台に登場するのは禁門の変(1864)からだろう。
    ここから倒幕を経て維新政府成立あたりまでが、西郷の人生の最も光の当たる部分であり、観るものとしてはワクワクする部分だろう。期間にしておよそ5,6年か。
    それからすると、明治政府の中での西郷は 段々と痛々しくなる。

    司馬遼太郎は、おそらく 西郷にそれほどの好感をもっていなかったかもしれない。
    西郷よりは 大久保を好んだろう。

    「花神」のなかで、村田蔵六は、西郷を得体のしれない人物とみなし、警戒心を抱いた。
    西郷は、人々を吸引する魅力を持っている。
    薩摩の若者で、西郷のためなら命を惜しまないものが多くいた。殿の久光よりも、西郷だ。
    久光が西郷に軍事の実権を引き渡したのは、これが理由の一つだろう。
    久光にはついていかないが、西郷ならば命も捨てられる。

    蔵六は、そういう西郷を得体が知れないとし、警戒した。 あくまでも小説の中での話。
    が、こういう描き方に作家の本音が見える。

    が、その司馬遼太郎にしても、言うまでもなく 西郷がいなければ維新が達成されなかったことはよくわかっている。

    大久保では、人は動かせなかった。そういうところが、ドラマにも描かれていた。
    薩摩の同輩たちを説得できないで悩む大久保。吉之助ならば人を動かせるのに 自分には出来ない。
    そういう正助を慰める妻のシーンがあった。

  • 西郷どん 第26回「西郷 京へ」

    この回において、一橋慶喜が将軍の代理として京に滞在しているのは、薩摩の久光の働きがあったからだが、その陰に大久保一蔵と岩倉具視の画策があった。
    それはともかくとして、西郷吉之助と一橋慶喜の個人的な交流のシーンが目ざわり。これがなければ 大河ドラマ「西郷どん」を歴史ドラマとして もっと素直な気持ちで楽しむことができるのだが。(笑)

    参与会議は、慶喜と久光、その他何人かのの大名によって形成された。
    しかし、会議といっても、当時の日本人が討論の作法を身に着けていたとは思われないから、出席者が対等な立場で意見を出し合い 建設的で活発な議論をするというようにはいかなかっただろう。まさにドラマにあったような状況であったかもしれない。討論という概念が入ってくるのは明治になってからであり、新島襄や福沢諭吉などの啓もうがそれに貢献しただろう。

  • 西郷どんスペシャル(2)「いざ革命へ!西郷と4人の男たち」

    幕末に活躍した人物を四人について、その知名度ランキングを出していた。
    誰が 最もよく知られているのか。人気度ランキングとは異なる。
    つまり、どの人物を好きかという問いではなく、どの人物を知っているかという問いに対するアンケートだ。
    坂本龍馬、勝海舟、岩倉具視、桂小五郎 の順番だったと思うが、
    桂小五郎が岩倉具視よりも下にきているのが目を引いた。
    まあしかし、岩倉具視を知っている一般人が そう多いとは思われない。その岩倉よりも桂小五郎が下に来ているというのが不思議な感じだ。 桂五郎を知らないのは、今の20代は 「鞍馬天狗」になじみがないからか。(笑)

    まあ、おそらく、岩倉よりも桂の方が知名度ランキングが下というのはあまり意味がなくて、知られていないということでは、どちらも似たり寄ったりですよ、ということなんだろう。

    歴史時代劇、もしくは「鞍馬天狗」のような歴史活劇において桂小五郎がヒローであった時代があった。
    「杉作、日本の夜明けは近い!」(笑) ただし、この台詞、原作にはないようだ。

    桂小五郎が知名度が低いという点については えっ!? という感じはあるが、 多くの人が岩倉具視を知らなくても 別に驚きはないだろう。
    しかし、岩倉はお札の肖像になっていたことがあるし、歴史学者の磯田氏が述べていたように、幕府を倒すのに岩倉の貢献は大であった。
    岩倉具視のような策謀家は一般受けしないし、何よりもドラマ化しにくい。そのため、この男の業績が十分に認識されているとは言い難い。

    真田丸 第15回「秀吉」

    真田信繫にとって初めての大阪城。大阪城の威容に圧倒されたようだ。そして、秀吉との出会い。
    ともあれ、
    秀吉、淀君、石田三成、加藤清正、福島正則 といった
    太閤記のメインキャストが勢揃いした回だった。

  • 西郷どん 第25回「生かされた命」
    幕末ものであって、西郷隆盛を主人公としないドラマでは、西郷が初めて登場するのは だいたい禁門の変(1864年)だろう。
    坂本龍馬や勝海舟、高杉晋作などが主役となるような歴史ドラマでは、京都御所の門を背にして、突如として西郷の指揮する薩摩兵が大砲を据えて長州と対峙するシーンが 出てくる。 これが あの西郷か、となる。
    どの歴史上の人物を主人公にするかで西郷の見え方が異なるが、西郷が脇役のドラマでは、
    禁門の変で薩摩兵を指揮する西郷は 実に厳めしく、怖い存在として映る。 その西郷も、その少し前に 島流しにあっていたとは、視聴者は知らない。大河ドラマ「八重の桜」や「花燃ゆ」でも、京都御所での戦闘を指揮する西郷の毅然とした姿があったが、その少し前に島流しにあっていたとは視聴者は気づかない。

    実際の歴史の表舞台においても、西郷隆盛が登場するのは禁門の変からであり、その点でドラマでの現れ方と一致している。

    1864年
    2月 吉之助、島から鹿児島に戻る
    8月 禁門の変
    吉之助、坂本龍馬と初めて会う

  • 西郷どん 第24回「地の果てにて」

    一橋慶喜が島津久光を、兄と比較して田舎者呼ばわりする、まあないだろうな。(笑)
    よほどの理由がない限り、 家来たちのいるところで あそこまで大名の殿さまをこき下ろすのは不自然だろう。
    何よりも武家は名誉を重んじる。恥をかかせられるのは死を意味するのに等しい。

    話の流れからすると、慶喜が 西郷のことに触れたことが、西郷の沖永良部島遠流の一因になったことを匂わせている。
    まあ、これもないだろう。第一、慶喜が西郷のことに触れるいわれはない。
    以前 廓(くるわ)界隈でふたりがよく会っていたということ自体がありえず、このドラマの作り話だ。
    こういう描き方は、歴史ドラマとしての「西郷どん」を安っぽくしている。

    真田丸 第14回「大阪」

    石川数正、真田信尹にそそのかされ、秀吉のもとに走る。
    まあ、作り話だろう
    ただ、真田の物語で、真田信尹にこれだけ光が当たったことは 余りないのではないか。

    1584年 真田信尹、徳川家に仕える
    1585年 上田合戦

  • 西郷どん 第23回「寺田屋騒動」
    1)
    大久保と岩倉具視が初めて接触したのはいつごろか。久光が藩兵1000人を率いて京に入ったことが切っ掛けだとされる。とすれば、寺田屋騒動の前だ。1862年5月頃になる。それは、今回は描かれなかった。
    実は、幕末の政争の行方を決めるうえで、大久保と岩倉具視の出会いほど重要なものはなかった。
    大久保と西郷の組み合わせに引けを取らないほど決定的に重要なのが 大久保と岩倉具視の組み合わせだ。
    2)
    海江田というのが出ている。司馬遼太郎の「花神」では、海江田信義という名前で、村田蔵六と対立し、いささか悪役の感がある。蔵六暗殺に関与したことを臭わせている。
    3)
    島津久光が帝(みかど)の詔(みことのり)を頂いて舞い上がる様(さま)は、「八重の桜」にあった、会津容保(かたもり)が孝明天皇から天杯と緋の御衣を賜って大いに恐縮するシーンと重なる。
    この時、薩摩と会津は反尊王攘夷派として近い立場にあつたということだな。

    1862年 5月  寺田屋事件
    1864年 7月  池田屋事件
    この二つの事件を並べてみる。 一方が薩摩が係わり、他方は会津が係わっている。
    共通するのは、尊王攘夷派への弾圧だ。 背景にあるのは、尊王攘夷と公武合体の間の路線対立とも言える。
    孝明天皇は公武合体を支持し、岩倉具視の活動もあり 1862年2年に和宮降嫁が実現した。

    ここで興味深いのは、孝明帝が なぜを尊王攘夷派を嫌うのかということだ。だって、尊王攘夷というのは、「朝廷を貴(たっと)びます、欧米の勢力を打ち払いましょう」ということで、孝明帝の考えとぴったりだ。(笑) それが、なぜ 嫌うのか。 それは、尊王攘夷派が倒幕の意志を含んでいるからで、孝明帝からすると 徳川幕府による現秩序を揺るすことに不安を持っていたのだろう。 
    思想(=価値観)と政治的動きが一致するとは限らないということ。素朴な人は、考え方が同じなら支持してくれるだろうと信じがちだが、そこに政治的な要素が加われば、必ずもしもそういかなくなるときがある。

本文はここまでです このページの先頭へ