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投稿コメント一覧 (264コメント)

  • >>No. 25840

    こまめさん
    不幸中の幸いでしたね。私の場合は躓き転倒から
    とんでもない事になってしまい現在も歩行困難な
    生活をしています。車椅子生活を10ヶ月弱しました。
    今でもかがんだり出来ませんのでヘルパーさんの
    お世話になっていますがリハビリも続けていますが
    なかなか強情で治ってくれません。歩行数も三千歩位が
    限度でしょうか。街場でしたらタクシーでどうにか
    なりますが朝晩二回散歩しながら六千歩ですから
    行きたい所にも行けません。たまに息子が来て
    外出するのが楽しみで辺りの景観が変わっているのが
    新鮮に思えます。心は折れていませんのでポジティブに
    過ごしています。暗い話でご免なさいね。

  • >>No. 6417

    日本では北朝鮮から中国を経て輸入されているのが多く
    安いですが香りはいまいちです。

  • >>No. 6409

    マツタケの保存は乾いた紙に包んで冷凍が最善策です。

  • ぱんださん
    随分遠くまでドライブしたのですね。
    小海にはご存知でしょうが国民宿舎があり
    泊まって猟をした事がありますしもう少し上には
    野辺山でしたか日本一標高が高い駅と天文台が
    ありましたね。今では東御市ですが以前は○○郡東部町
    でLPGタンクの建設で行き帰りは大屋から国鉄のバスで
    和田峠?を越えて下諏訪に抜けた事がありますが道中には
    ドライブインもなく運転手に止めて貰い用を足した事が
    あり寒かったでしたね。千曲川からの浅間山は良かった
    です。古い話ばかりですみません。
    そうそう・・小海から西を見ると八ヶ岳がおいかぶるようで
    圧巻ですね。

  • こまめさん
    暑さに負けず頑張りますね。
    私はカメラには興味がなく台湾へ行く時に初めてカメラを
    買いましたのがアサペンのESで捻じ込み式最後の品物でした。
    今でも壁にかかっていますがシャッターがきれるって事は
    使えるってことですか?仕事では九州以外殆ど全国を回って
    いますが島根と鳥取は行ってないですね。
    高松の四国ドックにいた頃は「むらさき丸」と「くれない丸」
    に憧れましたが別府~神戸の直行便ですから神戸までは
    半貨客船で「小豆島」へ寄航してオリーブ娘にテープを投げて
    クルーズの真似事もしました。(笑

  • >>No. 25809

    こまめさん
    リフトの写真はマミヤだかリコーだか分かりませんが
    二眼のカメラでした。社長に借りて撮りましたが巷には他にもたくさん在ったと思いますが今思えば使い難いカメラだったと
    ど素人のくせに思っていました。
    もう一館在ったの思い出しました「黒い傷あとのブルース」と言う小林旭の映画で幕間に流れた歌が分からずもぎりのお姉さん
    に聞きに行きましたら松島アキラの「湖愁」で歌詞まで書いてくれました。暮れに帰りますと社長に言いましたら溶接工が居なく
    なるので帰ってこないけんと言われましたが帰れませんでした。
    また書きます。

  • >>No. 25810

    空さん
    インパルスは両方が山ですから中間を目指して飛んで来る
    と思います。前日に飛行ルート確認で下見に来ると
    思いますので方向だけは確認しておいた方が宜しいかと。

    当日は当方では花火大会ですので船からいっぱいやりながら
    鑑賞する心算です。

  • 後編
    残されている台湾総督府の統計によると、明治33年(1900)には16万9千人にものぼったアヘン常習者は大正6年(1917)には6万2千人、昭和3年(1928)には2万6千人、昭和14年(1939)5千人にまで減少した。この後、総督府では昭和20年(1945)にアヘン吸引免許の発行を停止、50年近くをかけて台湾のアヘン根絶が達成された。
    大正12年(1923)には、中国税関行政を掌握した海関税務司の英国人エフ・エイ・アグレンは「台湾のアヘン制度に学ぶべきだ」と万国禁煙会議で提案した。また翌年5月3日の上海英字新聞「宇西西報」では、台湾アヘン政策の成功を絶賛する記事を掲載し、注目を集めた。ちなみに明治43年(1910)に台湾の制度を真似た中国のアヘン断禁政策は失敗し、逆に吸引者が増加した。アヘン漸禁策で取った手法を後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明している(比喩で「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない」と語っている)。それは「社会の習慣や制度は生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」というものだった。
    アヘン政策以外では、後藤は大規模な人口調査を実施したうえで、水道や道路、鉄道、湾港などのインフラを整備し、衛生環境と医療の大改革を推進した。台湾の上下水道の普及とともに伝染病の流行は治まった。また内地から100人を超える医師を招集し、各地に配置した。近代的衛生教育を徹底させる公医制度をはじめ、予防消毒事業団の設立など次々と衛生改善策を打ち出し実行した。


    このような記事を見ましたのでコピペ致します

  • 中篇
    その調査結果を基に「アヘン事項調査」を完成させた。これは「台湾アヘン問題の百科辞書」と言われるほど詳しい調査研究分析報告書であった。後藤は綿密なアヘン問題の研究調査から全面禁止は不可能と判断した。また「日本人は阿片を禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の引き金のひとつともなっていたことから後藤はアヘンを性急に禁止する方法をとらなかった。
    後藤はまず、国営によるアヘン製造工場を作って専売制を敷いて違法組織を締め出した。一方、その収益を台湾の衛生事業施設の主要経費に当て、台湾各地に病院を建設し、総督府付きの医学校創立するなど、一石二鳥の政策を取った。またアヘンに高率の税をかけるとともに吸引を免許制として常習者を減らしていく漸禁策を採用した。これによりアヘン常習者は徐々に減少した。

  • 日清戦争後の明治28年(1895)、下関条約締結でわが国が台湾の割譲を受けた際、伊藤博文と陸奥宗光は清国側全権大使の李鴻章から皮肉を込めて「台湾には絶対に根絶できない四害がある。特にアヘンと瘴癘(しょうれい:風土病)は脅威である」との警告を受けた。李鴻章がいった四害とは、生蕃(反乱を起こす原住民)、瘴癘(風土病)、アヘン、匪賊(盗賊)のことである。日本統治時代以前の台湾は衛生環境が悪く、気候風土は伝染病が広がりやすい条件が揃っているため伝染病が流行すると、多くの死者が出るのを防ぐ手立てはなかった。事実、明治28年(1895)の日本軍澎湖群島上陸当時、6194人の日本兵士のうち1945人がコレラに感染し、1247人が死亡している。罹患率は31%で、死亡率は64%にも達した.
    また清にとって台湾は「三年一小反、五年一大乱」(3年に1度は小反乱、5年に1度は大反乱)といわれる程の難治の民であった。そして、台湾住民も中華思想により日本を一段下の東夷(東の野蛮な国)と見ていたのである。その日本の統治が決まると「弁髪を切り、纒足をとき、アヘンを禁ずる」という噂が流れ、台湾統治の当初は反乱がしばしば起こった。
    明治31年(1898)3月、児玉源太郎が台湾総督となると後藤新平を抜擢し、同年6月に自らの補佐役である民政局長とした。そこで後藤は徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を推し進めた。台湾ではオランダ統治時代からアヘンが蔓延しており、後藤はこの問題の深刻さを憂い特に綿密な調査を指示していた。


    前編です。

  • 阪急三宮駅は阪急デパートの傍に在ったとおぼろげながら記憶にあるのですが当時から高架だったような・・
    映画館がありまして「風と共に去りぬ」を観た事は
    覚えています。垂水の映画館は商店街?の中ほどに
    在りましたが邦画専門で当時は二本立てが主流でお客も
    少なかったですね。

    いつごろか分かりませんが元住吉におられたたとか・・
    法政二校がありますし日吉には慶應が夏の県予選が
    真っ最中ですが「柴田勲」以来顔を出さないのが寂しい
    気持ちです。ぱんださんはその近辺は明るいです。

    当時のみなと祭りは横浜もそうですがトラックの荷台に
    ミス神戸が乗り今みたいな派手さは無かったような気が
    します。今では山下公園からみなと未来まで一日がかりの
    みなと祭りになったそうです。久しく行っていません。

    須磨浦公園のリフトがありましたので。

  • >>No. 25790

    キクさん こんにちは

      白内障のオペなんて怖くないですよ。
      オペの前に点眼液で眼球が動かないように
      してオペ台に寝かされ難聴でもジョリッっと
      聞こえましたが手際よくレンズを入れるだけ
      で10分足らずで終わり眼帯をかけて終了。

      翌日時間が来ましたら眼帯を外してくれます。
      世の中がこんなに明るく見えて感動ものです。

  • >>No. 25788

    空さん こんにちは。

      ウグイスでしたか・・声はすれども姿は見えず
      ですね。
      ウグイス嬢が我に逢いたくて飛び込んで来たので
      しょうか(^^;;

    10枚撮るのに100枚弱撮りました・・ヘボですねぇ~
      大体止まる所が分かりましたので置きピンで仕留めました。

      大急ぎで編集しましてOKでしたので窓を開けましたが
      未練があるのか10分位は出て行きませんでした。
      折角ですからコーヒーでもとポットで沸かしていましたら
      焼き鳥にされると勘違いして挨拶もなく飛び出して行きました。
      そう言えば今日は囀りが聞こえませんね。

  • >>No. 25792

    こまめさん こんにちは
     
     電鉄垂水駅の傍に下宿して明石の次の西新町まで
     通っていました。休みには明石公園や舞子の浜を
     うろついたり須磨浦公園のリフトで上がったり
     懐が暖かい時は三宮、元町にも行きました。
     塩谷?の国道下には「佐川満男?」の実家が
     ありましたね。社長の家が高丸陸にあり洗濯しに
     行きましたがスリーダイヤの社員寮の上から北は
     雑木林だけでしたが今では高速道路があるんですね。

     鎌倉は山が多くて鎌倉アルプスと呼ばれています。
     円覚寺、建長寺、高徳院、長谷寺、と禅宗の寺が多く
     平地の大町には日蓮宗の小さな寺が多くあります。
     獣道とはもしかして円覚寺の上の名月院から上へ
     登ったのかと思いますが?紫陽花で有名な寺ですから。

     八景島の浜は横浜市が管理しているのかと思いますが
     定かではありません。無料で潮干狩りを開放してますが
     悪いのが居て商売にしていると批判されています。

     神戸が懐かしくなりました。

  • >>No. 25786

    追伸
    昨日暑さで家に舞い込んだ鳥ですが名前も分かりませんが
    1時間位かけて撮った鳥ですが・・・
    空さんが教えて頂けると思っています。

  • >>No. 25785

    こまめさん こんにちは。
    三浦半島の住人はこふぐです。画像を拝見しましてもしかしたら
    垂水辺りかと思いアースで見ましたらやっぱり垂水でしたね。
    十代の頃垂水に半年ほど居ましたが殺風景な浜でしたが
    半世紀以上経ちますと様相ががらりと変りますね。

  • まめさんも藍さんも何とか無事で良かったですね。
    浸水被害の経験がありますので水の恐さは知っています。
    二階の窓からボートで逃げた事があります。
    親たちは村人の助勢で家を杉の木につなぎ流出は免れましたが
    水がひいてから消防の手押しポンプを使い中を洗いましたが
    臭いが消えなかった事を覚えています。8歳の時でした。
    無ければ困るし多すぎても困りますね。

  • >>No. 25763

    皆様はお分かりと思いますがこのようなのを
    検索しますとライブで状況が分かりますので便利かと・・・

     「河川水位カメラ」と入れて置きまして自分の県名と
      近くの川の名前を入れますとライブカメラが状況を
      写してくれますのでお気に入りに入れておけばいざっっと
      言う時に役立つかも知れませんので。検索欄ですから・・

      当方には川が在りませんので海って入れたらペケでした。
      古い情報でしたらすみません。  ふぐ

  • >>No. 25762

    空さん
    今からデートの準備でバタバタしています。
    でも~~この大雨で天の川が増水していて渡れるかどうか
    心配しています。神様にお願いしてポンプで排水して水位を
    下げて貰おうかと思案中ですが排水すれば地球にまたまた
    迷惑がかかると思いますと釘じゃなくて二の舞を踏むと
    痛い目にあうので苦しんでいます。コホンコホン^^:
    もう予約を入れておきました。

  • >>No. 25753

    タイロンパワーとキムノヴァクだったと記憶しておりますが。
    タイロンパワーと言えば「長い灰色の線」も涙なくして語れない
    映画だと。「地上より永遠に」のモンゴメリークリフトが隊内で
    殺された友人のために夜中に吹いたラッパの音も泣かされ
    ましたし「哀愁」のビビアンリーとか・・何故昔の映画は
    好かったですね。ターザンなどは夢物語でした。

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