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投稿コメント一覧 (782コメント)

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.214、通しNo.414、

    人間の根源的、また究極的行為においては、単なる対象に関わる場合とは異なり、形式と内容が分かち難く一致しているからである。{然り}どのような宗教的行為においても、これらの傾向や目標といった要素が、少なくとも潜在的には共に機能していると思われる。そこで、宗教的行為の本質に重点をおいたこれまでの考察を、その派生的な在り方や展開に即して理解し、論じる事で補う必要がある。ここに宗教哲学の分野では、これまで殆ど手つかずだった広範な分野が開かれる事になるが、私はここでは宗教的行為の根本的な段階に限定して、そこに見られる諸形態を区別して考察したいと考えている。
     超越者と人間のとの関わりが、自由な人間同士に類似した対話的性格を帯びており(?)、更に宗教的行為が超越との関わりを、理解と自由意志でもって、つまり意義あるものとして実現している{人間側の勝手な価値観の投影ね?}事から、対話と意義の実現を可能にし支えるものとして、「言葉」を以下の考察を導く共通の視点とする。

    1、言葉としての現実と神現としての根源語
    超越との関係を、言葉ないし語り、というモデルのもとで理解しようとする場合には、言葉が論究される際に、通常採用されている主体中心的な立脚点や解釈を批判的に再検討し、語りや対話が現実そのものの重要な特徴であり、存在論的出来事である事を示す必要があろう。{つまり世俗的存在論における語りや対話ね?}なるほど通常は、言葉は現実や存在にとって付随的なものにすぎず、既に存在する事態や事象を外から記述する道具として理解される事も多い。ごく大まかに図式化すれば、このような理解は、実在するのは個々の物であり、「物の(背)後にある名」としての普遍ではない、という「唯名論」(?)に傾く理解であるが、このような考え方によれば、言葉がその意味内容において、現実の実質ないし本質を把握し伝える力を有している、という事実が説明し難くなる。{即ち教授は、中世キリスト教の(客体的対象のあれかこれかの二元論的)「普遍論争」(と言われているもの…その現代への影響は大ね!)の中間~普遍側を意図しているのだろうか?}
    言葉の意味内容が、言葉の使用に先立ち、既に何らかのかたちで事物自体に属し、その事物を通じて表現されていなければ、{?それを我々が受け取らな

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.213、通しNo.413、

    「人間同士は、彼らの間に共通なものにおいてしか一致しえない。そしてこの(共通の)ものは最高に神である」(『テサロニケの信徒への手紙註解』第3章二講){当然この神は、思考され言語化された神でもなければ、イメージ化された神でもない、根源的一者ね?}このようにして超越は、共通の信仰(?)を通じて、独立した(?)尊厳を有する個々人を、その差異のままに、一つの共同体へと結び合わせるので、超越からの関わりは、決して個人的なものにとどまらず、本質的には(?)共同体的なものなのである。{前記の新訳におけるパウロ文書とは、意味・意義の領域が異なっていますね?ここではある一つの共同体≒一つの宗教共同体ですね?一方パウロ文書の方は、その真偽・真意は別にしても、人間世界における共同体ですから、より普遍性があると考えられます}
     従って、共同の宗教的行為を可能にする儀式は、超越からの関わりに、それにふさわしい「かたち」を与えるものであり、その目的とするところは、参加者を超越者への応答…感謝・祈り・賛美…という人格的に実現した行為へと導く事にある。{?ここでは既にある特定の宗教儀式に関する事であり、しかも形式、合目的的他者としての「超越」に対する行為への誘導、ですから、ここにおける「人格的行為」は、全くもってして超越自身≒根源的一者ではなく、3重にも4重にも狭隘化されたものとなりますね?同様にルターやカルバンを言語既定式に捉えると、それは一つの思想主義になりますね?

     さてどうしましょうか?リーゼンフーバー教授は相当にややこしい人物のようですね?少し前までは、完璧な普遍的妥当性ある宗教論を唱えていたかと思うと、突然特定宗教に狭隘化するように導きますね?しかもけっしてその名を明かす事なく、カトリック・キリスト教という名の実質偽ユダヤ・キリスト改宗教にしようとしている感じが致します。そして所々に良心によるのか?その共同体自身が良くなるヒントも含まれているのですね?しかたがないのでザーと続けますか?}

    (p229)二、根本的宗教的行為の諸形態
     宗教的行為を構成する幾つかの要素を考えてきたが、これらの、どちらかと言えば形式的と言うべき諸側面を論じる事で、宗教的行為の諸傾向・目標・内容にも言及する事になった。

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.212、通しNo.412、

     だが、対話の共通の基盤は、最終的には、実は信じられた真理によって開かれた「超越との関係」そのもののうちにある。{「 」付けは私です。これも凄い文章です。即ち、これまで我が共同体で真理と信じられてきたものは「真理そのものではない」が、それは「超越との関係」を開示してきた。その「超越との関係」のうちに『さらなる真理』(の発見)はある、という事を示していますね?}
     というのも、「超越との関わり」こそ、世界内の様々な差異を克服し、他者を他者として肯定し、人々が真の意味で「対話関係」に入る事を可能にするからである。{◎、大いに然り!}
     
     即ち、超越との交わり(≒関わり?)においては、人間の人格的中心は、既に見てきたように、より深まった自己同一性を通して自らの根源たる超越者自身を目指しつつ、また超越者自身を心の焦点にしている。{ここでの教授の者の使い方は、同胞に対する受け入れ易さを考慮したものと思われます。壁を突破するにはまず壁の所まで行く事が肝要ですからね?}

     言い換えれば、超越者の無限性に与る事で、人間は自分自身を新たに捉え直す事ができるようになる。そしてあらゆる個人が、このような超越との関わりのもとで自己同一性を強める事ができれば、人間はつまるところ、自分を含め人々が互いに異なる全く固有の存在でありながら、超越において、その差異が肯定されている事を感得し、従って、世界内に現れる様々な差異にも拘わらず、自分だけではなく、他者をも肯定し得る事を知る。{◎、パーフェクトだけど?}

     トマス・アクィナスが指摘しているように、超越者自身が、人間同士がそのうちに交わり合う場となるので、真理と善さが宗教において実現される度合いが高まるにつれて、徹底した個人性を特徴とする超越との関係を、心をこめた交わりによる共同性をも具えた関係へと、転換する事ができるようになる。{全くその通りですが?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.211、通しNo.411、
     
     時を経て継承されてきた伝統的思想を理解する事で、超越に対する理解及び経験の可能性が深まる。そしてまた、自らを超える無限の地平のもとに立つ事で、自らの限界を受け入れ自覚する事ができるようになるが、この自覚が深まれば深まるほど、個人的偏見や時代的な制約を免れ、歴史的時間の中で、共に人々が生き続けてきた真理を、人はより深く洞察する事ができるようになる。と共に伝統的思想を受け入れたうえで、それを見定め、更に発展させていくならば、伝えられたものを継承するという、云わば規範の尊守にとどまらず、より広がりのある積極的な規範を得る事も可能であろう。
    {この一文は教授の善意・良心から発したものでありましょうが、この「規範」は可能性と置換する事も可能です。それが私の提唱した曹洞禅との合同黙想会であります。合掌}

     このように宗教的理解とその真理は、その広大さと深さのゆえに、個人に知解(?仏教的には体解に対するチゲであるが意図的かも?)可能な知識の範囲ないし限界内に収まりきるものではない。(◎)
     そこで、その担い手たる共同体に対しては、伝統の継承並びに尊重と共に、理解と真理が個人のうちに閉ざされてしまわないよう、対話を介し真理を常に新たに発見し、また実践する事が求められてもいるのである。{この当たり前の如くきれい事のような文章は、実はすごい事を言っていますね?なぜわざわざ「その担い手たる共同体」という語をつかうのでしょうか?これは恐らく当然「パリサイユダヤ共同体」ですね?「対話を介し真理を常に新たに発見し」という事は、真理はごく単純なものですから真理のヴァリエーションという事ではなさそうですね?するとパリサイユダヤは未だに真理に到達していない、という事が前提的に暗示されています?この対話も日常的な会話では当然不可能ですから、恐らく教授もなされたような他宗教の僧侶や修行者との対話という事でしょうね?}
     対話を通して、その中心となっている真理を人々が共有し、しかもそれが歴史的に継承される事で、時を貫通している事が確認され、真理は普遍でありながらも、そこから更に新しい理解が生み出されるようになる。{ソフトランディングを意図されているようでもありますね?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.210、通しNo.410、
    {少し前から再掲}
    {…更に超越との関係についての理解は、言葉を用いて伝達されるが、超越との関係は、ただ言葉だけで十全に把握できるものではない{然り}から、宗教的言語や宗教的言説は、個人的な理性能力や経験可能性}の範囲にとどまらない歴史的遺産を継承する事で、その正統性が保証され、またそれと共に歴史的に継承されたものの権威も承認される。{???同時に個人的『突破の道』が必要ね?}
     このように、言語を用いて理解しつつ歴史性を受け継ぐ、というかたちで宗教を学ぶならば、歴史的に形成された宗教共同体に参加し、伝承されたものを共有し、それについての知見を深める事ができるだろう。{?}更に、このような知見は、超越との関わりを通して得られた理解と相まって、或いは循環的に、或いは螺旋的に関与し、織り合わさりあいながら進展する事だろう。
    {???さて、この1~2ぺージで、この著作の全てを要約しているとしても良いと思われる。ここに述べられているのは何だろうか?そして個人の宗教性とは何だろうか?…そして、この著作において、決定的に欠けているものは何か?ない訳ではない、点においては触れておりますが?私がなぜ、この著名な教授の著作において、その専門であられる宗教学・神学において、偽ユダヤ・キリスト改宗教徒扱いするのだろうか?その集約がこの1~2ぺージにあります。ある意味、「無い事によってある」とも言えますが?判らない人は既に偽ユダヤ・キリスト改宗教徒ですね?昨夜のテレビ番組『関暁夫氏のやりすぎ都市伝説』で現在のフリーメイソンの世界各地のロッジに突撃取材、イルミナティやアメリカ建国の秘密史が公になった、と言ってもよいであろう?またトランプ氏当選の裏情報というか?未来を予測させるものもありました。しかしそれはじつは『新・新世界秩序』と同根である事は、真実のカトリック・キリスト教徒やユダヤ教徒の皆さまはご理解頂けたでありましょうか?実に悲しい・嘆かわしくも恐ろしい事でありますが?参考…https://matome.naver.jp/odai/2144141640360705601
    https://matome.naver.jp/odai/2148288079582364301

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.209、通しNo.409、

     宗教の核心は、あくまでも個人の自己実現との中心的関わりにある。{通常の自己実現は基本的に欲望の実現だけど?}しかもそれは、自分だけに妥当するのではなく、全ての人々に妥当するので、自らの宗教を留保なく確信をもって信じるという最も人格的な行為(?)は、他宗教を信奉し、信仰する他者に対する、尊重と寛容を要求するのである。{であったら喜ばしいが、教授はユダヤの中にある、また偽改宗ユダヤ・キリスト教徒の間には更に激しくある、プロテスタントのうちにもある「反キリスト・反カトリック」(皆殺し・絶滅作戦まであるな?)をどう理解されるのであろうか?}

     このようにして、他人の権利を侵害しない限り、人格的行為の外的実現は強いられるべきでもなければ、妨げられるべきでもない。{大いに然り!しかしここに外的実現と記してあるのは、恐らく真実が解っていて意図的に曲解しているか、某宗教?の歴史的規範に従っているかのいずれかであろう?}

     しかしながらこの行為自体は、その成立過程から見ても、またその中心的実質から見ても、人間同士の共同性を必要とすると共に、共同性を積極的に受け入れる事ができると考えられる。{これは本当に素晴らしい教授個人の本音であると思われますが?}では、なぜこのように言う事ができるのか?以下では、その理由について見る事にしよう。{ここは微妙ですが?p226です}

     宗教性は、言語習得の場合と似た意味あいで、人間にいわば普遍的才能(?)として本質的に具わっていると思われる。{?言語習得は生存の為、よりよく生きる為の環境順応であろう?宗教性は「なぜ自分は生きているのか?」「ここに存在するのか?」即ち「存在不安」の疑問に対する「真理(根拠)の探究」とでもいうものではないだろうか?}というのも、先例や慣用を模倣し、家庭や学校で教えられ、実際に自分で使う事ではじめて言語を習得できるのと同じように、宗教性もまた模範に学び、教えを受け、信仰共同体との相互関係(?)を通して、それを実践する事で育まれ、発展するからである。{実は支配・従属関係?}更に超越との関係についての理解は、言葉を用いて伝達されるが、超越との関係は、ただ言葉だけで十全に把握できるものではないから、宗教的言語や宗教的言説は、個人的な理性能力や経験可能性

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.208、通しNo.408、

    8、個人性と共同性{しかしここでは教授は・・・}
     宗教的行為は人格的行為なので、理解力と自由意志の唯一の担い手たる人格としての個人によって遂行される。{然り、つまり人格とは何か?が問題?}また人格的行為は、超越という最も現実にみちた存在への生きた関わりを開き、それを通して人間は真理のうちに個人化され、自らのアイデンティティーを見出す。{然り}更に人格的行為は一度限りの行為ではなく、人間が人格として存在する限り、常に営まれている行為である。{然り}

     それ故、この行為において超越との関わりが開けるのであれば{この条件づけのような文章は通常成立しないだろう。ただ「人格としての個人」を「自らの志向性(心魂的希求)を自覚している個人」とするならば成立するかもね?}人格的行為において人間は、自らの尊厳をその意義に関して究極的に規定し、自らの存在を無制約的な真と善との関係において位置づけている。{これは個人の勝手なある意味自由な位置づけと規定ですね?ただ条件付けである「関わりの開け」とその「突破≒超越との合一」を同一視しない事が重要ですね?しばしば混同及び過去の歴史的事象に対する無反省的承認から「突破≒超越との合一」との同一視から既定化された規範への従属が見られます…世俗的宣教?}
     そして超越との関係の開きは、良心への呼び声に傾聴する事から出発するのであるから、人にはこの行為を自らの良心に従って実行する権利と倫理的義務が具わる。{ここでは誠実ですね?この行為とは勿論「個人の人格的行為」でしょう?権利と義務は相補的付帯事項で一つの自由とも言えましょうが?}権利は個人的なものでありつつも社会性を持ち、義務は法的である以前に倫理性を有するのである。{然り!素晴らしく良いですね?しかし倫理性が意味するものは?}

     宗教が個人に及ぼす役割や影響とは異なり、宗教が一般社会に及ぼす役割や影響…例えば社会制度を支える共通の価値観の根拠付け、福祉に対する貢献、家庭の内的一致…については、その重要性を看過する事はできないものの、それは二次的にとどまり、宗教的行為における意義と権利の根拠付け、或いは制度にとっては必ずしも充分な理由とはならないように思われる。{?教授が意図するのは第一次的には隠れた政治的意図なのだろうか?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.207、通しNo.407、

    {再掲:一方で超越が人間に近づく動き、世界に下って来る受肉的な動きがあり、他方で人間側からの応答として世界をその根源に向かって開き突破する人間の自己超越的な動きがあり、この二つが接触する}

    {✖接近ね?突破できたらね?人間にそういう根本的希求がある事は事実でしょうが?西洋と東洋では対処のしかたが異なっているって事ね?そして西洋的偽ユダヤ・キリスト改宗教の特徴は代替物を指し示し、それで満足し神≒悪魔に感謝して乗っ取る訳ね?西インド諸島・アメリカのようにね?そして今やほぼ世界を席巻ね?ネオ・ナショナリズムはその反動でしょうね?キリスト教カトリシズムの本質の理解が必要となる所以であります}

     宗教的行為が空間と時間の中でしか行われ得ない以上、それは人間存在に付きまとう偏りと不完全性を回避する事ができないが{ほぼ教授の『告白』です?}しかしながら同じ行為のうちに超越者自身との関わりが実際に目指され実現され{?}、また超越者自身からの関わり{?}が、その行為のうちに働く限りでは、相対性を免れた究極的な意義と存在が成立する。{だからそれはキリスト以後2000年以上人間の欲望が作り上げた二元論的「神と悪魔」だって!パリサイ人の思い込みは超強力ね!あたかも不変の如くね?しかし突破の可能性はある}

     不完全でありながらも究極的でもあり得るという、この二面性は宗教的行為のうちに…その美しさと惨めさ、その深さと表面性、その善さと悪への逆転の可能性のうちに…特に顕在的なかたちをとるが、基本的には人間の自由な行為とその基である人間存在、そしてまたその尊厳と限界の現れに他ならないのである。{つまり未だ超越ではない、という告白ね?しかも表裏一体の神と悪魔の証明でもあります?}
     自らの不完全な様態を完全な純粋存在へと結びつける事で、超越者による完成を待ち望む事は、宗教的行為に固有な特徴であろう?{それを東洋ではヨーガとか禅ね?その希求が宗教の始まりであるとは言えるかもしれないが、教団には営業方針もあり、国家にはその利用目的もありますか
    らね?偏って当然とは言えるかもしれません。偏差値もそうね?共産思想的一つの概念ね?そして結びつけられていない、違うものに結びつけられているとしたら?それは宗教教団的『新・新世界秩序』ね?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.206、通しNo.406、

     時間は更に、超越との関わりと人生のリズムに従って一日、一年という自然な時間として、或いはもともとは宗教的単位であった一週間といった単位に分節化され意義づけられる。このような時の推移のなかで、人間は一時に実現できないほど豊かな超越との関わりを、その都度時間の流れのうちで
    展開する。{つまり事は予定通り進んでいるから、そのまま従え!って事ね?で新しい『新・新世界秩序』の担い手はJ.D.ロックフェラーから中国に移動している事に要注意ね?…そしてアメリカ・トランプ陣営の背後?、コーク兄弟やペイパル共同創業者でシリコンヴァレーを代表する投資家のピーター・ティールや2014年トランスヒューマニスト党を結成したゾルタン・イシュトヴァンにも要注意、「神」否定のキリスト教徒?新・理性(精神)主義者?身体を持たない精神的実体としての人間或いはマイクロチップを埋め込んだ完全家畜化された人間の創造を模索?反・エスタブリッシュメントであるがーク・マネーといわれるコーク兄弟(共にフォーブス9位)の資産を合わせると、2016年フォーブス世界長者No1,のビルゲイツを凌ぐと言われる。同様のオーリン財団にも注意、ロックフェラー財団同様、ハバード・シカゴ・MIT等にも莫大な額を投資、保守的思想家を育成している。ブッシュ政権を支えたアメリカンエンタープライズ公共政策研究所(AEI)もその一つである}

    {そして教授は次にはチョット謙虚・誠実に}
     空間と時間は、それ自体としては、その内容が未規定な可能性の場でありながら、人間がその中でしか自らの究極的意義を実現する事のできない次元でもあり、超越との接触によって、自らの意義づけを期待する人間の存在形態である。{つまりは超越と人間自ら(感じ思考する)究極的意義は無関係
    って事をまず思いこませ、そして教会の媒介によって超越と接触し他者によって自らの意義づけをしてもらう事を期待しましょうって事ですね?}

     ここでは、一方で超越が人間に近づく動き、言ってみれば世界に下って来る受肉的な動きがあり、他方で人間側からの応答として、世界をその根源に向かって開き突破する人間の自己超越的な動きがあり、この二つが接触する。{しかし我-汝ではなく他者関係であるので、接触するのは意図された神或いは悪魔ね?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.205、通しNo.405、

    *このように空間は[外]と[他]の場として、人間を閉鎖的内面性から解放し、他に向かって自らを超え出る可能性を与え、また到来する他なるものを迎え入れ、共にいる次元を提供する。{偽改宗ユダヤ・キリスト教の宣教文書ですね?「顕れ」ご自身がおられる教会を『我と汝の家』と理解すれば簡単ですね?しかし教会が既に偽ユダヤ化している或いは相当深くまで侵入されている可能性は高い}

     時間は人間自身の内的存在の形態で、誕生から死に至るまで、人間に自らの有限性を意識させると共に[今]という恵みの[時]を考えさせ、希望を呼び起こし、未来を目指す究極的な自由への決断に誘う。{この[内的存在の形態]は一つの~位ね?ここでは不明であるが「死の恐怖」を意識させ勝手な(現実主義的な)自由への逃避位ね?ただ本人には「究極的な自由」だと思い込ませる訳ね?これまで教授は本来真の意味での究極的な自由は述べていない。基本的には自我的な精神による(勝手な或いはユダヤ的規範に従った)意義・意味づけ位ね?}
     更に時間は[間(マ)]として、その幅の中で人間が命を味わう事を可能とし、消える事のない現在への見通しを開く。時間は消え去る事によって人間を執着から解き放ちながら(?これは逆に抑圧された忘却だから執着は強化され増えますね?諦観への変質はあるかもね?)、その連続性によって漸次的な発展を支え、人格的深まりと宗教的成長を可能たらしめる。{ある意味然り?}

     時間は宗教においては、歴史的記憶と終末的希求という双方向から意義づけられる。{ここでは所謂アブラハムの宗教、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教における終末論で、起源はその前のゾロアスター教?しかし当然ユダヤ色は強くなり、選民思想の始まりでもあり、ひいては自分達でハルマゲドンを起して自分達は助かろう、悪くて地球が住めなくなっても火星へ移住計画?}この双方向性によって、現在という祝祭のうちに時間の流れ全体、ひいては世界全体を一つに集め。それを超越との関係に導き入れる。{『新世界秩序』という悪魔の陰謀ね?}
     そこで時間的なものは永遠と結びつき、永遠のうちに止揚され、過ぎ去る時間の残す実り{即ち教団は世界を手中に収め、人々は「永遠のクルクル回り」ね?}として完成する。{ここまでが隠された本音ね?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.204、通しNo.404、

    (再掲-宗教的哲学的考察は単に人間存在の空間・時間的位置づけの意味を輪郭として描く事に留まる)
     空間は人間存在の外的次元であり、他なるものとの具体的な関わりを可能にし他と共にいる場である。超越との関係に関して言えば、他なるものにおける他なるものを通しての超越の近さと現れが、空間において経験される。
    {さて?前半はいいですよね?後半の下線部分(不可)が示すものは何でしょう?そして超越自体が経験され得るのでしょうか?否ですね?超越を経験するには少なくとも超越と「我と汝」の二人称的経験が必要です?下線はおそらくユダヤ人におけるユダヤ人を通しての超越の近さと(過去の)現れが空間において疑似的に経験される位でしょうね?そしてユダヤの過去の神話的な考え方に従属する事になり、自己自身の超越との魁合は恐らく永遠に不可能になります?}
     その結果歴史的に重大な出来事の記憶がその場所と結びつき、巡礼地となる事もある。超越が臨在しその民と共に住む場が神殿・宮・教会として開かれる。だが聖なる場と物が世界内のいわば世俗的目的の為に利用される事はない。この事実の内に人間に尊敬だけではなく自己制限をも要求する偉大さを感じとる事ができよう。
    {???過去の遺跡、俗にいうパワースポットですね?しかし根源的一者に限って量子物理学的な言い回しをすれば、それは空間のあらゆる点に存在し?しかも物質も含みますね?従ってパワースポットとは人間が感じやすい、過去の出来事を、それが事実であってもなくても想起≒イメージしやすい場所という事ですね?例えばキリストの御顔とか御姿といった時、かつてご紹介したような顔(現代科学的に想定復元された)を思い浮かべる人は恐らくいないでしょう?}人間に尊敬だけではなく自己制限をも要求する超越の例えば聖画は人間の心の表現でありながら、より根本的には人間に対する描かれた方の現存を意味し、人間を超越との関わりへと招きもする。{即ちイメージの現存ですね?}空間における具体的な他なるものは、象徴として理解され、超越的他者を再現前させ、そのような他者との全人間的な出会いを媒介する。{要は他者あくまで他者ね?…実に巧妙です。またこの全人間的は全人格的(ペルソナ)という事ではなく、単なる心身的個人という事でしょうね?ご注意あれ}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.203、通しNo.403、

    宗教的哲学的考察はただ単に、人間存在の空間的・時間的位置づけの意味を輪郭として描く事に留まる。{しかし、これは大変重要な事であります。輪郭としてだけであっても、そこには「現在のこの瞬間」における人格的存在≒真の人間性における意味・意義が問える、存在し得る訳ね?即ち近現代を席巻してきた西洋理性というか、反宗教的・非信仰的・理性中心主義的、フランス啓蒙主義思想が、勿論我々はそのおかげで[社会]~[社会主義][民主主義][市民]等という概念を発見し、[概念的思考]を発達させ、それ以前の物理科学・数学的思考の発達とあいまって爆発的な発展を遂げてきた。{勿論その影には優秀なユダヤ人達の活躍が見逃せないが、同時に我々はその非常に隠された民族中心的な権謀術数的な策略に落とし込められてきた歴史事実を見直す必要があるだろう。それは全ての人間が持つ「欲望」という悪魔を、ごく少数の権力者の手のうちで爆発的に増長させ、近代戦争において約23500万人の同胞を殺戮してきた。これまで私は概算的に一億人と見込んできたが、ユン・チアン氏とジョン・ハリデイ氏の著作とその膨大な裏付け資料によりソ連コミンテルン、レーニン~スターリンにより約6000万人、毛沢東により約7500万人の同胞が餓死ないし権謀術数的内紛によって殺害されたものを加えたものである。そしてそれらの陰には偽改宗ユダヤ・キリスト教徒の暗躍が見られ、日本においても戦国時代に始まり、明治維新~昭和の戦争、実はアメリカの9.11や日本の3.11、最も根源的[天皇問題]においても、その影を窺う事ができ、また現代においてもいくつかの『新世界秩序』を見つける事ができる。
     そして我々はそれらを反省的に顧みる時、啓蒙主義的思考の利点であると同時に致命的欠陥を指摘せざるにはいられない。即ち、それは客体的他者としての物質を部分として扱うものであって、人間自体、人格を持った人間を扱うには不適切だ!という事である。そして今我々は人間人格をより適正に扱う事ができる「宗教(生命)哲学的人格論」が浮上し始めている。勿論それはこれまでのような(3人称的)知識の伝達ではなく、人格と人格の対話という(二人称的)形態で発展していくだろう。生徒の集まらない宗教的学校においては大チャンスでありましょう?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.202、通しNo.402、

     他方、超越・無限・無制約的な存在への直接的な開きが人間精神(?)の根底を成している(?精神?の根底でもあるし感性・身体の根底でもあるはずですが?ここでは既に精神?を特別扱い?むしろそれは人類が脳の発達と共に純化させてきたものではなかろうか?そしてそれがある意味電気双極子のように「他を探求する受容性」と「探求しようとする能動性」の両極性を持つ事も理解できる、がそれは人間に根源的に分有され内在化されたエッセ(という神学的仮説)とは異なり、分け隔てなく周囲を照らす光ではなく、一極集中的に照らし対象を明ら示すが同時の「影」を作り出す二元論的光(≒分別理性~社会化された理性)ではないだろうか?故に類似の「照らす」という性格をもっていても明確に別ものであろう?その故にまた更なる高み≒深みを求めて或いは自分自身が生れ出たところを求めて再帰的性格を持つのではなかろうか?}が、超越との関係は、世界内の目的を追求する事を主眼とする日常的活動においては背後に退き表面的意識に隠されたままなので、超越者(?さらっと入れますが人間人格の投影ね?勿論ペルソナの神学的意味は存じておりますが後に稲垣先生の著作で扱います)との直接的な交わりを求める宗教的行為はなるほど自然に生じるとはいえ、それ自体人間の自己実現に含まれる課題ともなっている。
    {然りだけど、ここでは人間の課題として内在したものと認めている訳ね?}

     そこで宗教的行為は、日常的な様々な活動と並び、生活の中で固有の行為や在り方を実践する特殊な領域を形成する事になる。{一応然りだけど、教授は特殊と捉える訳だ?}
     日常生活の一部分として、宗教的行為は文化と社会状況との相互的な影響関係のもとにあり、心理学で研究される人間関係や世界内での善き行為に関わる倫理とは区別されながらも、それらと不可分的につながり、労働から芸術に至るまでのあらゆる生活分野と関わっている。
      人間の生活を、空間と時間に規定されざるを得ない「世界内でのパターン化」といった側面から考察するなら、この二面から宗教的行為の具体的な形態を探求する事ができるが、これは経験的宗教学の諸学科…宗教に関する心理学・社会学・歴史学・民俗学、また現象学など…が主題とするところである。

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.201、通しNo.401、

    {再掲…宗教的行為に本質的に具わる経験的要素は(自己忘却の傾向を有するので)実は付随的な反応に過ぎない(?)といえよう}
    {これも教授が何を意味・意図しているのか?不明ですね?この著作のタイトルも『超越に貫かれた人間』とあるように「内なる超越の声を聴く事」がそうではないのか?やはり教授の真意は偽ユダヤ・キリストの改宗された規範或いは神否定の啓蒙主義的客観的言語に従わせる事なのだろうか?}

    *もともと宗教的行為は、それが人間の根本的な努力の結実である以上、何か特殊な場を必要とする事はなく、日々営まれる日常生活を第一の場としている。日常生活で交わされ、日常言語と慣習、またそれらに伴う通常の意識状態が、超越との関わりにおいても基盤となっており、また宗教的行為の
    表現ともなっている。{これは教授は、いったい何を言おうとしているのだろうか?つまりこれまで教授が述べていたのは、通常の意識状態{禅仏教における粗領域:ヴェーダンタにおけるニルマナカーヤ(応身)に相当、つまりは日常意識に覆われた迷妄状態}からの比較表現だとすると、その無意味
    に増強された言い回しにも納得がいきますね?つまりは神学とか宗教哲学とか僧侶・行者によって探求されたものではなく、単なる宣教の為の過去の信仰の(啓蒙主義的)解釈だとすると、偽改宗ユダヤ・キリスト教徒的であった事にも納得がいきますが、すると単なる宗教的縛り(洗脳)、であり神父様・
    宣教師はそのセールスマンという事になりますね?…大いに納得できるものがありますが一応先を観てみましょう?}

     この意味で、一方では、いかなる行為でもそれが自己意識のもとで行われる限り、その底流には人間にとって本質的な超越関係が含まれており(〇だけど無意識的ね?)、自由に決めた態度のもとで、その関係は形成され、その意義も決定される。{一応然りだけどあくまで意識的表層構造ね?、後半は「より真実な気づき」ではなく宗教セールスの契約条項なわけだ!だから既に在ったものではなく「神との契約」という概念が生まれたのか?しかしそれってキリスト教ではなくユダヤ教じゃないの?しかもマラーノ的?フランクフルト的なのか?元来イエズス会は教皇のキリスト戦士であり、対プロテスタントを意識したものだとされるが?…}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.200、通しNo.400、
    {前述したまとめの言葉、「(多分アウグスティヌス)…このように存在論的合一と愛における対話性は、互いに促進し合っているのであり、完全なる一致における全面的な対面関係を実現しているのである」となるのであるが、教授前述の意見≒偽ユダヤ・キリスト改宗教徒の当為に意図的に合致させているのが、ご理解されるであろうか?再掲アウグスティヌス:根源たる神からの「呼びかけ」によって自らへまた自らを通して神へと呼び戻されて一種の回心を成し遂げる。…と教授の意見との差異の認識が必要である。もう詐欺的還元主義ね?言葉が指し示すものの差異ね?}

    (P220)7、日常性と究極性
    宗教的行為に内在する意図を明るみに出す試みは、人間の心と超越との最も崇高な接触にまで展望を開くようになった。{ここでは謙虚に「接触の展望」≒遠くから見ると触れたように見える感じね?さっきまで「合一・完全なる一致」だったのに?}
     これは神秘思想の主題となっており、神秘的経験においては人間と超越との接触は、ある程度自己意識によって感じ取られる(?)段階にまで高められる。{?然りだけど、ここでは謙虚に他人≒神秘主義的行者まで陥れちゃいました?比較的に自身の言説を高める為?}
     だが宗教的行為は、そもそもその志向性において自らを超え出るものであり{?こんどは暗黙的に既に達成?…まるで官僚の東大話法です?…この志向性は本来の意味(無意識的魂の声に耳を傾ける?)的で正しい(これまでは指向性的意味合いが殆どであった?)、しかしこの自らは内なる声などに耳を傾けない現代特有の外向的自己ね?…本来は例えば「良心の声を聴く」とか「内なる母親」等と外向性と内向性は両立されるものね?獲得した知識の使用にしても両方が使用されますね?しかし教授は、ここでは自らの限界を貶めて設定ね?本来は無意識的ではあるかもしれないが、内なる自己の中心≒分有されたエッセ≒魂≒仏性に向かって開かれているものだから、それは自らの内にあるものですね?それとも教授はそもそも「内在され分有されたエッセ」等の概念の指し示すものを否定する「反・キリスト教的立場」なのであろうか?}…その意味で自己忘却の傾向を有しているので、宗教的行為に本質的に具わる経験的要素は、実は付随的な反応に過ぎないといえよう。

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.199、通しNo.399、

     時間的進行のうちで展開される、この「呼びかけ」と「応答」という連続的な交流、つまり歴史を生み出す対話は、無限な存在との合一が深まるにつれて{これも実はあり得ない言葉ですね?実際のところは「関係・影響の度合いが増すに連れて」位ですね?主観(感)的自己の引力圏は脱出し根源的一者的(?即ち二元論的・二律背反的神と悪魔ね?)引力圏に入ったが位ですね?そのもの即ち根源的一者そのものではないね?しかしこの時、ユダヤの神秘家ないし行者が感得していたのは、当然根源的一者からの引力ですが、そのを言語的・イメージ的に記述した時、その有効性はその共通認識を持つ民族内、という事になる訳です。合掌}相互の受け入れ(?が可能なのは人格化された(ユダヤの)神だからね)と自己譲渡という愛の交わり(実は完全なる奴隷としての従属化ね?)として、また究極の姿(≒[The Ordaer]≒[世界新秩序計画]?)へと発展する事になるだろう。
    {そして現在ではアメリカにおけるD・ロックフェラー(実行者ブッシュ一族)による計画は破綻したように見えるが、中国が古来からのユダヤ(共産主義自体がユダヤの産物ね?)や阿片戦争後のユダヤ(サッス―ン)財閥やアメリカの残党(ハリマン財閥)・ヨーロッパ特に英仏のロスチャイルド(貴族系の中心はスイスだけど扱っているのは当然ユダヤね?)、ベルギー(EU本部のある「金融の中心」当然ユダヤ勢ね?)と共にAIIB設立、もはやアメリカとの太平洋に分割統治ではなく、ユーラシア大陸およびシルクロードを再建してヨーロッパも、アフリカはもう既にその殆どを手中に収めているようです。そして宗教界・精神世界では、バチカンも手中に収め、明白なワン・ワールド世界制覇を実現しようとしていますね?ロシア・プーチンは親ユダヤ教だけど反金融マフィアユダヤを明確に打ち出し、打倒イルミナティを宣言しています。紛争地はウクライナ(旧ハザール王国)とシリアね?現在は米ソの代理戦争の如くだけど、いずれ米ソ対中・イスラエルって図式になるのでしょうか?英国は脱EUでアメリカもトランプで内向きとなりましたが、さて日本は?って事ですね?{最近では反日従米の岸・安倍路線に加え、天皇・麻生太郎路線が明らかになってきました。原発やベクテル社問題にも繋がります}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.198、通しNo.398、

    アウグスティヌスによれば、このように創造されるものは、存在が与えられると同時に、根源たる神からの「呼びかけ」によって自らへ、また自らを通して神へと呼び戻されて、一種の回心(conversion)を成し遂げるのである。{明快に解りやすいですね?}有限的精神が存在そのものから呼びかけられ、それに基づいて構成されるならば、人間は自らの存在の根底から、無限な超越者との対話的関わりのなかへと招き入れられる事になる。{ここでは何も媒介していないですね?即ち全ての個人に超越は開かれている、という事であります。こういう文章が紹介されるのは、即ち教授の「良心による」のかな?}「呼びかけ」は、呼びかけられた相手の自由な自立を呼び起こすと共に、その者に応答する可能性と能力を授けるからである。{そこには依存も強度もないですね?しかし強いのですよ+-=0の創造の強さです。…しかし動かなければ0のままかな?しかも生物社会帯域のスクリーンはどんどん強化され身動きが取れなくなりますね?}

    {ここから教授の意見ですね?}それ故、人間が宗教的行為において超越的存在を「誰か」、つまり人格的な存在として信じ{これは一つの自由な信仰という範囲内ですね?}、「祈りのうちに神に呼びかける時、この行為は超越的存在の構成的{つまり部分}または歴史的語りかけ{恐らくはユダヤによって明文化されたユダヤの神}に対する応答に他ならないが、この応答自体が実は、その語りかけによって可能になっている。{まあ然り、ここでは教授は真実を述べているようですね?しかし暗黙的にはそれがユダヤの価値観・思考法の世界に対する投影となっている事に要注意であります。ただこの神が根元的一者である場合は、その普遍性は成立します?少なくとも地球的或いは太陽系ぐらいでは?しかしどのユダヤって問題もありますね?…決してヤーヴェやアブラハム自体ではなく、ユダヤの民に向けて発せられた言葉、その価値観を客観的事実として、ユダヤ以外の民に振り向ける事ね?キリスト教徒がキリストを通して父なる神≒アブラハムの言葉≒根源的一者、の言葉を傾聴するのは良いと思いますが?しかもその言葉は既に啓蒙主義的な性格を帯びていますね?実に巧妙な偽装ですね?二元論的悪魔と表裏一体の神となりますね?}

  • {久しぶりに戻ってきました}
    リーゼンフーバー著『超越~』本編No.197、通しNo.397、

     無限な存在自体に対する有限者の関係は、有限者の外なるものに対する依存関係のように、有限者にとって疎外的ではなく有限者を形成してくれるもの、つまり有限者にとって構成的だからである。{そうね?しかし教授は同じ関係を内なる「超越」(≒分有されたエッセ)に対しても行っている事に気づかずにいるのではないだろうか?。しかしその事によって、ある宗教団体にとっては有用な手段となっているのでは?と考えられる。つまり『新世界秩序』による「ニュー(ダーク)アジェンダ」ね?}
     超越への接近や超越との合一に現れるように、有限的精神が純粋存在そのものによって自らの自立のうちに根拠づけられる時、超越によるこの創造的な存在付与が自ら自身へと再帰的・自覚的に関わる主体を構成するのである。{然りだけど、つまり悪魔の手先になる!って事?教授のここでの接近ないし合一の対象は「神のイメージ」ね?つまり二元論的に悪魔と表裏一体の神ね?よって民族や国家、思想によって限定された神ですね?普遍的である根源神ではありません。しかしキリスト信仰の本質的なものではなくても、アレクサンドリア主教アタナシウス(298-373年)以来のローマカトリック教会の本質、という事は言い得るかもしれません?或いは啓蒙主義的神学? 合掌}
     そうすると、この存在付与は、人間を自ら自身へと目覚めさせ、自らへと呼び戻す語りかけのような特徴を有しているはずである。{優しい穏やかな口調であるが、新しい存在付与は、旧約聖書(?)からの歴史的宗教規範への従属への洗脳ね?それもオリジナル・ヘブライ・ユダヤではなく明白な反キリストである偽ユダヤ・キリスト改宗教ね?それの最も新しいのがオプスデイという疑惑がある}
    {この後またアウグスティヌスの御説が教授の意見の正統化の如く引用されるが、あまりに悲しく寂しいので最後だけね?}
    …このように、存在論的合一と愛における対話性は、互いに促進し合っているのであり、完全なる一致における全面的な対面関係を実現しているのである。アウグスティヌスによれば、このように創造されるものは、存在が与えられると同時に、根源たる神からの「呼びかけ」によって自らへ、また自らを通して神へと呼び戻されて、一種の回心を成し遂げるのである。

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.196、通しNo.396、

    現代では、当地(先住民族特別保護区)が過去70年間に蓄積された核汚染物質の廃棄場の指定された事(現在は最後の先住民アパッチ族の居留地)で「宗主国による民族皆殺し主義」が問題となっている。日本の長崎大浦天主堂天主堂に落とされた「ファットマン」ではユダヤ教徒によるキリスト教徒皆殺し(トリニティ実験もね?…オッペンハイマーは名前は友人の詩から引用というが、ヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節を思い出した。ヴィシュヌが王子に自らの任務を完遂すべく説得するために4本腕の姿を見せ、こう言う¬。「今や我は死なり、世界を破壊する者なり」多少なりとも私たち全員はそう感じたでしょう。…そして実験の失敗から現場関係者全員死亡説までのプレスリリースまでが用意され、科学者達は賭けを行なっていた。…NAVERまとめより引用…政治的駆け引きは鳥居民著「原爆を投下するまで(ソ連を参戦させないで)日本を降伏させるな」を読んでね?)報復作戦が暗示されている、という図書は以前紹介した。ここでは正義の白人に歯向かう黄色いサルね?しかしその後本当のユダヤ人は日ユ同祖説な人格性に気づいた訳ね?そこで二つの流れが明白となる。即ち偽改宗ユダヤ・キリスト教徒的、実は忘我妄想的神不在の精神≒情報化されるもの≒還元主義的ね?へ向かうか?全ての人類に不変な(身体を持つ)人格性(もちろん現状的差異は存在するが志向性を持つという事ね?)に向かうか?って事ね?勿論世界の大勢は偽ユダヤ・キリスト改宗教的前者ではありますが…。キリスト御自身はそうは言っていないんではないの?って事です。合掌 紫字は11月28日提出以後の追記です}

    そこで合一の程度と合一に必然的に伴う依存性の度合いが強くなる{✖即ち教授の合一は単に接近であって合一ではない!って事ね!合一にあっては、最高度の充満であるので依存はなくなる!つまり教授は悪魔(当然それ以前からは神の如く感ぜられるが?)と根源神との区別がついていないように思われる。単に言葉の選択ミスや思考の習慣、志向性によるのではないように感じられるが?}に応じて、人格的存在もまた力強くなり、人間の自ら自身に対する一致と把握もより中心的でより本来的になる。{△ね?比較級であるのは接近の証し、合一の意味の意図的取り違え?}

  • リーゼンフーバー著『超越~』本編No.195、通しNo.395、
    (即ち、必然的存在ではないがゆえに、存在そのものに根拠付けられて在る人間は)

    根源に由来する自らの存在を深める為に、より徹底したかたちで自らを自らをその根源に結びつけ依拠させる{???操作可能と考えているのか?}ほかないので、根源とのつながりが深まれば深まるほど、根源による人間への存在付与が増していく事になる。{?✖神による増減?神に取引をしかける民族だな?当然根源的一者は(逐一個別的には)応じてくれない(感得し難い)ので、(より感得し易い言葉とイメージで想定された)人間の中にいる悪魔(≒神と表裏一体)を誘い出す?やはり?残念ながら、根源的一者との繋がりを深めようとすればするほど、根源による人間への存在付与を求めれば求める(欲望が強い)程、根源は遠くなる。なぜなら「貴方自身が既にそうであるからだ!」というのはヨーガのソー・ハームの呼吸法の極意ね?代わりにやってくるのは人間が創造した悪魔ルシファーね?偽ユダヤキリスト教だと意図的・合目的的であるのかもしれませんが?}
     
     それ故、超越者と合一する時人間は、存在論的に超越者に吸収されて自らの存在と自立を失う訳ではない。それどころか正反対に、超越者との関係に入る事で、自ら自身の存在は強度を増し、より自立的に成長する事になる。{然り、ここは良いですね?単なる存在論的思考ではないですね?吸収されるのは根源的存在(≒-エネルギーの悪魔的)がブラックホール(諸説有り)的な時で、その故(その欲望の達成感)に病み付きになってしまいます。同様に神的な所作(+エネルギー)でも(その欲望の達成感は)同じなので注意が必要です。つまり人間側から観た時には0(ゼロ)≒根源者的にしか見えないのだけれども、そのゼロの中での動きね?通常は次元とかレヴェルの差という事がいわれますが、量子物理学・量子電磁気学では場の理論で表現しています。それをある神秘主義者や行者が感得すると「神が通った」とか「神が動いた」という表現になる訳ですね?ただより根源的である、というだけでしょう?実証科学的には1945年7月16日ニューメキシコ州ロスアラモス研究所でのトリニティ実験によって人類(白人+ユダヤ人)は「神の力」を手に入れ、一カ月後白人に歯向かう日本人の頭上に落とされ約20万人の命を一瞬に奪った。

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