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投稿コメント一覧 (587コメント)

  • ロシアと仲良くすることの利点を語るとき、人によっては誤解する人が居るようなので、今少し補足しておこうと思います。
    誤解して欲しくないことは、ロシアが素晴らしくて頼りになる国であるからとか、米国とのこれまでの経緯や関係をご破算にして新たな関係を作り直そうと言っている分けでもありません。
    唯、過去の日本が全体主義の右傾化した国家を経験してきたように、過去には日本も世界のならず者国家のように近隣諸国に対して、独自一国主義で国際連盟を脱退して我が道を行った時代もあったわけで、当時の日本は近隣諸国からのイメージは現在とは相当異なったものであったことでしょう。
    ロシアの過去や北朝鮮の過去も同様に、歴史を持ち出せばそれぞれの国々には大きな忌まわしい過去を思い出さないでは居られません。
    米国とも同様に戦前の対決時代の忌まわしい過去もあれば、戦後の緊密なる同盟時代も長いわけで,世界史の物差しで眺めれば、近隣諸国との国家像は時代により、また自国の国体の違いによっても評価は違ってくることもあって、どの国も過去の国家像から、一歩も抜けきれないようなイメージで近隣国家像を決めつけてしまうことは、それが良い評価であれ反対に悪い評価のイメージであるにせよ、そのように固定化した観念で国家像を決めつけるようなことは、国益のような国家同士のお付き合いを、利害得失を冷静に考える場合には気をつけなければなりません。
    いずれにしても、現在の世界はインターネットのような情報具が身近に有り、それぞれの国民レベルでは一昔前とは比べものにならないほどに便利になっている分けですから、国家の指導者だけから、その問題を考えるのではなく多面的要素を考慮すべき事と思います。
    ともかくも、近隣国は利害が特別に大きいのですから、広い角度から多面的に利害関係を考慮すべきで有ると思います。

  • 儒教国でもない日本が、儒教から来る価値観である過去の恩義のような感情に縛られる必要など全く無いのは言うまでもないことである。
    このような感情からくる価値観は、悪いものや良くないものの考え方は、過去の所業とは別として考えなければならないのは当然なことであり、これは世界では共通する価値認識であると信ずる。
    世界は、現在あるそのままの状況を、自国や世界の価値観を共有する国々との共通した利益を基に国益を判断するのであり、米国一国主義のような「ならず者主義」は糾弾されるべきである。
    このような手前勝手な一国主義は、かつての日本が行ってきた苦い経験が有るのだが、日本はその経験を反省して今日の発展を築いてきたことを堂々と示すべきであろう。
    世界秩序の維持は、国連を中心とした相互主義が根底に有り、世界平和もそのような考え方を基にしているのであり、軍事的以外でも経済的安定や経済的相互協力主義は世界の安定にとって欠かせないものになっている。
    日本に取って、ロシアとの平和安定は死活的に重要なことであり、領土問題だけでなく、経済的な結びつきの重要性は計り知れないほどである。
    エネルギー資源確保の多元性は重要であり、原子力などの将来性に疑問が多い資源に頼るのは大いに問題があるのであり、この面でもロシアだけではないがエネルギー資源の多角化は特に日本に取っての国益である。

  • 安倍政権の発足の頃、北方領土問題でロシア側からの提案で「引き分け」という言葉が盛んに提唱されていたように思う。
    今にして思えば政府は何故国民に対して正直に相手方の言い分を公表しなかったのか、その思考配慮不足は大変遺憾に思う。
    対露外交政策以外でも、安倍政権と言うよりは歴代自民党政権の外交政策は幼稚で思考判断不足のような決断が散見される。
    これは恐らく自民党の問題であるよりは、外務省官僚達の識見や外交能力の結果であろうと思われる。
    北朝鮮の現指導者になってからも、明らかにその指導者の考え方が違ってきているのに、今後の近隣国同士間での外交政策に於いても、日本政府の対外政策上での動きにおいて、その情勢変化に対する対応力の緩慢性は目に余るものがある。
    トランプ大統領の変わり身の早さに比べて、安倍さんはどんな対応策で臨むのであろうか?
    日米同盟の価値認識に於いて、米国に日本と同等に近い価値認識があるのなら、一方的な通告的措置での「貿易関税」を課すことを赦すことなど、もっての外というものである。
    この米国の経済政策は、世界の安定した経済秩序を維持する上に於いては、米国一国主義のこのような政策は、世界経済を混乱に導くこととして「経済ならず者政策」として、日本はもっと堂々と米国を糾弾すべき事である。
    また「米国の核の傘」に固執することがどんなに、日本国民にとって危険なことであるのか、実は「核の傘」に入っていない方が敵性国家にとっては無害なのであり、少なくとも敵性国家にとって危険は少ないのは自明の理である。
    何よりも、核被害国が「核」を肯定することの愚かさについては、その愚かさを指摘しないでは居れないのである。
    それもこれも、日本は米国だけが頼りだとする「敵性侵略国家からの被害妄想」が強すぎるのであり、一昔前の核抜きの安保同盟だって考えられるし、日本に取ってはその方がべターである。
    時には、米国の経済政策に対して「No」を突きつけるべきである。
    独立国として日本は、隣国ロシアとは米国とは違った対露政策を独自に示すべきであり、それが日本の国益となり、米国を牽制する力となるのである。

  • 互いの国同士での国益上の対立は、自国の主張は「絶体善」と思っていても、相手国も相手国の国民固有の「絶体善」がある分けで、これがある以上は当事国の政治家にも当然のこと、国民に背を向けて相手国の要求に対して容認することは、例え相当強固な政治的な支持があろうとも、領土の交渉などに於いては、その国の歴史的な英雄になるか反対に国賊扱いされてしまうかは、その時代に生きた国民に留まらず、その国の歴史的な評価を後の世に問われる分けですから、そんなに簡単な政治的決断にはなり得ないことです。
    ですから外交交渉の難しさは、そのような相手国の国民の状態を含めて、相手国の政治家の立場も含めて考えない限り、到底良い外交交渉はなり立つ分けはありません。
    そのような、現実的な政治的、歴史的な状況を踏まえた上で、私は「引き分け」の中身を、4島一括提案ではなく、国後島、歯舞島、色丹島の3島一括提案にすべきであると提案します。
    つまり択捉島は涙を呑んで譲りましょう、ということです。
    何故にそのような提案なのか?
    島の領土面積を考えれば、択捉島の総面積は、国後島+歯舞島+色丹島の合計総面積にほぼ近いからです。
    これでも、択捉島1島の方が少し広いのですが、4島の総面積から締める50%の比率としては3島対1島が面積比での引き分けとなります。
    世界の国々の「国境」と言うものは、殆どの場合陸続きでの国境が普通で有り、島国での日本では、どうしても国境は敏感にならざるを得ませんが、それでも海が間にあれば国境はその分明確化されます。
    直ぐ隣に国境がある人々にとっても、隣人との仲良しは大切なる安心なのですから、できるだけ早く国境を画定して平和になることの方が、不安定な国境の国民同士にとって生活上の安定を獲得することの方がどれ程、両国国民にとって幸せなことなのか考えて見ることが重要です。
    そのような状況から考えて、プーチン氏の「引き分け提案」に、日本側からの損得上での「5分5分引き分け提案」を提唱したいと思います。
    そのことを日本側も譲っているとの交渉テクニックでもって、ロシア側担当者のロシア国民からの歴史的な評価、批判に耐えうるような配慮も、日本側の担当者には必要なことかとかと思いつつ提案します。

  • ロシア極東のウラジオストクで開催中の東方経済フォーラムで、領土問題を先送りしての日露平和条約締結提案が、プーチン氏より成されているようであるが、日本も、もうそろそろ現実路線で以て、前向きに検討すべき時が来ているのではないかと思われる。
    勿論、今のロシア側の提案通りで良いと言っている分けではないが、さりと従来通りの日本側提案内容から一歩も引かないと言うのなら、現実の国際間での歴史的な交渉術上の現実的な外交テクニック上からもあまり褒められて事とは言いがたいであろう。
    それは、日本には日本としての日本人なら至極当然な、日本固有の領土であるとする主張が有り、一方ロシア側には彼の国なりの「論理」があるのであり、常に国際間では互いの論理上での主張の違いがある分けで、相手がある以上は相手側の主張にも耳を傾けざるを得ない心の余裕も避けて通ることは出来ないし、「大人の国」同士の交渉にもなり得ないのである。
    ところで、かつてプーチン氏が大統領に成り立ての頃、安倍総理が初めてプーチン氏と首脳会談を始めた頃の、記憶が蘇み返るのだが、当時のプーチン氏が、しきりと主張していたように思うのは、領土交渉での互いの「引き分け」を主張していたように思うのであるが、その後の日本側の交渉術上から、多分絶望したのではないかと考えられて仕方がない。
    その為かどうか定かではないが、その数年後にはロシア側の主張が相当以前に戻ってしまい、2島返還に固定されてしまったような感想を持つ。
    当時の日本側はマスコミも含めて、ロシア側の引き分け提案の中身を、日本側なりの提案としての代案だって出すことができた筈なのだが、ロシア側の提案中身を確かめる意味合いからも、日本側からの逆提案を出せたはずだからです。
    恐らく、外交当事者間ではもう少し中身のある提案が相手側から成されているものと思われるのだが、国民に全く相談すらしないのは国民を愚弄しているかそれ以上に政治の怠慢を指摘されて仕方ないであろう。
    世界の政治家は日本人での常識的な「時間感覚」とは到底理解を超える程の感覚を要求されるのであり、いつまで経っても話が一歩も進まないのであれば交渉の初歩にすらなり得ないであろうから相手からは見放されると思われる。
    つまり交渉には、毎回新鮮な代案を持ち出す交渉テクニックは必要であり、そうで無ければ交渉などしない方が良いくらいである。

  • 都合でしばらく休んでいましたが、また再開致します。
    もう大分前の話題になりますが、同姓婚の法制化などの話が出ていましたが、これについてコメントします。
    これの法制化には、その前に憲法改正が必要なのではないでしょうか?
    何故ならば、憲法24条は婚姻は両性の合意にのみに基づいて成立する、とのことですから、異性間ではない同姓婚は憲法違反となってしまいます。
    しかし現在進行中の憲法改正案では、憲法9条の改正ばかりが目立っていて、野党などでは憲法改正どころか、憲法は「不磨の大典」のごとく一切の改正や修正も含めて必要なしとの見解で固まっているように見えるのです。
    ですから憲法改正については、改正は9条だけに限定せずに幅広い観点からの見直しも必要なのです。
    と言っても、私は同姓婚に賛成しているわけではありません。
    ただ法制化するのなら、その前に憲法改正が必要であると言っているだけです。
    ついでにですが、「夫婦別姓制度」についての見解を表明しますが、欧米がそれを合法化したからと言って、ただそれに無批判に右へ倣うのには反対します。
    これは日本での社会内で、国民の多数が賛成し、国民多数からの自発的な必要度に応じて決められるべきで有り、そうでないと民主主義の観点から好ましくありません。
    この問題は、人権概念とは特別に関係ありませんが、例えば人権問題として多少なりとも関係が有ろうとも、欧米での人権思想に100%合わせる必要はないと思います。
    勿論「世界人権宣言」で述べられている人権概念には拘束される部分は有りますが、標記の問題は人権概念問題では全くないからです。

  • シンガポールでの米朝トップ会談はいろいろと興味深い内容であった。
    日本での各界での大方の事前予測とは裏腹に、米朝のトップ両方の会談の進め方は、恰も双方が相手を万全に認め合うほどの信頼感が出来ていたように思われるほどであった。
    考えて見れば、これはそれ程に予想できないようなことではないのである。
    何故ならば、金正恩委員長にとっては、その父や祖父とは違って、青年期にスイスに学び欧米の人権や民主主義についての通り一片的な知識が身に付いていたはずで有るからであり、欧米的な考え方は十分理解し解釈も出来るはずで有るからである。
    だから彼にとっての国体維持、体制の護持は、体制内での強固で盤石な体制組織作りが出来た後では、軍部組織内や警察権力等での力学体制が唯一、懸念材料であったであろうが、これも優れた統治能力を発揮して、韓国大統領との融和を実現させて、また中国とも自身の力を認めさせての自信が、今回のトランプ大統領とのトップ会談を成功させて信頼感を勝ちとった裏には、今後の経済的な展望や米国大統領の立場への理解などを通して、両者が人間同士の信頼感を醸成させ、事前の米政権側との度重なる各交渉に於いて、金委員長が十分に信頼に足る頭脳の持ち主として理解できたからに他ならないからであろう。
    要するに、北朝鮮のあらゆる現行の実力を米国に裸同然に見せての、一種の抵抗が功を通しての成功としてトランプ大統領が認めたからに他ならないであろう。
    従って、今後の対北朝鮮との日本外交は、米国を頼るのではなく、独自に北朝鮮と対峙し、一刻も早く北朝鮮との外交の扉を開くべきであろうし、拉致問題の解決は、戦後の両国の戦前からの諸問題などを同時にテーブルに乗せて議題として解決することの方が、急がば廻れのように解決の早道であろうと思われる。
    今、北朝鮮の金委員長は、言わば日本の明治維新の頃の開国して欧米に学ぼうとする若き志士たちにも例えられるのかも知れないし、米国側の交渉担当者に、そのように印象付けたかのようでもある。

  • 断種の合法化はアメリカ合衆国が先進国であり、1907年以降各州で断種法が制定された
    ドイツでは、1933年7月14日に遺伝病子孫予防法として成立し、断種が認可された。
    日本では遺伝性疾患をもつ患者に対する断種が1940年の国民優生法で規定され、1941年から1945年の間に435件の断種が行われた
    その後、1948年に制定された優生保護法では、遺伝性疾患だけでなく、ハンセン氏病や「遺伝性以外の精神病、精神薄弱」を持つ患者に対する断種が定められた。優生保護法に基づく強制的な優生手術は、1949年から1994年の間に1万6千件に及んだ。断種は男性にも女性にも行われたが、このうち7割は女性の断種であった。同意に基づく優生手術は80万件以上であった。優生保護法第三条では、以下の場合本人及び配偶者の同意を得て医師が優生手術を行えるとしていた。
    現在では、1996年の改正で母体保護法に法律名が変更され、障害者およびハンセン病患者への強制的な優生手術に関する条文が削除されたため、現在では本人および配偶者の同意のない断種は禁止されている。
    北欧における断種の強制が1997年にニュースで知られた。断種あるいは強制不妊手術は、現在の国際法的扱いでは、1998年の国際刑事裁判所ローマ規程第7条において「人道に対する罪」の一つに規定されている。
    日本では、戦後の「日本国憲法」で十分護られていると一般で信じられていた「人権」が、かくもむなしく護られていなかった分けとして考えられるところは、憲法12条や13条に記述されている「人権」が「公共の福祉」という「あやふやな」用語で攪乱されてきた歴史を無視できないで在ろう。
    これら理由からも、私は憲法12条と13条の「公共の福祉」は、先稿の私の主張に従って削除すべきものと考える。

  • 防犯カメラが例えば電柱100メートル間隔くらいで取り付けられていたとしたら、馬鹿な犯罪を犯しそうな奴なら、例え幼児に対する犯罪以外でも、大人の一般犯罪などにも役立つし防犯目的になる。
    田舎の山道でも地方には通学路はあるので、田舎なら公道500メートル間隔で取り付けられれば、一般の人の散歩道としても心強い。
    だから幼年期の子供だけで無く大人にとっても無駄では無い。
    こんなに人の命に関わる大切な利用価値があるものに対して変な偏見を持つべきでは無い。
    そんんなことより、問題点があるとしたら、プライバシーに関する人権がかなり侵されることへのデメリットである。
    しかしこの程度のデメリットを皆で共通の我慢をすることで、治安が向上するのなら、多くの人々は了解できる程度のことでは無いかと思うのである。
    プライバシーの制限と言っても、これはそれ程の事では無い。
    なぜなら、道路(一般公道)なら、人は常に肉眼に晒されているわけであるし、そこに人が居ようが居まいが、人目を遮断できるような妨害行為は赦されては居ない。
    道路は常にオープンなもので不特定な人々に解放されているので、これはプライバシーをもともと制限されてあたりまえなところでもある。
    だから無気になって反対する理由など、もともと考えにくい部分でもある。
    それとも何か、公益上で不都合が有るのであろうか?
    公道上に一定間隔に設置された防犯カメラの場合、そのカメラの前で一人づつ24時間監視員を置いていることにほぼ匹敵する。こんな安上がりで強力な監視員代わりは他には考えられない。
    カメラへの破壊工作は、他のカメラが監視している分けで、カメラが普及、徹底すれば、その宣伝効果は何倍にもなり、有効な防犯グッズになるであろう。
    このカメラのメモリの取り扱いは、当然のこと一般人は法律で禁止されるべき事は言うまでも無い。

  • > 「まったく、監視社会の怖さが分からない奴ってのは、バカ右翼としか言いようがないぜ。
    > 今は技術が進歩したから、数千人が行き来する雑踏のそれぞれの人の顔を正面・横顔を問わずコンピューターで判別して、カメラを切り替えて自動追跡するシステムなんかもできてるってのにな」


    いろいろと、公安警察などからの監視を恐れてのようであるが、これには少々解説が要るようである。
    ひとことで言って、自分達に、社会を混乱に陥れるような暴力的な計画などが無く、言論や表現の自由による活動だけでは、このような当局の監視などを恐れる理由など全く無いわけであり、誤解されての追尾行などなら何ら問題も心配も要らないわけである。
    むしろ、テロリズムなどの暴力行為や治安上からは有用でありがたいくらいのものであろう。
    但し、想像するにそのような尾行などする人間の質については、いろいろと問題がありそうなところは十分に理解できるのであるが、自らに暴力的な考えが無く潔白であるのなら、全く懸念など起き得ない性質の問題でもあるので、無視するのが一番なのかと思いますが、如何でしょうか?
    日本国憲法には、言論、出版,信条、など表現の自由は保障されている分けだし、言論などで柄の悪い表現をしたり、やくざっぽい言動をすれば、多少なりとも人物的な警戒をされるかも知れないことは「身から出たさび」のような影響が有るのかも知れないが、それはそれとして、国民に「表現の自由」があれば、公安等の捜査当局には「警戒の任務や職務」が発生するのかも知れないが、それ以上のことは私には分かりません。
    そんな心配より、防犯カメラによる無言の圧力は非常に重要で、安全を担保する上でも重要です。

  • 防犯カメラの効用については、いくら語っても語り尽くせないほどの利点や効用がある。
    私は以前からの主張であるが、防犯カメラの有用性については、プライバシー権などと言った人権侵害批判からの馬鹿げたと言うか、総体的に取るに足らないこじつけ理油からの反対意見には、馬鹿とは付き合えないとの理由から、反論どころか無視することにしていたので、以前彼らが何を言っていたのかを含めて全く記憶が無い、それは当然のこと読むのも時間が惜しくて読んでいなかったからでもある。
    そのくらい議論するに当たらない愚論には、今でも耳を傾けるには時間がいとおしく思っている。
    人権、人権、人権、といくら連呼しようとも、人権の意味は幅広いし、人権という同じ言葉で語られる人権の内容には、その重要度の重みに於いては、「月とすっぽん」ほどの重みに違いが有る。

    防犯カメラの重要度については、複雑極まりない現在社会生活に於いては、都会生活であれ過疎地の田舎社会であれ、人の命の尊さに於いては何ら変わることは無いから、「地球の重さに」比べれば、経済的非効率性などと言った過疎地に設置される非効率性など全く取る足りないくらいに問題外な事である。
    過疎地の田舎には、人口に比べて多くの空気(酸素)がふんだんに有るからと言って、それを都会に廻すことことなど出来ないように、自然資源の供給によるアンバランスは、神の成せる業でもある。
    同様な考えで、過疎地に都会同様な人工的な便利さをお金を掛けて施設しても、神のレベルでは何ら不思議はないことと言えよう。
    過疎地の人の滅多に通らない山道に街灯や防犯カメラを設置したとしても、日本経済全体から見れば、「雀の涙」程度の出費に過ぎない。
    この論理、貧乏性の国民には解りずらかろうが、何千万台とも成るであろう防犯カメラの需要増による経済効果の計り知れなさに比べれば取るに足りないことである。

  • PKOでの国際協力の話をしたのに何故だかアメリカとの了解などと意味不明なことが出てくる、所詮話がかみ合うわけは無い相手なのだから、気を許してお付き合いした私が愚かだった。、、、反省。

    話、変わるが、新潟市の女児学童殺人事件であるが、いつも思うのは、日本の防犯カメラは技術的にもそしてコスト的にも、世界有数のレベルに有ると思うのだが、何故だか街頭防犯カメラとしての普及が遅れている。
    街頭防犯カメラを都会や田舎に関係なく、街頭防犯灯が有るところに組で、(同時に対として)取り付けてあれば、どんなに幼い子供達の命が救えるであろうにと思うとき、一般市民生活上でのプライバシー上での多少の不便さえ我慢すれば、子供達の命の安全上で、どれはどの助けとなることかと思うとき、日本の経済力や財政力を考慮しても、治安上での貢献では非常に効率的且つ効果的な防犯対策になるのにと思い、社会の世論としてのコンセンサスが日本国中のあちこちで起きても良さそうなことなのに、事件が起きる度に父兄の送り迎えがニュースとなり、それが事件の解決で何時しか忘れ去れてしまう、、、
    何故事件が起きる前に皆で話し合って自治体や国に、陳情しないのか、これは正に選挙の票になるであろうに、野党の政治家達にはこんな所にも票が落ちているのに気づかず拾わないのかと思い、何故、何故、何故、こんなところにも与党にはなれない理由が???
    そんな所に、税金を使うのは、勿体ないことなのか???、それとも国民全体が貧乏性な為なのか?、それとも子供の人権など二の次のことなのか、何処かの政治家が何時か言っていた、「人の命は全地球よりも重い」との言葉がむなしく、響きます。
    街頭防犯カメラには録画再生機能は必要ありません、32GB程度のメモリ一個分で十分です。
    事件が起きたときだけ、警察がメモリをチェックできれば十分です。
    このカメラは無言の圧力として、犯罪者への警告となるはずですから、、、。

  • まだ理解できないようだから、再度同じ問いかけに補足しておく。
    私は、憲法9条を必ずしも改正する必要は無いと思うし、9条の改正よりも13条など、一般人権条項の改正の必要性を強く訴えているだけである。
    ところが、今話題を提供して自民党が改正を訴えているのは、主としてほぼ憲法9条だけで有るので、9条がこのままでも何も問題が無いかと言えば、必ずしもそうでは無く、自民党案は9条2項の中身を変えて、自衛権を9条に明記しようとしている。
    現憲法には自衛権としての明記はないし、自衛権は13条の国民の生命財産を国が護る義務を通して、この記述が間接的に国防の自衛権利として解釈されている。
    即ち、現在の国を護る自衛権としての憲法上の立場は、派遣先PKOなどの隊員が襲われて、同時に同協力PKO目的の他国にも危害が及びそうなときに、我が国隊員が他国を助けようとした場合は、これは国家間の救援救助となるので、この場合は日本国憲法13条の国民を護る人権を拠り所に、他国の救援をするには無理がある。
    従って政府が自衛権を国家の目的として憲法に明記することの違いが、現在とは明白に違うのである。
    恐らくこのこととの意見の相違は、一国平和主義だけでの自衛は国際的に無理があろうと思われるが、他国との協力は現憲法では違憲であるとする解釈もあり、PKOに派遣されている我が国の隊員に取っては、自らが危険に際しては助けてもらえるのに、同じ目的で派遣されている他国を緊急時ですら助けられないのでは、当然のこと他国から反発を受けて、自らの生命維持権の運命にも影響を受けかねないでは無いか。
    そのようなことの弊害を緩和するべく、自民党の改正案は政府は無言だが、背景にそれが隠されていると推理します。
    私は、必ずしもPKO参加に賛成では無いが、参加している以上は隊員の生命は何より大切で有り、故に消極的には9条から「交戦権の記述のみ」を削除しつつ、12条と13条の改変を強く訴えているのです。

  • 想像力の欠落から来る、他人の文書の読解力など、推理力未熟による誤理解や、未理解に対して一々説明しても馬鹿馬鹿しく思うのであるが、私はこの場で議論するつもりはもともとないし、また目的としていないが、一度だけ補足してあげておく。

    例えば、現在のPKF、PKO活動などで、非戦闘地域に限定しての派遣は良いのであるが、何処の国でもその国の人間の活動には、テロリストであれ、それ以外の反体制勢力からの抵抗活動で有れ、いつ状況が変化することは考えておかねば成りません。
    これは政府が事態の予測を派遣前にしたときとは大きく変化することも派遣先の責任者は、政府の予測とは無関係に、いざという時の隊員の生命を護らなくてはならないことは、予め決められた対処法以外にも、臨機応変に護る義務は当然ある分けで、その程度の暗黙の了解は責任者なら自ら負う覚悟くらいは無ければ責任者としては失格です。
    その場合の責任者(隊長など)の判断の拠り所は、隊員の生命などの最小限の人権確保であって、これは絶対的な価値観の問題です。
    政府の派遣前の強い指示や命令などを含めて、派遣前とは状況が変わった場合は、いくらでも起こり得るわけで、最前線に居る責任者の判断は、現地の責任者の判断は国益を含めての一国の首相にも似た責任があり、その判断の拠り所は隊員の「生命に関する人権」です
    派遣先の責任者は、その場合はその現場に限定しての人権判断を、総理大臣に代わって代行する任務があると思います。
    おそらくそのような、強力なる責任権限は、現行法では認められていないものと想像します。
    もしもそのような任務責任がないと言うのなら、早急に要望して、口頭でもよいから了解を取るべきです。
    私が現行法では、派遣先の隊員は下手をすると過剰防衛になると恐れて、隊長も従って隊員も躊躇して身を護ることを軽視することが、日本国の社会風潮や国民の無理解などから隊員の人権は疎かにされることが十二分に、予測されることの「懸念」からです。

  • 普通の国の「軍隊」のような扱いを自衛隊には望まないと書きましたが、普通の国の「軍隊」、という「普通」とはどう言う意味なのかと言えば、旧日本軍の軍隊とも違う、欧米民主主義の国で多く見られる現在有る多くの軍隊のことです。
    そして何処が旧日本軍と普通の国の軍隊と違うかと言えば、旧日本軍は人権(生命維持権)が殆ど無く、紙くず同然の人権で有ったわけです。
    少なくとも、最低限の人権(生命維持権)は残されていますが、旧日本軍には皆無だったわけです。
    一例を挙げれば、戦場(最前線)で、明らかに劣勢で負けが決定的になったとき、隊長の判断で投降して捕虜になることを躊躇しません、これはこれ以上の戦いは戦死者や負傷者を増やすだけで勝つ見込みが無くなったと判断したときです。
    このような投降は不名誉などでは無く、兵士の人権を重んじる責任者の意志が尊重されなければならないのです。そのようなときに責任者が躊躇するような軍隊は、普通の国の軍隊ではありません。
    将来日本が再軍備するようなことが仮に有ったとしても、絶対的にこのような場合の兵士の人権を名誉を汚すこと無く護られなければ成らないのです。
    将来、絶対多数の与党が強引に自衛権を拡大解釈して自衛軍を作り、自衛隊法を改正して、国家防衛法(仮称)のようなものに作り替え、普通の国の兵士に近い扱いを受けさせるようなことが仮にも起きたとしても、憲法13条の人権条項が盤石であれば、9条の拡大解釈だけでは不可能としておく必要があります。
    AI技術が今後は急速に発展し、ロボット兵士が最前線に立つことが近い今日、旧来の人命を危険にさらすようなことを正当化させるべきではありません。

  • > 軍人や警官などは、「一般人よりも命を危険にさらす率が高い」のは当たり前だろうが。

    誤解しているようだが、軍人や警官が一般人よりは危険率が高くなると、「危険率」を「問題」にして言ったつもりはない。
    「率」がどうのこうのでは無く、国防を担う最前線に配置されている人間でも、憲法上での「人権」の内、最も危険に晒されやすい「生命の安全」については、同じ国民としての人権(生命維持に関する部分)は、基本的に護られていると、現憲法上において、解釈されるはずであると言っている分けです。
    もしも、現在の自衛隊員が、現憲法下の法律(自衛隊法)の中で、危険率が高くなることはやむを得なく許せるとしても、「命を国のために、ときとして差し出しなさい」、と自衛隊員個人に対して、自衛隊法が許しているとしたら、これは自衛隊の存在が憲法で明示的にされていない以上は、憲法13条の人権に対して問題となりますから、そのような解釈は、憲法上で無効となります。
    即ち、それが故に、安倍総理が憲法9条に自衛隊を明記して合憲化させる必要を感じてのことであろうと思いますし、現自衛隊員との人権上の扱いが変わってくることと思います。
    また、現憲法のままでも13条の「公共の福祉」という曖昧記述を、そのままにしていたら、自民党新憲法草案のような「文言変更」が行われて、旧日本軍に似たような扱いにされかねず、これも13条に言う生命に関する人権が、憲法上で損なわれてしまいます。
    私は、普通の国の「軍隊」のような扱いを自衛隊には望みません、生命の危険率が上がるのは許せますが、13条の「生命を維持する権利」については、現状の扱いを望みます。
    私を「ネットウヨ」などと批判する、貴方の方が余程、右翼的ですね、、、。

  • 従って、「自由」は、日本では「何でも好き勝手に出来ること」と、解釈する人達が居るが、これは世界標準的な自由の解釈からは殆ど根拠が乏しいことになり、自由とは「他人を害しない範囲を自ら判断抑制する」が条件付けられていることになります。

    現憲法13条では、 すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求の国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。
    ここで、「自由」の用語が、無造作に使用されているが、「自由」の概念は、定義が無ければ人様々に解釈されかねず、あまりに無防備である。
    従って、自由とは「他人を害しない範囲での自由」と、断りが最低限必要である。
    そして、この断りがあれば、「公共の福祉に反しない限り」はカットすべきであると思われる。
    つまり13条の改正は、下記のようになる。
    すべて国民は個人として尊重される。生命、他人を害しない範囲の自由及び幸福追求の国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。

    12条の「自由に関する部分」でも、13条と同じように該当部分の変更を提言します。

  • 護憲一辺倒では無く、安倍自民党が推進する憲法改正とは全く違う、真逆な方向での憲法改正を提案している理由として、国際的にも批判がが起きない「人権強化重視」の憲法改正を私は提言している。
    その要点は、憲法13条の「自由」の概念について、世界の先進国を納得させられる概念内容のものを日本から発せられることが望ましい。

    17世紀の英国で、ジョンロックなどにより提唱された「自然権」要旨は下記である、
    人は自然状態のもとで人間としての生存に不可欠の固有の権利を自然権としてもっている、これには、生命、自由、財産が含まれる。自然状態ではすべての人間が平等である。ここで示された「自由」は、ときを超えて1776年7月に英国との独立戦争で勝利した米国の独立宣言で、全ての人間は平等に作られている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含むある侵すべからざる権利を与えられている。
    それから13年後に、米国独立戦争に加担して英国と戦ったフランス人政治家により、米独立宣言を参考にしたフランス人権宣言では、自由、平等、博愛、国民主権、基本的人権の尊重、所有権の確立などが盛り込まれ、この人権宣言は瞬く間に全欧州に広がり、日本でも100年後明治初年頃の自由民権運動の原動力となっている。

    このフランス人権宣言、第4条で、自由とは、他人を害しない全てのことを成しうることにある。従って各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保する事以外の限界を持たない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない。 
    英国、米国、フランス、そして全欧州へと、自由の人権思想が、その経緯は各国で様々な様子で広がって行った状況が伺えます。 <続く>

  • 現憲法の人権条項から、仮に「公共の福祉」の文言が最初からなかったとして、つまり憲
    法12条や13条をそのように解釈したとしても、国際人権規約(B規約)の規定に逸脱していないし、その思想的背景でもある「世界人権宣言」の人権に一致するものであるので何ら問題はない分けです。
    私の少し前の投稿でも述べたのであるが、日本の現実現状の人権状況が、何故に欧米先進国と、かくも違っているものか、その理由が多くの国民自身の人権認識に於いて、その遅れに気付いていないところに、理由があるのではないか?、
    そのように思われるのです。
    従って憲法改正を今、言うのなら、憲法9条はそのままでよく、12条と13条の人権条項の補強の方が先であろうと主張します。
    現在より逆のぼること50年以上前、当時の自民党憲法調査会の学者達が米国を訪問して、当時の占領軍(GHQ)関係者から、日本の憲法が米国からの押しつけだったのかどうかを調査結果での報告として、米側は日本側の当時の学者や知識人達の意向も十分に反映しての憲法であるとの結論を得て、それが報告されて当時としては、今すぐ憲法改正の必要性は無いのではないかと、そのように報告されている事実を付記しておきます。

  • 日米欧における庶民の「常識的人権感覚」などで、自衛隊員などの生命維持権感覚の違いのようなものを、私としては数稿前で表現したのであるが、それは日本の場合、そうなる社会的背景が歴史的にあると思われます。
    一つの理由は、戦前からの「臣民感覚」に似たもので、臣民ではないものの、国民感覚としても、「国家のためには身を捧げる義務感覚」が、絶対的正義であるとする「道徳的倫理観」のようなものが名残として存在するものと思われます。
    さらに加えて、憲法12条と13条に出てくる人権に関して「公共の福祉」なる曖昧模糊とした表現で、人権制限や人権制約が条件付けられているからで有り、あくまでも「個人の人命」に於いても、解釈次第では「公の秩序維持」、や「公共の利益」の為なら、例えば自衛隊員のような国防の任務に携わるものには、一般国民とは違って命を犠牲にすることは、「ときとしてあたりまえ」と言った感覚が、国民の間にも根強くあるものと推察されるが、勿論これは「重犯罪者の生命」は別次元のことと想定していることは言うまでもないが、これらも他の理由としてあり、長いこと憲法の「公共の福祉」が、曖昧のま々放置されてきたことが人権麻痺感覚の一因であろうと思われる。

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