ここから本文です

投稿コメント一覧 (17957コメント)

  • 例えば、初期仏典を学問的に解読して人間釈迦の真意に迫ろうという試みがある。

    この種の試みはキリスト教でも行われたが、結局うまくいかなかったと思う。100年前の遺物的な発想に近い。

    聖書というのは、これは神のことばだという立場で統一的に書かれているので、人間の内面の真意に還元することは無理。

    聖書の場合は、

    神のことばを写しとった文字聖典がテキストとしての聖書だから、

    神のことば>聖書

    となる他ない。

    ここが仏教と違うところか。仏教はあくまでも人間釈迦が出発点だから。

  • >>No. 55062

    究極のところでは、主権者を中心にして生きて働いている憲法的な現実の方を、過去の文字記録である憲法典より優先せざるをえない。そういう意味です。

    同じことは、仏教の生きた働き・リアリティとしての仏法と、文字聖典である仏典。両者の関係として問題になるのではありませんか?

  • >>No. 61667

    > > ところで、キリストの体の復活とは、人間における「自分の身体と自分の自己同一化」を無効化、撤廃することでしょう。せいぜい100歳という時間的な世界の中で、霊的なアイデンティーを人間としての身体に置くことを否定したということでしょう。これによってはじめて、人間が身体と自分を自己同一化して、有限の時空間でサバイバルゲームをせざるを得ないという原罪が消去される。
    >
    >  被造物=相対差別、キリストの体=絶対差別という理解なんですが、
    > そうすると、「自分の身体と自分の自己同一化」を無効化、撤廃して、
    > 『被造物としての人間は、キリストの体として復活し、
    >  そこで被造性は消滅する=被造物ではなくなる』という理解でいいんですか。
    > そうすると、少なくともその限りでは、俗諦的に翻訳(=写像化=相対化)可能
    > というように思われますが・・・・・・。

    人間にとっての体の復活は、世の終わりの完成という最終ゴールのときですから、「未だ」です。ただ、有限の時空間でサバイバルゲームをするというアダムの体、罪の体は死んで終わっています。霊として、三位一体の神と共に永遠のいのちに入っている。被造物であることが終わったということは難しいかもしれませんが、有限な被造物の次元から三位一体の神の次元に移ったことは確かだと思います。

    人間たちがキリストのように体の復活をするのは、最終段階での、天と地の完全合一の時においてです。

  • 憲法>憲法典

    ↑このくらいのことは理解してるんだろうな(笑)

  • >>No. 55021

    > 憲法制定権・国民主権の根拠を
    >
    > 神自身の一回限りの直接的な贈与なので、いかなる形でも取り消しは不可能。

    取り消し・改変が不可能だということを言いたかったのは、新約聖書についてです。

    日本国憲法の場合は、憲法制定権力が国民から他の主体に移るなら、日本国憲法がまったく別のものに変わることもありうるでしょう。それ以前に、日本国憲法自身が改正を認めているので、改正は当然可能です。

    それはともかく、日本国憲法の正統性の根拠となるのが、国民に憲法制定権力を与えることになった、歴史的な出来事であることは確かです。キリスト教の場合、それに相当するのがキリストの復活という出来事。これは神による一回限りの直接的な贈与なので、カトリック教会への授権も、カトリック教会による新約聖書の制定も、以後の取り消し・改変を禁じる絶対的な効力を持ちます。

    世俗法である各国の憲法にはそこまでの拘束力はないでしょう。

    カトリック教会→憲法制定権力、新約聖書→憲法典、に置き換えて説明したのは、思考法の類似性に注目できると考えたからです。

  • 日本という国家において、どうして憲法制定権力が国民にあるのか納得できる説明ができる人はどのくらいいるのだろうか。

    ここら辺の議論は、実は、カトリック神学とパラレル。憲法制定権力にあたるのはカトリック教会。ずばり、カトリック教会=憲法制定権力。なぜ、カトリック教会に憲法制定権力があるかというと、三位一体の神が自分自身を人間そのものの中に贈与することで、制定権力を、過去から未来に向けて、絶対的に有効なものとして授権したからだ。この授権は神自身の一回限りの直接的な贈与なので、いかなる形でも取り消しは不可能。

    憲法制定権力としての国民は、総理大臣や国会議員、中央官庁のエリート官僚でないのはもちろん、個々の具体的な国民でもないし、投票する有権者でもない。もっと包括的で観念的な統一体としての国民が憲法制定権力の主体。

    カトリック教会を憲法制定権力の喩えで説明するときも同じだ。三位一体の神の自己贈与の効果を受けとる全ての人間が主体。

  • >>No. 55017

    > ●カトリック教会のカテキズム 103p
    >
    > 神は被造物間の相互依存をお定めになりました。太陽と月、ヒマラヤ杉と小さな草花、わしとすずめなどのような数え切れない相違点をもつものが存在するということは、いかなる被造物も自らだけでは存続していけないことを教えてくれます。これらは相互に依存して相補い、互いの役にたっています。

    関係性によって世界を読み解くことは、大乗仏教の専売特許でもなんでもないわけだ。宇宙でも地球生態系でも、人智を遥かに超えた精妙な相互依存のネットワークによって構築されていることは、カトリックも当然の前提としている。

  • >>No. 54991

    ●カトリック教会のカテキズム 103p

    神は被造物間の相互依存をお定めになりました。太陽と月、ヒマラヤ杉と小さな草花、わしとすずめなどのような数え切れない相違点をもつものが存在するということは、いかなる被造物も自らだけでは存続していけないことを教えてくれます。これらは相互に依存して相補い、互いの役にたっています。

    > 縁起や関係性の認識、自覚というのは出発点に過ぎないと思う。
    >
    > テレビや新聞の情報に触れていれば、世界がいかに相互に関係し合うシステムとしてダイナミックに活動しているか、いまや子供でも分かる時代ですよ。

  • >>No. 54998

    > 覚りという直接経験は、観念的自己満足の恐れがあるが、

    根本のところをとんでもなく誤解していない?

    >それが、実践として、普遍的な論理となってこそ

    逆だね。↑こちらの方が観念的な自己満足の恐れ。

  • 縁起の中に生きることがゴールではなく、縁起から解放されて自由になることがゴールではないのか。衆生と共に共苦するという境地も、縁起から解放されてから戻ってくるものでは。

    縁起それ自体は大威張りするものではない。

  • 縁起や関係性の認識、自覚というのは出発点に過ぎないと思う。

    テレビや新聞の情報に触れていれば、世界がいかに相互に関係し合うシステムとしてダイナミックに活動しているか、いまや子供でも分かる時代ですよ。

    そんなことを知ったところで、生きることの苦しみは大して減りはしないでしょう。

  • >>No. 1713

    > キリスト教にも実体はなく、

    実体はあります。

    >仏教にも実体はなく「此縁性」の存在。

    ダルマに実体はないのですか?

  • >>No. 54986

    > 釈尊は、無上正等覚後に「此縁性の縁起」を発見され、

    違うと思う。縁起の自覚は出発点に過ぎないのではないか。問題はいかにそこから出るか。悟りとはそういうことじゃないか。あなたには悟りの視線がなさすぎると思う。それが無意識的に、悟りさえも無化しようという衝動を生み出しているように見える。

    > 釈尊の「此縁性の縁起」を展開深化させば

    そこだけを観念的な砂上楼閣の哲学体系にしても、衆生の悩みには届かない。

  • >>No. 54959

    > その通りですね!
    >
    > すべての宗教との互換性とは
    >
    > 言葉や教理が指し示す「真理の共鳴」と言えるかもしれませんね!!
    >
    > さんね

    その通りですが。ただ、私の立場は相対主義的な宗教多元性とは違います。

  • >>No. 1705

    > 龍樹とキリストは結びつかないと思う人もいるかもしれないが、実はそういうわけでもない。
    >
    > 福音書の全章句が真理であることは、そこにキリストについて「八不」的な世界が成立することと同じともいえる。以下、ちょっとこじつけめいているが(笑)
    >
    > 不生不滅 → 神が人間として「生」まれることはありえない。人間として生まれていないのだから「滅」びることもありえない。
    >
    > 不常不断 → 人間としてのキリストは十字架で死んだので「常」ではないが、復活したので「断」でもない。
    >
    > 不一不異 → キリストは人間であり神であるのでどちらか「一」ではない、しかし一つのペルソナに統合されているので、「異」でもない。
    >
    > 不来不去 → キリストの再臨はまだ「来」ていない、しかし我々と共におられるキリスト「去」っていない。

    そういうことだが、実体否定とはまったく関係ない。キリストの実在は前提しているわけだから。

  • 龍樹とキリストは結びつかないと思う人もいるかもしれないが、実はそういうわけでもない。

    福音書の全章句が真理であることは、そこにキリストについて「八不」的な世界が成立することと同じともいえる。以下、ちょっとこじつけめいているが(笑)

    不生不滅 → 神が人間として「生」まれることはありえない。人間として生まれていないのだから「滅」びることもありえない。

    不常不断 → 人間としてのキリストは十字架で死んだので「常」ではないが、復活したので「断」でもない。

    不一不異 → キリストは人間であり神であるのでどちらか「一」ではない、しかし一つのペルソナに統合されているので、「異」でもない。

    不来不去 → キリストの再臨はまだ「来」ていない、しかし我々と共におられるキリスト「去」っていない。

  • >>No. 61663

    > そのくらい、oli***さんの話は、私には興味深いです。

    ありがとうございます。

    > しばらく私の方から話をさせてください。
    > ボツボツになりますが・・・・・。

    そうですね。読ませいただきます。

  • >>No. 61660

    > ①真諦と俗諦を同一平面に置いて、その同一平面の上で人間の救済が完成する。
    >
    > ↑①を導くためには、三位一体論と、キリストにおける完全な神性と人性、これ以上に端的な論理はないように思います。
    >
    > 全大乗仏教は、①に立つのであれば、キリスト教の基本的な論理を否定できないのではないか?

    もちろん、いかにもキリスト教的なドグマ用語やイメージを大乗仏教徒も信じろというのではないです。その内実である純化されたロジックを認めざるをえないということです。大乗仏教が①を採用するのであれば。

  • 神が神に向かって旅をしているのであれば、最初から大阪は必要ないことになりませんか。大阪にいるから東京に旅をしたくなる。やはり、俗諦と真諦の二重構造と分離性は前提とし受け入れざるをえないのではないか。

  • ①真諦と俗諦を同一平面に置いて、その同一平面の上で人間の救済が完成する。

    ↑①を導くためには、三位一体論と、キリストにおける完全な神性と人性、これ以上に端的な論理はないように思います。

    全大乗仏教は、①に立つのであれば、キリスト教の基本的な論理を否定できないのではないか?

本文はここまでです このページの先頭へ