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投稿コメント一覧 (16113コメント)

  • >>No. 2825

    >「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」と完全に等価なパンが自分の体に入ってくる。まさに、「三位一体の神との交わり」という信仰の直接的なダウンロードそのもの。

    小さなパンをわけもわからず偶像崇拝しろとか、時代がかった儀式に意味だけに見出しているのではまったくない!ポイントは、「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」がリアルな歴史的出来事であった証拠が、目の前の時空間にあることへの同意。
    これは聖書が真であること、神が存在することの証拠であると同時に、「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」が二千年前の33年間を超えて、人間が生きる時空間に遍在していることの証拠にもなっている。そのことに同意するから、「三位一体の神との交わり」という信仰がダウンロードされる。

    単純にいえば、イエスに働いた神の力はいまもここでリアルに働いている。

  • >>No. 10352

    >ケノーシスという語にはもともと神の自己否定という意味はないし、カトリックでもプロテスタントでも教理に据えることはない。

    ●教皇ベネディクト十六世の173回目の一般謁見演説 聖なる過越の三日間の意味

    h ttps://www.cbcj.catholic.jp/2009/04/08/5567/

    イエスは、神でありながら、ご自分の神としての特権を自分だけのものにしようとはしませんでした。イエスはご自分が神であること、すなわちご自分の栄光ある身分と力を、勝利の道具や、わたしたちとは違うことのしるしとして用いようとはしませんでした。反対に、イエスは「自分を無にして」、人間の惨めさと無力なあり方をとりました。このことに関して、パウロはイエスの「ケノーシス(無化)」すなわち降下を表すために、きわめて意味深いギリシア語の動詞(ケノオー)を用いました。神の身分(モルフェー)はキリストにおいて人間の姿のうちに隠れています。人間の姿とは、苦しみと貧しさと人間的な限界と死によって特徴づけられる、わたしたちのあり方です。イエスはわたしたちの本性を真実かつ徹底的に共有しました。罪を除いてすべてを共有しました。このことによって、イエスは、わたしたちの有限性のしるしである、あの死という境界にまで導かれました。しかし、これらのことは皆、不可解な構造ないし盲目の運命がもたらしたものではありませんでした。むしろそれは、イエスが父の救いの計画に進んで従うために、自由に決断したことでした。さらにパウロはいいます。イエスが向かっていった死は、十字架の死でした。それは、人が想像できる中でもっとも屈辱的でみじめな死でした。全宇宙の主であるかたが、わたしたちへの愛のために、これらすべてのことをなさったのです。イエスは愛のために「自分を無にする」ことを望み、ご自分をわたしたちの兄弟にしてくださいました。イエスは愛のために、わたしたちのあり方を、すなわち、すべての人のあり方を共有してくださいました。

  • >>No. 10354

    >これに対してキリスト教は、他者を立てることによってかえって自己を立てて来たようだ。
    キリスト教を地盤とするヨーロッパ的思惟は、
    他者を立てることにより自己を立て、自己を立てることによって他者を立てざるを得ないという
    矛盾に苦悩してきたということが、キリスト教の限界とも言える。

    数十年前の三流評論家が言っていた程度の内容に洗脳されてるね。ぜんぜん自分のアタマを使っていない。

    だから何百回も金太郎あめのカズマ節を繰り返すはめになる。

  • ケノーシスという語にはもともと神の自己否定という意味はないし、カトリックでもプロテスタントでも教理に据えることはない。

    ただ、十九世紀後半以降の自由主義的な潮流の中で、「ケノーシス」神学という形で「ケノーシス」を特化する一部の神学者が現れた。キリストが神であることを否定したり、処女懐胎などのドグマを否定する神学。ようするに、テルゼが熱烈に支持した少数異端神学者のことだよ(笑)

    カズマ氏のキリスト教と仏教の理解がテルゼと瓜二つであるのはこういうところだね。

  • >>No. 10255

    > 引用していただいた内山興正の文章と聖書章句には、どこにも「神の」自己否定なる表現や考え方は書いていない。
    >
    > あなたが勝手に補って解釈しているだけです。
    >
    > 引用文に盛られている考え方はいわゆる「ケノーシス」であって、神それ自体の否定、神という本質の否定とはまるで関係がありません!

    「ケノーシス」で検索してみればいい。

  • >>No. 10341

    > >山下さんについて語るなら、第五図の私を踏まえた方がいい。

    > 内山興正さんの弟子と言っていましので、

    内山さんだけを師にしている人じゃない。まあ、内山さんについてもあなたより数段本格的に学ばれていると思うが、それ以上にパオセヤドーだね。

    > それだからして、内山興正さんで充分なので、
    > まったく興味はありません。

    興味がないなら知ったかぶりすんな。

    今後知ったかぶりをしたら徹底的に訂正してあげるからね。

    > アナタの考えが、内山興正さんとは全く違うということです。

    どこが違うか説明してみなさい。

    > 私の基準は、山下さんの師の内山興正さんですよ。

    誤読しているものを、理解していないものをどうして師にできんの?

    中年すぎの書物での独学だろ?

  • >>No. 10341

    > >山下さんについて語るなら、第五図の私を踏まえた方がいい。
    >
    > 内山興正さんの弟子と言っていましので、
    > それだからして、内山興正さんで充分なので、
    > まったく興味はありません。
    >
    > アナタの考えが、内山興正さんとは全く違うということです。
    > 内山興正さんの「神の自己否定」とは考えが違うでしょう。

    あなたはいい加減な人間だな、まったく。内山さんに「神の自己否定」という「あなたの」理解なんてないことを、昨日示したのを読んでないの?
    読解力ゼロか?

    > 私の基準は、山下さんの師の内山興正さんですよ。

    あなたは内山さんも理解していないよ(笑)。引用するだけで。

    > 神の栄光をしらないアナタは対話が論争という無限遡及に陥りますね。

    またはじまった。あなたは「神の栄光」を知っているけど、私は「神の栄光」を知らないと?
    思いっきり「実体化」してんじゃんか(笑)

    まあ、あなたに人と論理的な議論をする能力がないことは、ほとんどの人は知ってるけどね。

    もう許さんよ(笑)

    バカは徹底的にたたきつぶす。

  • >>No. 10336

    > >その人が「大きな幸せと称賛の人生」を求めたのに対して「謙遜、善行、賢明」こそが「神の栄光」
    >
    > 善行、賢明が神の栄光ということは、考えなくてもわかりますが、
    > 謙遜が神の栄光ということは、少し考えてみないとわからない難解さがありますね。
    > そういえば知人に、生まれてこのかた勉強も部活も生徒会活動もボランティア活動も習い事もこれといった旅行も、
    > その他あらゆるこれといった行動を一切してこなかったIという男がいます。
    > 彼の日常はただ自宅と職場を往復すること。せいぜいがひまつぶしのパチンコと晩酌のみという極めて存在のない男ですが、このような男こそ、生まれながらの謙遜の美徳を備えている人間だといえるでしょうか?

    横レス失礼します。

    いまの流れでは「神の栄光」というのは、キリストを念頭においています。
    キリストの栄光の頂点は、人間の体を担った上での、その体の復活。その心は、人間はこの体を与えられているそのことが、何にもまして、「神の栄光」を輝かしているのだと。スケートのパフォーマンスよりは、人間の体を与えられていることの方がすごいことなんです。

  • 山下さんについて語るなら、第五図の私を踏まえた方がいい。

    そもそもカズマ氏は山下さんについての評価を変えたのか?

    以前はトンチンカンここに極まれりだったが。そんな昔ではないけど(笑)

  • >>No. 10331

    > >あなたが使う意味での実体などは、そもそもの最初から、神にはないんだ。
    >
    > 最初から実体がないということでいのでしょう。
    > 空も最初から実体ないということです。
    >
    > それでいんじゃないのですか。

    それでいいなら、どうして神の実体化を否定するというセリフを年がら年中いう必要があるわけ?

    聖書的世界観に生きる人間が、カズマ氏的な意味での実体にがんじがらめになっているかのようなプロパガンダになるよ。これは間違っているから!

  • 2018/02/17 09:46

    >>No. 10311

    >
    > ●神の栄光とは?●
    >
    > >どんな人間も、その人間のどんなに優れたパフォーマンスも、それを創造した神の栄光を輝かすためにある。
    >
    > おお! これには大賛成。

    神が自己否定する意味はどこにある?

    表面的な言葉尻に反応する、軽い人間であることがわかったよ。

    > 最近、家を訪れたエホバの女性が、イオンの店員だったので、
    > 「あなたの笑顔は人を癒す。その神の栄光を店が輝かせないさい」
    > と15分ほど説法をしてしまいました。

    あなたの傲慢な性格が炸裂しているよ(笑)

    > 私は、仏の光明を輝かせるために、カート回収という泥池に「無条件の笑顔」という白蓮を咲かせています。

    偽善者だね(笑)こんなところで吹聴すんな。

  • >>No. 10318

    そういうことじゃないんだ。

    あなたが使う意味での実体などは、そもそもの最初から、神にはないんだ。

    ムダな言葉遊びで自己陶酔、説教したところで、私の目にはまったくごまかしがきかんよ。

  • >>No. 10308

    > > 水月さんは、テーラワーダについてはどう思われます?
    >
    >  知らないから全くわかりません。

    愚かさんもテーラワーダを経験して、禅の意味がよくわかるようになったといっています。実は、愚かさんにヴィパッサナーのリトリートを紹介して誘ったのは別ハンドルの私なんです。

    20世紀後半以降、禅とテーラワーダが遭遇して、面白いことがどんどん起きているのではないでしょうか。

    ●「光の中のマインドフルネス」山下良道

    著者の方は、曹洞宗で僧侶として20年只管打座を修行した後、テーラワーダで四年間修行したという変わり種の仏教徒です。

    わかりやすい本なのでおすすめします。

  • ところでカズマ氏の「永遠の理想」というのは実体にならない?

    神は実体だが「永遠の理想」は実体でないという、自己都合のダブスタは認められないと思うが。

  • どんな人間も、その人間のどんなに優れたパフォーマンスも、それを創造した神の栄光を輝かすためにある。

    人間もパフォーマンスも愛する、100愛していい、ただ神は1000愛しなさい。

    ここを押さえないと必ず偶像崇拝に陥る。

  • >>No. 10300

    本来日本人は人を押しのけてでも勝ちにこだわるような民族ではなかったのではないか?

    そういう譲りの行為はけっこうできそうですね。

  • >>No. 10283

    水月さんは、テーラワーダについてはどう思われます?

  • >>No. 10294

    > > あのオリンッピク選手たちは不可能を目指す。
    >
    > > 不可能を目指す羽生結弦選手が、私たちに命とは何かを教えてくれる。
    >
    > 羽生選手への宗教をやっている人の関わり方には、たぶん3つのパターンがある。
    >
    > ①熱い感情でポジティブに関わる。
    >
    > ②完全に中立に淡々と関わる。
    >
    > ③否定的に評価。
    >
    > もちろん日本人なら①が多いだろうが、その意味づけ、捉え方が決定的に重要。ここで間違うとおかしくなる。

    たぶん、キリスト教の理想は①だね。

  • >>No. 10291

    > あのオリンッピク選手たちは不可能を目指す。

    > 不可能を目指す羽生結弦選手が、私たちに命とは何かを教えてくれる。

    羽生選手への宗教をやっている人の関わり方には、たぶん3つのパターンがある。

    ①熱い感情でポジティブに関わる。

    ②完全に中立に淡々と関わる。

    ③否定的に評価。

    もちろん日本人なら①が多いだろうが、その意味づけ、捉え方が決定的に重要。ここで間違うとおかしくなる。

  • >>No. 2821

    >聖体拝領はダウンロードそのものでしょう。

    https://www.youtube.com/watch?v=6LgVllc3X8I

    小さな円いパンは外観はパンのままで、中味だけ二千年前のイエスの体に聖変化するというのが、カトリックのこれだけは絶対に譲らない主張です。あまりにもオカルトで、非科学的、頑迷固陋と思うのが普通ですが、知れば知るほど、考えれば考えるほど、「これしかない」という感じです。これを否定することは、他のキリスト教の宗派からいってもキリスト教の自殺行為にしかならない。

    「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」と完全に等価なパンが自分の体に入ってくる。まさに、「三位一体の神との交わり」という信仰の直接的なダウンロードそのもの。シンプルで明晰そのもの。

    偶像崇拝でも、単なる儀式でも、曖昧な神秘体験でもない。対象は「100パーセント神であり100パーセント人間であるイエスの33年間のご生涯」以外のなにものでもない。小さなパンを実体化する、偶像化するという意味はゼロです!

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