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投稿コメント一覧 (10169コメント)

  • また選挙?

    どうせ国民は自民・公明を選ぶのだろう。

    そして、憲法を改正して戦争の出来る国になるのだろう。

    と、戦争を体験した私は思う。

  •  太平洋戦争での日本軍の戦死者は,実は大半が餓死と病死で,純粋に戦闘で負傷して亡くなった人は,実はあまりいない…とのことですが,これは他国,例えばドイツやソビエトとかでもそうだったのでしょうか?

     ソビエトはともかく,アメリカやイギリスもそう(戦死の大半は餓死と病死)だったとは,ちょっと想像しづらいものがありますが…

     あと,だとしたら純粋に戦闘で負傷した戦死者というのは,例えば日本の場合はどのくらいだったのでしょうか?

    閲覧数:5,003 回答数:5

    ベストアンサーに選ばれた回答

    kouyouchinbutaiさん
    .
    2015/4/2711:28:33
    .
     あんな惨めな戦争をしたのは近代国では日本だけです。人命軽視、薄っぺらい精神主義の結果があの餓死者でした(特攻も同列ですが)。

      日本軍ほど兵士を残酷に扱った軍隊もないでしょうね。兵営では上級兵が下級兵を殴る、蹴る、戦争になったらまともな補給もしないでムチャクチャな突撃をさせる、、、

     更に、東條英機の出した「戦陣訓」の為に、散々負けて武器弾薬が無くなり食うものすら無くなって人肉食に追い込まれても、降伏して国際法で保証されている戦時捕虜の保護を受ける事を禁止されていた日本兵は、自殺同然のバンザイ突撃でバタバタと敵の機関銃に倒され、あるいはジャングルに逃げ込んで飢えて死んでいきました。

    「戦闘で死んだ者は余りいなかった」と言うのはちょっと言い過ぎだと思いますが、いわゆる戦死者の半数近くは餓死あるいは病死だったと言われています。

  • 餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ
    歴史学者・藤原彰氏の分析

    戦病死した兵士 地域別の割合

    出典:藤原彰著「餓死した英霊たち」


     軍人・軍属の戦没者は、直接の戦闘で亡くなった戦死者と、従軍中に病気などで命を落とす戦病死に大きく分けられる。総務省、厚生労働省などによると、戦没者230万人を戦死、戦病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していないという。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、そもそも負け戦における記録の難しさなどが影響している。

     一方、研究者の間では、日中戦争から太平洋戦争における日本軍の特徴に餓死者の異常な多さが指摘されてきた。歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は自著「餓死した英霊たち」(青木書店)で、厚生省(現厚生労働省)援護局作成の「地域別兵員及び死没者概数表」(1964年)などを基礎データに独自の分析を試みた。

     例えば、44年3月にインド北東部の都市インパールの攻略を目標に開始した「インパール作戦」について、参戦したある中隊長が手記に「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した。

     こうした地域別の数値を積み上げて、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと計算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。

     陸軍参謀本部、海軍軍令部をはじめとする日本軍の指導層が、兵站(へいたん・補給)を軽視したツケを、末端の兵士たちが支払わされたといえる。


      同著の「むすび」で、藤原氏は、餓死がサンゴ礁の孤島や熱帯性の密林だけでなく、多くの人が暮らすフィリピン、ビルマ、中国大陸などでも起きていることを強調。「輸送補給、休養や衛生といった軍隊生存の必要条件までもが、作戦優先主義のために軽視または無視された」と、作戦参謀らのエリート軍人を批判している。

  • コンビニを覗いた、スーパーに比べてみな高い。

    どうしてスーパーで買うのだろう。

    近くにあるのに。

  • 毎日スーパーへ行き、店内を歩き回る健康法、1回5千歩。

    冷暖房完備、快適である。降雨の心配もない。

    休憩コーナーもあり、無料給茶スタンドもある。

    人寄せパンダで、店に貢献していると言う屁理屈。

    でも、行けば何かは買う。店には何らかの貢献。

    店内では、同じような人に毎日出会う。

  •  太平洋戦争での日本軍の戦死者は,実は大半が餓死と病死で,純粋に戦闘で負傷して亡くなった人は,実はあまりいない…とのことだが,これは他国,例えばドイツやソビエトとかでもそうだったのだろうか?

     ソビエトはともかく,アメリカやイギリスもそう(戦死の大半は餓死と病死)だったとは,ちょっと想像しづらいものがある…

     あと,だとしたら純粋に戦闘で負傷した戦死者というのは,例えば日本の場合はどのくらいだったのだろうか?

    閲覧数:5,003 回答数:5

    ベストアンサーに選ばれた回答

    kouyouchinbutaiさん
    .
    2015/4/2711:28:33
    .
     あんな惨めな戦争をしたのは近代国では日本だけです。人命軽視、薄っぺらい精神主義の結果があの餓死者でした(特攻も同列ですが)。

      日本軍ほど、兵士を残酷に扱った軍隊もないでしょうね。兵営では上級兵が下級兵を殴る、蹴る、戦争になったらまともな補給もしないでムチャクチャな突撃をさせる、、、

     更に、東條英機の出した「戦陣訓」の為に、散々負けて武器弾薬が無くなり、食うものすら無くなって、死体の肉を食う状態に追い込まれても、降伏して、国際法で保証されている戦時捕虜の保護を受ける事さえ禁止されていた日本兵は、自殺同然のバンザイ突撃でバタバタと敵の機関銃に倒され、あるいはジャングルに逃げ込んで飢えて死んでいきました。

    「戦闘で死んだ者は余りいなかった」と言うのはちょっと言い過ぎだと思いますが、いわゆる戦死者の半数近くは餓死あるいは病死だったと言われています。

  • >>No. 9926

    インパール作戦生き残りの兵士の回想録にこう言うのがある。

    「久し振りにご飯の配給があった。それも片手の手の平に乗るくらい。それを20人で分けて食べた」

    「撤退しても重傷者は連れて行けない。『必ずあとから追い付きますから殺さないで下さい』と泣いて頼む兵士を、こちらも泣きながら殺して帰った」

     戦争ボロ負けで餓死者続出の昭和20年2月、東條英機は天皇に「陛下の赤子(=日本兵のこと)で餓死したものなど一人もおりません」と言った。実情を知っていた天皇は「ありありと御不満の表情」を浮かべたそうだ(皇室言葉ではこれは激怒に当たるそうです)

     個々の兵士たちは、敵ですら称賛した勇敢さ、犠牲的精神で戦っただけに、軍上層部、司令官たちの無能、無神経には怒りを覚える。

    >だとしたら純粋に戦闘で負傷した戦死者というのは,例えば日本の場合はどのくらいだったのでしょうか?

     これは分かりません。日本軍は兵士を残酷に扱いましたが、政府も戦争被害について戦死者の状況などをまともに調査した事はありません。学徒動員の正確な数字すら分からないそうですから、日本政府は国民を大切にしたとはとても思えない。

  • 毎日大型スーパーへ行く、2店舗も。

    歩き回る、1店約5000歩、合計10000歩にはなる。

    携帯で歩数は息子の携帯に表示され、息子は安心する。

  • 戦後72年・遠きインパール

    「白骨街道」助けられなかった戦友 「指の1本しか持って帰られなかった」

     インド国境に近いミャンマー・チン州で見つかった日本軍の手榴弾。現地の住民は、分解してランプとして使っていた。

     約10万の将兵が参加し、3万人が命を落とすという極めて高い死亡率を示したインパール作戦。日本軍の退却に使われた道には、行き倒れた兵士が連なっていた。
     
     南方の気候は遺体をすぐに腐敗させ、まもなく白骨化させていく。日本兵の骨で埋め尽くされたこの道は、いつしか「白骨街道」と言われるようになった。

    「命令するしかない。仕方がない」上官も苦悩した。

     指の1本、足の1本でも持って帰ってあげたかったけど、それもできなかった。仲間を皆、ジャングルに置きっぱなしにしてきてしまった」。

     歩兵214連隊の機関銃中隊の一員として作戦に従軍した東京都新宿区に住む小口和二さん(95)も、白骨街道で倒れた仲間の屍(しかばね)に後ろ髪を引かれながら退路を歩んだ一人だった。

     昭和15年に徴兵検査を受け合格。最初は中国北部で八路軍と戦った後、17年2月、ビルマ入りした。

     19年3月に始まったインパール作戦にも従軍。作戦開始から1カ月後の4月15日、後方へ弾薬を取りに行こうとした際に英軍の機関銃の掃射を受け、左足のすねを負傷した。

     竹を杖に野戦病院へ向かったが、受けた処置は消毒のみだった。翌月には前線に復帰させられた。
    .

  • <臨時国会>首相、冒頭解散で調整 10月22日投開票が軸

     安倍首相は28日の臨時国会冒頭にも衆院を解散する方針を固めた。政府・与党は衆院選を「10月10日公示・22日投開票」の日程で実施することを軸に調整に入った。 

     内閣支持率が回復基調にあるとみて、民進党など野党の選挙協力や、小池百合子東京都知事の側近らによる新党結成の動きが進まないうちに解散する方が得策との思惑があるらしい。


     いよいよ、憲法改正、戦前回帰に向かうのであろうか?

  • 特攻

     敵陣に対し、爆弾等を満載した戦闘機や軍艦をぶつけたり、戦闘員自ら爆薬を抱えて突入し、敵を道連れにするという一種の自爆攻撃のこと。

     太平洋戦争における日本の陸・海軍が行ったものがよく知られているが、体当たりによる自爆攻撃自体はドイツの「エルベ特別攻撃隊」やソ連の「タラーン」作戦等、他国軍でも行われていた(この場合、体当たり直前・直後の脱出を期している為、危険性は極めて高いが必ずしも特攻=死ではない)。

     また、被弾により生還の見込みがなくなった米軍機が日本の艦船に体当たり攻撃を敢行するような事もあった。

     しかし、太平洋戦争で、初めから生還を期さない自爆攻撃を組織ぐるみで行ったのは、日本軍のみであり、太平洋戦争が長引くにつれ、悪化していく戦況や戦果を一転させるべく、苦肉の策として講じられたものであった。

     なりふりかまわぬ自爆攻撃で、敵国を畏怖させるという精神論的な効果も期待されていたらしいが、特攻を敢行する側は死亡する事を前提としている為、前線での士気は大いに下がった。

     その代表が神風特攻隊(神風)であり、現在において「特攻=死」を想起させる代名詞となっている。

     既存の兵器を特攻に使うばかりか、人間魚雷・回天や人間爆弾・桜花等、多くの特攻兵器を考案しており、当時の日本陸海軍の無謀さと非人道性を示すものとして、今日に至るまで非難されている。

     ただし、航空機による特攻では「飛び立ったが敵が見つからずにやむを得ず引き返した」というケースも稀にあった。

     また、日本海軍は沖縄戦においてもはや活躍の場がなくなった戦艦大和を特攻させた。
     大和は沖縄に辿り着く前に多数の米軍機に襲われ、なす術もなく喪失している。

     当初こそ、人命を顧みないという作戦にアメリカ軍がパニックに陥った事もあり、それなりの被害をもたらしたものの、ピケット艦や空母機動部隊の配置変更をはじめとした対応策が取られるようになると、目標の艦船に辿り着く前に撃墜される確率が増えた。

     末期になるにつれてその作戦(元々そう呼ぶのもおぞましいものだが)効率は落ちていく一方だった。

  • 「特攻」十死零生の作戦に選ばれた、若きエリートたちの苦悩
    ある、元特攻兵の証言

    栗原 俊雄

    特攻。「十死に零生」のこの作戦を命じられたのは、当時のトップエリートを含む若者たちだった。なぜ彼らは特攻隊員として選ばれたのか。歴史の「闇」を、『特攻』の著者で、毎日新聞・栗原俊雄記者があぶり出す。

    「統率の外道」と呼ばれた作戦

     戦史には詳しくなくとも、「神風特別攻撃隊」(特攻隊)とご存じの読者は多いだろう。近年でいえば特攻を題材にした小説『永遠のゼロ』が大ベストセラーになったことが記憶に新しい。

     その特攻は、今から72年前の10月に始まった。第二次世界大戦末期、アメリカやイギリスなどの連合軍に追い詰められた大日本帝国陸海軍の航空機が、搭載した爆弾もろとも敵艦に突っ込む攻撃隊である。成功すれば、搭乗員は必ず死ぬ。

     「戦争してるんだから、死ぬのは当たり前じゃないか」。そう思う読者もいるだろうか。しかし、敵艦に爆弾もろとも突っ込むのではなく、爆弾を敵艦に当てて帰ってこい、というのが通常の作戦だ。

     いかに戦時中といえども「死んでこい」という命令はめったにでない。兵士の士気が下がるのは当然であり、戦力が低下するのは必然である。任務の成功=死という「作戦」を組織的に行ったのは、少なくとも第二次世界大戦時点では大日本帝国だけである。

     日本は、私が兵士として体験した戦前に回帰しつつある、再びこのような時代に戻るのであろうか?

  • >>No. 16554

     まず、アメリカに戦争を仕掛ける様なバカな事はしなかったでしょう(笑)。そして兵士が飢えて死んでいく前に停戦、休戦、あるいは降伏したでしょうね。

     日本軍の場合は命令を出す司令官や参謀たちは安全な場所にいてうまい物を食いながら、「天皇の兵隊がハラが減ったくらいで情けない事を言うな!」と。


     日本兵の「白骨街道」を現出して惨敗したインパール作戦では、司令官の牟田口中将は前線から命からがら撤退してきた部隊の幹部将校たちを集め、こう訓示したそうです。

    「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器が無い、弾丸が無い、食う物が無いなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸が無かったら銃剣があるじゃないか。銃剣が無くなれば腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる」

     このバカな訓示は延々と1時間以上も続き、栄養失調で衰弱し切った将校たちは次々と倒れた、と。牟田口の様に後方の安全な司令部ていたらなんとでも言えますよ。

  • 産経ニュースから

    【戦後70年 遠きインパール(中)】

    「白骨街道」助けられなかった戦友 「指の1本しか持って帰られなかった」

     インド国境に近いミャンマー・チン州で見つかった日本軍の手榴弾。現地の住民は、分解してランプとして使っていた=3月20日(豊吉広英撮影)

     約10万の将兵が参加し、3万人が命を落とすという極めて高い死亡率を示したインパール作戦。日本軍の退却に使われた道には、行き倒れた兵士が連なっていた。
     
     南方の気候は遺体をすぐに腐敗させ、まもなく白骨化させていく。日本兵の骨で埋め尽くされた道は、いつしか「白骨街道」と言われるようになった。(豊吉広英)

    「命令するしかない。仕方がない」上官も苦悩

     「指の1本、足の1本でも持って帰ってあげたかったけど、それもできなかった。仲間を皆、ジャングルに置きっぱなしにしてしまった」。

     歩兵214連隊の機関銃中隊の一員として作戦に従軍した東京都新宿区に住む小口和二(かつじ)さん(95)も、白骨街道で倒れた仲間の屍(しかばね)に後ろ髪を引かれながら退路を歩んだ一人だ。

     昭和15年に徴兵検査を受け合格。最初は中国北部で八路軍と戦った後、17年2月、ビルマ入りした。

     19年3月に始まったインパール作戦にも従軍。作戦開始から1カ月後の4月15日、後方へ弾薬を取りに行こうとした際に英軍の機関銃の掃射を受け、左足のすねを負傷した。

     竹を杖に野戦病院へ向かったが、受けた処置は消毒のみ。翌月には前線に復帰させられた。
    .

  • >>No. 16549

    以上、Yahoo知恵袋から

  • >>No. 16548

    インパール作戦生き残りの兵士の回想録にこう言うのがあります。

    「久し振りにご飯の配給があった。それも片手の手の平に乗るくらい。それを20人で分けて食べた」

    「撤退しても重傷者は連れて行けない。『必ずあとから追い付きますから殺さないで下さい』と泣いて頼む兵士を、こちらも泣きながら殺して帰った」

    戦争ボロ負けで餓死者続出の昭和20年2月、東條英機は天皇に「陛下の赤子(=日本兵のこと)で餓死したものなど一人もおりません」と言った。実情を知っていた天皇は「ありありと御不満の表情」を浮かべたそうです(皇室言葉ではこれは激怒に当たるそうです)

    個々の兵士たちは敵ですら称賛した勇敢さ、犠牲的精神で戦っただけに、軍上層部、司令官たちの無能、無神経には怒りを覚えます。

    >だとしたら純粋に戦闘で負傷した戦死者というのは,例えば日本の場合はどのくらいだったのでしょうか?

    これは分かりません。日本軍は兵士を残酷に扱いましたが、政府も戦争被害について戦死者の状況などをまともに調査した事はありません。学徒動員の正確な数字すら分からないそうですから、日本政府は国民を大切にしたとはとても思えませんね。

  • >>No. 16547

    まず、アメリカに戦争を仕掛ける様なバカな事はしなかったでしょう(笑)。そして兵士が飢えて死んでいく前に停戦、休戦、あるいは降伏したでしょうね。日本軍の場合は命令を出す司令官や参謀たちは安全な場所にいてうまい物を食いながら、「天皇の兵隊がハラが減ったくらいで情けない事を言うな!」と。

    日本兵の「白骨街道」を現出して惨敗したインパール作戦では、司令官の牟田口中将は前線から命からがら撤退してきた部隊の幹部将校たちを集め、こう訓示したそうです。

    「皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器が無い、弾丸が無い、食う物が無いなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸が無かったら銃剣があるじゃないか。銃剣が無くなれば腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる」

    このバカな訓示は延々と1時間以上も続き、栄養失調で衰弱し切った将校たちは次々と倒れた、と。牟田口の様に後方の安全な司令部ていたらなんとでも言えますよ。

  • 太平洋戦争での日本軍の戦死者は,実は大半が餓死と病死で,純粋に戦闘で負傷して...

    inamura58etukoさん

    2015/4/2615:23:56
    .

    太平洋戦争での日本軍の戦死者は,実は大半が餓死と病死で,純粋に戦闘で負傷して亡くなった人は,実はあまりいない…とのことですが,これは他国,例えばドイツやソビエトとかでもそうだったのでしょうか?

    ソビエトはともかく,アメリカやイギリスもそう(戦死の大半は餓死と病死)だったとは,ちょっと想像しづらいものがありますが…

    あと,だとしたら純粋に戦闘で負傷した戦死者というのは,例えば日本の場合はどのくらいだったのでしょうか?

    閲覧数:5,003 回答数:5

    ベストアンサーに選ばれた回答

    kouyouchinbutaiさん
    .
    2015/4/2711:28:33
    .
    あんな惨めな戦争をしたのは近代国では日本だけです。人命軽視、薄っぺらい精神主義の結果があの餓死者でした(特攻も同列ですが)。

    日本軍ほど兵士を残酷に扱った軍隊もないでしょうね。兵営では上級兵が下級兵を殴る、蹴る、戦争になったらまともな補給もしないでムチャクチャな突撃をさせる、、、

    更に、東條英機の出した「戦陣訓」の為に、散々負けて武器弾薬が無くなり食うものすら無くなって人肉食に追い込まれても、降伏して国際法で保証されている戦時捕虜の保護を受ける事を禁止されていた日本兵は、自殺同然のバンザイ突撃でバタバタと敵の機関銃に倒され、あるいはジャングルに逃げ込んで飢えて死んでいきました。

    「戦闘で死んだ者は余りいなかった」と言うのはちょっと言い過ぎだと思いますが、いわゆる戦死者の半数近くは餓死あるいは病死だったと言われています。

  • 餓死、戦病死が約6割 兵站軽視のツケ
    歴史学者・藤原彰氏の独自分析

    「戦病死」とその他の割合

    戦病死した兵士 地域別の割合

    出典:藤原彰著「餓死した英霊たち」


    軍人・軍属の戦没者は、直接の戦闘で亡くなった戦死者と、従軍中に病気などで命を落とす戦病死に大きく分けられる。総務省、厚生労働省などによると、戦没者230万人を戦死、戦病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していないという。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、そもそも負け戦における記録の難しさなどが影響している。

    一方、研究者の間では、日中戦争から太平洋戦争における日本軍の特徴に餓死者の異常な多さが指摘されてきた。歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は自著「餓死した英霊たち」(青木書店)で、厚生省(現厚生労働省)援護局作成の「地域別兵員及び死没者概数表」(1964年)などを基礎データに独自の分析を試みた。

    例えば、44年3月にインド北東部の都市インパールの攻略を目標に開始した「インパール作戦」について、参戦したある中隊長が手記に「中隊310人のうち、戦死40人、戦病死96人、患者42人」と記録していたことなどに着目。同作戦が展開されたビルマ・インド方面の戦没者約18万5000人のうち、約78%に当たる約14万5000人を戦病死者ではないかと推定した。(図参照)

    こうした地域別の数値を積み上げて、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと計算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。陸軍参謀本部、海軍軍令部をはじめとする日本軍の指導層が、兵站(へいたん)を軽視したツケを、末端の兵士たちが支払わされたといえる。

    同著の「むすび」で、藤原氏は餓死がサンゴ礁の孤島や熱帯性の密林だけでなく、多くの人が暮らすフィリピン、ビルマ、中国大陸などでも起きていることを強調。「輸送補給、休養や衛生といった軍隊生存の必要条件までもが作戦優先主義のために軽視または無視された」と、作戦参謀らのエリート軍人を批判している。

  • >>No. 16541


    ●東條はなりたくて陸軍大臣になったわけでも、総理になったわけでもない。あれだけ国家がどう行くかの瀬戸際のときだから、なりたいと思う人はいないのではないか。それに戦後になって、東條が非常に躊躇していたということを、奥様の勝子さんから聞いたことがある。 
           《瀬島龍三 「日本の証言」》


    ●東條家の戦後十数年は大変なものだった。戦後の貧乏と食糧難は日本人ならみんな体験したことだが、民主主義になって解放された国民と違って、東條家は米軍からも日本人からも敵視され、解放どころか戦争中よりも悲惨であった。東條家には商品を売らないという食料店もあり、妻かつ子は庭を開墾して野菜も鶏も飼育して自給自足生活をした。それでも家族は東條の遺言「言い訳をしてはならない」という鉄則を守った。
      《佐藤早苗 「東條英機 封印された真実」》


    ●東條英機の嫡孫・岩浪由布子氏は、1994年8月号の「文芸春秋」で、敗戦後の東條家に対する世間の迫害ぶりに触れている。

    ◇東條の息子、つまり由布子氏の父は、復員してすぐに会社から辞職勧告を受け退職した。

    ◇小学校に入学した弟は、担任の女性教師に「東條君のお祖父さんは、泥棒よりも悪いことをしてきた人です」と級友の面前で言われた。

    ◇「東條の長男 一家皆殺し」の噂に追われるように引っ越した先では、東條の孫の担任になるのを、当初は教師全員が拒否した。…など。             
    《櫻井よしこ 「GHQ作成の情報操作書「眞相箱」の呪縛を解く―戦後日本人の歴史観はこうして歪められた」》



    ●開戦当初にもたらされた日本の大戦果は、東條を「今世紀の英雄」「救世主」へと一気に祭り上げた。一般国民は親しみを込めて彼を「東條さん」と呼んだ。
    それが戦後になると一変。その名は呼び捨てにされ、死してなお厳しい批判にさらされている。

    ●妻かつ子によれば、苦しい家計の中でも部下が金に苦労していると知れば、東條はそれを都合してやったという。
           《笹幸恵 SAPIO 2008/11/12号》

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