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投稿コメント一覧 (10420コメント)

  • >>No. 933

    小池百合子という女性はしたたかですね。

    水商売の中には良くあるタイプ。

    男性をたぶらかし、素知らぬ顔をしている。

    たぶらかされた男たちは、アップアップ。

  • >>No. 134918

     小池百合子代表(東京都知事)は冒頭のあいさつで、敗北した衆院選について「多くの有為な人材を失ったことは残念至極だ。責任を負わなければならない」と表明。小池氏は出席者の意見を聞いた上で、自身の進退を判断するという。

     小池氏は民進党出身者の公認をめぐる「排除」発言を念頭に、「私の言動によって、同志の皆さまには大変ご苦労をかけた。心ならずも多くの方々を傷つけてしまった」と陳謝した。

     今後については「都知事として都政にまい進していきたい。主要な人事は(国会議員の)皆さま方で話してほしい」と述べ、国政とは一定の距離を置く考えを示した。

     衆院選で希望の党は公示前の57議席を下回る50議席にとどまった。小池氏は開票直後に「完敗」と認める一方、代表続投の意向を表明していた。

     希望の党は、小池氏と樽床伸二代表代行を除き、幹事長や国対委員長など主要人事が決まっていない。

     小池氏は早急に執行部を発足させたい考えだが、責任論をめぐって議論が紛糾すれば、決定が遅れる可能性もある。

     一人の女性に、大の男たちが振り回され、地獄をみた。

     今も昔も、こんな例は、数えきれないほどある。

  •  台風一過、昨日とは大違い、太陽は大空に燦々、温かく過ごしやすい1日でした。

     しかし、台風被害の地方は大変な様子、被害に遭われた方々へお見舞い申し上げます
     
     当地はやがて冬、車は冬用タイヤへの交換の時期です。

  • 海軍特別攻撃隊通信兵の戦争
    『桜島・特攻指令基地……』 


    「〈月月火水木金金〉という歌の通りで軍隊には休日な
    どはありませんが、予科練にあこがれて志願したので不
    満はありませんでした。〈月月火水木金金〉と書かれた
    紙の前で記念写真を撮った記憶があります」

     約束より小1時間早く着いたにも拘わらず藤森さん(
    72歳)は実に若々しく快活な笑顔で快く迎えてくれた。
     16歳のとき。1944年(昭和19年)9月16日、
    天草(熊本県)の旧制中学4年生のとき甲種飛行科第14
    期予科練習生として桜島(鹿児島県)の防府海軍通信学校
    の通信科に入営した。

     遠泳や漕艇(カッター)は海軍の基本訓練で必須科目だ
    った。
    「私は泳ぎが達者でしたから楽しい訓練でしたが、泳げ
    ない人は海に投げ込まれ海水をしこたま飲んでしまう。
    溺れる寸前に船に引き上げてはくれるのですが見ていて
    可哀そうなほどでした。さぞ辛かったでしょう」
     専門の通信訓練は、電鍵によるモールス符号、1分間
    に120字の標準送信速度に対応できる技術を習得する。
    カタカナを速く正確に紙に書く練習からはじまり、5字
    遅れ受信(5字目を聞いた時に1字目を記述し以下順次
    記述して行く)10字遅れ受信と訓練が続く。
     一つの間違いに対して1回の尻バット(バットでお尻
    を殴る罰)を受けながら「数字」の暗号文と和文(イロ
    ハ……)の暗号文の教練を受けた。加えて、手旗信号・
    発光信号による通信訓練。発光信号はむつかしかった。
     50%以上の得点が卒業ラインの最終試験に合格し特
    別攻撃部隊の司令部である桜島の第5楠部隊司令部の通
    信部隊に入隊した。海を埋め立てて兵舎を建てた非常に
    寒い所だった。海軍だけど軍艦はなし、飛行兵だけど飛
    行機がないので地上で通信の任務に就いていた。3交替
    の就業。受信した暗号書を上官と一緒に行って、鹿屋の
    神風特攻隊基地へ届けるのも重要な任務だった。

  • 戦時中の思い出

      倉島 順次さん

     私が兵庫盲中等部を卒業したのは、昭和21年。既に戦後であるが、20年3月の卒業式は空襲のため中止。卒業証書を、各自の家庭へ郵送しただけ。

     その頃から、毎夜必ず1度は空襲警報。しかし、空襲は必ず夜の12時まで。夜明けには絶対なかった。したがって、空襲になったら、運動場に整列。裏山に避難しなければならないので、まず、ゲートルを巻き、靴を履いたまま畳の床に頭を持たせかけ、足は土間に下ろした状態で仮眠。

     こうすれば、空襲になっても間髪を入れず行動できるからである。20年の4,5月は、何とか授業も出来たが、6月1日をもって、学校閉鎖、家庭学習となった。

     私の父は、ヒロタ神社の神主だったので、その、官舎に住んでいた。家庭学習の間、神戸盲唖院へ本を借りに行ったら、院長、モリタイゾウさん(大阪市盲第1回の卒業生で、新校盲学校長。のち、イマゼキさんの兵庫盲に合併し、しばらく教頭でいた後、退職)が、群馬県に疎開するので、ご子息、マロマサオさん(晴眼者)点訳の、ミキキヨシ著「哲学概論」および、「人生論ノート」を売却すると言うので、各2巻(1巻3円)を、母に買ってもらい、空襲の時も、それを防空壕にまで持ち込んで読んだ想い出がある。

     ヒロタ神社は、当時、山の中だったが、神社は米軍の攻撃目標だったので、7月のある日の空襲は激しく、いつも入る防空壕から、危険を感じて、母と神社の社務所に避難する途中、左右の笹原は火の海。中には爆弾で即死した人もいた。

     社務所に避難後帰ってみると、私の家と棟続きの隣家2軒は無事だったものの、反対側の隣家は全焼。幸い、私の家との間は、何メートルかの空き地があり、風もなかったので助かったという、まさにひやひやもの。

     8月15日正午の、終戦の詔勅。これを聞いて涙する隣保の人もいたが、私の実感は、これでやれやれ。今晩から灯火管制も空襲警報もない、平和な世の中になると、思わず背伸びをしたものであった。

     学校は9月から授業が再開されたが、なんとなく気が抜けた感じで、私がやっと気を取り直して寄宿舎に帰ったのは、10月だった。

     石坂洋二郎の「青い山脈」は、戦後、新聞連載小説から映画にもなり、大変有名だったが、文学的価値は、その前に出た「若い人」のほうが高かった。

     それを、放課後など、弱視の上級生に読んでもらうのが至福のひと時でもあった。

  • 白菊特攻隊出撃せよ!

    藤岡 義貴(宮崎市)

    今年もまた六月がやってきた。毎年この季節になると、私には特別な感情が湧いてくる。
     それは名状しがたいものである。今生きていることが不思議に思えること。生きていることが何だか申し訳ないような気持ち。生きていてよかったと思う気持ち。これらが交錯した複雑な感情である。

    今を去る五十数年前、私は甲飛十二期生として鹿児島航空隊に入隊した。予科練を卒業した後は谷田部航空隊に移り、第三十七期飛行術練習生を命じられ、中間練習機での操縦訓練を受けた。引き続き姫路航空隊において艦上攻撃機による訓練をけ、一人前の搭乗員として実施部隊へと巣立った。

    大分県佐伯基地に所在する第九三一航空隊に赴任したのは、昭和十九年の年末であった。ここでは九七艦攻に搭乗し、航空母艦の発着艦訓練その他の錬成訓練が実施された。また、日向灘や豊後水道の対潜哨戒なども実施していた。

    昭和二十年三月、徳島航空隊への転属命令が発令された。徳島航空隊に、第一、第十一、第二十一の飛行分隊があった。ところが、今度私のように各地の航空隊から転任してきた者は、これらの分隊に編入されずに新たに第三十一分隊が編成された。
     この分隊は、戦闘機それに艦攻や艦爆など比較的経験豊富な操縦員だけで構成されていた。変わり種としては水上機から陸上機に機種転換した者もいた。

    私の所属した第三十一分隊は、海兵出身で艦攻操縦員の小柳津中尉が分隊長であった。分隊士は殆ど予備学生の出身者で、それに下士官兵を含めた約五十名で編成された。そして、これらの四個分隊を統括する飛行隊長は田中少佐(海兵六十七期)であった。

    皆の話を聞いてみると、練習航空隊の教員配置のつもりで赴任したきた者が大部分である。ところが古くからいる隊員の話では、学生や練習生を対象にした教務飛行は燃料不足のため既に中断しているとのことである。そのうえ、特攻隊を編成するという噂が囁かれていた。それが本当なら、第三十一分隊は特攻要員として集められたことになる。不安は増すばかりであった。

    四月始め、総勢約二百五十名の搭乗員全員が集められた。ここで、航空隊司令川元大佐から「特攻隊員を命ず」と宣告された。不安は的中した。「神風特別攻撃隊・白菊隊」の編成命令が出されたのである。この時期、特攻隊は志願者を募るのではなく、飛行分隊の所属搭乗員を命令によってそのまま編入したのである。

    早速特攻訓練が開始された。第三十一分隊は各地の実施部隊から集められた操縦員ばかりで、「白菊」に乗るのは初めての者ばかりであった。そのため地上でエンジンの性能や飛行諸元などの説明を受け、操縦員同士が乗り込んでぶっ付け本番の離陸着陸の訓練から始めた。「白菊」は艦上攻撃機に比較して操縦のやさしい飛行機であった。

  •  産経新聞社が16日にまとめた衆院選終盤情勢では、「政権交代」を掲げた希望の党の失速が顕著にあらわれた。小池百合子代表(東京都知事)が地盤とする東京では結党メンバーを含めて全選挙区で苦戦。衆院解散後に出処を決めた民進党出身者でも希望の党に身を委ねた候補は伸び悩み、立憲民主党や無所属を選んだ候補は勢いがある。

     希望候補は、東京で小池氏側近の若狭勝前衆院議員(東京10区)をはじめ、松原仁元拉致問題担当相(同3区)、長島昭久前衆院議員(同21区)ら結党メンバーが厳しい戦い。奈良1区でも5回連続で選挙区当選している馬淵澄夫元国土交通相が苦戦している。

     失速の原因は、民進党左派を突き放した「排除の論理」が国民に好感されなかったことが大きい。小池氏が党代表ながら出馬を見送ったことも影響した。

     これに対し、立民は「安全保障法制の廃止」など民進党時代の主張を貫いたことが「筋を通した」と評価された面が大きい。立民を選んだ辻元清美氏(大阪10区)や近藤昭一氏(愛知3区)はそれぞれ頭一つリード。立民に近い政策を持つ民進出身の無所属候補も選挙区で確実に浸透する。

  • >>No. 134837

     こんばんは、今日は曇りの1日でした。

     相変わらずのスーパー内の散策、多くの背高新潟美人にも出会いました。

     170センチから180センチを超える美人たちも10数人・・・


     新潟県人は、日本一の背高という統計もあるようです。

     私の息子も、子供の時から牛乳をガブガブ飲み、小6から伸び出し、中1中2・・・あっという間に中学校一のノッポに成長しました。

     私は平均です。

  • >>No. 134820

    近くの田圃に白鳥が餌を探しているのを見ることもあります。

  •  毎夜、白鳥が我が家の上を、ガアガアと編隊を組んで飛んで瓢湖に向かっていきます。

     瓢湖では最盛期8000羽ちかくになります。

    https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171016-00000003-hokuriku-l15

  •  前原包囲網は着々と進んでいる。民進党の小川参院議員会長は、希望の党に合流しない見通しを示した上で、前原氏について「希望に行く人が民進党を管理するのはおかしい」と“代表クビ宣告”。小川氏の発言には、隠れた意図もある。

     民進党は選挙前まで140億円とも言われる自己資金を保有しており、新党関係者の垂涎の的。希望がこの資金に手を突っ込んでくることを警戒している。

     前原氏と寄り添う小池氏も民進党に秋波を送り始め、13日に東京都内で行った演説では、排除リスト代表格である野田佳彦前首相を「日本の政治を大きく動かした」と持ち上げた。だが、そうは問屋が卸さない。民進党参院議員はこう言う。

    「今後、前原氏に党の資金は触らせない。すでに代表解任の準備も始めた」

  • >>No. 16911

    近藤 誠司さん

    戦争の思い出
     終戦時小学校4年生、昭和19年(小学校3年生)の時,戦争で使う戦車,銃のための原料「鉄」が不足してきたため,全国からくず鉄,鉄製品のあらゆる物の供出を行きました。
     各家庭では,敵が空中から攻撃してくるから,その時の避難する場所として,庭に防空壕(土の中で火災や爆弾を防ぐ)も作りました。
     また,敵が日本へ上陸してきたときの対応として,婦人・子供達が竹槍で相手を殺す練習をしました。

      昭和20年の春ごろから,低空で飛行機(小型機)が飛んでくるようになり,朝学校への通学途中に飛行機から機関銃でねらわれることがありました。 その場合は,畑の中へ身を隠し,飛行機の音や機関銃の音が聞こえなくなってから学校へ行きました。
      学校で勉強中に敵機襲来(サイレンが鳴る)の合図が出た場合は,生徒は頭に防空頭巾をつけて鞄を持ってすぐ家に帰りました。警報解除のサイレンが鳴った場合は,また学校へ出かけていき勉強をしました。
     昼の間は,高いところを飛ぶ飛行機(B29爆撃機)が主に軍需産業(飛行機や戦争機器の製造工場)を目標に爆弾を投下しました。私たちの目で爆弾が落ちで行くのが見えました。
     私の近くで焼夷弾が落ち,恐ろしい体験をしました。それは,夜間に電球を点灯したために,敵機がその電球を目標に焼夷弾を投下して,家が3,4軒燃え上がり,私たちは防空壕へ逃げふるえていました。夜でしたから,家の燃えるのが近くに感じられ本当に恐ろしい体験をしました。
    戦争の終わり頃に,今市場に爆弾が落ちた記憶は,思い出すたびに身震いします。

    大垣 雄二さん

     遠くの堤防から見ていると,爆弾が落ちるたびに街が真昼のように明るい。布袋は街だったので,遠くから買い物に来る人がたくさんいた。(5,6時間歩く) 雨の降るような音がする。すごい砂埃で前が見えない。家の中がまるで地震にあったときのようにぐちゃぐちゃ。飛行機がすぐ下まで降りてきて,人をねらう。サイレンが鳴ると竹薮に逃げて,止まると家に戻るの繰り返し。死体が木などにたくさん引っかかっているので,子供も降ろすのを手伝った。
     学校に着ていく物がないので,あるものをまとう。生きていく希望もなく,地獄のような生活だった。

     疎開について
    ここにいても死ぬだけだといって,曾おばあちゃんがおばあちゃんを犬山の山の奥へ疎開させた。歩いていった。少しの間お世話になったけど,「どうせ死ぬならいっしょがいい」といって,家に帰った。その後,戦争が終わったときは,もうたとえようのないぐらいすごい喜びだった。

  •  学童疎開とは、第二次世界大戦末期において米軍による本土爆撃に備え、大 都市の国民学校初等科学童をより安全な地域に一時移住させたことをいう。
     
     当初、国は家族制度の崩壊と戦意の喪失をおそれ、人員疎開に消極的であっ たが、わが国本土が米軍の長距離大型爆撃機B29の航続距離圏に入るに及んで、急きょ学童疎開を実施することになった。
     
     学童疎開は終始個人的な縁故疎開を原則としたが、1944年(昭和19年)6月30日付閣議決定「学童疎開促進要綱」にもとづき、縁故疎開に依り難い国民学 校初等科(現在の小学校)3年生から6年生の学童の集団疎開を実施した。
     
     学童疎開は、防空の足手まといをなくして防空態勢を強化することと、空襲の惨禍から若い生命を護り、次代の戦力を培養することを目的とした学童の戦闘 配置を示すものとされ、縁故疎開・集団疎開とも強力な勧奨のもとに慌しく実施された。
     
     学童疎開の対象都市は東京、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古 屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の13都市としたが、1945年(昭和20年)4月には京都、舞鶴、広島、呉の4都市が追加指定された。
     
     1945年(昭和20年)に入り、激化する一方の本土空襲に対処して、3月「学童 疎開強化要綱」を閣議決定し、国民学校初等科3年生以上の全員疎開と1・2年生の縁故疎開・集団疎開を強力に推進する、いわゆる「根こそぎ疎開」を実施し た。
     
     その結果、縁故疎開にも集団疎開にも参加できず、空襲下の都市に残留した学童に対する学校教育は停止され、訓育を中心とする寺子屋式教育が細々と行われた。
     
     一方、学童疎開の徹底と併せて本土決戦に備え、千葉、茨城、静岡、和歌山 県等太平洋沿岸部の集団疎開学童は、より遠隔の地である青森、岩手、秋田、 富山、島根、滋賀県等への再疎開を余儀なくされた。
     
     疎開生活は、縁故疎開では疎開先との複雑な人間関係、食糧不足、言葉や
    習慣の違い、いじめ等に悩み、集団疎開では少国民錬成の場として軍隊同様
    の厳しい規律・上下関係、空腹、食べ物を巡る葛藤、いじめ、蚤・虱等に悩まされ、いずれの場合も幼い学童の心に消し難い傷痕を残した。

  • >>No. 57881

    「子は親の姿を見て育つ」とのことわざがある。

    世間を見ていると、大体当てはまる。

    子は親の姿を映していることが多い。

  • 戦争体験記聞き取り集    


     山田 健三 さん

     昭和20年7月12日夜11時頃,五明の武田助産院付近の7,8件が焼夷弾で燃えた。近くにあった草むらに火がつき,近所に広がったようだ。各務原,小牧空港に爆弾を落とした帰りに余っていた爆弾を落としたと聞いている。昭和20年頃,名古屋から歩いて今市場に疎開してきた。とにかく恐かった。はやく戦争が終わって名古屋に帰りたかった。

     今井 義雄さん

    空襲の様子
     昭和20年7月13日及び7月28日の二回に分けて一宮市がB29によって空襲されました。
     特に,2回目の空襲は布袋の五明,小折に死者・負傷者が出ました。五明では数多くのやけどを負った人,亡くなった人も2人ほど出ました。小折は,私の家のすぐ裏の家ではお父さんが出征されていて留守の所,おばあさん,奥さん,子供二人がみなさんといっしょに防空壕へいたのに,自分の家の畑が現在の関西電力の鉄塔の下にあるので,そちらの方が安全だと思い,一家四人と隣の家に手伝いに来ていた娘さんも連れだって,そこで四人が即死状態で奥さんだけが火傷を負い家に帰っていました。

     みなさんが,行方がわからないので探していたところ,自宅の入り口付近で,黄燐焼夷弾の黄燐を体中に浴びうずくまり苦しんでおられる所を発見されましたが,火傷がひどく翌日なくなったということです。

     ちょうどそんな頃,家のおじいちゃんの友達から聞いたそうですが,一宮から火に追われて東へ東へと逃げてきた人が8キロもある小折まで逃げてこられたそうです。28日午後10時から翌朝午前2時頃までの出来事でした。

    当時の社会状況
     特に戦争が烈しくなって昼夜を分けず空襲があり,大きい町が次から次へと焼けていきました。
     それでも絶対に負けることはないと勝利を信じ,中学生も学業もそこそこに軍需工場へ勤労奉仕にゆきました。そうした人たちも次から次へと空襲されなくなった方もたくさん出ました。
     
     また,物価統制令が敷かれ,勝手に日常の品物を動かすことのできませんでした。
     
    戦時中の食糧事情について
     食料も少なく,何よりも増産しなければならないということで,今の小学校の校庭も皆畑となり,サツマイモ等が作られました。一般の人たちの毎日の食べる物は代用食が多く,「すいとん」,豆かす入りのご飯,雑穀入りのご飯,それも不足がちで田舎の人たちはともかく,街の人たちはずいぶん苦労して食料を手に入れていました。
     
     家のおじいちゃんの話では,軍需工場へ行っている人たちの寮の食事は,朝は小麦の粒の雑すい,夜はジャガイモの小さいのが皮付きのまま10個ぐらい,味噌汁の実はゴボウの葉,フキの葉まで食べたそうです。

    疎開について
     
     都会では行われていましたが,布袋付近では山奥に親戚のある人が荷物を預けた程度で学童の疎開はなかったように思います。

    過去を振り返って

     昭和20年8月15日,戦争は終わり,日本は滅亡をまぬがれた。そして,終戦後の混乱のなかを,国民の懸命の働きと努力によって世界でも有数の経済大国となったが,その陰に戦争のために多くの犠牲者のあったことを忘れてはならなりません。
     
     学業を捨て学徒出陣し,特攻隊となって国のために米国の軍艦に体当たりして若い命を捧げた人達の運命も,歴史を閉じる為のやむを得ない事だったかもしれない。

     それだけに,なおさらにこのことは何時の時代までも伝えて,日本国民として決して忘れてはならないのです。

  • >>No. 16909

    14 零戦の運命、今や極まる

     この六月二十四日の戦闘は、終幕ヘの序曲であった。
     奇襲攻撃をうけ、十数機の損害をだしたが「ヘルキャット」隊は日本軍戦闘機の半数、約四〇機を、空から葬りさったのであった。
     これについては坂井三郎氏も率直に認めている。
     「四〇機の零戦とパイロットの損失は我々を、びっくりさせた。
     『ヘルキャット』に零戦が追いまわされ若い未熟なパイロットたちが、つぎからつぎへと炎につつまれていくのを見るのは、たえられないことだった。
     ラエでの戦闘の場合とは、全くちがう。
     零戦は、いまや時代遅れであり、パイロットの腕は米軍のほうが上だということになった。
     戦局は大きく転換してしまった」
     その後二回目の攻撃で「ヘルキャット」は、硫黄島に残っていた零戦四〇機の半数二〇機を撃墜した。
     三回目、さらに一一機が空から消えた。
     硫黄島には九機の零戦が残るだけとなり、航空攻撃にたいしては、全く無力となってしまった。
     しかし、かつて空の王者であったのは、まさに、この零式艦上戦闘機であったのだ。

  • >>No. 16908

    13 地上の火器、何してんだ!

     捨身の宙がえりが、功を奏したようだった。敵機は、混乱し隊形がくずれている。
     私は、もう一度、急上昇で離脱をはかった。
     「ヘルキャット」は、ピタリと追尾してくる。こいつらは五〇〇メートルもの距離から撃ってくる。
     撃て、撃て、弾丸をつかえ! 私は、どなった。
     だが、彼らは全く速い。曳光弾が、横をかすめる。私は、必死になって旋回する。
     突然、下に硫黄島がみえた。私は地上の砲手たちに、日の丸がみえるように主翼をふった。だが、それが悪かった。
     これでスピードがおち「ヘルキャット」が追いすがってきた。
     高射砲は、どこにいるんだ。島のやつらは、なにをやっているんだ。
     撃ってくれ! 撃て、撃て! 硫黄島から炎がまきあがった。
     せん光が島いっぱいにひらめいた。おりとあらゆる対空火器が、いっせいに火ぶたをきったと思われた。
     きりさくような弾丸が、空にとぶ。さく裂で零戦がゆれる。
     「ヘルキャット」の群れの、まっただなかに、怒ったような、さく裂の煙がみえる。
     「ヘルキャット」群は急反転して、射程外に去っていった。 私は、全速で飛び続けた。
     恐怖でいっぱいだった。たえず後が気になる。やつらが追ってこないか?いつ弾丸がとんでくるか?
     私はすっかり、おじけづいていた。
     硫黄島を、とびこしてしまった。
     スロットル〔しぼり弁〕を全開にして、ひたすら飛び続けた。
     急げ! もっと急げ!
     大きな積乱雲が目のまえにみえる。
     なにも考えず、雲のなかに突っこんだ。ものすどい上昇気流が、零戦をひっつかんだ。激しい震動、なにも見えない。
     パッと光がひらめく。そしてまた、なにも見えない。
     コントロールを失った。零戦はグッとおちて、さかだちになる。うらがえしになり落下し、つぎの瞬間には、尾部からほうりあげられる。
     積乱雲の上昇気流に、完全にほんろうされたが、雲塊をとおりぬけた。
     でてみると、機は背面飛行になっていた。あわてて機をたてなおしたが、それは五〇〇メートルの低空であった。
     はるか南方に、さっきの「ヘルキャット」一五機が、チラッと見えた。空母に帰っていくのだ。
     すべて終った。そして生きていることが、信じられない思いだった。
     むしょうに大地が恋しくなった。

  • >>No. 16907

    12 退避やめ突っこむ

     どこでこの乱闘が、はじまったのだろうか。四〇〇〇メートルの上空だ。
     横すべりや旋回を続けて、四〇〇〇メートルちかくも、下へ下へと弾丸を避けてきたわけだ。もう高度は残ってはいない。
     しかし敵も、今迄のような攻撃法をとることは、できなくなった。急降下しても、ひきおこす余地がない。
     なにか、ちがうことをやるだろう。私には、わずか余裕がでてきた。
     操縦桿を左にもちかえて、右手を激しくふった。いたい。からだじゅう痛い。にぶい痛み、マヒがひろがってくる。
     またやってきた。円陣から横すべりして、今度は、私がなにをやりだすかと用心ぶかく、やってくる。
     旋回している。旋回しながら撃ちかけてくる。避けるのはむずかしくない。
     左へ横すべり。 あぶない! 曳光弾がかすめる。 海面に、ピッヒピピッと水柱がたつ。水がはね、泡がとぶ。
     べつのやつがくる。 こんなやりかたで、何回襲いかかってきたことだろう。勘定しきれない。
     いつ敵はあきらめるか。燃料はもう底をつきかけているに違いない。
     私は、もう力がつきかけていた。腕がすっかりしびれてしまった。
     もうスピードのある、するどい旋回はできなくなった。私の機は旋回するたびに、大きなダ円をえがいて回っていた。
     敵はこれを見のがさなかった。
     彼らは、さらに大胆になって、攻撃を集中してきた。息つくひまもない激しい攻撃だった。
     もう退避だけしていてはダメだ。 突破しなければならない!
     私は左急旋回から、カジ棒をけって操縦桿を左にふる。全砲火をひらいて敵に突っこんだ。
     私は円陣を突破した。機首をさげて、いちもくさんに逃げた。海面すれすれだった。
     「ヘルキャット」は隊形をみだしたが、すぐ追ってきた。
     半数の敵機が、上方から私におおいかぶさるように、他の半数は後方から銃火をあびせながら迫ってきた。
     速い。たちまち有効射程距離にせまってくる。私は右に移動を続け、機体は、激しくゆれる。
     左のほうには機銃弾が、白い噴水を海面からまいあげる。
     彼らは、あきらめない。上方の敵が、とびかかってくる。激しい銃火をあびる。
     もう、手も足もほとんど動かせなくなった。どうにも駄目だ。こんな低空では、逃げられるのも時間の問題だ。
     海に突っこんでしまうだろう。 突然、闘志がつきあげてきた。
     卑怯者のように、ただ逃回って死ぬのをまつのか、――。
     私は操縦桿をグイッと、胃につくまでひいた。零戦は機体をきしませて、宙がえりをして上昇した。
     そこに、わずか一〇〇メートルほどのところに、一機の「ヘルキャット」がいた。
     そのパイロットは動揺している。私を見失ったらしい。
     敵の後続機は、もう私をねらっている。何機だろうと、かまってはいられない。
     こいつを、やっつけるんだ!
     敵は、激しくひねって逃げようとする。いまだ! 私は発射ポタンをおした。曳光弾がとぶ。あたらない。
     機が不安定に横すべりしているのだ。腕がしびれて、操縦桿がふらついている。
     「ヘルキャット」は、急旋回して上昇して逃げて行った。

  • 11 米軍機の照準、未熟で助かる

     もしも、敵がちがう攻撃法をとっていたら、あるいはもっと攻撃を集中していたら、私は、間違いなく、やられていただろう。
     敵機は、一度も私の動く前方をねらうことをしなかった。
     もし一機でも、私の突進する先の空間に、私が急旋回する前方の空間に、機銃をうちこんでいたら、私は、みずからその弾幕にとびこんでいったことになったろう。
     だが、それができないのが、パイロット特有の心理なのだ。パイロットの心理は妙なものだ。
     彼らの九九パーセントは訓練でおそわったとおりのやり方に執着する。
     あるパターンにしたがうように訓練されて、どんなことになろうが、生と死のまじりあった戦闘においてさえ、そのパターンからはずれようとはしない。そして、その執着を打破したものだけが、エースになるのだ。
     私の戦いは、私の腕がきかなくなって、急旋回でよろめくようになる時間と「ヘルキャット」の燃料のなくなる時間との競争ということになっていた。
     私は速度計をチラッとみた。時速五五〇キロちかくをさしている。零戦の最高限度だ。
     私には、腕以上に機体の耐久力が問題だった。これにもまた限度がある。主翼が心配だった。
     繰返し、繰返しの左急旋回のため、主翼がたわんでいる。
     連続的な、かたよった圧力のため、機体がこわれ、翼がちぎれとぶかもしれない。だがこれは、なんともしかたがない。
     私には、飛び続けることしかできない。
     急旋回の強行か、死か、私にはこれしか道は残されていなかった。
     またしても旋回。操縦桿を押す! 横すべり。べつのやつがくる。翼なんかどうともなれ! 急旋回!
     もうなにも聞えなくなった。自分のエンジンの音も「ヘルキャット」のうなりも、彼らのコマ七ミリ機銃の激しい発射音も。
     左の目が、さすように痛い。 汗が流れおちる。それをぬぐうこともできない。
     気をつけろ! 操縦程を倒す。カジ棒をける。 曳光弾がとぶ。またはずれた。
     高度計はゼロにちかくなっていた。海がすぐ目の下だ。
     坂井! 翼をあげておけ、翼端で水をきるぞ。

  • >>No. 16905

    10 旋回また旋回、円陣から離脱

     なんど、敵が攻撃してきたか、どれくらい、わたしが急旋回でさけたか、おぼえていない。
     汗は体中を流れて、ズボンをぬらした。額を汗が流れおちる。左眼に汗がしみる。手でぬぐいとるひまもない。
     ただ、一心にまばたきして目をこらすだけだった。
     疲労が急にましてきた。どうやってこの場を切り抜けたらよいかわからない。
     だが、敵のパイロットたちは、その飛行機ほどには腕は上等でないことだけは確かだ。
     心のなかで絶叫する。 スピード! スピードをたもて!  エンジンよ裂けよ、速度をあげろ!
     急旋回を続けろ! 急旋回を続けるんだ……。
     弾丸をさけて、たえず左に旋回を続けているので、腕はマヒしはじめていた。旋回速度をゆるめたら、最期なのだ。だがいつまでスピードがたもてるだろうか? 旋回を続けなければならない!
     グラマンが円陣を続けているかぎり、一度に一機しか、私にとびかかってこれない。
     相手が一機なら、なんとか避けられる。
     機銃弾はちかくをかすめるが、私を撃墜するには、正確に私の身体を打ちぬくか、エンジンに損傷をあたえなくてはダメだ。
     弾丸が一〇〇メートルさきをとおろうが、一センチをかすめようが、避けられるかぎりは、どちらも同じだ。 私にとっては、かわるがわる突っこんでくる敵の攻撃を、なんとか、かわすことだけが必要だった。
     急旋回する――全速。 操縦桿を左に倒す。
     別のやつがやってくる!
     からくもかわす。海と水平線が激しくまわる。横すべり! 別のやつ、近い!
     曳光弾、白くひらめく。パッとひかる。いつも翼の下だ。
     操縦桿をまえに倒す。スピードをおとすな! 左急旋回。急旋回。
     腕は――もう感覚がない!

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