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投稿コメント一覧 (5446コメント)

  • >>No. 8442

    四無量心が原始仏典で説かれているところということでしょうか。

    慈悲喜捨の四無量心がそのまま説かれている原始仏典は比較的少なく
    慈無量心だけ説かれていることが多いですが、慈悲喜捨すべてが説かれる原始仏典もあります。
    例えば
    『中阿含経』巻廿一 長壽王品「説処経」第十五
    『阿難よ、私はおまえのために四無量について説こう。比丘は心に慈しみを具え、一方(の生けるもの全て)に遍く満すことを成しつつ遊行する。このように、二方・三方・四方・四維・上下のあらゆる方向(の生けるもの全て)に遍く(慈心を)廻らす。心に慈を具え、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈しみを)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。同様に、悲・喜もまた、捨とを具えて、煩悩無く、恨み無く、怒り無く、争い無くして、極めて広く、甚だ大きく、限りない善を修め、(慈心を)すべての世界に遍く満たすことを成しつつ遊行する。阿難よ、この四無量について、汝は諸々の出家して間もない比丘達に以上のように説教するべきである。もし諸々の出家して間もない比丘たちの為に、この四無量を説教したならば、すなわち安穏を得、力を得、楽を得て。身心に悩み煩いないであろう、終生これを行うことは崇高な行いである、と。』


    スッタニパータでは慈経と言われる第一章の八(慈しみ)で慈無量心が説かれます。
    また、第一章の三にある73では『慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。』とあり
    慈悲喜捨すべてと解脱が同格に語られています。

  • >>No. 8434

    <<自我に実体は有るのだろうか?>>

    自我に実体などありません。
    『私』とは、五官の経験の記憶の束であり、思考や観念を寄せ集めたものにしか過ぎず
    それを『私』という中心だと思っているだけです。

    ただ、その思い込みは極めて強固なもので、その中心を消滅させるには、自我の成り立ちを洞察する以外にはないというのが私の結論です。

    すべての存在は縁起によって生じているから自性がない、実体がない、空である、無我である、つまり諸法無我だ、という龍樹から始まった理論をどんなに振りかざしても、その観念自体は表象=五蘊の中の想 にしか過ぎず、自我を構成するだけです。

    諸法無我を声高に叫んでいる人に限って、我塊や我執が非常に強固であったりします。

  • >>No. 8429

    <<例えば大乗仏教では慚愧が重視されていますが>>

    そうですか。懺悔文を唱えることは知っていますが、大乗仏教で特に慚愧や懺悔が重要視されているようには見えませんでした。
    具体的にはどのようなやり方でしているのでしょうか。

  • >>No. 8428

    私が言っている『観念』というのは、『人間が意識の対象についてもつ、主観的な像。表象。』のことです。
    そして『観念論』と言っているのは『頭の中で組み立てた考え』『表象の組み合わせで出来た考え』のことです。

    表象作用は、仏教では五蘊(色・受・想・行・識)の想です。
    つまり非我であるものです。

    また、四念処観の身・受・心・法の法です。
    眼耳鼻舌身意の対象は色声香味触法ですが、その、意識の対象たる法です。


    五蘊は非我であり、五蘊の一つ『想』=観念・表象をいかに積み上げても自我を構成するだけです。

    さて、仏教者のほとんどすべてが、仏教とは無我の教えで、すべての存在は縁起によって生じているので自性がない、実体がない、空である、無我である、というのが仏教の根本だと思っています。
    車は車輪やハンドルや様々な部品によって組み立てられているもので、車という実体はない、空である、車という名前だけのものである、と言います。

    これを本気で考察したことがありますか?
    そしてその結果自我がなくなり空になりましたか?

  • >>No. 8422

    あなたの前に、釈尊の示す『不死の門』が開かれたのなら素晴らしいことです。
    『感謝の意を称して、これにて失礼いたします。』とのことですから、
    別れに際し、禅の造詣が深いあなたに禅の公案をはなむけとさせていただきます。

    長沙の『南泉遷化』です。

    長沙因三聖令秀上座問師曰、南泉遷化向甚麼處去。
    師曰、石頭作沙弥時参見六祖。
    秀曰、不問石頭見六祖。南泉遷化向甚麼處去。
    師曰、教伊尋思去。
    秀曰、和尚雖有千尺寒松。且無抽條石筍。
    師黙然。
    秀曰、謝和尚答話。
    師亦黙然。
    秀回挙似三聖。
    聖曰。若恁麼猶勝臨済七歩。然雖如此、得我更験看。
    至明日三聖上問、承問和尚昨日答南泉遷化一則語。可謂光前絶後今古空聞。
    師亦黙然。


    長沙の黙然の境地にぜひ到達して、釈尊の『不死の門』に入られるように願っています。

  • >>No. 7678

    owlさん
    こんにちは。

    『砂の器』に似たストーリーなのですかね。
    日本映画にはなかなか名作が少ないので名作に会えるといいですね。

    <<『怨む人が怨む人に対して行うよりももっとひどいことを、邪な心は自分に対してする。』前後がわからないのですが>>

    正確には『憎む人が憎む人にたいし、怨む人が怨む人にたいして、どのようなことをしようとも、邪なことをめざしている心はそれよりもひどいことをする。』です。

    その前の文章は
    『ああ、この身はまもなく地上によこたわるであろう、──意識を失い、無用の木片のように、投げ棄てられて。』で
    前の文章とは直接な関係はないです。

    その文章の後の句は
    『母も父もそのほか親族がしてくれるよりもさらにすぐれたことを、正しく向けられた心がしてくれる。』で、
    この句と対句になっていますね。

    つまり、自分を憎んでいる人は自分に対して様々な嫌がらせや害することをしてくるかもしれないけれど、自分の中の邪な心はどんな他人よりもずっと自分に対してひどいことをする、と言う意味です。
    反対に、自分の正しい心は自分に対して、母や父が自分にしてくれるよりもずっとすぐれたことをしてくれる、ということです。

    要は、邪な心を持っていると自分を不幸にして、正しい心を持っていると自分を幸せにするということを強調した文章なのでしょう。

    『ハゲタカ』の沢尻エリカを見ていると、若いころ映画『手紙』で好演していたので、あのままひたむきに謙虚にやっていればかなりいい女優になっただろうに、自分の悪い性格が災いしてしまったと感じました。
    もったいないですね。

    暑い日は続きますが、今週もいい週でありますように。

  • >>No. 7677

    まりさん
    こんにちは。

    今年の夏は本当に異常な暑さですね。
    水分補給をこころがけて乗り切りましょうね。

    『永遠のジャンゴ』、良さそうな映画ですね。
    ナチス占領下が舞台の映画は人間の極限状態を描くためか名作が数多くあります。
    早速、今週のいつかで観たいと思います。観ましたらまた感想を書かせてください。
    ご紹介ありがとうございます。

    ひまわりの写真ありがとうございます。
    ひまわりを見ると元気が出ますね。

    今週がいい週でありますように。

  • >>No. 8402

    確かにそうかもしれませんね。
    ただ、日本では『悟り』というのは一般語になっているくらいポピュラーな仏教語なので
    逆に他の言葉で替えがきかない感じもありますね。

    『悟りというのは日本だけの言葉だ』と言っている上座部仏教のスマナサーラも
    『ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第7巻〉瞑想と悟りの分析』『小さな「悟り」を積み重ねる』という本を出していますし、共著も多い藤本晃という人も『悟りの4つのステージ: 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』『悟りの階梯―テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』という本を出していますから
    上座部仏教であってもやはり『悟り』という言葉は使ってしまうのでしょうね。

  • >>No. 7675

    owlさん
    おはようございます。

    『しあわせの隠れ場所』もいい映画でしたね。
    これも実話のようでした。
    『わたしを離さないで』は臓器提供のためだけのクローン人間という発想がどうしても受け入れられずディスクは持っていますが再び観ることをしていません。
    『グレイテスト・ショーマン』はブルーレイにDVDもついていたので、車の中でも繰り返し観ていたのですが、最近車の販売会社の人に聞いたところ、新型車からどんどんDVDやCDプレーヤーがなくなっているとのことでこれも時代の流れかとがっかりしてます。

    『ハゲタカ』、沢尻エリカを見ると、映画『手紙』で、殺人犯を兄に持ったために社会に迫害される男性を一生懸命支える恋人・妻の役を好演していたのを知っていますから
    あのまま真面目にやっていたら最も輝いていた時にいい作品が残せたのにと思えて残念になります。
    自らの性格の悪さのために大きなバッシングを受け女優としてうまく進めなかったですね。

    仏陀が言った『怨む人が怨む人に対して行うよりももっとひどいことを、邪な心は自分に対してする。』という言葉が思い出されます。

    暑い日は続きますが、今日もいい日でありますように。

  • >>No. 8400

    <<仏教で言われている「悟り」と、菩薩の「悟り」とは同じ意味なのでしょうか?>>

    菩薩とは、本来は、悟るため、仏になるために努力している修行者を意味しています。
    古くは、修行の身であった前世の仏陀のことを菩薩と呼んだりしています。
    悟るために修行しているのですから菩薩に悟りはありません。悟ったら仏と言われるからです。
    これが本来的な意味での菩薩です。
    あくまでも仏の前段階の修行者にしか過ぎません。

    ところが、大乗仏教では、法蔵菩薩が四十八願を立ててそれが成就するまで仏とならないと誓ったとする経典などの影響があり、『いつでも仏になれる境地に至っているけれども、あえて仏とならないで菩薩としてとどまる』というものが菩薩とされるようになってきました。
    自分が悟る前に、すべての衆生を悟りに導く、
    自分が彼岸に渡る前に、すべての衆生を彼岸に渡す、
    という人格を菩薩というようになりました。

    これは、自分の悟りだけを追求する小乗仏教のアンチテーゼとして生まれた大乗仏教ならではの考えで、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』『大乗仏教は自分より先に他人の悟りを考える』としたのです。

    まあ、こんな考えに従えば、歴史上の仏陀は、自分の悟りだけのために、妻も生まれたばかり息子も捨て、国王である父も捨て、家臣団も数多くの国民も捨てたのですから、史上まれにみるエゴイストとなってしまいます。
    そのため、大乗仏教では釈尊は衆生を救うために出家したということになっていますが、事実としては、自らの苦の消滅、悟りのためにすべてを捨てたのです。

    『すべての衆生を救うために、なれるのに仏とならずに菩薩のまま衆生を彼岸に渡す』
    『人をのみ 渡し渡して おのが身は岸に渡らぬ 渡し守かな』なんていう思想、『自分の悟りだけを考えるのはエゴイスト』なんていう思想は、真理からほど遠いものです。

    本当に悟ったら『自分』『私という中心』はなくなるのであって『自分の悟り』などというものがあるわけではありません。
    私という中心がなくなってはじめて無量なのですから、悟らないままで他人を彼岸に導こうというのはあり得ないことなのです。
    迷ったものが人を導いたら迷路に入ってしまうだけです。
    大乗仏教はあまりにも観念的になりすぎましたね。

  • >>No. 8381

    <<枯れ木も山の賑わいくらいに思っておいた方が良いのかも知れませんね。しかし、何を聞いても、押し黙って答えが返ってこないのは解せませんね。>>

    しかし、あまりにも程度が酷いですね。
    他人のスレッドに、13連続投稿ですよ。
    自分の投稿で埋め尽くす気のようです(笑)

    あきれますね・・・

  • >>No. 8379

    また、答えられない質問はすべてスルーですか?(笑)

    このスレに書き込むのであれば、きちんと聞かれたことくらいは逃げないで答えてくださいね。

    ①あなたがさかんに振りかざす仏教というのは何ですか?私の仏教の定義は、歴史上の仏陀が説いた教えのことです。あなたの仏教の定義を教えてください。

    ②歴史上の仏陀と全く違う考え、正反対の考えでも、仏教と言えますか?

    ③大乗涅槃経の仏性は原語は、buddha-dhatu です。
    dhatuは基体、本体という意味です。原語からすると、buddha-dhatu (仏性)は仏の基体という意味です。これに異論はありますか?

    ④阿頼耶識が毒とあなたは言いましたが、全くの間違いですね?
    阿頼耶識は蔵識で、真妄の種子を蒔かれる場所ですから阿頼耶識自体には善悪はありません。違いますか?

    ⑤九識も毒というのがあなたの考えですが、阿摩羅識は清浄識です。間違いですね?

    ⑥あなたは『自分は仏教徒ではない』と書いたことがありますね。しかし、さかんに『仏教とはこうだ』『それは仏教ではない』と仏教にこだわっていますね。どちらが本当なのですか?

    ⑦あなたは『おかげ様の自己を自覚する』『縁起によって無数のものに生かされている。ありがたい。』が仏教の本質だと信じ込んでいるようですが
    歴史上の仏陀が『縁起によって無数のものに生かされている。ありがたい。ありがたい。』などと言ったことは一度もありません。あるのであれば、典拠を示してください。
    あなたが仏教と言っているものは日本独自の通俗仏教であって仏陀が説いたこととは全く関係ありません。むしろ、仏陀が説いたこととは真逆です。違いますか?

    ⑧あなたはさかんに『すべてに実体がない』のが仏教だと言います。
    しかし、仏陀は、如来が死後も存続するかどうか、霊魂が存続するかどうか、世界が永遠か、無限か、このようなものはすべて無記としました。
    そのような形而上の概念を弄ぶことを禁止しました。
    『一切の形成されたもの』『五蘊の集まり』『現象』『自我』は当然、空であり、実体がありません。
    しかし、形成されざるもの=涅槃 そして涅槃に至った如来に実体があるか実体がないかは仏陀は無記としました。
    如来についてあなたのように実体がないと断言するのも、如来に実体があると断言するのも、仏陀の教えからすれば大間違いです。違いますか?

  • >>No. 8368

    私は創価学会も大嫌いだし、あなたが会員の真如苑も嫌いですよ。
    いかなる宗教団体も精神の牢獄だと思っていますから
    ほんの少しでも関りになることはないですね。
    新興、既成問わず好きな団体は一つもありません。

    あなたの投稿を見ていて強く感じるのは、自分で書いていることと実際にやっていることが全く違うということです。
    あなたは龍樹の考えによって、言葉によるレッテル貼りを嫌ってましたよね。
    しかし、実際のあなたは、あなたの『九識も毒だ』というトンデモ説が間違いだと指摘しただけで
    『九識を実体化するということは創価学会だ』などと極めて杜撰で幼稚なレッテル貼りばかりしています。
    書いていることと全く違う行動ばかりなのです。

    私は大乗仏教に見切りをつけて原始仏典を探求しているのですから
    別に唯識論も九識論もどうでもいいのです。
    ただ、仏教史を客観的に俯瞰して観ると、大乗仏教になって、初期から中期、後期となるに従ってかなり実体化の方向に行っているのは確かのようです。
    私は大乗仏教を信じているわけではないので、大乗仏教史が実体化の方に行こうがどうしようがどうでもいいのですが、
    縁起や空の思想から、如来蔵思想が仏教でないと主張する学者もいますから
    仏性、真如、法身を実体として捉える見方もかなり多いのでしょう。

    私は、仏性を実体として捉えることも仏性に実体がないと断言することにも反対です。
    仏陀が言ったように、涅槃や如来に実体があるか無いかの論争など、解脱に、涅槃に赴かないからです。
    あなたのような頑迷で観念的な人たちによって、『仏教は実体がないことを説く教え』という固定観念で語られてきましたが、それが仏教がどこにも行き着かない観念のお遊びになった原因です。

    五蘊や自我が空であり実体がないのは仏陀も言っています。
    一切の形成されたものは空であると言っています。
    そして、形成されざるものは無記です。
    これが仏陀の本当の教えです。

  • >>No. 8368

    別に、大乗仏教に興味があるわけではなく、唯識論にも九識論にも関心はないですが
    あなたがあまりにも大乗仏教や唯識論、九識論もデタラメを私のスレッドで垂れ流しているので見ていられなくなっただけですよ。
    私は大乗仏教の限界を知って、歴史上の仏陀の教えを探求しているので、当然、大乗仏教は知っています。ですから、あなたが大乗仏教についてデタラメを披露し続けていると言いたくなってしまうのですよ。

    仏教を全く知らない人があなたの垂れ流すデタラメを大乗仏教と思い込むのはちょっとつらいですからね。
    それにしても、私のスレ以外で、特にあなた自身のスレッドでどんなトンデモ説を垂れ流そうが全くどうでもいいので、そうしてください。

    私のスレッドは、やはりデタラメは禁止したいですね(笑)

  • >>No. 8343

    <<その基体(実体)に対して、非を唱えて、非基体(諸法無我)を唱えたのが釈尊です。>>

    だから、あなたがさかんに引用する『大乗涅槃経』を調べればわかりますよ。
    『大乗涅槃経』に出てくる『仏性』は、buddha-dhatu です。
    『すべての衆生はbuddha-dhatu を持っている。』
    dhatuは『基体』と訳されます。
    非基体を唱えたのが仏教であれば、『大乗涅槃経』は仏教ではないとあなたは言うのですか?
    如来蔵思想は仏教ではないという学者もいますから、大乗涅槃経が仏教ではないとあなたが言ってもかまいませんよ。

    ただ、大乗仏教の歴史を知れば、中期大乗以降かなり実体化しているのは確かですね。
    初期大乗の般若経、華厳経、法華経にたいし
    中期大乗の大乗涅槃経を中心とした如来蔵経典。
    後期大乗の密教経典。
    どんどん実体化はしてますね。

    ほとんどの仏教学者は大乗仏教にヒンドゥー教の大きな影響を認めています。
    大乗仏教にヒンドゥー教の影響を認めない仏教学者っていますか?
    原始仏教にもバラモン教やジャイナ教の大きな影響があります。

    その影響を否定し排除してきたのが後世の凡庸な仏教者たちです。
    しかし、古層の仏典になればなるほどバラモン教やジャイナ教の用語が肯定的に数多く使われています。

    原始仏教におけるジャイナ教の影響、大乗仏教におけるヒンドゥー教の影響は、もの凄く大きいですよ。
    あなたは一切認めたくないでしょうけど。

  • >>No. 8343

    ちょっと時間がないので、今まであなたにしてきた質問で答えていただけなかったものばかりですので、ここで答えてくださいね。

    ①あなたがさかんに振り回す仏教というのはあなたの定義は何ですか?私の仏教の定義は、歴史上の仏陀が説いた教えのことです。
    ②もし、歴史上の仏陀と龍樹が違う考えだった場合でも、仏陀と全く違う考えをあなたは仏教と認めるのですか?
    ③大乗涅槃経の仏性は原語は、buddha-dhatu です。
    dhatuは基体、本体という意味です。原語からすると、buddha-dhatu (仏性)は仏の基体という意味です。これに異論はありますか?
    ④あなたのいう識が毒というのは誰が説いているのですか?全くの間違いですね?
    阿頼耶識は蔵識で、真妄の種子を蒔かれる場所ですから善悪はないですね?違いますか?
    ⑤九識も毒というのがあなたの大間違いであることが分かりませんか?
    間違ったら謝って訂正するのが本当の仏教徒の態度ではないですか?

  • >>No. 8341

    <<「仏法の本義」って「ひと組ずつ」でしょう。最澄と徳一も“ひと組ずつ”です。
    それを勝ち負けの論争すると、神に成り下がり仏道から落ちる。論争したのがまずかった。>>

    あなたが拠り所にする龍樹なんかは、さかんに説一切有部などと論争に明け暮れましたよね。あなたの説では論争ばかりの龍樹は神なのですか?

    <<私は車に「ジュンくん」と名前をつけて「ジュンくん今日もよろしく」と乗り込みます。南無車観世音菩薩です。また、朝店で、商品に「おはようございます」と挨拶します。
    南無商品観世音菩薩です。>>

    車や商品やエレベーターやエスカレーターに名前を付けて拝むのはあなたの自由ですが
    肝心なのは対人間ですよね。
    あなたの過去投稿を見てみましたら、あなたがさかんに言っている『有情に生かされ、非情に生かされている。一切は、「おかげ様の存在」という諸法無我でしょう。』というふうには全く見えません。

    pipitさんが『『如是我聞』は『えーわんめーすたん、という音』だなぁ』と書いただけで
    あなたは『精進の意味さえ分かっていませ能天気です。能天気の貴女のでいいのですよ』
    『貴女には中道が分からないから「真剣さ」がない。正精進が分からないということです。
    仏教の言葉に縛られないで、ありがままに生きて下さいな。 頭が悪くて能天気の貴女でいいのです。』
    『貴女は、自分は善人だと思っている悪人です。内省しましょうね。』

    なぜあなたは他人の全く悪意のない投稿にここまで口汚く罵らないといけないのですか?

    あなたこそ、自分のなかのドロドロした強固な自我を洞察しなければいけない。
    はっきり言って、あなたの攻撃性は普通ではないですよ。

    とりさんや水月さんにも随分とひどい言葉で罵っていますね。

    あなたに真摯に禅を修行しているあの人たちを罵る資格はないですよ。
    あなたは、朝5分だけ数息観をするだけであとは禅の解説書を読んで分かった気になっている、禅の人たちから言えば最も馬鹿にされる『本で分かった気になっているだけ』の人です。
    とりさんや水月さんの投稿には真摯さを感じますよ。

    あなたのそのドロドロしたねちっこい攻撃性がなくなってから『すべてはお蔭様で生かされている』などと言ってくださいね。

  • >>No. 8330

    ちょっと、どんどん酷くなっているので一言。

    大乗仏教にしても唯識論にしても九識論にしてもこんなに間違いだらけを並べ立てるのはいい加減やめたほうがいい。
    対話もせずに自分のドグマを一方的に披露するだけなら自分のスレでしてください。
    それが大人というものです。

    <<識は毒ですが、その毒を〈自性清浄心〉という薬に変えることができるというのが、如来蔵思想、すなわち〈仏性〉です。>>
    阿頼耶識でさえ、『毒』ではないですよ。真妄どちらの種子も蒔かれますから阿頼耶識自体は善悪どちらにも属しません。
    ですから、阿頼耶識も『毒』ではなく、ましてや阿摩羅識は清浄識です。

    <<阿頼耶識が大円鏡智という仏智に変わるように、九識(阿摩羅識)も修行によって智慧に変えこそ仏智でしょう。>>
    <<「九識は唱題という行によって仏性に変わる」のではないのでしょうか。>>

    これも全く違います。
    九識こそ仏性です。仏の基体です。
    九識が唱題という行によって仏性に変わるのではなく、仏性である九識が唱題によって呼び覚まされるのです。隠れていた本質が輝いてくるというのが九識論です。

    <<九識という毒を、仏の行のよって薬に変える>>

    よく、ここまで唯識論、九識論についてデタラメが書けますね。
    デタラメは自分のスレッドにだけ書いてくださいね。
    <<九識という毒>>、よくそんなことが書けますね。
    これはさすがにどんな馬鹿な仏教学者でも言わないでしょうね。
    あなたの勝手なドグマです。

  • >>No. 8244

    あなたの投稿を見ると、いろいろな意味で危うさを感じます。
    まずは、自分の勤務先名などの個人情報は書かない方がいいですよ。
    あなたは、他人が自分の個人情報を云々すると言いますが、すべて自分のことを語りたいというあなたの欲望、衝動から積極的に自らのことをアピールしている結果です。
    あなたが自分語りをしてきたために、古くからいる人はみんなあなたの個人情報を知っているのです。
    あなたが語らなければ知りようがありません。

    契約更新になったことは祝したいですが、そのやりとりを見ても、ちょっと危うさを感じます。
    あなたは日常生活でかなりクレーマーに近いことをしてませんか?
    自分が接客を一生懸命している自負が人一倍あるので、それをしていない人を許せないのではないですか?

    クレームをつけたい自分、説教をしたくてたまらない自分、自分語りしたくてたまらない自分、を一度きちんと洞察した方がいいですよ。

    それがどこから来るか、です。

  • >>No. 8230

    卑弥呼さん、ありがとうございます。

    <<和弘さんの考えをショーシャンクさんのトピに書き連ねるのは仏心というよりも悪行になるかもしれません。阿修羅だとか戦いだとか遊びとか言ってますが、和弘さんはこの世で悪行を積んでいるのだとしたら、遊びでは済まされませんね。>>

    この卑弥呼さんの投稿に対して、和弘という人はこう言っています。
    『『法華経』は絶対肯定の世界ですね。しかし、人々をその絶対肯定の「一乗の菩薩道」に導く厳しさもある。導く方向性が違うとしても、SANさんがしている広宣流布ですよ。
    開示悟入。私もそんなことで、悪行三昧と言われています。』

    徐々に和弘という人の本音が出てきましたね。
    自分の行為は【開示悟入】だそうです。
    これには本当に驚きました。
    私には、自分の行為を開示悟入などとは絶対に言えないですし言えるわけがないです。

    【開示悟入】とは、法華経に出てくる【諸仏世尊は衆生をして仏知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生に仏知見を示さんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。衆生をして仏知見の道に入らしめんと欲するが故に、世に出現したまう。】という経文のことです。

    釈尊などの仏が、この世に出現する本懐、一大目的のことです。

    衆生に、仏知見を開かしめ、示し、悟らしめ、入らしめん、というのは仏にしかできず
    釈尊の出世の本懐であるのですが、和弘という人は、自分が掲示板に自説を大量投稿するのは、仏の本懐である開示悟入だと言っているのです。

    だんだん、和弘という人の本音が出てきました。
    自分を仏と同じ悟りに達していると思い込んでいるようです。
    そう考えると、投稿の間違いの指摘にも全く答えない理由が分かりました。
    この掲示板で歴史上の仏陀は本当には何を言ったのかを探求しようという気はなく
    ただ、「仏と同じ悟りを得ている自分」の高説を大量に貼り続けることで
    自分以外の迷いの衆生を仏知見に【開示悟入】させようとしているのだ、ということです。

    最初から、教えてやる、救ってやる、悟らしてやるという立場で臨んでいますから、対話が成り立つはずもなく、自説の間違いをいくら指摘されても全く無視するはずです。

    これが、和弘という人の本音でした。

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