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投稿コメント一覧 (4382コメント)

  • 「我・常」ということを積極的に主張するのが、如来蔵思想であり、『涅槃経』には「仏陀とは、我(アートマン)を意味する。しかるに、その我は永遠不変の実在である」と明記されているのである。
     大乗仏教というものが、ヒンドゥー教の強い影響のもとに成立したと見るのは、今日では学界の定説とも言ってよいものである。

    大量の大乗経典を創作したのは、仏教的教養をもつもの、つまり、出家者であったかもしれないが、経典の読者対象としては、在家信者が強く意識されている。
    しかるに、注意すべきことは、インドにおける在家信者とは基本的にはヒンドゥー教徒であるということである。彼等は、仏教の出家者のみに布施するわけではなく、ジャイナ教でも、他の宗派でも、区別することなく、出家者には布施して、死後の生天を求め、日常生活においてはヒンドゥー教の生活規範に従って暮らすヒンドゥー教徒であった。従って、このような在家信者を読者、または聴衆として強く意識した大乗経典に、ヒンドゥー教からの影響が見られるということは、当然である。これを端的に示すものとして、大乗経典における呪文、呪術の受容ということがある。
     しかも、大乗仏教がさらに進展すると、ヒンドゥー教のアートマン論を積極的に公言するかのような主張が現れてくる。それが先に述べた如来蔵思想である。
     かくして、大乗仏教の思想というものが、基本的には、「空から有へ」と変化する非仏教化、ヒンドゥー教化の道をたどったことが、示されたであろう。
    そして、最後に行き着いた先が、全く“ヒンドゥー教そのもの”と言っても過言ではない密教だったのである。
     いかなる大乗経典といえども、ヒンドゥー教の呪術的世界から切り離されてはいない。
    例を『法華経』にとるならば、羅什によって漢訳された『妙法蓮華経』の第二六品は、多くの呪文を含む「陀羅尼品」であり、第二五品は、観音菩薩に対する信仰を説く「観世音菩薩普門品」である。観音の名を念ずるならば、諸の現実的な苦から即時に解脱すると説く観音信仰が、呪術的なものであることは明らかであろう。

      (松本史朗『チベット仏教哲学』、大蔵出版、1997年、pp. 407-410)

  • >>No. 2429

    あなたは、mic(aaa)やh2と全く同じですね。

    自分の主張を喚きたてて、答えられない質問をすると罵詈雑言する。
    何とも卑小な精神です。
    ただのアラシでしたね。

    mic(aaa)やh2と同じく誰からも相手にされていない理由がよくわかりました。

    宗教を全くせず、この世を十全に生きている人の方がよほど精神レベルは上です。

    よくそれで、自分の心は釈迦の心と同じと言えましたね(笑)

    答えに詰まると罵倒するような人を相手にしたのは間違いでした。

  • >>No. 2422

    <<だから最初から言っているだろ、大乗教の祖たちはどのように考えていたかを正しく考察しそのうえで自分にあった教えを踏襲すれば良いとね。それに対して私はどうのこうのはない。>>

    それであれば言うことないです。
    誰が何を信じようと自由なのですよ。
    それにここは何かを信じようとか信仰しようということではなく
    歴史上が仏陀が何を言ったのか、を探るスレです。
    それを何度も言っているのに、日蓮信者のあなたが自分の主張をしつこくしてくるので
    いい加減うんざりであなたの矛盾点を突いているだけです。

  • >>No. 2425

    ごまかさないで、この質問にちゃんと答えてください。
    日蓮は、『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』と言っていますね?それは認めますね?
    そして、法華経にも他の大乗経にも原始仏典にも、『南無妙法蓮華経と唱えろ』という文はないですね?これは認めますね?

  • >>No. 2425

    あなたがアートマンを否定するのは勝手ですが
    松本史郎や中村元の研究を見ても明らかなように
    スッタニパータをはじめとする原始仏典には、アートマンがいたるところで肯定されています。
    素直に読み、直訳すれば、実は仏教は無我ではなく非我だったということがわかるでしょう。

    『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
    ブラフマンとなったアートマンによって住する』
    ditthe va dhamme nicchato nibbuto sitibhuto sukhapatisamvedi
    brahmabhutena attana viharati .

  • >>No. 2422

    これにも答えてくださいね。
     ⇓
    涅槃経『了義経に依って不了義経に依らざれ』の了義経ですが、涅槃経に書かれている以上、第一義的には涅槃経と考えるのが当然です。この涅槃経の文にはどこにも『了義経とは法華経のことだ』とは書かれていませんよ。
    また、日蓮宗の僧侶でもあった茂田井教亨教授は
    『どのお経にも「この経すなわち了義経なり」と説かれてあります。その意味は義を了したところの経(了義経)つまり最高真実の教えという事なのです』
    と言っています。

    <<もちろん、最近の仏教研究で大乗仏教は創作されたといわれているのですから、そのことを考えながら、当時の祖師たちの考えを知らないとまずいでしょ。>>

    そこまでわかっているのであれば、仏陀を知るためには、仏陀の肉声に近い最古層の仏典を調べることの重要性はわかるのではないですか?

    <<我が滅度の後に於て 斯の経(妙法蓮華経)を受持(南無)すべし>>

    受持 読 誦 解説 書写 の受持に、南無という意味はありません。
    経典をいつも持って保つこと、です。
    経典をいつも持ち、その持った経典を黙読し、声に出して読み、解説し、写経する、
    ということです。

    あなたがアートマンを否定するのは勝手ですが
    松本史郎や中村元の研究を見ても明らかなように
    スッタニパータをはじめとする原始仏典には、アートマンがいたるところで肯定されています。
    素直に読み、直訳すれば、実は仏教は無我ではなく非我だったということがわかるでしょう。

    『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
    ブラフマンとなったアートマンによって住する』
    ditthe va dhamme nicchato nibbuto sitibhuto sukhapatisamvedi
    brahmabhutena attana viharati .

  • >>No. 2422

    ごまかさないで、この質問にちゃんと答えてください。
    日蓮は、『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』と言っていますね?それは認めますね?
    そして、法華経にも他の大乗経にも原始仏典にも、『南無妙法蓮華経と唱えろ』という文はないですね?これは認めますね?

    あなたの信じる日蓮は、
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり、伝教大師の云わく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」』
    と言っています。

    法華経には
    『一称南無仏 皆已成仏道』(一たび南無仏と称せば 皆なすでに仏道を成じたり)
    『南無観世音菩薩  称其名故  即得解脱』(南無観世音菩薩とその名前を称えるがゆえに、すぐに解脱することができる)
    と書いてありますが
    『南無妙法蓮華経と唱えれば仏道を成じる』とは書いていません。

    法華経だけでなく、どの大乗仏典にも原始仏典にもありません。

    経文にない以上
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』
    なのではないですか?

  • >>No. 2420

    <<あれだけ無常なものはないと言われるのに、迷いから離れた仏様は常住だとね。>>

    だから、上座部仏教からは、大乗仏教は非仏説で外道の教えだとずっと言われ続けましたね。
    アートマン=ブラフマンは常楽我浄だというのは、まさしくバラモン教でしたから。
    部派仏教はバラモン教否定にばかり赴きましたが、大乗仏教になって常楽我浄の法身という本体を想定するようになったのですよ。

    空海は当然大日経を最上位にしましたね。
    日蓮は法華経を最上位にしました。
    それだけのことです。
    それがどうかしましたか?
    馬鹿馬鹿しいことに、仏陀の言ったことに反して、部派仏教も大乗仏教も、自分たちの宗派が最高で正しいと争ってきたのですよ。
    あなたの今の態度みたいにね。
    それは、仏陀が最も嫌った態度でした。
    仏教全部が間違っているのですよ。

    さて、私の質問に全く答えないですが、答えてくださいね。

  • >>No. 2412

    あなたのこの一文の中にも矛盾点がたくさんあります。

    涅槃経『了義経に依って不了義経に依らざれ』の了義経ですが、涅槃経に書かれている以上、第一義的には涅槃経と考えるのが当然です。この涅槃経の文にはどこにも『了義経とは法華経のことだ』とは書かれていませんよ。
    また、日蓮宗の僧侶でもあった茂田井教亨教授は
    『どのお経にも「この経すなわち了義経なり」と説かれてあります。その意味は義を了したところの経(了義経)つまり最高真実の教えという事なのです』
    と言っています。

    <<もちろん、最近の仏教研究で大乗仏教は創作されたといわれているのですから、そのことを考えながら、当時の祖師たちの考えを知らないとまずいでしょ。>>

    そこまでわかっているのであれば、仏陀を知るためには、仏陀の肉声に近い最古層の仏典を調べることの重要性はわかるのではないですか?

    <<我が滅度の後に於て 斯の経(妙法蓮華経)を受持(南無)すべし>>

    受持 読 誦 解説 書写 の受持に、南無という意味はありません。
    経典をいつも持って保つこと、です。
    経典をいつも持ち、その持った経典を黙読し、声に出して読み、解説し、写経する、
    ということです。

    あなたがアートマンを否定するのは勝手ですが
    松本史郎や中村元の研究を見ても明らかなように
    スッタニパータをはじめとする原始仏典には、アートマンがいたるところで肯定されています。
    素直に読み、直訳すれば、実は仏教は無我ではなく非我だったということがわかるでしょう。

    『現在において欲楽なく、静まり、清涼となり、楽しみを感受しつつ、
    ブラフマンとなったアートマンによって住する』
    ditthe va dhamme nicchato nibbuto sitibhuto sukhapatisamvedi
    brahmabhutena attana viharati .

  • >>No. 2412

    私は、別にあなたの信仰を否定したいわけではありません。

    私は何度も繰り返し言ってきました。
    ここは、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかを自由な立場で探求していくスレだと。

    ところが、いくら言っても、日蓮の仏法を信じているあなたがあまりにもしつこく自分の主張を書き込むので、仕方なく事実を指摘しているだけです。

    つまり、大乗仏典は歴史上の仏陀が言ったことではなく、後世の創作であること。
    ですから、どんなに宗教的に優れていても、歴史上の仏陀が何を言ったかのスレでは場違いなのです。
    日蓮の教えを信仰することは素晴らしいですが、このスレは仏陀の肉声は何だったか、のスレですよ。

    ここまで言ってもまだわかりませんか?

    あなたは日蓮の教えが最高だと思い、それを認めさせたいのでしょうけど、あなたの存在は逆効果ですよ。
    あまりにもしつこいと、こういう人が信仰している教えは、と敬遠する人も出てきます。

    いずれにせよ、あなたの投稿はスレ違いですので、ご自分でスレッドを立てて思う存分布教してください。

    ここまでしつこいと、徹底的にあなたの書いていることの矛盾を突いていかなければならなくなります。
    それは本意でないので、そうさせないでほしいですね。

  • >>No. 2412

    この一連の問答を見て、どちらが感情的になっているか、明らかですよ。

    私『歴史上の仏陀は『南無妙法蓮華経と唱えろ』と言ってるのですか?』

    あなた『南無妙法蓮華経は漢語だよ。とうぜんそのような言葉は使わない。南無妙法蓮華経と唱えろと言われたのは、法華経の真意を見抜いた日蓮だよ。』

    私『つまり、あなたは仏陀が言ったこともないことを信じているのですね。』

    あなた『言ったか言わないかはわからないといっているのよ。 スッタニパータだって、仏陀が書いたものではないのよ。』



    この問答を客観的に見てください。
    あなたが、仏陀ではなく日蓮が言った、と答えたのですよ。
    それなのに、すぐあとには『言ったか言わないかはわからないといっているのよ。』と言っています。
    南無妙法蓮華経はあなたの言う通り漢語ですね。発音からすると中国語でもなく日本語読みですね。
    歴史上の仏陀が、中国語または日本語で唱えろというわけはありませんね。
    自分でそう言っているのに、すぐあとに『言ったか言わないかはわからないといっているのよ。』というのは矛盾してますね。
    歴史上の仏陀が漢語で唱えろと言った可能性もあると考えているのですか?

  • >>No. 2412

    法華経に書いているのは
    『南無仏と唱えること』『南無観世音菩薩と唱えること』です。

    あなたのいうように『日蓮の場合は自分の考えではなく、すべて経典主義なのです』なら
    法華経に書いてある通りにしなければいけないのではないですか?

  • >>No. 2412

    ごまかさないで、この質問にちゃんと答えてください。
    日蓮は、『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』と言っていますね?それは認めますね?
    そして、法華経にも他の大乗経にも原始仏典にも、『南無妙法蓮華経と唱えろ』という文はないですね?これは認めますね?

    あなたの信じる日蓮は、
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり、伝教大師の云わく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」』
    と言っています。

    法華経には
    『一称南無仏 皆已成仏道』(一たび南無仏と称せば 皆なすでに仏道を成じたり)
    『南無観世音菩薩  称其名故  即得解脱』(南無観世音菩薩とその名前を称えるがゆえに、すぐに解脱することができる)
    と書いてありますが
    『南無妙法蓮華経と唱えれば仏道を成じる』とは書いていません。

    法華経だけでなく、どの大乗仏典にも原始仏典にもありません。

    経文にない以上
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』
    なのではないですか?

  • >>No. 2408

    owlさん
    おはようございます。

    <<空は「empty」(空っぽ)でなく「fullness」(一杯、充満)ではないかと読んだ記憶があります。>>
    それを書いた人はよくわかっていると思います。
    すべての存在が生じては滅する、無限の空間、だと思っています。
    唯一の意識の大海といってもいいですが。
    その大海に現れては消える無数の波、泡が現象だと思います。

    その唯一意識の大海を何と呼んでもいいのです。
    空といい無といい道(tao)といい、アートマンといいブラフマンといい、大日如来といい阿弥陀如来といい久遠実成の釈迦といい、天照大神といい、何と名付けようがどうでもいいことです。
    名前なんてしょせん人間の頭が作り出したものですし、その名前にこだわって争ったり戦争している人類は何とも幼稚なものです。

  • >>No. 2407

    般若心経だけでなく、仏教の最も陥りやすいのが虚無思想です。

    スッタニパータにも、【世界を空なりと観ぜよ】とあります。
    なぜ、世界は空(sunnata)なのでしょうか。
    最初期において、仏陀の真意は、
    【生じたものは必ず滅する】から空としたのです。
    生じたものは必ず滅する泡のようなものだからです。

    それがだんだん、縁起を相依性と捉え、すべての存在は周囲の各要素によって成り立っているにすぎずそれ独自の自性はなく実体がない、という解釈が主流になりました。
    無自性=空
    ですね。

    そして、煩悩、欲望が苦しみの元だとして、欲望を徹底的になくすことで苦しみから逃れられる、という何とも馬鹿馬鹿しい教えとなっていきました。
    灰身滅智の思想ですね。

    そのアンチテーゼとして大乗仏教は生まれ、そしてその発展形として、欲望を全肯定する密教が生まれていきました。

    般若心経をなぜ空海はあれほど重要視したのか、です。
    空=すべての存在には実体がない
    という解釈だけでは、色即是空は説明できても空即是色は説明できません。
    また、空海があれほど般若心経を重要視した秘密にも迫れないと思います。

  • >>No. 2400

    あなたはこう言いましたね。

    <<>歴史上の仏陀は『南無妙法蓮華経と唱えろ』と言ってるのですか?>
    南無妙法蓮華経は漢語だよ。とうぜんそのような言葉は使わない。南無妙法蓮華経と唱えろと言われたのは、法華経の真意を見抜いた日蓮だよ。>>

    あなたのこの答えを見ても
    歴史上の仏陀が『南無妙法蓮華経と唱えろ』とは言ってないと認めていますね。

    それを指摘すると感情的になって
    『言ったか言わないかはわからないといっているのよ。 スッタニパータだって、仏陀が書いたものではないのよ。』とごまかしていますが
    私が聞いたのは、『南無妙法蓮華経と唱えろ』と書いてある仏典(大乗仏典でも原始仏典でも)あるのか、ということです。

  • >>No. 2400

    あなたの信じる日蓮は、
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり、伝教大師の云わく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」』
    と言っています。

    法華経には
    『一称南無仏 皆已成仏道』(一たび南無仏と称せば 皆なすでに仏道を成じたり)
    『南無観世音菩薩  称其名故  即得解脱』(南無観世音菩薩とその名前を称えるがゆえに、すぐに解脱することができる)
    と書いてありますが
    『南無妙法蓮華経と唱えれば仏道を成じる』とは書いていません。

    法華経だけでなく、どの大乗仏典にも原始仏典にもありません。

    経文にない以上
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり』
    なのではないですか?

  • >>No. 2400

    あなたの信じる日蓮は、
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ、文証無からなんをば捨てよとなり、伝教大師の云わく「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」』
    と言ってますよ。

    <<大乗の毘盧遮那仏や阿弥陀仏の話だって、仏陀がされたかもわからないということだね。>>
    <<とうぜん部派仏教に取り入れられなかった教えだって、埋もれていた可能性もあるってことだよ。>>
    あなたのこれらの言葉は、日蓮の『文証無からなんをば捨てよとなり』に反します。
    『釈の意は経文に明ならんを用いよ』ではないのですか?
    仏陀の肉声に最も近い最古層の仏典になければ、仏陀の真意ではないということです。

  • >>No. 2394

    そうですね。

    般若心経の『色即是空』『空即是色』の『空』は唯一意識として解釈しなければ成り立ちませんね。

    『色即是空』だけだと、物質的な現象には実体がない、という訳でいいのですが
    それであれば『空即是色』が意味を成しません。

    私の解釈する『色即是空』『空即是色』の『空』は、
    無限の空間、光り輝く空間、唯一の意識の満ち溢れる空間、です。

    これを言葉で説明するのは非常に難しいですが
    対象のない意識そのものである空間、としか言いようのないものです。

  • >>No. 2395

    あなたは盛んに過去七仏にこだわりますが
    七仏の思想の背景には千仏、もっといえば無数の仏がいたということです。

    あなたたちは、仏陀が仏教の開祖と捉えていますね。
    とすれば仏陀以前の過去の無数の仏たちは当然仏教以前ですよね。

    当たり前です。
    仏陀は『私は過去の覚者が発見した古城に向かう古道を発見しただけだ』と言っているのですから。

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