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投稿コメント一覧 (5727コメント)

  • >>No. 248496

    (つづき)

    その他には、中野憲信編纂『各家系譜』「第四冊・大久保家家譜草稿」(国会図書館所蔵。草稿原稿の写真版)があり、その大久保家の系譜の上古部分が『浅間文書纂』所収「富士大宮司系図」と似ている。この系図は明治の末年に大久保春野が男爵になった折に提出したものと言われ(さだかではない)、宮内庁書陵部に収蔵されていると言うが、誰もそれを確認した者はいない。中野憲信が何を情報源として「大久保家家譜草稿」を書いたのかも不明のままである。
    ちなみに、宝賀寿男著『古代氏族系譜集成』(昭和六十一年四月)にも「和珥臣氏系図」を載せるが、これは彼が諸資料を元につくた復元系図で「史料」と言うより「参考資料」である。

    つまり、世間で所謂「和邇氏系図」と言っているものの原本は、今の所、どれも存在の確認は取れていない。個人的にだが、この手の「系図」資料は使わない方がよいであろう。使わなくともこの程度の上古の系譜は、「古事記」や「六国史」、「新撰姓氏録」などでも知ることが出来る。

    以上ご報告

  • >>No. 248495

    「和邇氏系図」とは
    世間で所謂「和邇氏系図」と言っているものは、太田亮編纂『姓氏家系辞典』(昭和38年11月初版)の中の「和邇系図」であろう。太田亮氏はほとんど独力で各種資料をもとにこの辞典を編纂されたという(大変な労作である)。
    この「和邇系図」の具体的情報源は述べていないが、文中に「駿河浅間大社の大宮司家は和邇部氏にして系図を伝ふ」と言っているので、恐らく浅間神社社務所編『浅間文書纂』(昭和六年)所収「第六案主富士氏記録」の「四 別本大宮司富士市系図(活字)」であろう。(今回はその名著刊行会による「復刻本」(昭和四十八年)を拝見しました。)
    そこには、「富士大宮司系図<姓 和邇部臣>」(<>内は小字)とあり、内容的には太田亮氏の『姓氏家系辞典』と同じである。しかし、系図の中を読んでみると「和邇部臣」と呼称したのは「大矢田宿禰命」から七世後の「鳥」からであり、しかもその代で「真野臣」を呼称する。系図には「鳥」の弟の「務大肆忍勝」が「真野臣」を呼称したかのように書かれているが、『新撰姓氏録』「真野臣」では、「佐久命(大矢田宿禰命の子)九世孫和珥部臣鳥、務大肆忍勝等、居住近江国滋賀郡真野村、庚寅年負真野臣姓」とあり、ここでは「等」とあるので二人同時の改姓である。つまり駿河浅間大社の大宮司家の本姓は「和邇部臣」と言うより「真野臣」であろう。そして、彼らの「和邇部臣」や「真野臣」以前の「姓」は不明であり、
    『浅間文書纂』所収「富士大宮司系図」(活字版)の原本も不明である。

    また、「富士大宮司(和邇部臣)系図」と題する系図が静岡県編集『静岡県史』「資料編4 古代」(平成元年三月)に所収されているが、これは先の浅間神社社務所編『浅間文書纂』(活字本)を転載したものであり、内容は同じだが、新たに「富士大宮司(和邇部臣)系図」と題が付けられた。

    つづく

  • >>No. 248494

    (つづき)

    「系図」とは
    諸氏族の系譜には、文章で表した「文書形式」と名前を直線で結んだ「図形式」の二つがあり、後者が所謂「系図」である。「系図」には、上から下へと書かれた「竪系図」(国宝「海部氏系図」等)と、横に書かれた「横系図」(『本朝皇胤紹運録』等)と、二つを合わせた「竪横併用」がある(『尊卑分脈』等)。
    「和邇氏系譜」の基本史料は、『古事記』や『日本書紀』を含む「六国史」と『新撰姓氏録』で、そこには、文書形式で断片的に系譜が書かれている。この基本史料の情報源は、諸氏が自己申告した系譜である。
    そもそも皇家に皇家の記録を掌る史官が設けられるのは「大宝律令」以降であり、それまでは皇家に奉仕した諸氏族の家伝(口伝や文書)が各種記録を伝えてきた。
     *「諸家之所齎帝紀及本辞」(「古事記」序文)
     *「詔十八氏〈大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。膳部。春日。上毛野。大伴。紀伊。平群。羽田。阿倍。佐伯。釆女。穂積。阿曇。〉上進其祖等墓記。」(『日本書紀』持統五年(六九一)八月辛亥《十三》)
     *「凡厥天平勝寶之前(聖武天皇以前)<感神天皇號也。世號法師天皇。>、毎一代使天下諸氏各獻本系。」(「弘仁私記序」)

    つづく

  • >>No. 248493

    「和邇氏系図」の調査報告

    (はじめに) 系譜、系図とは、子種は男に有りと信じられていた時代の男系中心の幻想的親子関係を示すものであり、「出自による身分制社会」の根本史料である。
    「出自による身分制社会」とは、先祖の血筋や功績が子孫の待遇を決める天皇を頂点とする世襲社会のことであり、当時としては安定した社会秩序をもたらす唯一の方法と言える。
    朝廷による各氏族の系譜、系図の編纂事業は、『古事記』『日本書紀』をへて、『新撰姓氏録』で一応の完成を見るが、朝廷権力が衰退し、下克上の戦乱をへて、安定した社会秩序を取り戻した徳川幕府でも『寛永諸家系図傳』『寛政重修家譜』などの事業が行われた。つまり、時の権力者にとっては重要な事業と言える。
    『寛永諸家系図傳』の序に「系図事業」の効能を次のように述べる。
    「諸家その官禄をしるす時は、御恩のあつき事を忘れず、その勲功を載する時は、先祖のつとめを思うべし。しかれば、忠孝の道、無窮の徳とともに、千萬の後までたれか仰ぎ奉らさらんや。」(寛永二十年癸未九月吉日 従五位下太田備中守源資宗)
    また、その「示諭」で、編纂関係者に注意点を幾つか与えているが、その一部を次に抜粋する。
    1) あるひは、百年二百年のはるかにへだたるものをもって、まのあたり父・子・孫の世系とするものあり、或ひは、みだりに系図を作りて、ひそかに其断絶を補うものあり(中略)よろしくこれを評議すべし。
    2) 其氏の出る所をあやまりて、他の先祖を以て我が先祖とする事(中略)
    姓名同じくしてその人は別(中略)
    地ことなりといえども、その種は同じ(中略)
    ともに花といふと言へども、その樹ことなり(中略)
    かくのごときの誤り、あげてかぞふべからず。
    *(株式会社群書類従完成会版(活字本)・昭和六十三年十一月第二刷)
    *一部平仮名を漢字に直しました。
    本朝の「姓」とは天皇との関係性を示すもので、今までに二度、大規模に「姓」が人民に付けられた時期がある。一つは、古代の公地公民制度(戸籍制度)によるものと、もう一つは、國民がすべからく天皇の赤子となった明治政府(大日本帝国)の時である。これらによって「同姓異系統」の「姓」が大量に発生したものと思える。「姓」を研究するものは、以上の事に最も注意を払う必要があろう。

    (つづく)

  • >>No. 248474

    >「くだらない空想では迷路に迷います」

    ここは同感ですな。
    ところで、
    あなたの空想はくだるのか?


    >「百濟の25代武寧王の墓から買地券(金石文)が出ています。」

    出るのは結構な事だが、
    当時の日本は中国暦を使用していませんので、
    単純に対応させられませんよ。


    >「日本書記は干支を2運古くしたことが分かります。」

    ・・・・
    そもそも「日本書紀」の暦日はデマ暦である。
    デマ情報に整合性や法則性を求めても無意味ですよ。

  • >>No. 248470

    >「前方後円墳の円墳部分だけを先に造ったなどという考古学的痕跡はない。」

    ・・・・・
    考古学は、史料や造成工事に疎いだけですよ。
    ご注意を。


    >「応神天皇が考古学的にも文献史的にも390年元年は確定。」

    ・・・・・・?
    「好太王碑」の碑文を読めば、
    330年頃が倭國が朝鮮半島に再進出する時期です。
    つまり、「記紀」で言う「神功皇后の時代」。

    迷ったら史料で確認しなさい。
    積水ハウスの様に、欲に目がくらみ
    情報確認を怠って話しを進めれば、
    大損をしますよ。


    >「調査のご報告なんて意味ありません。」

    ・・・・・
    歴史業界のデマを少しでも減らせば、
    少しは意味があるのでは?

  • >>No. 244960

    >「で、その位置を知りえたのは・・・・」

    ・・・・・
    原文を読みましたか?
    原文の話しの順序は、
    「夏至南萬六千里,冬至南十三萬五千里。」
    これが先にあります。
    これから、
    16000里÷16寸(夏至の影)=1000里/寸
    135000里÷135寸(冬至の影)=1000里/寸
    と言う法が導き出されます。
     *「法曰、周髀長八尺句之損益寸千里」
    (全て机上の空論)

  • >>No. 248456

    >「へ理屈は結構、あなたが円墳が先という例を出せばいい。」

    ・・・・?
    古墳の「造成過程」の記録は、
    「箸墓」ぐらいしか無いと思いますが・・・・
    「造成過程」は、
    古代人の葬送概念や、工事の物理的造成過程から、
    推測するしかありませんよ。
    だ・か・ら、
    「同じ空想でも・・・・」と、言ってるでしょ。

    そもそも、主役の女王の屍を入れずに、
    結界を結んだら(完成させたら)本末転倒でしょう。
    あなたは、
    「前方後円墳」と言う実態を表さない用語に惑わされていますね。
    実態を反映した呼称は「方付円墳」だと思いますよ。
    クレーンの無い時代の高層建造物は、スロープが必需品でしょう。
    ちなみに、
    現在の消防法では31m以上(約10階建)の建築物を「高層」と言うそうです。
    「箸墓」の円墳部分の高さも10階建てマンショと同じぐらいでしょう。
    スロープの勾配は、
    物が滑り落ちる自走角なら1/1程度で、
    車椅子を対象にすれば、1/8程度だと言われます。


    >「時系列が無茶苦茶ですね。崇神は4世紀前半でほぼ決まり。」

    ・・・・・?
    あなたは卜部ですか?

    「日本書紀」の暦日はほぼデマ暦日です。
    「記紀」の記録で「時系列」が安定するのは、
    「仲哀天皇」以降でしょう。
    ちなみに、
    倭國が朝鮮半島に再進出する(神功皇后の時代)のは、
    「好太王碑」の碑文等から西暦330頃でしょう。

    *「和邇氏系図」調査のご報告は、
    この「つづき」で行います。

  • >>No. 248445

    >「中臣氏の祖の梨迹臣(なしとみ)は難升米(なしめ、なとみ)のことか」

    中臣氏の本姓は「卜部」ですね。
    「中臣氏」の姓に改姓するのは欽明天皇の頃と言います。

    *「中臣常磐大連公:右大連始賜中臣連姓。磯城嶋宮御宇天國押開廣庭天皇<欽明>之代。特蒙令誉。恪勤供奉者。」
    (『中臣氏系図』「延喜本系解状」(群書類従本))

  • >>No. 248439

    >「円墳を先に作ったという資料、または考古学の報告書を出せばいい。」

    ・・・・
    だから、「同じ空想でも・・・・」と、言ってるでしょ。
    (何度も同じ事を言わせないでくださいね。)
    私の意見も空想なら、あなたの「あり得ない」云々も所詮空想です。
    あなたの空想に、なぜ現実感が乏しいかと言いますと、
    1)神話に見られる様な古代の葬送概念が反映されていない。
    2)施行に際しての実際的な工事工程が無視されている。
    以上ですね。


    >「【年已長大、無夫壻】【事鬼道、能惑衆 】【有男弟佐治國】【唯有男子一人、給飲食、傳辭出入】」

    ・・・・?
    卑弥呼の条件を整理しますと、
    1)【年已長大、無夫壻】
    2)【事鬼道、能惑衆 】
    3)【卑彌呼以死大作冢、徑百餘歩】
    以上の三点で充分です。
    この三条件にあてはまる皇女を「記紀」から捜せばよろしい。
    つまり
    1)婚姻関係記事が無い皇女。
    2)オカルト的エピソードが記録される皇女。
    3)大王級の墳墓を作られせ、
    直径約150mの円墳部分に埋葬された皇女。
    これに該当するのは一人しかいないでしょう。

    「トヨ」に関してはもっと簡単です。
    「天皇」の証しである「神鏡」を託された記録がある皇女。
    これに該当するのは一人しかいないでしょう。
    (とよすきいりひめ・・・)


    >「神功皇后なんて4世紀後半の人は止めてくださいよ。」

    当然です。人妻は魅力があっても度外視ですよ。

    余談ですが、
    「鴨王」は「鴨玉」、「鴨主」(校訂本)とも書かれます。

  • >>No. 248432

    >「前方後円墳は前方部分と後円部分が同時に造られている。
    したがって箸墓を径百余歩などという表記はあり得ない。」

    ・・・・
    現実感の無い空想を、
    見てきたかのように、発展させれば、
    妄想の類になりますよ。


    >「記紀にも孝昭天皇の子・ 天足彦国押人命が和邇氏の祖と書かれている。」

    ・・・・・?
    「和邇氏の祖」ではなく、「和邇氏”等”始祖」ですよ。
    史料は注意深く見ないといけません。

    この皇子から数十の氏に別れて行きますが、
    「和邇氏」が誕生する前に、
    別れた氏は「和邇氏」ではありませんよ。
    そこは気を付けないといけません。
    また、
    天皇でも無かった王族に、「天皇号」が追号されたおかげで、
    大きな「ブランド力」を得たのもこれら氏達でしょう。
    そこには、大人の都合がありますね。

    余談ですが、
    卑弥呼の候補を「記紀」から推定することは、簡単です。
    「魏志倭人伝」の記述に合う者を「記紀」から捜せば良いだけです。
    ただ、情報不足で、確定まではいかないでしょう。

  • >>No. 248424

    >「考古学的にも文献史的にもそんなもの(円墳が先という事実)はない。
    ないことを夢想しても仕方ない。」

    ・・・・?
    私は、「同じ空想でも・・・」と言っているでしょう。
    考古学の空想や、あなたの空想には、
    個人的に現実感が全く感じられないと言うことです。


    だんだん資料が集まってきましたが、
    調べるほどに、
    「和邇」については、大人の都合が顔をだしてくる。
    『静岡県史』所収の「富士大宮司(和邇部臣)系図」を拝見しましたが、
    あれは「和邇部臣系図」とは言えませんね。
    当該「系図」を見る限り、
    富士大宮司の本姓は「真野臣氏」でしょう。
    一人だけ(鳥)が「和邇部臣」を名のった様ですが、
    その代で、「真野臣氏」に改姓します。

    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に載る
    『和邇氏系図』は、これでは無いようです。
    そこに、「一部修正」と言っていますが、
    どこをどう修正したのか言わない。
    困ったもんですね。

  • >>No. 248416

    >「円墳部分を先に造ったなどという 「史料」はありません。
    また考古学的にもありません。」

    ・・・・・?
    人の死は予見できません。
    だから、
    先に「埋葬部分(円墳)」を作っておかねば、
    いざ亡くなった時に、すぐに埋葬できないでしょ。
    また、墳頂部に埋葬するなら、
    葬列がそこまで通れる黄泉への道(階段状では無く、平坂)も、
    円墳と同時に配慮されると思いますよ。
    あなたは・・・・
    「女王の屍」を物か何かと同じに考えていませんか?


    >「「富士大宮司(和邇部臣)系図」も和邇部氏が孝昭天皇にまで行きついてるはず。その孝昭天皇が魏志倭人伝のトヨやヒミコとなんなりかの繋がりがあるか否か、
    それが大きなポイントですから、それ以外の話は別段関係がない。」

    ・・・・?
    「トヨ」や「ヒミコ」等の「女王」を皇家の記録から消したのは、
    神武天皇の後から崇神天皇の前までの「欠史八代」の部分ですよ。
    それを頭にいれて置く必要があるでしょう。
    この八代の天皇は、系譜だけがあって、
    天皇としての事跡が全くありません。
    つまり、
    この八代の天皇は、「女王」を史実から消すために、
    「天皇(王)」では無かった系譜に、
    「天皇(王)号」を後から追号したに過ぎないと思いますよ。
    また、
    「古事記」に崇神天皇を「所知初國御眞木天皇」、
    「日本書紀」に「御肇国天皇」と両書で謂われる所以もこのあたりにあるか・・・

    余談ですが、
    和邇部臣氏と東大寺山古墳を結びつけた情報源は、
    岸俊男さんらしいですね。
    彼の博士論文と言う『日本古代政治史研究』(塙書房 1966)も
    古書店に注文しましたので、確認してみます。

  • >>No. 248406

    >「どちらにしても円墳部分が先に造営されたなどとは考古学的にもありません。」

    ・・・・・?
    所謂考古学者は、「史料」や「世間(工事関係)」に疎いのでしょう。
    それを基準にしてはいけませんよ。


    >「東大寺山古墳は和邇氏の墓という事でいいですね。」

    ・・・・?
    そこは「和邇地域」ですが、「和邇氏(皇別)の墓」とは言えませんね。
    「和邇氏(皇別)」が誕生するのは、
    仁徳天皇から雄略天皇の間ですから、
    年代的にも、少し合わないと思いますよ。

    余談ですが、
    クセガクさんのホームページで気になる記述がありますので、
    それをコメントします。
    ホームページでは、
    「系譜に関心を持った古代史研究者の田中卓博士が、原本を求めて浅間大社を訪れ、この系図を探した。だが似た系図は在ったが、これほど詳しい系図ではなかったとする。」
    としますが、

    田中卓博士の言葉では、
    「私は原本を求めて、先年、浅間大社を訪れ、大社においても手を尽くして探して下されたが、遂に見当らなかった。」
    (『田中卓著作集5(P168)』(国書刊行会)所収『不破の関をめぐる古代氏族の動向(1958年発行)』 )
    だいぶニュアンスが異なりますが、
    これはどうしたことなのか?

    そして見当たらなかった当該系図が、
    『静岡県史』(1989年発行)に「富士大宮司(和邇部臣)系図」
    として所収されている。
    これはどうしたことなのか?

  • >>No. 248393

    >「俺は、スカタン言ってる、唐変木邪老と判断している。」

    ・・・・・
    どうぞ、ご自由に。

    いずれにしろ、あなたとの議論は、面白かったが、
    俗に言う「馬の耳に念仏」・・・・かな?
    これ以上は時間の無駄でしょう。

  • >>No. 248392

    >「地図を見れば一目瞭然。」

    ・・・・・?
    意味不明。

  • >>No. 248391

    >「そして亡くなってから被葬者一人を運ぶことなんか簡単。」

    ・・・・?
    一体の屍を運ぶことも埋葬することも簡単だが、
    「王の屍」となると別でしょう。
    大きな墳墓を作り、墳頂まで、葬列が通れる”坂道”を
    用意する必要があると思いますよ。
    それにしても、
    あなたの空想には、現実感が全くありませんね。
    *参考:「及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。」(隋書・倭國傳)


    >「私は曲学さんのHPです。」

    これは、「Kusegaku」さん、ですね。
    それならわかりました。


    古代の系図で注意するところは、
    現代の常識と異なる点です。
    1)世代数の数え方。
    「0」の概念が無い古代の自然数は全て「1」から始まります。
    現在の親族関係の「親等」の基準は「0」(本人)ですが、
    古代では「1」。
    二世は「子」で、「三世孫」は孫。
    (現代の1親等は子、2親等は孫)
    年齢も、その年に生まれた子は「1歳」で、
    年が変わる正月元旦で2歳。
    (歳13は今で言えば12歳)

    2)男が子種を持ち、血筋は男系のみで、
    母親とは親子関係が出来ても血のつながりは出来ない。
    子供は父親から生まれ、母親のお腹の中で養われる。
    *「父兮生我、母兮鞠我」(詩経・蓼莪之詩)
     <父は我を生み、母は我を養う>
    *「紇(父親)、與顔氏女野合而生孔子」(史記・孔子世家)
     *語注【野合】:「女二七(の)十四陰道通、七七(の)四十九陰道絶。婚姻過此者、皆為野合。」(史記・正義)。
    つまり、十四歳の未満の婚姻は皆「野合」という。
    *「此天皇・・・生御子」(古事記)
    俗に「母なる大地」と言いますが、
    これは失礼な言い方で、母親を畑としか見ていない。
    男尊女卑の様であるが、
    子のつながりは母親の自己申告であり、
    血筋幻想の根本は母親が握っている。

    3)同名異系統に注意する。
    「和邇臣」と「和邇君」は、
    名が同じだが、皇別と神別の違いがあって別系統である。

  • >「「徑」は、もとは「經」に作るとありますので、
    算術の「徑」では無く、「經」で考えないといけない。
     *「徑三百、徑舊作經」(左傳隠元年註)
    ↑ここから始まったんだヨ。」

    これは、
    「徑三百雉」の論議であった事を忘れないように。
    「雉」とは「壁(版築壁)」に使われる単位ですので、
    「徑」は、円の「直径」の「径」でないことは確かでしょう。
    なぜなら、
    「壁」を円に作っても壁の用はなしません。
    また、
    「壁」を横にしても「壁」の用はなしません。
    「壁」は”立て”て、はじめて用をなすものです。


    >「で、いいのかどうかを聞いているんだ。」

    ・・・・
    「いいのかどうか」は、
    あなたが判断することです。
    そもそも、その判断能力が、あなたにないないら、
    何を言っても無駄でしょう。

  • >>No. 248369

    >「とあるのと整合性がある。」

    ・・・・・?
    どこに。何と。
    「ある」と言うだけなら、
    子供でも言えますが・・・・・

  • >>No. 248368

    >「円墳部分が先などということはありません、妄想もいい加減にしてください。」

    ・・・・?
    棺とその葬列はどこを通るのかや、
    工事の工程を考えないと、
    同じ空想でも現実感がなくなりますよ。


    >「和邇氏系図で検索すればいくらでも出てきます。」

    ・・・・・
    情報源(出典)を共有すると言うことは、
    議論で重要な事ですので、
    再度質問します。
    いくらでも出てくる中で、
    あなたは、どれを見たのですか。


    >「初出だからそれ以前に和邇氏の前身がいなかったなんてありえません。」

    ・・・・?
    当たり前です。
    先祖がいなければ、子孫はいませんよ。
    だから、「和邇氏の前身」がいるのは当然です。
    ですから、
    その前身は「和邇」の「姓」も「所領」ももらっていないと言うことです。
    例えば、
    「和珥臣”祖”日觸使主」(応神天皇紀二年)は、
    「山代之小幡邑住」(「日本思想大系・古事記注」所引「和邇系図」)
    とあるようです。


    >「和邇氏系図では、和邇日子押人命以外ほとんどが記紀に登場する人物ですから。」

    それは、ものの本で承知しています。
    情報源を確認する必要があるのです。

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