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投稿コメント一覧 (1509コメント)

  • 村田和上の道場へ鎌倉円覚寺の管主朝比奈宗源師が訪れられたエピソードを思い出す。

    「朝比奈禅師が来られた時も、御一緒に休息せられ、安部さんと私(桜井師)とが同席の光栄に
    浴した。杉村家の客室にも座布団は敷かれなかった。座敷で座具を用いないということは、日本
    人の生活様式としては異例である。禅堂では藁で造った円座を用いている。御法話室でも休息室
    でも座具のないことを朝比奈さんは不審に思われたのである。突如

    「此処は座布団は敷かないのですか」と問われた。
    「敷きません」と和上が答えられると、
    「病人が来たらどうします」と追いかける・
    「死にますナムナムナム」

    この死にますの返事が間髪を容れずに出るところに禅機満々であった。これは禅宗の問答と
    しても満点て゜あろう。朝比奈さんは、いたく感銘せられ、鎌倉へ帰られてからも大評判で
    あったと聞いた。」
                          桜井鎔け俊師「村田和上の聖蹟と御法語」

  • ◆「念仏していては、食うてゆけぬ、といわれるのか。そうかもしれぬが、食わずにいたらどう

     です」

     「食わずにいると死にます」

     「死んだらどうです。日本の兵隊は、戦争に出るのに、死ぬことを恐れているような者は

     一人もない。念仏のために死ぬ人の一人くらいは、あってもよいはずじゃ。うらやましい

     名誉のことじゃが・・・ナム・・・」

                              村田和上「伊勢物語」

  • >>No. 3396

    あなたは影なきひかりに出会ったと言う

    わたしは影を見てひかりに気づいたという

    ひかりは影を知らない

    智慧のひかりは

    影を影と知る

    影のふかいほどひかりも強い

    太陽も月も越えた最尊の智慧のひかり

    それと共にあったことをわたしは知らなかった

    無明にあったが知った瞬間から

    ひかりと共にある

    もはや二度と孤独になることは

    出来ないのです

    なむあみだぶつ

  • ◆磯では海女も蓑きる時雨かな

     という句がある。どうせぬれる身体でも、陸にいるうちは、陸の作法がある。なやがてや浄土へ

     まいる身も、この世にいる間だけは世間のことに注意して。ナム・・・

                                    村田和上「伊勢法語」

  • >>No. 3392

    >念仏道場で修正できましたか?

    念仏と信心二つない
    と分からせていただきました。
    なむあみだぶつ

  • ◆一本橋の御教化がありがたい。一本橋の向こうから、兵隊さんが切れ目なしにわたって来ると、

     他の物は、渡りとうても控えにゃならぬ。口は誰でも一つよりないのじゃから、その口から、

     お阿弥陀さまの兵隊が、ナマンダ、ナマンダと切れ目がないと、世間儀(普通一般の世渡り)

     の話は、首を出しても、ひっこんでしまう。広島の人が、一ヶ月ばかりもおられたでしょうが、

     この頃国へ帰って、「いろいろありがたかったが、みな忘れてしもうたが、ただ一本橋のこと、

     これだけは忘れずに実行しております」と言うてよこされた。これでよろしいなァ・・・

                                  村田和上「伊勢法語」

  • >>No. 3389

    >お念仏の邪魔ばかりしているのが凡夫ではないですかな?

    そうですなあ。
    それは覚えがあります。
    凡夫には自尊心とか人目を気にする
    という癖があって、
    称えたいとおもつても、
    こんな所で念仏となえたら、
    ひとは変な目でみるのじやないか?
    とか考えて結局心の中で称えます。

    念仏道場とは
    そんな「癖」を修正してくれる場所かもしれない。
    人中であろうと独であろうと隔てなく、
    尽十方無碍光如来と言うむ御名のごとくに、
    どのような癖があろうといささかも障りにならない如来に帰命して、
    なむあみだぶつ なむあみだぶつ

  • ◆念仏をはげむという人があるが、はげむというような大したことは、凡夫のできることでは

     ない。身を切りきざんで称えるものを、はげむというので、われわれには、せめて、称えら

     れるお念仏の邪魔をせぬようにするだけ、ナム・・・

                                 村田和上「伊勢法語」

  • >>No. 3386

    本物の「から念仏」じゃないのですか !?

    念仏がまさに「聞こえている」という
    智慧の光明が入って居ます。
    それがなければ
    「から念仏」すらもないといえるのでは?
    聞くというは信心のおみのり
    と聖人もおつしゃる。

    だからお念仏の中には
    かならず「仏智」というお金が
    入っているのではないてせしようか?
    なむあみだぶつ

  • 念仏と信心の関係を
    七理和上は財布とお金にたとえて語られていた。
    財布は目にみえる念仏で、
    丘ねは目に見えない信心です。

    「ちょっと財布をとってくれ」と亭主が云った時、
    その言葉を聞いた女房が
    「あいよ」と亭主の財布を持つてくる。
    その時財布の中にはお金が当然はいっている。
    財布の中にあるお金に用事があるので、
    「財布をくれ」といわれて
    財布だけを持ってきたら、
    もうこれはどうしょうもない天然である。

    阿弥陀さまが廻向してくださつたお念仏の財布には、
    阿弥陀さまのお心の願心のお金が、
    まちがいなく入って居るが知れたことを
    信心をいただいたという。

    「名号をもって至心(阿弥陀さまの真実の御心)の體とす」(信巻)
    とある。
    しかれば名号も信心も共にいただきもので、
    わたしのすることはなーんにもない。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 3383

    そーなんですよね。

    半端なーーい暑さ

    でもそれもまた限り在るとおもえば

    暑さのなかにも

    いとしさもまた萌してくる

    このゆらめく熱光の光景を

    少しだけ遠くの眺めて・・・

    なむあみだぶつ

  • 2018/07/16 11:31

    >>No. 3381

    アツイ!!! アツイ!!! アツイ 1!1

    なむあみだぶつ

  • 中年時代に御信心をいただいて二・三年
    喜び心も遠のいてはいってもそこは信心。
    なんとなく誇らしい気分が時折はおこっていた。
    京都の東本願寺前の仏教専門書店で何気なく買い求めた
    桜井鎔俊著『わが師村田和上』のなかの法話の一節、

    「平野や川崎には、御信心がたくさん落ちているそうな。たよりにしていた信心が、ここへへ
     きたらいらぬようになつたので、みな捨ててしもうたからじゃそうな」

    という一説に
    「信心がいらない」なにを無茶なことをいつているのか !」と反感すらおぼえた。
    けれど語り口の調子がいかにも自信にみちていて軽やかで、
    説得力がありそうだが、
    「なぜか」というところではよく解らない。
    自分でぐずぐず考えていても一向にらちがあかぬ。
    それで思い切って桜井和上の念仏道場に出かけることした。
    この御説教が念仏に向かわしめた
    導きの糸である。

    今にして思えば
    「落ちているのは」信心ではなく、
    必要以上な信心の強調であり、
    信心が無くなるわけではなく、
    念仏に摂取されただけではないかと、
    思ってみたりするのである。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 3375

    わたしには自分の境地なんぞには
    興味はありませんが、
    サンネさんは御自分の境地に
    絶大な興味を持ち
    また人に知らせたいという欲望がおありのようですなぁ。

    それを真宗では手許をてらす
    といわれて他力から目をそらすことになる。
    また貴方のような高雅な境地があるわけでもなく、
    一瞬さきはどう変わるかわからぬ
    地獄ゆきの生活者
    だからこそ他力にすがる理由があるのです。

    貴方には縋る必要はまつたくない、
    浄土からのむ還相者ですからね ! ! !
    でも、
    還相者であったつても
    一瞬先はなにを仕出かすかわからない、
    なにが襲ってくるかわからないという
    不確定の世界にいきているかぎり、
    地獄行の業にぶちあらるかもしれないし、
    この娑婆世界にすむかぎり、
    地獄行は覚悟しなければならないだろうね 。
    なむあみだぶつ

  • ◆平野や川崎(念仏道場のある地名)にはね御信心がたくさんおちているそうなるたよりにしていた

     信心が、ここへ来たらいらぬようになつたので、みな捨ててしもうたからじゃそうな。御慈悲

     だけで参らせていただく外になにも必要のないように御成就が、ナムアミダブツ。我が方に

     足らぬものは足してくだされ、いらぬものは取ってくださる・・・

                                    村田和上「伊勢法語」

  • >>No. 3371

    >その光景を貴兄の言葉で表現してほしいといつているんですよ ! ! ! !

    すこし勘違いしておられるようだ!
    「浄土」を「場所」と限定してしまうと、
    光景ということも派生してしまう。
    サンネさんはその光景わ夢でみられたそうですが、
    それは主観的にそうだと信じ込んでいるだけで、
    それが浄土だということを客観的に証明することは出来ない。

    わたしは名号が形のない阿弥陀さまの本体で、
    また浄土だいただいたおります。
    だからあえて「光景」といわれれば
    なむあみだぶつ なむあみだぶつ

  • >>No. 3371

    >当方は念仏にて一如涅槃界、真実報土に生まれた者ではありませぬ !

    >ただにょらいより賜った信心によってです ! !


    かたちのない如来の御心が衆生にはわかりにくかろうと、
    五劫のあいだ考えに考えられて成就されたのが御名号。
    その御名号が我が耳に聞こえたのが念仏で、
    その御念仏にいささかも疑いありません
    というのが信心。
    受け取る場所がちがうだけで、
    「無量のひかり」には
    いささかも違いはないのです。
    聞こえていることに、
    いささかも疑いの這い入る隙間もないという、
    どちらもいただきたる
    念仏と信心で「同時」です。
    それを分別してわけているまでのこと、

    という意見もまた可能です。
    なむあみだぶつ

  • ◆「御信心を得ると、我が身に覚えのあるものですか、覚えのないものでしようか?」とのおた

     ずねに答えて、

    「さァ、覚えのある人もあろうし、ない人もありましょう。覚えのあるのがほんとうか、ないのが

     ほんとうか、と言われると、覚えのあるなしは、御本願にかかわりのないことで、『坊はもう

     ねたか』『もうもうねた』と返事したら、ねておらぬ証拠。蓮如さまは、得たと思うは得ぬの

     なり、得ぬとおもうも得ぬのなり。ハハハハハ。往生ほどの一大事を、こちらで握ってゆこう

     とせずに、握られてゆくがお他力・・・」

                                村田和上「伊勢法語」

  • >>No. 3366

    >念仏三昧の世界を今のゲンショウさん自身の言葉で表現してみてくだされ !

    サンネさん。
    こんなに長く話してしるのは貴方だけですぞ。
    その貴方に御念仏についてなにも話ていないですか?
    わたしはかなり話たつもりですが、
    人間興味のないものは記憶に残らないといいまいが、
    御念仏には興味はないのでしようなぁ。

    念仏三昧を知りたかつたら
    ご自分で専心専念に称えるみるとです。
    そうすると他人から聞かずとも
    おのずから自分のものになります。
    称えるも称えないのも
    貴方のお計らい次第。
    なむあみだぶつ

  •  そまことを充分に研究もし、承知の上で「弥陀成仏のこのかたは、いまに十劫をむへたまえり」

     と、方便法身(すがたあり形ある)のフ仏土を、そのまま「法身の光輪きわもなく」と、法性法身

     (いろもなく、形もない仏)の光として「世の盲冥をてらすなり」と、いうので、曇鸞教学の最高

     峰を作者親鸞は、この一首に示そうとする。こんなにもむつかしい歌(和讃)とも知らずに、朝夕

     のオツトメに詠じ、涼しい顔わしてね念仏している真宗門徒の無邪気さにあきれかえると共に、

     単なる『知識』の世界を超越した宗教の境地は『わからぬままにしてわかる』(知的理解でなく

     体験的な理解のしかた)もので、念仏三昧の中で自然にわかってくるという妙法がある。そこが

     専修念仏の不思議さであることを、こんな所から味わうことができる。

                                     (天平閣道人)

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