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投稿コメント一覧 (1170コメント)

  • 2018/01/15 12:30

    >>No. 2824

    >親鸞聖人は
    >11, 12, 13, 17、18、19、20、22、33、の九願に分けてその内実を開示しています。
    >今一度原点から親鸞純粋他力の浄土門を学びなおされたほうがよろし。


    そうですか。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2824

    >全然わかつてないようです。
    >17願が我々と関係ないものなら
    >如来が成就した念仏という大行を
    >次の王本願で受け取ることなど不可能になってしまう。

    17願を「弥陀如来の行」なぞとのたまうところは
    願門も読んでおられぬようですなあ。

    十七諸仏称揚の願(諸仏称名の願)
    たとひ、われ仏をえたらんに、十法世界の無量諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を
    称せずば、正覚をとらじ。

    「十方世界の諸仏」と呼びかけられている。
    どこに「衆生」と言う文字がはいっとりますか?

    その次にくる「王法願」がいかに尊い願であるかを、
    衆生にわからせるための方便として、
    17願が添えられたとみるのが
    師の見方であつたというまでで、
    参考になればよし、
    ならなくてもまたよし、
    ということでしよう。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2818

    >南無阿弥陀仏を「弥陀如来の行」として十七願とし、「選択本願の行」といただき、
    >十八願を「選択本願」と分けた理由をどうみますか?

    第十七願は「弥陀如来の行」ではない。
    「諸仏称揚の願」(諸仏称名の願)です。
    もつと正確に質問してくだされ ! !

    だからこれは諸仏がたが、
    わたしをほめたたえて名をとなえないようなら
    ほとけにならない
    と誓われた願。
    われわれ衆生は関係ない。

    そのすばらしい称名を、
    われわれ衆生に回向してくださったのが、
    第十八の「念仏往生願」
    ということを師からお聞きしたことがある。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2818

    >ゲンショウさんはさんねの「勝縁勝境」をたかが何十年も前も「夢」で片付けしまう。
    >どうしてそんなことができるんだろうか?

    サンネさんわたしは何時までも
    おんなじところにはいませんよ !

    貴方は夢の中で「ひかり」を観た。
    わたしはかたちのないひかりを
    一瞬気付いたこした。
    その「違い」です。
    それがお互いの信心だとしている。

    わたしは貴方の「夢のひかり」を知ることはできないし、
    貴方はわたしの「かたちのないひかり」を
    知ることはできない。
    かたちあるものだと必ず違いがある。
    個体の性質で不可避的につきまとう。
    世の中二つとして同じものはない。

    けれどそれだけではないので、
    そのばらばらなものを結びつけているものも、
    また同時にあると思うのです。

    それが
    「かたちのないひかり」
    かたちがないので、
    「これ」と指すこともできない。
    ここからは私のものと区分することも
    出来ない。
    かたちのない「其れ」を考えることも、
    教えることもできない。
    なむあみだぶつ
    と称えるばかり・・・

  • >>No. 2816

    >だだ念仏
    >と答えているのとおなじです。
    >親鸞聖人はただこの信行を明かさんがために何万御もついやし
    >生起本末
    >お説かれたのです。

    そうですよ !
    でも真実報土にはかたちがない
    かたちのないものを説き様がない。
    「だから不可称不可説不可思議のゆへに」 
    といわれる。

    説いたらわかるというような、
    次元のことがらではないということを、
    了承のうえに、
    それゆえに百万語のご苦労わなされた、
    とわたしは解釈している。

    おそらく
    否定的対立のまま、
    同一平等というように
    矛盾的契機をふくまない論理は、
    他力浄土教にらはなじまないのでは
    なかろうか?
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2812

    >先人の顕されたものを糧にして信心をいただき深めさせていただく。

    それはそうです。
    親鸞その他の祖師がたや、
    師の教えによって導かれたというのも事実です。
    そしてお念仏を勧められ
    称えることによって、
    念仏が疑いえない真実であると知らされた。
    信じることは念仏すること。
    教・行・信・証
    ではなくて上田氏も言っておられた、
    教・行信・証という・構造である。
    おそらく貴方は
    教・行・信・証派だと思うので、
    いささかの違いがあります。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2811

    >みな一緒にする過ちは親鸞浄土教においては「致命的」にみえます。

    >法然・証空・一遍の法統ですね。

    何度言っても「みな一緒」にしてしまう貴方の思考は
    「致命的」に見える。
    同じでありながら異なり
    異なりながら同じ
    となんども言っているのに、
    よほど「みな一緒」に纏めたいらしい。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2811

    >信心をいただけてこそ純粋他力のお念仏となります ! ! !

    その「信心」こそくせものである。
    だれしも自分の得た信心は正しいと信じている。
    それが自力の心。
    そして誰にもそれが真実信心であることを
    証明することもまた出来ない。
    その貴方の信心とやらを
    語ってください。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2805

    >「一念多念文意」も「教行信証」もじつくり読み込んで信心の糧にして
    >くだされ。

    しかし「信心の糧」とはになんじゃいな?
    「信心」を自分の拾得物みなしとるんかい?
    「信」も「行」もいただきものや。
    糧もなにもない。
    即いただく。
    南無阿弥陀仏と

    「これみなな、みだの御ちかいと申ことをこころうべし。行と信とは
    御とかいと申すなり」

    「信がさきだ」の「順番がある」たの「糧にせよ」だのと
    御ちかいに注文をつけるものは
    一体何様ぞ ! !

    >信心を糧にしてくだされ。

    は一応きいておきますが・・・
    あんたもしつかり読んでくだされ ! !
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2805

    >不一不異の「信の一念」「行の一念」が同時同処でおこる瞬間の体験
    >ありますか?

    念仏もうしている時が
    阿弥陀さまの声を聞いている時。

    きこえている「声」を疑うことは
    不可能です。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2802

    >自分というものが入りようがない信心ですから「真実信心・純粋他力」と
    >いいます。

    自分の入らないない信心だって?
    そんな信心は床の間にでも飾っておけ ! !
    わが身に名号として入って来て、
    わが煩悩執着を如実にしらせてくださる智慧のひかり。
    なむあみだぶつが
    疑いのない真実だと聞こえたら
    それを信心というと言っておられる。
    まあ、おそらくは読んではいないとは
    思いますが、
    書いてみました。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2797

    >「本願を信じるひとのこころのうち」

    >であり

    >「念仏のうちに」とはいわれない !


    「聞其名号」というのは、本願の名号を聞くとおおせになっているの
    ある。聞くというのは如来の本願を聞いて疑うこころがないのを「聞」
    というのである。また聞くというのは「信心」をお示しになる言葉で
    ある。「信心」とは如来の本願を聞いて疑う心がないことである。
                           (一念多念証文)

    どこに「本願を信じるひとの心のうち」なんて言われない。
    だから
    本願を聞くとは名号を聞くことで、
    名号を「聞く」ということが「信心」を示す言葉だと言われる。
    信心は「名号」を確かに聞いたかどうか?
    ということにかかっている。
    信心が即名号であり、
    どちらが早いということもない。
    どちらが早くとも差し支えなし、
    ということですかな・・・
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2789

    >これら現在代表する親鸞浄土教の教理を代表する人達が

    >私自身が会得させていただけている「正定聚不退転の世界」を

    >どれだけ正しく教理・思想体系として開示できているかを検証する

    >作業です。


    気宇壮大な作業ですなあ・・・。
    貴方が会得された「正定聚不退転」でもって、
    現代宗教学者正誤をしらべるということなんですなぁ。
    それは貴方が「正解」という前提でもってなされる。
    けれどだれも自分が間違っているとは思っていない。
    まあそれが「ワレヨシ」とする
    自力のこころというやつで、
    念仏という真実が、
    正念がわたしの胸に入って下さるから、
    わたしの「自力のこころ」がしらされる。

    まあ、よほど自身があるようですので、
    大いに検証なさつてください。
    見させていただきます。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2789

    >憶念相続の自信教人信の実践ですぞ !

    >わかりますかな?

    わかりまーーーーーーーせん ! ! !
    貴方の「信」に絶大な自信をおもちのようだが・・・
    それが真実の信であるかどうか
    誰も知らないし、
    証明も出来ない。
    疑いがまじっているとい可能性も又ある。

    お念仏は諸仏がたに讃嘆された、
    阿弥陀仏の疑いのまじらない真実の一心である。
    だからわたしはお念仏を信じます。
    なむあみだふつ

  • >>No. 2791

    桜井和上も
    「知らず知らずと言うのが意味深い」と言われている。

    迷いといあうのは吾々の心が、我と他、美と醜、善と悪色々の分別の心が
    色々の苦悩を呼び起こすから迷いというのである。念仏というものは分別
    以前の世界にねざしているもの、分別心を離れることの出来ない吾々が、
    念仏して知らず知らず分別以前の仏様の境地を味わゝせて頂けるようで
    あります。そうした境地を味い度いとおもつて念仏することは、矢張り
    一つの分別でありますから、知らず知らずというのが意味深いのであり
    ます。           桜井 鎔俊著『歎異抄但念録』より

  • >>No. 2790

    親鸞聖人も
    「功徳」というのは名号のことである。「大宝海」とはあらゆる功徳が
    欠けることなく満ちていることを、海にたとえておられるのである。
    そしてこの功徳を、本願を信じるひとのこころのうちに、速やかにはや
    く、欠けることなく満ちわたらせることを知らせようというのである。
    そのようなわけで金剛の信心を得た人は、しらなくても、求めなくても、
    すぐれた功徳の宝がその身に満ちみちているので、そのことを大宝海と
    たとえらておられるのである。
                          「一念多念文意」

  • 2018/01/10 17:08

    >>No. 2788

    >ゲンショウさんは

    >この二つの往生をどう会得体験したのかを聞いとるんですよ。

    >わかりなすか?

    わかりません ! !
    二つの往生はないと上田氏は言ってられる。
    一つの「往生」という言葉は、
    「即得往生」住不退転から「滅度」にまで
    広がっていると言っておられるようだ。

    そしてわたしには会得も体験もない。
    南無阿弥陀仏を聞いている時が、
    その時かもしれないが、
    よくわからない。

    なむあみだぶつ

  • >>No. 2784

    >「即得往生」と「臨終往生」の二つを安易に一つにすること、拘わる必要の

    >ない事と一笑してしまうのは増上慢極まる事ではないですか?

    貴方にはお念仏の重要性がよくお分かりではないらしい。

    「念仏成仏これ真宗」(行巻)

    「ねてもさめてもへだてなく、南無阿弥陀仏をとなうべし」
                     (正像末和讃)

    論文・論釈は薬でいえば説明書。
    説明書に納得がいったら
    安心して薬を飲めばいいのでないの?
    なむあみだぶつ・・・と。

    あつちの説明書
    こっちの説明書と
    死ぬまで比較検討してるのですかな?
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2784

    >宗教・宗派の有り様は「差別相」つまり娑婆社会での事です。

    >「平等」を盾にして「皆一緒」に、してしまったらテルくん並みの「悪しき
    悟りむになりますね。

    おいおい
    論点をすり替えてもらつては困るなあー。
    宗教・宗派という問題ではないでしょう。
    「如来と衆生」の関係について
    語っているんでしようが ! !

    >「平等」を盾にして

    と言うが、
    「平等」は如来の在り様で、
    衆生があれこれと操作出来るものではない。
    頂くばかりなんですぞ ! ! !
    とせこにも偏ることのない「平等」であるからこそ、
    われわれは「差別相」のすがたを
    正確に見せて頂けるのです。
    だから二つは「盾」にできない
    切っても切れない関係がなりたつている。

    たのにテルゼさんにからめて、
    「悪しき」悟りになりますねとはどういうことですか?
    テルゼ怨念のメガネで
    他人の言葉を曲解してるとしかおもえないのだが・・・。

    願わくば如来の「平等性」で読んでほしい
    ものである。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2779

    真如という見地からすれば「衆生と仏」という差別はない。一切のものが
    真でないものはない。一切がありのまま(如)に知られたとき、それを知る
    智も、その智にょって知られる万法(この中に自己も含まれる)も、真である。
    衆生と仏との間差別がないということは、因と果という差別がないことで
    ある。真如という点から云えば因(正定聚=信心)と果(涅槃・証)という差別
    はない。しかしそういう真如の見地は行によつて到達せられた(清浄に到
    達)ものであることも事実である。即ち覚したものと覚していないものとが
    あることも事実である。         上田 善文『信の構造』p107

    わたしにはこの
    差別ありながら差別はなく
    差別ないまま差別がある
    という言い方で胸に落ちていくのです。
    なむあみだぶつ

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