ここから本文です

投稿コメント一覧 (950コメント)

  • >>No. 1892

    >二人の議論見守らせていただきましよう !

    >おかしな所があれば率直に言わせてもらいますので、

    >しばらくはスタンばってましよう !


    なんか怖いね ! ! !
    ものかげから抜き身をもつてつけねらわれているようで・・・
    お手柔らかにたのんます。
    ナマンダブ ナマンダブ ナマンダブ

  • >>No. 1895

    世間の人たちは、念仏というものは人間の口で称える仏名だとのみ思いこんでしまっている。

    仏名は仏体であり、働きであり全宇宙にみちみち、この世の支えとなり、人間の支えとなり常に

    喚びかけ、働きかけ、信ずるものも信じないものも、一切を包んで離れもせず離しもしない。

    されば生きとし生くるもの、信不信に関わらず如来の外に漏れでることはできないもの、それ、

    そのものを念仏とみられたのが和上である。

    その念仏と一体の和上であり、そこに真の生活というものの御手本があった。


    というものである。なにかのご参考に・・・なむあみだぶつ

  • >>No. 1894

    ある禅僧が「オレは念仏なんぞには用事はない。村田という人物にほれたんだ」と、言った

    という話を聞いたことがある。とんでもないことだ。念仏を離れて村田和上があるのか。

    村田和上を動かし、偉大ならしめたアルモノそれが念仏であり、それに帰一することを勧め、

    その動かすアルモノと一体不離の生活に、生涯悠々自適せられた和上の前にこそ、幾十万の

    人たちがこうべを垂れて合掌したのではなかったか。           つづく

  • 2017/09/23 23:29

    >>No. 1891

    テルゼさん今晩は

    >ゲンショウさん、お返事したいのは山々なんですけれども
    >今、癌問題に忙しくて、じつくりお話ししている時間がありません。
    >
    >また、一段落つきましたら、お返事差し上げたいと思っています。

    そうですか。
    了解しました。又改めてお話ししましょう!

    >それにしても村田和上って、
    >相当オーラの出ていたお方だったのだろうと想像してしまいます。^^

    それについて桜井和上はコラムで
    つぎのように語っておられますが、
    ご紹介してみます。次につづく

  • >>No. 1889

    サンネさん、おひさです。

    >テルくん出てくるの待ってたんじゃが、

    >どうやらさんね攻撃の山車に真宗論議しにきてたようじゃね。


    誰の人身攻撃はというものはなくて、
    いたく桜井和上の生きざまに関心されていたようです。
    わたしも誰かれの噂話や個人攻撃は好きではないので
    やりません !

    まあ、お互い平等な立場から、
    率直な意見交換の場にと
    思ってはいるのですが実際は、
    わたしの強引な意見のおしつけに
    なってしまうようで反省はしているのですが・・・

    また懲りずに顔をみせていただければ
    幸いです。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1887



    「ところで、阿弥陀仏は法蔵菩薩であった因位のときに深重の誓願をおこされ、これを成就して、

    光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られるのである。

    わたしたちはただ信じるばかりで、長い生涯念仏を相続するものから、短命にして十声・一声の

    念仏しかできないものに至るまですべて仏の願力によってたやすく往生することができる。

                                    (行文類)

  • >>No. 1886

    コマーシヤルいわく。

    「知りたいことがなんでも知れる」


    「なんでも知れる」ですつて ! !

    それは

    ほなとうに「知りたい」ことを「知らない」ものことば・

    ほんとうに「知りたいこと」を「知りたい」と望むこと、

    それを、欣求浄土というべきか?

    なむあみだぶつ

  • >>No. 1885


       ――そこはいったいどこなんです

       ――どこでも !

       ――どこでもですって?

       ――そうです。この街は地球上の到る処にあります。ただ目下のところたいへん薄い

     だけです。だんだん濃くなってきましょう。

                             稲垣 足穂「薄い街」

  • >>No. 1884

    人の名前が出てこないし覚えられないようになつて久しい。
    顔は浮かんでくるのだが、名前が出てこないのはなぜか?
    と考えてみて、
    ふとね思いついたことがある。

    名前は先祖がまあ理由があるにせよ、
    何代にも渡ってうけついできたものであり、
    その人個人を特徴づけるなにものもなく、
    たんに符牒のようなものであるという理由から、
    結びつきが弱いためおぼえられないのではないか
    という考えに落ち着いた。

    中学生や高校のころにつけたアダナは、
    未だに覚えていて、
    顔と同時にアダナがうかんでくるのは、
    教師のとつた行動がきわめて印象的で、
    その際立った印象からつけたアダナつけたゆえに、
    アダナとその人が密接にかかわっており
    何十年たった今でも鮮やかに
    アダナとともにその人が
    眼前によみがえってくるのである。

    どこで称えようともそのみ名とともにおわすみ仏みは、
    なむあみだぶつとともにあらわれたもう。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1883

    「すべての行は仏とともにあり、この上ないさとりの身を得るのである」

                                (真仏土文類)

  • >>No. 1882

    「弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものを極楽にむかへんとちかひたまひたるを、

    ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。信心ありとも、名号をとなへざらんは

    栓なくさふらふ。また一向に名号をとなふとも、信心あさくば往生しがたくさふらふ。

    されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、うたがひなき報土の往生

    にてあるべくさふせらふなり」

                                  『末燈抄』

  • >>No. 1881

    行即信 信即行

    「この御ちかいをききて、うたがうこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行ふたつと

    きけども、行をひとこえするをききてうたがはねば、行をはなれたる信はなしとききて候。

    又信をはなれたる行なしとおぼしめすへく候。これみな、みだの御ちかいを申すなり」

                                  『末燈抄』

  • >>No. 1860

    >そして、神に出会って行けば行くほどに
    >そう恩寵は頂けて、奇跡的な働きもいただけてくるものですね。
    >凡夫でも、少しづつ少しづつ、
    >はるか彼方の神様にでも眼には見えないほどでも^^近づけていけます。

    >それは信仰者の持つ確信ですね。
    >これも揺らぎつつ、確信へとなっていきます。
    >時々、ドカーンと来ては
    >ここはもうどんなことをしても大丈夫というものもいただけます。



    やっぱり「ドカーン」ときますか?
    そのド゛カーンが怖いですねェ。

    貴方にとって出会うことのでかる「神」は、
    仏教ていう「空」とか「仏性」とか、」「如来」とか、
    真実の自己」という言葉の指し示して
    いるものなのでしょうか?
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1879

    他力門には天才も秀才もないということを、
    村田和上はこう語られている。

    「聞いたとか信じたとか、知った解ったというのはー。

    丁度お日様を雲が覆うて居るようなもので、それは凡夫の迷いです。

    御阿弥陀様の方から眺めたら十方衆生皆どれもこれも差別はないのじゃからー。

    信じたの解ったのとは凡夫の方で勝手にいうて居るので、御阿弥陀様の方では

    一寸も変わりはないのですー」        村田 慈雲遍『念共讃裡』より


    阿弥陀さんの眼からみればそうなるが、
    凡夫の眼からみれば、
    偉いひとは確かにおいでになります。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1860

    >ええキリスト者は全て【選ばれし者】ですけれども
    >しかし、それは優秀だから選ばれたのではない^^
    >神様がほって置けない程、
    弱い、小さな、愚かな人間だからと言う事でですね。^^

    そのあたりは真宗的ですね。
    弱い、小さな、愚かな人間だから
    選んでそれらをまず救い取ってやりたいという
    誓いをたてられた。
    優秀な者、天才はほっておいてもその
    じぶんのちからで修行し悟るだろうが、
    「他力」の門に入るためには、
    弱い、小さな、弱い人間と寸分違わない
    人間であつたという自覚が起こらなければ
    入ることができない低い門なのです。

    だから原理的には真宗には
    天才や秀才は居ないのではないかと
    独断的に考えております。
    その愚か者であったと言う気づきが、
    廻心という言葉の意味ではないでしょうか?
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1859

    >桜井師は、自ら使われている【自律】という言葉こそ
    >「吾に非ざる心が主人公の座」という【真実の自己】というものでしょうね。

    >キリスト教でたら、このパウロでしょうね。

    >もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」
    >  (ガラテヤ2:20)


    【真実の自己】とか【本来の自己】という言葉は、
    どうもお他力の信仰にはそぐわない気がする。

    親鸞は「至心」の解説をしている。
    この「至心」は阿弥陀様の御心です。

    (至心の釈)こたふ。仏意はかりがたし。しかりといへども、ひそかにこのこころを推するに、
    一切の群生海、無始よりこのかた、乃至今日今時にいたるまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。
    虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもて、如来一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議
    兆載永劫において菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念刹那も清浄ならざること
    なしる真心ならざることなし。如来清浄真心をもて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳
    を成就したまへり。               『教行信証』(信巻)

    「如来清浄真心」を「吾に非ざる心」だと言っておられる。
    「私の心」ではないのです。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1858

    >全てはすくわれる、、、いや、既に救われ尽しているからこそ
    >それを【自覚】するのは私達の御役目でしょう。^^

    「救われ尽している」は仏性であり自力の悟りになる。
    「一切の衆生に仏性がある」というのも真実であるし、
    「一切の衆生に煩悩がある」というのも真実。
    この矛盾体を一人でひきうけると
    頭がおかしくなる。
    既に救われている「自分」を自覚したら、
    「救われぬ自分」はあとに残り続ける。

    だから阿弥陀と私で分担して、
    救われない私は「私」であり、
    救いつくすのは「阿弥陀さま」
    わたしの「南無」と
    「阿弥陀仏」とで南無阿弥陀仏
    南無阿弥陀仏を抜いて語ると
    お他力にはならないので、
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1858

    >唯円は、あの不審を言ったら叱られるのではないかと
    >それまで尋ねることが出来なかったのではないかしらね。
    >そこで思いきつて尋ねてみたら
    >なんと親鸞は「自分も同じだ」と言って下さった。
    >どんなに救われた心地がしたことでしょうね。

    そうですねェ。
    嬉しかったでしようね。
    しかし、親鸞から「叱られる」とは思つていなかったのではなかろうか。
    「恥ずかしさ」がこころを占めていたのではなかろうか?
    初歩的な問いでもあり、
    今更師に聞くには恥ずかしさをともなう問いである。
    しかし、
    誰の心の底に潜んでいる究極のひそかな問いでもある。
    その問いを唯円房は勇気をふりしぼり
    師親鸞に尋ねたのである。

    おそらく尋ねられた親鸞も
    内面では嬉しかったのではなかろうか?
    「よくぞ尋ねてくれた ! !」と。

    「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房もおなじこころにてありけり」
    同調のことばが静かに返される。
    しかも
    「よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり」という、
    という思いもかけない逆説をもって
    しかも懇切に語られるのである。
    師は弟子の機に応じて対応するといわれるが、
    親鸞の応答にはそんな分別はなく、
    もっと自然体でしかも自在であるようだ・・・
    なむあみだぶつ

  • >>No. 1858

    大量のレスを頂きましたが、
    長文になると投稿拒否をくらいますので、
    こまぎれのレスになりますがよろしく。

    >法然は、あの戦国の世の惨状を見て
    >苦悩する民にせめて「死ねば浄土へ往けますから」という
    >希望を持たせることをしたのだと思いますが
    >親鸞の思想には「現実拒否」はないと思われます。

    法然の『選択本願念仏集』を親鸞が解説していわく。

    「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは安楽浄土の往生の正因は念仏を
    本とまふす御ことち也としるべし。正因といふは、浄土にむまれて仏にかな
    らずなるたねとまふすなり」と。

    希望を持たせることではなくで、
    浄土のさとりをひらき仏、にさせる
    ということであり、
    「希望」というような簡便なことでもないでしよう。
    ひそかに比叡の山中で僧侶の独占ぶつとなつていた
    念仏を一般大衆にまで門戸を開いた法然の業績は
    素晴らしいものがあると思います。
    また、『歎異抄』の中で親鸞は、

    「よろずのこと、みなもて、そらごとたわごと、実あることなきにただ念仏
    のみぞまことにておわします」と言われています。

    この世のことは虚仮不実として否定しています。
    念仏が真実であると知れたから、
    この世の虚仮不実を知れたのでしょう。
    なむあみだぶつ

  • 桜井和上の『能登法語』より
    厭離穢土 欣求浄土の「すてる」ということについて

    ◆世をすてよ
    「身をすてゝのぞみもとむる心より信をば得べきものなり」と蓮如上人の
    いわれた言葉を、博多の和上様(七里和上)は「身をすてゝというのは、この
    体を捨てよという事ではないぞ、この世の望みを捨てゝしまえということ
    じゃ」といわれた相な。
    仏法を聞こうというのにて此の世の望みを捨てぬのは、ともづな解かずして
    舟をやらんが如しと古人もいわれたとか。綱がピンと張っても又後戻りして
    しもうもんじゃ。これも和上様の仰せです。ナム ナム

本文はここまでです このページの先頭へ