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投稿コメント一覧 (1075コメント)

  • >>No. 2439

    >いすさん紹介のカスタネダの本読みおえたらかかります。

    >手元にあればそれにそって話せるといいですが、、、


    了解しました。

  • >>No. 2437

    「悪業の私」という機の信心を無化したところに、
    蓮如教学があり、
    今日の大教団になった理由があると思う。
    「時刻往」のおしえなんて
    一般には受け入れられないですからね。

    「信心正因」「念仏報謝」という
    シンプルニに組み替えたから
    浄土教との違いを付けることが出来たし、
    大衆化にも成功したのではないだろうか?
    おそらく
    「念仏は無義をもて義とす」
    というテーゼに
    「報謝」という義をつけた蓮如教学に、
    教団エゴを感じないわけには
    いられないのであります。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2436

    >親鸞純粋他力においては

    >煩悩成就である悪業の私と上地の菩薩は今生で何の矛盾なく統合されてるん
    .だろうか?

    菩薩のことはよく解らないが、
    仏をみることによつて
    悪業の私も上地の菩薩も何の違いも無い、
    「平等法身」をサトルということではないですか?

    煩悩成就も悪業の私も、上地の菩薩も、統合も
    横ざまに超えた無碍の世界。
    広大無辺のこころで、
    思う様自在に衆生済度が出来る身に、
    させて頂けるのだと聞いたことがありますが、
    ちがうのですか?
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2430

    >この身で普賢行を行える者になるということかと?

    わたしは師の言われるように、
    「念仏称えていると仏法がひろまるから」
    というのがわが身にふさわしい。
    煩悩熾盛罪悪深重の身で「普賢行」なんぞ
    とてもとても。

    『歎異抄』にも
    「しかれば念仏まふすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと」
    と言われています。
    なむあみだぶつ なむあみだぶつ

  • >>No. 2431

    「そうすると、称えるということはもういらなくなりますから、何のために
    称えるかというたら、ご恩報ずるために南無阿弥陀仏を称える、というこ
    とにならざるを得ない。信心が決定することは、即時に必定に入る。
    そうすると称名はいらんものになってくる。ちっともいらないんだ。事実
    いらない。一声の念仏をも待たない大慈悲だから仏の恩を報ぜざるを得ない。
    何で恩をほうずるか。念仏称えていると仏法がひろまるから。仏法を広め
    態のが阿弥陀如来の本願だから。本願にかなうことになるから、お念仏を
    称えるということはご恩報謝ということになる」
    という師の解釈でした。

  • >>No. 2428

    >「即」とは時も所も隔てずに「瞬時に」ということですぞ ! !

    恐らく「信」と「行」の違いでしょう。

    「おおよそ往相回向の行信にさいて、行にすなわち(即)一念あり、また
    信に一念あり」

    行の一念は「就顕の法門」といわれている。
    「行の一念というは、いわくね称名の遍数につ(就)いて選択易行の至極を
    顕開す」                   (行巻)

    「如来が選びとられた易しい行の至極をあらわす念仏を信じる『行信』
    をわたしは念頭においています。

    それに対してあなたとミチオさんは
    「信の一念」をあげてあられる。
    信の一念は「斯顕の法門」といわれ
    師いわく
    「信の一念のほうは、領受のむ当体、お念仏の一声さえ必要としないという
    ことになる。称えることさえいらないんです。だから、行の一念には則の
    字があり、信の一念には則の字がないんです。信の一念で往生の因が決定
    する。                      つづく

  • 2017/11/15 23:38

    >>No. 2414

    >これだけ読むと

    >「テルゼの神のハタラキ・現生還相」

    >と同じにもみえますが、どうなんでしょうな?


    どうなんでしょうな。
    質問の意味がわかりません。

  • >>No. 2414

    >好賢樹のことなんですが

    >ご消息でこの樹に関する応答があるのですが

    >今生では地の中にいてかの土に生まれてからみるみるうちに大きくなるん
    ですか?

    >という質問がありましたが

    >親鸞聖人の返答はどうだつたかご存知ですかな?


    知りません。

  • >>No. 2410

    >念仏しなくても「だだ思うだけ」で「既に救われつくしている。」

    >「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて[往生をばどぐるなりと信じて]
    >念仏もうさんと[おもいたつ心のおこるとき][すなわち摂取不捨のりやくに
    >ふずけしめ]たまふなり」


    たとえば台所からお母さんのこえがする。
    「おはぎ頂いたからたべる?」と。
    でもまだ実際には食べていない。
    「あれが食べられるんだァ~~~」と思うだけで、
    口の中に唾液がわきだしてくる。

    「あれが食べられる」と言えるのはまだ食べていない時にかぎられる。
    食べている最中には
    「摂取不捨のりやくにあずけしめたまうなり」ということはできない。
    食べている最中は

    ナンマンダブ ナンマンダブ ナンマナダブ ナンマンダブ

    食べる前だからいう事が出来る。
    と言うのがわたし独自の解釈です。
    だからおはぎも食べないで
    「ただ思うだけで」食べた気になつているのは、
    あまりにも想像力過剰すぎて、
    なんとももつたいない話ではあるまいか?と、
    ナンマンダブ ナンマンダブツ

  • 2017/11/14 00:18

    >>No. 2410

    >証巻には

    >どんな利益が今生で得られるか、どんな不退転のさとりがえられるか

    >が書いてあるんですね !


    そのようですなあ。
    未証浄心の菩薩でも阿弥陀仏に遇えば、
    たちまちにして上地の菩薩と同じく
    寂滅平等を得るから平等法身を得証する。
    そしてこの菩薩は報生三昧を得る。

    得るとどうなるのか?
    仏教の未開地におもむき教法をひろめ、
    衆生を教化し自在に救うことが出来る身を得る。
    この身を「平等法身」といい、
    この法を「寂滅平等の法」とする、
    ということらしい。

    肝心なことは「阿弥陀仏」にまみえる
    ということであり、
    まみえることによって
    菩薩の階位という自力聖道門の竪超から、
    いっきに横ざまに超える横超の利益が
    頂けることになるのでしょう。
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2410

    >順序として「本願を信じて」が先で次いで「ひとたび念仏すれば」になります。

    まあ、そういう見方もありましょうが、
    信楽峻麿師は親鸞聖人の論述には、
    「信心」から」「念仏」
    「念仏」から「信心」
    「念仏」即「信心」
    の三通りの表現がされていると説いておられた。
    まあ、いただきものでから、
    その人に応じて
    いろいろあるのではないですか?

  • 2017/11/12 22:37

    >>No. 2408

    ご苦労さまです !

    味わい深すぎてよく解りません。
    わたしには
    だだ念仏がふさわしい
    ナンマンダブ ナンマンダブ

  • >>No. 2403

    図書館から借りてきた
    南直哉・玄侑宗久共著の『〈問い〉の問答』に
    「自然法爾」に対することが述べられていた。

    南 ええ、そうだと思います。ところが親鸞聖人は『教行信証』というも
      のを書いておられながら、最後は「自然法爾」です。先ほどもいいま
      したが、阿弥陀仏と信仰者の両方の立場を放棄するという「自然法爾」
      は、要するに主体自体を解体してしまうということです。もう一つ言
      えることは、言語そのものを、もはやまったく当てにしないところま
      で行っている。だからこそ、最後の念仏はもはや〈言葉ではない〉と
      いうことです。

    とあった。言葉でない念仏はもはや念仏ではない。
    親鸞聖人は
    念仏即南無阿弥陀仏とはっきりと言われている。
    み名ひとつで衆生をすくいとるという、
    阿弥陀仏の御本願。

    「如来の本願を信じてひとたび念仏すれば、求めなくても必ずこの上ない
    功徳を得させてくださり、知らなくても限りなく大きな利益を得させて
    くださるのである。つまり自然にさまざまなさとりをただちに開く法則
    だということである。」         (一念多念文意)

  • >>No. 2402

    >こう三者並べて見てると
    >
    >みな混ぜ込んでる桜井師の言にもみえますな !

    そうですかな?
    念仏即南無阿弥陀仏の味わいを
    語られているだけのように
    わたしには思われるのですかが・・・。

    >ただ我にまかせろの弥陀の声に身を委ねるだけではないですかな! !

    そうですなー。
    ただその声を聞くことしか
    出来る事はなにもないのですかな! !
    なむあみだぶつ

  • >>No. 2400

    ●親鸞の自然法爾

    「自然といふは、自はをのづからといふ、行者のはからひにあらず、然と
    いふはしからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはから
    ひにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに法爾といふ。
    法爾は、この御ちかひなりけるゆへに、おほよす行者のはからひなきをも
    て、この法の徳ゆへにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめては
    からはざるなり。」
                           『末燈抄』

  • >>No. 2399

    ●法然上人の自然法爾

    「法爾の道理(あるがままの自然のことわり) ということがあります。
    炎は空に向かって燃え上がり、水は低い方へながれていきます。果物も
    酸っぱいものもあれば甘いものもあります。こうしたことは皆「法爾の
    道理」なのです。阿弥陀さまの本願に、自らの名号示されて罪深い衆生
    を導き救おうと誓われている以上、ただひたすらお念仏さえ称えていれ
    ば、臨終に仏さまがお迎え下さる、というのもまた「法爾の道理」なの
    です。ですから、疑う余地はないのです」
                 (つねに仰せけるお詞・昭法全四三九)

  • >>No. 2398

    ●一遍の自然法爾
    「たとえ、私がすすめる名号を信じたのでは往生すまいと心に思うとしても、
    念仏を申せば往生するのでするのです。どんな真実にとどかない考え方を
    主張したり考えたりするとしても、名号そのものは、立場・考え方による
    ものでなく、また心によるものでもないので、名号を称えれば決定して往生
    すると信じているのです。あたかも、ものに火をつけると心には焼けるな
    と思い、口には焼けるなよ言うとしても、その言葉には左右されず、想念
    の力に左右されることもなく、ただ火自身の自然の徳として、ものを焼く
    ようなものです。水がものをぬらすことについても、火のあり方と同様です」

  • ●「念仏」というから、われわれが口で称えるだけのものかと思うたら、

    「念仏すなわちこれ南無阿弥陀仏なり」(『行巻』)で、その念仏が私たちの

    腹に入ってきて、ひとつの念仏の体すなわち名号がわれわれの信となる。

    この信じさせるものも念仏であり、称えさせるのも念仏である。念仏それ

    自体がはたらいて、動いて、口にも出てくる。心に入れば念仏の信、他力

    の念仏であり、他力の信心であるからしての、人間のすることはなにも

    ないんだ。

                     (桜井 鎔俊著『教行信証』)より

  • >>No. 2358

    >人は、挫折を通して、大きく方向転換でき
    >飛躍成長することも出来るのですね。^^
    >
    >まあ、挫折できるのが天才だともいえますがね。^^


    まあ、挫折にもいろいろあって、
    なんとか出来る挫折もあれば、
    手も足も出ない挫折もある。
    心の中心に信仰を持つことていれば、
    そのどうしようもない挫折にょって、
    信仰があらたに芽ばえるというか、
    信仰がぐるりと向きを変える場合がある、
    と師はいつておられました。
    それを師は「でんぐり返り」と表現された。
    向きが変わるということで、
    真宗では廻心といわれている。

    宗教的天才でも救われるのだから、
    鈍才はなお救われる逆説も
    また廻心からうまれそうである。
    なむあみだふつ

  • >>No. 2359

    >いえ法然の選択は、一神教と同じ形態にになりましたね。^^

    オイオイ ! ! オ~~~イ
    そんなに簡単に「同じ形態」に
    ひとからげにしてもらつちゃ、
    命を懸けて探求された祖師がたに申し訳ない。
    まあ、貴女の「メタ教」でわそうなるのが
    あたりまえなのでしょうがね。

    しかし、それでは信仰の部分が
    抜け落ちてしましまっている。
    おそらくテルゼさんにとっては、
    「阿弥陀如来」なぞは絵そらごとに
    見えているのではあるまいか?
    なむあみだぶつ

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