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投稿コメント一覧 (136コメント)

  • 【 支配と服従(7) 】
    『 私はいくつかの質問を持っています。しかしそれに答える前に、ノートをとっている方はそうすべきでないと言ってよろしいでしょうか。

    理由を説明しましょう。私は集団でなく、個人に、あなたに話しています。あなたと私は一緒に あることを経験しています。あなたは私が言っていることをノートにとっているのではなく、経験しているのです。私たちは一緒に旅に行っているのです。

    そして単にノートを取ることに関わっているなら、あなたは本当に聞いてはいないのです。あなたはそれをじっくり考えるために書き下ろす、あるいはここにいないあなたの友人に告げるためにと言うでしょう。しかし、確かにそれは重要ではないのではないでしょうか。

    重要なことはあなたと私が理解することです。そして理解するためには、あなたは全部の注意を注がなければなりません。そしてノートをとっているとき、どうして全部の注意を注ぐことができるでしょうか。どうか、このことの重要さを見てください。

    するとそのときあなたは自然にノートをとることを止めるでしょう。あなたは強制される必要はありません、告げられる必要はありません。

    なぜなら、これらの会合で重要なことは非常に多くの言葉ではなく、背後の内容、心理的な含蓄であるからです。そしてあなたが充分な注意を、意識的な注意を注がない限り、それらを理解することはできません。』(K)


    私の学習経過:

    『 私は集団でなく、個人に、あなたに話している。あなたと私は一緒に経験している。

    単にノートを取ることに関わっているなら、あなたは本当に聞いてはいない。じっくり考えるために、友人に告げるため・・それは重要ではない。

    重要なことはあなたと私が理解すること。理解するためには、全部の注意を注がなければならない・・このことの重要さ。

    重要なことは非常に多くの言葉ではなく、背後の内容、心理的な含蓄・・充分な注意を、意識的な注意を注がない限り、理解することはできない。』

    『全部の注意を注ぐことの重要さ』・・とは、そういうことなのか・・・。『背後の内容、心理的な含蓄』を見るためには、『充分な注意、意識的な注意を注がない限り、理解することはできない。』という。
    私たちの生活は、現在を注意して見ていないのですね・・・。

  • 【 支配と服従(6) 】
    『 支配しようとする無意識の欲求を伴う、奉仕したいという欲求はもっとずっと取り扱うことが困難です。支配があるとき愛があり得るでしょうか。

    あなたは愛していると言い、しかも支配している誰かに対し関係していることができるでしょうか。そのとき、確かに、あなたは単に利用しているに過ぎないのです。利用があるとき、関係はないのではないでしょうか。

    それゆえ、この問題を理解するためには、支配の問題全体に対し敏感でなければなりません。支配すべきでない、あるいは従順であるべきだということではありません。この問題全体に対する気づきがなければなりません。

    気づいているためには、一方を支持することなく、何の非難もなしにそれに接近しなければなりません。それはするのが非常に困難なことです。なぜなら、私たちは大抵非難するように傾くからです。

    理解していると私たちは思うので非難するのです。私たちは理解していません。非難するやいなや、私たちは理解することを止めているのです。それは物事を払いのけるもっとも容易なやり方の一つです―誰かを非難することは。

    しかしこの全過程を理解することは、心の大変な油断のなさを必要とします。心が非難していたり、正当化していたり、それが感じることに単に同一化していたりするときには、心は油断なく気を配っていません。

    それゆえ、自己認識は瞬時瞬時の絶え間ない発見です。しかしその発見は、過去が意見、障壁を投げ上げるなら否定されます。心の累積的な行為は即座の理解を妨げます。』(K)


    私の学習経過:

    『 問題を理解するには、支配の問題全体に敏感で、気づきがなければならない。

    私たちは理解していると思うので非難するが・・理解を止めている―物事を払いのけるもっとも容易なやり方。

    全過程を理解するには、心の大変な油断のなさが必要。心が非難、正当化、同一化しているときには、心は油断なく気を配っていない。

    自己認識は瞬時瞬時の絶え間ない発見・・過去が意見、障壁を投げ上げる―心の累積的な行為は即座の理解を妨げる。』

    社会は・・非難、正当化、同一化で成り立っているようですが、問題を理解するには『心の累積的な行為は即座の理解を妨げる』・・過去の記憶・知識・経験・信念を捨てて、現在の事実を見ることから、つねに新しい姿・発見・理解があるのです。

  • 【 支配と服従(5) 】
    『 そこで、私たちは非難なしにこの問題を見ることができるでしょうか。私たちは私たち自身の内側にこの過程が働いているのを単に観察することが、静かに見守ることができるでしょうか。

    それは非常に容易に私たちの関係すべての中に観察され得るのです。展開する全現象をただ静かに見守ってください。あなたの支配の非難、正当化がないとき、それは開き始め、何の障害もないことが見えるでしょう。

    そのときあなたはすべての意味が見え始めるでしょう。個人的支配のことのみならず、また公的な支配、他の集団による一つの集団の、他の国による一つの国の、他のイデオロギーによる一つのイデオロギーの支配などなども。

    自己認識はどんな種類の理解のためにも絶対必要です。そして関係は生であるので―関係なしには生存はあり得ません―あなたがそれに正しく接近するなら、この支配の過程が非常に多くの仕方でそれ自身を表現しているのが見え始めるでしょう。

    そしてあなたがこの全過程を、無意識的にだけでなく意識的にも理解するとき、それからの自由があります。確かに自由があるに違いありません。そしてそのときのみ、越える可能性があるのです。

    なぜなら、特定の形の信念、特定の意見に束縛された、単に支配し、主張しているに過ぎない心は、さらに進むことができず、長い旅をすることができず、空高く舞い上がることができないからです。

    それゆえ、自分自身を理解する中で、支配というこの最も困難で複雑な問題を理解することが、不可欠ではないでしょうか? それはそのような微妙な形をとります。そしてそれが正義の形をとるとき、それは非常に頑固になります。』(K)


    私の学習経過:

    私たちは自分の中にある・・何か自分の外部にあるものに対する「支配」の心を、まず見い出すことができるか。そして、そのありのままの姿を『静かに見守ることができるか・・非難、正当化なく』
    それが私たちの課題です。

  • 【 支配と服従(4) 】
    『 孤立の過程の一つは支配です。孤立に導く恐怖はもう一つの形をとるのではないでしょうか。主張したい、支配したい、服従したいという欲求のみならず、孤立の過程の中に、独りである、孤独であるという意識があります。

    私たちは大抵孤独です―「独り」という言葉を使いたくありません。それは違った意味を持つからです。私たちの大抵は孤立しています。関係しているかもしれないけれど、自分自身の世界の中に生きています。

    結婚して子供を持っているかもしれないけれど、自分の固有の世界の中に生きています。それは非常に孤独な世界です。時たま喜び、娯楽、幸福などが開くことのある、悲しい世界です。一人だけの寂しい世界です。

    それから逃避するために、私たちは何者かであろうとします。主張しようとします。支配しようとします。それゆえに、私たちのあるがままから逃避するために、支配はそれを通して私たち自身から飛揚できる手段になります。

    それゆえ、この支配の全過程は、私たちの現状に向かい合うことを避けたいという欲求があるときだけでなく、孤立していたいという欲求があるときもまた起こるのではないでしょうか。

    私たち自身の中にこの過程を、非難の精神でではなく、それは単に反対側を取ることに過ぎません、なぜ私たちが支配しようとか非常に卑屈になろうとする、このとてつもない欲求を持つのかを理解するために見ることができるなら、もし私たちが反対の側を取るという何の感覚もなしにそれに気づいていることができるなら、私たちが逃げ出そうとしている孤立のその状態を実際に経験するだろうと私は思います。

    そのとき私たちはそれを解決することができるでしょう。すなわち、何かを理解するなら、私たちはそれから自由です。恐怖があるのは理解しないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『孤独・孤立・・自分自身の世界の中に生きる。
    結婚して・・自分の固有の世界に生き、孤独な世界、時たま喜び、娯楽、幸福などが開く、悲しい世界。
    あるがままから逃避するために、支配は自身から飛揚できる手段になる。
    恐怖があるのは理解しないときだけ。』

    これはどう理解したらいいか・・結婚・子供の中に、孤独な世界、悲しい世界、一人だけの寂しい世界・・・。
    私たちのものの見方と理解力が問われているようです。

  • 【 支配と服従(3) 】
    『 関係の中で、私があなたを支配し、あなたが私を支配するなら、私たちはお互いを理解するでしょうか。それが生ではないでしょうか。関係は生です。関係は行為です。

    私が単に支配の自己閉鎖する行為の中に生きるなら、何か関係があるでしょうか。支配は孤立の過程であり、それは関係を否定しないでしょうか。

    支配は関係を破壊する分離の過程でないでしょうか。そしてこれは本当に、私が求めているものでしょうか。そして、支配や屈従の何かの感覚があるなら、二人の人間の間に関係があり得るでしょうか。

    生は関係です―人は孤立して生きることはできません。しかし、私たちの目標は偽装の中に、攻撃的な主張のあの気持ちの中に、それが支配ですが、無意識的に私たち自身を隔離することではないでしょうか。

    それゆえ、独裁的に支配する過程は、孤立の過程ではないでしょうか、そしてこれが私たちの大抵の望むことではないでしょうか。私たちの大抵はそれをせっせと養成します。

    なぜなら、関係の中で開いていることは非常に苦痛で、それはとてつもない英知と順応性、素早さ、理解を要します。そしてそれがないとき、私たち自身を隔離しようとします。それで支配の過程は孤立の過程ではないでしょうか。

    明らかにそうです。それは自己閉鎖の過程です。そして私が私自身の意見、私自身の欲望、私自身の野心、支配しようとする私の衝動に囲まれ、包まれるとき、私は関係しているでしょうか。そして関係がないなら、どうして何かの真の生存が可能でしょうか。

    絶え間のない衝突が、それゆえ悲しみがないでしょうか。それゆえ、関係の中での私たちの無意識の欲求は傷つけられないこと、安全、隠れ家を求めることです。そしてそれが挫折するとき、充足はありません。そのとき私は私自身を隔離し始めます。』(K)


    私の学習経過:

    『 支配は、関係を破壊する分離・孤立・自己閉鎖の過程。

    私自身の意見、欲望、野心、支配の衝動に囲まれ・・関係がないなら、真の生存が可能か。

    絶え間ない衝突・悲しみ。関係の中の安全、隠れ家を求める・・挫折、充足はない。私自身を隔離する。』

    子育て・教育・社会の中で、私たちは知らない間に支配・服従の関係をつくって・・この社会に欲望と対立と暴力と、その結果としての権力構造と貧困・格差をもたらしているようです。

  • 【 支配と服従(2) 】
    『 まず最初に、人は支配の明白な、露骨な形に気づくに違いないのではないでしょうか。私たちの大抵は、少しでも気を配っているなら、それに気づきます。しかし無意識的な支配があり、それに私たちの大抵は気づいていません。

    この支配しようという無意識的な欲望は、奉仕、愛、親切であるなどの外観や偽装をとリます。無意識的な支配しようという欲望は様々な形の下に存在します。そしてこの事実を理解することが、他人による人の表面的支配を単に規制しようとすることより、はるかに重要であると私は思います。

    さて、わたしたちが無意識的に支配することを望むのはなぜでしょうか。多分私たちの大抵は私たちが様々なレベルで支配することに気づいていないのです―家族の中だけでなく、言葉のレベルでも同様に。そしてまた権力を求め、成功を求めるこの内部の欲望があります。それらは皆支配のしるしです。

    なぜ私たちは他人を支配することを望むのでしょうか、あるいは他人にこびへつらうことを。もしも慎重に、意識してその質問を自分自身に問うなら、応答は何でしょうか。私たちの大抵はなぜ私たちが支配することを望むのか知らないでしょう。

    まず第一に、その中に感覚、誰かを支配することの無意識の快楽があります。それが私たちをして支配したがらせる唯一の動機でしょうか。確かにそれはその一部です。しかしそれにはもっと多くが、もっと深い意味があります。

    あなたは、男か女として、関係の中で支配しているあなた自身をいままでに見守ったことがあるのかどうなのかなと私は思います。そしてあなたがそれを意識したなら、あなたの応答、あなたの反応は何だったでしょうか。
    そしてなぜ私たちは支配すべきでないのでしょう。 関係の中で、それは生ですが、支配を通して私たちは理解するでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 支配しようという無意識的な欲望は、奉仕、愛、親切などの外観や偽装をとる・・この事実を理解することが重要。

    私たちは様々なレベルで支配することに気づいていない―権力、成功を求める欲望・支配のしるし。

    誰かを支配することの無意識の快楽・・もっと深い意味が。

    関係―生の中で、支配を通して私たちは理解するか。』

    他者・社会に対する自分の心・意識・・その奥にある願望と意志に気づいていないのか・・・。

  • 【 支配と服従 】
    『 私的および社会的な、多くの増大する生の問題を考えれば考えるほど、自分自身の中に基本的、根本的変容があるのでない限り、私たち一人一人に立ちはだかる問題を処理することは明らかに不可能であるという事がわかります。

    生のこれらの問題を解決するつもりなら、自分自身で直接取り組み、単に専門家、宗教的指導者や政治的な万能薬の与え手に頼らないことが絶対必要ではないでしょうか。私たちの生、文化と文明はますます複雑化しているので、増加している問題を直接取り扱うことは困難になっています。

    さて、私たちの大抵が非常に深く、根本的に向かい合ったことのない一つの問題は、支配と服従の問題だと思われます。支配の二つの側面を持つ性質をかなり手短に、簡潔に論じようと思います。

    私たちが意識的あるいは無意識的に、支配するのはなぜでしょうか―男と女、女と男など。様々なやり方で支配があります。私的な生活の中だけでなく、統治の全傾向もまた支配することです。なぜこの支配の精神は時代から時代へと、絶え間なく続いているのでしょうか。

    ごくわずかの人だけが、それから逃れているように見えます。それを違った感覚で考えることができるでしょうか。すなわち、反対のものに行くことなしに、それを理解することができるでしょうか。

    なぜなら、それを認識するやいなや、この支配の問題に気づくやいなや、私たちは直ちに服従し始めます。あるいはそれを反対のもの、服従の観点で考えます。

    反対のものなしに考え、そして問題を直接に見ることができないでしょうか。多分私たちはそのとき、この支配の複雑な問題全体、他人に対する権力を求めること、他人に服従すること、を理解することができるでしょう。

    結局、服従は支配のもう一つの形です。他人に服従することは、それが男に対してであれ、女に対してであれ、支配の否定的な形です。

    支配の否定そのものによって、人は従順になります。そして私は反対のものの見地で考えることによってこの問題を解決できるとは思いません。それを調べましょう。なぜそれが存在するかを見ましょう。』(K)


    私の学習経過:

    「支配と服従」・・人類の根本的・歴史的な課題であり、私たちの生活・家族・社会から教育・政治・文化・スポーツ・宗教にまでおよぶこの基本的な問題を学んでいきたい。

  • 【 Q&A.時間とは(6) 】
    『 そのとき心は表面的にだけでなくて深く静かです。そのときそれは平静になります―平静です。そのとき測り知れないものの直接の経験があります。しかし時間を超えたものが何であるか単に思索することは時間の浪費です。

    あなたはちょうどポーカーをしているようなものです。あなたが直接の経験を持つ瞬間、すべての思索は脇にやられます。そしてそれが私たちが討論していることです―どうやって心の介入なしに、この直接の経験を持てばいいか。

    しかし一度この直接の経験があるとき、心はその感覚に執着します。そして次にその経験の反復を望みます。それは、実際には、心が感覚に興味を持つということです、経験することにでなくて。したがって、心はけっして経験することができません。それは感覚を知ることができるだけです。

    経験することは、心が経験者でないときのみ生じます。それゆえ、時間を超えたものは心を通して知られることが、あるいは想像されることが、あるいは経験されることがありません。

    そして心が私たちが他のあらゆるものを犠牲にして養成した唯一の道具であるので、心の過程を見るとき、私たちは途方に暮れます。私たちは途方に暮れなければなりません。私たちは終わらなければなりません―それは絶望ではありません、恐怖ではありません。

    心の過程を知ってください。それが何であるか見てください。すると、それが何であるか見えるとき、それは何の努力もなしに終わります。そのときのみ、永遠であるあの再生の可能性があるのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 直接の経験を持つ瞬間、思索は脇にやられる―心はその感覚に執着。経験の反復を望む。

    時間を超えたものは心を通して知られ、想像され、経験されることがない。

    心が私たちが他のあらゆるものを犠牲にして養成した唯一の道具。終わらなければ―絶望、恐怖ではない。

    心の過程を知って、見て、何であるか見えるとき、何の努力もなしに終わる。そのときのみ、永遠であるあの再生の可能性がある。』

    心は、経験・過去・時間・記憶に執着し、依存し、反復を望むようですが、その心の過程を知ることによって、過去とは違う「時間を超えた」「新しい」何かが見えてくるのではないか。

  • 【 Q&A.時間とは(5) 】
    『 永遠である人の一部があるのでしょうか。考えることができるものはなお思考の産物であり、したがって永遠のものではありません。なぜなら、思考は過去のものの、時間に属するものの結果です。

    そしてあなたが永遠な何かをあなたの中に仮定するなら、あなたはすでにそれについて考えているのです。私はこの事柄を小利口に議論しているのではありません。

    永遠のものが思考できるものではないということを非常によく見ることができます。永遠のものに向って進歩することはできません。それに向かって進化することはできません。そうするなら、それは単に思考の投影に過ぎず、したがってなお時間の網の中にあります。

    そのやり方は錯覚、悲惨に、欺瞞のあらゆる醜さに通じます―それを私たちは好みます。なぜなら、心は安全から安全へ、防衛から防衛へ、既知のものの範囲内でのみ作動できるからです。

    永遠のものはありません。それが時間の束縛のうちにあるなら。そして心がそれを考えるやいなや、それは時間の束縛の中にあり、したがってそれは実存するものではありません。

    それゆえ、あなたがこの同一化の全過程を知覚するとき、どんなふうに安全であるために思考が物事に継続性を与えるか、どんなふうに思考者が思考者自身を思考から分離し、それによって思考者自身を安全にするかを見るとき―この時間の過程すべてを見てそれを理解し、単に言葉の上でなく深くそれを感じ、内面でそれを経験するとき、そのとき、あなたはあなたがもはや時間を超えたものを考えないことを見出すでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 思考は過去、時間の結果。思考・進歩・進化は、思考の投影、時間の網の中。

    錯覚、悲惨、欺瞞のあらゆる醜さに通じ―私たちは好む。心は安全から安全へ、防衛から防衛へ、既知の範囲内でのみ作動。

    永遠のものはない・・心が考えるやいなや、時間の束縛の中、実存ではない。

    同一化の全過程を知覚―時間の過程を見て理解し、深く感じ、内面で経験するとき、時間を超えたものを考えないことを見出す。』

    私たちは学び、考え、知識・経験・記憶を積み重ね、思考・時間・過去に依存し、束縛されて、真に「生きる」ことからますます遠ざかっているのではないだろうか。

  • 【 Q&A.時間とは(4) 】
    『 しかし個人は別の形の同一化を通して集団になり、それで彼の分離を保持します―私たちが見ることができるように。

    同一化を通して継続がある限り、再生はありません。同一化の停止と共にのみ再生の可能性があるのです。そして私たちの大抵は終わるのを恐れます。私たちの大抵は死を恐れます。無数の本が死後のことについて書かれてきました。

    私たちは生きることより、死に、より関心があります。なぜなら、死と共に終わりが、同一化に対する終わりがあるように思われるからです。継続するものは確かに再誕が、再生がありません。

    死ぬことの中にのみ再生があるのです。したがって毎瞬死ぬことが重要です―老齢と病気で死ぬのを待つのでなく。それは自分のあらゆる蓄積と同一化、自分の拾い集めた経験に対し死ぬことを意味します。そしてそれが本当の簡素です。同一化の蓄積された継続ではなく。

    それゆえ、この同一化の過程―それは記憶をよみがえらせ、現在の中に、記憶に継続を与えます―それが止むとき、そのとき再誕、再生、創造性の可能性があります。そしてその再生の中に継続はありません。再生するものは継続することができません。それは瞬時瞬時です。』(K)


    私の学習経過:

    『 同一化を通して継続がある限り再生はなく、同一化の停止にのみ再生の可能性がある。

    死ぬことの中にのみ再生がある。毎瞬死ぬことが重要―自分のあらゆる蓄積と同一化、拾い集めた経験に対し死ぬことを意味・・本当の簡素。

    同一化の過程―記憶をよみがえらせ、現在の中に、記憶に継続を与える―それが止むとき、再誕、再生、創造性の可能性がある。瞬時瞬時。』

    私たちは、生まれたときは・・何も知らなかった、何も持っていなかった・・・のですが、いつか名前・知識・経験・物・欲・・と自分を同一化し、所有になり、現在は過去との同一化・依存・所有に縛られている。その現在は、過去を未来に投影して、同一化している過去を実現しようとしているのかもしれない。

    ・・・ 岡本太郎も言っていた。

    『生きるというのは瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて現在に充実することだ。
    過去にこだわり、未来でごまかすのでは現在を本当に生きることはできない。』

  • 【 Q&A.時間とは(3) 】
    『 意識は単に一連の出来事の結果に過ぎないのでしょうか。私たちの大抵にとってはそうです。私は私が生きているのを、私が意識があるのを、私の過去のために、私の何かとの同一化のために知ります。自分が意識があることを、この同一化の過程なしに知ることができるでしょうか。

    そして、なぜ人は同一化するのでしょうか。なぜ私自身を私の財産、名前、野心、進歩と同一視するのでしょうか。なぜ。そして、もしも私たちが同一化しないなら、何が起こるでしょうか。それはあらゆる存続を否定するでしょうか。

    多分、もしも同一化しないなら、行為のためのより広い場が、感じ、思うためのより大きな深さがあるでしょう。私たちは同一化が実体として、別個の実体として生きているという感じを与えるので同一化します。

    それゆえ、分離しているという感じが重要になりました。分離していることを通して私たちはより多くを楽しむからです。

    そして分離していることを否定するなら、楽しむことが、楽しみを持つことができないのではないだろうかと恐れます。確かにそれが継続を求める欲望の基盤ではないでしょうか。

    しかしまた作用している集団的過程もあります。分離は大量の破壊などを含むので、それに対立して集団主義、個人的分離の放棄があります。』(K)


    私の学習経過:

    『なぜ人は同一化するのか。なぜ私自身を私の財産、名前、野心、進歩と同一視するのか』

    『同一化が別個の実体として生きているという感じを与える』

    『分離を否定するなら、楽しむことができないかと恐れる・・継続を求める欲望の基盤ではないか』。

    私たちが「考える」、つまり「思考」は頭の中の記憶・経験・知識・・であって、それはすべて「過去」なのです。けれども、私たちはいま「現在」を「過去なしに見る」のでなく、「過去の目」で見ながら「過去の記憶」で考えるように習慣づけられているようです。

    所有・同一化・過去・・それは「いま生きている」ことにつながるのか。

  • 【 Q&A.時間とは(2) 】
    『 継続するものは衰退するに違いないということを私たちは見ることができます。継続を持つものは、それ自身を再生することができません。終わるものだけが再生できます。単に習慣に、特別な意見に捉えられた心、あるいは観念、信念、教条の網に掴まえられた心―そのような心には確かに再生はあり得ません。

    それは生を新たに見ることができません。それらのものが脇にやられ、心が自由であるときだけ、心は生を新たに見ることができるのです。再生、創造的な衝動があるのは、過去が終わったときだけです。

    それは「私」や「私のもの」―私の財産、私の家庭、私の妻、私の子供、私の理想、私の神、私の政治的意見―としての継続を与える同一化がもはやないときを意味します。この絶え間ない同一化が、より広く、より大きく、より高尚に、より価値のある、より利巧な等々になる「私」としての一連の出来事の継続を与えるのです。

    生、存続は一連の出来事の事柄でしょうか。一連の出来事とはどういうことでしょうか。私は私が生きているということを、昨日を記憶しているから知るのでしょうか。私は私が生きているということを、家への道を知っているから知るのでしょうか。

    あるいは私は私が生きているということを、私が何かであろうとしているので知るのでしょうか。どうやって私は私が生きているということを知るのでしょうか。私が意識があるということを知るのは、確かに現在においてだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『「私」や「私のもの」―財産、家庭、妻、子供、理想、神、政治的意見』

    私たちにとって「重要」で、「いつまでも」とか「永遠に」をつけて「続いてほしい
    」とつねに願っている・・「継続」という価値観。

    『私が「生きている」ということを・・昨日の記憶、家への道を知っているから知るのか』
    『私が生きている、意識があることを知るのは・・確かに「現在」においてだけ』

    私たちの「記憶」は、過ぎ去った「過去」であり、現在「存在しない」「生きていない」ものなのですが、私たちは生まれてこのかた・・親に、先生に、本に、新聞・メディア・社会・慣習・その他大勢に・・・夢・目的・理想・成功をたたきこまれ、「過去」と「現在を通り越して、過去を引き延ばした未来」に縛られて、「生きている現在」が見えなくなってしまったのかもしれない。

  • 【 Q&A.時間とは(1) 】
    『 Q: あなたが時間を超えたもののことを話すとき、一連の出来事のほかの何かを言っているに違いないと思われます。時間は、私にとっては行為に必要であり、私は一連の出来事のない存続を想像することができません。

    人のどの部分が永遠であるか知ることによって、時間はもはや目的に対する手段、あるいは進歩に対する手段にはならないということを言っているのでしょうか。

    A: まず第一に、私たちは時間を超えたものが何であるか議論することはできません。時間の産物である心は、時間を超えたものを考えることはできません。なぜなら、何と言っても、私の心、あなたの心は過去のものの結果です。

    それは過去のものに基づいています。その思考は過去のものの結果です。それが時間です。そしてその道具で、私たちは時間に属するものでないものを考えようとします。そしてそれは、確かにできません。

    私たちはそれを思索できます。それを本に書くことができます。それを想像することができます。あらゆる種類のトリックをそれにすることができます。しかしそれは実在のものではないでしょう。

    それゆえ、それについて思索しようとしないようにしましょう。それについて話すことさえしないようにしましょう。時間を超えた状態がどんなであるか思索することは、まったく無益です。意味がありません。

    しかし私たちは他の事をすることができます。それはどうやって心をそれ自身の過去から、それ自身の自己投影から自由にするか見出すことです。私たちは何がそれに継続性を、進歩の手段としての、理解の手段としての、あるいはあなたの言いたいものとしての一連の出来事を与えるのか見出すことができます。』(K)


    私の学習経過:

    『時間の産物である心』とは、どういうことなのか・・・。

    『私の心、あなたの心は過去の結果・・時間』であり、私たちはその「時間」を「道具」に「考える」のだが、

    『過去のものに基づいている・・過去の思考―時間で「考える」「思索・想像」するが、それは「実在のものではない」』という。

    『時間を超えた状態がどんなであるか思索することは、まったく無益で意味がない。』・・が、

    『私たちは他の事・・どうやって心をそれ自身の過去、自己投影から自由にするか見出すこと』ができるという。

    「時間」についての追求が始まる。

  • 【 Q&A.関係の中の批評とは(5) 】
    『 それゆえ、関係を理解するためには、受動的な気づきがなければなりません―それは関係を破壊しません。それどころか、それは関係をずっと生き生きと、ずっと意義深くします。そのとき、その関係の中に本当の愛情の可能性があります。暖かさ、親密感があります。

    それは単なる感傷や感情ではありません。そしてあらゆるものにそのように接近する、あるいはその関係の中にいることができるなら、私たちの問題は容易に解決するでしょう―財産の問題、所有の問題。

    なぜなら、私たちは、私たちが所有するものであるからです。お金を所有する人は、お金なのです。財産と彼自身を同一視する人は、財産なのです。あるいは家、あるいは家具。同様に観念、あるいは人。そして所有があるとき、関係はありません。

    しかし私たちの大抵は所有します。なぜなら、所有しないなら他に何も持っていないからです。所有しないなら、生を家具で、音楽で、知識で、あれやこれやで充たさないなら、私たちは空の貝殻です。その貝殻はたくさんの騒音を立て、その騒音を私たちは生活と呼びます。

    それで私たちは満足します。それの破裂、それの中断があるとき、悲しみがあります。なぜなら、あなたは突然あるがままのあなた自身を発見するからです―空の貝殻、あまり意味のない。

    それゆえ、関係の全内容に気づいていることは行為です。その行為から、真の関係の可能性、その大きな深み、その大きな意義を発見することの、そして愛が何であるか知ることの可能性があります。』(K)


    私の学習経過:

    私たちの生活・人生は『所有』なのか・・・、『お金、財産、家、家具・・観念、人、音楽、知識―騒音を立て、騒音を生活と呼ぶ。』『所有があるとき、関係はない』。・・「生きることは関係」です。

    だが『それの破裂、中断があるとき、悲しみがあり、突然あるがままのあなた自身を発見する』・・理解の可能性。

    『関係の全内容に気づいていることは行為―その行為から、真の関係の可能性、大きな深み、意義を発見、愛が何であるか知ることの可能性がある。』

    『関係を理解する受動的な気づき・・生き生き、意義深く、本当の愛情の可能性、暖かさ、親密感』・・というが、まず私たちは「自分の生活が・・所有なのか、所有に縛られているのか」を日々注意して見ることから始めなければならない。

  • 【 Q&A.関係の中の批評とは(4) 】
    『 理解があり得るのは、心が静かに気づいて観察しているときのみ―それは骨が折れます。なぜなら私たちは活動し、休みなく批判的で、非難し、正当化していることに喜びを得るからです。それが私たちの存在の全構造です。

    私たちは観念、偏見、視点、経験、記憶の遮蔽幕を通して理解しようとします。これら遮蔽幕のすべてを免れ、直接に理解することができるでしょうか。

    私たちは問題が非常に強烈なときそうします。あらゆるこういった方法を経由しません―私たちは直接に接近します。それゆえ関係の理解は、自己批判の過程が理解されて、心が静かなときのみ生じます。

    あなたが私の言うことを聞いていて、あまり大きな努力なしに、私が伝達しようと願っていることを追っていこうしているなら、お互いを理解する可能性があります。しかしあなたの意見、あなたが本から学んだこと、他の誰かがあなたに話したこと、等々を投げかけて批判しているなら、あなたと私は関係していません。なぜならこの遮蔽幕が私たちの間にあるからです。

    しかし私たち両方が問題の論点を―それは問題それ自体の中にあるのです―見出そうとしているなら、私たち両方がそのどん底まで行き、その真実を見出し、それが何であるか発見することを願っているなら、そのとき私たちは関係しています。

    そのときあなたの心は、このことの中で何が真実であるかを見るために見守っていて、油断なく気を配ばり、かつ受動的です。それゆえあなたの心は特定の経験を通して固まった何かの観念や理想、判断、意見に結びついていないで、並外れて敏速であるに違いありません。

    理解が生じるのは、受動的に気づいている心の敏速な柔軟さがあるときです。そのときそれは受け取ることができます。それは敏感です。賛成や反対の観念、偏見、意見でごった返しているとき、心は敏感ではありません。』(K)


    私の学習経過:

    教育や社会は、目的・努力・達成に縛られた「積極性」でなりたっているようですが・・

    『 私たちは活動し、休みなく批判的で、非難し、正当化に喜びを得る。

    関係の理解は、自己批判の過程が理解され、受動的に気づいている心の敏速な柔軟さ―心が静かなときのみ生じる。』

    批判、非難、正当化は、過ぎ去った「過去」との比較であり、そこに「生きている現在の理解」はないようです。

  • 【 Q&A.関係の中の批評とは(3) 】
    『 それから、自己批判があります。自分自身に批判的であること、自分を批判し、非難し、あるいは正当化すること―それは自分自身の理解をもたらすでしょうか。

    私が私自身を批判し始めるとき、私は理解する、調べる過程を限定しているのではないでしょうか。内省、自己批判の一形、は自己を解明するでしょうか。何が自己の解明を可能にするでしょうか。

    絶えず分析的で、恐れ、批判的であること―確かにそれは解明することを助けません。自己の解明をもたらし、それゆえ自己を理解し始めるものは、何の非難もなく、何の同一化もない自己への気づきです。

    ある自発性があるに違いありません。あなたは絶えずそれを分析し、鍛錬し、形造っていることはできません。この自発性は理解するのに不可欠です。私が単に制限し、制御し、非難するに過ぎないなら、そのとき私は思考と感情の動きを停止させているのではないでしょうか。

    私が発見するのは思考と感情の動きの中においてです―単なる制御の中ではなく。そして発見するとき、そのとき、それについてどういうふうに行動するか見出すことが重要です。

    ところで、私が観念にしたがって、基準にしたがって、理想にしたがって行動するなら、そのとき私は自己を特定の型に強制しているのです。その中に理解はありません。超越はありません。

    しかし私が何の非難もなしに、何の同一化もなしに自己を見つめていることができるなら、そのときそれを超えることが可能です。それが、自分自身を理想に近づけるこの全過程がそのようにまったく間違っている理由です。理想は自家製の神です。そして自己投影されたイメージに従うことは、確かに解放ではありません。』(K)


    私の学習経過:

    他人に対しても、自分に対しても、私たちは比較・評価・批判し、非難とともに自己を正当化するが好きなようです。

    だが、『自己を理解し始めるのは、何の非難も、同一化もない自己への気づき』であり、

    『思考と感情の動きの中に発見する―どう行動するか見出すことが重要』という。

    非難・反省や正当化は、「現在」の「事実・ありのまま」―『思考と感情の動き』に目を向けないで、「過去」「記憶」「比較」に過ぎない―『観念、基準、理想に従って行動するなら、自己を特定の型に強制し、その中に理解、超越はない』ことが理解できます。

  • 【 Q&A.関係の中の批評とは(2) 】
    『 問題はこうです。関係を理解する心とハートの必要な状態は何でしょうか。理解する過程は何でしょうか。どうやって私たちは何かを理解するでしょうか。あなたがあなたの子供に関心があるなら、どうやってあなたは子供を理解するでしょうか。

    あなたは観察しないでしょうか。あなたは子供が遊んでいるのを見つめます。様々な気分でいる子供をよくよく眺めます。あなたの意見を彼に表明しません。彼にあれやこれやであるべきだと言いません。あなたは油断なく見つめ、活発に気づいているのではないでしょうか。

    そのとき多分、あなたは子供を理解し始めるのです。しかしあなたが絶え間なく批評して、絶え間なくあなた自身の特別な個性、傾向、意見を注入し、子供のあるべき、あるいはあるべきでないやり方を決め、その他もろもろをしているなら、明らかにあなたはその関係の中に障壁をつくり出しています。

    しかし、あいにく私たちの大抵は形造るために、干渉するために批評します。そしてそれはある量の快楽、ある満足を与えます。何かを―夫、子供、あるいは誰であろうとその人とあなたの関係を形造るという。あなたはその中に権力の感覚を感じます。あなたはボスです。そしてその中にものすごい満足があります。

    確かに、そのすべての過程を通して、関係の理解はありません。単なる押し付け、他人をあなたの性向、欲望、意志の特別の型にはめ込もうという欲望があるにすぎません。これらはすべて関係の理解を妨げるのではないでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 どうやって何かを理解するか。子供を理解するか。』ではなく、親は「どうやって自分の願望に従わせるか」を考えているようで、それが親自身の欲望であるのか・・自分自身の心に気がついているのか。

    『絶え間なく批評して、自身の特別な個性、傾向、意見を注入し、子供のあるべき、あるべきでないやり方を決め、関係の中に障壁をつくり出している。権力の感覚を感じ、ものすごい満足がある。』

    『すべての過程を通して、関係の理解はない。押し付け、他人をあなたの性向、欲望、意志の特別の型にはめ込もうという欲望。すべて関係の理解を妨げる。』

    これは、まさに「子育てから教育・社会につながる人間関係・欲望・対立・争い・暴力・腐敗・破壊を育てる過程」なのでしょう。

  • 【 Q&A.関係の中の批評とは(1)    】
    『 Q: 関係の中に批評はどんな場所を持つのでしょうか。破壊的な批評と建設的な批評の違いは何でしょうか。

    A: まず最初に、なぜ私たちは批評するのでしょうか。それは理解するためでしょうか。それともそれは単に口やかましい過程に過ぎないのでしょうか。私があなたを批評するなら、私はあなたを理解するでしょうか。理解は判断を通して生じるでしょうか。

    私がよく理解したいなら、表面的にではなくて深く、あなたとの関係の意義全体を理解したいなら、私はあなたを批評し始めるでしょうか。それとも、静かに観察して、あなたと私の間のこの関係に気づいているでしょうか―私の意見、批評、判断、同一化、あるいは非難を投じるのではなく、静かに起こっていることを観察して。

    そして、私が批評しないなら、何が起こるでしょうか。人は眠ってしまいがちではないでしょうか。それは私たちが口やかましいなら眠らないということではありません。多分それは習慣になります。そして私たちは習慣を通して私たち自身を眠りにつかせるのです。

    批評を通して関係のより深く、より広い理解があるでしょうか。批評が建設的であるか破壊的であるかは問題ではありません―それは確かに見当違いです。』(K)


    私の学習経過:

    『なぜ私たちは批評するのか。理解するためか。単に口やかましい過程に過ぎないのか。理解は判断を通して生じるのか。』

    これは家庭や学校でも社会生活でも、、重要な問題です。

    それにしても・・『批評が建設的であるか破壊的であるかは問題ではない―確かに見当違い。』とはどういうことなのか・・・「ほめるのか叱るのか」は、これも家庭・学校でも社会でも、いろいろと問題になっていますが・・・。

    『批評しないなら、人は眠ってしまいがち。私たちは習慣を通して私たち自身を眠りにつかせる。』とは・・

    『批評を通して関係のより深く、より広い理解があるでしょうか。』・・という私たちの基本的なテーマについて学んでいきたいと思います。

  • 【観念と自己認識(5) 】
    『 関係が観念に基づいているなら、そのとき、行為はありません。私が関係を抑えよう、それを観念に順応させよう、制限しようとするなら、私たちの大抵がそうするのですが、それは行為ではありません。関係の中に理解はありません。

    しかしそれが虚偽の過程であり、錯覚に、限定に、葛藤に、分離に―観念は常に分離します―通じるということを見るなら、そのとき私たちは関係を直接に理解し始め、関係の上に偏見、条件を課さないでしょう。

    そのとき私たちは、愛は思考の過程ではないということが見えるでしょう。あなたは愛を思うことはできません。しかし私たちの大抵はそうします。それゆえ、それは単なる感情に過ぎません。

    私たちが感情に基づいた観念に関係を限定するなら、そのとき私たちは愛を捨てます。私たちはハートをマインドの物事でいっぱいにします。私たちは感情を感じてそれを愛と言うかもしれませんが、それは愛ではありません。

    たしかに愛は思考の過程を超えたものです。しかしそれは、関係の中で思考過程を理解することを通してのみ明らかにされ得るのです。思考過程を否定することを通してではなく、関係の中で私たちの心のやり方と行為の全体の意義に気づくことを通して。

    私たちがより深く進むことができるなら、そのとき行為は観念に関係しないということがわかるでしょう。そのとき行為は瞬時瞬時です。そしてその経験の中に、それは正しい瞑想です、不死があるのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 関係が観念に基づいているなら、それは行為ではなく、理解はない。

    虚偽の過程であり、観念は常に分離する―ことを見るなら、関係を直接に理解し始める。

    愛は思考の過程ではないことが見える。それは単なる感情に過ぎない。』

    私たちの日々の「行為」は、そのほとんどが何かしらの「目的」をもって「何かをなしとげよう」「何かになろう」とする過程であり、それは昨日までの過去の考え・思考や知識・経験―「観念」に基づいている。

    だが、私たちが社会で「愛」と呼ぶものは愛ではなく、『愛は思考の過程を超えたもの・・関係の中で思考過程を理解することのみ明らかにされ得る・・私たちの心と行為の全体の意義に気づくことを通して。行為は観念に関係しない。行為は瞬時瞬時。』という。私たちの生活・行為をかえりみて、それが理解できるだろうか。

  • 【観念と自己認識(4) 】
    『 行為は、確かに特定の観念に従うことの中にはありません。それは単に思考の継続に過ぎず、行為ではありません。そして、行為を観念に従わせることなしに生きることはできないでしょうか。なぜなら観念は継続します。

    行為を観念に従わせるなら、私たちは行為に継続性を与え、行為に「私」とか「私のもの」という同一化があります。観念形成を通して、「私」の強化があり、あらゆる葛藤と悲惨の源です。

    確かに、不死は観念ではありません。それは観念形成を超えた、思考を超えた、記憶の束を超えたものです。それらはすべて「私」です。そしてその状態を経験することがあるのは観念形成が停止するとき、考える過程が停止するときだけです。

    不死のものと呼ぶものを経験すること、始めも終わりもない状態は、思考の産物ではありません。なぜなら思考は単に記憶の継続、記憶の反応に過ぎないからです。その並外れた状態を経験することは、自己の理解と共に生じることができるだけです―それに到達しようとすることによってではなく。

    なぜならそれは単に自己投影の、実在しないものを経験しようとしているに過ぎないからです。この理由のために意識の過程の全部、総体を理解することが重要なのです。それを私たちは「私」、「私のもの」と言います。それは孤立の中でなく、関係の中にのみ理解することができます。

    それが、真実、あるいは実在、あるいは神、あるいはそういったものを本当に理解したい者が、関係の意義を充分理解することが絶対必要な理由です。なぜならそれが唯一の行為であるからです。』(K)


    私の学習経過:

    『「思考」の継続に過ぎない「観念」に従うのは「行為」ではない』  

    『観念は「私」「私のもの」という同一化、強化があり、あらゆる葛藤と悲惨の源になる』

    『「不死」は観念でなく、観念、思考、記憶―「私」を超えたもの。経験があるのは観念形成・考える過程が停止するときだけ』

    『「思考」は記憶の継続、反応に過ぎない。自己投影の、実在しないものを経験しようとするに過ぎない』

    『不死―始めも終わりもない状態は、思考の産物でなく、「自己の理解」と共に生じる―到達、孤立の中でなく、「関係」の中にのみ理解。』

    思考・観念―過去にとらわれている私たちの生活を理解して、「現在」の「関係」の中から学ぶことができるだろうか。

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