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投稿コメント一覧 (161コメント)

  • 【 Q&A.苦痛と苦悩の意義は何か(1) 】
    『 Q: 苦痛と苦悩の意義は何でしょうか。 

    A: あなたが悩むとき、あなたが苦痛を持つとき、その意義は何でしょうか。肉体的苦痛は一つの意義を持っています。しかし多分、私たちは心理的な苦痛と苦悩を意味しているのでしょう。それは違ったレベルで、まったく違った意義を持っています。

    苦悩することの意義は何でしょうか。なぜあなたは苦悩することの意義を見出したいのでしょうか。それが意義を持っていないということではなく―私たちは見出そうとしているのです。しかしなぜあなたはそれを見いだしたいのでしょうか。なぜあなたはあなたが苦悩する理由を見出したいのでしょうか。

    「なぜ私は苦悩するのか」という質問を自問するとき、そして苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないでしょうか。苦悩することの意義を私が捜すとき、私はそれを避けている、逃れている、それから逃げ出しているのではないでしょうか。

    事実はこうです、私は苦悩している。しかし私が心に、それに働きかける気にさせ、「さて、なぜ」と言うや否や、私はすでに苦悩の強さを薄めたのです。言い換えれば、私たちは苦悩を薄めることを、緩和すること、脇にやること、説明し去ることを望みます。確かにそれは苦悩の理解を与えません。それゆえ、それから逃げようとする欲望から自由であるなら、そのとき私は苦悩の内容が何であるか理解し始めます。』(K)


    私の学習経過:

    『 あなたが悩むとき、苦痛を持つとき、その意義は何か。なぜ意義、理由を見出したいのか。

    苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないか。

    事実はこうです、私は苦悩して、心に、働きかける気にさせ、「さて、なぜ」と言うや否や、苦悩を薄める、緩和する、脇にやる、説明し去ることを望む。それは苦悩の理解を与えない。逃げようとする欲望から自由であるなら、苦悩の内容が何であるか理解し始める。』

    苦痛・苦悩に対して、原因をさがすのは逃避であり、苦悩を薄め、解放されたいからだが、それは理解に至らないのか。苦悩から逃げようとしないことが、その内容を「理解」し始めることにつながるという。それはどういう意味を持つのか、学んでいきましょう。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(3) 】
    『 進んでいる歴史的な運動があります。実在はこの運動にどんな場所を持つのでしょうか。多分まったく何も持っていないのです。あなたや私はまったく数に入らないのです。この運動は巨人のようです。それは進んでいます。それは何世紀ものはずみを持っており、進んでいくでしょう。

    個人として、この運動に対するあなたの関係は何でしょうか。あなたが何をしようが、それに影響するでしょうか。あなたは平和主義者であるので戦争を止めることができるでしょうか。戦争があるからではなく、それとの関係を見出したからではなく、本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者です。そこで事は終わります。

    しかしあなたの理解、聡明さと戦争のこの怪物のような論理的な運動の間の関係を見出そうとすることは、私にはまったく無駄なことのように思われます。私は個人であることが、さらに何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ることが、それゆえ分離的な行為から自由であることができます。

    私は少々の財産を持っているかもしれません。確かにそれは私を分離的な存在にしません。しかし分離していること、孤立していること、何ものかであることは心理的状態の総体です―それは災難をもたらすものであって、非常に破壊的です。そして、それを克服するために、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 進んでいる歴史的な運動・・何世紀ものはずみを持って。

    個人として、運動に対するあなたの関係は何か。本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者。そこで終わり。

    私は個人であること、何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ること、分離的な行為から自由であることができる。

    分離、孤立、何ものかであることは心理的状態の総体―災難をもたらす、非常に破壊的。克服するため、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つ。』

    社会の中で、他者との関係の中で『何ものかであること』・・地位と権力を求める子育て・教育から始まる『反社会的な感情・分離的な行為』が『災難・破壊』につながることが、私たちは関係の中で真に理解できるようになるだろうか・・・。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(2) 】
    『 集団的な行為は個人の否定と共に生じるのでしょうか。個人は集団に対立するものでしょうか。集団は偽りではないでしょうか、大衆は非実在ではないでしょうか。   

    個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出します。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。個人が聡明であるなら、協力するでしょう。確かにそれが私たちの問題ではないでしょうか。

    私たちは最初に大衆をつくり出し、そして次に大衆との個人の関係を見出そうとします。しかし大衆は実在するものかどうか見出しましょう。ここにいる私たちの集まりは、催眠術によって、宣伝によって、集団にされることができます。

    様々な手段を通じて、私たちはイデオロギーのため、国家のため、教会のため、観念などなどのため、集団的に行動するよう駆り立てられる事があります。すなわち、集団的行動は恐怖、褒賞、その他もろもろを通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられることがあります。

    その条件が造り出されたとき、私たちは造り出されたものと個人―それは現実のものです―の関係を確立しようとするのです。ところが、分離の意味のすべてを的確に理解することを通して個人が彼の分離の感覚を失い、それゆえ協力的に行動することはできないでしょうか。

    しかし、それは非常に困難なので、国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるように強制したり、誘惑したりします。個人は歴史の中にどんな場所を持っているでしょうか。あなたや私のすることが何だというのでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出す。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。

    様々な手段を通じて、私たちはイデオロギー、国家、教会、観念のため、集団的に行動するよう駆り立てられる。集団的行動は恐怖、褒賞、他を通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられる。

    国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるよう強制、誘惑する。』

    個人の集合による共感・協力の意識が高まるのを利用して、組織は個人を操作するのは、政治を見れば明らか。政治家が「国民が望む」とか「国民のため」とひとくくりにして言うとき、気をつけなければいけない、だまされてはいけない。

  • 【 Q&A.正しい関係とは何か(1) 】
    『 Q: 正しい関係とは何でしょうか。個人と集団・大衆の間に。

    A: 個人と大衆の間に何か関係があるとあなたは思いますか。あなたと集団の間に。 国家、政府は私たちが単に市民、集団であることを好むでしょう。しかし私たちは最初に人間であり、そしてのちに市民です―最初に市民で、のちに人間ではなく。

    国家は私たちが人間、個人ではなく、大衆であるのを好むでしょう。私たちが市民であればあるほど、能力はますます大きく、効率はますます大きいからです―私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が私たちにそうであるのを望む道具になります。

    それゆえ、私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければなりません。個人、人間は彼の私的な感情、希望、失敗、失意、熱望、感覚、快楽を持っています。そしてそのすべてを集団に還元しようと望む視点があります。というのは集団を取り扱うのは非常に簡単であるからです。

    布告を通せ、するとそれはなされる。禁制を与えよ、するとそれは従われる。それゆえ、組織があればあるほど、それらが効率的に組織されればされるほど、ますます個人は否定されます。教会によるにしろ、国家によるにしろ―私たちはそのとき皆キリスト教徒です、皆インド人です、個人ではなく。

    その精神性で、その状態の中で、それを私たちの大抵は望むのですが、個人的実在は何かの場所を持つでしょうか。私たちは集団的な行為がなければならないと認識します。』(K)


    私の学習経過:

    『 正しい関係―個人と集団の間・・

    国家、政府は私たちが市民、集団であることを好む。私たちは最初に人間、のちに市民。

    私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が望む道具になる。

    私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければならない。

    効率的に組織されるほど、ますます個人は否定される。教会、国家―私たちは皆キリスト教徒、皆インド人・・個人でなく。

    私たちの大抵は望む・・個人的実在は何かの場所を持つか。私たちは集団的な行為がなければならないと認識。』

    私たち個人は、集団の中に「人間」である視点が薄れて、宗教や国家の部品として利用されている。戒律・儀式、選挙・支持率の中にまぎれてただ従うこと、個人・人間としての意思を失っていることには、気がつかないようになってしまうのだろうか。

  • 【 Q&A.命名について(8) 】
    『 しかしこの過程は骨が折れます。それは、内部で心に起こっているあらゆることに、心が絶えず気づいていなければならないということを意味します。この点に到達するためには、初めから終わりまで、何の判断も正当化もあり得ません―これが終わりということではなく。

    終わりはありません、なぜならなお続いている途方もないものがあるからです。約束はありません。実験するのは、中心の多くの層がすべて解消されるようにあなた自身の中に深く、深く入って行くのは、あなたです。そしてあなたはそれを素早く、あるいはぐずぐずとすることができます。

    心の過程を見守ることは途方もなく興味深いことです。いかに心が言葉に依存するか、いかに言葉が記憶を刺激し、死んだ経験を生き返らせて命を与えるか。その過程の中に心は生きています、未来の中にせよ、過去の中にせよ。

    したがって、心理的のみならず神経的にも、言葉は巨大な意味を持っています。どうかこのすべてを私から、あるいは本から学ばないでください。それを他人から学ぶこと、あるいは本の中に見つけることはできません。学んだり本から見つけることは実在のものではないでしょう。

    しかしあなたはそれを経験することができます。行動しているあなた自身を見守ることができます。考えているあなた自身を見守りなさい。どんなふうにあなたが考えるか、どんなに素早くあなたが感情に、それが起きるとき命名しているかを―そしてこの全過程を見守っていることが、心をその中心から解放します。そのとき心は静かであるので、永遠のものを受け取ることができます。』(K)


    私の学習経過:

    『 心に起こるあらゆる過程を見守ることは途方もなく興味深い・・いかに心が言葉に依存、言葉が記憶を刺激、死んだ経験を生き返らせ命を与えるか。

    言葉は巨大な意味・・学んだり本から見つけることは実在ではない。

    行動し、考えている自身を見守る、どんなふうに考えるか、感情に命名しているか。

    全過程を見守ることが、心を中心から解放・・心は静かで、永遠のものを受け取ることができる。』

    心は、事実を・・言葉で見て、言葉で考えるが、言葉は事実から離れて色付けされ、好きなように、都合よく脚色されて・・私たちの生活は「事実から離れて、事実とは違う意味やイメージ」で考え、対応しているのかもしれない。

  • 【 Q&A.命名について(7) 】 
    『 心がもはや、言葉から、過去の経験からつくられた思考者としての中心でないとき―それらはすべて蓄積され、分類に、分類棚に入れられた記憶、ラベルです―そういったことを何もしていないとき、そのとき、明らかに心は静かです。

    それはもはや束縛されていません。「私」としての中心を持ちません―私の家、私の業績、私の仕事―それらはなお言葉であって、感情に対し刺激を与え、それによって記憶を強化します。これらのことが何一つ起きていないとき、心は非常に静かです。

    その状態は否定ではありません。それどころか、その点に到達するためには、あなたはこのすべてを通り抜けなければならず、それは巨大な仕事です。それは単に数組の言葉を学び、それを小学生のように繰り返すことではありません―名付けないこと、名付けないことと。

    その含みをすべてやり抜くこと、それを経験すること、どのように心が働き、それによってもはや命名していないその時点に到達するか見ること、それは思考とは別の中心がもはやないということを意味します―確かに、この全過程は真の瞑想です。

    そして心が本当に平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることができます。他のどんな過程も、実在を求めるどんな探索も、単に自己投影の、手製のものに過ぎず、それゆえ実在のものではありません。』(K)


    私の学習経過:

    『 心が、言葉・過去の経験・思考者の中心―蓄積、分類、記憶、ラベルでないとき―心は静か。

    私の家、業績、仕事―言葉、感情に刺激、記憶を強化。これらが何一つ起きていないとき、心は非常に静か。名付けないこと。

    思考とは別の中心がないことを意味―全過程は真の瞑想。

    心が本当に平静であるとき、測ることのできないものが生じる。』

    現実の・目の前の・・物や事実に名前・言葉で考えたり、人に伝えるのは・・、記憶・過去であり、私たちは『感情を刺激し、記憶を強化』しながら・・現在を、過去の記憶の中に生きているのだろうか・・・。

  • 【 Q&A.命名について(6) 】
    『 問題はこうではないでしょうか。怒りのような、私たちが命名する対象の感情からどうやって自由であればいいか。それにくびきをかけるのではなく、昇華するのではなく、抑圧するのではなく、それらは皆ばかげていて未熟です。

    どうやってそれから本当に自由であればいいか。それから本当に自由であるためには、言葉が感情よりもっと重要であるかどうか発見しなければなりません。「怒り」という言葉が感情それ自身より、より多くの意味を持ちます。そして、それを見出すためには、感情と命名の間に間隙がなければなりません。それが一つの部分です。

    私が感情に名前をつけないなら、思考が単に言葉のために作動していないなら、あるいは言葉、イメージ、表象の見地で私が考えないなら―それを私たちの大抵がするのですが―そのとき何が起こりますか。確かに心は、そのとき、単に観察者に過ぎないのではありません。

    すなわち、心が言葉、象徴、イメージの見地で考えていないとき思考―それは言葉ですが、とは別個の思考者がありません。そのとき心は静かではないでしょうか―静かにさせられたのではなく。それは静かです。

    心が本当に静かなとき、そのとき起こった感情は即座に対処することができます。感情が継続性を持つのは私たちが感情に名前を与え、それらを強めるときだけです。それらは中心に蓄積され、それらを強めたり伝達するため、私たちはさらにラベルを貼るのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 心が言葉、象徴、イメージの見地で考えないとき、言葉とは別個の思考者がない・・心は静か、感情は即座に対処できる。

    感情が継続性を持つのは感情に名前を与え、強めるときだけ。中心に蓄積、強めたり伝達、さらにラベルを貼る。』

    リンゴ(もの)や悲しい(感情)などの言葉は、記憶として残り、現在進行形の現実の中で取り出したり、他者との共通理解にも使われるが、同じ言葉が、自分の現在と過去でも、伝えた相手にも・・時によって違ったイメージが描かれる。
    「言葉は事実ではない」という言葉の意味する真意を、私たちはいつも気をつけて理解し、見ていかなければならないのではないか。

  • 【 Q&A.命名について(5) 】
    『 したがって、あなたはその中になおも含まれていることを続けません。あなたはすでにそれを判断し始めている、好むか好まないか決定し始めているのです。あなたは生じているものを理解するのを続けないで、すでに判断しています。それはあなたはそこから行動する中心を持っているということを意味します。

    したがって、あなたはあなたが判断する瞬間、固定されて留まるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが命名しないとき何が起こりますか。あなたはより直接に情緒を、感覚を見て、それに対してまったく違う関係を持ちます。ちょうど命名しないとき花に対して持つように。

    あなたはそれを新たに見ることを強いられます。あなたが人の集団に命名しない時、一人一人の個人の顔を見、その人たち皆を集団として処理しないように強いられます。したがって、あなたはずっと油断なく気を配っており、ずっとよく観察しており、より理解しています。より深く哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかし彼ら皆を集団として処理するなら、それは終わります。

    あなたがラベルを貼らないなら、それぞれの感情をそれが生じるとき、じっと見る必要があります。ラベルを貼るとき、感情はラベルと違うでしょうか。それともラベルが感情を目覚めさせるのでしょうか。どうかそれをよく考えてください。

    私たちがラベルを貼るとき、私たちの大抵は感情を強化します。感情と命名は瞬間的です。もしも命名と感情の間に間隙があるなら、そのときあなたは感情が命名と違うかどうか見出すことができるでしょう。そのとき、感情を、それに命名することなしに取り扱うことができるでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 あなたは好むか好まないか判断・行動する中心を持って固定し、理解しない。

    命名しないとき・・直接に情緒、感覚を見て、まったく違う関係・・新たに見ることを強いられ、油断なく気を配って、ずっとよく観察し、より理解している。より深く哀れみ、愛の感覚を持つ。

    私たちがラベルを貼るとき、感情を強化。感情と命名は瞬間的。』

    名前・言葉は、実物・実体ではない・・表現―過去ですから、現在どのようにもイメージできる。私とあなたでは、全く違う像―想像・映像を描いているかもしれない。自身の中でも、他者との間にも「理解」のズレがあるだろう。

  • 【 Q&A.命名について(4) 】
    『 私たちにとって真理、神というような言葉や、その言葉が表わす感情は非常に重要になりました。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「インド人」という言葉や、「怒り」という言葉を言うとき―私たちは感情を表している言葉です。

    しかし私たちはその感情が何であるか知りません。なぜなら言葉が重要になったからです。あなたがあなた自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、その言葉は何を意味しますか、あなたが決して調べたことのないその言葉の背後の意味は何でしょうか。

    私たちの中心、核は言葉、ラベルです。ラベルが重要でなく、重要なのはラベルの背後にあるものであるなら、そのときあなたは調べることができます。しかし、あなたがラベルと結びついて、それにくっついているなら、あなたは進むことができません。

    このように私たちはラベルと結びついています。家、形、名前、家具、銀行預金、私たちの意見、私たちの興奮剤などなど。私たちはそれらすべてのものです―名前によって表わされるそれらのもの。ものが重要になりました、名前、ラベル。それゆえ中心、核は言葉です。

    さて、言葉、ラベルがないなら、中心があるでしょうか。消失があります、空虚があります―恐怖の空虚ではありません、それはまったく違うものです。無としてある感覚があります。そしてすべてのラベルを除いてしまったので、あるいはむしろなぜ感情と観念にラベルを貼るかを理解したので、あなたは完全に新しいのではないでしょうか。

    そこからあなたが行動している中心はありません。中心―それは言葉―は解消されました。ラベルは取り去られました。そして中心としてのあなたはどこにいますか。あなたはそこにいます。しかし変化がありました。その変化はあなたを少し驚かせるのです。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが、家、形、名前、家具、銀行預金、意見などラベルと結びついて、言葉や感情が重要になるとき、進むことができない。

    言葉、ラベル―中心がないなら、消失、空虚―恐怖の空虚ではないまったく違う無としてある感覚・・あなたは完全に新しい―そのときあなたは調べることができる。』

    私たちが何かを見て、それが何であるか名前・言葉を知っているとき・・見るのを、理解するのをやめてしまい、そこから先に進むことができないようです。

  • 【 Q&A.命名について(3) 】
    『 あなたが命名する核は何でしょうか、常に命名し、選択し、ラベルをつけている中心は何でしょうか。私たちが行為し、判断し、命名している中心、核があると感じているのではないでしょうか。

    その中心、その核は何でしょうか。精神的精髄、神、と思いたいかもしれません。それゆえ、命名し、判断しているその核、その中心が何であるか見出しましょう。

    確かにその核は記憶ではないでしょうか。同一化され、囲い込まれた一連の感覚―現在を通して生命を与えられた過去。その核、中心が命名、ラベル貼り、回想を通じて現在を養います。

    私たちはそれを解明するとき、この中心、核が存在する限り理解はありえないのを見るでしょう。理解があるのはこの核の消失したときだけなのです。なぜなら、結局その核は記憶であるからです。様々の経験の記憶、それが名前、ラベル、同一化を与えてきました。

    それらの名づけられた、ラベルを貼られた経験の中心が、経験の記憶の感覚、快楽と苦痛にしたがって、受容と拒否の決定をしているのです。それゆえ、その中心は言葉です。名前を付けなければ、その中心はありますか。

    言葉の観点で考えないなら、言葉を使わないなら、あなたは考えることができますか。思考することは言語化を通して生じます。あるいは、言語化は思考することに応答し始めます。その中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶です。

    どうか、それをあなた自身の中で見つめてください。そうすれば言葉やラベルが実体よりはるかに重要になっているのが、そして私たちが言葉の上で生きているのがわかるでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 命名、選択、判断する中心は・・記憶―現在を通して生命を与えられた過去。理解はありえない。

    言葉を使わないなら、考えることができるか。思考は言語化で生じる―中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶。

    ・・言葉やラベルが実体よりはるかに重要、言葉の上で生きている。』

    現在を見ながら・・私たちはいつも「考えて」いる・・それは言葉であり、記憶であり、過去でもある。
    言葉を覚えていない小さな子どもは・・考えないで「見る」―記憶・過去が少ないからだ。
    成長と教育は・・「実体を見る」ことから「言葉の上で生きている」ことに変化することなのか・・・。

  • 【 Q&A.命名について(2) 】
    『 単に伝達するだけでないとき、花に、何かに名前をつけるとき何が起こるでしょうか。どうかそれを追ってください、それを私と考え抜いてください。

    あるものに名前を付けることによって、私たちは単にそれをある範疇に入れたに過ぎません。そして私たちはそれを理解したと思うのです。それをもっと綿密に見ません。しかし、名前を付けないなら、それを見るように強いられます。

    すなわち、花に、あるいはそれが何であっても、新しさを伴って、調査の新しい性質を伴って接近します。まるで以前に決して見たことがないかのようにそれを見ます。命名することは人々を処理する非常に簡便なやり方です―彼らはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言う事によって。

    彼らにラベルを貼り、ラベルを破壊します。しかし、人々にラベルを貼らないなら、あなたは彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことはずっと困難です。あなたはラベルを爆弾で破壊することができ、正しいと感じます。

    しかしラベルを貼らないで、したがって個々のものを見なければならないなら―それが人であろうが、花であろうが、出来事であろうが、感情であろうが―そのときあなたはそれとの関係を熟考するように強いられ、そして行為があとを継ぎます。

    それゆえ、名称をつけること、あるいはラベルを貼ることは何かを処理する、否定する、非難あるいは正当化する、非常に簡便なやり方です。それが問題の一つの側面です。』(K)


    私の学習経過:

    『あるものに名前を付けることによって、私たちは理解したと思う。もっと綿密に見ない。

    名前を付けないなら、見るように、関係を熟考するように強いられ、行為があとを継ぐ。

    名称、ラベルは、何かを処理、否定、非難・正当化する、非常に簡便なやり方』

    物や考えに名前を付けるのは、「区別し、記憶、記録、言葉で考え、人に伝える―生活・教育・社会活動に必要」だが、「言葉なしに何かを見る、考える、記憶する」ことも確かにある。

    だが、名前を付けるのは、重なって境目がない物や考えをどこかで区切って区別することでもあり、その名前で解っていると思いこみ、物や考えを「よく見る」「過去の記憶・知識・経験にとらわれないで、いま現在の目で見る」ことがおろそかになってしまうことも明らかです。

  • 【 Q&A.命名について(1) 】
    『 Q: 命名、あるいはラベルを貼ることなしに、どうやって感情を意識できるでしょうか。私が意識したなら、それが起こると、瞬時にその感情が何であるか分かっているように思われます。あなたが「命名してはいけない」と言うとき、別のことを意味しているのでしょうか。

    A: これは非常に難しい問題です。多量の考えと、全内容に気づくことを要します。私が説明するとき、あなたが単に言葉の上でなく、経験することを通してついていくことを望みます。

    この問題を深く理解できるなら、私たちは多くのことを理解すると感じます。私は時間の中でできるなら、様々な方向から接近するようにします。それは非常に込み入った、微妙な問題だからです。

    それはあなたのすべての注意を必要とします。私たちが議論していることを、単に聞いて後ほどそれを経験しようとするのでなく、あなたはいま経験しているからです。後ほどはありません。あなたはいま、常にいま、経験するか、あるいは決して経験しないかどちらかです。

    さて、なぜ私たちは何かに名前をつけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人に、気持ちにラベルを貼るのでしょうか。自分の気持ちを伝達するため、花を描写するため、などなど。あるいはその気持ちと同一化するためではないですか。

    私は伝達するために、物や感情に名前を付けます―「私は怒っている」。あるいはその感情を強めたり、消したり、何かをするためにその気持ちと同一化します。私たちはあるものに、バラに、ほかの人に伝えるために名を付けます。

    名前を付けることによって、理解したと思うのです。素早くそれを見て「それはバラだ」と言い、先へ進みます。名前を付けたことで、私たちはそれを理解したと思うのです。私たちはそれを分類し、その花の全体と美しさを理解したと思うのです。』(K)


    私の学習経過:

    なぜ花や木や自分の感情に名前を付けるのか・・あたりまえのことで、普段考えたこともないことですが、改めて考えてみましょう。
    思いつくのは・・物を区別して、記憶したり、記録したり、人に伝えて話し合うときにも必要です。それがないと、生活や教育など社会活動が進まず、滞って、私たちの学習活動にも大きな困難をもたらすことは明らかなようですが・・・。
    あらためて、「命名・名前を付ける」ことの意味を考えてみましょう。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(5) 】
    『 成功したい、獲得したい、達成したいというあなたの欲望のすべての蓄積的な影響―理解を否定―に気づいてください。なぜなら、生の全体の過程の理解は欲望を通じては生じません―自発的な出会いがなければなりません。

    この心理的過程の全部を、外側の表現だけでなく見ることができるなら―いかにすべての政府、社会、様々な共同体があらゆる無情さを伴って効率を要求するか―そのとき、心は多分その慣れている習慣からつながりを断ち始めるでしょう。そのとき、実際に自由であるでしょう。もはや手段を求めていないでしょう。

    心が静かであるとき、あの創造的なものが生じます。それが創造それ自体です。それ自身の表現を見出すでしょう。あなたがそのための表現を選ぶ必要はありません。あなたが画家であるなら絵を書くでしょう。活力があり、優美を与え、幸福を与えるのは創造的な理解です―あなたが学んだ何かの技法的な表現ではありません。

    それゆえ、実在、神、あるいはそういったものは、技法を通じて、手段を通じて、長い、決心した練習と訓練を通じて生じることのないものです。既知の目的と共に並べられた道順ではありません。人は海図にない海に入らなければなりません。単独性がなければなりません。

    単独は手段のないことを意味します。手段を持っているときあなたは単独ではありません。完全に裸であること、蓄積された練習、希望、快楽、安全を求める願望のすべてが空(から)であることがなければなりません―それらはすべて手段、方法、技法を変わることなく保持することです。

    そのときのみ、もうひとつのものがあり、問題が解決します。瞬時瞬時死んでいる、したがって再生している人は生に出会うことができます。彼が生とは別であるということではありません。彼は生です。』(K)


    私の学習経過:

    『欲望の蓄積的な影響は理解を否定。人は海図にない海に入らなければ。

    そのときのみ、問題が解決。瞬時瞬時死んでいる、再生している人は生に出会うことができる。』

    技法・手段・訓練によって、成功・獲得・達成を求める欲望は理解に至らない。過去の繰り返し・積み重ねでなく、目的・達成の意志からも自由に・・現在のありのままの事実を見て、つねに新しく理解し対応していくことによって、人は真の意味で生に出会うことができるようです。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(4) 】
    『 私たちの大抵が方法、技法を求めているのは何故でしょうか。明らかに私たちは確かであること、間違えることなく確実であることを望みます。私たちは試みること、発見することを望みません。

    技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げます。なぜなら真理、あるいはそういったものは瞬時瞬時であり、それは連続的、増大、成長ではありません。

    私たちは確かでありたい、習慣、実践を養成したいという心理的衝動から自由であることができるでしょうか。これらは皆抵抗、防衛です。この防衛機構を持って、私たちは活力ある、素早いものを理解しようと望むのです。

    私たちがそれを見ることが、手段の養成、あるいは手段を求める探索に含まれる意味を見ることができるなら、その心理的意味を見ることができるなら―単に表面的あるいは工業的意味だけでなく、そのことは明白です。

    充分に私が説明しているとき、あなたと私がそれを試しているとき理解できるなら、私たちはそれから自由であることがどういうことか発見できるでしょう。  

    心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるでしょうか。技法、手段は安全を提供します。あなたは溝の中を走ります。そのとき、うまく行くとか行かないということはありません。

    あなたは単に自動的に作動しているに過ぎません。習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心ができるでしょうか―そのような心が自由であることができるでしょうか。

    それは、私たちが習慣の全意義、その弾みの全体の過程を理解するときのみ可能です。私がそれを話しているとき、静かにあなた自身の過程を観察してください。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが方法、技法を求めるのは何故か・・確実を望み、試みる、発見することを望まない。

    技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げる。真理は瞬時瞬時。

    心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるか。

    習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心が自由であることができるか。』

    私たちは、未知に対する失敗を恐れて、安全・確実と思われる過去の知識・技術・経験に依存するのだが、新しい、生きている、出会い、発見は・・未知の、現在の中に、瞬間瞬間の中にしか見い出すことができないのかもしれない。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(3) 】
    『 なぜなら、創造的な衝動があるとき、それはそれ自身の技法、あるいは表現のそれ自身の手段を見いだすでしょうから。しかし技法の養成に夢中になる、熱中するなら、明らかにもうひとつのものを決して見いださないでしょう。

    私たちが技法を、確かさ、効率、継続性、持続する努力を私たちに授ける、行為の心理的な型を欲するのは何故でしょうか。結局、宗教的な本をどうしても読むなら、それの大部分は、私はまったく確信しますが―私がそのいずれかを読んだということではなく―やり方を含んでいます。

    やり方が重要になります。なぜならやり方は目標を指し示すからです。したがって目標はやり方と異なります。手段は目的と違うでしょうか。もし、心理的に、習慣、方法、手段、やり方、技法を養成するなら、目的はすでに投影され、すでに具体化されていないでしょうか。

    したがって、手段と目的は別個のものではありません。すなわち、暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルにおいてもできません。手段と目的は分離できないものです。

    習慣を養成する心は、すでに予見される、すでに養成される、すでに存在する、心によって投影された目的をつくり出します。そしてそれが私たちの大抵が欲していることです。技法は単に既知のもの、安全、継続の養成です。

    既知のもので、心は未知のものを認識しようと望むのです。したがって、それは決してそれを理解できません。それゆえ、手段が問題です、目的ではなく。なぜなら、目的と手段は一つであるからです。それゆえ、習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見のあの途方もない感覚を妨げます。』(K)


    私の学習経過:

    『 手段と目的は別ではない。暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルでもできない。

    既知のもので、心は未知のものを認識しようと望む。決して理解できない。手段が問題、目的でなく、目的と手段は一つであるから。習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見の途方もない感覚を妨げる。』

    私たちの心は、すでに知っている過去の知識・経験によって、現在の「未知」のものを理解していると思いこむように育てられ、教育されているが・・それは、先に生まれたものが後のものを支配しようとする欲望なのかもしれない。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(2) 】
    『 私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神を持ち越すのです。生に効率的に出会いたいのです。方法を必要とすると思うのです。

    大抵の宗教団体、教師は方法を提供します。どうやって平和、幸福、平穏な心を持つか、集中するかなど。

    効率があるところ、無情さがあります。ますます不寛容で、閉じて、抵抗するのです。次第に高慢の感覚を発達させ、高慢は明らかに分離することです。

    それは理解することに対して破壊的です。私たちは効率的な人たちを賞賛します。世界中の政府は効率の養成と、効率の組織に関わっています。生産する、殺すための、政党 教会 特定宗教のイデオロギーを実行するための効率。私たちは皆効率的でありたいのです。

    そのために型を求める心理的な要求を深め、その型に効率を達成するために従うのです。効率は、技法・方法の養成を意味しますが、心理的に、習慣の絶え間ない実行を意味します。

    私たちは工業の習慣について知っていますが、抵抗という心理的習慣をほとんど知りません。それが大部分の人の求めていること、そんなにも素早い生に出会うために私たちを効率的にする習慣の養成ではないということが私はまったく確かでありません。

    それゆえ、この技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解することができるなら、創造的であるということが何であるかを私たちは理解することができるだろうと私は思います。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神・・生に効率的に出会い、方法を必要と思う。

    宗教団体、教師は方法を提供。平和、幸福、平穏な心、集中するか。

    効率は、無情さ、効率的・・不寛容で、閉じて、抵抗する。高慢の感覚を発達、分離。

    理解に破壊的。効率的な人たちを賞賛。世界中の政府は効率の養成と組織に関わる。生産、殺すための政党 教会、イデオロギーを実行する効率。

    技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解できるなら、創造的であることが何であるか理解できる。』

    社会は、私たちの心ですが、効率・方法を親・教師・指導者・政府・宗教の教えに従って、指導され従うのですが、そんな社会・人の心は・・はたして創造的なのだろうか。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(1) 】
    『 私は今朝、技法、方法、やり方の養成に含まれる意味が何であるか、そしてそれが言葉の上のレベルのみならず深い心理的なレベルで、いかに心を鈍くするか議論したいと思います。なぜなら私たちは大抵非創造的であるからです。

    私たちは、少々絵を描き、たまには一二の詩を書いたり、まれには美しい風景を楽しむかもしれません。しかし大抵は、私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態なのですが、そのため私たちは超えることができるようには思われません。

    生の問題は方法を必要としません。なぜならそれらは非常に活発で、非常に生き生きとしているので、私たちがそのどの一つにでも固定した型、方法、やり方で近づくなら、私たちはすっかり誤解してしまい、その問題に適切に出会わないだろうからです。

    私たちの大抵は技法、方法を望むのです。なぜなら問題、生の運動は非常に生き生きとしていて、活発で、素早いので、心はそれに、明晰さを持って、速く素早く出会うことができないからです。それで、私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

    手段を持つとき、私たちは目的、結果を強調します。私たちは問題それ自体の理解より結果により多く関心があるのです。結果が何であるにしても。私たちの大抵が、幸福のために、考える正しいやり方のために、心の平和や魂の平和のために、あるいは何であれ、方法を求めるのはなぜでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態で非創造的。

    生の問題は方法を必要としない。非常に活発で、生き生きとしているので、固定した型、方法で近づくなら、問題に適切に出会わない。

    私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

    問題それ自体の理解より結果により多く関心がある。結果が何であるにしても。』

    私たちの「生の問題」について、過去や他人から方法、手段を学ぶのですが、それは『非常に生き生きとしていて、活発で、素早い・・生の運動』に出あうことが、そして「理解」することができないようです。

  • 【 なぜ信じるか(4) 】
    『 信念を求める欲求が理解されないとき、信念は妨害になります。それが理解されるとき、信念の問題はありません。あなたは事実に、ありのままに向き合うことができます。

    仮に死後の継続があるとしても、現在の生きる問題を解決するでしょうか。生は今です、明日でなく。そして現在を理解するためには、私は信じなければならないでしょうか。

    確かに、現在を理解するためには、それは生です、それは単に時間の期間ではありません、私はその現在に、それに十分な注意を注いで、完全に出会うことのできる心を持たなければなりません。

    しかし私の注意が信念によって逸らされている場合は、確かに現在に、完全に、充分に出会うことはありません。それゆえ、信念は実在を理解することへの妨害になります。実在は未知のものであり、そして信念は既知のものであるので、どうして既知のものが未知のものに出会うことができるでしょうか。

    しかし私たちの困難は、私たちが既知のものを持ちつつ未知のものを望むことです。私たちは既知のものを手放そうと望みません。なぜなら未知のものはあまりに恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるからです。

    そしてそれが、私たち自身を防護するために、信念で私たち自身を囲って守る理由です。あなたが発見するのは、不確実の、不安定の状態の中でだけです。その中に隠れ家の感覚はありません。それがあなたが見い出すためには途方にくれなければならない理由です。

    しかし私たちは途方にくれたくないのです。そして途方にくれるのを防ぐため、私たちを保護する手製の信念と神々を持つのです。そして真の危機の瞬間がくるとき、これらの神や信念は価値がありません。それゆえ、あるがままのものを本当に発見したい人にとって、信念は障害です。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは既知のものを手放そうと望まない。未知のものは恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるから。

    あなたが発見するのは、不確実の、不安定の状態の中でだけ。

    私たちは途方にくれたくないので、保護する信念と神々を持つ。あるがままのものを発見したい人にとって、信念は障害。』

    生きるのは現在・・どうなるか不安で恐ろしいので、過去である知識・信念に頼るのだが、不安に向き合うときに理解と新し発見があるようです。

  • 【 なぜ信じるか(3) 】
    『 それゆえ、信念、言葉、が重要になりました。ラベルが重要になりました。もしも私が私自身を、その含む意味すべてを伴ってインド人と呼ばないなら、私は途方にくれるでしょう。私はアイデンティティを持たないでしょう。

    しかし私自身を、インド人として、インドと同一視することは、私に驚くべき威信を与えます。それは私を位置付けます。固定します。価値を与えます。それゆえ、ラベルなしには私が途方にくれることに、意識的にせよ無意識的にせよ心理的に気づくとき、信念は必要物になります。

    そのときラベルが重要になります―私のあるがままではなくてラベル、キリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、が。そして私たちはそのとき、それらの信念にしたがって生きようとします。それらの信念は自己投影されていて、したがって実在ではありません。

    確かに神を信じる人、彼の神は自己投影の神、手製の神です。しかし神を信じない人もなお同じです。それが何であるか、その至高のものを理解するためには、ひとは新鮮に、新たに、信念に束縛されないで、それに到達しなければなりません。

    そしてそれが私たちの困難であると思います―社会的に、経済的に、政治的に、そして私たちの個人的な関係の中で―、すなわち、私たちは皆、これらの問題に偏見を持って接近します。

    そして問題は活気があり、生きているので、それらに適切に出会うことができるのは、心が新しくて、何かの自己投影された手製の信念に束縛されていないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『 信念、言葉、ラベルが重要に。私自身をインド人と呼ばないなら、途方にくれる。インドと同一視することは、驚くべき威信を与え、位置付け、固定し、価値を与える。信念は必要物になる。

    ラベルが重要に―私のあるがままではなくてラベル、キリスト教徒、仏教徒・・の信念にしたがって生きる。

    至高のものを理解するには、新鮮に、新たに、信念に束縛されないで到達しなければならない。

    問題は活気があり、生きている・・適切に出会うのは、心が新しく、何かの自己投影された手製の信念に束縛されないときだけ。』

    何か自分の頼れるものと自身を同一視して「信じる」のは、「依存」であり「過去」であって、「生きている現在・自分・ありのまま」を見る・理解することからの逃避なのかもしれない。

  • 【 なぜ信じるか(2) 】
    『 なぜ私たちは信じるのでしょうか。なぜこの心理的な衝動があるのでしょうか。信じないなら、単に事実を見るに過ぎないなら、何が起こるでしょうか。

    それはほとんど不可能になるのではないでしょうか。なぜなら私たちは事実を感覚にしたがって翻訳したいからです。それゆえ信念は感覚になり、事実と私自身の間に介在します。それゆえ、信念は妨害になります。

    私たちは私たちの信念と違うでしょうか。あなたは、アメリカ人であることを、あるいはインド人であることを信じます。あれやこれやを、生まれ変わりを信じます―多くの物事を。あなたはそれなのです。あなたはあなたが信じるものです。

    そしてあなたはなぜ信じるのでしょうか。それは私が無神論であるとか、神を否定しているとか、そういった愚かなことのすべてを意味しません―私たちはそれを議論していません。実在は信念と何の関係もありません。

    問題はこうです。なぜあなたは信じるのでしょうか。なぜ信念に心理的必要性、投資。それは、信念なしにはあなたは何者でもないからではないでしょうか。

    信念のパスポートなしにはあなたは何でしょうか。何かとしてあなた自身にラベルを貼ることなしには、あなたは何でしょうか。生まれ変わりを信じないなら、あなた自身をあれとかこれとか呼ばないなら、あなたは何でしょうか。

    したがって、信念はラベル、身分証明書として作用します。そして証明書を除けば、あなたはどこにいるのでしょうか。信念を必要とするものはその基本的恐怖、その途方に暮れる感覚ではないでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは事実を感覚にしたがって翻訳・・信念は感覚になり、事実と私自身の間に介在、信念は妨害になる。

    あなたはあなたが信じるもの。信念なしにはあなたは何者でもないからではないか。

    信念はラベル、身分証明書として作用。証明書を除けば、あなたはどこにいるのか。信念を必要とするものはその基本的恐怖、その途方に暮れる感覚ではないか。』

    私たちは事実を、自分が何者でもないことを恐れているのかもしれない。
    そこで、事実・現在から逃れて、何か自分を示し認められるもの、他者から目を向けられるものに依存する。
    それが、過去であり、獲得であり、知識・経験・信念であって、その陰に見えてくるのは、失うことへの恐れ・恐怖心なのではないか。

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