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投稿コメント一覧 (152コメント)

  • 【 Q&A.命名について(3) 】
    『 あなたが命名する核は何でしょうか、常に命名し、選択し、ラベルをつけている中心は何でしょうか。私たちが行為し、判断し、命名している中心、核があると感じているのではないでしょうか。

    その中心、その核は何でしょうか。精神的精髄、神、と思いたいかもしれません。それゆえ、命名し、判断しているその核、その中心が何であるか見出しましょう。

    確かにその核は記憶ではないでしょうか。同一化され、囲い込まれた一連の感覚―現在を通して生命を与えられた過去。その核、中心が命名、ラベル貼り、回想を通じて現在を養います。

    私たちはそれを解明するとき、この中心、核が存在する限り理解はありえないのを見るでしょう。理解があるのはこの核の消失したときだけなのです。なぜなら、結局その核は記憶であるからです。様々の経験の記憶、それが名前、ラベル、同一化を与えてきました。

    それらの名づけられた、ラベルを貼られた経験の中心が、経験の記憶の感覚、快楽と苦痛にしたがって、受容と拒否の決定をしているのです。それゆえ、その中心は言葉です。名前を付けなければ、その中心はありますか。

    言葉の観点で考えないなら、言葉を使わないなら、あなたは考えることができますか。思考することは言語化を通して生じます。あるいは、言語化は思考することに応答し始めます。その中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶です。

    どうか、それをあなた自身の中で見つめてください。そうすれば言葉やラベルが実体よりはるかに重要になっているのが、そして私たちが言葉の上で生きているのがわかるでしょう。』(K)


    私の学習経過:

    『 命名、選択、判断する中心は・・記憶―現在を通して生命を与えられた過去。理解はありえない。

    言葉を使わないなら、考えることができるか。思考は言語化で生じる―中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶。

    ・・言葉やラベルが実体よりはるかに重要、言葉の上で生きている。』

    現在を見ながら・・私たちはいつも「考えて」いる・・それは言葉であり、記憶であり、過去でもある。
    言葉を覚えていない小さな子どもは・・考えないで「見る」―記憶・過去が少ないからだ。
    成長と教育は・・「実体を見る」ことから「言葉の上で生きている」ことに変化することなのか・・・。

  • 【 Q&A.命名について(2) 】
    『 単に伝達するだけでないとき、花に、何かに名前をつけるとき何が起こるでしょうか。どうかそれを追ってください、それを私と考え抜いてください。

    あるものに名前を付けることによって、私たちは単にそれをある範疇に入れたに過ぎません。そして私たちはそれを理解したと思うのです。それをもっと綿密に見ません。しかし、名前を付けないなら、それを見るように強いられます。

    すなわち、花に、あるいはそれが何であっても、新しさを伴って、調査の新しい性質を伴って接近します。まるで以前に決して見たことがないかのようにそれを見ます。命名することは人々を処理する非常に簡便なやり方です―彼らはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言う事によって。

    彼らにラベルを貼り、ラベルを破壊します。しかし、人々にラベルを貼らないなら、あなたは彼らを見るように強いられます。そのとき誰かを殺すことはずっと困難です。あなたはラベルを爆弾で破壊することができ、正しいと感じます。

    しかしラベルを貼らないで、したがって個々のものを見なければならないなら―それが人であろうが、花であろうが、出来事であろうが、感情であろうが―そのときあなたはそれとの関係を熟考するように強いられ、そして行為があとを継ぎます。

    それゆえ、名称をつけること、あるいはラベルを貼ることは何かを処理する、否定する、非難あるいは正当化する、非常に簡便なやり方です。それが問題の一つの側面です。』(K)


    私の学習経過:

    『あるものに名前を付けることによって、私たちは理解したと思う。もっと綿密に見ない。

    名前を付けないなら、見るように、関係を熟考するように強いられ、行為があとを継ぐ。

    名称、ラベルは、何かを処理、否定、非難・正当化する、非常に簡便なやり方』

    物や考えに名前を付けるのは、「区別し、記憶、記録、言葉で考え、人に伝える―生活・教育・社会活動に必要」だが、「言葉なしに何かを見る、考える、記憶する」ことも確かにある。

    だが、名前を付けるのは、重なって境目がない物や考えをどこかで区切って区別することでもあり、その名前で解っていると思いこみ、物や考えを「よく見る」「過去の記憶・知識・経験にとらわれないで、いま現在の目で見る」ことがおろそかになってしまうことも明らかです。

  • 【 Q&A.命名について(1) 】
    『 Q: 命名、あるいはラベルを貼ることなしに、どうやって感情を意識できるでしょうか。私が意識したなら、それが起こると、瞬時にその感情が何であるか分かっているように思われます。あなたが「命名してはいけない」と言うとき、別のことを意味しているのでしょうか。

    A: これは非常に難しい問題です。多量の考えと、全内容に気づくことを要します。私が説明するとき、あなたが単に言葉の上でなく、経験することを通してついていくことを望みます。

    この問題を深く理解できるなら、私たちは多くのことを理解すると感じます。私は時間の中でできるなら、様々な方向から接近するようにします。それは非常に込み入った、微妙な問題だからです。

    それはあなたのすべての注意を必要とします。私たちが議論していることを、単に聞いて後ほどそれを経験しようとするのでなく、あなたはいま経験しているからです。後ほどはありません。あなたはいま、常にいま、経験するか、あるいは決して経験しないかどちらかです。

    さて、なぜ私たちは何かに名前をつけるのでしょうか。なぜ私たちは花に、人に、気持ちにラベルを貼るのでしょうか。自分の気持ちを伝達するため、花を描写するため、などなど。あるいはその気持ちと同一化するためではないですか。

    私は伝達するために、物や感情に名前を付けます―「私は怒っている」。あるいはその感情を強めたり、消したり、何かをするためにその気持ちと同一化します。私たちはあるものに、バラに、ほかの人に伝えるために名を付けます。

    名前を付けることによって、理解したと思うのです。素早くそれを見て「それはバラだ」と言い、先へ進みます。名前を付けたことで、私たちはそれを理解したと思うのです。私たちはそれを分類し、その花の全体と美しさを理解したと思うのです。』(K)


    私の学習経過:

    なぜ花や木や自分の感情に名前を付けるのか・・あたりまえのことで、普段考えたこともないことですが、改めて考えてみましょう。
    思いつくのは・・物を区別して、記憶したり、記録したり、人に伝えて話し合うときにも必要です。それがないと、生活や教育など社会活動が進まず、滞って、私たちの学習活動にも大きな困難をもたらすことは明らかなようですが・・・。
    あらためて、「命名・名前を付ける」ことの意味を考えてみましょう。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(5) 】
    『 成功したい、獲得したい、達成したいというあなたの欲望のすべての蓄積的な影響―理解を否定―に気づいてください。なぜなら、生の全体の過程の理解は欲望を通じては生じません―自発的な出会いがなければなりません。

    この心理的過程の全部を、外側の表現だけでなく見ることができるなら―いかにすべての政府、社会、様々な共同体があらゆる無情さを伴って効率を要求するか―そのとき、心は多分その慣れている習慣からつながりを断ち始めるでしょう。そのとき、実際に自由であるでしょう。もはや手段を求めていないでしょう。

    心が静かであるとき、あの創造的なものが生じます。それが創造それ自体です。それ自身の表現を見出すでしょう。あなたがそのための表現を選ぶ必要はありません。あなたが画家であるなら絵を書くでしょう。活力があり、優美を与え、幸福を与えるのは創造的な理解です―あなたが学んだ何かの技法的な表現ではありません。

    それゆえ、実在、神、あるいはそういったものは、技法を通じて、手段を通じて、長い、決心した練習と訓練を通じて生じることのないものです。既知の目的と共に並べられた道順ではありません。人は海図にない海に入らなければなりません。単独性がなければなりません。

    単独は手段のないことを意味します。手段を持っているときあなたは単独ではありません。完全に裸であること、蓄積された練習、希望、快楽、安全を求める願望のすべてが空(から)であることがなければなりません―それらはすべて手段、方法、技法を変わることなく保持することです。

    そのときのみ、もうひとつのものがあり、問題が解決します。瞬時瞬時死んでいる、したがって再生している人は生に出会うことができます。彼が生とは別であるということではありません。彼は生です。』(K)


    私の学習経過:

    『欲望の蓄積的な影響は理解を否定。人は海図にない海に入らなければ。

    そのときのみ、問題が解決。瞬時瞬時死んでいる、再生している人は生に出会うことができる。』

    技法・手段・訓練によって、成功・獲得・達成を求める欲望は理解に至らない。過去の繰り返し・積み重ねでなく、目的・達成の意志からも自由に・・現在のありのままの事実を見て、つねに新しく理解し対応していくことによって、人は真の意味で生に出会うことができるようです。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(4) 】
    『 私たちの大抵が方法、技法を求めているのは何故でしょうか。明らかに私たちは確かであること、間違えることなく確実であることを望みます。私たちは試みること、発見することを望みません。

    技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げます。なぜなら真理、あるいはそういったものは瞬時瞬時であり、それは連続的、増大、成長ではありません。

    私たちは確かでありたい、習慣、実践を養成したいという心理的衝動から自由であることができるでしょうか。これらは皆抵抗、防衛です。この防衛機構を持って、私たちは活力ある、素早いものを理解しようと望むのです。

    私たちがそれを見ることが、手段の養成、あるいは手段を求める探索に含まれる意味を見ることができるなら、その心理的意味を見ることができるなら―単に表面的あるいは工業的意味だけでなく、そのことは明白です。

    充分に私が説明しているとき、あなたと私がそれを試しているとき理解できるなら、私たちはそれから自由であることがどういうことか発見できるでしょう。  

    心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるでしょうか。技法、手段は安全を提供します。あなたは溝の中を走ります。そのとき、うまく行くとか行かないということはありません。

    あなたは単に自動的に作動しているに過ぎません。習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心ができるでしょうか―そのような心が自由であることができるでしょうか。

    それは、私たちが習慣の全意義、その弾みの全体の過程を理解するときのみ可能です。私がそれを話しているとき、静かにあなた自身の過程を観察してください。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちが方法、技法を求めるのは何故か・・確実を望み、試みる、発見することを望まない。

    技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げる。真理は瞬時瞬時。

    心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるか。

    習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心が自由であることができるか。』

    私たちは、未知に対する失敗を恐れて、安全・確実と思われる過去の知識・技術・経験に依存するのだが、新しい、生きている、出会い、発見は・・未知の、現在の中に、瞬間瞬間の中にしか見い出すことができないのかもしれない。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(3) 】
    『 なぜなら、創造的な衝動があるとき、それはそれ自身の技法、あるいは表現のそれ自身の手段を見いだすでしょうから。しかし技法の養成に夢中になる、熱中するなら、明らかにもうひとつのものを決して見いださないでしょう。

    私たちが技法を、確かさ、効率、継続性、持続する努力を私たちに授ける、行為の心理的な型を欲するのは何故でしょうか。結局、宗教的な本をどうしても読むなら、それの大部分は、私はまったく確信しますが―私がそのいずれかを読んだということではなく―やり方を含んでいます。

    やり方が重要になります。なぜならやり方は目標を指し示すからです。したがって目標はやり方と異なります。手段は目的と違うでしょうか。もし、心理的に、習慣、方法、手段、やり方、技法を養成するなら、目的はすでに投影され、すでに具体化されていないでしょうか。

    したがって、手段と目的は別個のものではありません。すなわち、暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルにおいてもできません。手段と目的は分離できないものです。

    習慣を養成する心は、すでに予見される、すでに養成される、すでに存在する、心によって投影された目的をつくり出します。そしてそれが私たちの大抵が欲していることです。技法は単に既知のもの、安全、継続の養成です。

    既知のもので、心は未知のものを認識しようと望むのです。したがって、それは決してそれを理解できません。それゆえ、手段が問題です、目的ではなく。なぜなら、目的と手段は一つであるからです。それゆえ、習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見のあの途方もない感覚を妨げます。』(K)


    私の学習経過:

    『 手段と目的は別ではない。暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルでもできない。

    既知のもので、心は未知のものを認識しようと望む。決して理解できない。手段が問題、目的でなく、目的と手段は一つであるから。習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見の途方もない感覚を妨げる。』

    私たちの心は、すでに知っている過去の知識・経験によって、現在の「未知」のものを理解していると思いこむように育てられ、教育されているが・・それは、先に生まれたものが後のものを支配しようとする欲望なのかもしれない。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(2) 】
    『 私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神を持ち越すのです。生に効率的に出会いたいのです。方法を必要とすると思うのです。

    大抵の宗教団体、教師は方法を提供します。どうやって平和、幸福、平穏な心を持つか、集中するかなど。

    効率があるところ、無情さがあります。ますます不寛容で、閉じて、抵抗するのです。次第に高慢の感覚を発達させ、高慢は明らかに分離することです。

    それは理解することに対して破壊的です。私たちは効率的な人たちを賞賛します。世界中の政府は効率の養成と、効率の組織に関わっています。生産する、殺すための、政党 教会 特定宗教のイデオロギーを実行するための効率。私たちは皆効率的でありたいのです。

    そのために型を求める心理的な要求を深め、その型に効率を達成するために従うのです。効率は、技法・方法の養成を意味しますが、心理的に、習慣の絶え間ない実行を意味します。

    私たちは工業の習慣について知っていますが、抵抗という心理的習慣をほとんど知りません。それが大部分の人の求めていること、そんなにも素早い生に出会うために私たちを効率的にする習慣の養成ではないということが私はまったく確かでありません。

    それゆえ、この技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解することができるなら、創造的であるということが何であるかを私たちは理解することができるだろうと私は思います。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神・・生に効率的に出会い、方法を必要と思う。

    宗教団体、教師は方法を提供。平和、幸福、平穏な心、集中するか。

    効率は、無情さ、効率的・・不寛容で、閉じて、抵抗する。高慢の感覚を発達、分離。

    理解に破壊的。効率的な人たちを賞賛。世界中の政府は効率の養成と組織に関わる。生産、殺すための政党 教会、イデオロギーを実行する効率。

    技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解できるなら、創造的であることが何であるか理解できる。』

    社会は、私たちの心ですが、効率・方法を親・教師・指導者・政府・宗教の教えに従って、指導され従うのですが、そんな社会・人の心は・・はたして創造的なのだろうか。

  • 【 なぜ私たちは非創造的なのか(1) 】
    『 私は今朝、技法、方法、やり方の養成に含まれる意味が何であるか、そしてそれが言葉の上のレベルのみならず深い心理的なレベルで、いかに心を鈍くするか議論したいと思います。なぜなら私たちは大抵非創造的であるからです。

    私たちは、少々絵を描き、たまには一二の詩を書いたり、まれには美しい風景を楽しむかもしれません。しかし大抵は、私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態なのですが、そのため私たちは超えることができるようには思われません。

    生の問題は方法を必要としません。なぜならそれらは非常に活発で、非常に生き生きとしているので、私たちがそのどの一つにでも固定した型、方法、やり方で近づくなら、私たちはすっかり誤解してしまい、その問題に適切に出会わないだろうからです。

    私たちの大抵は技法、方法を望むのです。なぜなら問題、生の運動は非常に生き生きとしていて、活発で、素早いので、心はそれに、明晰さを持って、速く素早く出会うことができないからです。それで、私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

    手段を持つとき、私たちは目的、結果を強調します。私たちは問題それ自体の理解より結果により多く関心があるのです。結果が何であるにしても。私たちの大抵が、幸福のために、考える正しいやり方のために、心の平和や魂の平和のために、あるいは何であれ、方法を求めるのはなぜでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態で非創造的。

    生の問題は方法を必要としない。非常に活発で、生き生きとしているので、固定した型、方法で近づくなら、問題に適切に出会わない。

    私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

    問題それ自体の理解より結果により多く関心がある。結果が何であるにしても。』

    私たちの「生の問題」について、過去や他人から方法、手段を学ぶのですが、それは『非常に生き生きとしていて、活発で、素早い・・生の運動』に出あうことが、そして「理解」することができないようです。

  • 【 なぜ信じるか(4) 】
    『 信念を求める欲求が理解されないとき、信念は妨害になります。それが理解されるとき、信念の問題はありません。あなたは事実に、ありのままに向き合うことができます。

    仮に死後の継続があるとしても、現在の生きる問題を解決するでしょうか。生は今です、明日でなく。そして現在を理解するためには、私は信じなければならないでしょうか。

    確かに、現在を理解するためには、それは生です、それは単に時間の期間ではありません、私はその現在に、それに十分な注意を注いで、完全に出会うことのできる心を持たなければなりません。

    しかし私の注意が信念によって逸らされている場合は、確かに現在に、完全に、充分に出会うことはありません。それゆえ、信念は実在を理解することへの妨害になります。実在は未知のものであり、そして信念は既知のものであるので、どうして既知のものが未知のものに出会うことができるでしょうか。

    しかし私たちの困難は、私たちが既知のものを持ちつつ未知のものを望むことです。私たちは既知のものを手放そうと望みません。なぜなら未知のものはあまりに恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるからです。

    そしてそれが、私たち自身を防護するために、信念で私たち自身を囲って守る理由です。あなたが発見するのは、不確実の、不安定の状態の中でだけです。その中に隠れ家の感覚はありません。それがあなたが見い出すためには途方にくれなければならない理由です。

    しかし私たちは途方にくれたくないのです。そして途方にくれるのを防ぐため、私たちを保護する手製の信念と神々を持つのです。そして真の危機の瞬間がくるとき、これらの神や信念は価値がありません。それゆえ、あるがままのものを本当に発見したい人にとって、信念は障害です。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは既知のものを手放そうと望まない。未知のものは恐ろしく、大きな不安定、不確かさがあるから。

    あなたが発見するのは、不確実の、不安定の状態の中でだけ。

    私たちは途方にくれたくないので、保護する信念と神々を持つ。あるがままのものを発見したい人にとって、信念は障害。』

    生きるのは現在・・どうなるか不安で恐ろしいので、過去である知識・信念に頼るのだが、不安に向き合うときに理解と新し発見があるようです。

  • 【 なぜ信じるか(3) 】
    『 それゆえ、信念、言葉、が重要になりました。ラベルが重要になりました。もしも私が私自身を、その含む意味すべてを伴ってインド人と呼ばないなら、私は途方にくれるでしょう。私はアイデンティティを持たないでしょう。

    しかし私自身を、インド人として、インドと同一視することは、私に驚くべき威信を与えます。それは私を位置付けます。固定します。価値を与えます。それゆえ、ラベルなしには私が途方にくれることに、意識的にせよ無意識的にせよ心理的に気づくとき、信念は必要物になります。

    そのときラベルが重要になります―私のあるがままではなくてラベル、キリスト教徒、仏教徒、ヒンズー教徒、が。そして私たちはそのとき、それらの信念にしたがって生きようとします。それらの信念は自己投影されていて、したがって実在ではありません。

    確かに神を信じる人、彼の神は自己投影の神、手製の神です。しかし神を信じない人もなお同じです。それが何であるか、その至高のものを理解するためには、ひとは新鮮に、新たに、信念に束縛されないで、それに到達しなければなりません。

    そしてそれが私たちの困難であると思います―社会的に、経済的に、政治的に、そして私たちの個人的な関係の中で―、すなわち、私たちは皆、これらの問題に偏見を持って接近します。

    そして問題は活気があり、生きているので、それらに適切に出会うことができるのは、心が新しくて、何かの自己投影された手製の信念に束縛されていないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『 信念、言葉、ラベルが重要に。私自身をインド人と呼ばないなら、途方にくれる。インドと同一視することは、驚くべき威信を与え、位置付け、固定し、価値を与える。信念は必要物になる。

    ラベルが重要に―私のあるがままではなくてラベル、キリスト教徒、仏教徒・・の信念にしたがって生きる。

    至高のものを理解するには、新鮮に、新たに、信念に束縛されないで到達しなければならない。

    問題は活気があり、生きている・・適切に出会うのは、心が新しく、何かの自己投影された手製の信念に束縛されないときだけ。』

    何か自分の頼れるものと自身を同一視して「信じる」のは、「依存」であり「過去」であって、「生きている現在・自分・ありのまま」を見る・理解することからの逃避なのかもしれない。

  • 【 なぜ信じるか(2) 】
    『 なぜ私たちは信じるのでしょうか。なぜこの心理的な衝動があるのでしょうか。信じないなら、単に事実を見るに過ぎないなら、何が起こるでしょうか。

    それはほとんど不可能になるのではないでしょうか。なぜなら私たちは事実を感覚にしたがって翻訳したいからです。それゆえ信念は感覚になり、事実と私自身の間に介在します。それゆえ、信念は妨害になります。

    私たちは私たちの信念と違うでしょうか。あなたは、アメリカ人であることを、あるいはインド人であることを信じます。あれやこれやを、生まれ変わりを信じます―多くの物事を。あなたはそれなのです。あなたはあなたが信じるものです。

    そしてあなたはなぜ信じるのでしょうか。それは私が無神論であるとか、神を否定しているとか、そういった愚かなことのすべてを意味しません―私たちはそれを議論していません。実在は信念と何の関係もありません。

    問題はこうです。なぜあなたは信じるのでしょうか。なぜ信念に心理的必要性、投資。それは、信念なしにはあなたは何者でもないからではないでしょうか。

    信念のパスポートなしにはあなたは何でしょうか。何かとしてあなた自身にラベルを貼ることなしには、あなたは何でしょうか。生まれ変わりを信じないなら、あなた自身をあれとかこれとか呼ばないなら、あなたは何でしょうか。

    したがって、信念はラベル、身分証明書として作用します。そして証明書を除けば、あなたはどこにいるのでしょうか。信念を必要とするものはその基本的恐怖、その途方に暮れる感覚ではないでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは事実を感覚にしたがって翻訳・・信念は感覚になり、事実と私自身の間に介在、信念は妨害になる。

    あなたはあなたが信じるもの。信念なしにはあなたは何者でもないからではないか。

    信念はラベル、身分証明書として作用。証明書を除けば、あなたはどこにいるのか。信念を必要とするものはその基本的恐怖、その途方に暮れる感覚ではないか。』

    私たちは事実を、自分が何者でもないことを恐れているのかもしれない。
    そこで、事実・現在から逃れて、何か自分を示し認められるもの、他者から目を向けられるものに依存する。
    それが、過去であり、獲得であり、知識・経験・信念であって、その陰に見えてくるのは、失うことへの恐れ・恐怖心なのではないか。

  • 【 なぜ信じるか(1) 】
    『 重要なことは、死後の継続があるかないかではなく、なぜ私たちは信じるかです。何かを信じることを要する心理的状態は何なのでしょうか。

    私たちは、死後の生があるかないかを論争しているのではありません。それは別の問題で、後に取り扱うでしょう。

    問題はこうです、信じようとする私の中の衝動、心理的必要は何でしょうか。事実は確かにあなたの側での信念を要しません。日は沈み、日は昇ります―それは信念を要しません。

    信念はあなたがあなたの欲求、あなたの心理的状態、あなたの特定の偏見、虚栄、特質にしたがって事実を翻訳しようと望むとき生じます。それゆえ、重要なことは、あなたがどんなふうに事実に接近するかです―それが死後の生の事実であろうが、何かほかの事実であろうが。

    それゆえ、問題は、死後、肉体が死んだ後、個人の生存があるかどうかではなく、なぜ信じるかです。信じようとする心理的衝動は何でしょうか。確かにそれは明白ではないでしょうか。それゆえ、その心理的信念が理解することに対する妨害でないかどうか調べましょう。  
     
    事実に直面するなら、それについてさらに言うべきことは何もありません。それは事実です、日は沈みます。しかし問題は、なぜ何かを信じようというこの絶え間ない衝動が私の中にあるかです―神を信じる、イデオロギーを信じる、未来の理想郷を信じる、何やかやを信じる。』(K)


    私の学習経過:

    『 なぜ私たちは信じるか。何かを信じることを要する心理的状態は何か。

    信じようとする私の中の衝動、心理的必要は何か。

    重要なことは、あなたがどんなふうに事実に接近するか。』

    信じる、信じない・・これは宗教の問題だけでなく、私たちの生活、心の在り方、そして他者との関係に関わる問題ではないか。

    その手がかりは、「事実」をどう見るか・・願望・記憶・知識・経験に従って見る、考える・・・それは過去から未来に向けての心の依存であり、事実からは離れてゆく偏見なのかもしれない。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(4) 】
    『 挑戦に対する応答の適切さは、知識ではなく、以前の記憶ではなく、その新しさ、新鮮さに依存します。そして蓄積された経験の継続があるとき、その新鮮さは否定されます。その再生の性質は否定されます。したがって、各瞬間に終わりが、各瞬間に死がなければなりません。

    おそらく幾人かの方はこのように話すことはいかにも結構だと感じるかもしれませんが、あなたが実際にそれを実験するなら、あなたはいかに途方もなく、いかに速やかに挑戦を理解するか、いかに深く挑戦にかかわるか、そして単にそれに反応するに過ぎないのではないのが見えるでしょう。

    確かに、人が理解するのは、新しく新鮮である心自身を、心が再生できるときだけです―「あけっ広げ」なのではなく。そのときそれはざるのようです。問題は常に新しいので―悲しみは常に新しいのです、単に他の何かの記憶に過ぎないのでなく、真の悲しみであるなら―、あなたはそれを理解しなければなりません。

    それに新鮮に近づかなければなりません。新鮮な心を持たなければなりません。それゆえ、個人的あるいは集団的な経験の蓄積としての知識、そのような知識は理解することに対する障害です。』(K)


    私の学習経過:

    私たちの日々の生活は、晴れたり雨が降ったりの、そして春夏秋冬の繰り返しになっているようですが、実は同じものはないのかもしれない。それに何より私たち生き物は、目に見えないものも含めて日々変化している。日々刻々変化する生き物も土も空も、つねに変化し、生まれ変わっているのだ。

    だが私たちは、現在も過去と同じ繰り返しだと思って、いつも過去を振り返り、過去から逃れられない・・と思いこんでいるのだ。それが、教育・指導・読書・学習・成長の本質になっているのではないか。そこには新しい挑戦はなく、古いものの繰り返しになっている。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(3) 】
    『 まず第一に、挑戦はいつも新しいことを見なければなりません。それは新しいに違いありません。さもなければそれは挑戦ではありません。問題は常に新しい問題です。なぜならそれは瞬時瞬時変化しているからです。

    そしてそれがそうしていないなら、それは問題ではありません。それは静的です。それゆえ、挑戦が新しいなら、心は新しくなければなりません。それはそれに新鮮に到達しなければなりません。

    そして過去によって荷を負わされていてはなりません。しかし心は過去のものです。したがって、心は静かでなければなりません。問題が非常に大きいとき、ほとんど思考なしに、私たちは本能的にこうします。

    問題が本当に新しいとき、心は静かです。それはもはやしゃべっていません。もはや蓄積された知識によって荷を負わされていません。そのとき、その新しさをもってそれは応答し、それゆえ挑戦の理解があります。

    確かに、それがどんなふうにすべての創造性が起こるかです。創造、あるいは創造性のあの感覚は瞬時瞬時です。それは蓄積を持ちません。あなたはその創造性の表現のための技術を持っているかもしれません。

    しかしその創造性の感覚が生じるのは、心が絶対に静かで、もはや過去によって、心が集めた無数の経験、感覚によって、荷を負わされていないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『挑戦はいつも新しい。問題は常に新しい。瞬時瞬時変化。心は新しく新鮮に到達しなければ。

    問題が本当に新しいとき、心は静か。蓄積された知識によって荷を負わされていない。新しさをもって応答、それゆえ挑戦の理解がある。

    創造性のあの感覚は瞬時瞬時。蓄積を持たない。過去に心が集めた無数の経験、感覚によって、荷を負わされていないときだけ。』   

    「生きる」ことは「現在」であり、記憶・知識・情報・習慣はすべてがいまは生きていない固定し、死んだ「過去」なのだが、人は、社会は・・その過去に頼り、依存し、囚われている。それは人間の心が死んでいることを意味するのかもしれない。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(2) 】
    『 応答とは何でしょうか。応答は様々の経験の集積の結果です―記憶、様々な経験の感覚。経験それ自体ではなくて記憶と経験の感覚。したがって挑戦に出会うのは感覚です。挑戦に出会うのは記憶です。

    それが蓄積された知識と私たちが呼ぶものではないでしょうか。したがって、知識は常に既知のもの、過去のもの、条件付けられたものです。条件付けられたものが、無条件のもの、挑戦に出会います。

    それゆえ、二つのものの間に関係はありません。そのときあなたは、条件付けられた心、条件付けられた応答に従って挑戦を翻訳します。そしてそれは障害ではないでしょうか。

    それゆえ、どうやって挑戦に適切に出会うかが問題です。私がそれに私の過去の経験と共に出会うなら、それは適切でないことを非常によく見ることができます。

    そして私の心は過去のものです。私の思考は過去のものの結果です。それゆえ、思考が挑戦に出会うことができるでしょうか―思考、知識の所産、様々な経験の結果などが。思考は挑戦に出会うことができるでしょうか。思考は条件付けられているので、どうして思考がそれに出会うことができるでしょうか。

    思考はそれに部分的に、したがって不適切に出会うことができます―それゆえ、摩擦、苦痛、その他すべてがあります。それゆえ、挑戦に出会う違ったやり方があるのではないでしょうか。そしてそのやり方、その過程は何でしょうか。それがこの問題に含まれていることです。』(K)


    私の学習経過:

    私たちの生活、生はすべてが新しい事実との出会い―挑戦であるが・・・

    『 挑戦に出会うのは感覚・記憶―蓄積された知識。

    知識は常に既知、過去、条件付けられたもの。条件付けられたものが、無条件の挑戦に出会う。

    条件付けられた心、応答に従って挑戦を翻訳・・それは障害。

    私の心・思考は過去の結果・・挑戦に出会うことができるか―思考、知識、経験の結果など。

    思考は部分的に、不適切に出会う―摩擦、苦痛、すべてがある』

    記憶・知識はすべてが過去―条件づけられた、限定的な思考であって、「現在」の「事実」を「ありのままに見る―理解」ではなく、挑戦に不適切に対応することになる。

  • 【 Q&A. 過去の記憶・知識・経験によって現在を理解できるか(1) 】
    『 Q: 過去の経験は、現在における自由と正しい行為に向かっての助けでないでしょうか。知識は障害でなく、解放する要素であることはないのでしょうか。

    A: 私たちは過去を通して現在を理解するでしょうか。経験の蓄積を通して私たちは何かを理解するでしょうか。知識とは何でしょうか。

    理解することを与えてくれるとあなたが言う、経験の蓄積とは何でしょうか。そういったすべては何でしょうか。そして過去の経験とは何でしょうか。

    それを少々調べましょう。なぜなら、過去が、それはあなたの出来事の、経験の記憶の蓄積ですが、あなたに現在の経験の理解を与えるかどうかを見出すことは非常に重要であるからです。

    さて、経験があるとき何が起こりますか。その過程は何でしょうか。経験とは何でしょうか。挑戦と応答、そうでないでしょうか。それが私たちが経験と呼ぶものです。

    さて、挑戦は常に新しいに違いありません。さもなければそれは挑戦ではありません。そして私が私の過去の条件付けにしたがって応答するなら、私はそれに適切に、充分に、完全に出会うでしょうか。私はそれを理解するでしょうか。

    何といっても、生は挑戦と応答の過程です。それは休みなく続く過程です。そして応答が不適切であるとき、挑戦と応答の間に摩擦があります―悲しみ、苦痛があります。

    応答が挑戦に等しいとき、そのとき調和があります。そのとき挑戦と応答の間に統合があります。さて、挑戦に対する私の応答は、それが過去の種々の経験に基づいているなら、そのような応答は適切でありうるでしょうか。それは同じレベルで挑戦と出会うことができるでしょうか。』(K)


    私の学習経過:

    『 私たちは過去を通して現在を理解するか。経験の蓄積を通して理解するか。知識とは何か。』

    私たちは生まれたときから・・言葉・道具・食事・生活の方法・手段を、親や社会の教育によって学んで成長してきた。これは過去の知識・経験の繰り返し。
    けれども、現在、目の前の風景・出来事をどのように見て、考えて、行動するか・・・「現在」を見て、過去の記憶を捨てて「理解」し「行動」しているか・・という問いかけ。  

    『 生は挑戦と応答・・挑戦は常に新しい。過去にしたがって応答するなら、適切に、充分に、完全に理解するか。』

  • 【 支配と服従(7) 】
    『 私はいくつかの質問を持っています。しかしそれに答える前に、ノートをとっている方はそうすべきでないと言ってよろしいでしょうか。

    理由を説明しましょう。私は集団でなく、個人に、あなたに話しています。あなたと私は一緒に あることを経験しています。あなたは私が言っていることをノートにとっているのではなく、経験しているのです。私たちは一緒に旅に行っているのです。

    そして単にノートを取ることに関わっているなら、あなたは本当に聞いてはいないのです。あなたはそれをじっくり考えるために書き下ろす、あるいはここにいないあなたの友人に告げるためにと言うでしょう。しかし、確かにそれは重要ではないのではないでしょうか。

    重要なことはあなたと私が理解することです。そして理解するためには、あなたは全部の注意を注がなければなりません。そしてノートをとっているとき、どうして全部の注意を注ぐことができるでしょうか。どうか、このことの重要さを見てください。

    するとそのときあなたは自然にノートをとることを止めるでしょう。あなたは強制される必要はありません、告げられる必要はありません。

    なぜなら、これらの会合で重要なことは非常に多くの言葉ではなく、背後の内容、心理的な含蓄であるからです。そしてあなたが充分な注意を、意識的な注意を注がない限り、それらを理解することはできません。』(K)


    私の学習経過:

    『 私は集団でなく、個人に、あなたに話している。あなたと私は一緒に経験している。

    単にノートを取ることに関わっているなら、あなたは本当に聞いてはいない。じっくり考えるために、友人に告げるため・・それは重要ではない。

    重要なことはあなたと私が理解すること。理解するためには、全部の注意を注がなければならない・・このことの重要さ。

    重要なことは非常に多くの言葉ではなく、背後の内容、心理的な含蓄・・充分な注意を、意識的な注意を注がない限り、理解することはできない。』

    『全部の注意を注ぐことの重要さ』・・とは、そういうことなのか・・・。『背後の内容、心理的な含蓄』を見るためには、『充分な注意、意識的な注意を注がない限り、理解することはできない。』という。
    私たちの生活は、現在を注意して見ていないのですね・・・。

  • 【 支配と服従(6) 】
    『 支配しようとする無意識の欲求を伴う、奉仕したいという欲求はもっとずっと取り扱うことが困難です。支配があるとき愛があり得るでしょうか。

    あなたは愛していると言い、しかも支配している誰かに対し関係していることができるでしょうか。そのとき、確かに、あなたは単に利用しているに過ぎないのです。利用があるとき、関係はないのではないでしょうか。

    それゆえ、この問題を理解するためには、支配の問題全体に対し敏感でなければなりません。支配すべきでない、あるいは従順であるべきだということではありません。この問題全体に対する気づきがなければなりません。

    気づいているためには、一方を支持することなく、何の非難もなしにそれに接近しなければなりません。それはするのが非常に困難なことです。なぜなら、私たちは大抵非難するように傾くからです。

    理解していると私たちは思うので非難するのです。私たちは理解していません。非難するやいなや、私たちは理解することを止めているのです。それは物事を払いのけるもっとも容易なやり方の一つです―誰かを非難することは。

    しかしこの全過程を理解することは、心の大変な油断のなさを必要とします。心が非難していたり、正当化していたり、それが感じることに単に同一化していたりするときには、心は油断なく気を配っていません。

    それゆえ、自己認識は瞬時瞬時の絶え間ない発見です。しかしその発見は、過去が意見、障壁を投げ上げるなら否定されます。心の累積的な行為は即座の理解を妨げます。』(K)


    私の学習経過:

    『 問題を理解するには、支配の問題全体に敏感で、気づきがなければならない。

    私たちは理解していると思うので非難するが・・理解を止めている―物事を払いのけるもっとも容易なやり方。

    全過程を理解するには、心の大変な油断のなさが必要。心が非難、正当化、同一化しているときには、心は油断なく気を配っていない。

    自己認識は瞬時瞬時の絶え間ない発見・・過去が意見、障壁を投げ上げる―心の累積的な行為は即座の理解を妨げる。』

    社会は・・非難、正当化、同一化で成り立っているようですが、問題を理解するには『心の累積的な行為は即座の理解を妨げる』・・過去の記憶・知識・経験・信念を捨てて、現在の事実を見ることから、つねに新しい姿・発見・理解があるのです。

  • 【 支配と服従(5) 】
    『 そこで、私たちは非難なしにこの問題を見ることができるでしょうか。私たちは私たち自身の内側にこの過程が働いているのを単に観察することが、静かに見守ることができるでしょうか。

    それは非常に容易に私たちの関係すべての中に観察され得るのです。展開する全現象をただ静かに見守ってください。あなたの支配の非難、正当化がないとき、それは開き始め、何の障害もないことが見えるでしょう。

    そのときあなたはすべての意味が見え始めるでしょう。個人的支配のことのみならず、また公的な支配、他の集団による一つの集団の、他の国による一つの国の、他のイデオロギーによる一つのイデオロギーの支配などなども。

    自己認識はどんな種類の理解のためにも絶対必要です。そして関係は生であるので―関係なしには生存はあり得ません―あなたがそれに正しく接近するなら、この支配の過程が非常に多くの仕方でそれ自身を表現しているのが見え始めるでしょう。

    そしてあなたがこの全過程を、無意識的にだけでなく意識的にも理解するとき、それからの自由があります。確かに自由があるに違いありません。そしてそのときのみ、越える可能性があるのです。

    なぜなら、特定の形の信念、特定の意見に束縛された、単に支配し、主張しているに過ぎない心は、さらに進むことができず、長い旅をすることができず、空高く舞い上がることができないからです。

    それゆえ、自分自身を理解する中で、支配というこの最も困難で複雑な問題を理解することが、不可欠ではないでしょうか? それはそのような微妙な形をとります。そしてそれが正義の形をとるとき、それは非常に頑固になります。』(K)


    私の学習経過:

    私たちは自分の中にある・・何か自分の外部にあるものに対する「支配」の心を、まず見い出すことができるか。そして、そのありのままの姿を『静かに見守ることができるか・・非難、正当化なく』
    それが私たちの課題です。

  • 【 支配と服従(4) 】
    『 孤立の過程の一つは支配です。孤立に導く恐怖はもう一つの形をとるのではないでしょうか。主張したい、支配したい、服従したいという欲求のみならず、孤立の過程の中に、独りである、孤独であるという意識があります。

    私たちは大抵孤独です―「独り」という言葉を使いたくありません。それは違った意味を持つからです。私たちの大抵は孤立しています。関係しているかもしれないけれど、自分自身の世界の中に生きています。

    結婚して子供を持っているかもしれないけれど、自分の固有の世界の中に生きています。それは非常に孤独な世界です。時たま喜び、娯楽、幸福などが開くことのある、悲しい世界です。一人だけの寂しい世界です。

    それから逃避するために、私たちは何者かであろうとします。主張しようとします。支配しようとします。それゆえに、私たちのあるがままから逃避するために、支配はそれを通して私たち自身から飛揚できる手段になります。

    それゆえ、この支配の全過程は、私たちの現状に向かい合うことを避けたいという欲求があるときだけでなく、孤立していたいという欲求があるときもまた起こるのではないでしょうか。

    私たち自身の中にこの過程を、非難の精神でではなく、それは単に反対側を取ることに過ぎません、なぜ私たちが支配しようとか非常に卑屈になろうとする、このとてつもない欲求を持つのかを理解するために見ることができるなら、もし私たちが反対の側を取るという何の感覚もなしにそれに気づいていることができるなら、私たちが逃げ出そうとしている孤立のその状態を実際に経験するだろうと私は思います。

    そのとき私たちはそれを解決することができるでしょう。すなわち、何かを理解するなら、私たちはそれから自由です。恐怖があるのは理解しないときだけです。』(K)


    私の学習経過:

    『孤独・孤立・・自分自身の世界の中に生きる。
    結婚して・・自分の固有の世界に生き、孤独な世界、時たま喜び、娯楽、幸福などが開く、悲しい世界。
    あるがままから逃避するために、支配は自身から飛揚できる手段になる。
    恐怖があるのは理解しないときだけ。』

    これはどう理解したらいいか・・結婚・子供の中に、孤独な世界、悲しい世界、一人だけの寂しい世界・・・。
    私たちのものの見方と理解力が問われているようです。

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