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投稿コメント一覧 (1063コメント)

  • >>No. 12435

    「シンクロニシティ」

     平成28年、ずっと音楽活動を続けている渡辺一の発案で高崎シティギャラリーでこれも50年ぶりの復活「ニュー東京オールスターズショー 」を開催した。

     その「ニュー東京オールスターズ」とはご案内の向きの方もおあられるかもしれませんが昭和30年代から50年代初期まで高崎柳川町で活況を呈したグランドキャバレーでそこのバンマス「山村健(pf)」を中心に当時の往年のメンバー、みなさんご70歳代と高齢、そんな昭和を彩ったミュージシャンのコンサートと、ご高齢の皆さんなら知らない人はいない「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」のジャッキー吉川(drum)さんをゲストに迎えてのそれ。そこへザ・プラネッツ時代の先輩でもありリーダーの高木賢次郎を渡辺一が誘い見事成功裏に終演した。

     その後、それを期に「ザ・プラネッツ」、50年ぶりの再結成の話が持ち上がり、平成29年9月、高崎電気館で「昭和の風」と題して「ザ・プラネッツ」のコンサートを大成功裏に・・・

    「シンクロ二シティ」

     いろいろあって、再結成後の「ザ・プラネッツ」、ま、ミュージシャン特有の「自己中」でベースとドラムが離脱。

     そんな時突如として目の前に現れたのが身長186センチ、高校時代はラグビーのフォワードで名を馳せたという「松本裕」をベースに、そしてドラムにはこれも高校時代は全国吹奏楽コンクールで金賞を受賞した名門「県立高崎商業高等学校吹奏楽部」の打楽器奏者「小林修」が参加、現在のザ・プラネッツに至る。

    ということなんですが、それがこれを書く渡辺一にとっての「シンクロ二シティ」。

    ユングは、coincidences コインシデンスについても、(その全てではないにせよ、少なくとも一部は)単なる「偶然」によって起きているのではなく、co-inciding(共に、出来事を起こすこと)、と見なしたのである。

     ということでこの続きは次章に・・・

  • >>No. 12434

    シンクロニシティⅠ

    ユングは様々な著書で、人間の意識同士は実は、集合的無意識(collective unconscious)によって、そもそも交流しているということは述べている。
     底に潜む、「過去・現在」そして「未来」という時空はいつどこで自己の意識に覚醒するのだろうか。
    「ザ・プラネッツ」

     それは僕、渡辺一(drum)が18でリーダーの高木賢次郎(Vo)、中島賢治(Bas)そして富岡博美(Gui)が二十歳。あれから50年という歳月が過去のものとなっていた。その過去の50年間は取り立てての理由はないがそれは疎遠、それぞれのその過去は意識からは遠ざかっていた。
     というのも、リーダーの高木賢治郎は稼業の高木米穀店の跡取り、そして自ら創業したパスタ&喫茶「しゃらく」を成功させその50年後には街の、横丁の名物おじさんになっていた。

     一方の富岡博美は渡辺一がザ・プネッツに参加し第一回の群馬音楽センターでの「ザ・プラネッツ・リサイタル」を最後にプロになるため離脱した。
     そして群馬音楽センター「第二回ザ・プラネッツ・リサイタル」を期に高木賢次郎率いるそれも、解散。

     そうした中、時代の流れで渡辺一はプロ修行のため東京へ、22歳の時だった。
     あれから50年。ありきたりな言葉で表現するなら「紆余曲折」それぞれがそんな人生の波に揉まれ、気がついたら高齢者、還暦、古希の齢をというか馬齢を喰んでいた。

  • >>No. 12430

    Evolution

    >どんどん老化でできることができないように。

    老化は進化。樹木もその老化で美しい紋様を刻みます。
    老いる事の美しさ。それは海も山も川面も教えてくれています・・・

    人、いや、生き生けるものは全て同じ。
    その終は荘厳です。

    「死」は究極の美。

    この国、争い事のない平和の中で迎える「死」は至極です。

    「生」への欲望はない。

    ただ感謝あるのみ。そして父母、祖父母への春秋あるのみ。

    子どもは分身、そして世を繋ぐ。それは久遠に。

    嗚呼、生まれて良かった、そして生きて良かった、君とめぐり合えて良かった。

    ケンタ。

  • >>No. 12428

    >どの作曲家も金、女にだらしなく、

    音楽家は大方そんなもんです(笑)。

    小澤征爾もね・・・

    車が来ました。

    ケンタ。

  • >>No. 12426

    欠かさず読んでいた「天上の弦」。

    友人、長井氏のありがたい誘いで、今日念願の夢がかなった。
    希代のバイオリン職人・陳 昌鉉先生にお会いできたのだ。
    50分ほど、陳先生は熱くヴァイオリンを語ってくれた。

    僕の目の前に、「海峡を渡るバイオリン」の主人公がいる・・・

    「天上の弦」の主人公、陳 昌鉉がいる !!

    僕の目の前に陳 昌鉉先生がいる !!

    友人、長井氏はヴィオラリストで古くからの陳先生の信奉者。
    長井氏はこれで陳先生にお会いするのは2度目だという。
    今日は、長井氏のヴィオラの修理と調整依頼のため、 調布市仙川の陳先生の工房をお訪ねした。

    憧れの陳先生。「お写真を」のお願いにも心安く応じてくれた。

    あっという間の50分間だった。

    機会があればもう一度お話が聴きたい !!

    陳先生の工房、けして広くはないが、製作途中のバイオリン、チェロが並ぶ。

    塗料の匂いだろうか・・・

    なんとも言えないその香りが。

    御年80歳(当時)の陳先生。

    「僕はストラディバリに負けないバイオリン作り、夢にかけているんだ!!」

    といって、優しくほほ笑んだそのお顔が今も僕の心に残ってはなれない。

    この想い出は僕の一生の宝物だ。

    陳 昌鉉(ちん ちゃんひょん、1929年 - 2012年5月13日)は、在日韓国人のヴァイオリン製作者。アメリカヴァイオリン製作者協会 (The Violin Society of America) より「無鑑査ヴァイオリン製作家」の称号を授与され、「東洋のストラディバリ」とも称される。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E6%98%8C%E9%89%89

  • >>No. 12424

    >そういえば、才能があってエレキギターで感電死した若者がいたような。

    「やまだかまち」ね。才能があったかなんだかは知らないけど、僕のお先輩の教え子。
    親が教育者で、一浪して福田、中曽根が卒業した進学校へ。そうだね、絵画では才能があったようだけどエレキで感電死は親への反抗の自殺、エレキも上手かったよう、僕がギターを教えた布袋寅泰が「俺よりかまちの方が上手かった」って高校の頃のことだけど。

    >生活のオール電化のはしりを創る仕事をしていたがエレキギターはその中に入っていなかった。

    「マネシタ電気」はナショナル電気ブランドの「エレキ」作ったたよ。ビクターもね。

    さすが、東芝とか日立とかの財閥系はエレキはやらなかったけど、楽器関係で言ったらヤマハもカワイもエレキに手を出した(笑)。
    そらね、エレキなんてゾッキもんで大手が手を出すシロモンじゃあない、とはいえさすが松下、松下幸之助健在の頃ですから「やってみなはれ」だったんでしょうね(笑)。

    ああ、今月も長寿センターのライブが三本、忙しい忙しい。

    エレキの音って痺れるらしいね。何なんだろうね、僕たちの親世代が「異国の丘に」涙したのと一緒なのかなぁ。
    いま、結構リクエストが多いいのが、スプートニックスの「霧のカレルヤ」「さすらいのギター」なんでだかよくわからないけど。

    あっ、「鈴木キサブロー」はスターじゃないです。作曲家、です。
    彼は東興スタジオというレコーディングスタジオでアルバイトをしているとき「襟裳岬」の作詞「岡本おさみ」に認められ作曲家デビュー・・・

    でも同世代を同じ夢に向かって生きた唯一の成功者、それは僕らの誇りでもある、彼の苦労を知っているから。

    まあ、良い時代を生きました。ふつつか者ですけど末永く宜しく。

    ケンタ。

  • >ウィルス感染していますとかの脅し文句を鵜呑みにして、

    案外国策かもしれせんね。ノンキャリの役得(笑)。

    だって、アベボの北朝鮮報道と一緒だもの、J-アラート。

    ま、トランプ氏もジョンウンとも仲良し、シンゾーとも仲良し。
    そんなわけでジョンウンもシンゾーも三世。
    まあ、同じ三世でもジョンウンはバイリンガルのルパン三世並み・・・
    此方、シンゾーは日本語も幼児言葉だし漢字アウトだし。

    >このPCにも何秒までに何とかしないと

    って、そんなのネット接続会社がなんとかしないとね。
    つまり、ネット会社のオネェさん、僕のパソコン遠隔操作できるんだし。

    そもそも買ったばかりのパソコンでそんなの来たらPL法の問題でしょ。
    Windowsだって高いカネとってるんだから、Windowsが言って来るっていうのがそもそも変じゃない。
    誰がやってるかわかってんだろうし(笑)。

    ケンタ。

  • >>No. 12416

    「くもすけバンド」

    余命宣告された当時のメンバー山口。

    僕のブログをきっかけにキサブローもメールをよこした。

    「ナベさん、記憶鮮明だねくもすけの。そうなんだ山口、末期の肺がん」

    山口の余命は半年、抗がん剤治療等で実際に動けるのは3ヶ月と言われていた。

    「じゃあ、スタジオで昔みたいにセッションするか」

    とあの鈴木キサブローが・・・

    鈴木キサブローといえば80年代数々のヒット曲を生み出して、その中でもレコ大の「DESIRE」。
    その時は旧友の大出世を大いに祝福したものだった。

    僕と堀口は余命半年の山口を連れて3ヶ月、高田馬場のスタジオでセッションした。
    4か月目には、「もう無理、行けないよ」と山口は弱音を吐く・・・

    そしてちょうど半年後逝った、享年62歳。

    葬儀には当時のメンバー全員が出席した。

    故・山口真佐留が周囲に自慢してたのがバンドメンバー、鈴木キサブローの出世だった。
    しかし、周りの者は半信半疑、山口が東京でミュージシャン生活をしているのは噂に知ってはいたが鈴木キサブローと同じバンドのメンバーだったとは誰も信じてはいなかった。

    葬儀の当日、花輪に「鈴木キサブロー」が。

    そして鈴木キサブローが挨拶。

    彼、山口真佐留の友人が驚いたことは言うまでもない。

    ケンタ。

  • くもすけバンド

     お末ちゃんが池袋西口に高崎時代からの彼女、「スミちゃん」と同棲を始めたのはその三ヶ月ほど前のことだった。
     池袋駅、その西口から山手通りの方に一キロほどのところだっただろうか、「東京トヨペット」池袋営業所の前の路地を入った、所謂「1DK」と言うやつかだっただろうか。
    それは僕の一人暮らしとは違って「お末ちゃんとスミちゃん」ま、22歳と18歳の愛の巣は青春の匂いがぷんぷんしていた。

     何の事はない、高崎を出る時既に二人は硬い契りを交わしていたのだった。スミちゃんは高校を卒業するとデザインスクールへ入学すると言って東京へ行くことになっていたらしい。
     その時分、流行はじめの「専門学校」へ通う為の上京であったが上手く示し合わせて、お末ちゃんもミュージシャン、ギタリスト修行の「東京生活」を決めていたようであった。

     まさに「神田川」・・・ご両人にとっては「かぐや姫」じゃあないが忘れられない一生のアルバムの一ページではなかっただろうか。

    「専門学校」と云えば、あの時代「セツ・モードセミナー」とか「千代田デザイナー学院」、そして「東京デザイナー学院」とか、全国から「夢見る若造」が集るようにして、東京へ、東京へと来ていた。
     なんのことはない、僕もその「若造」の内の一人。バンドブーム「GSブーム」も去りロックシーンとしてはハードロック系フォーク系が入り乱れていた頃で、その頃高崎の時代から目覚め始めていた「ブルース」の、ミュージシャン修行のつもりで一人、東京に出てきた。

     丁度その頃のミュージックシーンは、なぜかその黒人音楽の「ブルース」が静かなブームを呼び始めていた。
     と言うのも、ヴェンチャーズ、ビートルズ、グループサウンズときた僕らの時代も、アメリカのロックの祭典「ウッドストック」を契機にジミー・ヘンドリンクス、ザ・バンド、オールマンブラザースとかのように次第次第に「ブルース」にシフトして行った。

     もっとも高崎にいた頃から、ジョン・メイ・オール、マウンテン、そしてブリティッシュロックからブルースに変っていった、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックそれらをコピーして自己陶酔の世界に嵌っていたのだった。

    つづく

  • >>No. 12414

    それはこの国が海洋国家だからではない。
    古来、安住の地を求めてこの地にたどり着いた生き物のDNAなんだろう、それは。
    あえて言えば「もう行き場所はない」という「DNA」。

    明治以降事情はともかく、その安住を求めて、半島から、大陸からこの島国を求めたどり着いたものは其々だが、「人」生きる、ということにおいてはそれは生物本能でそこの結路が、この狭小な、極東の日本列島、それは縄文・弥生の歴史にも証明されている。

    そうじゃないか、この国から、日本から難民として出て行くやつがいない。
    あの空襲爆撃、広島長崎がありながら、そしてこの現代において「フクシマ」がありながら、これはいてしまえば「郷愁の念」なのかもしれないが、物心着いたときの必然的歓喜ではないか。

    「ここに生まれてよかった」と言う。

    まさにこの国、日本は「母の国」なんです。

    母が、お母さんが子どもを苦しめる、悲しめる、そんなことなんて絶対にしない。
    国、政府が国民を苦しめる、悲しめるなんていうことは絶対に「しない」と言う、その歴史と思想の中にこの国、日本は悠久の歴史を育んできた。
    つまりこんな僕でも数千年前の「ニッポン」が宿っている、そして、それを子孫につないでいる。

    馬鹿な政治家が言う。

    「労働力不足だから、海外から労働力を入れないと日本は滅びる」と。

    馬鹿な、海外の、それも開発途上国の若者を「間引き」してどうすんの(笑)。
    そう言えばこの日本でも明治以降戦後と、求められてないにも関わらず人口暴発、食糧難からハワイ、米国、中南米移民という間引き政策を取ってきた。

    まぁね、格言に「苦労は買ってでもしろ」というのがあるがそれは日本の話であって、未だ身分社会が色濃く残る海外諸国にあっては苦労はバネにはならないのが普通。

    ベトナムの「職業実習生」が日本で「とび職」「農業」を実習する、それって現実。
    いくらえベトナムが経済発展しようとも超高層ビル建設は、「人民の、人民による、人民のための」経済発展ではない、富国政策ではない。
    もちろん、日本の農業技術をベトナムの若者が爪に火を灯すような苦労をして習得したとしても、明らかに日本とベトナムではその気候風土が違う。

    そもそもありえない話が、この平成の政治と政治家。

    苦労モンは「我利我利亡者」に、世襲おぼっちゃまは「云々・デンデン」に。

    ケンタ。

  • 1954年「平和という夏」

    それは敗戦という終戦からたったの9年後の・・・

    母がよく言っていた、製粉(日清製粉)の時を知らせるサイレンがなると「空襲警報」かなと。

    この街にも例外なく米軍による爆撃があった。

    B-29は隣町、前橋を焼き尽くし、軍需工場のあった高崎は米戦闘機グラマンの機銃攻撃に。
    僕が写真の頃母親に手を引かれ横丁へ買い物に行くと、九蔵町の小市商店だったか、八百屋です。

    「悪いことをするとここへ入れちゃうよ」

    と、そう、防空壕。そうそんな時代でした。

    馬鹿な政治家が言う・・・

    「もしミサイルが飛んできて攻撃されたらどうするんですか、北朝鮮が、中国が」と(笑)。

    1940年という世界情勢の中にあったにせよ中国、満州に日本政府は第二帝国を建国した。
    総経理はご案内するまでもなく、現・内閣総理大臣の御尊祖父様。いわゆる長州閥。

    「もし日本軍が来て攻撃されたらどうするんだ」

    そう、そう言った中国国民党政府、それが「南京陥落」そして「香港陥落」からシンガポールからマレー半島へと。

    確かにそういう時代でした。ということはつまり、今、この現代も・・・

    「そういう時代なんです」

    僕ら団塊世代はこの70数年なぜか世界に比すれば平和と繁栄、そして幸運に恵まれて来た。
    そこの何故かを僕らは知らなければならない。
    白人至上主義の中で名誉白人として国際社会にデビューし、日清・日露戦争に、その背景はともかく勝利し、清、ロシア帝国に勝利、かどうかは現代での其々のご見解ですが。

    そこで妙に符合するのが、明治時代の1668年から1912年までの44年間。
    そして、大東亜戦争を挟んだとは言え正味、63年、まあ人の一生です。この歴史の中他国と戦をしその戦国時代を「こそこそ」と生き延びている、それが「神の国日本」(笑)。

    そして、この平成も終わる、そして昭和も終わった。
    それを考えてみると世界は極めて混乱の中にあることは現実だろう。

    世界中で、今、この時代に、陸続きを、海を超えて祖国を捨て難民として生きざるを得ない西欧、南米人民。

    どうだろ、我がニッポンというこの国で、あの空襲、原爆に晒され執拗にその漆黒の中にいながらこの「ニッポン」から脱出するという国民がいただろうか。

    ケンタ。

  • >>No. 12412

    >今の若者に足りないところ。

    そんなことはないですよ(笑)。

    僕がドラム講師を勤める「ピアノプラザ群馬」
    https://www.pianoplaza.com/

    その名の通りピアノがメインでスタインウエイ、ベーゼンドルファー等々の在庫数は北関東随一。
    そして当社はスタインウエイ正規代理店はもとより、日本国内初のスタインウェイセンターを持ち、その調律、リペアの技術は折り紙つきです。

    そこで働く若者、調律師、リペアマン昼夜惜しむことなく、しごと、いや、修行なんでしょうね。
    その「スタインウエイ、ベーゼンドルファー」を調律管理、なにせ1千万円クラスのそれがずらっと並んでいる、それに囲まれての修行です。

    社長は僕より3つ上かな、出身は静岡県磐田市でご実家がピアノ製造メーカー。
    大学が高崎経済大学でそれが縁で、というか、かかあ天下の上州女を娶りこの地に開業。
    つまり根っからのピアノ人間です。

    そうですね。若者、目的というか自分の道を定めた者はやっぱり動きが違います。
    僕もそんな若者の助けを借りながら教室運営をやってますが、自分の「好き」を仕事にできることはいくつになっても最高に幸せなことです。

    一つ、今の若者が僕らが若かった頃のように市場が創造できないということです。
    自分の人生に目標を定めたところでこの日本の経済環境ですから夢の設計ができない。
    ま、僕ら世代っていうか、僕はその意味では時代に恵まれてました。
    ミュージシャンの夢が破れたら、そこへギター製造という夢が飛び込んできた、しかも一流の鴨がネギを背負って。

    80年代のアンドブーム再来でした。
    それとミュージックシーン、アイドルというよりは実力歌手がどんどん出てきた。
    僕のところのギターに火が付いたのが、寺尾聰「ルビーの指輪」のイントロからのギターサウンド、スタジオミュージシャンの今剛氏が弾いてます。
    そして、中森明菜のレコ大曲「DESIRE」のギターサウンド。なぜならこの楽曲の作曲者の鈴木キサブロー氏は下積み、楽苦労時代のメンバー、ま、そもそもレコ大に行くとは思ってもいなかったので、

    「ナベさんとこのギター使わせて」

    「あいよ!」

    って感じで、それがアレヨアレヨでした(笑)。
    そうだ「チューリップ」のギター、阿部さんもうちのギターでした。

    そんな時代、夢が現実になった時代でした。

    ケンタ。

  • >ヤマハのピアノがのし上がったのも、そう。

    ピアノもそうだけど、一番苦労したのが木材の仕入れ。

    エレキの基本木材は「アルダー」という樹種で木目はなく加工しやすい。
    北アメリカ西海岸一帯にに生育し昔は電信柱に使われた、真っ直ぐ伸びる直径25cmくらいの広葉樹。もちろん開拓時代から家具、建具などに使われている。
    生育には40年から50年で、伐採、自然乾燥、製材、そして用途材として製材したものを数年かけて自然乾燥させる。
    もちろんアルダーだけではなくアッシュ、スワンプアッシュ、メープル、ウォールナット等々が北米産の木材。
    アッシュは野球のバットでも有名、メープルは木目が美しくしかも硬度があり弦楽器のネック材、側板に重用される。トップ材はスプルースの針葉樹。

    カリフォルニアの材木商、広大な敷地にそうした樹種の丸太、製材されたもの、用途材としてカットされたものが所狭しと野ざらし、自然乾燥されている。全て伐採して40年、50年もの。
    そして、アメリカ西海岸は乾燥地帯、そもそも空気が乾燥しているためギターもLAでは良い音になる。
    そうした木材を仕入れて加工するその技術において日本の職人は半端ではない。

    僕も現役の頃エレキギター、アコースティックギターに本漆を使った蒔絵塗装をつくろうと思ったけどその値段もさる事ながら時間もかかりすぎるので断念しました。
    ただ塗装には固執しましたね。めちゃくちゃコスト高のオールラッカー仕上げ。下地着色、目止め、トップコートからニトロセルロースラッカー。もちろんその塗装は松本の塗装職人に依頼。
    僕が現役を退く頃その職人さんたちも高齢化、今も健在なら皆さん90歳です。

    そうした松本の職人さんは戦後、花嫁道具として売れに売れたミシンの天板、ミシンがダメになるとその天板をエレキのボディに転用、そこえアメリカのエレキブームで、爆発的な輸出量。そしたら、日本の団塊世代のエレキブームで皆さん一代で昭和30年代ひと財産築き上げました。
    エレキブームが去って、フォークブームでフォークギターが爆発的セールス。
    それは松本市の財政を大きく潤したはずです(笑)。

    平成8年、そうしたエレキもフォーク製造も韓国製、台湾、中国製ひいてはベトナム製と変遷して終焉。
    ヤマハもカワイも本来のピアノづくりに戻りました。良い木材を持つメーカーが生き残ります。

    ケンタ。

  • >当時からメイドインジャパンだったのですね。

    僕は昭和60年ギター製作の会社を立ち上げた。
    オーナーはダラスの投資家でLAで倒産仕掛けていたギターメーカー「SCHECTER GUITAR RESEARCH」を買収した。

    「SCHECTER GUITAR RESEARCH」は1976年、デヴィッド・シェクターが創立したエレキギターパーツメーカー。
    主にフェンダー、ギブソンのリプレースメントパーツ製造に集中した、なぜなら米国ロックシーンも変わり当時主流だった「フェンダー」「ギブソン」も販売不振から実質倒産の憂き目から修理用パーツもなくなったためにそのパーツメーカーとしての「SCHECTER GUITAR RESEARCH」は1976年のNAMMショーに出展、一躍脚光を浴びたが1983年そのムーブメントは終焉した。

    MADE IN JAPAN「USA SCHECTER」

    1985年僕はSCHECTERの本拠地LA近郊のヴァンナイズのファクトリーから全てのパーツ(素材)を輸入し加工して米国へ輸出。
    エレキギターの素材、木材を輸入、木取り、磨き、塗装して輸出、組立をヴァンナイズのファクトリーで。もちろんビルダーは日本のスタッフを送り込んで。

    日本の木工加工技術精度はすごい、日本では当たり前だけど塗装は最終仕上げコンマ2ミリの鏡面仕上げ、ピンホールは不可。
    エレキギターの中枢、ピックアップ(マイク)素材、線材、ボビン、ポールピース、マグネットの
    乾式フェライト磁石、それらの全てがMADE IN JAPAN。

    たしか円高になった頃の輸出価格は日本の価格設定、米国での価格、円高の前は1200ドル~、円高になって1600ドル。それでも売上は落なかった。
    なぜなら、MADE IN JAPANにしか作れないSCHECTERはヨーロッパでも安定した売上だった。

    2006年(平成8年)全てのパーツが終わった。
    もうMADE IN JAPANのSCHECTERは作れない。老兵は去るのみ。

    そう、金属パーツ加工は高崎の町工場でやってました。
    ピックアップマウントスプリングは医療用チューブは高崎のゴムメーカーから。
    モノづくりは技術以上に日本の精神構造からですね、妥協しないという。

    なんで円高が不利なのかわからない、円高になったらレクサスが6万ドル、7万ドルでも。

    ケンタ。

  • 中国人は食欲旺盛っていうか、下層人民は食糧難でした。
    机、椅子以外の四本脚はなんでも食す文化。

    昭和56年、香港で「日本健康菜館」、いわゆる日本風「ほか弁」です。
    それはちょうどソウル五輪が決定した年、その店舗は香港三越(建設中)の地下鉄駅の出入り口という一等地で、家賃は一ヶ月120万円(10坪ほど)。

    オーナーは僕と同い年の「王家昌」という潮州系香港人。
    当時楽器の仕入れで頻繁に香港入りしていた僕は彼の経営する「日本時装」というブティックを事務所代わりに楽器を香港から輸出。
    そして、東京の僕の渋谷のオフィスを彼の事務所代わりに日本の「カワイイ系」、当時はそんな言葉はなかったがそれの輸出、なんといっても香港、東南アジアはほぼ一年中夏で、日本のサマーバーゲンを狙って彼はどこで情報を得たか、原宿、横山町、軽井沢とシーズオフになるころ大量のその「カワイイ」を買い付けていた。

    香港はフリーポートなので東南アジア、タイ、インドネシア、マレーシアのそうした商人が買い付けに来る。
    東京から一度に持ち出す「カワイイ」は3トンくらい。しかもそれらを手荷物で飛行機に持ち込む、当然オーバーチャージはトン当たり100万円くらい。それでも儲かるのだという。
    彼はセントラルの賃貸オフィスにそれら「カワイイ」の展示会を開催、驚くことにその「カワイイ」は即日完売。

    「ナベちゃん、メイドインジャパンじゃないとダメ、メイドインジャパンの洋服は生地が違うし、縫い糸も違う。もちろんデザインもね」

    とにかくその時代のメイドインジャパンはどんなに高くても東南アジアのお金持ち、富豪は競って買い求めたという。もちろんどこの国の女の子もお洒落には熱心、そんなメイドインジャパンの「カワイイ」を仕入れた東南アジアの商人も相当儲かるとか。
    そらそうです、東南アジアの市場30億人、大金持ち、富豪はその1%としても3000万人、また同じ富豪でも日本とは比べ物にならない大富豪。
    そんな大富豪の子女が日本の「カワイイ」を買い求める。もちろんその富豪の紳士淑女はフランス、イタリアのブランドものだけど。

    そんな彼が目に付けたのが日本の「ほか弁」。とにかく日本食品は「健康的」なんだそうです。
    さらに彼の徹底ぶりはお弁当のパッケージ、包装紙は横山町のシモジマ、で箸スプーン、フォークもシモジマといった徹底ぶりでした。

  • >若者がギターもってずっと歌ってました。

    今の日本での「ロック」は中学、高校と文部行政がバックアップした「軽音」というやつ。
    いつごろからだろうか、学生運動が終わって世の中が大人しくなって、それも平成か(笑)。

    そもそも「ロック」反体制行動じゃなかったか。
    ベトナム戦争真っ盛りの頃のフラワームーブメントも、サイケデリックも、あの銃社会のアメリカでさえ「反戦」と「ロック」を融合させた若者文化。

    1969年の「ウッドストック」を境に少しずつ衰退し始めた「ロック」は一つには高齢化かも。

    あの頃の大人が眉をひそめた男子のロングヘアと奇抜なファッション。
    しかしそれも昭和のお割には少しづつそのムーブメントも影を潜めていった。
    そして団塊世代の僕らも結婚をして家族を持ってそんな昔を懐かしむでもなく子育て、仕事に追われ30年が過ぎた頃その社会は一変していた。

    その昔はエレキ、ロックは不良の代名詞でダンスホールでも出演しようもんなら即「停学処分」。もちろん僕も例外ではなく危うくそのその処分を受けるところだったがブラバンということで助かった。
    ところがどうだ、今では教育行政側でロックを奨励している(笑)。
    そもそもロックは若者が音楽、ロックという表現で世の中、社会にそのほとばしる気持ち、不満を表現するツールとしてやる、大人社会から見たらやってはいけないことをやる。

    それが今では頭を撫でられて、「ロックの甲子園」だって言うんだからそら、行政にとっては都合のいい国民が生まれる。

    まあ、高崎出身の著名のバンドのベーシスト、雑誌で対談したが・・・
    今から40年前の話で、「俺たちは石をもって高崎を追われたからね、今更、帰ってきてって言われてもね」。そう言って笑ってた。
    まあ、そんな彼も50代、故郷に帰って静かな日々ということか。

    しかしね、アメリカのロックは激しいね、「オジー・オズボーン」(71歳)。
    未だ現役らしい、鳩を焼いて食っちゃった変なおじさん・・・

    ケンタ。

  • >>No. 12398

    >私は大変でした。

    末娘は未来に向けて輝いている。

    卒業旅行は一ヶ月かけてヨーロッパひとり旅だと。ユーレイルパスも届いて到着地はアムステルダムだとか。

    卒論が「ブリティッシュ・ロック」。

    一番ハマっているのが「デビッド・ボウイ」だという末娘。
    クィーンもそう、、アメリカの、プレスリーを典型とするロックンロールだが・・・

    そもそもが奴隷制度、人種差別に生まれた「ブルース」「ジャズ」「ビバップ」そして「モード

    それは凝縮された移民国家アメリカという文化に必然として生まれたもの。
    そして第二次大戦後名誉白人のジャポニズムの中に開花したジャズ、モダンジャズ、ロック、ブルースそしてそれらの要素をミックスし誕生した「和製フォーク」、吉田拓郎とか井上陽水に代表される、そして桑田佳祐を祖に開花した「和製ロック」。

    ようやく伝播し始めた、「J-POP」として形を変えて。
    ま、「K-POP」もそも流れだろう。しかし第二次世界大戦を引きずり徴兵制を敷く大韓民国でのその流布、マーケットは小さい。
    まあ、中国を見ても共産党一党独裁の中では時代の若者を自由思想に誘う「音楽」は統制される、ビッグマーケットには違いないが。

    ケンタ。

  • >>No. 12398

    >ここはある日突然なくなるのでしょうかね。

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    ケンタ。

  • >>No. 12396

    家族の肖像

    末娘のお誕生日家族で伊香保グリーン牧場へ行った時の一葉。
    あれから23年の歳月ガ流れようとしている。
    窓の外には「毎日元旦マラソン」の取材だろうヘリコプターがその静けさに騒がしい。

    その末娘は友達と初詣だと朝早くに出かけた。
    家の中はシ~んと静まりかえり三匹の猫がストーブの前で丸くなっている。
    そんな猫たちにブツブツ言いながら杖をコツコツとさせながら洗濯機を回しに。

    「老いる」ということはこういうことなのか・・・

    物事への興味が薄れると同時に目も耳も遠くなり足腰も弱まる。
    進んで外出する機会も少なくなる。カミさんを誘っても車椅子が面倒くさいと断られる。

    今は亡き父母もそうして晩年の正月を過ごしたのだろうか。

    そうだ、記憶が薄れ夜明けも日没も気にならなくなり・・・

    「春の海終日のたりのたりかな」

    ボケることはいいことなのかもしれない。

    それは「死」の現実からの本能の精神的逃避。

    ケンタ。

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