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投稿コメント一覧 (1696コメント)

  • >>No. 1259

    > アプリオリな認識・・・この中でも特に【経験的なものがまったく混ざっていない認識】を、【純粋な認識】と呼ぶことにしようって。<

    まず、アプリオリな認識のものの、経験的な認識も混ざってるため、純粋な認識とは言えないものの例↓

    「すべての変化にはその原因がある」という命題。

    さて、↑この命題の中で、何が〈経験的なもの〉とされてるのでしょ〜か?

    答え・変化という概念が経験的なもの。その部分が経験からしか引き出せないから、上記命題は、アプリオリな命題ではあるが、純粋な命題ではない、とのことです。

    カント先生、細かいね!

    つまり、ある命題があった時、その命題が経験に源泉を持たなくていい得るものならアプリオリな命題であるが、その中でも、命題に使う概念さえも経験を源泉に持たないものだと、徹底したアプリオリ→純粋な命題、ってことかなと今のところ思いました。

    とりあえずこの理解で進んでみます。

  • >>No. 1258

    アプリオリな認識・・・この中でも特に【経験的なものがまったく混ざっていない認識】を、【純粋な認識】と呼ぶことにしようって。

  • >>No. 1257

    おこ〜んばんは〜 🌀😊

    >ここまでの箇所で、
    (『純粋理性批判』の中で【アプリオリな認識】と呼ぶときは、【すべての経験から絶対的に独立した認識】という意味で理解してほしい。)というところの英文を探してきて、日本語訳しようかと思います。<

    下手な訳、投稿しますm(_ _)m

    By the term "knowledge a priori," therefore, we shall in the sequel understand, not such as is independent of this or that kind of experience, but such as is absolutely so of all experience.

    (訳)
    我々が「アプリオリな認識」という術語によって理解すべきは、これ、あれといった類の個々の経験から独立しているという意味ではなく、全ての経験から絶対的に(無条件に)独立しているということである。

  • >>No. 1255

    ※カント先生の文章ではなく、私の理解したとこを文章化したものです。

    (´-`).。oO(アプリオリって表現、まだ世間的に十分な定義付けされてないと思うんだよねー。
    だからさ、例えばだよ、
    自分の家の土台堀起こりたら、家が倒れるやん?
    これって、経験してないけど、わかるやん?
    だから、この例を、アプリオリな認識って言っちゃう人もいると思うんだよねー。

    でもさ、なんで倒れるって認識できるか、って言ったら、《物体には重さがあり、また、支えるものがあってそこに存在しているときはその支えを取り外すと落下する》ってことを経験的に知っているからだよね?
    つまり、経験を源泉としている認識だと僕は考えるんだ。

    だからさ、僕のこの『純粋理性批判』の中で【アプリオリな認識】と呼ぶときは、【すべての経験から絶対的に独立した認識】という意味で理解してほしい、ンダヨ。)

    ややこしさはまだ続きますが、とりあえずここまでの箇所で、
    (『純粋理性批判』の中で【アプリオリな認識】と呼ぶときは、【すべての経験から絶対的に独立した認識】という意味で理解してほしい。)というところの英文を探してきて、日本語訳しようかと思います。

    でも、それはまた後ほど。

    雪が降るように、優しさも自然に降ってくればいいね☃️🌸

    いいのにね、って言いたくなる(表現したくなる)のが、切ない、かも。

    の、私が思う、この、世界 🌍🌎🌏

    ☃️🌸

  • こんにちは ( ^ ^ )/

    序論のアプリオリとアポステリオリについて考えてみます。

    まずは、現代での意味から。。。
    ネット辞書からのコピペです。↓

    『●ア‐プリオリ(〈ラテン〉a priori)
    [名・形動]《より先なるものから、の意》中世スコラ哲学では、因果系列の原因あるいは原理から始める認識方法をいい、カント以後の近代認識論では、経験に依存せず、それに先立っていることをさす。

    ●ア‐ポステリオリ(〈ラテン〉a posteriori)
    [名・形動]《より後なるものから、の意》中世スコラ哲学では、因果系列の結果あるいは帰結から原因や原理へ向かう認識方法をいい、近代認識論では、経験に基づくことをさす。』

    ここで、私は、とりあえず以下のように考えて、先を読んでいきます。

    基準として置くもの・・・【経験(体験)】

    (経験に対して)アプリオリ・・・経験に依存していないこと。

    (経験に対して)アポステリオリ・・・経験後に経験を源泉として二次的に出ること。

    さて、ここから、カント先生(私にとっては)ややこしく展開されますよ。

  • >>No. 1253

    1.2は既に見てこちらにも書き込んだので、次は3からの内容ですね。

  • >>No. 1252

    『純粋理性批判』第二版・序論
    中山元先生による各節・段落へのタイトル付け。(『純粋理性批判1』光文社古典新訳文庫p15〜64より抜粋引用)

    『序論
    (第一節*純粋な認識と経験的な認識の違いについて)
    1・経験なしでは何も始まらない
    2・認識は合成されたものである
    3・アプリオリとアポステリオリ
    4・いわゆるアプリオリな認識
    5・アプリオリな認識と純粋な認識

    (第二節*わたしたちはアプリオリな認識を所有していること、日常的な知性の利用にもアプリオリな認識が含まれないわけではないこと)
    6・アプリオリな認識の二つの基準ー必然性と普遍性
    7・アプリオリな純粋判断の実例

    (第三節*哲学には、すべてのアプリオリな認識の可能性、原理、範囲を規定する学が必要である)
    8・経験を超越する認識
    9・純粋理性の課題
    10・理性の誤謬

    (第四節*分析的な判断と総合的な判断の違いについて)
    11・二つの判断の定義
    12・経験的な判断
    13・アプリオリな総合判断の謎

    (第五節*理性に基づくすべての理論的な学には、アプリオリな総合判断が原理として含まれる)
    14・数学的な命題と矛盾律
    15・純粋数学のアプリオリ性
    16・算術の命題が総合的であることの証明
    17・純粋幾何学の総合性
    18・幾何学と総合命題
    19・自然科学とアプリオリな総合命題
    20・形而上学とアプリオリな総合命題

    (第六節*純粋理性の普遍的な課題)
    21・純粋理性の課題
    22・ヒュームと形而上学の不可能性
    23・二つの枢要な問い
    23n・純粋な自然科学の可能性
    24・形而上学の問い
    25・学としての形而上学の可能性
    26・批判と学
    27・学の課題
    28・形而上学の目的とその必要性

    (第七節*純粋理性批判と呼ばれる特別な学の理念と区分)
    29・純粋理性の批判のための予備学、超越論的な哲学
    30・超越論的な哲学と批判
    31・批判の課題
    32・超越論的な哲学と道徳
    33・超越論的な哲学の区分』

    お終いです。おつかれさまです(つかれたー)🌟☕️

  • >>No. 1251

    なな、なんと、、、

    これから読んでいこうとする『純粋理性批判』の第二版・序論は、私の予想では、軽〜く本論のテーマを提示してるだけのものかなぁ〜と楽観視してたのですが、、、

    文庫本で50ページ〜(/ _ ; )

    しかも、まだチラ見なんだけど、、、カント哲学にとってとても重要なテーマについて述べられてる模様です。

    理解するの大変そうだなぁ。。。でも、頑張ってみますかー。

    私が持ってる文庫本は、
    『純粋理性批判1』カント、中山元訳、光文社古典新訳文庫なのですが、

    中山先生は、理解の補助のために、『純粋理性批判』すべての段落に、中山先生による番号とタイトルをお付けになっており、このタイトルは、読者がカント先生の思考の流れを把握する際の強力な助っ人として働いてくれると思われます。
    もちろん、中山先生のフィルターを通してのタイトル付けなので、訳・タイトル共に適切か否かの議論の対象になるものとは思いますが。
    私のような、ちょーーーー初心者には、ありがたい限りです。

    次の投稿で、第二版序論内の中山先生による段落のタイトルを引用させていただいて、それを導きの一つとして、読解にチャレンジしていこうと思っています。

  • こんばんは🌟

    勉強、がんばりたいな ✏️

    『純粋理性批判』第二版序論の続きの文章です。knowledgeを知識と訳すか、認識と訳すか迷ったのですけど、とりあえず、認識と訳して理解しておきます。先を読んで、どう思うかな?楽しみです😊

    (訳)
    それゆえ、経験から完全に独立した認識、そして、全ての感覚的印象からさえ独立した認識は存在するのかどうか?ということは、
    研究を要する問いであり、一見で答えられるような問いではないのである。

    It is, therefore, a question which requires close investigation, and not to be answered at first sight, whether there exists a knowledge altogether independent of experience, and even of all sensuous impressions?

    カント先生は、ここから先、
    経験というものを基準に、認識の性質の分類をされていくようです。

    中山先生の訳本を見て、チラっと先読み📕👀

    、、、

    ぎゃ〜、

    ややこしいでないですか。。。

    ●まず、経験から独立して生まれる認識が『アプリオリな認識』

    ●経験的な認識の源泉はアポステリオリ。

    あ〜、カント先生は、『純粋理性批判』の中では、『アプリオリな認識』と言った時、それは【全ての経験から絶対的に独立した認識】として理解してくれ、って。

    その『アプリオリな認識』のうちでも特に経験的なものが全く混ざってない認識を『純粋な認識』と呼んでくれって。

    でも、元々アプリオリな認識が経験から絶対的に独立してるって設定なのに、なんでまた経験が混ざってきて除かれるのかなぁ。

    と、わたしのなかに、浮かんできた問いをとりあえず書いときまして、
    本を読んでいこうと思います。

    私は、答えを、見つけられるかな?📕

    今日も一日おつかれさまでした。おやすみなさい🍵🍀🌌

  • >>No. 2811

    わ〜い、ノレンさん、お久しぶりです(^O^)

    平原綾香さんの『ジュピター』聴きました。
    歌もいいけど、映像もまたいいですねー。

    心が穏やかになります。🌌

    あー、なんか、急に銀河鉄道の夜思い出したなー。

    写真、秋ですね。

    身近なもので感じる季節の移り変わり。

    積み重なるものが、今日は切なく感じます。🍁

    いつかは終わるからかな。

    写真は、白い菊の花、です。
    外出先でとても綺麗に咲いてました。

    白い菊の花の花言葉は、『真実』だそうです😊

    それでは風邪などに気をつけてくださいね🍵

  • 気が重いけど、(今、打ち間違えて、気がお芋いけど、って出たよ(^_^;))、

    理解にチャレンジしてみますかー

    『アプリオリな総合判断はどのようにして可能か』 ❗️

    先ほどの単純な認識論は、序論の中の序論で、序論の本論(序論で示したかったこと)は、上記の問いの提示のようなかんじなんですよね。

    序論だから、問いの『提示』のみで、答えるのは、本編でだと思うのですが、、、

    言ってもいいですか?


    【そもそも、問いが、わからへんやんか〜!!】


    というわけで、引き続き第二版の序論を見ていってみようかなと思っています。
    ややこしそうで、いややなあ〜
    でも、がんばれるとこまで、がんばってみます。

    写真は、千本菊というらしく、
    なんと、幹は一本なんですよ!
    100本以上枝分かれ(?)咲いてるそうです。

    すごいですね〜

  • >>No. 368

    キティダニエルさん、こんにちは。

    muwaさまという方が、11月9日の掲示板に、ixtlanさまのご訃報を知らせてくださいました。

    ご存知かもしれませんが、リンクアドレスを貼りますね。(すみません、私の投稿は非表示扱いになると思います。)

    https://textream.yahoo.co.jp/personal/history/comment?user=UWKmZGFmsTJKaBe3I6yy

    もし、muwaさまからお知らせいただいた情報が現実ならば、

    ixtlanさまに寄り添われたmuwaさまの存在、
    ひどい苦しみではなかったこと、

    これらのことに、心が少しでも救われる気持ちです。

    キティダニエルさんは、全盛期の掲示板で、時間を共に過ごされてるので、いろんな想いが溢れてるかもしれませんね。

    私は直接会話していただいたことは少ししかないのですけど、ixtlanさまのことはすごく尊敬しています。

    もし、事実なら。。。

    ixtlanさまのご冥福を心よりお祈りいたします。

  • >>No. 1248

    >長い練習によって私たちが(合成に)注意深くなり、その分解を巧みに行えるようになるまでは、<

    カント先生、どんなかんじで、練習したのかな。

    頭に浮かんじゃうんだけど、レオナルドダヴィンチも、ミケランジェロも人体の解剖とかに熱心じゃなかったかな?

    部分部分を詳細に調べて、それをまた全体として統合させて活かす、とか?(勘違いしてたらすみません)

    私は、自然ってすごいなー、って思ってきたタイプなんですけど、
    カント先生の勉強始めてから、
    人間の理性の可能性も本当にすごいなー、って思うことも多くなりました。
    (可能性があるって、嬉しい、ね😊)


    おつかれさまです🌟
    🍀🍀🍀

  • >>No. 1247

    カント先生は、受動的な感性と、能動的な知性の二つが働くことで、対象の認識が可能になると考えられてたみたい。
    それを別の言い方すれば、例えば【合成】。
    それでですね、合成、となれば、分解もできるはずですよね。

    この分解力が巧みになってくると、感性部分と知性部分をクリアーに見分けることができるようになるよ、ってかんじのことをおっしゃってると思う箇所の英文を訳してみました。(間違えてたらすみません)

    『純粋理性批判』第2版の序論の最初らへんにある文章です。

    (訳)
    経験的な知識とは、
    感受されたものと、(感受がきっかけとなり)認識能力が自ら作り出したものとの
    合成物だと言うことができる。
    (ところで、)
    私たちが、感覚によって与えられた最初の素材から、その加算されたものを分離させることは、
    長い練習によって私たちが(合成に)注意深くなり、その分解を巧みに行えるようになるまでは、
    できないのである。

    it is quite possible that our empirical knowledge is a compound of that which we receive through impressions, and that which the faculty of cognition supplies from itself (sensuous impressions giving merely the occasion), an addition which we cannot distinguish from the original element given by sense, till long practice has made us attentive to, and skilful in separating it.

  • こんばんは⭐️

    ちょっと面白いなと思ったとこ。

    カント先生は、認識は、
    ●感受的なものと、
    ●人間に固有な認識能力が自発的に作り上げるものの、合成物であり、
    そのことが見抜けるようになるには【長いあいだの訓練によって】巧みに認識を分離できるようにならないといけない、って記述があるんです。

    ここから想像なんですけど、カント先生、ご自分の認識を一所懸命観察してたのかな〜って思いました。(長いあいだの訓練によってという言葉から、そう想像しました)

    自分に現れる認識がどのような経緯を辿って現前していくのか。

    じーっと自己を使って検証されてたのかなぁって。

    その部分訳して、少し他の部分もプラスして、ごく簡単な、カント先生の認識論の大前提としてまとめとこうかな、と、今の所思っています。
    まとめるといっても、感じるものと考えるもので認識が成り立つ、ぐらいの本当に最小単位の大枠(?)みたいな、簡単で単純ものです。

    とりあえず【長い間の訓練によって】が出てくる箇所を宿題コピペで置いときます。
    it is quite possible that our empirical knowledge is a compound of that which we receive through impressions, and that which the faculty of cognition supplies from itself (sensuous impressions giving merely the occasion), an addition which we cannot distinguish from the original element given by sense, till long practice has made us attentive to, and skilful in separating it.

    (´-`).。oO(till long practice has made us attentive to, and skilful in separating it. It is.

    しかし…もし、英文が原文の忠実な訳文だとしたら、
    カント先生、も少し短文ずつに区切って記述してほしかったです!一文が長すぎ〜😭

    おやすみなさい🍀

  • >>No. 1195

    ショーシャンクさん、こんにちは🌞

    ありがとうございます

    今日は、外でいっぱい遊んできました。

    すご〜く楽しかったです 😊

    外に行くだけで気分も変わる、当たり前のことだけど、やっぱりおもしろいです。

    お話、とても楽しかったです、また機会があったらよろしくお願いします。

    お互いいいことありますように 💐

    写真は、今日の外出先で撮った、赤い実ちゃんです♡

    何の実かはわからないんですけど💦
    かわいいな〜と写真撮りました 🍎

  • >>No. 1185

    > アートマンやブラフマンのように形而上的なもの、哲学の観念上のものを想定しているわけではありません。
    > 仏陀は、そのような形而上的なものを想定しませんでした。
    >
    > 仏陀はそのようなものに対しては『無記』と言ったので
    > その存在を否定したわけではありません。
    > しかし、仏教は『ミリンダ王の問い』以降、『無我』つまりアートマンの否定に傾いていきました。
    > 自己という主体の喪失です。
    > 自我がない、自己がないとすれば、『自分をコントロールできるのは自分だけだよ』の『自分』の正体は何ですか?<

    五蘊かな、と、思いました。

  • >>No. 1186

    高原へいらっしゃいさん、こんばんは。

    > pipitさんは、だいぶテーラワンダ教会に染まり切っていらっしゃるような。
    > ぼくも、そのスマナサーラという人の言うことは、ただのこじつけのように思えます。
    > 人は快適に感じることは適度で嫌になるより、むしろ依存していく人の方が遥かに多い。
    > 覚醒剤はやめられず、座間の9人殺しの白井も快感を感じたらやめられなくなってゆきました。<

    そうですね、人は快楽に依存して、破壊に向かうことが多々ありますね。

    自戒しなきゃ、と、思いました。

  • >>No. 1184

    私はもうテーラワーダ仏教教会さんから物理的に離れて五年以上たつと思いますし、会員になっていた時も頻繁に通えてたわけでは全くないので、記憶間違いの可能性もあります。そのことをご了解いただければ幸いですが、その上で、、、

    どういう角度から捉えるか、ということもあると思います。

    スマナサーラ長老は別の角度から説法されることも、もちろんあると思いますよ。

    実際に、アビダンマ関連の書籍では、苦受、楽受などの観点からみた解説が詳しく載っていると思います。

    だから、その観点のみからの見方に固定されてるわけでは全然ないと思います。

    感覚に対する執着を減らすためには、その見方が有効になることもあるのではないかなと思っています。

    もし、その見方で、楽にならないなら、その見方は気になさらなかったらいいのではないかと思います。

    私は、その考え方は、気に入ってます。

    かといって、ずっと、固定してその考え方覚えて生活してるわけではありません。

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