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投稿コメント一覧 (1998コメント)

  • >>No. 2896

    赤い実さん、きてくださって嬉しいですよ(o^^o)
    っていうか、私が普段、私物化しすぎな気が(特に西哲でのカントトピ)😱
    私が言えるもんではないですが、いつでも自由に書き込んでくださいね😊

    今回の書き込みのことで赤い実さんのこと心配はしてませんよ〜😁
    どちらかというとY和弘さんの方が心配かも(^_^;)

    それではまた〜
    お互い元気に用事こなせますように🍒

  • >>No. 2872

    Y和弘さん、こんにちは

    テーラワーダのお坊さまの中でも、ブッダ目指して修行されてる方いる、って聞いたことありますよ😊

    私は瞑想もなんもできてない、だらしない在家だけど、テーリーガーターに出てくる女性阿羅漢の存在を思うだけでもすごく心に元気もらえるんです。
    これってすごくないですか?
    2000年以上前に涅槃入りした人間の存在が、私という人間の心を明るくする、という現実に起きている現象。

    実際に近くで、フレーフレーって励ましてもらえてもめちゃ元気出ると思うけど、もし、本人が、体現してくれてる姿みるのも、私には元気でます。

    いろんな役に立ち方があると思いますけど、みんなそれぞれにがんばりましょうねp(^_^)q

  • 🌺 日記

    つ、疲れた

    英文の訳も読解も。。。

    癒されたいのでお姿拝見よろしいでしょうか、、、

    cool

    でも、いわれは、菩薩がどうやってみんなを救うか考えてるうちに髪が伸びた御姿を表してるとか(うろ覚えですが。)

    いつか実物の仏像、拝観したいなぁ🙏

  • >>No. 1517

    🍄.。oO(この箇所では、
    以下の問題★に関して答えをはっきり出さなくてはならないとしてるのかなと思いました。

    解決すべき問題群
    ★自然素質としての形而上学が取り扱う議題、例えば『神』を、わたしたちは『知っている』のか『知らない』のか
    ★自然素質としての形而上学の対象を決定できるのか
    ★自然素質としての形而上学の対象に対する判断を下す能力が理性にあるのか否か
    ★わたしたちは、純粋理性の限界を拡げることができるのか、それとも、純粋理性には厳格な限界境界線と安全域を定める必要があるのか

    この最後の質問に答えを出すことは、
    【根拠のある領域でのアプリオリな総合判断=学としての形而上学】を構築する準備作業となる。
    準備作業とは、建築物を可能とするものであるので、
    理性の能力の精査(準備作業)は、学としての形而上学(建築物)はどのようにすれば可能となるか?に対する答えの一角となる、ということかな、と考えました。

    間違えてたらすみません。)

    >(訳)そして、それゆえ、確信と共に我々の純粋理性の限界を拡げることができるのか、それともそれ(理性)の行動する厳格な限界と安全域を定める
    のかという結論に到達できるようになるべきだ。
    この最後の疑問は、普遍的な問題から出てくるものであり、このように表現するのがふさわしいだろう。
    『形而上学は、学として、どのように可能となるのか?』<

  • >>No. 1517

    (英訳文)
    but it must be possible to arrive at certainty in regard to the question whether we know or do not know the things of which metaphysics treats. We must be able to arrive at a decision on the subjects of its questions, or on the ability or inability of reason to form any judgement respecting them; and therefore either to extend with confidence the bounds of our pure reason, or to set strictly defined and safe limits to its action. This last question, which arises out of the above universal problem, would properly run thus: "How is metaphysics possible as a science?"

  • こんばんは🌛

    ②素質としての形而上学と、学としての形而上学について
    (続き)

    (訳)
    しかし、形而上学が取り扱う物事を、我々は認識するのか認識しないのかという疑問に関して、確信に至らなければならない。
    我々は、その疑問の対象の決定に達することを可能にするべきだ。
    それらに敬意を払いながらいかなる判断をも形成する理性の能力があるのか、それとも理性は無能なのかという結論に達することができるようになるべきだ。
    そして、それゆえ、確信と共に我々の純粋理性の限界を拡げることができるのか、それともそれ(理性)の行動する厳格な限界と安全域を定める
    のかという結論に到達できるようになるべきだ。
    この最後の疑問は、普遍的な問題から出てくるものであり、このように表現するのがふさわしいだろう。
    『形而上学は、学として、どのように可能となるのか?』

  • >>No. 3616

    こんにちは

    ショーシャンクさんがパーリ語から和訳されたのかな?

    内容も表現も、いいですね〜😊
    経文載せてくださって、ありがとうございますm(_ _)m

  • >>No. 3609

    八正道すすめば、十二縁起も直観できるようになるのかもしれませんね。

  • こんにちは。
    私見書きます。

    パーリ仏典では、仏教も生滅から逃れられないようで、やがてこの世から現象としての仏教は跡形もなく滅びてしまうと記されているようです。(経典レベルの記述か、注釈書レベルの記述かはわかりません、すみません)
    そして、次の菩薩が、阿羅漢のいない世界で師も教えも持たず独力で悟りを開き、その方法(道)をまわりに教えるとされているようです。

    釈尊は過去に別のブッダの時代に、そのブッダに出会って、自分もブッダになろうと決意したという話がジャータカという経典にでてくるかと思います。

    また、別の経典で、仏教しか悟りは開けないのか?と聞かれた釈尊が、そんなことはない、教えに八正道があれば仏教でなくても悟れる、が、今八正道が入ってる教えは、仏教だけだ、みたいにこたえるものもあるようです。

    これらのことを考えると、悟りへ至る道は八正道として古来からあって、自分も今生でその道を発見したということかなと思いました。

  • >>No. 6574

    カタカタでないですね、カタカナですm(_ _)m

  • 2018/01/14 13:18

    >>No. 6540

    > ソレハ
    >
    > 自力ノヨウニ 教えを学ぶのでもなく
    >
    > ソウ
    > 信じる事カラ 始まる 思考していても キリがナイゾ
    >
    > 弥陀の本願ヲ信じるのか 信じないのか ソレダケヨ <


    赤い実さんに同意〜

    チッコイカタカタかわい〜

    ワタシスマホチッコクデキナイワ

    。。。かわいくないわぁ

  • >>No. 1514

    (続き)


    アンチノミーが論理的推論能力における制限を強調してはいないということもまた論じられる。なぜなら、制限が存在するという結論は論理的推論によってアンチノミーから(おそらく)導出され、従って論理的推論の妥当性におけるなんらかの制限は論理的推論における制限が存在するという結論についての制限を与えるからである。(これは自己言及による議論である)。要するに、論理的推論一般の妥当性に関して、アンチノミーは自己孤立的である。すなわち、アンチノミーは、なにものにも疑いを投げかけることができないが自分自身には疑いを投げかける、論理学の領域の範囲で散乱した断片に似ている。』
    引用終了


    。。。😱

  • >>No. 1513

    (^_^;)。。。wikiで『アンチノミー』検索してみました


    引用開始
    『二律背反(にりつはいはん、アンチノミー、独: Antinomie)とは、正命題、反命題のどちらにも証明できる矛盾・パラドックスのことである(しばしば勘違いされるが単なる矛盾・パラドックスではない)。字義通りには、二つの法則が現実的にであれ見かけ上であれ相互に両立しないことを意味し、これは論理学や認識論で使用される術語である。

    (略)

    この術語は、イマヌエル・カントの哲学において特別な意味を要求する。カントは、感覚的知覚あるいは経験(現象)の領域のみ用いられるカテゴリーあるいは理性の規準を純粋思惟の領域に適用した際に生じる、同等に合理的ではあるが矛盾する帰結を記述するのに用いた。理性はここでは合理的な真理を確立する役割を演じることができない。なぜなら、それは可能な経験を超えているし、理性を超越しているものの領域に適用されているからである。
    カントにとって、以下のものに関連する四つのアンチノミーが存在する。

    時間と空間に関する宇宙の限界
    全ては分割不可能な原子から構成されている(それに対して、実際にはそのようなものは存在しない)という理論
    普遍的な因果性に関する自由の問題
    必然的な存在者の実在


    これらそれぞれについて、純粋理性は経験的なものに対して、正命題と反命題として、矛盾を提出する。 これは、学問と哲学的な探求に対する制限を規定するカントの批判的企図の一部である。カントは、これらの矛盾を、それがいかに現実に反対するものによって方向付けられていても、あるいは批判的な解明なしに心に現れているに違いないにしても、いかなる場合にも矛盾は実在的ではない、ということによって解決すると主張する。従って、互いに矛盾する選択肢に関して同等に強い議論がなされているという意味で、カントのせいにすること―しばしばなされたように―は正しくない。困難は現象体 (phenomenon) と英知体(noumenon) の領域の混同から生じている。実際、いかなる合理的な宇宙論も可能でない。

    (続く)

  • >>No. 1512

    🍄あ、でも、もっと?大切な箇所は↓これだったかも?

    >しかし、理性が理性自身へナチュラルに呈した疑問、例えば「世界に始めはあったのか、それとも無始永遠に存在してきたのか」といった疑問に回答する今までのすべての試みの中では、いつも避けることのできない矛盾に直面してきた。<

    【素質としての形而上学】には、いつも矛盾がつきまとってた、ってことですね。
    この指し示すところが、カント哲学用語の中で有名なアンチノミーのことかな?
    二律背反とか、矛盾とかって訳語見る気がしますもんね。

    なぜ、見る気がする、で、終わるのか。。。
    調べるのがめんどくさいからです〜

    (´-`).。oO(これは、英訳文の中の、rest satisfied with 、、、不確かな知識。カント的には絶対ゆるせぬ〜


    m(_ _)m

  • >>No. 1506

    こんばんは❄︎

    ②素質としての形而上学と学としての形而上学について
    (続き)

    (訳)
    しかし、理性が理性自身へナチュラルに呈した疑問、例えば「世界に始めはあったのか、それとも無始永遠に存在してきたのか」といった疑問に回答する今までのすべての試みの中では、いつも避けることのできない矛盾に直面してきた。
    だから我々は単に心が形而上学に向かう自然の性質というところで満足して休むべきではない、つまり、常にいくつかの種類の形而上学を生み出す純粋理性の能力が存在するのだということだけに満足して休むべきではないのだ。

    (英訳文)
    But as in all the attempts hitherto made to answer the questions which reason is prompted by its very nature to propose to itself, for example, whether the world had a beginning, or has existed from eternity, it has always met with unavoidable contradictions, we must not rest satisfied with the mere natural disposition of the mind to metaphysics, that is, with the existence of the faculty of pure reason, whence, indeed, some sort of metaphysical system always arises;

    🍄 多分、単なる【素質としての形而上学】で止まるな、ってことですよね。
    せっかく理性持った人間なんだもの、本能として出てくる形而上学どまりで満足するのではなく、【学として成り立つ形而上学】作ろうよ、ってことなのかなと思いました。
    まあ、その、理性を批判していくのでしょうけど。。。

    カント先生は、人間の理性大好きだからこそ、理性を批判したのかなぁ、と、今ふと思いました。

    どうかな?

  • >>No. 1510


    > 息子が、
    > 「哲学者って、普段、何してるんかな」
    > って言うので、
    > 「。。。いや、いろいろ大変なんやと思うで」
    >
    > って言っときましたー。<

    🏡日記2☃️

    でも、きっと、いろんなことは、バタフライ効果ですよね!

    あれがあるからこれがある

    言葉が波及していく

    幸せな波紋、生命の間で、奏でられるといいね

  • 🏡☃️雪降り日記

    息子が、
    「哲学者って、普段、何してるんかな」
    って言うので、
    「。。。いや、いろいろ大変なんやと思うで」

    って言っときましたー。

    http://youtu.be/2OvsScIZptk

  • >>No. 1508

    ノレンさん、こんばんは🌟

    いつでも気が向いた時に書き込みしてくださいね😊

    ビートルズのレットイットビーのカバー曲もいいですね〜
    ありがとうございます♪

    それではすごく寒いので、体調にお気をつけくださいね🍊
    おやすみなさ〜い🌌おつかれさまです🍵

  • >>No. 1506

    まだ続きますが、(^_^;)

    今回の箇所の訳、

    >『自然の性質として、形而上学はどのようにして可能となるのか?』
    別の言葉で言えば、(略!)これらの(形而上的な)問題群は、普遍的な人間理性の自然の本性からどのように生じるのか?、<

    間違えてたらすみませんなんですが、カント先生にとっては、この自然の性質としての形而上学は既に存在している(この形而上学のことを、中山元先生は『素質としての形而上学』と訳されています)と認識されてるようです。
    だから、もう、
    【存在しているもの】がどのように可能になるのか?
    は、言い換えれば、
    その存在しているものが、【どのように成り立っているのか→構成物はどこから生じてどのような動因か?】を解明することと同じになるのかな、だから、文の後半のような表現になるのかな、と、考えました。

    仕方ないのかもだけど、カント哲学って、ややこしい表現やなあ〜

    カント先生、付け足し多いし。。。


    (´-`).。oO(丁寧親切に、説明してるんジャー

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