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投稿コメント一覧 (967コメント)

  • >>No. 8604

    明極楚俊

    来日つながり

    古林清茂の法を継いだ中国元朝の臨済宗(楊岐派)の高僧・竺仙梵僊は、鎌倉時代末期の元徳元(1329)年6月に九州豊後の守護大名・大友貞宗の要請を受け、明極楚俊に従って日本へ渡来した。

    みんき・そしゅん。1264年生〜1338年没。中国、慶元府(浙江省)出身の臨済宗の僧侶。

    俗姓は黄氏。南宋時代景定3(1262)年、明州慶元府昌国で生まれ、12歳の時に霊巌寺の竹牕喜を拝して出家。育王山の横川如珙に参じて悟り、霊隠寺の虎巌浄伏の門に移って侍香として仕え、虎巌の法を嗣いだ。また天童寺に赴いて止泓道鑑に侍して蔵鑰となり、その後金陵(南京)の奉聖寺に出世。瑞巌寺・普慈寺両寺に歴住、婺州双林寺主となるなど、元朝禅宗界で高名な存在であった。径山の前堂首座として居していた天暦2(1329、日本では嘉暦4)年、大友貞宗の使節に招請され渡日を受諾。竺仙梵僊を伴い、天岸慧広・物外可什・雪村友梅と同船し、5月博多へ入港。このとき68歳であった。

    元徳2(1330)年、鎌倉幕府に招かれて関東下向の途中、京都で後醍醐天皇に拝謁して法問を受け、仏日燄(焔)慧禅師の号を賜った。同年2月、得宗北条高時の要請で建長寺住持となり、竺仙が前堂首座としてこれを支えた。この頃、元弘の変で流謫した後醍醐天皇の復位を予言したという。

    変後の元弘3(1333)年に復位した後醍醐天皇に招かれ、南禅寺第十三世に迎えられた。翌建武元(1334)年に南禅寺は京都五山の第一とされた。同年、建仁寺に移り第二十四世となり、また摂津に広巌寺を開山。建武3年5月に楠木正成が広巌寺に参り、明極禅師と問答して大いに悟って湊川の戦いに臨んだと『明極和尚行状録』(偽書説あり)に記される。

  • >>No. 8603

    竺仙梵僊
    『夢中問答集』つながり
    大高重成は禅宗に傾倒し、夢窓疎石が直義のために著した参禅入門書『夢中問答集』に、南禅寺住持の竺仙梵僊の跋文を得て、康永3/興国5(1344)年刊行した。

    じくせん・ぼんせん。1292年生〜1348年没。元からの渡来僧(臨済宗楊岐派)。
    至元29年11月15日生まれ。明州(浙江省)象山県の徐氏出身。母は欧陽氏。号は来来禅子・寂勝幢・思帰叟など。
    別流、瑞雲、特に江南の古仏と呼ばれ仁宗皇帝より仏慈円照広慧禅師号を賜った中峰明本ら多くの禅匠を歴参した後に、金陵鳳台山・保寧寺で、仏教文学を偈頌(悟りの心境を歌の形であらわした文)の範囲にとどめる運動を行った古林清茂の法を嗣いだ。
    嘉暦4(1329/元徳元)年6月九州豊後の守護大名・大友貞宗の要請を受け、霊隠寺の虎岩浄伏の法を嗣いだ明極楚俊(臨済宗燄慧派)に随伴して来日、明極が鎌倉・建長寺に入寺するとその首座を務め、北条高時の命で鎌倉・浄妙寺に住した。元徳2年足利尊氏・直義らの帰依を受けた。
    日本では古林の信奉者が多く、その代表的存在だった竺仙は、花園上皇をはじめ、足利直義・大友貞宗など公武の間に広く支持者がおり、学識は一山一寧の次位とされた。
    建武元(1334)年鎌倉・浄智寺に移り、また相模国三浦の無量寺の開山となった。暦応4/興国2(1341)年勅により京都・南禅寺に住し、さらに山城・真如寺を経て鎌倉・建長寺に移り、日本禅林の水準を高からしめた。
    清茂門下の雪村友梅らと金剛幢下という友社をつくり、五山禅林で五山文芸の指導的役割をはたした。貞和4/正平3年7月16日死去。57歳。著作に『竺仙和尚語録』『竺仙和尚法語』『来来禅子集』『円覚経註』などがある。

  • >>No. 8602

    大高重成
    若狭守護つながり
    大高重成は幕府創業の戦功で、暦応元/延元3(1338)年若狭守護に任命。暦応2/延元4年新田義貞の弟・脇屋義助が越前で挙兵すると、斯波高経・氏頼に守護職を交替。北陸を平定した斯波高経に疎んじられた氏頼が遁世し、興国3/康永元(1342)年若狭守護に再任。
    直義の側近であったため、正平3/貞和4(1348)年四條畷の戦いや吉野山焼き討ちなどの戦功で強権を振るった師直により、守護職を没収。その後、激化した観応の擾乱では、正平6/観応2(1351)年摂津打出浜の戦いで尊氏軍を破り、師直が上杉能憲らに殺害。再び若狭守護に再任。しかし、尊氏が南朝に直義追討令を出させると、尊氏に帰順した。

    おおたか・しげなり。生年不詳〜1362年没。南北朝時代の武将。
    高氏(高階氏)一族・南(小高)重長の子とされ、南頼基を父とする説もある。通称は次郎、法名は法智または禅勇。官途は左衛門尉、伊予権守。足利氏被官の中で足利家と密着性が高く、元弘3/正慶2(1333)年尊氏の挙兵以来、尊氏・直義兄弟に随従。六波羅攻略で五尺六寸の大太刀を片手で操り、六波羅軍・河野通遠の両膝を苦もなく切り落としたという。
    建武政権に背いた尊氏に従い各地を転戦、『太平記』に九州・多々良浜の合戦で直義の側にいて苦戦していたが、尊氏を気にして持ち場を離れようとした際、直義に「臆病風に吹かれたか。自慢の大刀を切り刻んで剃刀にしてしまおうか」と嘲笑されたいう。
    幕府創立後、小侍所に任ぜられ、尊氏の天龍寺供養の際に供奉人を勤めた。康永3/興国5年直義と夢窓疎石の宗教対談本『夢中問答』を、南禅寺住持竺仙梵僊の跋文を得て出版・刊行。同年竺仙の弟子・大年法延を招き、戦火で荒廃した若狭小浜の安国寺を再興、高成寺と改称。
    観応の擾乱では、貞和5/正平4年6月直義の腹心・上杉重能と畠山直宗が師直暗殺を計画。重成の怪力で師直を羽交い絞めにする予定だった。粟飯原清胤が師直に計画を漏らし、蟄居処分を受けた。8月師直のクーデターの際、直義邸に馳せ参じ、その後直義と南朝の間の和平交渉に、交渉役を務めた。
    師直の死後、尊氏に帰順し、文和元/正平7(1352)年から翌年まで幕府引付頭人を務めたが、その後の動静は不詳。
    『太平記』六波羅攻めの武勇の印象から、江戸時代成立の武功列伝や「義烈百人一首」「武家百人一首」に選ばれている。

  • >>No. 8601

    武田信賢
    応仁の乱東軍つながり

    たけだ・のぶかた。1420年生〜1471年没。室町時代の武将、守護大名。
    安芸武田氏4代当主武田信繁の次男。母は甲斐武田氏12代当主武田信春の娘。通称は彦太郎。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護(安芸分郡守護)、従四位下、伊豆守・安芸守・陸奥守、大膳大夫。若狭武田氏2代当主。
    永享12(1440)年5月兄・信栄は6代将軍足利義教の命で若狭守護一色義貫を暗殺し、恩賞に若狭守護に任じられ、若狭に下向し大飯郡の高浜に館を構えたが、同年7月信栄が病死。そのため父・信繁は次男・信賢に家督と安芸分郡守護職も譲ったが、信賢は若狭守護にも任じられ、若狭の支配に取り組むことが多く、引き続き信繁が佐東銀山城に拠り守護代格として、安芸分郡支配に務めた。
    嘉吉元(1441)年赤松満祐の暗殺事件に、幕命に従い赤松氏討伐軍に従軍。この隙に若狭で一色氏残党などによる土一揆が発生し、軍を若狭に返して鎮圧に当たった。その後も一色氏残党が扇動した一揆が頻発し、大いに悩まされ徳政令を出したこともあった。
    安芸でも、長禄元(1457)年厳島神社神主佐伯親春が信賢に所領を横領されたと舅の大内教弘を頼り、教弘が安芸に侵攻。父と幕府の命令を受けた毛利煕元・小早川煕平・吉川之経らの支援で、落城を免れた。寛正2(1461)年幕府が大内氏領の安芸東西条を武田氏に与えたことに反発した教弘・平賀弘宗・小早川盛景らが東西条に出陣し、父と小早川煕平が交戦するなど大内氏や安芸国人衆と係争が続発し、細川氏や幕府の支援を受けた。寛正6年教弘と父が没すると末弟・元綱が代官として引き続き安芸分郡支配した。教弘の子・政弘も安芸国人衆を動かし武田領に侵攻した。
    応仁元(1467)年勃発した応仁の乱で、細川勝元の東軍に属し、西軍の大内政弘・一色義直らと戦った。応仁2年高成寺(小浜市)近くに居館を建て、西側の青井山に青井山城を築城。青井山城は、後に後瀬山城に移るまで若狭武田氏の拠点となった。文明元(1469)年4月丹後を攻め、一色義直を圧迫、幕府から義直に代わり丹後守護にも補任された。しかし、翌年7月19日勧修寺の合戦で家臣・逸見繁経が討死、文明3年正月安芸の末弟・元綱が離反。同年3月如意ヶ嶽で西軍の美濃守護土岐成頼の被官斎藤妙椿に敗れ、劣勢の状況下6月2日に病死。法名は大通寺殿大人宗武大居士。

  • >>No. 8600

    六角政堯
    室町幕府8代将軍足利義政の偏諱つながり

    ろっかく・まさたか。生年不詳〜1471年没。室町時代中期の武将、近江守護。
    六角氏は近江(宇多)源氏佐々木流の惣領家。鎌倉時代より南近江を領地とし、室町時代に近江守護に任じられた。政堯は、足利義満の娘婿として6代将軍足利義教の信任を受けた六角満綱の次男・時綱の次男。通称は四郎、初名は政高。
    祖父・満綱は嘉吉元(1441)年将軍義教が赤松満祐に殺害されて後ろ盾を失い、嘉吉の徳政一揆で領内が混乱すると延暦寺に一揆の首謀者と疑われて京都の屋敷が襲撃された。近江に逃亡し、守護職を解任されると、家督を嫡男・持綱に譲ったが、文安2(1445)年家中の反対勢力に擁立された時綱に、持綱とともに自刃に追い込まれた。
    これに対し幕府は、相国寺の僧であった時綱の弟・久頼を還俗させ、文安3年京極持清と共に時綱一派討伐の命令を下した。時綱らは近江飯高山で蜂起したが、久頼と持清軍に敗れ、家臣と共に自害した。幼い政堯は罪を免れた。
    家督を継いだ久頼は、京極持清の干渉に苦しみ、康正2(1456)年憤死。
    政堯は、叔父・久頼の跡を継いだ従弟・亀寿丸(高頼?政頼?)を後見したが、長禄2(1458)年幕府は亀寿丸を追放し、政堯に近江守護を任命し、六角氏当主とした。しかし、長禄4年守護代・伊庭満隆の子を殺害したため政堯は廃され、亀寿丸が再嫡。
    応仁元(1467)年将軍義政の継嗣争いを起因に、全国有力大名が加担し、幕府管領・細川勝元と侍所所司・山名持豊が京で戦端を開くと、亀寿丸は西軍に、政堯は東軍に付いた。京極勝秀と共に六角氏の本拠地観音寺城を陥落させ、東軍により近江守護に再任。文明元(1469)年亀寿丸が観音寺城奪還に向かうと、東軍は政堯を解任、勝秀の父・持清に近江守護を任じた。文明2年勝秀・持清が相次いで没した、京極氏は持清の嫡孫・孫童子丸を擁立した3男・政経と高清派の次男・政光が争い、京極氏は弱体化した。政堯は政経と共に東軍に留まり、西軍に寝返った政光・高清・亀寿丸と対立し、文明3年童子丸の死後に3度目の近江守護に任命されたが、同年10月に亀寿丸に敗れ、戦死した。

  • >>No. 8599

    上杉政真
    主従つながり
    康正2(1456)年扇谷上杉家の当主持朝・顕房(持朝の子)を補佐した父・太田資清(道真)から家督を譲られた資長(道灌)は、持朝・政真(顕房の子)・定正(顕房の弟)に仕えた。

    うえすぎ・まさざね、1451年生〜1473年没。室町時代の武将、相模守護、扇谷上杉家7代当主。
    5代当主顕房の子。官位は修理大夫。
    扇谷上杉家は、事実上の上杉氏宗家で関東管領職を独占した山内上杉家に仕えた。4代鎌倉公方足利持氏は関東管領・山内上杉憲実との対立から永享の乱へと発展、永享11(1439)年幕府軍に討たれ滅亡した。上杉氏一門や管領畠山持国の働きかけなどにより鎌倉府再興が承認され、宝徳元(1449)年に持氏の遺児・成氏が鎌倉公方として鎌倉に帰還。上杉憲実の長男・憲忠が関東管領に任じられ、憲忠の義父・扇谷持朝の要望で、扇谷家家宰・太田資清が山内家家宰・長尾景仲と共に憲忠を補佐した。
    ところが、享徳3(1454)年憲忠が成氏に暗殺されると、上杉一門は武蔵高安寺にいた成氏を攻めたものの、翌享徳4年に分倍河原の戦いで返り討ちに遭い、扇谷家当主で持朝の子・顕房も討たれた。
    太田道真は政真を当主にしようとしたが、まだ4歳と幼かったため先代当主で政真の祖父・持朝が当主に復帰。応仁元(1467)年祖父の死により家督を相続し、扇谷上杉家を継いだ。この頃までに元服を済ませ、室町幕府8代将軍・足利義政より偏諱を賜り、政真と名乗った。
    文明3(1471)年古河公方足利成氏が堀越公方足利政知(義政の庶兄)のいる伊豆への進撃を図ったが、政真はこれを撃退し、古河城襲撃に成功し、成氏を千葉孝胤の許へ追い落した。文明4年成氏は古河城を奪回し堀越公方を攻めたが、太田道灌らにより押し戻された。
    文明5年武蔵児玉郡五十子陣にあった上杉氏の居城を成氏に急襲されて、政真は敗れ戦死。
    政真に子はなく、重臣による協議の結果、叔父の定正が家督を継承した。

  • >>No. 8597

    雲岡舜徳
    青松寺つながり
    曹洞宗萬年筆山青松寺は、太田道灌が雲岡舜徳を招聘し文明8(1476)年武蔵国貝塚(千代田区麹町)に創建された。慶長5(1600)年徳川家康が江戸城の外堀をつくる際、愛宕山南に続く丘陵・含海山と呼ばれた現在地(港区愛宕2丁目)に移った。移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されたという。長州藩、土佐藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用された。江戸府内の曹洞宗寺院を統括し、泉岳寺や板橋小豆沢の総泉寺とともに江戸三箇寺並びに三学寮(青松寺獅子窟、吉祥寺旃檀林、泉岳寺学寮)と称された。

    うんこう・しゅんとく。1438年生〜1516年没。室町時代後期戦国時代の禅僧(曹洞宗)。
    教団で第四祖とする瑩山紹瑾の瑩山派(總持寺派)の法灯に繋がる。高祖道元より、永平寺2世孤雲懐奘、永平寺3世で大乗寺開山の徹通義介、太祖瑩山紹瑾、瑩山四哲の一人で總持寺第2世峨山紹碩、峨山二十五哲の一人で總持寺5世通幻寂霊、通幻十哲の一人で相模最乗寺を開いた総持寺16世了庵慧明、補陀寺中興の無極慧徹、補陀寺2世月江正文、泰叟妙康、天庵玄彭、雲岡舜徳となる。
    永享10年に伊勢国に生まれた。上野国補陀寺の月江正文(無極慧徹に学び、丹波永沢寺、相模最乗寺、武蔵大泉寺の住持を勤め、尾張楞厳寺や上野双林寺、武蔵大宮普門院を開いた)に師事し、正文の死後は武蔵国町田大泉寺の天庵玄彭(泰叟妙康の法を嗣ぎ、武蔵越生竜穏寺4世となり同寺を中興し、相模最乗寺や補陀寺の住持を勤めた)に学び、玄彭の法を嗣いだ。
    文明8年弟子の太田道灌に招かれ、武蔵貝塚に青松寺を開いた。武蔵越生竜穏寺(室町時代より曹洞宗の僧録司、徳川家康より関三刹に任命)5世となり、寺を現在地に移転し、名称を長昌山龍穏寺とした。また、相模国小田原最乗寺の住持も勤めた。永正13年5月15日死去。79歳。

  • >>No. 8596

    浅野長照
    娘婿つながり
    正室は広幡忠幸とその正室で徳川義直の長女・京姫の四女・園姫。忠幸が広幡家を創設して京都に屋敷を構え、名古屋に戻らないまま京で歿したため、京姫の兄で尾張藩2代藩主徳川光友の養女となり、後に安芸広島藩初代藩主・浅野長晟の養女として分家の備後三次藩主・浅野長照に嫁いだ。

    あさの・ながてる。1652年生〜1705年歿。江戸時代前期の大名、後三次藩2代備藩主。
    安芸広島藩主・浅野光晟の三男、母は前田利常の娘・満姫。長兄に浅野綱晟、次兄に浅野長尚。通称は長蔵。
    寛文3(1663)年将軍徳川家綱に初御目見。寛文6年従五位下式部少輔に叙任。
    伯父の三次藩主・浅野長治の許へ養子となっていた次兄・長尚が、長治に先立って死去したため、長治の養子となった。延宝3(1675)年長治が死去し、家督を相続。延宝4年初めて領地・三次に国入り。
    天和元(1681)年、一旦幕府(大老酒井忠清)が裁定した越後騒動を、将軍に就任直後の5代将軍・徳川綱吉が異例の再審議を将軍直裁にて行い、越後高田藩は改易となり、高田藩主松平光長の家臣・本多八大夫(お家騒動の際、首席家老小栗美作に敵対するお為方を称する重臣・本多七左衛門(三宅島に島流し)の縁者か)を預かったとされる。
    子ができなかったため、天和2年長兄で前広島藩主・綱晟の次男(藩主綱長の弟)長澄を養子に迎え、元禄4(1691)年隠居して家督を譲った。
    播磨赤穂藩主・浅野長矩の正室・阿久里は、長照の養父・長治の娘で、かつ長照の養女として長矩に嫁いだため、長矩は長照の娘婿にあたる。そのため元禄14年3月15日長矩の刃傷事件に連座し、隠居の長照にも遠慮(江戸城登城禁止)の処分が下された。
    宝永2年11月15日に死去、享年54歳。貝塚(千代田区麹町周辺)の曹洞宗萬年山青松寺に葬られ、法名は壁龍禪梭騰雲院。

  • >>No. 8595

    広幡忠幸
    婿舅つながり
    八条宮智仁親王の第3王子に生まれ、徳川義直の長女・京姫(絲子)と婚約し、義直の猶子となり、義直が没したが名古屋城に入り、暮らした。長女・新君は2代藩主光友の嫡子で3代藩主綱誠の正室となった。忠幸の没後、次女以下は妻・京姫の兄で2代藩主光友の養女となった。

    ひろはた・ただゆき。1624年生〜1669年没。江戸時代前期の公卿。清華家・正親町源氏広幡家の始祖。
    正親町天皇の皇孫で八条宮家(のち桂宮家)の始祖・智仁親王と丹後宮津藩主京極高知の娘・常子の第3王子。幼名を幸丸、幸麿。元服し
    忠幸王を名乗った。「忠」の字は兄・八条宮智忠親王より偏諱を賜ったもの。後に広幡家の通字となった。
    慶安2(1649)年12月11日尾張藩主・徳川義直の長女・京姫と婚約。慶安3年正月3日加冠の儀を行い、元服。同年2月9日京を出発し、2月13日名古屋に到着し、以後名古屋城で暮らす。同年2月28日京姫と結儀を行い、尾張藩から合力米3千石を献上された。
    万治3(1660)年4月京に戻り、朝廷に公家に戻ることを請願。藤原氏北家の松殿家(正保3(1646)年に途絶えていた)を継承するなどが検討された。一方で、兄・八条宮智忠親王は、皇族になることを進言している。
    寛文3(1663)年11月霊元天皇より源姓(正親町源氏)が下賜され、臣籍降下。12月「広幡」の家号も与えられ、新家を興すことが許された。公家の家格は、村上源氏嫡流の久我家と同じ清華家とされ、寛文5年京都に邸宅を構え、朝廷に出仕した。名古屋には来宅することがなくなり、京に愛人を持ち、庶子をもうけたが、尾張家には報告しなかった。忠幸の死後にこの事を知った光友は怒って広幡家と義絶した。
    従三位・権中納言を拝命、次いで左中将に叙任。寛文7年正三位、寛文8年権大納言に就任、寛文9年東照宮奉幣使や踏歌外弁を勤めた。同年薨去。法号は祥光院。
    寛文9年久我家26代当主通名の長男・豊忠が養子となり、跡を継いだ。寛文7年に近江国蒲生郡など1000石の所領を賜っていたが、豊忠の代に500石に減らされ、以後この家禄で明治維新を迎えた。

  • >>No. 8593

    毛受勝照
    柴田勝家の家臣つながり

    めんじゅ・かつてる。1558年生〜1583年没。戦国時代〜安土桃山時代の武将。
    毛受氏の発祥は尾張国中島郡毛受村(愛知県一宮市大和町毛受)とのこと。戦国時代に茂左衛門・勝介兄弟が毛受村を領し毛受氏を呼称したとされる。「めんじょ」「めんしょう」とも読まれる。
    群書類従本「尾張諸家譜」収録の毛受氏系図は清和源氏頼光流とし、頼光の曾孫・山県国直の子・能勢国基の末裔。足利義尚に仕えた鵜飼勝則の孫・勝明が毛受庄左衛門を称したとされる。
    毛受勝明(照昌とも)の次男。諱は初名を照景、後に家照、勝照と改名。『明智軍記』など幾つかの史料で吉親ともする。通称は初めは庄助、荘介(荘助)、後に勝介(勝助)。『尾張群書系図部集』に兄に勝惟、弟に吉勝。
    12歳の頃より織田氏家臣・柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えらた。
    天正2(1574)年17歳の時、伊勢長島攻めに従軍。激戦で勝家軍の馬印が一揆勢に奪われた。勝家はこれを武門の恥と憤激、敵中で討死しようとしたが、勝照はこれを諌止し、自ら敵陣に突入。見事に馬印を奪還し、勝家に戻し、再び敵中に突入。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った。勝家は偏諱を与え、勝介勝照と名乗るよう申し渡したとか、勝家の両方を与え、勝介家照を名乗らせたとも。
    天正11年賤ヶ岳の戦いで劣勢の柴田勝家は、北ノ庄城へ退去と決した。勝照は勝家に馬印を請い、勝家の身代わりとなる許しを得た。兄・茂左衛門に生き延びて母の扶養を頼んだが、兄は義を貴ぶ母には却って不孝であると言い、ともに敵陣に進んだ。
    兵200を率いて出陣し、勝家の馬印「金の御幣」を掲げ大軍を惹きつけ、退去の時間をかせいだ。勝照に筒井順慶の家臣島左近が槍を付けたが、25歳の様子に影武者と見破り「名を名乗れ」と迫るも、「我は柴田勝家をなり」と言い、果敢に応戦し討死した。秀吉はこの忠義を激賞し、北ノ庄城落城後、毛受兄弟の首をその母に返し、子孫を厚遇したという。戒名は榮中院殿繁室永昌居士、墓所は滋賀県長浜市余呉町全長寺と愛知県尾張旭市稲葉町少林寺。
    賤ケ岳合戦の年に生まれた幼子がいたとされ、孫・信友の代に尾張徳川氏の家臣となったと系図に記される。また、毛受氏の一族は賎ケ岳の戦いの後、前田家に仕えたとみられ、金沢市野田山の前田利家の墓の隣に毛受姓の墓が多数ある。

  • >>No. 8592

    山路将監正国
    柴田勝豊の家老つながり
    天正11(1583)年賤ヶ岳の戦いで、病気のために出陣できない勝豊に代わって軍を率いて羽柴方として参戦した。

    やまじ・まさくに。1546年生〜1583年没。戦国時代〜安土桃山時代の武将。
    天文15(1546)年伊勢の国人領主・神戸楽三具盛(4代当主)の家臣であった山路正幽の子。通称は将監。実弟に、後に福島正則の家臣となった長尾一勝がいる。
    永禄10(1567)年織田信長の北伊勢侵攻に、神戸氏7代当主具盛(友盛)は、重臣・山路弾正忠(山路正国や長尾一勝の兄)らとよく防ぎ、美濃に不穏な動きもあって織田軍を撤退させた。永禄11年信長軍の再度侵攻に、抗戦の利あらずとして神戸氏は信長の三男・信孝を養子に迎え和睦、織田家の部将として転戦し、六角氏攻略の際に活躍した。
    だが、神戸友盛は養子の信孝を冷遇したため信長の怒りを買い、元亀2(1571)年蒲生賢秀に預けられ、近江日野城に幽閉、信孝が神戸氏を継承。これに抗議した神戸一族や山路弾正忠ら家臣の多くが殺害された。
    この頃、難を逃れた山路正国は織田信長の重臣・柴田勝家に仕えた。天正10(1582)年6月信長横死後の清洲会議で、近江長浜城主となった勝家の養子・柴田勝豊の家老として仕えた。
    天正10年12月羽柴秀吉の攻撃を堂木砦で守備していたが、大谷刑部の調略を受けて勝豊を説得。長浜城を明け渡した。天正11年賤ヶ岳の戦いに、病気で出陣できない勝豊に代わり軍を率いて、羽柴方として参戦した。賤ヶ岳の柴田勝政軍との対陣に際し、最前線の堂木など外郭砦に大金藤八郎・木下半右衛らと配置。当時、勝豊の配下に勝家が内通を呼びかけているとの噂があり、本丸神明山砦の木村定重から監視された。羽柴陣営での処遇に不満を持つ正国に、勝家は正国と親交をもつ宇野忠左衛門を派遣、勝豊の本城丸山城12万石を与えられ、正国は柴田方への内通を約束。木村定重に寝返りが露見し、正国は側近数騎と行市山の佐久間盛政陣に逃れた。一方定重は、長浜にいた正国の母や妻子を捕らえ、処刑した。
    正国は盛政軍の一員として、賤ヶ岳城の側方を狙う羽柴軍の大岩砦(中川清秀)攻撃を提案、奇襲により中川を自害に追い込むなど成功した。しかし、前田利家軍が戦線を離脱したため、秀吉本隊と堂木砦から挟み討ちされた佐久間軍は壊滅し、正国は賤ヶ岳の清水谷で加藤清正に討ち取られた。

  • >>No. 8591

    木下一元(利久)
    美作守つながり
    天正12(1584)年小牧・長久手の戦いに参陣し、武功を挙げた。天正14年頃、従五位下美作守に叙任された。

    きのした・かずもと。生没年不詳。安土桃山時代の武将、大名。
    近江国出身とされるが、不明。諱は利久ともする。通称は半右衛門尉、半右衛門、美作守。
    柴田勝家の養子・柴田勝豊(近江長浜城番)に仕えた。天正11年賤ヶ岳の戦いでは、大谷吉継の調略を受けた勝豊の家臣として、病床の勝豊の代理として羽柴方として、大金藤八郎貞綱・山路将監らとともに堂木山に出陣した。賤ヶ岳の戦いの直前に京都東福寺で勝豊が病死した後は、羽柴秀吉の家人となった。翌年の小牧・長久手の戦いに参陣し、11月北尾張楽山城に詰めている。
    文禄の頃は朝鮮出兵時は豊臣秀次に属し、在京警固にあたった。文禄3(1594)年伏見城普請に加わった。この頃、所領は近江などに2万石(詳細は不明)。
    慶長3(1600)年関ヶ原の戦いの際は西軍に属し、大坂城留守居・守備隊として周辺を警備した。このため戦後に改易され、以降の動向は不明。

  • >>No. 8590

    水野勝俊
    島原の乱鎮圧軍つながり
    寛永15(1638)年の島原の乱で、父の勝成に従い、子の勝貞と伴に参陣し、総攻撃で原城への一番乗りを果たしている。

    みずの・かつとし。1598年生〜1655年没。江戸時代初期の大名、備後福山藩2代藩主。
    水野勝成の長男で、備中成羽(岡山県高梁市成羽町)に生まれた。父・勝成は天正12(1584)年祖父・忠重に勘当され、京・中国・九州の諸大名の許を転々とし、備中成羽の国人・三村親成の食客となった。このとき世話役の娘・お登久(藤井道斎の娘)に手を付け、生まれた。
    幼名は長吉。初め勝重とし、正保3(1646)年勝俊と改めた。幼少より父に従い、慶長14(1609)年11歳で美作守に叙任。慶長19年大坂の役に参加、翌年の夏の陣で軍功を挙げた。
    元和5(1619)年父が福山入封。福島正則が築いた鞆の鞆城に居住し、鞆殿と呼ばれたという。寛永9(1632)年熊本藩加藤忠広の改易に際し、父と共に熊本城受け取りの任に当たった。
    島原の乱の翌年、42歳で家督を譲られ、父の事業を継続。新田開発や領地を整備し、天災などによる財政の窮乏を凌ぎ、藩の安定に尽力。庶民出身の母を持ったため、過剰なほど領民に気遣った。福山城下の大火に際し、家臣が再建を急がせて町人に迷惑が及ばないよう、少々遅れてもよいとした。また、飢饉の際に藩の鷹師が麦畑を荒らすことがあれば、届けなしに百姓総出で鷹師を処罰してもよいとした。不作に対し、資金の貸与や年貢の減免など手厚い救済策を講じ、農民の没落を防いだ。
    勝成は隠居後も藩政へ口出し、これに対し勝俊が苦言を呈している。福山城下の整備で、城下南東に架けた天下橋が明治時代まで城下の中心となった。
    水野家歴代藩主で唯一日蓮宗に帰依し、城下の日蓮宗妙政寺の大檀越となった。他の寺社への庇護も厚く、鞆祇園宮(沼名前神社)に寄進した能舞台は国の重要文化財に指定されている。
    家臣に倹約を強いた。備中松山城在番を命じられた際、藩士が皆木綿の着物であったことから、その質実さを松山の町民が称えたという。
    承応4年に江戸藩邸で死去。法名は信解院殿前四品作刕太守理円日證大居士。墓所は備後福山の日蓮宗妙政寺。墓は巨大な五輪塔で、墓前に殉死した7人の家臣(西山半左衛門、三宅半助、横山惣右衛門、田中十郎右衛門、上田七兵衛、馬場長右衛門、河上一郎右衛門)の墓が並ぶ。

  • >>No. 8589

    細川光尚
    母子つながり

    ほそかわ・みつなお。1619年生〜1650年没。江戸時代前期の大名(肥後熊本藩2代藩主)。
    熊本藩初代藩主・細川忠利の長男。母は徳川秀忠の養女・千代姫(保寿院)。幼名は六丸。江戸幕府第3代将軍・徳川家光より偏諱を受け、光利と名乗った。
    寛永14(1637)年父・忠利とともに島原の乱に参陣して武功を挙げた。寛永18年父の死去により家督を継ぎ、名を光尚に改めた。
    父が死去した際、江戸に滞在しており、使者を熊本に派遣して殉死を禁じる指示をしたが、結局藩士19人が殉死した。当時の習慣として殉死者の遺族を呼び、今まで通りの身分と石高を与える旨伝達したが、阿部弥一右衛門の長男・権兵衛に兄弟で分けよと伝えられたという。
    寛永20年2月13日忠利の菩提所・妙解院が完成し、忠利の追善供養が行われた際、権兵衛は相続への不満から、焼香の時に髷を切り、忠利宛ての書状とともに墓前に供える不敬を行い、拘禁された。権兵衛の弟たちは覚悟し、権兵衛の屋敷に集結し、藩からの討手と斬り死覚悟で迎え撃ち、皆殺しにされた。権兵衛はこの後、縛り首の刑を受けた。この顛末が、討手に参加した栖本通次の談話として後に『阿部茶事談』で脚色され、同書を元にした森鴎外の『阿部一族』の題材となっている。
    正保2(1645)年末祖父・忠興の死去の際、忠興の遺言により従弟・細川行孝に3万石を分与、宇土藩を立藩させた。慶安元(1648)年には祖父・忠興に勘当されていた伯父・長岡忠隆の一族を熊本藩の一門家臣家とし、家老制度や役職など官制改革も積極的に行ない、藩政の基礎を固めた。
    慶安2年12月26日、31歳で早世。長男・綱利は7歳と幼く、家督相続を幕府に認めてもらうために細川家中で奔走した。病床の光尚は幕府に、「我が子は幼いので出仕に堪えず、如何様になっても公儀の望み通りに願いたい」という願書を提出し、心がけ神妙なりと公儀の好感を得て、綱利相続に決まった。

  • >>No. 8588

    保寿院
    保寿院つながり
    同天皇は、光孝天皇の勅願で仁和2(886)年築造が始まり、寺の完成を見ずに崩御した同天皇の遺志を引き継いだ宇多天皇により、仁和4(888)年落成(当初西山御願寺と称された)。宇多天皇は寛平9(897)年譲位、昌泰2(899)年出家、東寺で空海の実弟真雅に師事した東密広沢流の祖・益信より伝法灌頂を受けて真言宗の阿闍梨となり、弟子の僧侶に灌頂を授ける資格を得て、仁和寺に入って法皇となった。仁和寺伽藍の西南に「御室」と呼ばれる僧坊を建てて住んだ。仁和寺で東密広沢流が伝承され、仁和寺成就院に住んだ寛助の弟子・永厳は仁和寺に保寿院を建てて住み、保寿院流を立てた。
    細川藩3代当主忠利の妻・千代は、寛永18(1641)年3月17日忠利が脳卒中で没したため剃髪し、保寿院(保寿院殿三英紹春大姉)と称した。慶安2(1649)年11月24日江戸白金邸で没し、江戸東海寺の妙解院(忠利の院号)に葬られ、熊本の護国山妙解寺(東海寺住職沢庵和尚の開基)に分骨された。

    ほうじゅいん。1597年生〜1649年没。熊本藩初代藩主・細川忠利の正室。
    信濃飯田藩主(のち信濃松本藩初代藩主)であった小笠原秀政の次女。母は松平信康の娘・登久姫。名は千代姫。
    慶長13(1608)年2代将軍徳川秀忠(大叔父)の養女として、豊前小倉藩主・細川忠興の世子・忠利と縁組し、慶長14年4月24日豊前国中津城に輿入れし、元和5(1619)年長男・六丸(細川光尚)を産んだ。
    夫・忠利は少年時代に江戸に人質として居り、秀忠や有力な旗本たちと幼なじみであった。また、明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)の子であったことから、明智氏の縁者で徳川家光の乳母・春日局は、忠利に対して好意的であったという。元和6年に家督を嗣ぎ、小倉藩主となり、寛永9(1632)年肥後熊本藩主・加藤忠広が改易され、その跡を受けて熊本54万石に加増移封された。小倉城主には兄・小笠原忠真が就いた。
    江戸藩邸が江戸城近くの大名小路に上屋敷、伊皿子台と白金に下屋敷が建てられ、江戸に移された。忠利は幕府からも信頼され、「いずれ藤堂高虎のように江戸に常駐するのではないか」という噂が立つほどであったという。

  • >>No. 8587

    永厳
    師弟つながり
    空海は、弘仁7(816)年高野山金剛峯寺を修禅の道場として開創、弘仁14(823)年嵯峨天皇より勅賜された教王護国寺を真言宗の根本道場として教団を確立。天長8(831)年病を得た空海は、以後生命がけで真言密教の基盤の強化と存続に尽力。特に承和元(834)年12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、全てやり終えた後に入定したとされる。入定に際し、住持していた寺院を弟子に付嘱した。教王護国寺は実慧、金剛峯寺は真然、神護寺は真済、安祥寺は恵運、寛平法皇(宇多天皇)が開基した仁和寺・醍醐寺は聖宝、円成寺は益信など、寺院に年分度者(国家公認の僧侶の養成)を許可された。
    9世紀半ばから、事相(真言密教を実践するための作法。修法の作法など)の研究が盛んとなり、益信に始まる広沢流、聖宝を祖とする小野流が起こり、両派はそれぞれ六流に分かれ、野沢十二流(根本十二流)、のち三十六流となった。
    広沢流は寛朝が建立した京都市右京区嵯峨広沢にある広沢池の南にある遍照寺の地名が語源とする。特徴は儀軌を重んじる。寛助の弟子より、仁和御流(覚法)、西院流(信証)、保寿院流(永厳)、華蔵院流(聖恵)、忍辱山流(寛遍)、伝法院流(覚鑁)の六派に分かれた。

    ようごん。1075年生〜1151年没。平安時代後期の真言宗の僧侶。
    承保2年に生まれ。俗姓は平氏。字は平等房。通称は下野法印。「えいごん」ともよむ。
    寛助の法を嗣いで東寺に入り、保延元(1135)年権少僧都となる。天養2(1145)年東寺三長者、久安6(1150)年法印。仁和寺に保寿院を開き、保寿院流の祖となった。著作に「図像抄」(一説に原撰者は勝定房恵什)など。仁平元年8月14日死去。77歳。

  • >>No. 8586

    寛助僧正
    仁和寺領肥前国藤津荘の反乱つながり

    かんじょ。1057年生〜1125年没。平安時代後期の真言宗僧侶。
    蔵人頭右中弁源師資の子。字は善巧。通称は成就院大僧正、弁大僧正。
    遍照寺の経範について出家し、仁和寺に入って経範に瑜伽経を学び、承暦4(1080)年大御室性信入道親王から灌頂を受けた。19歳のとき阿闍梨となった。長治元(1104) 年遍照寺別当となり、長治2年東寺長者に任じられた。
    宮中で孔雀経法・大北斗法などを修して効験あり、白河上皇・堀河天皇・鳥羽天皇の護持僧となり、その験は広く衆庶に知られ、法関白と呼ばれた。
    法務・大僧正に昇り、仁和寺・円教寺・法勝寺別当を歴任し、保安元(1120) 年広隆寺・東大寺別当となり、東寺長者を兼ねた。保安2年大僧正。
    永久元(1113)年東寺恒例結縁灌頂の小阿闍梨を僧綱に任ずることとしたほか、仁和寺伝法会の再興、高野山奥院の修理、東大寺の庄園司の補任など、各寺院の経営に手腕を振るった。仁和寺成就院の開祖、成就院大僧正とも称された。
    門下に覚法・信証・永厳・聖恵・寛遍・覚鑁(各々は分派し広沢六流と称した)など33名に及び、広沢流(真言宗事相の一派)の最盛期を築いた。著作に『成就院別行七巻抄』『秘密宝蔵鈔』など。

  • >>No. 8585

    平直澄
    祖先(?)つながり
    戦国大名・幕藩諸侯・明治に華族に列した有馬氏は、系譜上同じく華族に列した大村氏と同様、承平の乱の藤原純友の後裔と称され、純友の六世孫・幸澄の子に有馬経澄と大村忠澄の兄弟がいたとされる。しかし、太田亮博士はこの系譜は明らかに仮冒があるとし、その著『姓氏家系大辞典』に、有馬氏は『百練抄』『長秋記』の元永2(1119)年12月に備前守平正盛に討たれた、と記される肥前国藤津庄の平直澄の後裔たるべしとしている。

    たいら・の・なおすみ。生年不詳〜1119年没。平安時代後期の武士。仁和寺領肥前国藤津荘の荘司。
    真澄とも書く史料がある。藤津庄司平清澄の子。但しその先の系譜は不明。平姓が正しければ、藤津庄居住と併せ考えて、寛仁3(1019)年女真族(満洲民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊・刀伊の入寇の時、東国から派遣されて活躍した散位平為賢(常陸大掾一族の出身、平維幹の子)の子孫ではないかと推定される。なお、平姓が仮冒的に称したものであれば、大村直の同族で、古代葛津国造の末流と考えられている。
    父・清澄が元永元(1118)年冬に何らかの不手際を犯し、領主の仁和寺寛助僧正に勘当され、京都に召喚され拘留された。代わって新荘司に僧範譽が遣わされ、現地に残っていた直澄は後禍を恐れ、主家の命に抗わず荘務を行った。しかし、直澄は京都の父の許へ密かに盗んだ米を送っていた。このことが三・四回発覚し、差し押さえられた。これを怨んだ直澄は荘司の範譽とその妻を拉致し、海島に監禁し、食料を与えなかった。また抵抗した範譽の郎従五・六人を殺害したことから、元永2年に寛助僧正が白河院と親密であったことから、11月に院の信頼厚い武臣・平正盛へ追捕の院宣が下された。『長秋記』に直澄の追討について「遣郎従搦得」とあり、正盛自身は出陣していない。正盛がこの頃には脳血管疾患等により倒れ、体の自由が利かなくなっていたとされる。派遣された正盛の郎党らに鎮圧され、斬首に処せられた。
    直澄の首は京に運ばれ、検非違使へ引き渡された。直澄の首が入洛した際、降人の源常弘とその子・某丸、紀権守(平直澄の舅)の三人も引き回された。

  • >>No. 8584

    有馬貴純
    祖父・孫つながり
    大村純前の外祖父に当り、その縁もあり、曾孫の一人・純忠が後に大村氏当主となった。

    ありま・たかずみ。生没年不詳。肥前の戦国大名。
    有馬氏の出自は大村氏と同様に藤原純友を祖先とし、『寛政重修諸家譜』で8代朝澄を始祖とする。しかし、宝治元(1247)年6月5日「有間朝澄」なる人物が子・深江入道蓮忍に先祖伝来の肥前国高来郡東郷内深江浦の地頭職を譲る文書には、左衛門尉平朝澄とし、藤原姓でなく、一説に平直澄の末裔といわれ、大村純伊・純前父子も平姓を名乗った。家紋は大村氏と同じ「五瓜に剣唐花(有馬瓜・大村瓜)」を用い、もとの図案は「五瓜」。諱は代々「すみ(純・澄)」を通字に用いた。
    貫地の高来郡有間庄から有間氏を称し、鎌倉時代に島原半島各所に地頭職を得たが、東国御家人の地頭任命により勢力は伸ばせず、室町時代中期以降に有馬氏と称した文献がみられる。
    有馬氏澄の子。有馬尚鑑(尚は将軍足利義尚から賜ったとされる)、長崎康純、女子(大村純伊の妻)の父。父の代まで「澄」の字を使用していたため、貴澄とも。官位は肥前守。左近将監。
    有馬氏の戦国大名化に尽力。島原半島の国人や土豪をほぼ被官化し、日野江城を本拠として高来郡を制圧、さらに藤津、杵島両郡を併合。島原の乱で有名な原城を築城し、龍造寺氏が台頭する前の肥前で最大版図を築き上げた。
    文明6(1474)年には大村領に攻め込み、中岳城の合戦で大村純伊を敗り、唐津の沖合い加々良島へ逐った。
    明応3(1494)年領地から追われた肥前など五か国守護・少弐政資を庇護し、周辺の領主らとともに松浦氏を攻め、平戸松浦氏の当主正(のち弘定)を筑前に逐った。この戦功により、貴純は少弐氏より恩賞として領地を認められ、有馬氏隆盛の礎になったとされる。
    『大館常興日記』七月三日条によると、天文8(1539)年には肥前守護職に就いている。
    没年は不詳だが、12月3日に64歳で死去したという。一部の事跡については子・尚鑑の代の事件とされることもある。

  • >>No. 8583

    大村純前
    親子つながり

    おおむら・すみあき。生年不詳〜1551年没。戦国時代肥前の武将、大村氏の17代当主。
    大村氏は大村純忠に至るまで、その経歴は明らかではない。大村藩成立後に編纂された「大村家記」などの系図や史書に、藤原純友の孫・藤原直澄を祖先とし、直澄が正暦5(994)年伊予から肥前に入部、肥前大村を本拠として領主化したのが始まりとされている。また一説に、平清盛の祖父・平正盛の追討を受けた肥前藤津領主平直澄(平清澄の子)が先祖とされ、鎌倉幕府に従って御家人地頭となり、領主化したとされる。純前の父・純伊は平氏を称した。戦国時代に入り大村氏の勢力は急速に衰え、伝承によると、文明6(1474)年純前の父・純伊は有馬貴純に攻め込まれ、中岳城の合戦に敗れて唐津の沖合い加々良島へ逃れたとされる。まもなく肥前長島庄の渋江氏らの援軍を得て、大村に帰還し大村氏を中興したという。
    大村純伊の子。母は有馬貴純(貴澄)の娘。有馬尚鑑(貴純の子)の娘を妻とした。丹後守を称した。肥前今富城主。
    天文6(1537)年純伊が没したとされ、兄・良純が病弱であったため純前が当主となった。天文8(1539)年1月29日以前に純前は、有馬氏らとともに上京し、閏6月3日将軍足利義晴に拝謁し、室町幕府の奉公衆の待遇をうけている。
    純前の時代の肥前は、肥前守護職で島原の日之江城主有馬晴純(尚鑑の子)の勢力が盛んであった。大村純前と有馬晴純は互いの妹を正室とし、純前は正室に男子がなかったため、有馬晴純の次男勝童丸(純前の甥・のち純忠)を養子に迎えた。その後側室との間に実子又八郎が誕生したが、純前は有馬氏を憚り、後藤氏へ養子に出した。
    天文19(1550)年家督を純忠へ譲り、翌天文20年6月15日に没し、『大村郷村記』福重村によると墓所は福重の白水寺跡にあったとされる。法号は宝山宗珍日空大居士。
    純忠は日本最初のキリシタン大名で、南蛮貿易を盛んに行った。しかし、キリスト教を狂信するあまり、全領民に改宗を促し、神社仏閣を徹底的に破壊、養父・純前の位牌でさえ焼き捨てるという異常な行為を行ない、家臣の離反を招き、義弟・後藤貴明から不倶戴天の敵と狙われた。

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