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投稿コメント一覧 (236コメント)

  • 永六輔の追悼の場で、娘さんが「人は2度死ぬと、父に聞かされた」と言っていた。
    その訳は1度目は心臓が止まった時、2度目はその人の記憶が生きている人の記憶に無くなった時。
    ある、聞いている人が「流石、永さんだ」と、言った。
    私も成程、その発想もあるか、しかし、ならば、「人は3度死ぬ」と言って欲しかった。
    3度目の死は「遺伝情報の消失」、つまり、その人の痕跡が完全抹消された時。
    日本人ならそう語って欲しく思う。

  • 【忌避すべき事】
    久し振りに己の足りなさに気付いた。
    愚か者が愚かな自分に気付いた。
    私はそれなりに好奇心も向上心ある。
    しかし、身に付けた知識を誰かに伝える事を拒否してきた。
    自分が分かれば良く、其々、各々が知りたい事を学べば良い。
    そんな考え方である己に気付いた。
    忌避すべき事を気付かずにいた。
    今更もう遅い、記憶力が確かなうちに備えておくべき心得だ。


  • 主義主張を考察する場合、根底に流れている哲学を解析する必要があります。
    なぜなら、必ず、論理破綻を防ぐ手立てが設けられ、気付かぬと誤魔化されます。
    ・・・(理想と現実のギャップなど)・・・
    現代の民主主義はフランス革命から勢いづいたと思います。
    この時のスローガンが「自由(リバティ)・平等」です。
    リバティとは、専制君主の権利を剥奪し、君主制度からの解放です。
    平等とは当時のカトリック教が専制君主達に与えていた権利を一般民衆に分かつ事でした。
    ・・・『この時、「神の下では平等」と言ったキリストの言葉を使った』・・・
    アメリカにある自由(リバティ)の女神はフランスが寄贈し、
    その意図はイギリスの権利を奪い、独立を祝う象徴です。
    ここで気付かねばならぬ事は、どちらも権利を奪う象徴であり、キリスト教社会の出来事です。
    つまり、宗教改革が王政などにある権利を民衆にも与える事だったのです。
    しかし、全ての権利を民衆に与えると、秩序維持に困る。(上から目線)
    そこから、お互い監視し合う三権分立が生まれ、議会制民主主義ができたと思える。
    ここで、大切なのは、法は絶対でなく、流動的な存在としている事である。

  • >>No. 11

    民主主義の定義か、それとも、どう定義すべきか?
    まず、定義づけに必要な事を纏めてみます。(今思い浮かべた事だけ)
    民主主義の根幹には人間が存在します。
    種族としての人間は定義づけられますが、実在するのは男か女です。
    勿論、知能の発達により、男が女の精神を持ち、その反対もありますが、
    生物学的には男か女です。(両性具有者もいますが種族としての存在ではありません)
    まず、人間と言う架空の存在を定義し、人間は平等だとの定義を重ねなければ、
    現代日本の民主主義は語れない。
    実在しない事が前提だから、「民主主義が胡散臭くなる」と、私は思っている。

  • 仏徒であると思い知った時、不変を肌で感じた。
    お釈迦さんの時代と、変わらぬ心を経典により知った。
    当時と比べると、科学が進歩し、情報量は凄まじく増大している。
    なのに、心の進歩がない。
    これ如何に?

  • vix3 さんへ
    >自己の自由と自己からの自由でしょうか。
    存在は縁で繋がっています。
    因果の結果により存在が明らかに成ります。

    owl さんへ
    >freedomは、無意識を含む意識に重点が置かれていると思います。
    フランスで自由を叫んだのは、キリスト教社会からの解放を願ってからです。
    そこから、「自由・平等」の熱が高まり、今日に至っています。

    ショーシャンク さんへ
    >自分の中に無数の依存があることを見るのは重要かもしれませんね。
    そうですが、依存から脱出の意味で書いていません。

    お三方それぞれ受けて留めて下さり、有難く思います。

    何年か前、ヒッグス粒子の発見が話題に登りました。
    この時、ようやく物理学の世界も「不自由の中に自由あり」を証明した。
    と、思ったものです。
    物理学者の中では、自由電子の存在を確認できるのはなぜか?
    素粒子は勝手気ままで、存在として現れないはず、しかし、存在が確認できる。
    なぜだ?
    この疑問からヒッグス機構を仮定し、ヒッグス粒子の存在で、機構の正しさを証明した。
    つまり、世界はヒッグス粒子の中にあり、素粒子はヒッグス粒子の抵抗で明らかに成る。
    同じ事です。
    不自由の抵抗があり、自由が明らかに成るのです。(必要な単語になる)

    ブッダは2千年以上前に、存在は縁の繋がりと、断じています。
    そして、聖徳太子は縁に必要な事は「和」であると断じています。
    仏法を実世界に応用した時、縁をどの様に繋げるか、
    そこから「和」に集約されたのだと思っています。(自分勝手な想像)

    言論人は責任の取れる範囲で、自由を謳歌して頂きたく願って居ます。
    それが、自由を行使する最低限のモラルと思います。

  • >>No. 253

    はじめまして、vix3 さん

    >準備ができた人以外には受け入れがたいものですから。
    興味を引く表現です。

    私はあちこちで、「欧米はフリーダムとリバティーを使い分けている」と言っている。
    そして、違いを説明している。
    しかし、この違いの意味を理解しても、なぜ日本に区別する言葉がないのか興味を持たない。
    日本は「和」の国です。
    和を求めて当然な国柄です。
    和を乱すリバティーを拒絶してきた国です。
    だから、訳語がないとの結論を持って居ます。
    言論の自由を主張する者達ほど、自由の使い方が分かっていない。

    私の知る限り、リバティーの翻訳に困ったのは福沢諭吉のみです。
    訳は、「不自由の中にある自由」と表現しています。
    しかし、私は異論を唱えています。
    「自由(フリーダムも含め)は不自由の中にある」と自由の意味を伝えています。
    例えば、自由の言葉は不自由な時に使う言葉で、
    自由に想像できる限界は個性に依ります。
    不自由な個性の中で、自由に想像を広げているだけです。
    仏教を学ぶ時、この辺りを注意しなければと思います。

  • 苦について色々解釈されています。
    それぞれご自身の体験を通しての表現です。
    ですから、「なるほど」と思います。

    ただ、どなたも当り前の事を語っていません。
    「人にはなぜ感情があるのか?」

    進化論的に考えると、危機回避能力が発達したものと思えます。
    最近では「植物にも感情があるらしい」と一部の学者が唱えている。
    そうならば、最も原初的な感覚と思います。
    進化論で考えるなら、発達した器官と消滅した器官。
    人が他の動植物に比べ最も進化させたのが知能です。
    問題は、この知能が感情とどの様に融合して、現在の人になったのか?

    お釈迦さんは「見事、その融合過程を感得された」と思っています。
    そして、優れた知性と、本来、危機回避能力であった感情の融合が、
    「苦の源泉」と説いておられる。
    なぜなら、知性には制御が必要となるからです。
    知性は、自然の摂理に従うのでなく、克服しようと働きます。
    自然を人間に置き換えて考えると、争いが起こるのは当然です。

  • >>No. 77

    制限にかかって投稿できなくなる。
    表現の壁があり、字数制限がある。・・・困った

    無我の境地とは?
    簡単な表現をすると、「個人的見解でなく、普遍的事実を断じる境地」かな?
    例えば、「万物流転」「諸行無常」「盛者必衰の理」・・・など
    つまり、ブッダは普遍的な事実を語ったから、「無我の境地にいた」と解釈しています。
    しかし、難しいのは、証明の難しい現実です。
    つまり、真相としか表現できぬ事です。(真実・・・個人的見解:西洋人の発想)
    真相は同意できるか不同意か、信じるか信じないか、・・・で違います。
    十二縁起などもその一つです。
    因果があるのは、物理的にすぐ証明できます。
    しかし、心の問題は空海が十住心論で解釈が変化すると述べています。
    自分自身を省みて、納得する論です。

    例えば、私は胎内記憶を自覚できます。(一般的には、ほんとかと疑う)
        お蔭で、魚から人に変化する様を実感として持って居ます。
        その結果として、孤独とは無縁で、ご先祖様と伴にあると実感している。
    これをどう解釈するか?
    胎内記憶をお持ちであれば、理解できますが、そうでなければ「???」です。

  • >>No. 72

    >中村元が書いているように、最古層の仏典では、「無我」ではなく「非我」です。
    >ごく初期段階から仏陀の直説は曲げられてしまったと考えます。

    私はショーシャンクさんと違った受け止め方をします。
    0(ゼロ)の概念が確立されたのは、諸説ありますが5世紀頃との事。
    それ以前に空の概念があり、数学はその概念から、0を確立させた聞きます。
    前回も書きましたが時代背景として、無の概念が存在していたか?
    ブッダの時代に「無我」が通用したのか疑問に思います。
    寧ろ、後の時代の者が、ブッダの意図を汲取り、時代に合わせて変更したと思っています。
    紀元前の話です。
    情報量が限られています。
    「伝えたくとも伝えられなかった事」を未来に託したと思っています。
    要点を絞り込んで伝えたと思います。
    しかし、時代を経る毎に情報量が増え、
    ブッダの指し示す方向にある事をより詳細に表現したと思っています。
    そして、300文字に満たない般若心経に辿り着いたと思っています。

    >古城も古道も厳然として存在するとも言っています。
    私なら、この言葉は以前書いた「答えは自分自身の中にある」と解釈します。

  • >>No. 69

    >同じ『偏見』という言葉も、千人いれば千人とも意味が違います。
    >ですから、何を指して『偏見』というのかを具体的に示さないと
    >対話は成り立たないように思います。

    では、
    どなたも持って居る偏見は「好悪」の感情です。
    日常で、自分の好悪の出所を探っておられますか?
    中庸とは好悪の感情に囚われず判断を下す様です。
    例えば、好悪の延長上に善悪の判定基準を設ければ偏見です。
    しかし、多くの場合、「善⇒心地よい」「悪⇒気持ち悪い」の感情が湧きます。
    つまり、心理学的な内観を伴わないと、仏典を十分消化できません。
    人々に理解してもらえぬ根本は無意識の世界へ入り込む難しさです。
    禅に「不立文字」の言葉があります。
    仏教に携わった人達は様々な言葉を紡いでいます。
    其々の時代背景を加味して解釈しないと間違います。
    例えば、ブッダの時代に「無意識の世界が脳内にある」と言っても理解できないでしょう。
    無意識の意味を説明するだけでも大変です。
    法華経七喩などその典型例と考察しています。

  • >>No. 117

    己を誤魔化す道具立てとしては良いかも
    しかし、誤魔化しを感じると余計にストレスがかかる。
    ある人が、「ぐちゃぐちゃ考えず働け」と言った。
    名言と思うが、老人向きではない。

  • >>No. 38

    >言われている『偏見』とは、具体的にはどういうものでしょうか。
    >人間は成長するにつれて様々な価値観を持ち価値判断をしていきます。
    >そのようなすべての価値判断のことを偏見と呼ばれていますか?
    >それとも他に別の意味があるのでしょうか。
    >言われている『偏見』に当たる語は原始仏典の中のどのような語でしょうか。
    >教えていただけたら幸いです。

    私は学者や僧侶と違います。
    なので、平易な一般的な言葉を使います。
    人は偏見の塊です。
    しかし、その事の自覚がないようなので、説明は難しく思います。
    自転車に乗れない人に乗り方を説明しても、バランス感覚は説明できません。
    ただ、業(ごう)とは何か?
    それがヒントです。

    答えは全てあなた自身の中にあります。
    比叡山で千日回峰をしている修行僧がいます。
    ただ歩くだけです。
    教わる存在は自然だけです。
    解釈は色々です。
    修行僧が取得するのは何か?、何故修行するのか?
    知識がある、智慧が回る、良い事です。
    肝心なのは自分を知る事です。

  • >>No. 115

    >人間は平等ではありません
    >民主主義はある種の虚妄ですからね

    そうですね。
    しかし、現実が民主主義で覆われ、信奉する人達の中で、
    己の信念に従う程の論理的見解を持てない輩(自分自身)は、
    ストレスを溜めるしかない。
    そんな輩は宗教集団に逃げ込むか、
    それとも、己を誤魔化し、世間に紛れ一生を終えるか
    それとも、ストレスを感じる神経を抹殺するか・・・・

  • >>No. 1

    >仏陀は悟った時に『私が悟ったこの法は甚だ微妙で深遠であり、世の人が理解することはできないであろう。
    >説いても無駄だ。私はこのまま死んでいこう。』と考えました。
    >そしてその予感は当たっていたと思います。

    初めまして、ショーシャンク さん。
    私も40年程前、ブッダガヤで同じような疑問を抱いた者です。
    ただし、ブッダに近づいた人達は数多く居たと思っています。
    その根拠はブッダに近付けない原因を断じたからです。
    つまり、「人は偏見なく成長できない」と断じたからです。
    そして、ブッダは限りなく偏見を0(ゼロ)に近付けた存在と断じています。
    12縁起は偏見を如何に身に纏うか、その過程を記したものとの見解を持っています。

    多くの人は偏見に満ちて生活しています。
    しかし、ほぼその偏見は個性の枠内にあり、社会で許される範囲です。
    つまり、常識の範疇で暮らしています。
    常識に囚われず暮らすと、無法者の世界に入ります。(暴力団に近い)
    生きる為に働き、働く為には社会の秩序に従う必要があります。(常識の下)
    なので、ブッダは乞食(こつじき)の暮らしをしました。
    無法者ができるギリギリの社会との交わりです。
    インドには今も「サドゥー」がいます。
    彼等の暮らしを通して、ブッダの乞食生活が想像できます。(個人的見解)

    さて、ショーシャンクさんが心底お釈迦さんの心に触れたいならば、
    まず、自身の中にある偏見を引出す事です。(一般には観想、瞑想、禅・・・が手段)
    自分の中にある偏見に気付くと、消し去る為の原因を探す必要があります。
    記憶にある過去に遡る必要があります。
    3歳児頃まで遡れば、「三つ子の魂百まで」の格言の意味を消化できます。
    普通の人はそれ以上記憶を辿れないと思います。
    無意識の世界に入り込むのは至難の技です。
    しかし、お釈迦さんはそれを成し遂げたと、また、多くの先人達も居たと思っています。

  • >>No. 113

    【民主主義と言う名の宗教】・・・LGBTの考察から発想
    以前から民主主義に疑問を持っていたが、宗教と捉えるとスッキリとする。
    さて、そのお題目の基本は神でなく「自由・平等」となる。
    どちらも存在するものでなく、思考から生まれた願望で、
    今や崇める対象に成っている。
    そこに個人の尊厳を加えて法治化すると、民主主義となる。
    個人の尊厳は閉鎖的で、歴史の繋がりを考慮できない処に問題がある。
    LGBTを普遍的なものと捉える者達の根っこには個人崇拝がある。
    極論すれば、キリストでなく、個人が神になっている。

  • 憲法改正に当たって、まず、現憲法の思想的背景を承知しなければならない。
    例えば、
     意識改革を目指す為に必要な事は何か?を探る必要がある。
     必要最低限の条件として、「如何に秩序維持するか?」があります。
     私の独断と偏見で考えた結果ですが、思想の大本は宗教です。
     ならば、思想の見直しは宗教と現実の整合性が必要になります。
     そこを如何に崩すかが問われると思っています。

     この発想の原点は、「自由・平等」にあります。
     自由とは宗教改革で謳った言葉であり、
     平等とはキリストが言った「神の下では平等」からです。
     どちらも、宗教が根本にあると思っています。
    以上

    我々は「自由・平等」を当然な権利と思っています。
    そこに過ちがあると、指摘する人を知りません。
    例えば、「自由・平等」は理想でなく、空想世界だ言う人を知りません。
    切っ掛けであっても、自由は宗教改革からです。
    また、平等も神の教えからです。
    「自由・平等」には、神の存在が不可欠です。
    前提条件として、
    自由の場合:できぬ事が当たり前でなく、できぬ事は無いのが自由です。
    これは、平等にも共通して、
    平等の場合:あらゆる存在には違いがあるのでなく、あらゆる存在は平等になるべきとの発想です。
    だから、「男女平等」の絵空事なる発想が浮かび、常識になっています。

    この現実離れした前提を覆せず受入れているのが今の法体系です。
    その他、現憲法には様々な現実離れした前提が謳われています。
    例えば、
     戦争放棄の前提は「諸国民が希求する平和に配慮する」があります。
     この欺瞞は「他国と自国」の区別なく掲げている所です。

  • LGBTの根本は平等意識にある。
    この事を専門家が言い出さなければLGBTは増え続けるであろう。
    平等に与えれられるのは天然自然しかない。
    人工的に作った平等の定義は人の傲慢さ故の産物と確信している。
    西洋から持たされた平等意識。
    例題
     かの福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と
     学問の勧めに書いてある。
     これを、平等意識と捉えているのは私だけであろうか?
     本来は、学問を学ぶ資質は全てが持って居る。
     「学べ!」と言いたかったらしい。
     クラーク氏の「少年よ大志を抱け」と同列に並ぶ訓戒らしい。
     また、「少年老い易く学成り難し」などの一種らしい。
     しかし、紛らわし表現だ。
     平等意識に捉われ、こんな表現を用いたのでは?と、勘繰る。

    LGBTの問題は男女平等の意識にあると思っている。
    日本の殿様には稚児を可愛がる性癖の者が居た。
    しかし、結局、稚児も女とも交接していた。
    これも含めて、多様性を求めねばならぬと思う。

  • 【何を目指すのか?】・・・(1月2日)
    小池百合子都知事の発言にはグランドデザインがない。
    「情報開示」を求めると言っても、区別が分からぬ。
    今の所、世間が騒ぐ事のみ手を付けているが、問題の本質に迫っていない。
    例えば、都民ファーストとの発言。(大衆迎合主義との違いは?)
    中身がさっぱり分からぬ。
    政策立案するのが政治家で、「東京都の闇を糺す」とも言わず、「頭の黒いネズミ」で終わる。
    そんな事はジャーナリストに任せて置けば良い。
    意図はどうーも、「政治家を長く続ける為にある」と、解釈しても可笑しくない。

    続・・・(1月21日)<<<解釈修正
    【正体が見えてきた】
    小池氏はどうーも、石原元都知事・森元総理などへの報復をしたいらしい。
    その大義は「古い体制を壊す」の美名を使って・・・
    その道具が「豊洲市場であり、オリンピック」にあるようだ。
    これでは、韓国と同じで、民衆を使って不満を解消する姿とダブって見える。

  • 【言葉の壁】
    禅宗には「不立文字」「只管打坐」の言葉があります。
    味わう事でしか表せない事だらけです。
    簡単な例では、食事の「おいしい、まずい」は味わって、分かる事です。
    また、自転車の乗り方を様々な表現で教えても、分かる事ではありません。
    「話せば分かる」と言った総理の犬養毅は暗殺され、
    「話せば分かる」なら、慰安婦問題は解決します。
    「南京大虐殺」も事実を検証すれば、実態が分かります。
    大東亜戦争の事実も、侵略目的でない事が分かります。
    現在起きている紛争の全てが、議論で解決できない事を現しています。

    「議論を尽くす」と叫ぶ野党を見ていると、正当性を楯にした、
    廃案に追い込みたいだけの誤魔化しです。
    国の最も重要な機関である国会において、欺瞞、詭弁が横行しています。
    嘆かわし事です。
    最も酷いのは、沖縄の県政です。
    しかし、報道機関はその現状を伝えず、米軍施設の在り方しか問題提起しない。

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