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投稿コメント一覧 (247コメント)

  • >>No. 6712

    >生物平等。
    惜しい。
    もう一歩進め、万物平等となれば、愚者には判断がつかぬ。
    「万物流転」の表現がある。
    この言葉の出所は、ヘラクレイトスの哲学とされている。
    その意味は言葉で物事を説明する事の限界を言っている。
    「物事を静止させて分析する処に、限界がある」と言っている。
    愚者は以前書いた「平等は機智と伴にある」と、・・・
    偶々だが、今回「万物流転」の言葉を調べたところ、ウィキペディアにあった。
    その意味する処は共通していた。
    やはり、同じ結論に至る先人が居た事で、「やっぱり、そうであった」と思う。

  • >>No. 6710

    >人間平等。

    個としての人間は存在しない。
    個としてはオスかメスで、それとも、両性具有者かも知れない。
    だから、人間とは人類の呼称で、現実の存在ではない。
    そこに平等の言葉を繋げる可笑しさがある。

  • >>No. 6707

    >平等じゃなくて、伝統だろう?
    これは今争っている事かな?
    ならば、その通り。

    私が書いたのは「それは間違いで、争点がズレて居る」と・・・
    大本は「男女差別があってはならない」との常識にある。
    男女には明らかな差がある。
    その差を無視して、兎に角、同じ土俵に上げようとする。
    そこに問題がある。
    簡単に言えば、男女差別をしてこそ平等と言える。
    何故なのか、平等意識とは千差万別で、その時々変化する。
    個性に合わせ、物に合わせ、その場、その時によって変わる。
    そこの処を理解する必要がある。
    平等の考えは「キリストの万民を平等に愛す」から始まっている。
    人はそんな事、できるはずがない。
    だから、「男女平等」の可笑しさに気付かない。
    そんな世界を築くことが理想に近づくと思っている。
    しかし、「男女平等」の発想こそ、差別意識の発露であり、そこに気付いていない。

  • 【私も争いは好みません】
    おっしゃるように、物質的豊かさの享受に比べ、精神的豊かさの享受が足りていないと思えます。
    何故か?
    科学は積み重ねて次世代に引き継ぎ発達し、物質の豊かさをもたらしますが、
    精神は個人的で、引継がれる事がないからと思います。

    例えば、現在は「自由・平等」の社会を目指しています。
    では、「自由とは?、平等とは?」の哲学的考察をする人が幾人いるでしょうか?
    私見ですが、「自由は檻の中にある」、「平等は機智と伴にある」との見解を持って居ます。
    しかし、40歳近い息子も娘も未だ、十分理解できずにいます。(常識の壁)
    ・・・こんな常識外れの見解を持つと、摩擦は多くなります。

    現在の平等主義の欠点は公平性を欠く事です。
    偶々ですが、今、「女性を土俵に上げるのを何故拒否するのか?」と騒いでいます。
    騒ぐ原因は男女平等にあります。
    「男女は平等である、だから、同権である」との考えからだが、しかし、男女は同じではない。
    男女の違いを認める事が平等意識なのだが、そこを曲解している。
    其々の立場を尊重してこそ平等意識が成立つ。
    それを、同じ立場に置く事が平等と勘違いしている。
    ・・・宝塚歌劇団に男は入団できない。・・・

    争いの種はそこかしこに潜んでいます。

  • 【改めて自由・平等を考える】
    「自由は檻の中にある」と書いた。
    この表現を私は気に入っている。
    では、「平等とは?」・・・中々上手い表現が見つからない。
    仏教にある平等慧ばかりが思い浮かぶ。
    「人は偏向した考えしかできない。」と断定している。
    その根拠は仏教を学んだ結果から来ている。
    ‘平等慧‘とは?と、思考した結果の結論だ。
    しかし、これは自分への言葉で、外、つまり一般的な人には分からない。
    どのように平等慧を表現すべきか?
    平等慧の極意は、まず差異に気付く事から始まるのであろう。
    その差を埋めるか、其のままで良いのか、臨機応変に対処する術が必要であろう。
    となると、「平等とは、臨機応変」となるのかな?
    一般に理解されている平等は差が無い、若しくは差を無くすであろう。
    全く非現実な解釈だ。
    差を受止める。
    如何に受け止めるかが智慧の出し処なのに。


    人が作った法律は、誰もが等しく恩恵を受けるとある。
    そこから導かれた便宜的な装置が平等思想だ。
    如何にも正しそうなのだが、大きな欠点がある。
    人は全て違い、差異がある。
    等しく恩恵を受けるには全ての人々に合わせた対応が必要で、そうなると、無限大の法律が必要だ。
    ところが、現代の法は機会均等で終わらせている。
    ならば、それは平等と言わず、「機会均等と言うべきだ」と考える。

    【閑話】
    良く使われる言葉で、ほゞ全ての人が受け入れているのが‘男女平等‘である。
    この言葉に違和感を感じたのが、思春期の14~15歳頃であった。
    それから、自分の中では間違った言葉だと断定していたが、
    表立って、可笑しいと、言えずにいた。
    今、ようやく可笑しいと言えるだけの準備ができたように思う。

  • 【無い事が有る】

    良く、「やらないより、やった方が後悔しない」とか、
       「経験しないと後悔する」と、思われているが、
    また、「後悔したくないから」など、
    世間では、「経験しない事と経験した事」を、実績で有無を分ける。
    しかし、経験しない事も実績である事に気付いていない。
    無と有と空の違いに気付いていない。
    つまり、「実績が無い事」を経験の少なさに置き換える事しかしない。
    しかし、無い事を肯定的に捉えていない。
    例えば、
    飛行機に乗る予定が、何らかの理由で、乗れなかった。
    その後、飛行機が墜落したら、乗って居なかった事の事実は運が良かったで済ませる。
    しかし、事故が無ければ、乗れなかった理由を省み、2度繰り返さぬよう、心構えを作る。
    この違いに焦点を当て、重要さに気付く人は少ない。
    数学はゼロを使う事によって、飛躍的に発展した。
    同じ事が、「無い事が有る」にも言えて、発想が飛躍的に広がる。

  • 久し振りに投稿します。

    【最近の国会】2018/3/23
    国会は法を論議し、定めるところだ。
    ところが、森友だ!、森友だ!、とは、何だこのざまは・・・。
    まるで、ワイドショーに向けての国会ではないか。
    与野党共、国会議員達が芸人や、演劇人の如く、連日ワイドショーを賑わしている。
    議員達は注目を集める事に腐心しているだけだ。
    しかし、コメンテータもおかしい。
    演技を評価するかの如く、批評している。
    また、それに乗っかる一般大衆もどうかしている。
    一部の人以外、一億総痴呆化している。
    ギリシャの哲学者は2千年以上前に、民主主義を衆愚政治と名付けていた。
    眞に今現実を目の当たりにすると情けなくなる。
    茶番劇を見せられる最大の原因はマスコミにあるのだが・・・
    権力を分散して議会制民主主義を行っているが、第四の権力(マスコミ)を制御できていない。
    元々、民主主義に内包されている欠点を三権分立のシステムで補っていたのだが・・・
    通信の発達により、三権分立のシステムが機能しなくなり、欠点が顕わになっている。
    取り敢えず、四権分立のシステムが必要であろう。
    完全でもないが、少しずつ進化させるしかないのだろうか?

  • >>No. 6703

    初めまして、
    ちょっと異なった意見を・・・
    2千年以上も続いている対立が数百年で解消できると思えません。
    その理由:人は其々何かしらの矛盾を抱え、葛藤して生きているからです。
    その葛藤を乗越えさせてくれた宗教に帰依するのは当然で、
    再び葛藤を抱える気は起きないと思います。
    「そこが宗教対立が起こる原因」と思っています。
    生き様を否定されると怒って当然です。
    残念ながら動物も人間も同じで、障害と判断すれば取り除こうとします。

  • 【世間の常識とのズレ】  2018/3/22
    寝起きに何気なく世間の常識と自分自身のズレを検証した。
    大多数の常識人は「自分自身の事を一番知っているのは自分である」と断定している。
    私とはそこが違う。
    私は自分が分からず、自分を知ろうと50年以上も、もがき続けている。
    だからと思うが、私が当然と思える事と世間の常識とは違う、そこがズレている。
    困るのは、常識人が大切と思う事をいとも簡単に捨て去る事だ。(話が噛み合わない)
    しかし、それで私自身も困っている事がある。
    金を持つと散財してしまう、無ければ倹しく使う。
    金を貯めようとしても、散財してしまう癖を直そうと努力したが、続かない。
    何度も必要な時に金が無くて困ったが、それで貯めようとして、貯まらない。
    その謎がようやく解けた。
    金に囚われぬ自分が居て、金を貯めようとするから、自己矛盾を起こしていた。
    解決方法は・・・金の必要な場から遠ざかる、遭遇しない術を身に纏う。
         遭遇しない術を身に纏う・・・ここを目指すべき。

  • >>No. 387

    お久しぶりです。
    昨夜、母の死が届きました。
    母を思うと、68歳になっても悲しみが襲い来て、慟哭となります。
    ならばと、徒然の事を紡いでいる内、久し振りにここに辿り着きました。
    西洋社会にどっぷり漬かった現代人には、我が身から離れようがないと思えます。
    私もその一人で、世間や世界を知っていても、そこからの発想が湧かぬのです。
    ただ、今年の正月、99歳になった母が「魚を食べるのが可哀想」
    「だから感謝して、魚の成仏を願いながら食べる」と、言っていました。
    食って食われる世界である故、感謝を忘れない。
    人間だけの世界でなく、ましてや、個人が繋がっての世界であるはずがない。

  • 【仏になった母】(2018年2月13日)AM:3:20
    昨夜午後7:00頃、弟が母の死を知らせてくれた。
    なるだけ悲しみを避けていたが、世話になった弟夫婦に伝えなけれならぬ事が思い浮かんだ。
    どの様に話せば伝わるかを考えていたら、どうしょうもない悲しみが襲ってきた。

    今年の正月の事、母と久し振りに長話をしたのだが、その時の事を話さねばと思う。
    母はこの頃、「魚を食べるのも可哀想だ」と、「だから感謝して、成仏できる事を願いながら食べる」と、
    表現は違うが、そのような事を言っていた。
    その時は、「母ちゃんも私と同じで、私の気持ちが通じたのかと思ったのだが・・・」
    今思い返すと、まるで次元が違い、私が創造するお釈迦さんの姿であった。
    「生きている事への感謝しかなかった」と遅まきながらそう想像する。
    母が生きながら悟りの境地に達したのは、やはり弟夫婦のお蔭であろう。
    ぼんくら者の私は気付くのが遅い。
    それ故、愚者を名乗る。

  • 永六輔の追悼の場で、娘さんが「人は2度死ぬと、父に聞かされた」と言っていた。
    その訳は1度目は心臓が止まった時、2度目はその人の記憶が生きている人の記憶に無くなった時。
    ある、聞いている人が「流石、永さんだ」と、言った。
    私も成程、その発想もあるか、しかし、ならば、「人は3度死ぬ」と言って欲しかった。
    3度目の死は「遺伝情報の消失」、つまり、その人の痕跡が完全抹消された時。
    日本人ならそう語って欲しく思う。

  • 【忌避すべき事】
    久し振りに己の足りなさに気付いた。
    愚か者が愚かな自分に気付いた。
    私はそれなりに好奇心も向上心ある。
    しかし、身に付けた知識を誰かに伝える事を拒否してきた。
    自分が分かれば良く、其々、各々が知りたい事を学べば良い。
    そんな考え方である己に気付いた。
    忌避すべき事を気付かずにいた。
    今更もう遅い、記憶力が確かなうちに備えておくべき心得だ。


  • 主義主張を考察する場合、根底に流れている哲学を解析する必要があります。
    なぜなら、必ず、論理破綻を防ぐ手立てが設けられ、気付かぬと誤魔化されます。
    ・・・(理想と現実のギャップなど)・・・
    現代の民主主義はフランス革命から勢いづいたと思います。
    この時のスローガンが「自由(リバティ)・平等」です。
    リバティとは、専制君主の権利を剥奪し、君主制度からの解放です。
    平等とは当時のカトリック教が専制君主達に与えていた権利を一般民衆に分かつ事でした。
    ・・・『この時、「神の下では平等」と言ったキリストの言葉を使った』・・・
    アメリカにある自由(リバティ)の女神はフランスが寄贈し、
    その意図はイギリスの権利を奪い、独立を祝う象徴です。
    ここで気付かねばならぬ事は、どちらも権利を奪う象徴であり、キリスト教社会の出来事です。
    つまり、宗教改革が王政などにある権利を民衆にも与える事だったのです。
    しかし、全ての権利を民衆に与えると、秩序維持に困る。(上から目線)
    そこから、お互い監視し合う三権分立が生まれ、議会制民主主義ができたと思える。
    ここで、大切なのは、法は絶対でなく、流動的な存在としている事である。

  • >>No. 11

    民主主義の定義か、それとも、どう定義すべきか?
    まず、定義づけに必要な事を纏めてみます。(今思い浮かべた事だけ)
    民主主義の根幹には人間が存在します。
    種族としての人間は定義づけられますが、実在するのは男か女です。
    勿論、知能の発達により、男が女の精神を持ち、その反対もありますが、
    生物学的には男か女です。(両性具有者もいますが種族としての存在ではありません)
    まず、人間と言う架空の存在を定義し、人間は平等だとの定義を重ねなければ、
    現代日本の民主主義は語れない。
    実在しない事が前提だから、「民主主義が胡散臭くなる」と、私は思っている。

  • 仏徒であると思い知った時、不変を肌で感じた。
    お釈迦さんの時代と、変わらぬ心を経典により知った。
    当時と比べると、科学が進歩し、情報量は凄まじく増大している。
    なのに、心の進歩がない。
    これ如何に?

  • vix3 さんへ
    >自己の自由と自己からの自由でしょうか。
    存在は縁で繋がっています。
    因果の結果により存在が明らかに成ります。

    owl さんへ
    >freedomは、無意識を含む意識に重点が置かれていると思います。
    フランスで自由を叫んだのは、キリスト教社会からの解放を願ってからです。
    そこから、「自由・平等」の熱が高まり、今日に至っています。

    ショーシャンク さんへ
    >自分の中に無数の依存があることを見るのは重要かもしれませんね。
    そうですが、依存から脱出の意味で書いていません。

    お三方それぞれ受けて留めて下さり、有難く思います。

    何年か前、ヒッグス粒子の発見が話題に登りました。
    この時、ようやく物理学の世界も「不自由の中に自由あり」を証明した。
    と、思ったものです。
    物理学者の中では、自由電子の存在を確認できるのはなぜか?
    素粒子は勝手気ままで、存在として現れないはず、しかし、存在が確認できる。
    なぜだ?
    この疑問からヒッグス機構を仮定し、ヒッグス粒子の存在で、機構の正しさを証明した。
    つまり、世界はヒッグス粒子の中にあり、素粒子はヒッグス粒子の抵抗で明らかに成る。
    同じ事です。
    不自由の抵抗があり、自由が明らかに成るのです。(必要な単語になる)

    ブッダは2千年以上前に、存在は縁の繋がりと、断じています。
    そして、聖徳太子は縁に必要な事は「和」であると断じています。
    仏法を実世界に応用した時、縁をどの様に繋げるか、
    そこから「和」に集約されたのだと思っています。(自分勝手な想像)

    言論人は責任の取れる範囲で、自由を謳歌して頂きたく願って居ます。
    それが、自由を行使する最低限のモラルと思います。

  • >>No. 253

    はじめまして、vix3 さん

    >準備ができた人以外には受け入れがたいものですから。
    興味を引く表現です。

    私はあちこちで、「欧米はフリーダムとリバティーを使い分けている」と言っている。
    そして、違いを説明している。
    しかし、この違いの意味を理解しても、なぜ日本に区別する言葉がないのか興味を持たない。
    日本は「和」の国です。
    和を求めて当然な国柄です。
    和を乱すリバティーを拒絶してきた国です。
    だから、訳語がないとの結論を持って居ます。
    言論の自由を主張する者達ほど、自由の使い方が分かっていない。

    私の知る限り、リバティーの翻訳に困ったのは福沢諭吉のみです。
    訳は、「不自由の中にある自由」と表現しています。
    しかし、私は異論を唱えています。
    「自由(フリーダムも含め)は不自由の中にある」と自由の意味を伝えています。
    例えば、自由の言葉は不自由な時に使う言葉で、
    自由に想像できる限界は個性に依ります。
    不自由な個性の中で、自由に想像を広げているだけです。
    仏教を学ぶ時、この辺りを注意しなければと思います。

  • 苦について色々解釈されています。
    それぞれご自身の体験を通しての表現です。
    ですから、「なるほど」と思います。

    ただ、どなたも当り前の事を語っていません。
    「人にはなぜ感情があるのか?」

    進化論的に考えると、危機回避能力が発達したものと思えます。
    最近では「植物にも感情があるらしい」と一部の学者が唱えている。
    そうならば、最も原初的な感覚と思います。
    進化論で考えるなら、発達した器官と消滅した器官。
    人が他の動植物に比べ最も進化させたのが知能です。
    問題は、この知能が感情とどの様に融合して、現在の人になったのか?

    お釈迦さんは「見事、その融合過程を感得された」と思っています。
    そして、優れた知性と、本来、危機回避能力であった感情の融合が、
    「苦の源泉」と説いておられる。
    なぜなら、知性には制御が必要となるからです。
    知性は、自然の摂理に従うのでなく、克服しようと働きます。
    自然を人間に置き換えて考えると、争いが起こるのは当然です。

  • >>No. 77

    制限にかかって投稿できなくなる。
    表現の壁があり、字数制限がある。・・・困った

    無我の境地とは?
    簡単な表現をすると、「個人的見解でなく、普遍的事実を断じる境地」かな?
    例えば、「万物流転」「諸行無常」「盛者必衰の理」・・・など
    つまり、ブッダは普遍的な事実を語ったから、「無我の境地にいた」と解釈しています。
    しかし、難しいのは、証明の難しい現実です。
    つまり、真相としか表現できぬ事です。(真実・・・個人的見解:西洋人の発想)
    真相は同意できるか不同意か、信じるか信じないか、・・・で違います。
    十二縁起などもその一つです。
    因果があるのは、物理的にすぐ証明できます。
    しかし、心の問題は空海が十住心論で解釈が変化すると述べています。
    自分自身を省みて、納得する論です。

    例えば、私は胎内記憶を自覚できます。(一般的には、ほんとかと疑う)
        お蔭で、魚から人に変化する様を実感として持って居ます。
        その結果として、孤独とは無縁で、ご先祖様と伴にあると実感している。
    これをどう解釈するか?
    胎内記憶をお持ちであれば、理解できますが、そうでなければ「???」です。

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