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投稿コメント一覧 (4328コメント)

  • 「おじいちゃん」は本質を得てるかもしれません。
    ちょっとでも言葉を信じてるとおじいちゃんの言葉によってその実体が見えなくなっちゃいますね。
    ちょっとでも信じてるというのを自分の中から見つけるにはすごくいい環境だったかもしれません。

  • >>No. 39914

    ショーシャンク氏には選択的無視をされたので、彼の人となりにほぼ確信があっても、まともなことを言う側面でもあったので結構心が乱れました。
    よくわからないので相手しなかっただけなんでしょうけどね。よくわからない人に対する向かい方があんまりですけどw

    ≫宗教を求める人が土台の変容を求めない ということもあると思う。
    なので自分の勉強になるうちはいいのですけど、過干渉は私のセンスが疑われ。

  • 特-06452715*国立大学法人&M-JMC カテーテル・シミュレーター、及びカテーテル・シミュレーター用造影方法
    ttps://ipforce.jp/patent-jp-B9-06452715 …


    JMCカテーテルの特許取得

  • 自分をだましたがってる人を褒めて、その人と平和で甘いひと時を過ごしたい場合、誰もいないところでやらないとこうなるかな。

    彼の中身が何であれ、彼が争いに巻き込まれなければいけない理由はないです。
    が、人前で彼のような人にお墨付きなんて与えてしまったらそりゃこうなりますよ。
    彼は確信を深め、人に教えることによる自己逃避は加速します。
    彼にとっては敵は敵でまだいいとして、対立者だけでなく中立者も敵です。探究心などなく結論が先にあるので語り合う気はありません。そのあなた以外の人への微妙に無礼な振る舞いは炎上して当然でしょう。
    2人だけのやり取りなら、彼はあなたのいないところで同じことをやってあなたは少なくとも被害を受けなかったでしょうね。

    あなたが原因で起きたことは結構あるのですが、責めるということではないです。
    こんなの分かって当然ではないです。
    少なくともおかげでいろいろ私は学ぶことができました。

    夢は甘いですが自分は変わりません。
    自分を向き合う苦しみが開放を約束します。

    なんにせよ言葉は争いの元ですね。
    あえて言葉と心の法則を探求したいのでないなら、雑多な人が宗教を言葉で論じるところに近づかないほうがいいかとは思います。

    あなたはある人に夢を見て、それを通じてその人は多くの人に微妙に害を与えました。
    厄介ですねえ。
    ブッダという例外を除いて他人は苦いということですね。

  • >>No. 12241

    ストーカーに殺された女の子?
    自分がその子だったら性的魅力アピールしないから、殺される可能性は相当減ったと思います。
    それでも自動車にひかれるかもですし、この世は無常です。
    死ぬまでに、、生死を超えなさいと祖師はいいます。

  • いいひとぶったら、非難が来るよ。
    中身が追い付いていても非難が来るよ。
    背伸びしてたら余計非難が来る。

  • 自分を知る。
    人とのかかわりはすべてそのためにある。
    遠回りしながらもブッダを愛する人は必ずその道に還る。

    自分を知る。
    悟りや覚醒が表ならこれはコインの裏だ。

  • >>No. 39899

    パーリ仏典から仏陀が言いたかったことを探求する
    というルールすら独自論理と用語を出すスレ主が守れてない気もするので、その強要も違和感がありますけどね。

    彼の目的は、自身の体験と理論を表明し、自分の教えの犠牲者を作ることで他人と何より自分をだまし、ありのままの自分から逃げようとした。後は彼がかつて親しんでいた大乗仏教に対する復讐でしょうか。
    対等に公平に話してるところを見たことないですし、そういうことをする風でないですから。
    内容と振る舞いのかい離は結構です。
    また、自分がブッダでないのに学ぶより教える気持ちがはやってるのがへんなのですが、この業界初心者を脱出すると直ぐ教える側に落ちてしまうというか、初心者の時の方がましというのがよくよく。というのも知識は増えましたが土台は一切変わってないので。
    株の話でも普通に話を振ったら責められたと勘違いしてなんか激昂してました。

    それに騙される人はいいとして、そうでない人は違和感ばかり感じてしまって目立つのですよね。自然とアンチが集まります。 だまされる人は騙す人よりある意味まともですし、別れるまでかき乱されることも少なく、実害も少ないのではないでしょうか。
    自分にとっても、自分が親しんだ言葉をある程度うまく使ってるので、実際の行動とのギャップに戸惑いました。この点、親しんでない人にとってはかなりどうでもいいことになりそうですね。
    宗教のようなものを巡る情景では、よく見る光景がそこにあったと思います。

  • >>No. 39898

    「非難」
    何とか助けてやりたいとか、自分も何か強制された気になって気になるとか、そうやってそういう人たちを変えようとしてしまうことでした。

    少なくとも宗教というカテゴリでは、僕の方がこれは重傷のようです。
    どの分野でも自分がおかしいと思う人の行動があってそれをどうにかしようと思わないでいられるとしたら素晴らしいことかと思います。
    どうにかできることはもちろんするのですけど、「どうにかしたいと思わない」というような塩梅です。
    特殊な現象ではなくありふれた現象なので、目の前の物事に干渉してわずかに変えられたとしても同じことが無数に置き続けているというようなイメージになります。

    覚醒者の指摘、法脈
    ブッダたちの言葉は積み上げつつも最終的には本来取り去るようにできているのですが、弟子は慣れてしまって積み上げるばかりになることがあり、その場合は彼らは別のことを言い始めめて取り去りにかかると聞きます。。
    生きた法脈というのは、それらの経典の使い方がわかってる弟子の理解が相伝されて今でも生きているという意味になります。失うために使える弟子がいるということになります。

    はい。
    土台が少しずつ変わるということになります。

  • >>No. 11896

    何が正しいと言った立場にも立たずに、仏陀の本当に言いたかったことを考えていきたいと思っています。

    と書いてるので、「いいたかったことをどの形式で追及してもいい」とも取れ、基本ルールにはそっています。
    「仏陀自身の言葉から仏陀の真意を直接紐解く」
    なら改めて提示したり、トップページを書き換えられるならそれはそれでよかったのですけど。
    正にその範疇で話題も振ったのでそれだけに答えるということもできるわけですし。
    そういうことならそういうことでいいかもですね。

    今までの投稿を全部その形式に直すことも不可能ではないですが、それは大変なので、これから投稿するならあくまでブッダ本人の言葉から広げる形を重視します。

    「何が正しいと言った立場にも立たずに」
    という言葉を合わせて彼の私への言及を見るとなかなか。
    では、別の場所で。

    ただ、ブッダの言葉の一部だけ抜き取り、他の部分の話題は拒否。
    そしてその一部の言葉を無量性という言葉と自身の体験で展開する。
    というのがありなら、結構範囲は広いわけで。

    対等な付き合いができる、公平に物事を見る。
    ということができてるかどうかはチェックです。

  • わたしがいてあなたがいる認識は、何かの対立があるかもしれない。
    また、あなたがいなければわたしは存在できるだろうか。
    みな兄弟のようにいけばよいのですが。

    事は今一番気になってる人との関係ではなく、そういった関係全てかもしれないですね。

  • >>No. 11960

    ここのやり取りで自分が学んだことを書かせていただいてるのが多いです。
    人のためではなく自分が学ぶための自分にとってのギリギリですので、ピンとくる方があればよし、そうでないなら景色のように通り過ぎてください。
    それでも、居座れば邪魔になるというのはありますね。すいません。

    レスの方はもう少しましなはずですですが、同一の問題がありそうですいません。

  • >>No. 11864

    同じような覚者のさらに同じような言葉を愛好しつつも、
    その言葉を「どのタイミングで何に対して提示するか」で、その人の中身だったり動機だったり、その言葉のもたらす効果が自分の意図と違った場合は、私は全く別の意見として取り扱います。
    mame_maruhaさんとは表面的なロジックでしばしば一致はするのですが、ここまで意図が違うのは新鮮でした。(自分は究極的な言明の理解の証明には、段階的な嘘を自由に使えることでしか証明できないという立場なので、一つの階層での一致ですが)
    自分はいまだに言葉が同じなら意図も同じなのだと期待しているのだと学びました。

    逆に、愛する覚者やその表面的なロジックに違いがあっても、それを提示するタイミングや意図が合ってれば同じ道を歩んでいると思います。

    ニセモノ、について考えていましたが、本物とニセモノの差はしばしば10%か1%でその微妙な、だが深遠で根本的な違いがすべてを台無しにしてしまうのですが、逆に全否定するとまっとうな9割ごと否定してしまうとは思います。明らかに露骨な例もありますけど。

    自分のことすらわからないわたし達ですが、だからこそ人を参考にする必要もあるかと思います。
    その時は、その人の一部ではなく全体を見て、言葉だけではなくふるまいを見て、多分でついてゆくのがいいのではないかと思います。
    無数の側面の声明があるはずで丸ごと受け入れることが大事かと思います。一部だけを自分の都合のいいようにつかわないことですね。
    そうでないと、相手がブッダでも間違って理解してしまいます。
    それは、ブッダでない人間をただしく理解することより悪いことかもしれません。

    さて、「人の宗教的な、社会的な思い込みをなくすのだ」と24時間囁く何かが私にあるのですが、他人に干渉したい、何とか分かり合いたい、という心は本当にに強いものだと感心します。
    不自由にも自動で世界と対立していては世話ありません。
    人に一切反対しない、そして人に一切同意しない。
    その自由を基底として同調と対立を自在に生きた先達に礼拝します。

  • >>No. 11792

    私はその人の本もほとんど読んでいます。

    わたしは、ゴータマを「読めて」ないことを自覚していますし、クリシュナムルティを「読めて」ないことを自覚していますし、OSHOを「読めて」いないことも自覚しています。

    ゴータマを「読めて」いたら自分も一人のブッダですし、その読めていないこと、自分の無知をを自覚できていたらその他も同じく読めていないかもしれないと思うのが自然ではないでしょうか。
    わたしは理解してないと自覚できる人には成長の機会があると思いますが、自分は知ってると思うと、無明の闇を深めるだけかもしれません。

  • ゴータマは私の思う中で最もブッダだと思われる存在です。
    OSHOはおそらく偽物です。

    ブッダならぬ身ならこうは言える。

    確実になにかがそうだと何か言えるのは、ブッダと、逆に未熟な思考のみではないか。
    相手を根っこから否定するときは根拠を添えてそうではないのかというのが普通。
    なぜ普通でなかったか。

    何を信じるかではなく、単に振る舞いがその人を現わすかもしれません。

  • >>No. 11792

    クリシュナムルティに関しては、『思考は記憶の反応である』という言葉、これは十二縁起を解明するときにも役に立ちました。

    そして、「その思考があなたそのものだ。あなたはそれ以外の何かではない」
    ということで彼のメッセージは完成します。

    これは究極のスートラの一つであるといわれ、急に取り組むには難解すぎましょう。
    私は私がこれを理解できていないということを知っています。

    ではでは。

  • >>No. 11792

    畢竟あなたに振った話の中核は、ゴータマが言うところの、形への執着、体、5感への執着、そこでした。
    ここに執着してる現状からは、この延長上の在り方しかできないと思いますので。

  • なんにせよ。
    受け入れて補足するのではなく、拒絶をしたのかな。

    相手の経験を受け入れるところからしか、対話も、まして教えることも発生しません。
    拒絶がふりであり、私の経験を理解していることを彼のために祈ります。
    自分の経験からくる共感性のないラベル張りはこの道ではいいことではありません。

    これはショーシャンクさんのことではないですが、ある意味表面的な参照する対象の嗜好が一番一致してるのに、中身は真逆みたいな見事な経験をここでできたので、表面上の言葉と中身は本当に関係ないなあとはつくづく。
    言葉とではなく人とつきあうと混乱が少なくていいですね。
    言葉は人の数だけ意味がありますから。

  • >>No. 11792

    レッテルを張って逃げるのも結構ですが、特にOSHOの傾倒を表明して、結論から押しつけた覚えもなく、
    だれが言ったから正しいということではなく純粋な方便、ロジック、経験であなたの言葉に私の言葉で語り、流儀にならってブッダの言葉から主に話題を振りました。

    あなたなりの判断基準で、ただ私自身が語っていることをすべてある方向に色塗りして否定しているというのは分かっていました。
    厳格な礼儀作法に従わなかったからかと思いましたが、そのポイントで私を見ることを拒絶しましたか。
    仮にOSHOが偽物でも何の問題もありません。
    彼が本物でないと成立しない類の語り方を私はしていないのです。

    仏教の経典と親和性がある内容で私の発言の9割はカバーでき、20世紀の覚者を持ち出すのは現代からの橋渡しとして使っただけです。主張の上部、核心、ではなく、下部の補足として使ってるだけですしね。
    ゴータマ、慧能、馬祖、禅を構成する半身の道教の老子。
    参照資料を全部そういったものだけにすることもできます。
    内容は変わらないのですけどね。

  • >>No. 11790

    本当に危険なのは人の心そのもので、どんな教えも言葉上の約束と実態が乖離したものにならざるを得ないのかもしれません。それはそうなるものなのですよね。
    宗教が悪いのではなく、人は何かを必要としてるので宗教は対象であり媒介に過ぎないとも思います。
    だから、非難されることではないのかもしれません。

    覚醒者の指摘、生きた弟子たちの方脈、個々人の自分の欺瞞という地獄に対峙する勇気、それがあるところにだけ道はあります。
    危険だと思ってるあなたには、危険は少ないとは思います。

    それ以外にも変に力を入れると心の問題は危険だらけですが、無理なくリラックスを探求していけば、無理のない変容が見いだされる事とは思います。

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