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投稿コメント一覧 (1957コメント)

  • >>No. 21359

    キティダニエルさん、こんばんは。

    「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
    娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす…」
    で始まる平家物語の冒頭は、全てのものは、
    一定ではないという諸行無常の思想を表しています。

    同様のことは
    「ゆく川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
    よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて
    久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、
    またかくの如し。」と方丈記で鴨長明は、書き表しました。

    秩序あるものは必ず、秩序が乱れる方向に動く。
    宇宙の大原則、エントロピー増大の法則です。

    この世界において、もっとも秩序あるものは生命体です。
    生命体にもエントロピー増大の法則が容赦なく襲いかかり、
    常に、酸化、変性、老廃物が発生します。

    これを絶え間なく排除しなければ、新しい秩序を
    作り出すことができません。

    そのために絶えず、自らを分解しつつ、同時に
    再構築するという危ういバランスと流れが必要になります。
    これが生きていること、つまり動的平衡ということです。

    “生命は機械ではない、生命は流れだ”
    (シェーンハイマー DYNAMIC STATE(動的平衡))

    これは、「ホメオスタシス」である「コナトゥス」と
    言えると思います。

  • >>No. 21354

    キティダニエルさん、こんばんは。

    >なんとなくヒンズー教のバラモンが仏教を
    批判しているような言い方のような気がしました

    ヒンズー教と言えば、カルマ(因果の法則)ですが、
    カルマは善き行ないを 推奨し、悪しき行ないを
    避けさせるのと同時に、人に降りかかる幸運や悪運
    すべての説明となっています。

    そして、カルマの法則は、 すべての苦難は受けるのが
    当然だということになるものです。

    スピノザは、こうした道徳的な善悪ではなく生命力から
    見ると生命を維持するのに役立つのは善で、
    そうでないのが悪だという事です。

  • >>No. 21354

    キティダニエルさん、こんばんは。

    スピノザの存在者に内在してそのものを
    動かす原動力,傾向の「コナトゥス」。
    意志や衝動など,存在を保とう維持しようとする力ですが
    これって、「動的平衡」であり「オートポイエーシス」
    「ホメオスタシス」の別名なのだと思います。

    「動的平衡」とは、外見上静的に見えるが,
    実際は動的状態にあると考えるもの。
    化学反応の平衡のみならず他の一般的な熱平衡,
    濃度平衡,不均一系平衡にも適用されます。

    まあ、生物を構成する分子はスクラップアンドビルド
    日々入れ替わってます。
    私たちは「私たちが食べたもの」にすぎない。
    すべての生物は分子の「流れ」の中の「淀み」のようなものです。

    「オートポイエーシス」は、ギリシャ語で自己製作を
    意味しますが、 システムにとっては自己維持のみがその機能です。
    それは、境界を自ら作り出すことにより、
    その都度自己を制作するという考えです。

    神経システムは、感覚器表面において絶え間なく
    環境世界からの刺激を受けますが、神経システムの作動で
    行われることは、神経システムの構成素を再産出するだけであり
    システムはそれ自体の同一性を維持するよう、
    自己内作動を反復するだけです。

    つまり、「ホメオスタシス」である「コナトゥス」は、
    生命が、エントロピーの増大の法則に逆らうように、
    エントロピーの低い状態を維持するような「ネゲントロピー」
    なのだと言えますし、人の「欲望」というものも生命を維持
    するために備わっているだけで善悪の倫理観や宗教観とは別物だと
    したスピノザってやはり凄いなあと思いました。

  • >>No. 21351

    キティダニエルさん、こんばんは。

    100分de名著 スピノザ“エチカ” 
    第2回「本質」を漸く見ることが出来ました。

    古代ギリシャでは 本質っていうのは
    「エイドス」って呼ばれ「形」って意味なんですけど
    しかし、スピノザは、本質をコナトゥス「力」とみることで
    人間もそうした視点でとらえたとのことでした。

    あらかじめ固定された「形」ではなく、
    それぞれの環境で独自にのばしうる「力」
    として本質をとらえるスピノザは、欲望についても
    論理的で独特でした。

    人はさまざまな刺激を受けながら
    さまざまな状態に置かれますが、その一つ一つの
    状態が 「変状」で人は それぞれの状態に応じて
    異なる「欲望」を持つのも人間の本質なのだと。

    これまで、基本的に 欲望というのは
    否定的に捉えられてたわけですね。

    理性 対 欲望

    というのがごく普通の考え方で
    欲望と理性の闘いがあってっていうのは
    よく書いてあることなんですよね。

    それに対して スピノザは欲望を
    全然 否定的に見てないとのことでした。

    欲望を悪いもの無欲・禁欲 宗教みたいなことにおいては
    そういうイメージですけどそうじゃないとのこと。

    スピノザは、欲望というのは とにかく
    僕らを動かしてる力であって
    コナトゥスを根源としてるから
    それはもうなくすもなにもない。
    それに基づいて 動いてるんだから。
    欲望自体が善いとか悪いのじゃないものだとのことでした。

    仏教では、苦しみの根源は、「無明の闇」という心だと、
    釈尊は教えられました。

    そして、十二因縁では、すべての苦は、無明を原因とする
    「煩悩」から発生し、智慧によって無明を破ることにより
    消滅すると説きました。

    スピノザは、人間を「力」と見て欲望も中立的だったのに
    対して仏教では、我への執着の無明が苦しみの原因だと
    欲望に否定的だったのですから仕方ないですね。

  • お疲れさま(*^-^)ノです。

    そそうですね。そもそも視点が違うので
    仏教とは対極なんだと思います。

  • >>No. 21347

    キティダニエルさん、こんばんは。

    エチカの放送開始まで、もう少しですね。
    それにしても、第一回の「100分de名著」の番組内で
    國分功一郎先生が説明しているときに
    安部みちこアナウンサーが、しきりに伊集院さんに
    「この先生は一体何を言ってるの?」というような
    助けを求めるような不安げな眼差しを送っていたのが
    印象的でした。

    伊淳院さんも、負けてはならじと踏ん張って先生と
    応対していたのが、さすがだなあと思いました。

    今晩も楽しみですね。

  • >>No. 21347

    キティダニエルさん、お疲れ様です。

    スピノザ楽しみですね。
    今日は、とても寒いのですが冬晴れの清々しい朝となりました。
    また仕事ですが一週間頑張っていきたいです。

  • >>No. 21345

    負けました~( ノД`)シクシク…

    仕方ないですね。
    それでも準優勝だから頑張ったね。
    ベガルタ仙台。

  • >>No. 21344

    いよいよ天皇杯 決勝です。

    浦和レッズ 1-0ベガルタ仙台
    前半36分 ベガルタ負けています
    ヽ(´w`)ノ (´口`)

    応援では、浦和に負けていないのにガッカリ。
    ( ´Д`)=3

  • >>No. 21343

    無縁仏三郎さん、おはようございます。

    そうですね。「ロゴス中心主義」は「地獄への道は善意で舗装されている。」
    といった感じですね。

    イギリスの諺だそうですが、よかれと思って行ったことが悲劇的な結果を
    招いてしまう、あるいは悲惨な出来事が皮肉にも善意の行いが発端と
    なっていることをいうそうです。

    大変難しいことですね。

    それから、今日、12月9日は「漱石忌」です。
    文豪の夏目漱石は、1916年12月9日『明暗』執筆中に
    49歳で亡くなったとのことです。今からすると早かったなあと。
    晩年は胃潰瘍に悩まされ伊豆の修善寺などで療養していたといいます。

    私はすでに55歳、漱石をはるかに超えてしまったことを思うと
    自分の日ごろの生活を反省したいと思います。

  • >>No. 21340

    キティダニエルさん、おはようございます。

    私の解釈が妥当かはわかりませんが、いろいろ考えながら
    書き込みはしているところです。

    エチカは難しいですね。

    でも、読む価値はあると思います。

    神や阿弥陀仏は、人間から何かの行為、善行、
    祈祷や念仏やによって天国や極楽の恵みを
    与えるものではなく、
    全く一方的な選択による恩寵なのだと思います。

  • >>No. 21337

    無縁仏三郎さん、おはようございます。

    >おれやおまえが大嫌いな共産主義者とキリスト教徒

    構造主義によって批判された近代の自立的な「理性的主体」
    と日常世界の背後に絶対的な真理が隠されており、
    それは言葉(ロゴス)によってとらえることができるという
    「ロゴス中心主義」。

    両者は、とても崇高なところから発しているのでしょうが
    それにしても理想とは何なのでしょう。
    両者によって犠牲になった数多の人々を思うとき
    人間の弱さを思います。

  • >>No. 21331

    キティダニエルさん、こんばんは。

    デカルトは、神がいて、その神が人間に「生得観念」
    としての理性を与えたことによって数学のように
    思考と存在は一致し真理を得られると考えました。

    そして、デカルトは、精神が実体、物質が実体と
    2つの実体を出してきますが・・・

    物(身体)は延長の広がりを本質とし、
    心(精神)は思考を本質とする二つの実体が
    並び立つと考え「心身二元論」を
    唱えたことは、周知のことですね。

    対して、スピノザは、唯一「実体は、神だけ」
    であり、心も身体も、精神も物質も、その神の属性、
    性質、様態と考えて「心身平行論」を唱えました。

    それは、因果的に一方が他方に影響するのではない
    とする立場で、物はあくまで他の物とのみ,
    心は他の心とのみ因果連関をなし,両系列の間には
    相互作用はありません。

    つまり、神を原因として同時に平行して
    起こった現象になりますから人間には
    自由意志はないことになります。

    そして、すべては神の必然性の一部として
    起きたのであるから、すべてを肯定するしかない。

    すべてを肯定し、赦すことができたとき、
    人は神を愛すことになり、また、神からも
    愛されハッピー♪ハッピー(^^♪となるのです。

    現実肯定は、永劫回帰で超人思想のニーチェに
    通じますが、エチカは、幸福論とも言えますね。

  • こんにちは。

    岩波文庫のエチカの中では「努力」と
    訳されています。
    直接コナトゥスとは記載されてないので
    わかりにくいと思います。

  • >>No. 21320

    続きですが・・・

    無限で完全な存在という神の観念は、
    有限で不完全な存在である人間から生じたのではない。

    この観念は、完全な存在である神自身によって、
    不完全な存在であるわれわれ人間に
    生まれつき与えられた「生得観念」なのである。

    しかも、神が人間を欺くことはありえない。
    つまり、神が存在するから神の観念が生まれるのだと。

    まとめてみるとこんな感じでしょうか。

  • >>No. 21317

    aszさん、こんばんは。

    >なんと、ぬけぬけと「神への信頼」を持ち出すのだ! 

    まあ、デカルトは、中世の哲学と決別するために、
    つまり近代哲学を打ち立てるために神の存在を
    証明しようとしたのです。

    当時は、「信仰」によって真理に到達することができる
    とするスコラ哲学の見方がいわゆる正統的なもので
    デカルトの見方はこれを根本的に否定したのです。

    デカルトが疑う理由は、私は有限だからであり
    なぜ私は自分が有限であることに気づいたのかといえば
    無限なものと自分を比べることによってであり
    ここから無限は存在する。

    デカルトは、有限なものの有限性を否定して
    想像されたものは無限ではない。
    それはたんに不確定で不明瞭な無限界indefinite
    なのだと。

    ではデカルト的に無限とは何か? 
    無限とは有限性の自覚と知性の無際限な自己超越を
    同時に可能にする何かである。

    通常考える無限とは「有限ではないもの」という程度で
    デカルトとは違います。

    多くの哲学者や数学者は、無限を有限の否定としてだけ
    捉えているのです。

    神は完全(無限)であり、人間は不完全(有限)。

    そして、不完全な人間は、完全な神の観念をもっている。
    不完全なものは、完全なものに由来するのでなければならない。
    したがって神が存在する。

    ところで人間のもつ観念は神に由来する。

    神が人間を欺くことはありえない。
    したがって人間の観念は確実に真なことになる。
    こういった神は仕方なく存在するものと位置づけられています。

    今から見たらクエスチョンでも当時は
    かなり過激だったと思われます。

  • >>No. 21318

    スピノザのコナトゥスによる力というと、
    私は密教のマンダラに思い至ります。

    マンダラとは、あのユングの集合的無意識ですが、
    人がこころが安定していくとマンダラのようなものを
    描く性質があるという事です。

    そこには見る者を引きつけてやまない生命力
    あふれる描写と心安らぐ秩序があります。

    言葉や論理ではなくて、感性にいきなり
    迫ってくるような、そういう力をマンダラが持ってる。

    さらに、男女の愛欲さえも悟りへの原動力
    となることを示しています。

    このマンダラは、ひとの欲望を肯定する生きる力
    嬉しい楽しいのホメオスタシスへの力が修業者に
    平安をもたらすからなのかなと思います。

  • >>No. 21314

    キティダニエルさん、こんばんは。

    私も先程、オンデマンドで見ました。

    >小生にはポストモダンが(デリダでしたっけね)
    ロゴス中心主義を批判しながら、
    なぜロゴスの権化のようなスピノザを
    もてはやすのかがよくわかりません。

    ここで、ロゴス中心主義というのは、遠くはギリシアからの
    哲学の伝統ですが。ポストモダンが批判したのは近代的個人の
    自由、正義、平等といった言葉の価値に基づくユートピアが、
    20世紀に入りファッシズムやマルクス主義等のジェノサイドを
    生み出した悲劇を批判するところから始まりました。

    まず、ポストモダンは、確かにロゴス中心主義を批判し
    スピノザは、構造主義と似ていて主体はコナトゥスあるいは
    ホメオスタシスの様々な力の組み合わせが全体で決定された
    属性によるとしています。

    ユートピアを目指す運動の近代的な個人は、構造主義から見れば
    様々な伝統や文化、社会情勢などが社会的関係の構造によって
    規定された幻想でしかないと見ていました。

    ただ、構造主義は、歴史の変化を説明できない静的な問題点があり
    それを乗り越えようとポストモダンの論客が隆盛だったわけです。

    こうした構造主義の弱点をニーチェやスピノザの「力」を
    武器にして克服できるとポストモダンは考え、特にスピノザは
    コナトゥスによる無数の力能が、生態学的な身体にとって
    良い悪いの基準に沿って集合離散を繰り返す全体として動的な
    世界を描けるようになったためスピノザはポストモダンに
    人気だったのだと思います。

  • >>No. 21308

    キティダニエルさん、こんばんは。

    >サルトルの自由論はスピノザとはまさに対照的ですね。
    サルトルは現象学的内省から意識の本質が自由であると説き、
    一切の決定論を否定しました。
    それに対しスピノザは自由は必然性への認識であると説きます。

    そうですね。サルトルにとって自由とは
    人間への刑罰(自由の刑に処せられている)
    人間は、自分自身で考え、行動、選択出来る自由がある反面、
    生まれ落ちての絶対的な役目など最初から無く、
    それには、自己が選択するしかないため全部自己責任となる。
    何を選んだらいいのか分からない選択の刑とも言えるもので
    実存は本質に先立つですね。

    対してスピノザは、偶然や人間の自由を否定し、
    自分が自由だと思うのは、自己の意志や衝動は意識するけど、
    その原因の神が全て必然なのに人間の認識が欠如しているから。
    つまり、無知による勘違いなのであり人間には自由など無い
    という事です。

    人の生き方、信仰の問題等、見方を変えると
    自由の意味が変わってしまうのも面白いです。

    まあ、マクロ的に見たらスピノザになって
    ミクロというか個々人の立場から見たらサルトルになる
    全体的には必然的であっても個人意識からは自由だ
    という事でしょうか。

  • >>No. 21306

    >ただ講師の國分先生はかなり独自の視点で
    読んでおられる印象ですね。

    まあ、その辺が、新たな知の楽しみともなっていると感じました。

    スピノザは、人間の感情には 欲望、 喜び、 悲しみだけであり
    欲望とは自己保存の衝動の意識、自己の維持に有益なものを
    求めようとする努力「コナトゥス」あるいは「ホメオスタシス」
    であって欲望は人間の行動へ駆る動因と見ていました。

    つまり、この自己の維持に有益なものが「善」であり
    有害なものが「悪」なのだというところです。

    そして、結局、神への認識と愛が「善」なのであり
    『 エチカ』の究極の目的でもあったようです。

    なので、スピノザは、通常の善悪ではない生物学的な視点から
    善悪を見ていたような感じで、人間の幸福も生命維持と拡充から
    探究されていたことは、とても興味深いと思います。

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