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投稿コメント一覧 (1899コメント)

  • >>No. 21160

    Camelliaさん、こんばんは。

    100分de名著 モンゴメリ“赤毛のアン” 
    第3回 ひたむきさが運命を変えるは、
    御覧になられましたか。

    茂木先生は、アンを今で言うと乃木坂46
    でありませんが「インフルエンサー」だ
    と言っています。
    それは、社会に対して大きな影響力を
    持つ人物なのだと。

    そして、アンは ギルバートを実は
    好きだったのに素直になれない気持ち。

    自分に自信が持てない人が その
    自分のことを好きだって言われても
    自分が好きじゃないんだから難しい。

    ここまでなってるのに両思いにならないのは
    コンプレックスの強さなのであり、
    だから 愛を簡単に受け入れることが
    できないっていうところもあるということでした。

    でも、次回最終回では、そんな二人に
    奇跡が起こるというものです。

    なんて、面白いのかなと思います。

  • >>No. 21160

    Camelliaさん、お疲れ様です。

    今日、10月17日は「カラオケ文化の日」なのだそうです。
    昔は、よくスナックなんかで歌ってましたが
    最近は、歌うことはしてないですね。

    一時期は、自宅にもそんな機械があったような
    でも、震災後、どこへ行ったか分かりません。

    なにか楽しいことを自分から見つけていくようにしたいです。

  • >>No. 21158

    Camelliaさん、こんばんは。

    ダイブ肌寒くなりましたが今夜は
    二階の自室でティシャツに短パンで過ごしています。

    シェリングの哲学において、精神と自然は
    どちらも絶対者(神)から展開したものでした。

    そして、絶対者には質の差がないため、
    そこから展開した精神と自然にも質の違いはなく、
    両者を分けるのはただ量の違いなのでした。

    シェリングは、絶対者と有限者(精神と自然)が
    質的に違わず、量的な違いがあるだけだと言っている。
    しかし、実際には、無限なる絶対者が有限者から
    超越していると考えている。

    そうすると、絶対者は、有限者とは別の対立した存在
    だということになります。

    つまり、絶対者は、有限者という対立者を
    持っていることになり、
    無限者でも絶対者ではなくなってしまうと
    ヘーゲルは批判したのでした。

    ヘーゲルが考える絶対者とは、
    すべてを自己のうちに含み込み、
    他者のもとにあって自己であるような無限「真無限」です。

    変化する有限者(歴史)を内に含みながら、
    自らは、変化しないで自己同一性を保つのが
    絶対者だということでした。

    ヘーゲルは、シェリングの絶対者を
    「全ての牛を黒く塗りつぶす闇夜」と呼び、
    シェリングの方法は「ピストルから発射されでもしたかのように、
    直接的に、いきなり絶対知から始め」るものだと批判しました。

  • >>No. 21157

    ごめんなさい。

    また、またしつこくマルクス・ガブリエル先生
    の話なんですけど、カントから始まるドイツ観念論
    特に、物自体と認識論的主観主義とに格闘した
    シェリングを理解する上でフィヒテはさけて通れません。

    カントは「自我」を認識の根拠とする過程で、
    物自体は「自我」の外にあるものとして考えました。

    しかし、フィヒテは、物自体も「自我」の内にある、
    いわゆる一元論を、考えたのです。

    物自体とは、精神も物体もふくめた世界にある
    あらゆるものです。

    フィヒテは、世界のあらゆるものも、
    自我が作ったものであると考えたのです。
    「自我」が絶対的なものであるということです。
    フィヒテは障害を「非我」と名付けます。

    フィヒテは自我を、障害=非我を乗り越えて、
    絶対我へ向おうとするものだと考えたのです。

    つまり自我と非我を対立するものだと考えました。

    シェリングは、絶対我という完璧な自我の世界がある
    のならば、非我に邪魔されるというのは
    おかしいということです。

    そして、そのような完璧な自我があるならば、
    もはやそれは「自我」と呼べるようなものではなく、
    絶対者になってしまうということです。

    そこでシェリングは、フィヒテが非我とする自然を、
    自我から独立して考えることをから始めます。
    そして、自然と精神の根底には同一する絶対者
    の存在があると考えました。

    自然と精神の根底に同一の絶対者を想定することで、
    「自我」における自然と精神の同一性を説明したのです。
    マルクス・ガブリエル先生は、この自我から独立している
    自然と言うものをポストモダン以後の自己のパースペクティヴ
    の相対主義をも取り込んでシェリングに習い
    新たな実在論を見出したのかなと思います。

  • >>No. 21155

    さて、マルクス・ガブリエル先生の言う
    「世界が存在しない」とはどういうことでしょう。

    世界とはバーチャルなすべて虚構のまやかしだ
    といっているのではありません。

    実際、私は存在しているけど、各領域での世界は
    かならず「どこかの領域の中で存在」していて
    世の中の全ての領域を包んでいる客観的なものなど
    無いからです。

    また、“存在する”という定義は、
    どこかの領域内、なんらかの意味の場に現れることです。

    つまり、すべての領域を包括する『世界』というものは、
    その中にすべてを含んでいないといけないので、
    それより外のどこかの領域に存在していてはダメなのです。

    『世界』とは、全てのことなので外に何かがあったり
    内部に欠落や共有から漏れるものがあると、それはもう全て
    ではないので『世界』ではないことになります。

    現実には、人は、意味のある全ての領域を
    包括しているものではないので
    「世界は存在しない」ということになります。

    そして、彼は、全ての現象を自然科学のみで説明
    しようとする「自然主義」には反対なのだそうで
    現実には科学の数式で説明できる現象は、
    世界の一部に過ぎないものですから、そこからも
    「世界が存在しない」ことに成る訳なんですね。

  • >>No. 21153

    Camelliaさん、こんばんは。

    山中湖ですか、いい日曜日でしたね。

    私は、雑事に追われてこれといったこともなく
    平凡な日曜日でしたが、唯一マルクス・ガブリエル著の
    「なぜ世界は存在しないのか」をヤマト屋書店石巻蛇田店で
    見つけて購入したことです。

    いつもいく石巻の金港堂書店には100分de名著の
    赤毛のアンが無かったので立ち入ったのでした。
    http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195628

    まさに、ポストモダン以後の新たな視点を提供していて
    それは、本質主義vs.相対主義に代わる第三の道です。

    基本的には、現象学的パースペクティブに拠っているので
    構造主義より新種の現象学かなと思いました。
    本質主義vs.相対主義というのは、ポストモダンの前後と言えます。

    それは、物を、別の場所からAさんとBさんが見ているとする。
    実在論の本質主義によれば、物「自体」が唯一の実在であり、
    AとBはそれを異なる見方で見ているが、
    「Aのパースペクティヴにおける物」と
    「Bのパースペクティヴにおける物」は、
    たんなる見方にすぎず、実在的ではない。

    自然科学によれば、物の実在は物質的・数理的に説明されるべき
    ものであり、そしてその説明だけが真である。

    相対主義によれば、我々はつねに何らかのパースペクティヴから
    見た物の見方しか知ることができない。

    「Aのパースペクティヴにおける物」と
    「Bのパースペクティヴにおける物」が
    それぞれにあるだけだ。

    そしてそれはどちらも「主観的な構築」であり、
    我々に問題にできるのはそれだけである
    実在的な物には、結果的にアクセスできません。

    ガブリエル氏は
    「Aのパースペクティヴにおける物」と
    「Bのパースペクティヴにおける物」が
    あるのは確かなのだが、それは単なる主観的な構築ではなく
    それぞれに実在的なもので、それは、物事の実在は
    そもそも、特定の「意味の場」文脈と切り離せないからです。

    「Aから見る」、「Bから見る」というのが
    「意味の場」の形成であり、物の実在性はそれに依存している。

    では、物「自体」はどうかと言うと、
    物「自体」とは、諸々の実在的なパースペクティヴの交差
    のことなのであり、「意味の場」から完全に孤立しているような
    物「自体」は考えようもないということです。

    このような結論になんるのは、やはり、人間が機械とは違って
    身体を持ち、個々人がそれぞれのパースペクティブから
    見ているからではと思います。

    そして、言葉とは、特定の「意味の場」の「言語ゲーム」であり
    その特定の「意味の場」文脈から切り離せないものだからだ
    と思いました。

    勿論、赤毛のアンのテキストはゲット出来てよかったです。(笑)

  • >>No. 21123

    今日は、曇った18℃でちょっと肌寒い日曜日となりました。

    やはり、10月も中旬ともなると秋も深まり半そで短パンでは
    つらいものになってきました。

    つらいといえば年齢によるものもあるのかな。
    着処寝をしたり昼休みに爆睡など疲れているのかなと思っています。

  • >>No. 21121

    Camelliaさん、ようやく休みになりましたね。

    存在と時間のコミュニティへの参加、如何でしたか。
    人は漠然と世界や真理、神仏のことを考えてしまいがちです。

    でも、自分の視点から捉えなおして別の表現、赤毛のアンのように
    自分だけの名前をつけるようなことをしてみると
    当たり前のことが当たり前でなくなる、サルトルのように
    よそよそしくなったり、新たな発見をするものです。

    ハイデガーが『存在と時間』の中で世界内存在・環境世界の分析において、
    実体としての延長を基にする伝統的存在論、またその存在論に基づいた
    物理的自然という世界観を相対化し、各人の存在様式のパースペクティブに
    即して分節され構成される「豊かな意味の充満した世界」を描き出した
    ことにより、現象学はインパクトのある思想として受け入れられました。

    特に、「決意性」と「歴史性」の関係をより明確に捉えることが必要です。
    そして、真理とは哲学の伝統においては「物自体と認識との合致」を意味します。
    さらに、彼は「開示性」と呼ぶ、真理の根源的な現象を取り出そうとしました。

    ハイデガーによれば、現存在である自分は現在使っている道具をもとに
    次なる行動の可能性を起こし投げかける(企投)。そしてその次の行動も、
    その時に使っているものを基に企投するとします。

    したがって、現存在は「現在使っているもの」環境からの「差し向け」に
    絶えず服しているのである。そしてまた反対に、道具の「指示性」を
    基盤にして「予持」を行うのだから、自分の行動の可能性を「予持」
    している時、現存在は道具とその道具連関を「把持」しているのである。

    ハイデガーは、日常性における現存在である自分が、常に自己の存在を
    道具の方から了解する循環構造を描き出しました。

    道具の方から方向づけられた現存在の自己解釈のアプリオリ的完了態をハイデガ
    ーは「被解釈性」と呼びます。

    死とは生物学的な死ではなく、もはや何も出来ず投げかけられなくなる
    「実存の不可能性」という意味でとらえる必要があります。

    このため何かの「決意」性において、日常的に道具から存在可能性を
    単に規定されていた現存在の自分が、そのように存在可能性が規定される以前の
    未規定な可能性の拡がりに立ち返るという運動が起こる。

    この運動をハイデガーは現存在の本来的な「生起」と呼び、
    このように全体として把握された現存在の存在の意味を「歴史性」
    と呼んだのでした。

    つまり、現存在である自分は、モノや道具からの被解釈性が解体され
    「変われる可能性」があるということです。

    常に決意性を持ち、環境に流されず、日々良き方向へ変われるよう
    継続して努力していく自分になりたいものです。

  • >>No. 21125

    panietzsche さん、御紹介ありがとうございます。

    ポストモダンなき後、これといった現代思想も見当たらない
    ロスト状態になってしまったのですが、自分としては
    現象学と構造主義とが目指していた客観的な厳密学や科学的視点が
    やはり捨てがたく、二つの統合が図れないものかなと思っているところです。

    例えば現象学の本質観取をいかに実践するか。
    個々人の意識からディスカッションを通して共通の本質を明晰にしていく。

    本質観取とは、あくまでもそのコトバに対応する経験の生きた意味を
    捉える作業なので、最初から辞書で調べたりしないで個々人の意識に
    立ち返えってから後のディスカッションとなるべきです。

    本質を探っていく際には、そのコトバをそのコトバたらしめている
    ようなポイントは何か。
    それに共通して当てはまるものは何か。
    似たコトバとの違いはどこにあるのか。
    それと反対のコトバは何だろうか。
    そのコトバをどういうときに、どんな文脈で使うのだろうか。
    そのコトバは何のために使われるのか等様々な視点からいろんな意見を
    出してもらうことが必要になります。

    すると、次第に、本質らしきものが見えてくるはずです。

    ある意味、本質観取とはそのコトバを違うコトバで言い換える作業
    でもあり、結局、多数意見の言葉が問題になってくるのですから
    コードや文脈に依存する構造主義とも当然関係性が出てくるし
    言葉は、ラカンのいうように「他者の欲望」でもあるという含みを持った
    ツールだからです。

    そんなわけで、ほとんどのひとは、自分が何をもとめているかを知らない。
    それを言葉で語れるようになれればいいと思うし、欲望を可能にするものが、
    言葉であるということ。これも、とても大切な前提だと思います。

    つまり、本質かどうかは、その言葉をその言葉足らしめているような
    重要なポイントを押さえられているか、そしてそのポイントが明晰になったことで、
    行動が本質的なものになりうるかという有用性、実用性の観点からも
    評価していくことになります。(プラグマティズム的視点)

    科学的な検証や実験が必要となるわけですね。

    本質とは、最初から何処かにある真理や科学的な事実
    といったものではなく、あくまでも、それぞれ個々人の感じかた
    に応じた言い当ての納得感と行動改善可能性により
    評価されるものなのだというのが現象学なのかなと思います。

  • >>No. 21118

    panietzsche さん、あれっ、お久しぶりです。

    お元気でしたか。
    そう、textreamが終了するということで、
    残念に思っていました。

    15、6年が経ちましたが、あの未来のアトムを
    超えるほどのインパクトのある面白い本が
    なかなか見当たらないのが残念ですけど。

    今でも、あの本の記載の内容、特にフレーム問題と身体論は
    活かせるように思えるので、現代思想の新たな展開を望むものです。

  • >>No. 21114

    100分de名著 モンゴメリ“赤毛のアン” 
    第2回「異なる価値を認め合う」はやはり
    面白かったです。

    学校へ行くとアンにとって最大の
    コンプレックス「赤毛」をからかわれ
    怒りを爆発させます。

    それは 自分の個性を丸ごと愛せない
    いらだちでもありました。

    実は、2歳年上のギルバート氏が
    アンのことが一目で気に入ってしまい
    何とか自分へ気をひこうとして
    意地悪な言葉を放ってしまいます。

    まさか そんなコンプレックスだと
    思わないから 単にウケると思って
    「にんじん にんじん」って
    言ってしまったのでした。

    「好きなのにそっけない態度を取ってしまう」
    気持ちとは正反対の行動を取ってしまう
    この行動は心理学で「反動形成」と言います。

    反動形成とは防衛機制の一つで、自分の本心を
    隠すために本心とは逆の行動を取ってしまう
    ことなのだそうです。

    例えばとても嫌っているのにとても親切にしたり、
    逆に相手に好意を抱いているのに反発したり
    嫌われるような言動を取ってしまったり
    といったことですね。

    自分の気持ちや欲求を素直に表現できない
    満たすことができないときに起きてきます。

    実は「一番仲のいい友達が一番嫌いな人だった」
    なんてこともあるようで面白いですね。

  • >>No. 21109

    Camelliaさん、今日からまた仕事ですが
    頑張っていきましょう。

    この掲示板も行方不明のトピ主さんに代わって
    12月まであと二か月半ほどですけど
    いいものにしていきたいと思っています。


    今夜は、録画していた「赤毛のアン」の第二回目を
    じっくり見てみたいと思っています。
    みんなと全く違う「赤毛」を嫌って行商人に騙されて
    髪を染めてみたらなんと緑色になる話。

    自分も初めて読んでみたとき世の中
    そんなこともあるなと思ったものです。

    かえって元々の赤毛がかけがえのないことに気づくアン。

    短所は長所なのだと思った箇所でした。

  • >>No. 21111

    島原の乱も日本と日本人のためでしたね。

    神の慈愛が凄いので、それを悪く利用する
    南蛮の者どもの陰謀が露見したんですね。

    つまり、中南米のようにキリシタンの教えを説く
    陰謀によって、日本人を奴隷民にして
    日本を植民地にしようとしていたのです。

    これに、豊臣秀吉は「おのれ!」と
    怒ったというのですが、それもそのはず。

    来日したスペイン人がふと漏らしたという言葉。
    キリスト教国が日本征服をたくらんでいたのです。

    激怒した秀吉は 残酷な処置に出ます。
    なんと 外国人宣教師たちを捕らえて
    長崎で 日本人信徒と共に処刑。
    この出来事は「二十六聖人の殉教」として
    ヨーロッパ中に衝撃を与えます。

    そして 江戸時代になると
    キリスト教の信仰は
    一切 認められなくなりました。

    どのみち、神の国、日本に悪だくみする
    南蛮諸国を追い散らし、独立を守ったのは
    あっぱれな政治手腕と言えるでしょう。

    島原の乱によって真のクリスチャンは
    幸福な最期を迎えられたのですし、
    日本の独立も守られ、日本人には、どのみち
    得することばかりでした。

    「沈黙 -サイレンス-」

    すべてが日本国民に益となることでした。

    神のくすしき恵みに感謝です。

    めでたし、めでたし。

  • >>No. 21098

    ああ、私も世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語は
    みましたよ。

    日本キリスト教徒の苦難のはじまりとされる
    「島原・天草一揆」激戦の舞台でしが、近年の発掘調査から、
    原城は農民一揆のとりでという以上に「本格的要塞」だった
    ことも明らかになりましたね。
    島原・天草の悲劇、でも、きっと、今の人たちより
    信仰に燃えていて幸福だったと思います。

    「義のために迫害されている者は幸いです。」

    まさに、その通りだと思います。

  • >>No. 21097

    存在と時間は、極論を言えば、自分のこの身体(現存在)から見た
    存在である神(存在者)への認識のプロセスともいえるものですから
    世界をどのように見ていくかという動的な流れと言えます。
    実存哲学は、そんな自分というところから結び付ける考え
    でもありますね。

  • >>No. 21095

    あっ、すみません。

    >死後?

    ではなくて、仕事でした。
    毎度の変換ミスですみませんでした。

  • >>No. 21090

    Camelliaさん、連休三日間とうとう終わってしまいましたね。

    心配した台風の影響も余りなくて感謝です。
    天気も良くて、そんな陽気に誘われて
    魔が差したのが、一昨日と今日と二日間、パチ店へ走りました。
    ダッシュ!≡≡≡ヘ(*--)ノ. ε=ε=(* ̄ー)ノノ[パチ店]

    本当は、100分de名著の赤毛のアンのテキストが欲しかった
    のですが売り切れで残念です。まあ、kindleで電子ブックが
    あるから仕方ありませんね。
    それにしても、そんなに人気だなんで普段、テキストなんて
    売れ残っているのに( ^ω^)・・・

    パチンコの勝敗は連勝できてよかったのですけど。
    ッ! (^_-)vブイブイッvピースピース♪

    明日から再び死後ですから、誰かにいいことができるように
    頑張っていきたいと思います。

  • >>No. 21080

    Camelliaさん、いよいよ連休三日間の始まりですね。

    こちらのほうには、台風の影響は、それほどでもないようで
    いまは曇っていますが、お昼前には晴れてくるようで
    最高気温も24℃まで行くようです。

    風は夜9時ころから強くなる見込みですが晴れの予報です。
    明日10月7日日曜日も晴れの見込みです。


    なので、有意義な連休にしたと思います。
    それでは、いい休みを‼

  • >>No. 21081

    Camelliaさん、mixiには会員登録をしていないので
    参加できません。

    それから、台風25号は沖縄近海を北上している様子。
    中国・四国から東北にかけては太平洋側を中心に雨となり、
    沿岸部では強い風が吹く見込みです。

    今日の石巻地方は、天気は一日曇り。最高気温は20℃と
    この時期らしい気候になりそうです。

    明日、土曜日も曇りですが夜には星が見れる予報となっています。
    ただ、気温は21℃で風は7m/sと割と強くなる見込みです。

    さあ、花金デー頑張っていきたいと思います。

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