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  • 宋書
    • 3,713
    • 2018/08/15 14:06
    イヤー元書とは、甘かった。宋書と名乗る、悔しいが!
  • get953さんと語ろう!
    • 20,803
    • 2018/08/15 10:31
    YAHOO哲学板の「知の巨人」、get953といろいろ語りましょう。getさん、よろしくお願いします。
  • ARCANE 17
    • 559
    • 2018/08/15 01:23
  • Let'sPensées!
    • 2,324
    • 2018/08/14 18:45
    東哲で長く同タイトルのトピを立てていましたが ストーカーが多いのでこちらに移動しました。 話題は宇宙、芸術、エトセトラ・・・ どうぞよろしく
  • イクストラン君の哲学探求の結晶
    • 566
    • 2018/08/14 14:47
    http://www.eleutheria.com/ イクストラン君を好む人も、嫌う人も、彼の真剣さに心を打たれ、 驚嘆の念を覚えるだろう。
  • 神の家
    • 351
    • 2018/08/14 08:15
    Ⅰペテロ 2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、 神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
  • 機械で心はつくれるか?その2!
    • 4,229
    • 2018/08/13 09:32
    ウデスパーさんがこのトピを立ち上げた頃が哲カテの全盛期やったかな。 心で機械はつくれるが、機械で心はつくれるか? 先月、ディープニューラルネットワークを組み合わせたアルファ碁がプロのトップ棋士を破ったとかなんとか大騒ぎになったので再び立ち上げてみますたが、まぁ、どんなテーマでもええんとちゃうかな。 立ち上げただけで放置することもありえるけど、つくるだけつくってみた。
  • 哲学大図書館
    • 3,095
    • 2018/08/12 15:44
    蔵書目録
  • 中島みゆき は 神である
    • 91
    • 2018/08/11 20:15
    今朝、ラジオで「空と海のあいだ」を聞いていて、そう思った。間違いない。筆者は昔、彼女が卒業した高校に勤務していたことがあるが、帯広市内の産科医院のお嬢さんだそうだ。天理教のパトロンにもなっているらしいので、彼女の世直し的傾向がうかがわれる。神と言っても、インドのカーリー神のような、髪振り乱した破壊の神でもあろう。筆者は今後、彼女の精神を、可能な限り、世に広めることに努めよう・・
  • カント先生について勉強してみる。
    • 2,122
    • 2018/08/11 09:15
    カント先生の思想を、わかるところだけでも理解したいと願い、少しずつでも勉強していけたらなとスレッドたててみました。よろしくお願いします。
  • ☆ 虚数の不思議 ☆
    • 5
    • 2018/08/07 09:33
    ☆ 虚数の不思議 ☆ 井出 薫  虚数は不思議だ。2乗して-1になる数など存在しないと初めは誰もが考えた。だが、今では、それは数学にはなくてはならない存在となっている。  虚数の存在は二次元上の半径1の円を考えると理解がしやすい。1に-1を掛けると-1、もう一度-1を掛けると1に戻る。-1*-1=1。これを半径1の円周上で180度の回転を二度続けて行なうと考えることができる。だとすると二乗して-1になる数を考えることは難しくない。円周上で90度回転させた数が-1の平方根と考えることができる。なぜなら、この操作を二度続けて行なうと180度の回転になり、それは1の対称的な位置にある-1になるからだ。  こうして虚数iが導入された。実数を横軸、虚数を縦軸と考えることで、二次元平面上で複素数の世界が展開する。  数を実数から複素数に拡大することで、数学の世界は飛躍的に拡大して、数学理論の内部だけではなく、様々な領域で数学の応用が広がった。電磁気学などで欠かせない道具である等角写像の手法などは実数の世界では展開できない。不確定性原理と、独立な状態の重ねあわせを基礎原理とする量子論は、その基礎からして複素数の世界になる。なぜなら、不確定性原理で表現される相補的な物理量(たとえば運動量pと位置x)が重ねあわされた量子状態は、1次元的な実数の世界では表現不可能だからだ。つまり量子論は複素数の世界でのみ展開可能で、複素数がなければ量子論を体系化することはできなかった。  ところで、これまでの説明を聞くと、複素数の世界は二次元のベクトル空間と同じではないかと感じる人がいるかもしれない。だが両者は違う。二次元のベクトル空間ではX軸とY軸は同等な存在であるが、虚数軸と実数軸は異質な性質を持つからだ。それはiの2乗が-1であり、1の2乗が1であることからも容易に想像できるだろう。複素数を表現する二次元のモデルはベクトル空間ではない。  虚数と実数を二次元で表現できることから、さらに、実数1でも、虚数iでもなく、第3の数(超数?)jが存在するのではないか、そういう数を導入することで、複素数が数学を拡大したように、さらに数学を強化できるのではないか、こう考える人がいるかもしれない。  だが、そういう数を導入することはできない。そういう数は実数と虚数の和で表現される複素数に還元されることが分かっている。複素数以上に数を拡大することはできないのだ。「虚実」という言葉はあるが、「虚実〇」の〇を埋める適当な文字がないように、第3の数はない。  私たちが暮らす空間は、(超弦理論など最新の物理理論ではいざ知らず)普通三次元だと思われている。ところが、私たちの思考の基礎的枠組みの重要な一部である数学では、二次元的な世界が数の世界になる。人間の脳は三次元の世界を二次元に変換して理解していると言われているが、もしかすると数の世界が二次元以上に拡張できないのは人間の脳の構造や機能と関連しているのかもしれない。虚数はやはり謎に満ちている。 (H19/3/18記)
  • 宇宙人は
    • 16
    • 2018/08/05 11:12
    絶対いない
  • カトリシズムと哲学とのリベラルなる交流
    • 2,916
    • 2018/07/17 23:05
    正式トピ名 カトリシズムならび諸宗教と哲学とのリベラルなる交流luke vsop氏との108協定により本トピは開設されるトピ主 kittydanielx支配人・管理人 luke vsop2008 108協定?司令部トピの内容を見ていただけるとおわかりだと思うが、西哲カテにおけるあなたへの評価は極めて厳しいものがある。この小生とてあなたに完全に気を許しているわけでは無い。?新たに設立するトピはあくまでカトリックと西洋哲学のリベラルな対話あるいは討論を主旨とするものにしていただく。どちらかの優位あるいは宣教が密かに前提とされるものではない。?いわゆるはしにも棒にもかからない、水準の低い××教徒に対しては、相手に応じて優しくあるいは厳しく叱責して退散してもらう。これは共同作業です。?あなたに疑問な点がハッキリ顕在化した場合は、あなたに当カテからご退去いただく。?まずあなたが(失礼ながら)カルト系組織の人間ではなく、正真正銘のカトリックだということを誓っていただきたい。以上の条件(仮に108協定と呼んでおきましょう)を認めていただきたい。 ※108協定は2008年10月9日 午前0時0分 成立した。
  • 聖書の正しい読み方は、軍事にこそ光る!
    • 1
    • 2018/07/16 18:00
    聖書を軍事的につかうことで、世界はひとつになれる。わけ
  • ふたたび哲学者はキティちゃんが大好き
    • 2,346
    • 2018/07/14 15:50
    平和の使徒キティちゃんを愛好する自称哲学者kittydanielx再び登場です
  • 自然は厳しい
    • 193
    • 2018/07/09 19:24
    自然は厳しい。 人間だけでなく動物は自然と共に生きている。 この寒さでは暖かいところもないし食料もないんだろう。 それで民間に降りてきて食べようとしているんだろう。 かわいそうだ、自然は厳しい。 地震、噴火、水害、風、雨、雪 生きることは大切であるがまた大変なことでもある。 人間はこの自然にどのように対処してゆくべきなのか議論したい。
  • 堂々僕美学
    • 170
    • 2018/07/05 01:50
    ???!!!
  • 《倫理学》
    • 2,858
    • 2018/07/04 21:33
    倫理道徳について考えるトピ
  • 西哲中央政府財務省投資局 並びに 国策会社キティFX証券
    • 514
    • 2018/06/17 11:35
    アメミナカ版西哲中央政府綱領案 綱領 (案) 2011/10/14 13:39 [ No.19 / 107 ] 投稿者 : ame_minaka 一、われわれは、哲学の命運を拓き、哲学徒の自由と繁栄と幸福を増進する 一、われわれは、哲学の歴史と伝統を尊重し、誇りをもってその天分を活かし、哲学による平和実現とカルト撲滅の先頭に立つ 一、われわれは、哲学の視点に立って衆知を結集し、哲学徒の協調心と自立心と公共心に立脚する本物の哲学を実践する キティ版西哲中央政府綱領修正案 2011/10/21 6:25 [ No.109 / 199 ] 投稿者 : kittydanielx 一、ヤフー掲示板西洋哲学カテゴリーの主要メンバーたるわれわれは、哲学の歴史と伝統哲学の尊重の見地に立ち、その研究の命運を拓き、哲学徒の自由と繁栄と幸福を増進することをここに宣言する 一、われわれは、哲学が真理を目指しながらも多様で多面的な知の体系かつ営みであることを確認し、誇りをもって各自の天分を活かし、哲学による平和の実現とそれを妨げるカルト撲滅の先頭に立つ 一、われわれは、哲学の視点に立って衆知を結集し、哲学徒の協調心と自立心と公共心に立脚する本物の哲学を構築し実践することを目標とする 一、われわれの政府は西洋哲学カテゴリーの無政府状態を終息させることをその目的とするが、ある特定の思想方針でもって構成員もしくは住民を統制することを目的としない。また独善や権威主義に陥らぬよう常に反省の意識を新たにするものである    本トピは西哲中央政府の統括下にあります。腹が減っては戦はできぬ。飯を食わなきゃ哲学もできぬ。お待たせしました。構想から3年、また久々振りの西哲中央政府直系トピの設立です。
  • 天皇制が、ある限り
    • 14
    • 2018/06/12 07:40
    この国は良くならん
  • 唐書
    • 11
    • 2018/05/18 09:44
    唐書と名付けてみる、ここに私の問題がある、切磋琢磨しましょう。
  • 隋書
    • 7
    • 2018/05/18 09:42
    無知の知、根本的無知。隋書から、先ず中庸。
  • 一票の格差
    • 5
    • 2018/04/27 20:43
    明らかな憲法違反でも、是正されない、おかしい
  • 女たちの冷たく静かな空間
    • 502
    • 2018/04/19 01:54
    |ω・`)
  • 元書
    • 2,031
    • 2018/04/18 21:42
    基本ゆえ元書となずけてみる。
  • 意識などの物理的な説明と、観念の浮上
    • 32
    • 2018/04/15 09:40
    突然ですが、お邪魔をします。「小説家になろう」という小説の投稿サイトがあって、そこに「意識のはじまり」という小説が投稿されていました。タイトルや関係ありそうなキーワード3つくらいの組み合わせで検索できます。 読んでみたところ、ベルクソンの「無は存在しない」から始まって、それが、物質を経由して、意識や観念などの話にまでつながっているようでした。 たとえば以下のようなことについて書かれていました。まとめ方がへたなことや誤解の可能性のあることはこちらの責任です。お許し下さい。 ●無が存在しないとすれば、なにかがただ有であるばかりか? その有とはどんなものか? 有の開始点はあるか? どんなものか? ●有の開始点にゲーデルの不完全性定理は適用されるか? ●論理性はどこに存在するか? ●この宇宙に適用されている論理性や物理学とは別の論理性や物理学は存在しないか? ●虚数は存在と言えるか? ●思考実験:実効性をおびた物質の性質があれば、それは物質として振るまうか? 性質が実体に先立つか? ●なにが物質の性質を体現しているか? ●この宇宙での本当の存在と言えるのは、エネルギーだけか? 精々、無数のエネルギーで構成される量子の状態波動体までか? ここで、状態とは、そこに量子が存在するという状態。量子そのものは存在せず、そこに量子が存在するという状態がエネルギーによって醸しだされているだけか? 言わば、粒子(実体)とは、状態というなんとなく得体の知れないものによってもたらされる巨視的な幻覚のようなものであるとも解釈できるか? ●量子がこの宇宙に存在するには、相互作用を起こせないといけないか? 論理性は、この宇宙では量子が相互作用を起こせることを求めているか? ●量子が相互作用を起こすには、他の量子との接触で変化・検出・反応が必要か? (核分裂のような激しい変化ではなく) ●二つの量子の接触で、各々の量子に変化は生じるか? また、変化・検出・反応に順序はあるか? ●外界の検出は、相互作用によっているか? 外界の検出は、外界の変化に対応して生じる自分の変化の検出によっているか? さもなければ、外界の存在には気づけず、外界のことは知りえないか? ●思考実験:純粋な精神は物理世界のことを一切知りえないか? 意識が外界を認知できていると仮定すると、意識はその内に外界の変化を検出できるための物質性をそなえていなければならないか? ●物質のなかに意識になれそうなものは何かないか、意識と同質と感じられるものは何かないか、と探してみることは妥当か? 精神は、物質と統合できるか? ●生物でのエントロピの減少は自然なことではないか? 生物でのエントロピ生成速度は自然に減速するのではないか? ●生物ではエントロピ生成速度が自然減速するという推測の根拠はなにか? ●生命性とは、持続的可変性・可変的持続性・変化の残像性・変化の微分性のことか? ●次のようなことが意識のヒントにならないか? 1) 生命性 2) 物質性 3) 創発 4) 創発を起こすものである物質の性質 5) 生物でのエントロピ生成速度の減速性 また、観念というものがかなり重要視されているようで、観念についての新しいのではないかと思われる考えも展開されていました。たとえば、「観念」の出現頻度はきわめて高いのですが、「情報」の出現頻度は低いです。たとえば、10章「意識開闢」の、「認知開闢・観念開闢(知るということと観念の関係)」の節。 全体として、そう言われてみればそうかもしれないという気がしないでもないのですが、正直なところ、その真偽や正誤についてはよくわかりません。 皆さんはどう思われますか? けっこう色いろなことが書かれているので、的を絞るのが大変かもしれませんが、8章「性質実体一元二面論」と10章「意識開闢」には小見出しの詳しい目次がつけられています。これを頼りに興味が持てそうなところをまず適当に拾い読みしてみるという手もあるのではないかと思います。
  • ニーチェ*ハイデガー
    • 14
    • 2018/04/14 17:56
    くだらん
  • BC級グルメ哲学・味の美学
    • 365
    • 2018/04/14 05:28
    プロレタリア的勤労人民大衆的グルメ リニュアール新登場
  • 有給休暇って
    • 4
    • 2018/03/31 07:12
    なんのために あるの?
  • 哲学して精神病になった人集合!
    • 41
    • 2018/03/15 18:38
    私は哲学のし過ぎ、というか考え過ぎで統合失調症になりました。 今は寛解していまーす。 あんまり哲学書は読まないで自力で考えるのが好きでした。 現在、読みたい本はシオランの崩壊概論でーす。 軽いノリで精神病になった経緯、好きな本を教えて下さい。 みんなで病気を克服して、より良い哲学ライフを復活させよう!
  • 天皇制を国民投票に掛けて、国民の審判を仰げ
    • 19
    • 2018/03/05 23:52
    そうして、 くだらん天皇制を廃止しろ。 馬鹿馬鹿しいにも程がある。
  • ◆認識と記憶◆
    • 598
    • 2018/02/14 19:18
    音楽現象学
  • カミュ
    • 21,466
    • 2018/02/05 15:28
    カミュが好きで・・・・禅仏教者なんですが、かれのなんともいえぬ、ペシミズムというか、どうしようもない感じが好きで?、数十年アタマから離れませんでした・・ そうだな・・・異邦人でも、シジフォスの神話でもいいんですが・・・ 東洋哲学は、アラシのひとが多いんで・・・西洋哲学で、ゆったりと考える人たちが いらっしゃるのか、どうか、わかりませんが・・・ まあ、リアクションを期待しています ライナス.・愚・スペースエクスプローラー
  • ☆ 「事実」とは何か ☆
    • 5
    • 2018/01/26 11:18
    ☆ 「事実」とは何か ☆ 井出 薫  「事実」とは何か。この問いに答えるのは容易ではない。「私が昭和に生まれたのは事実だ。」、「事実、彼はこの時計を持ってきた。」、このように「事実」という言葉は様々な場面で使用され、それを理解することに苦労することはない。「事実」の意味は誰もが分かっている。それなのに「事実とは何か」と問われると答えに窮する。  「事実と規範」という区別がなされることがある。20世紀を代表する法哲学者の一人、ケルゼンは両者を峻別し、さらには規範を法規範と道徳規範に分け、法学の対象を法規範に限定する。ケルゼンによれば、それにより法学は(純粋法学という名の)科学として確立する。ケルゼンの考えは参考になるが、事実と規範の関係は明らかにはならない。規範が事実と異なるのは真実だとしても、如何なる規範も事実があって初めて規範として確立する。人々が、規範を守るのは、教育現場や生活の様々な局面で、その重要性を事実として認識することに基づいている。暴力行為に対する嫌悪感、嘘を吐くときの疾しさ、違反したときに受ける罰、こういう事実を体験することを通じて、規範を守るべきであることを人は悟り、日々、それを再確認する。規範を事実に、事実を規範に還元できないとしても、両者は独立して存在するものではない。だが、そのことは容易に理解されるにしても、事実が規範と一線を画することもまた真実で、依然として「事実」の意味とその位置づけは解明されないままに留まる。  ケルゼンと並び法実証主義の代表的な存在と目されるハートは、言語行為論のオースティンや言語ゲームのウィトゲンシュタインの哲学を参照しながら、法を一次ルールと一次ルールを制定・廃止・承認する二次ルールの統一体として捉える。そこでは、ケルゼンでは峻別されていた事実と規範の境界線は流動化され、事実と規範を共に言語ゲームという枠組みの中で捉えることが可能となる。だが、これにより新たに問題解明の道具が得られるにしても、それでも「事実」の意味が解明される訳ではない。  「事実」は、ときには「真実」と同じ意味で使用される。本稿で挙げた最初の例「私が昭和に生まれたのは事実だ。」の「事実」は「真実」に読み替えても意味は変わらない。だが常に「事実」を「真実」に等置することはできない。二番目の例「事実、彼はこの時計を持ってきた。」の「事実」を「真実」に置き換えるといささか違和感がある。この文の「事実」は、「彼はこの時計を持ってきた。」という出来事を強調するために使用されており、真実とか虚偽とかを意味する性格のものではない。また「事実と規範」という表現は、「存在と当為(なすべきこと)」という表現と同じ意味を含むものとされることもある。かと言って、「事実」と「存在」を同一視する訳にはいかない。(「事実」と「存在」については後述する。)
  • 明書
    • 523
    • 2018/01/13 22:31
    明が価値になり、明書と名付けてみる。元書の続きだ。
  • インターネット、って
    • 3
    • 2018/01/11 18:15
    便利だな
  • ☆ ニーチェの魅力 ☆
    • 5
    • 2018/01/03 01:11
    ☆ ニーチェの魅力 ☆  ニーチェは男女差別論者だ。「女に選挙権を与えるなどバカげている。」などという言葉を平気で口にする。だが、ニーチェは普通の男女差別論者とは違う。ほとんどの男女差別論者は、男が女より優れているから男性上位になるという論理を展開する。しかし、ニーチェは、男が女との戦いに勝ったから男が女を支配している、好きこんでその勝利を手放すことはないと主張する。ニーチェは男の優位性などを信じているわけではない。  だから、フェミニズムも案外ニーチェには寛容だ。ニーチェの考えはジェンダー論に繋がるところがある。闘争に勝った男が支配する社会体制を作ったというのがニーチェの考えであり、これは正にジェンダーとしての男の支配を意味するからだ。  ニーチェは、利他行為あるいは自己犠牲を嘲笑う。『そんなものは立派な行為でもなんでもない。人間は群れをなして生きる動物だから、集団のために自己を犠牲にするという本能を生まれつき持っている。自己犠牲、利他行為などはその本能の現れに過ぎない。寧ろ、課題はどうすれば本物の利己主義者になれるかということだ。』これがニーチェの主張だ。  真の利己主義者は、自分の優位を確信して、弱い者を平然と打ち倒す。そのような強者=真の利己主義者こそ、人類を高みへと導く者である。ニーチェは、だから、強者が弱者を抑圧することは権利であり義務である、それこそが人間を向上させるとすら主張する。  ニーチェは、強者が弱者を抑圧する権利と義務を有するという主張から、20世紀前半はファシズムやナチズムの指導的な思想として取り上げられた。  だが、ニーチェが、強者は弱者を打ち倒すべしという主張と同時に、集団のために自己を犠牲にする行為を笑うべきもの、人間の劣等性を示すものだと主張していることに注目する必要がある。これはファシズムなどあらゆる独裁思想に対する最大の挑戦だからだ。  要するに、ニーチェの思想を独裁思想と見ることもできるが、独裁思想への最強の敵と見ることもできるということだ。独裁は、体制と支配的思想への殉教を人々に強要することで成立する。だから、自己犠牲を笑うべきものと捉えるニーチェは独裁者にとっては最も厄介な存在だ。却って人民やプロレタリアート大衆への忠誠を求める共産主義者のほうが自分たちに遥かに近いことを独裁者は知るだろう。左翼から右翼へ、あるいはその逆の転向は珍しいことではない。その背景には自己犠牲を強いる精神、自己犠牲に酔いしれる精神が潜んでいる。  戦前とは逆に、戦後思想は主としてニーチェを反独裁の文脈から理解してきた。これを、右翼的ニーチェ像から左翼的ニーチェ像への変換として捉えることもできるだろう。だが、左翼的だとか右翼的だと言うこと自体が、ニーチェ的な視点からすれば、笑うべきドグマだということになろう。  ニーチェは実にアンビバレントだ。男女差別論者であると同時に、男女差別の根拠など存在しないことを明らかにする反男女差別論者でもある。強者が弱者を打ち倒す権利と義務を擁護して独裁へと人々を誘惑する思想家であると同時に、独裁体制への最強の抵抗者でもある。  いや、ニーチェは、男女差別論者を演じることで、男女差別論には何の根拠もないことを示し、独裁体制へと人々を誘惑することで、独裁は最も愚劣な政治体制であることを示そうとしているのかもしれない。  パロディスト・ニーチェ、それが本質なのだろう。ニーチェ本人が自分をどう評価していようと。そして、ここにこそ、凡百の思想家ではとうてい及びもつかないニーチェの魅力がある。
  • Thoughts for Humanity ~人類の思想~
    • 1
    • 2017/12/29 17:40
    ホームページ、ご覧ください。 https://hazama1973.wixsite.com/humanity
  • ☆ 作られる病気 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:52
    ☆ 作られる病気 ☆ 井出薫  最近「社会不安障害」という言葉をよく耳にする。一昔前までは「対人恐怖症」と呼ばれていた病?を今はこう呼ぶらしい。あがってしまい人前でうまく話しができない、初めの人と会うのが苦手だという人は少なくない。だが、こういう症状を放置すると社会不安障害に陥り社会生活に著しい支障を来たすことがあると言われ、近年患者が急増していると指摘されている。だが社会不安障害は本当に増えているのだろうか。  私も子供の頃から人前で緊張して上手く話しができなかったり、人前で失敗をしでかすのではないかと不安になったりして、人との交わりに支障を来たすことが少なくなかった。8年ほど前にパニック障害とうつ病を患って以来、この傾向がさらに強まったという感じがする。専門家の目から見れば今の私も軽度の社会不安障害に該当するのかもしれない。  しかし、このような症状で困っている人は昔からたくさんいたと思う。小学校や中学校の頃、クラスに2人か3人くらいは、他の生徒や先生の前で、本を読んだり、歌ったりすることがとても苦手な子がいたと記憶している。でも子供達も先生も、そして本人も家族も、それを病気だ、病気の前兆だなどとは考えてはいなかった。人前で何かしなくてはならないとき、そういう子供達は、それは大変な苦痛だったろうと思うが、苦痛は一時的なもので、何も気に病むほどのことはなかったし、実際それで酷く苦しんでいたということもなかったと思う。周囲も、そういう子供に無理に人前で何かをさせようとはしなかった。人見知りをする、人前で緊張しておどおどしてしまう、顔が真っ赤になってしまう、こういうことはその子の性格、けっして矯正する必要もなければ、恥じることもない子供の性格だと考えていた。そういう子供を苛める子もいたが、先生は苛めっ子を厳しく戒めたし、叱られた子供は自分が悪かったと反省した。社会不安は病気などではなく個性に過ぎなかった。  だが時代が変わり、人々は、積極的に人前に出て、自分の意見を堂々と述べることができなくてはならないという強迫観念に支配されるようになった。それは何も児童の世界の話しだけではなく社会人にも共通する。以前は、人前で話をすることが苦手な人や初めての人と気さくに話しをすることができない人、そういう人にはその人に相応しい職場や仕事があり、そこで自分の力を発揮することができた。だが今ではほとんどどの職場でも、上手に自己PRをして、クライアントの前で弁舌爽やかにプレゼンテーションすることが要求されるようになり、そういうことが上手くできないと競争社会で生き残ることはできないと脅かされる。  その結果、元々は病気でも何でもなかったものが病気とされるようになった。そして、気の弱い人や人と競争することが苦手で自己PRの下手な人は、自分は病気で競争社会から脱落してしまうのではないかと恐れを抱くようになり、病気ではなく単なる性格に過ぎなかったものが本格的な病気となってしまうことが増えた。これが「社会不安障害が増えている」ということの現実なのではないだろうか。病気はそこに初めからあったのではなく、社会が作り出してしまったのだ。
  • ☆ 競争の光と影 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:51
    ☆ 競争の光と影 ☆ 井出薫  知人に鬱病を患い退職した者がいる。幸いなことに病気や事故で収入を失った時に保障をする保険に加入していたので、辞めても以前の給与とほぼ同額の保険金を受け取ることができ当座の生活に困ることはない。とは言え病気は辛い。まだ若い彼には働いていないこと自体が苦痛だろう。  競争は経済発展を促し社会を豊かにすると信じられている。ソ連・東欧の共産主義が崩壊し、中国が市場経済に転換して成功したことからも、このような思想に一理あることは間違いない。だが競争激化の煽りで彼の職場では大リストラが行われ、それまで3人でしていた仕事を一人でやらなくてはならなくなった。深夜帰宅は当たり前、土日の出勤も続いた。そんな中で彼は発病した。  彼が競争の犠牲者であることは間違いない。ただその一方で彼が保険を受け取れるのは、ある意味で競争の成果と言える。30年前だったら、失業してもらえるのは期間限定の失業保険だけで、金額は給与よりずっと少なかった。競争で保険会社のサービス開発が促進され様々な新しい保険が登場した。彼が利用しているのもそういう保険の一つだろう。  競争には利点もあり欠点もある。今の彼にも両方が現れている。だがどう見ても欠点の方が大きい。競争の欠点よりも利点を享受している者もいるだろう。だが周囲を見回すと競争の犠牲になっている者が多いように感じる。社会の豊かさとは個人の豊かさを意味する。国や企業が幾ら権益や利益を得ても、それが全ての国民に還元されないようでは、社会は豊かになったとは言えない。パソコン、大画面テレビ、携帯電話、ゲーム機など膨大な新商品に取り囲まれて、人々は豊かになったという思いを抱いている。だが果たして本当にそうなのか。格差の拡大が目立つ今、競争神話から目を覚ますべきときが来ているように思われる。 (H20/4/8記)
  • ☆ 地球温暖化論に寄せて ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:51
    ☆ 地球温暖化論に寄せて ☆ 井出薫  気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第5次報告書が昨秋から逐次公開され、地球温暖化の想定されるシナリオ、その影響と対策が報告されている。しかし、IPCCの発表とそれを受けた報道には疑問を感じない訳にはいかない。  一番の疑問、違和感は2℃という数字にある。地球温暖化による悪影響を避けるには、産業革命前から21世紀末までの温度上昇を2℃以内に留める必要があると言う。だが2℃を超え、たとえば2.5℃になると壊滅的な状況になるという根拠がない。逆に1.5℃ならば大丈夫という根拠もない。色々と解説書を捲ってみても納得がいく説明がない。ただ現状を放置すれば、21世紀末までには4℃以上の温度上昇が起きる、せめてその半分である2℃以内に留めないと駄目だという程度の理屈しかないようにしか読めない。これでは、半世紀近くに亘って「東海沖で大地震が起きる」と言って、東北沖大地震のリスクを物の見事に見落としたどこかの国の地震研究家たちと大差がない。  さらに、「現状を放置すれば4℃の温度上昇が起きるが、2050年までに排出量を50%に削減し、21世紀末までにゼロにすれば2℃以内は実現できる。それができなければ2℃以上の上昇は避けられない。」などと報じられているが本当だろうか。この報告が正しいとすると、二酸化炭素排出量xと温度上昇yとの関係を示すy=f(x)の関数fが判明したことを意味する。この関数fが分からなければ、どれだけ温度上昇するか、どれだけ削減すれば2℃に収まるのか分からないはずだからだ。しかし、極めて複雑な気象現象で、関数fを正確に見積もることなどできるはずがない。地球温暖化と言っても、世界が均一に温度上昇する訳ではない。地球温暖化の影響で、海洋の中深層(数百メートル以深)の海洋循環(熱塩循環と呼ばれる)が現在と大きく変わり、北大西洋に流れこむ温かい海流が消滅し、欧州は温暖化どころか10℃の温度低下に襲われると予測されている。だがそれは本当に確実なのかというとそうではない。想定しうるシナリオでしかない。では日本はどうかと言われると実はよく分からない。おそらく平均程度に上昇するだろうと漠然と予想されているに過ぎない。現時点での地球温暖化の理解とはこの程度のものでしかなく、関数fの正確な形式は不明で、二酸化炭素の排出量をどの程度削減すればよいのかなどということは、本当のところよく分かっていない。  しかも、温室効果ガスは二酸化炭素だけではない。微量だがメタンは二酸化炭素の20倍以上の温室効果があり、こちらも大気中の濃度が上昇している。日本近海でメタンハイドレード(固化したメタン)が発見され大いに期待されているようだが、メタンの回収と適切な利活用に失敗しそれが全て気体(期待?)となって大気中に放出されることになったら、大変なことになる。日本は世界を滅ぼした元凶として歴史に記されることになろう(尤も人類が滅亡したら歴史もなくなるのだが)。他にも、強力な温室効果ガスである亜酸化窒素も窒素肥料の大量使用で大気中濃度が増加している。要するに、二酸化炭素排出だけを抑制すれば良いという訳ではない。人口増加に伴い食糧の増産が急務で、この先もメタンと亜酸化窒素の増加は避けられそうもない。二酸化炭素増加の影響が大きいために、今は隠れているが、二酸化炭素の削減に成功すれば、今後はこちらが重大な問題となる。  2℃という数字に大した意味はない。温暖化を警告するためのPR用数値に過ぎない。2℃が閾値だとしても、どれだけ二酸化炭素を削減すればそれを阻止できるのか分からない。二酸化炭素以外の人為的な要因である、メタンや亜酸化窒素の増加の影響やその抑制策は研究が進んでいない。要するに、現時点では、このままだとどうなるのか、どうすればよいのか、誰も分かっていない。それなのに「全ては明確であり、遣るべきことははっきりしている、あとは遣るか遣らないかだけだ」と言わんばかりの言動が罷り通っている。そして、それぞれの思惑で、2℃という象徴を勝手に援用して、原発を容認しようとしたり、シェールガス革命とやらで世界のエネルギー市場でイニシアティブを取ろうとしたりしている。こんなことで温暖化問題が解決できるはずがない。
  • ☆ 反・「反科学」主義 ☆
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    • 2017/12/29 07:50
    ☆ 反・「反科学」主義 ☆ 井出 薫  総じて、現代の哲学者は反科学主義(あるいは反科学技術主義)の傾向が強い。理学系の出身者である野家啓一氏や野矢茂樹氏なども、レッテル貼りをさせてもらえば、反科学主義の範疇に属することになろう。20世紀を代表する哲学者としばしば称されるハイデガーとウィトゲンシュタインの思想も反科学主義的な色彩が強い。 (注)反科学主義と反科学技術主義とは違う意味に使用されることもある。反科学主義だが反科学技術主義ではない、あるいはその逆ということもありえる。科学の技術に対する優位性という神話を批判するという立場もある。だが、通常は、両者は同じような意味合いに使われることが多く、野家氏やハイデガーの批判も両者をともに含むと言ってよい。だから、本稿では反科学主義とは反科学技術主義も含む概念として議論を進める。  単純な科学主義には筆者も反対する。単純な科学主義とは、「自然科学特に物理学に全学問は還元される(されなければならない)。」、「世界とは素粒子と場の複合体であり、素粒子の法則で原理的にはすべてが決定されている。従ってすべては素粒子論により説明される。」、「自然科学と数学、科学技術の発展が社会のあり方を決定する。」というような主張を含む自然科学主義と科学技術至上主義のことだ。このような単純な科学主義は社会と人生の切実な問題を曖昧にして、社会と人間に対する極めて偏った歪んだ視点を持ち込む不適切な思想だと言ってよい。この意味での単純な科学主義に反対する「反・科学主義」は十分な正当性を持つものだ。  尤も、上に述べるような単純極まりない素朴な科学主義に同意する者は実際にはほとんどいない。しかし、意識的に科学主義を採用していなくても、科学主義的・技術至上主義的なものの見方・考え方が社会の至るところで認められ、産業活動、医療現場、科学技術行政、科学技術教育など広い領域で現実社会に好ましくない影響を与えている。だから、反・科学主義的な思想は意義がある。  しかし、反科学主義の哲学者の思想には、「反」・「科学主義」ではなく、「反科学」・「主義」が見られることが多い。「自然科学の発展は存在論の変革なしにはありえない」、「技術とは(本来隠されているべき)存在を露わにするもの」と論じるハイデガーの思想などは、反・科学主義と言うより、反科学・主義という色合いが濃い。存在への静かな思考や眼差しこそが人と世界の本質を捉えるもので、科学や技術はその指揮下に入らなくてはならないと主張するに等しいからだ。野家氏の「科学を物語的な視点から捉える」というテーゼにも、科学主義を批判するという立場を超えて、科学とその応用としての科学技術そのものを批判しようとする意図が透けて見える。  だが、自然科学や科学技術はリアルな現実であることを忘れてはならない。人間は、原始時代から自然には存在しない複雑な道具を作り、使う動物として進化してきた。高度な人工的な道具を作り、それを使用するということは人間と人間社会の本質をなす。現代の科学技術は、その進化の延長線上に位置しており、公害や自然環境破壊など大きな社会問題を引き起こしているからと言って、それが人間社会にとって必須の構成要素であることに変わりはない。  最も抽象的で論理的厳密性を持つ学問とされる数学も、その原点は、測量術や商業での数や図形の活用にある。物理学や化学、生物学、地質学など諸科学も、その原点には人工的な道具(貨幣もその重要な一部だ)を使って社会生活を営む人間が位置している。この事実は、極めて抽象的な現代科学特に理論物理学でも変わることはない。素粒子論や宇宙物理学など一見浮世離れした研究領域でも研究者は常に実験で理論を検証することに心を砕き論理に終始することはない。そして、実験は、研究対象そのものは浮世離れしたものでも-宇宙の始まりはどうなっているかとか、ブラックホールはホワイトホールと繋がっているか、など-、現実的な技術(たとえば超伝導技術や精密測定技術)と結びついている。科学は常に現実生活と密着している。  しかも、AIDS、鳥インフルエンザ、BSE、オゾンホール、温暖化、環境ホルモンなど現代社会の重大問題を科学や技術と切り離して論じることは全く無意味だ。  これに対して、科学や技術そのものを批判する哲学的思弁は論理遊びに過ぎないものがほとんどで、現実的な意義に乏しい。確かに、ハイデガーや野家氏の主張には魅力を感じるが、現実的な重要性を持つとは思えない。
  • ☆ 経済学の効用と課題 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:50
    ☆ 経済学の効用と課題 ☆ 井出 薫  よく理解できない腹いせもあって、経済学など、深い哲学的洞察に基づき書かれたマルクス「資本論」やアダム・スミス「諸国民の富」を除けば、役に立たないものばかりだ、などとケチをつけてきたものだが、二酸化炭素排出量取引の話しを聞くと経済学の効用がよく分かる。  企業AとBがそれぞれ年間150万トンの二酸化炭素を排出しているとする。これが、排出量規制で100万トンに減らさないといけないことに決まったとしよう。Aは50万トン削減するのに10億円掛かるが、Bは2億円で出来る、しかもBは4億円使えば100万トンの削減も可能だ。二つの企業がそれぞれ規制を守るためには合わせて12億円の支出が必要になる。だが、たとえばAがBから50万トンの排出量を5億円で買い取ったとしたらどうなるだろう。Aは相変わらず150万トンの二酸化炭素を排出し続けるが、Bの排出量が50万トンに削減されるので、トータルで規制目標値200万トンが達成できる。ここで、Bは4億円の支出で5億円の収入が入ってくるから、排出量を削減して社会に貢献したうえに、削減に伴って利益が出る。Aも本来であれば削減に10億円支出しなくてはならないところが、排出量購入の5億円だけで済む。二つの企業だけではなく、社会全体で考えても、排出量取引がなければ12億円の社会的なコスト負担が生じるところが、4億円の負担で済むわけだ。-個別の企業の負担増は、料金の値上や従業員の賃金カットに繋がるから、結局社会的なコストになる。-こうして、二酸化炭素排出量取引が社会的に極めて有意義であることが経済学で証明される。  これは極めて簡単な計算だが、経済学的な思考方法が社会に役立つよい事例だろう。  とは言え、排出量取引を認めることが、直ちに最善の排出量削減策に繋がるかというと話しはそんなに簡単ではない。4億円で100万トン削減できると踏んでいたB社がいざ50万トンの排出量をAに売却したあとで、とても100万トンも削減できないと分かったらどうなるだろう。A社にお金は返すとしても排出量削減目標は達成できない。経営不振に陥った企業が排出量削減の確たる見通しもないのに排出量売却に動く危険性もある。-国際間の取引ではこの危険性はより一層高まる。-さらに二酸化炭素削減量を正確に把握できるのか、排出量取引が情報公開を徹底した公平な市場で行なわれるかどうか、技術的にも政治的にも課題は多い。  しかも問題は企業や人々のモラルに止まらない。たとえば、二酸化炭素削減装置を作るために所有地の森林を伐採して施設を作ったとしよう。その結果工場からの排出量は確かに減ったが、伐採の影響で二酸化炭素が増加したということも起こりうる。植物は光合成をして大気中の二酸化炭素を吸収するから、植物が減れば二酸化炭素が増加する可能性があると言わなくてはならない。尤も植物も夜は酸素呼吸をして二酸化炭素を排出するし、植物の光合成が盛んになると植物を捕食消化する微生物や動物の酸素呼吸が活発化して二酸化炭素排出量が増加するから、森林の二酸化炭素吸収効果は小さいかほとんどないという意見もある。だが膨大な森林伐採が二酸化炭素排出量の増大に繋がるという点では多くの専門家の意見は一致する。だから二酸化炭素削減用施設の建設に当たっては、その施設自身が環境へ与えるマイナス効果を考慮に入れる必要がある。だが、このような効果は、一企業の活動だけではなく産業全体の活動と生態系の変動を正確に見極めないと算定できないから、現実的には正確な見積はできないと考えなくてはならない。  このように経済学の範疇外の様々な要因が二酸化炭素排出量の増減に影響を及ぼすから、単純に二酸化炭素排出量取引だけで効率よく削減できると楽観することはできない。経済学的な考察だけですべてがうまくいくわけではないのだ。
  • ☆ 哲学はなぜ?なのか ☆
    • 2
    • 2017/12/24 18:16
    ☆ 哲学はなぜ?なのか ☆  物理学は、実験道具を使って実際に真空を作り出したり、思考実験やコンピュータシミュレーションで真空状態を作り出したりして、物質の運動や状態変化を調べて正しい理論を見つけ出すことができる。  しかし、人間と社会の研究では、実験はもちろんのこと、思考実験でも真空を作り出すことはできないし、無理矢理作り出したとしても、そこから役立つ帰結を導くことはできない。真空には人間も社会も存在しないからだ。  哲学は自然を論じることもあるが、人間と社会こそが哲学の本当の研究対象であり、哲学者が語る自然とは人間を通じて見られた「自然という概念」を意味しているに過ぎない。つまり、哲学者の課題は常に人間と社会で、真空を作り出そうと試みても無駄なのだ。  ところが、哲学者はそのことを理解していないか、理解していても真剣に考えようとしない。そして、思考の中で不毛な真空を作り不毛な議論を展開する。プラトンのイデア、アリストテレスのエイドス、デカルトやフッサールのエポケー(判断停止)など、哲学は常に思考の中で真空を作り出し、そこで根源的と称する思弁を弄することの繰り返しだった。だから偉大な哲学者の著作を読んでも、そこから霊感を読み取ることはできても、正しい考えを見つけることはできない。ときたま正しいと思えることが書かれてあったとしても、それは偶然に過ぎず、本論からは遠く離れている。たとえばヘーゲルはその代表格で、20世紀では、世紀を代表すると言われる二人の哲学者、ハイデガーとウィトゲンシュタインがその典型と言える。  しかし、人は、哲学者を非難することはできない。人は脳が肥大化して、計算能力も洞察力も大したことはないのに、いつのまにやら、やたらと自尊心だけは高くなった。絶対に不可能なのに、分不相応に世界全体を完全に理解しようと試みて、間違いを犯してばかりいる。それどころか、その愚かさから殺し合いまですることがあるから始末に負えない。ハイデガーはナチだったし、ハイデガーを信奉する者はナチに接近するほどハイデガーの思想は深かったのだ、などと訳の分からないことを言って反省しない。  要するに、人間の愚かさを代表しているのが哲学者で、哲学書がその表現なのだ。人は哲学書を読んで感激したり、逆にわけが分からないと不満を漏らしたりしているが、それは私たちが愚かで哲学者もその仲間であることを示しているに過ぎない。だから哲学書の正しい読み方とは、偉大な思想家と言われる人でも、その考えのほとんどは間違っていることを著作から読み取り、人の傲慢さを反省するというものだろう。
  • 天皇 ⇒ 元来 シャーマン
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    • 2017/12/24 18:15
    天皇は、元来、シャーマンなんだ。 シャーマンとは、神や [死者の霊] が憑依した人物だ。 よって、天皇は現人神として崇拝の対象になるんだ。
  • ☆ 現代哲学の根本問題 ☆
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    • 2017/12/24 18:15
    ☆ 現代哲学の根本問題 ☆ 井出 薫  哲学の根本問題は倫理にある。西洋哲学を代表する著作と目されるプラトンの「国家」は、存在一般や正しい認識を得るための方法(所謂存在論と認識論)を扱っている。しかし「国家」の主題は「正義とは何か?」であり、存在論と認識論はこの問いの答えを得るための手段に過ぎない。アリストテレスの厖大な著作の中でも、際立った存在で、現代でも大きな影響を与えているのは「ニコマコス倫理学」だ。カントの「純粋理性批判」は認識論を中心としているが、「実践理性批判」、「判断力批判」が後に続いたことからも示唆される通り、その土台には倫理がある。哲学の根本問題は、これまでもずっと倫理にあったとみてよい。  個別の学問が進歩した現代、哲学の出る幕はほとんどない。「科学哲学」、「科学論」などという題目で、科学の基礎や方法を吟味すると称する哲学が多数存在するが、現場の学者や技術者、言論人、そして一般市民に与える影響はごく小さい。特に自然科学では皆無と言っても過言ではない。社会科学は哲学思想を引用する機会が多いとは言え、レトリックとして使う場合がほとんどで、哲学なしには議論ができないということはない。  しかし、マックス・ウェーバーが指摘する通り、科学は「何をするべきか」という問いには答えを与えない。かつて、一部の教条的なマルクス主義者はウェーバーを批判して、科学的な認識に基づく実践こそがただ一つの正しい行為だと主張した。しかし、その帰趨はスターリニズムという恐るべき一党独裁であり、思想犯の収容所に象徴される人命軽視、人権蹂躙だった。確かに、科学的認識は、「何をするべきか」を決定するに当たって、重要な手掛かりを与える。しかし、それだけで「何をするべきか」を決定できないし、決定するべきでもない。経済理論は経済政策の選択に大きな役割を果たすが、経済理論だけで政策が決まる訳ではない。物理学はGPSの精度を保障するが、GPSを利用するべきだという帰結はもたらさない。  「何をなすべきか」、個人にとっても、様々な社会的組織(注)にとっても、この問いほど重要な問いはない。人は有限な時間しか生きることができない。そして人生そのものをやり直すことはできない。組織はより長い時間を生きるが、それでも有限であり、やはり、やり直しは利かない。人も社会も1回限りの決断を常に迫られており、それに如何に対処するかが根本的な課題となっている。そして、これに上手く対処する者は善であり、幸福を得る者となる。 (注)本稿では、「社会的組織」とは、家族に始まり、企業、教育機関、宗教団体、そして、それらの多くを包含する国家など様々な階層・規模の共同体を総称するものとする。
  • ☆ 法と規則、資本の論理 ☆
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    • 2017/12/24 18:15
    ☆ 法と規則、資本の論理 ☆ 井出 薫  法哲学の根本問題は何か。道徳と法の関係はどうなっているのか。悪法も法と言えるのか。悪法に従う必要はあるのか。こういう問いを挙げることができる。しかし、真の意味で根本問題と言えるのは「法とは何か」という問いだ。この問いには「なぜ、人は法に従わなくてはならないのか」という問いも含まれる。多くの者が従ってこそ法だからだ。  この根本問題に対する答えは、大きく分けて2つある。自然法の答えと、実定法あるいは法実証主義の答えの二つだ。自然法の答えは、自然法則が自然運動を説明する客観的な法則であるのと同様に、法は世界の中に人倫の基礎原理として客観的に内在していると考える。自然法においては、法は人間が作り出すものではなく、予め存在する客観的な法を人間が発見するということになる。一方、法実証主義あるいは実定法主義では、法はあくまでも社会の中で人が作り出すものとみなされる。前者では法は発見されるもの、後者では発明されるものだと言ってよい。  現代において、純粋な自然法主義を取る者はほとんどいない。法と自然法則は全く異質なもので、人は自然法則に逆らうことはできないが、法に違反することは幾らでもできる。また私有財産制度を不可侵の自然権として主張する者もいれば、搾取の源泉だと反論する者もいる。法が自然に内在するものであれば、財産権に関するこの論争はいずれ実証的に解決するはずだが、一向に決着がつく気配はない。財産権に関する論争は時代の雰囲気を反映しながら永遠に継続する。  尤も、そうは言っても、自然法思想が全く無意味だという訳ではない。人間には生物種として普遍的な自然がある。また、共同体を形成して初めて生きていくことができるという性質から、自然と、幾つかの普遍的な法が妥当する。殺人の忌避、共同体の決めごとの遵守など、それなしには個体は生き延びることが出来ず、共同体は維持できない。それゆえ進化論的な観点から法を説明し、それを自然法として捉えることができない訳ではない。しかし、それはあくまでも一つの解釈に過ぎず、必然的なものではない。人間の身体的な特徴や群れの行動様式は進化論的な観点から説明がつくし、事実それは合理的な説明になる。しかし、社会的な現象である法にそれを適用することはできず、たとえば財産権に関する激しい論争を説明することはできない。進化論的な法の説明は、疑似科学に過ぎない。現代において、合理的な法理論は、法実証主義(実定法主義)あるいはその様々な変種だけだと言ってよい。自然法は作業仮説、あるいは、理念や実践の指針として役立つこともあるが、あくまでも補助的な役割でしかない。  しかし、法実証主義にも様々な変種があり、様々な立場がある。また、そのこと自身が、法が実定法であり自然法ではないことを示しているとも言える。法が自然法ならば、自然法則のように多様な見解は一つに収斂するはずだからだ。しかし、法実証主義には共通する点がある。それは法とは人間が社会において作り出す規則あるいは規範の一種だということだ。20世紀を代表し、共に法実証主義という枠組みで語られるケルゼンとハートは多く点で見解を異にするが、それでも法が規則あるいは規範の集合体であると考える点では一致している。ただ、ケルゼンは、法という規則の集合体を、根本規範を出発点に根本規範で定められた手続きに従い創造・執行されていく体系として捉え、その本質は強制秩序であると考えたのに対して、ハートは強制的な一次ルールと、一次ルールを承認、変更、裁定する二次ルール(メタルール)の結合体として法を捉えた点で大きな開きがある。その背景には、ケルゼンが事実(存在)と規範(当為)とを峻別し、法学の対象は専ら規範の領域であるとする新カント学派的な思想の下に理論を展開しているのに対して、ハートは、イギリス経験論の流れの中で言語分析哲学的な手法を援用し、事実としての法を分析しているという違いがある。この哲学的傾向の違いが、彼らの理論の差異に反映されている。しかし、この二人に限らず、法実証主義並びにそれに近い立場を取れば、必ず行きつく結論がある。それは、法は規則あるいは規範の集積体だということだ(積み重ねられていくという意味で集合体ではなく集積体という言葉を使用する)。そして規範は強制力の差異を除けば通常規則と呼ばれるものに帰着する。つまり、法体系とは規則の集積体と言ってよい。そして法と密接な関係を持つ道徳体系もまた規則の集積体に帰着する。ただ道徳は、ハートが指摘した通り、意図的に定めたり廃棄したりすることができない-それゆえ物理的な強制の根拠がない-という点で法と異なる。
  • この世を含む全てを一言で表す=ほか、ない。(1)
    • 32
    • 2017/12/22 23:17
      ワタシは失見当識に在り、現前のモノ・コトに全く何も信用ならない。有名なところで「コインを落として落ちたのは紛れもない事実である。」というのがありますが、本当は事実かどうかは知れないのである。何を以ってそう固定する?何を以ってそう規定する?定規がない。根拠が無いのであります。ゆえに、不安定な精神を落ち着かせるためには、「法則」を掴まなければならない。それ以外に心の安定は有り得ません。   ワタシは「ある」と「ない」でしか認識できない。「ある」と「ない」の複合体でしか捉えられない。他の人、等の捕捉はともあれ、ワタシの場合。   しかし、当然、双方ともに限界がある。それで行けない「トコロ」に関しては無力である。「ない」領域を全て「ある」では括れない。「ある」領域を全て「ない」では括れない。 でもそれしかワタシにはない。だから遮二無二、現前を考えるしかなかった。   それで、ワタシは七転し八倒。それでも考え抜きました。のちに、ワタシは「ある」および「ない」と意識(ある)するときに、同時に、無意識に隠れた「ほかにはない。=ほか、ない。」というサポートを確認しました。「(ある)。【ほか】には【ない】。」   そのケースにおいて、瞬時に掌握のレベルが先行する。それは「ある」を「ない」と一括できないものの、「ない」認識を「ない」という「ある」で包括し表現出来得るので、統一を必要とするならそれは「ある」と言おう。そして同時に起動する、いわゆる「黒幕=ほか(他)」を主役に立ち上げた時こそ、全てを捕捉する力を発揮します。ワタシの「ある」または「ない」という掌握は無意味そのものでありました。   究極的に「ない」、たとえば無色透明、音もない、何にもない。もしかしたら「ある」と「ない」が溶け合ってる世界。無彩色グレー。「ある」と「ない」ではない宇宙の外世界。対に、究極的に「ある」でもいい。認識できないトコロでもいい。   ワタシはそんな世界を「(ほか)には(ない)」、という認識(型)で捉えています。仮にその確認システムを「ある」として、その次に来るのが「ほか、ない。」となります。   「ある」かどうかは知りません。「認識」できるのか知りません。が、認識する対象物に「ほか」とぶつけます。そうするとソコは「には、ない」のです。   「ある」か「ない」、統一を必要とするなら「ある」状態を「ない」ではくくれませんが、全く「ない」、そういう状態(状態とは言えない世界)が「ある」とはつかめます。(ある=あくまでも認識に過ぎず)+ほか、(+には)+ない。   いくところまでいった「ほか」が、単に、「ほか、ない。」状態で、現前のイマと繋がってくれます。どこまで行っても、どんどん外に広がっていっても、内に内に体の中に染み込んで行っても、(たとえば私の裏にもう一人いるかもしれない。たとえば私の裏に文明があるかもしれない。過去の、未来の一コマが、事実の流れが、今、重なっている可能性があり・・・ 生きているその時、ただ細胞が動き、血が流れているだけとは言い切れない。ただ感じ取れないだけであって、内に、事実は何が起きているのか判らない。何を以って固定、規定すればいいのか知らない。ただ、)「他には無い。」ひとつにしてくれます。   認識という型枠を外しても「ほか、ない。」は独立し、固定しています。認識しなくても、出来なくてもコンクリートは独り立ちしてくれました。   ちなみに車輪止を打とうとしても「ほかにはない。」が故に、するするとすり抜けてしまう。「ほか、ない。」には終着は有り得ません。   可能と不可能について。「ほか(には)ない。」の1地点において、チョイスされた一つが可能(存在)でその他が不可能(非存在)である。「ほか、ない。」においては実行不能が発生する。できることの裏には出来ないことが無限に仮存在していた。さらに現前を思い凝らせて行くと難易度が肯定される。手を叩くのは簡単だが、そこに地球を創造するのは容易ではない。   神の有無。無限の「ほか、ない。」における現前のここまでの、この惨状(=客観的人的基準から)。それを救えていないが故、神は存在しない。無限に「ほか、ない。」以上、次から次へと掴み続け、未到点が存在し続ける。全知全能という概念も否定される。非存在の観点から捉えた場合もそうなる。全知全能神は無い。間違いである。もとより、広がっていくので、「全て」という概念が誤りなので「全て」を救える者は存在しない。   しかし、この惨状、惨状と言えるからには昇華へのモチーフになる。「ほか、ない。」に息する「流れ」はあろう。プログラム、そのミスか。あるいはテストか。   (2)へ続く…
  • 誠実主義
    • 14,675
    • 2017/12/21 17:38
    誠実主義を基本に語っていきたいと思います これで自分の言動に題がピッタリくる
  • ☆ カントの道徳 ☆
    • 2
    • 2017/12/21 00:09
    ☆ カントの道徳 ☆ 井出 薫  カントは、道徳律は定言命令だと主張する。つまり、道徳律は「これこれの理由から、こうしなくてはならない」という性質のものではなく、無条件に「こうしなくてはならない」という義務だ、とカントは考える。  これは、殺人を例にとって考えると分かり易い。  「なぜ、人を殺してはいけないのか」こう問われると、案外、答えることが難しい。  よくある回答は「君は殺されたくないはずだ。だから殺人は許されない。」というものだ。  これは次のような推論に基づく。 (1)私は殺されたくない。 (2)私以外の者も、私と同じ人間である。 (3)1と2から、「私以外の人間も殺されたくない」が導かれる。 (4)人が嫌がることをしてはならない。 (5)3と4から、「人を殺してはならない」が導かれる。  一見、筋の通った明快な論理に見えるが、かなり無理がある。  (1)については、「別に殺されたって構わない」と考えている者が存在する。自殺をする者は、自分で自分を殺しても構わないと考えている、と言えなくもない。  (1)は正しいとしても、(2)は相当に疑わしい。(2)は哲学では他我問題、他者問題などと呼ばれ、近代哲学の最重要問題の一つとして挙げられているが、フッサールなどの天才哲学者の優れた考察を以ってしても解決に至っていない問題として残されている。また、人によって趣味や信条は異なる。自民党の政策が正しいと考える者もいれば、共産党の主張が正しいと考える者もいる。巨人ファンもいれば、阪神ファンもいる。ごくマイナーだがヤクルトファンもいる。従って(2)の正しさは証明されていないし、そもそも正しいかどうかが疑わしい。  仮に、(1)から(3)が正しいとしても、(4)の正しさにもはっきり疑問がある。たとえば、予防注射を子供が嫌がっているからと言って注射を止めることは正しいだろうか。犯罪者が「刑務所には行きたくない」と言ったら、放免してよいのか。(4)は普遍的な真理ではなく、状況依存の相対的な真理に過ぎない。  さらに、(1)と(2)から(3)、(3)と(4)から(5)の推論にもいささか飛躍がある。  この例からわかる通り、「人を殺してはいけない」を他の根拠から導き出すことはできない。「君は殺されたなくはずだ」以外の事実を持ち出しても、ここで展開した論理と同じように、その推論に無理があることを示すことができる。  道徳規則(「人を殺すな」、「暴力を振るうな」、「嘘を吐くな」、「盗むな」、「人を苦しめたり、悲しませたり、悩ませたりするな」など)は、世界の事実から導かれるものではなく、それ自体で真(善)であり、論理的な根拠がなくとも人として従わなくてはならない義務である、これがカントの道徳哲学だと言ってよい。  しかしながら、カントの主張は、功利主義とは明確に対立する。功利主義はベンサムの「最大多数の最大幸福」のスローガンに示される通り、社会的な福利の増進をもたらすものこそが道徳律となるべきだと考える。つまり、カントと異なり、功利主義は幸福を増進するという世界の事実から道徳律を導く。功利主義はそれゆえ、カントの義務倫理に対して価値倫理だと言われることもある。そして、現代社会において最も影響力のある道徳哲学は功利主義だと言ってよい。多数決の原則は功利主義に基づく。また、功利主義ではないが、ヘーゲルの道徳観もカントとは異なる。  もちろん、道徳哲学の優劣を多数決で決めることはできない。功利主義が支配的だからと言って、功利主義がカントの義務倫理に優るとは言えない。どの道徳哲学が正しいかの答えは誰も分からない。  いずれにしろ、殺人を悪とする理由を問うときには、カントの考えが、一番説得力がある。功利主義では「悪い社会体制を倒すためには、闘争の過程で、何の罪もない子供が死んでもやむを得ない。」というような発想が安易に出てくる危険性がある。確かに現実には、戦争や暴動で人が殺されている現実がある。それを否定することはできない。しかし、戦争や暴力を否定し、平和と対話をとことん追求するのであれば、カント的な観点に立つことが必要だと思われる。 (注)但し、他の問題では、功利主義など他の道徳哲学がカントの道徳哲学に優ることが多い。詳細は別の機会に論じる。
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