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  • イクストラン君の哲学探求の結晶
    • 79
    • 2017/12/14 10:54
    http://www.eleutheria.com/ イクストラン君を好む人も、嫌う人も、彼の真剣さに心を打たれ、 驚嘆の念を覚えるだろう。
  • 元書
    • 876
    • 2017/12/14 09:13
    基本ゆえ元書となずけてみる。
  • 西洋哲学の爆発
    • 7
    • 2017/12/14 07:40
        西洋哲学というのは、2000年ぐらいから爆発してしまったのではないだろうか  どこを向いても、大量に言説が生産されている。  分析哲学系も、大陸哲学系も、オーストラリア存在論派もイタリア存在論派も、どんどん発展している。英米圏の哲学はアフリカにまで手を出している。  それに比べると、日本は旧態依然としてして、こんな状態では、東洋哲学の気の実践システムを紹介導入することにアイデンティティや活路を見いだした方がいい。
  • 哲学大図書館
    • 2,988
    • 2017/12/13 23:55
    蔵書目録
  • カント先生について勉強してみる。
    • 1,366
    • 2017/12/13 22:32
    カント先生の思想を、わかるところだけでも理解したいと願い、少しずつでも勉強していけたらなとスレッドたててみました。よろしくお願いします。
  • get953さんと語ろう!
    • 19,178
    • 2017/12/13 21:42
    YAHOO哲学板の「知の巨人」、get953といろいろ語りましょう。getさん、よろしくお願いします。
  • 世界一 美味しい食べ物
    • 6
    • 2017/12/13 17:49
    インドカレー
  • ☆ 哲学とは何か ☆
    • 2
    • 2017/12/13 17:48
    ☆ 哲学とは何か ☆ 井出 薫  何が真理かではなく、そもそも真理とは何を意味しているのか、なぜ真理を探究するのかを問うのが西洋哲学=哲学だ。  哲学の原点であるプラトンとアリストテレスがこれに答えを与えた。「人は知ることを楽しむ動物であり(アリストテレス)、真理を探究する者こそが人間社会を支配するべきである(プラトン)。」真理の探究は人間と社会の本質に属する、だから人は真理を求めるというわけだ。そして、真理とは、「移ろい易い目に見える世界を超越したイデア(プラトン)、あるいは事物を概念分析して得られるエイドス(アリストテレス)」を意味する。  その後、プラトンやアリストテレスの答えに満足しない多くの哲学者たちが、この問題に様々な解答を与えてきた。プラトンを継承して真理そのものを問う哲学こそ人間の最も高貴な行為だとする者がいる一方で、ニーチェのように、真理の探究とは現実を肯定することができない弱者の恨みが生み出した歪んだ活動に過ぎないと主張する者もいる。  このように哲学そのものに否定的な意見もあるが、哲学は依然として真理の意味とその背景にあるものを探究し続けており、その活動は社会の中で一定の評価を勝ち得ていると言ってよい。哲学という言葉は役に立たない学問を意味するという嘲りを受けることも少なくないが、総じて哲学は人生と社会の真実とあるべき姿を考察する優れた学問的営為だと評価されることが多い。  だが、哲学が2千年以上も前から同じ問題を問い続けてきたというのに、未だに意見の一致を見ないのは不思議だと思う読者もいるだろう。そこから哲学は(虚偽意識という意味での)イデオロギーに過ぎないという見方も出てくる。  プラトンの時代と比較して、科学技術が飛躍的に進歩し産業が地球的規模にまで拡大した現代、それなりに評価されているとは言え、哲学の意義を本気で信じる者はごく少ない。哲学は骨董品として評価されているだけなのかもしれない。だから、哲学には現代的な意義があると考える者は、なぜ哲学では意見が一致しないのかを説明する義務がある。さもないと哲学は大学と学会と出版社という箱庭での(高尚だと思われているだけの)遊戯に過ぎなくなる。  それは文学や政治で意見が一致しないのと同じだという説明がある。しかし、「文学的な真理」、「政治的な真理」の「真理」とはそもそも何かを問うのが哲学である以上、政治や文学の実情を引き合いに出して哲学を説明するわけには行かない。順番が逆なのだ。哲学的考察から、文学や政治で意見の一致がみられない理由が解明されなくてはならない。  言葉の創造性、それが哲学で意見が一致しない理由だ。言葉の創造性と言っても、人の言語使用は生物的にも社会的にも強く環境に拘束されている。だから、私たちが言葉を自由に操り創造することができるわけではない。とは言え、言語使用の現場に「創造性」と呼べるような機構が備わっているのは否定できないだろう。この創造性の働きで、プラトンが哲学Pを提示すると、それを解体する哲学Aが必ず登場する。この過程には限りがなく、哲学は同じ問題を探究しながら見解の一致に至ることがない。  しかし、こういう説明には簡単に反論ができると言われるだろう。「言葉の創造性が幻想ではなく事実であると証明できるのか。(できない)」、「言葉の創造性という表現でそもそも君は何を意味しているのか。(明確な解答はない)」、「それはどのようにして見解の不一致という事実と繋がるのか。(因果的な説明は不可能)」  このような論難に明快な説明を与える能力もページの余裕もないが、正にこのような絶えることなく続く問いの連続に、読者は言葉の創造性と哲学の可能性を見てとることができると思う。これこそが哲学という営為なのだ。 了 (H17/9/4記)
  • 哲学カテゴリーには
    • 3
    • 2017/12/13 17:48
    カルトの人達が多いな
  • イスラムって
    • 3
    • 2017/12/13 17:48
    よくわからないな
  • ☆ 哲学と教育 ☆
    • 5
    • 2017/12/13 17:47
    ☆ 哲学と教育 ☆ 井出 薫  デューイは、哲学とは教育の一般理論であると述べている。これはぴんとこないかもしれないが、正しい見方だ。  自然は人間の意志から独立した法則で特徴付けられる。重力の法則を知らなくても私は重力の法則に従っている。近代物理学を知らなかった古代の人々や他の生物も重力の法則に従っている。自然法則に従うために自然法則を学ぶ必要はない。  一方、社会は規則の集合体として特徴付けられる。規則は法則と異なり自動的に従うことはできない。規則に従うには、まず規則を学ばなくてはならない。物理法則に従うために物理法則そのものを学ぶ必要はないが、物理法則の研究や学習をするには、それに必要となる社会の規則-学校に行き学則を守って勉強をする、など-を学ばなければならない。  人は社会の成員として生きていくために規則を遵守する必要があるが、そのためには教育が欠かせない。教育があって初めて社会が成り立つ。教育は社会の根幹だ。  教育されるべき科目は極めて多岐に渡るが、科目によって異なる教育方法が採用されたのでは教育活動は円滑に行なわれない。だから組織と方法において一貫した思想と施策が必要となる。それを考察することこそ、諸学の王たる哲学の使命だ。  西洋哲学の原点とも呼ぶべきソクラテスは偉大な教師だった。青年達との対話に残されたソクラテスの言葉と実践は、どのような教育が必要か、どのような方法を採用するべきかを教えている。ソクラテスの生き様に哲学が教育の一般理論であることが示されている。 (H19/7/16記)
  • 西洋哲学って
    • 4
    • 2017/12/13 17:47
    人気ないな
  • 日本って
    • 13
    • 2017/12/13 17:46
    祝祭日 多いな
  • ☆ インフレは徴候 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 17:46
    ☆ インフレは徴候 ☆ 井出薫  近頃の報道で気になることがある。アベノミクスの真の目的は景気回復と持続可能な経済成長にある。ところが、物価上昇率(インフレ率)ばかりが注目され報道されている。  ウィトゲンシュタインは基準と徴候を区別した。たとえば、インフルエンザの基準は、インフルエンザウィルスが体内に侵入し、細胞内で増殖し細胞を破壊して外部にウィルスが広がる状態とされる。一方、インフルエンザの徴候として、急な発熱、悪寒、関節痛などが挙げられる。インフルエンザの基準が満たされればインフルエンザは確定する。しかし徴候だけではインフルエンザが疑われても、断定はできない。同じような症状を示す病気は他にもたくさんある。また、インフルエンザの基準が満たされても、必ずしも徴候が現れないことがある。身体が頑健あるいはワクチンの効果などにより、微熱くらいで徴候がはっきりしないことは珍しくない。つまり基準と徴候との間には関連があるが、明確な因果関係が存在するとは限らない。ウィトゲンシュタインは、人々がしばしば基準と徴候を混同して誤った議論をしていると警告する。  インフレ率は基準ではなく徴候に過ぎない。確かにインフレと好景気、失業率の低下などには正の相関がある場合が多い。インフルエンザが流行しているとき、開業医たちは、簡易検査キットでインフルエンザウィルスが検出されなくても、39度を超える高熱や関節痛がある場合、インフルエンザと診断して抗ウィルス薬を処方することがある。診療所での検査では精度の点で限界があり、かと言って、全ての患者を大病院に紹介することは現実的ではない。それゆえ開業医たちは時として徴候を頼りに診断をくだす。そしてそれは決して誤った措置ではなく、患者の苦痛と危険を防ぐ賢明な措置だと評価される。それと同じ意味で、便宜的にインフレ率を景気回復の指標として使うことも間違いとは言えない。  しかし、景気回復や経済成長の判定は、感染症患者の治療のように急を要する問題ではない。それゆえ、インフレ率だけを見て、景気回復しているかのように報じることには問題がある。そもそも長いデフレの反動でインフレが良いことであるかのように論じられることがあるが、インフレ自体は決して良いことではない。インフレになっても収入が増えない高齢者や自営業者にとって、インフレはしばしば大きな打撃となる。ただ現代の自由主義経済では、インフレ率がマイナスあるいはゼロ状態で好景気が出現することはまずない。だからインフレ率を景気判断の材料に使っている。だが景気はインフレ率だけでは決まらない。  景気が悪化しているなどと批判するつもりはない。しかしインフレ率だけに注目し景気判断するような姿勢は厳に慎む必要がある。特に影響力の大きい報道機関には冷静な分析が求められる。 了 (H26/4/6記)
  • ☆ 比較優位の原則 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 17:46
    ☆ 比較優位の原則 ☆ 井出 薫  サミュエルソンは経済学で最も重要な発見は何かと尋ねられて「比較優位の原則だ」と答えたそうだ。各国(あるいは地域)は自分の得意な分野に専念することが得策だというこの原則は、現代経済学の中心的な思想となっている。  グローバル経済の進展で、この原則は現実のものとなっている。日本車に乗り、台湾製のパソコンでアメリカ製のプログラムを動かす、今やこれはごく普通の光景だ。世界各国・各地域はそれぞれ得意な分野で人々の生活に貢献している。  比較優位の原則は、物理学におけるエネルギー保存則に等しい地位にあると言う人もいる。しかし、比較優位の原則はエネルギー保存則のように絶対的なものではない。エネルギー保存則に逆らうことは不可能だが、比較優位の原則に反する経済政策や経営を実行することは容易く、賢明な策であるかどうかは別として実際しばしば実行される。さらに、エネルギー保存則には道徳的な意味はないが、比較優位の原則には道徳的な意味がある。些か単純すぎる見方だが、この原則を徹底すると、比較優位でない事業からは撤退するべきだということになる。だがそうすると比較優位でない事業に従事する者は不利益を蒙る。個人に着目すれば、その事業に従事することがその本人にとっては比較優位なのだが、比較優位の原則はマクロの原理だから個人は切り捨てられる。  小泉・竹中改革は規制撤廃と行財政の構造改革で比較優位の原則を徹底しようとする試みだったと言える。改革の成果で国際競争力のある企業や業界は利益が増大しマクロレベルでは日本経済は回復した。だがその一方で競争力の乏しい分野や不採算事業は切り捨てられ、地方経済は衰退し、経済格差が拡大した。都会では小泉前首相の人気は依然として高いが、地方では小泉改革への批判の声は小さくない。  比較優位の原則に従えば、都会は都会が得意なことを遣り、地方は地方が得意なことを遣れば、両者とも豊かになるはずなのだが、経済がグローバル化するとそうはいかなくなる。国が経済的な基礎単位となり、国内ではなく世界的規模の経済圏で比較優位の原則が働くことになるから、一国の中で特定の業界や特定の地域が有利になることは避け難い。地方経済衰退や格差拡大の原因をすべて規制緩和や構造改革に求めるのは誤りだが、少なからぬ影響を与えていることは事実だ。  国際的にも、比較優位の原則は発展途上国の経済成長を促し貧困を解消することに貢献するよりも、寧ろ貧しい発展途上国の劣悪な生活環境を再生産しているようにみえる。現象的には、発展途上国ではマルクスが告発した状況が依然として続いている。  マクロの次元で適用される比較優位の原則は、普遍的な原理ではなく、政策立案で参照するべき原理の一つと考えるべきだろう。これを過大評価すると、人は単なる生産と消費の道具と化し、人は目的であることから手段へと貶められることになる。  比較優位を重要な発見とする経済学は、人文社会科学の諸分野の中で、最も整備された体系を有し、実用性の高さも際立っているが、自然科学における物理学に匹敵するような絶対的な地位を占めるわけではない。経済学の研究と応用では、常に理論の有効性の検証と道徳的な吟味が必要となる。このことをけっして忘れてはならない。 (H19/9/24記)
  • ☆ 推移律 ☆
    • 3
    • 2017/12/13 17:45
    ☆ 推移律 ☆ 井出 薫  a~bかつb~cならばa~cが成り立つとき、「~」で表現される関係は推移律を満たすと言われる。たとえば等式は推移律を満たす。a=bかつb=cならばa=c。また大小関係も同じ。a<bかつb<cならばa<c。自分の好きな食べ物も推移律が成り立つ。焼肉よりも鰻重が好き、鰻重よりも寿司が好きという人は、焼肉よりも寿司が好きだということになる。  推移律を満たす関係は多いが、どんな関係でも推移律が成り立つわけではない。「じゃんけん」で、グーはチョキに勝ち、パーはグーに勝つ、だがパーはチョキに負ける。だから「じゃんけん」では推移律は成り立たない。人の好き嫌いも同じで推移律は成り立たない。bがaを好きで、かつ、cがbを好きだとしても、cがaを好きだとは限らない。  人は一般的に推移律が満たされる、満たされないといけないと考えがちだ。ママが子犬のポチを愛していて、パパがママを愛しているのならば、パパもポチを愛さないといけないと言われる。だがパパが犬嫌いだったら如何ともしがたい。首位を独走するチームが他のチームには圧倒的に勝ち越しているのにダントツで最下位のチームに負け越していると文句を言う人がいる。だが、強い・弱いの関係は必ずしも推移律を満たさない。現実の社会に存在する関係は推移律が成立しない(させることもできない)場合が多い。  経済学に「アローの不可能性定理」と呼ばれる定理があり、「民主的な社会で、全員の意見を集約した最良の政策を選択することは不可能だ」という結論が導かれる。アローの定理に関わりなく、最善の選択をすることは現実的・技術的に困難だが、原理的にも不可能だと言うのは納得がいかない。不可能だとすると、民主制は少なくとも独裁制よりは善い社会体制だと言える根拠がなくなってしまう。  アローの定理の証明では、各成員が希望する政策の選択順位に関して推移律が仮定されているが、たぶんここに現実との乖離があると思われる。人は周囲の動向に配慮しながら自分の意見を決める。だから推移律を仮定することはできないのではないだろうか。-ただし、このような厚生経済学の数理論理学的研究が現実にどれほどの意義があるのかは疑問だ。-  いずれにしろ、私たちは「じゃんけん」のような推移律が成立しない遊びを年中しているにも拘わらず、推移律を暗黙のうちに前提してしまうことが多く、諍いのもとになったりする。おそらく人間の脳には推移律を仮定する傾向があるのだろう。だから人と論争するときは、間違って推移律を仮定していないか注意が必要だ。
  • 同性愛者比率の一番高い国は、
    • 5
    • 2017/12/13 10:53
    イスラエルらしい。(?)
  • ☆ 言葉と思考 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 10:53
    ☆ 言葉と思考 ☆  「re」という接頭辞には「再び」という意味がある。presentationは「いま、ここに、存在していること」という意味だから、re-presentationという言葉は、「存在が再度到来すること」という意味になる。ポストモダニズム系の哲学書でrepresentationを「再現前」と訳すことがあるが、それはこの意味だ。しかし、日本語では、普通こういう訳し方をすることはなく、大抵は「表現」と訳す。そもそも、「再現前」という言葉は、日本語としては極めて不自然な表現であり、哲学の専門用語として一部の人たちが使うだけのものでしかない。  しかし、英語やフランス語を母国語とする人たちには、presentationとrepresentationという対比は極めて自然なものであり、そこに、現前と再現前という意味合いを読み込むことは容易であり自然なことだろう。  事実、西洋哲学思想では、この両者の対比から、イデアとその写し、形相と質料、本質と現象、主体と客体、精神と物質などという二元論的な思考方法が生み出されてきた。そして、この二元論的思考方法は根強く生き残り、今でも西洋思想を支配している。 (注)presentationとrepresentationが、差異を保ちながらも、本質的には同じものの二つの現れであることから、この二元論は背後に一元論を抱え込んでいる。そのことを明確に示したのがヘーゲルである。「差異」と「同一」は差異であることにより同一なのだ。  70年代以降新しい哲学的潮流となっているポストモダニズムは、この二元論的思考を解体することを主要な目的としているが、そのことこそ、二元論的思考方法の根強さを証明している。そして、一部のポストモダニストたちが指摘しているとおり、この思考方法の根強さは、その言葉のあり方に基づいている。  一方、日本語には、このような二元論的な思考が定着するような言葉の対比が存在しない。花、生花、造花、これらは、花というpresentation、そのrepresentation、そのまたrepresentationだと言えなくもないが、こんなことを言っても、一部の哲学愛好家を除いては、全く意味のない駄弁だと笑われるだけだろう。事実、このような表現は言葉遊びに過ぎず、大した意味はない。 (注)西洋哲学は、西洋の言葉においてのみ、意味があると言ってもよいかもしれない。  私たちの思考方法は、言葉に強く影響される。無意識のうちに、言葉の形式から思考の形式が強制されることもある。バイリンガルの人は、話す言葉で考え方が変わると言われることがあるが、使用している言葉により思考が規制されるからだろう。  私たちが日頃感じている以上に、言葉は思考を強く支配するらしい。だから、人生や社会の在り方など哲学的な問題を考察するときには注意が必要だ。  その一方で、人間は自分の考えに固執しがちであるから、自分の思考を相対化するために母国語以外の言葉で考える習慣をつけるのは良いことだ。尤も、筆者のような語学音痴には、ちと無理なのが残念なところだが。 了
  • 日本列島の亜熱帯気候化
    • 4
    • 2017/12/13 10:53
    どうやら 真実のようだ
  • ☆ 話し言葉と書き言葉 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 10:52
    ☆ 話し言葉と書き言葉 ☆ 井出 薫  私たちは話し言葉と書き言葉をはっきり違うと考えている。  だが、次のような事例を考えると、どうなるだろうか。 ①普通に話しをする→話し言葉 ②無声で唇の動きだけ話し言葉を真似る ③手話あるいは身振り言語 ④一文字だけ書かれた板を次々と相手の前に提示する。たとえば、「あ」、「い」、「し」、「て」、「い」、「る」という板を次々と掲げる。 ⑤書物→書き言葉、文字の集合  このように、話し言葉と書き言葉の間には様々な中間的なニュアンスの言語形態がある。つまり話し言葉と書き言葉は断続した二項ではなく、連続して移行しあう言語形態の両端とでも言うべきものなのだ。  おそらく、人間の思想とか、言葉とかは連続的に変化していく。デカルト、ニュートン、ライプニッツ、ガウス、ダーウィン、アインシュタイン、フォン・ノイマン、こういう大天才が登場して、私たちの知を一新すると考えられている。だが、ニュートンとライプニッツが微積分学発見の優先権を巡って争ったように、偉大な思想が生まれるときには、必ず、先駆者がいて、優先権を争うライバルがいる。ニュートンもダーウィンも突然変異で生まれたのではなく、時代が成熟していく中で、歴史の象徴として召喚されることとなったのだ。  言葉の変化や文字の誕生の過程は、一つの連続的な過程で生じた出来事であり、そのような視点から語るべきだろう。しばしば取り上げられる「無文字社会」という概念自身がすでに一つの囚われた考え方なのかもしれない。 (H19/1/14記)
  • ☆ 内包論理 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 10:52
    ☆ 内包論理 ☆ 井出 薫  内包論理なる一風変わった論理がある。余り使われることはないが、人間の信念などに関わる論理や様相論理は内包論理になる。  説明のために、二つの命題を例にあげる。 命題1「中国の国家主席と日本の首相が10月8日に北京で会談を行なった」 命題2「山田さんは「中国の国家主席と日本の首相が10月8日に北京で会談を行なった」ことを知っている。」  山田さんは会談の事実を新聞やテレビのニュースで聞き、知っていたとすると、二つの命題はどちらも真になる。  ここで、二つの命題に含まれる二つの言葉、「中国の国家主席」と「日本の首相」を外延(言葉など記号が指し示す対象、この場合、中国の国家主席と日本の首相という二人の人物のこと)が等しい別の言葉で置き換えてみよう。「中国の国家主席=胡錦濤」、「日本の首相=安部晋三」だから、二つの命題は命題3、4のように変換される。 命題3「胡錦濤と安部晋三が10月8日に北京で会談を行なった」 命題4「山田さんは「胡錦濤と安部晋三が10月8日に北京で会談を行なった」ことを知っている。」  ここで、命題3は真であるが、命題4は真であるとは限らない。山田さんは報道で日本の首相と中国の国家主席が会談を行なったと聞いたが、中国の国家主席が誰であるか知らない可能性がある。日本の首相がまだ小泉さんだと思い込んでいる可能性もある。要するに、命題1と命題3のような普通の述語論理命題では、命題の一部要素を外延が等しい別の記号で置換しても真理値(真か偽)は変わらないが、命題2と命題4のような命題では、命題の一部を外延が等しい記号で置換したときに真理値が変わる可能性がある(真ではなくなる可能性がある)。  命題2と4のような論理を内包論理と呼ぶ。  様相論理学も内包論理になる。 命題1「「地球は月よりも大きい」は真理である」 命題2「「地球は月よりも大きい」は必然的な真理である」 命題3「「1+1=2」は真理である」 命題4「「1+1=2」は必然的な真理である」  ここで、命題1、3と4は真理であるが、命題2は真理とは言えない。地球が月よりも小さいということはありえることで、地球が月よりも大きいということは偶然的な真理に過ぎないからだ。  同じ真理値(この場合「真」)を持つ二つの命題「地球は月よりも大きい」と「1+1=2」を置換することで、真理値が変わることがありえるから、事実として真理、可能的な真理、必然的な真理、などという複数の真理概念を有する様相論理は内包論理となる。 (注)「真」、「偽」という真理値を「外延」つまり記号の指示対象だと考えることには違和感があるかもしれない。真や偽は、日本の首相や中国の国家主席のように、明確に指示できる具体的な物的対象ではない。しかし、現代の論理学では、真理値も記号の指示対象つまり外延の一つと考える。  私たちがコンピュータなどで使用している論理はほとんどが二値論理で、内包論理が登場することは少ない。-もちろん、コンピュータで内包論理を扱うことはできる。-こんな論理はややこしいだけで実用にはならないと言う人もいる。  しかしながら、私たちの知識の大部分は、「私は学校で、地球は月より大きいと教わった、他の人もそう言っているから多分間違いないはずだ」、「中国の主席は確か胡錦濤さんだったと記憶している」という類のもので、自分の知識の正しさを理路整然と疑いの余地なく証明できることは少ない。  また、私たちは、常日頃から、ある出来事が必然的な出来事であるか、偶然の出来事であるかを気にしている。自動車事故が飲酒運転による(ほぼ)必然的な帰結だったのか、不可抗力による偶発的な事故だったのかで、その責任は全く異なってくる。数学の真理は必然で、プレイオフで日本ハムが優勝したことは偶然の出来事だと考える。だからこそ「信じられない!」なのだ。  内包論理は複雑で、現代の科学技術では余り使用されることはない。しかし、人間と社会を理解する上では案外有用ではないかと考えられる。たまには、内包論理を勉強されるのもよいだろう。 (H18/10/15記)
  • ☆ 数学の不思議 ☆
    • 6
    • 2017/12/13 10:52
    ☆ 数学の不思議 ☆  数学は最も確実な学問だと言われるが、どうも納得がいかないことが多い。自然や自然科学、科学技術にすごく興味があるのだが、数学が苦手なので諦めた、という御仁は少なくないだろう。  解析学でご厄介になる無限小というやつがよく分からない。無限小はゼロではない、だが、どんな数よりも小さい。う~ん、そんな数があるのだろうか?実際、イギリス経験論のバークレーは無限小などというものは無意味だと批判した。だが、この問題はロビンソンという頭のよい数学者が無限小を実在する数と同じように扱う手法-超準解析と呼ばれる-を開発したおかげで、肯定的に解決された。無限小は存在する。だが、超準解析が凡人には理解できないから、数学者や頭の凄くよい人以外には肯定的に解決されたと言えるかどうか疑問だ。  どうしても納得いかないのが仮言命題「pならばq」というやつだ。仮言命題は、pが真でqが偽の場合だけ偽になる。あとはすべて真だ。だから、pが偽のときは、qが真だろうが偽だろうが、仮言命題は真となる。  「日本と韓国は陸続きである、ならば、地球は月より小さい。」は真だ。だが、どうして、こんな命題が真になるのか全く理解不能だ。  しかし、こういう風になっていると非常に便利なのだ。数学体系が矛盾していないことの証明が簡単になるからだ。(説明を注に示す。ただし、数学が苦手な人は読まない方がよい。 )  他にも、特異点を含む積分、ヒルベルト空間など現実離れしたことが多く、数学は理解しがたい。理解しがたいのに現代人は数学を崇拝している。数学の天才こそ真の天才と考えている人が多い。数学の不思議とは現代人が数学を崇拝していることにある。 了  (注)一見したところ、矛盾していないことを証明することは凄く難しいように思える。次から次へと証明を続け、矛盾した命題が証明されないかどうかを確かめなくてはならないように思えるからだ。だが仮言命題の性質を利用すると、矛盾していないことの証明が簡単になる。pが偽ならば、「q」と「qでない」の両方が証明される。つまりすべての命題が証明されることになる。この事実の対偶をとれば、こうなる。「一つでも証明できない命題が存在することが証明できれば、数学体系は無矛盾である。」要するに一つでも証明できない命題を作ることができれば、その数学体系は無矛盾であることを証明されたことになる。 (H15/6/24記)
  • ☆ 奇跡 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 10:06
    ☆ 奇跡 ☆ 井出 薫  「起こりえない」ことが起こったときに、人はそれを奇跡と呼ぶ。だが起こったのであれば、それは「起こりえない」ことではなかったことになる。だとすると、起こりえないことが起こるということを奇跡だと言うならば、それは矛盾だ。奇跡はありえない。  奇跡は論理を超えたところにあり、それはキリストの復活のような人智を超えた出来事にだけ適用される。そう考えることはできる。しかし日本人の「奇跡」という言葉の使い方は違う。サッカー日本代表がブラジル代表に10-0で勝利を収めたら、奇跡が起きたと日本人は大騒ぎをするだろう。しかし、この程度のことは、奇跡でもなんでもなく、こんなところで「奇跡」という言葉を使うのは、神にのみ適用される「奇跡」という概念を世俗的な出来事に適用する不遜極まりない振る舞いだということになる。  人々は、そんな厳格な意味合いで「奇跡」という言葉を使っているのではない。「起こりえないことが起きる」のではなく、「起きそうもないことが起きた」ときに、現代人はそれを奇跡と呼び、喜び、感謝しているだけなのだ。  だが、これは非常におかしなことではないか。起きそうもないかどうか、つまり確率が低いか高いかは人間的な基準で如何様にでも変わる。サッカー日本代表が2点差でブラジル代表に勝つ確率が1%だとして、それを限りなくゼロに近いとみるか、十分に可能性があるとみるかは、時と場合と人による。だから、有限の確率を持つ事象の発生を「奇跡」という言葉で表現するのは、論理的にも(信仰の篤い人にとっては)倫理的にも、適切なことではない。  「だが、そんな理屈を捏ねていたのでは、言葉を自由に使うことはできなくなる。」こう指摘されるだろう。そのとおりだ。だが、人がこういう言葉の使用方法に潜む矛盾を看過して暮らしていることを忘れない方がよい。権力者や報道の甘言に惑わされないためにも。 (H18/7/2記
  • ☆ 物理学の将来 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 10:05
     一昨年、ヒッグス粒子が発見されて、素粒子の標準理論は揺るぎなく検証されたことになる。しかし、現在の標準理論には幾つかの不満足な点がある。電磁相互作用と弱い相互作用は統一されたが強い相互作用との統一は不完全であること、重力相互作用との統一が全く手付かずであること、任意のパラメータが多すぎること、階層性問題(電磁相互作用と弱い相互作用が統一されるエネルギーレベルと、これらの二つの相互作用と強い相互作用が統一されるエネルギーレベルが著しく乖離していることの理由が不明であること)、など多くの解決すべき課題が残されている。  そこで次に期待されているのが、超対称性理論だ。超対称性理論を、素粒子を紐と考える紐理論に応用した超弦理論は、森羅万象を説明し、宇宙の誕生から未来を説明する究極理論として期待されている。 (注)但し、究極理論が完成しても、私たちの身の回りの複雑な現象-その最たるものが生命現象-が説明できるようになるわけではない。この世界は、(少なくとも私たち人間の認識能力からすると)階層構造をなしており、素粒子や宇宙の謎を解く究極理論が完成しても、科学の謎が全て解ける訳ではなく、ほんの一分野の問題が解決されるに過ぎない。但し、だからと言って、究極理論の探究が無意味になる訳ではない  超対称性理論とは、光など相互作用を媒介するボーズ粒子と電子など物質を構成するフェルミ粒子との間の対称性を仮定する理論で、光や電子など既知の粒子には全て、そのパートナーと呼べる超対称性粒子が存在することを予言する。そして、ヒッグス粒子を発見したCERN(欧州原子核研究機構)の(現時点で世界最大の)素粒子加速器LHC(大型ハドロン衝突型加速器)では、次の目標として、超対称性粒子の発見が掲げられ研究が進められている。超対称性理論が正しければ、LHCのエネルギーレベルで超対称性粒子の発見が可能だと予測されている。  だが、今のところ、超対称性粒子発見の兆しはない。もし、LHCで超対称性粒子が発見されないと、超対称性理論の妥当性に疑問符が付き、次の研究段階へと進むことが難しくなる。LHCを超える巨大な素粒子加速器建設の計画を経済成長著しい中国が発表して、期待されているが、超対称性理論あるいはそれに代わる有力な理論が確立されないと、どの程度の規模の素粒子加速器を作れば良いのか見当が付かない。LHCを超えるエネルギー規模の素粒子加速器を建設したものの、何も新しい発見がないということにもなりかねない。そもそも巨大な加速器建設には莫大な資金(運転資金を含めると1兆円を超える規模)を要する。その投資は様々な場所に流れ、経済効果を生み出すが、それでも、霞を食うような素粒子論や宇宙論の研究のためではなく、もっと別の研究、人々の福祉に直接つながるような研究に資金を投じるべきだという意見は根強い。そして、それは尤もな意見でもある。従って、次世代の巨大加速器建設に人々の賛同を得るためには、確実な成果が期待できるものでなくてはならない。  20世紀初頭の量子論、相対論に始まる物理学革命は社会に巨大な影響を与え、日常生活と産業を一新した。しかし物理学の全分野ではないが(注)、素粒子論や宇宙論など基礎的な分野では、上で見てきたとおり、限界が見えてきているように思われる。超対称性粒子が発見できないようでは、究極理論の候補として期待されている超弦理論は数学的には素晴らしいものではあるが、理論的な予測を検証することが困難な、永遠の仮説で終る可能性がある。 (注)超伝導・超流動、ソフトマター、結晶・準結晶、さらには身のまわりの様々な物理現象、たとえば硬貨の回転運動などは、先にも述べたとおり、超弦理論のような基礎理論からは直接導出できず、現象論的な研究がメインとなる。その結果、これらを扱う物理学の分野では、まだまだ誰も解決していない無数の謎が存在する。そして、新たな謎が日々発見されている。そのことはいつの時代にも変わることはない。つまり、究極理論が発見されたとしても、物理学のほとんどの分野は依然として謎に満ちた状態に留まる。だから物理学が終わることはない。  このように、理論的にも、実験的にも、素粒子論や宇宙論など基礎的な理論物理学には限界が見えてきている。実験的な裏付けが困難になると、基礎的な理論物理学は、数学的整合性を競い合うだけのものとなる。しかし、そうなったら、それはもはや物理学ではない。ただの純粋数学になる。予測が実証されて初めてその正しさが認められる、それが本来の物理学の姿だからだ。果たして、物理学者は現状を乗り越え、実験的裏付けのある究極理論という新たなる物理学革命を準備することができるのであろうか。それは今のところ誰にも分かっていない。
  • ☆ 法と政治、憲法と現実 ☆
    • 3
    • 2017/12/13 10:05
    ☆ 法と政治、憲法と現実 ☆ 井出薫  政治が法を作り、法が政治を拘束する。これが法と政治の本来の在り方だ。しかし、日本では法と政治の間に大きな乖離があり、この原則から大きく逸脱している。集団的自衛権を巡る議論でも、この点を弁えた分析がなされておらず、言葉尻を捉えた不毛な論争に陥っている。  憲法第九条を普通に読めば、非武装中立が導かれる。第一項の戦争放棄だけではなく、戦力不保持と交戦権の否定が第二項に明記されているからだ。すなわち現行憲法は自衛隊と日米安保の存在を容認しない。ところが、歴代の自民党政権は、第一項は抵抗権を否定するものではないから、自衛のための戦力や自衛に必要となる他国との安全保障条約は違憲ではないという苦しい解釈で両者の存在を正当化してきた。しかし、あくまでも明文化された憲法を軸にして考える限り、この解釈には無理がある。況や集団的自衛権など、とんでもないということになる。  それでは自衛隊と日米安保を解散、解消すればよいのか。憲法上はそのとおりだが、そう簡単に話しは進まない。日本国民の多くは自衛隊と日米安保の存在を肯定的に評価しており、自衛隊解散、日米安保解消に賛同する者は少ない。その結果、憲法第九条の改正には否定的又は消極的だが、自衛隊と日米安保の必要性は肯定するという者が多くなっている。公明党が正にその典型と言ってもよい。しかし、この立場は上に示す通り矛盾がある。  この点、安倍首相など自民党タカ派の議論はある意味、一貫している。「自衛隊、日米安保を巡る法と政治的現実の矛盾を解消し、両者を十全に機能させるには憲法第九条の改正が欠かせない。ところが国民の多くが現実と憲法の矛盾に気が付いていない、又は、目を逸らしており、第九条の改正は容易ではない。だから、当座の戦略として憲法解釈の変更で集団的自衛権を正当化して対処する。」賛成するかしないかは別にして、この考えには一定の合理性がある。様々な状況を考えれば、自衛隊が専ら個別的自衛権の範囲で行動するだけでは対処できない場合も想定しうる。もちろん様々な状況に対して個別自衛権の解釈で対処可能という公明党の反論にも一理ある。しかし、それでは却って解釈が恣意的になり歯止めが掛からなくなる恐れがある。そもそも個別自衛権を拡大解釈していけば集団的自衛権を認めることと変わりがなくなる。寧ろ集団的自衛権を認めたうえで、法律で何ができるのか、何ができないのかを決めておく方が合理的だという考えもある。  法と政治的現実の矛盾を曖昧なままにして、日本はこれまで何とか辻褄を合わせてきた。しかし、そろそろ限界で、法と政治的現実を整合させるべきときが近づいていると思われる。当然、そこには二つの道がある。憲法を改正して自衛隊と日米安保を正式に認知する、つまり政治的現実に法を合わせる道と、憲法を堅持して、自衛隊と日米安保を解散、解消する道、この二つだ。  前者つまり現実に憲法を合わせる方がたやすい。平和外交を展開し、軍事費を一定範囲に抑制すれば、改憲に諸外国の理解が得られるだろう。徴兵制などが導入されない限りは国民生活への直接的な影響はさほど大きくない。それに対して、後者の道、憲法に現実を合わせることはたやすいことではない。超大国は平和を唱えながらいざというときには軍事力の行使を躊躇しない。尖閣はどうなるのか、力で他国に領土を支配されることはないのか、そういう不安は当然生じる。尖閣など大した問題ではないという意見もあるが、超大国に対して、その気になれば軍事力を背景にして領土、領海を拡大できると信じさせるべきではない。平和で公正な世界実現のためには超大国を制御する仕組みが欠かせないが、そのためにも簡単に領土を奪われるような愚を犯してはならない。それゆえ、憲法を堅持し、自衛隊と日米安保を解散、解消するためには、超大国の力を制御し平和な世界を構築する策と知恵がないとならない。しかし当然のことながら、容易ではない。  しかし、だからと言って、改憲の道を安易に選択するべきではない。上では「平和外交」、「軍事費抑制」などで諸外国の理解は得られ市民生活への影響も少ないと書いたが、第九条改正を梃子に軍備増強、全面的な武器輸出解禁などの動きが強まる可能性は低くない。戦争に巻き込まれ、あるいは国防の名の下に積極的に戦争を遂行し、多数の死傷者がでる危険性もある。改憲派の顔ぶれを見る限り、それを杞憂とは言えない。
  • 人間は
    • 12
    • 2017/12/13 10:05
    千差万別だ
  • ☆ 哲学的認識論 ☆
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    • 2017/12/13 10:05
    ☆ 哲学的認識論 ☆ 井出 薫  認知科学と哲学的認識論は異なる。前者は人間が事物や学問、社会的規則などを如何に認知し自分のものとするかを問題とするが、後者は正しい知識とは何か、それをどうすれば得られるかを問題とする。  両者の境界は必ずしも明確ではない。近代の哲学的認識論の創始者とも言えるカントは、正しい知識を得られる基礎として人類固有の生得観念に言及したり、感覚に与えられる多様で流動的な事物を統制する統覚という機能を想定したり、現代では認知科学で扱われる題材も議論している。同じことはヒュームやロックにも当てはまるし、ニーチェならばこのような区別は無意味だと言うだろう。  とは言っても、人はしばしば錯覚するし、間違った理論や情報を信じることは日常茶飯事だ。認知科学は、人がどのように事物や理論を認識しそれに従った行動を取るようになるかを研究課題とするのであり、そこで生じた信念や習慣の真偽や善悪を問題とすることはない。それに対して哲学的認識論はあくまでも真(あるいは善)なる知識とは何か、それは如何にすれば得られるのかを問題とする。それゆえ哲学的認識論は認知科学に還元されない固有の研究領域を有している。  正しい知識の源泉を何に求めるかにより、哲学的認識論は幾つかの立場に分かれる。知識の源泉は人間とは独立した客観的な自然の中にあるというのが一つの立場で、唯物論や実証主義の一部がそれに属する。また人間精神にこそその源泉があるという立場があり観念論、反実在論などが属する。また知識の正当性は社会で決まるという考えもあり、プラグマティズムや後期ウィトゲンシュタインをこの立場に属するとみることができる。  どの立場が正しいか決めることはできない。いずれの立場も一定の有効性と限界を有する。自然科学は客観的な自然に強く制約される。だが量子論の定式化に様々な様式があること(行列力学と波動力学、正準量子化と経路積分など)、様々な階層で自然を理解する必要があること(素粒子・場、原子分子、細胞、生物個体、太陽系、銀河、全宇宙など)、人は自然に単純さと複雑さの両面を見る必要があることなどから、正しい知識の源泉を専ら客観的自然に求めることはできない。さらに社会現象や倫理に関わる問題は自然に答えを求めるわけにはいかない。  人間の認識は常に人間精神の在り方に依存する。人間精神を個人の主観的なもの(カント)と捉えるにしろ、歴史と社会が共有する客観的なもの(ヘーゲル)と捉えるにしろ、知識とは常に社会において意味を持ち、それを各個人の精神が分有する。それゆえ、知識の妥当性とその獲得過程は精神の在り方に強く拘束される。しかしながら、精神だけでは何も生まれない。精神とは有機物質の運動の所産に過ぎないという考えもある。精神の役割を強調する立場は認識活動における人間の能動性を正しく指摘する点で有益だが、それだけでは哲学的認識論の諸問題を解決することはできない。  認識の社会性を強調する立場は20世紀以降有力になる。前の二つの立場が真(あるいは善)の絶対的な基盤を求めるのに対して、この立場はより柔軟で、認識活動が社会的活動の一部であるという正しい理解の下で、認識活動の全般的な構造とそれが正当化される過程を事実に即して現実的に記述し分析する道を拓いた。しかし、この立場も全能ではない。この立場は注意しないと極端な相対主義に陥ることがある。たとえば「正しい認識とは要するに多数意見のこと」、「正しい認識とは個人と状況により異なる」などという見解がしばしば表明される。しかしこれでは哲学的認識論は単に多数派工作か個人の恣意の無制限な正当化に堕してしまう。認識の社会性を中心としながらも、認識の正当性や獲得過程における自然や人間精神の重要性を忘れることはできない。
  • ☆ シアノバクテリア ☆
    • 2
    • 2017/12/13 10:04
    ☆ シアノバクテリア ☆ 井出 薫  シアノバクテリア(藍藻と呼ばれることもある)をご存知だろうか。細菌とともに、原核生物に分類される地球に最も古くから生存している微生物の一種だ。 (注)地球の生物は、大きく分けて、核膜に遺伝子が取り囲まれている真核生物と、核膜がない原核生物からなる。人を含めた動物、植物、菌類、原生生物はすべて真核生物で、細菌とシアノバクテリアが原核生物である。原核生物は38億年以上前から地球上に存在していたと言われる。それに対して真核生物が登場したのはずっと遅く20億年前くらいと推定されている。真核生物の起源は諸説があるが、細菌とシアノバクテリアが別の細菌の細胞内に共生したことから始まったという説(細胞共生説)が有力である。  46億年前地球が誕生した当時、大気中に酸素は存在しなかった。およそ30数億年前にシアノバクテリアの祖先が地球に登場して、酸素発生型の光合成をするようになって初めて地球大気に酸素が存在するようになった。シアノバクテリアは人間を始めとする高等?生物の恩人なのだ。  シアノバクテリアの仲間には、太陽光と大気中の二酸化炭素から生命活動に必要な有機化合物を作り出すことができるだけではなく、空気中の窒素からアンモニアなど窒素化合物を作り出す(窒素固定と呼ばれる)ことができるものもいる。  地球上の生態系を支えるのは植物、微小な藻類・原生生物、独立栄養原核生物など第一次生産者たちだが、陸上で主役を務める植物、海洋で主役を務める藻類や原生生物は、太陽光と二酸化炭素から光合成することはできるが、空気中の窒素から窒素化合物を作り出すことはできない。土地の肥沃度が、しばしば土壌に含まれるアンモニアや硝酸など窒素化合物の量で決まるのはそのためだ。窒素化合物が乏しい土壌では窒素固定能力のある細菌と共生しているマメ科の植物以外は十分に繁殖できない。最もよく使用される肥料が窒素肥料であるのは誰でもご存知だろう。  海洋や湖沼など水域でも事情は同じで、生物量を決める最も重要な条件は窒素化合物の量だ。  だから、光合成と窒素固定の両方ができるシアノバクテリアが、生態系で重要な役割を果していることは容易に想像できるだろう。遥か昔、酸素を生み出し地球上で高等生物が繁殖できる環境を整え、今でも、海洋と陸地を問わず様々な場所で生態系を維持するために大きな働きをしている。  その強靭な生命力を発揮して、普段は肉眼で見えず目立たない存在に過ぎないシアノバクテリアが、突然、生態系の主人公に踊り出ることがある。  アラビア半島とアフリカ北東部を隔てる「紅海」は、海が赤く染まることから名づけられたそうだが、海を赤く染めているのはシアノバクテリアの一種で窒素固定能力を持つトリコデスミウムの集団だ。生活廃水が流れ込むことなく水の澄んだ貧栄養環境の外洋では窒素化合物が極端に欠乏することが多い。そこでは、窒素固定能力を持つシアノバクテリアが生態系の唯一の支配者になる。  春から夏にかけて、都会の池が毒々しい緑に染まることがあるが、あれもアナベナなどシアノバクテリアの仲間が大量発生したものだ。ただし、生活廃水が大量に流れ込み富栄養化している湖沼で、シアノバクテリアが大量発生するメカニズムは紅海とは異なる。生活廃水に豊富に含まれる窒素化合物やリン化合物は、光合成をする全ての微生物の大繁殖を促すのだが、藻類と較べて捕食されにくいシアノバクテリアが生態系を占有するらしい。  いずれにしろ、シアノバクテリアは、有機物の乏しい環境から、過剰な有機物が存在する場所まで満遍なく存在して、生態系を維持している。紅海はシアノバクテリアがいなければ死の海となる。富栄養化した湖沼で大発生するシアノバクテリアは毒を発生して、魚や動物、さらには人間にも害を及ぼすが、生活廃水に汚染された湖沼を浄化する自然の働きの一翼を荷っている。  春のひととき、湖や河川の脇の遊歩道を散歩しながら、自然の営みを支えるこの偉大なる存在に思いを馳せても良いだろう。 (H16/3/31記)
  • ☆ リベラルの行く末 ☆
    • 3
    • 2017/12/13 06:45
    ☆ リベラルの行く末 ☆ 井出薫  従軍慰安婦と福島原発事故の吉田調書を巡る朝日新聞の誤報が波紋を呼んでいる。歴史的、社会的に重要な事件であり、朝日は責任を免れない。朝日の姿勢を批判した池上の記事の掲載を拒否したことも重大な問題だろう。  しかし、鬼の首を取ったかのように朝日を攻撃し、従軍慰安婦問題で日本には非がないかの如く論じ、朝日が日本の信頼を傷つけたと言い立てる一部の保守派の言論は明らかに間違っている。強制連行の証拠がなかったとしても、従軍慰安婦の存在は紛れもない事実だ。敵国の軍隊の慰安婦を務めなくてはならなかった女性たちにとって、それは屈辱以外の何者でもなかったはずだ。強制連行の証拠があるか否かに関わりなく、日本には重い責任がある。日本の信頼を傷つけたのは朝日ではなく、戦前の日本の誤った政策だ。朝日をひたすら攻撃している者たちはそのことを理解していないか、隠している。  吉田調書について言えば、原発事故という極限状態の中、事故拡大を防ぐために命がけで奮闘した現場作業員たちを侮辱した朝日の罪は重い。しかし、朝日が事故を引き起こし訳でも、事故処理が遅々として進まない原因になっている訳でもない。ここでも、朝日を叩くことで、一部の保守派は、根拠に乏しい原発の安全神話をばら撒き、後処理が遅れていることの責任を有耶無耶にしようとしている。  いずれにしろ、朝日の誤報と、日本の戦争責任、原発事故の責任とは全く別の次元の話しであるにも拘らず、それに気付かずあるいは意図的に混同しようとしている者たちの言動には警戒が欠かせない。物事の本質を見極めたうえでの健全な批判は社会を良くする原動力になる。しかし朝日を執拗に攻撃する者たちの言動はそういうものからほど遠い。  しかし、その一方で、朝日の姿勢に問題が多いことも見逃せない。そして、それは、かつて朝日岩波文化人などと称された戦後日本のリベラル、革新に共通する欠点でもある。前世紀の60年代から70年代初めに掛けて中国では文化大革命の嵐が吹き荒れた。今でこそ、それは理想の共産主義社会を目指すものではなく、権力闘争であり、不毛な権力闘争のために中国の発展が10年以上遅れ、しかも夥しい数の犠牲者を生んだことは周知の事実となっている。しかし、当時の朝日は、四人組を筆頭とする文化大革命派の発表を鵜呑みにし、文化大革命を理想社会の実現を目指す運動として称賛した。そして、多くの革新、リベラルの文化人たちがそれに同調し文化大革命の中国を好意的に論評した。こういう事実とその背後にあるメンタリティーを反省することなく継承してきたことが今回の誤報に繋がっている。  リベラルは、戦前の日本を厳しく批判し、日本人に反省を促す。そのこと自体は(保守派からは異論があるだろうが)間違った行動ではない。日本を愛することと日本を賛美することとは違う。日本を批判することと日本を嫌うこととは違う。愛するからこそ批判しないといけないことがある。日本を世界の人々から信頼される国にするためには、日本の誤り、悪い点は自ら正していかないとならない。「日本は素晴らしい」、「日本人にはとてつもない力がある」などと言っているだけでは少しも良くならない。しかし、批判し、人々に反省を促すためには、とことん真実を追及し、常に自分の思想や信念が正しいかどうかを点検することが求められる。たとえ自分の思想信条にとって都合が悪いことでも、それが事実であれば受け容れ、自分に都合が良い話しでも安易に信じることをせずにしっかりと検証する。こういう姿勢が欠かせない。だがリベラル、革新は、「自民党、米国、資本主義、戦前の日本、保守、改憲、原発推進」=悪、「リベラル・革新、反米、社会主義・共産主義、戦後民主主義、革新、護憲、原発反対」=善、こういった類の単純な二項図式にずっと囚われてきた。そして、今もその図式から完全には免れていない。そのために、あらゆる出来事がこの二分法の中で安直に評価され、善に分類されることは肯定され、悪に分類されることは否定される。意見を異にする保守との対話の道は閉ざされ、健全な懐疑と批判精神、実証的精神が育まれる機会を失う。だから過ちを犯しても気が付かない。文化大革命の本質を適切に評価できなかったことがその典型例だったと言える。
  • ☆ 哲学の課題 ☆
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    • 2017/12/13 06:44
    ☆ 哲学の課題 ☆  「黄色」を定義することはできない。  「550から580nmの波長の電磁波が視覚細胞に入射したときに私たちが感じる色を黄色と言う。」これは定義になっているだろうか。生まれたときから目の見えない人に、こう説明しても「黄色」を理解しないだろう。ただ、「黄色」という言葉の使い方を理解するだけだ。日本語を知らないアメリカ人に、英語表現で説明しても、物理学や色彩に関して知識ある人でないかぎり、これを理解できない。理解したとしても、「イエロー」を知っているから理解できるのであり、問題が「黄色」から「イエロー」へと移り変わるだけだ。他のどのような定義も上手くいかない。「黄色」は定義できない。  こんなことを論じてなんの役に立つのだと訝しく思う人がいるだろう。バートランド・ラッセルやカール・ポパーがそうだった。彼らからみると、ウィトゲンシュタインはこんな役に立たないことばかりを論じていると思われた。ウィトゲンシュタインは、「哲学にはまともな問題などない。哲学とは言葉の使用の実相を理解していないために生じる混乱した思考でしかない。哲学の課題とは、言葉の使用を注意深く観察して、言葉の使用の誤解に基づく思考の混乱を正すことだ。」と断言する。ポパーとラッセルはこれに激怒する。社会の問題、人生の問題など、哲学が取り組むべき重大な課題がある。言葉の使用を細々と分析して何になるのだ、哲学は言葉の分析を超えたもっと重要な問題と取り組む。これがラッセルとポパーの見解だった。  ウィトゲンシュタインを専らこんな瑣末な問題に関わるばかりで、人生の問題、社会の問題に無関心な人間だったと勘違いしてはならない。第一次世界大戦のとき、ウィトゲンシュタイン家の膨大な財産と社会的影響力を行使すれば、兵役を容易に免れることができるにも拘わらず、ウィトゲンシュタインは志願して戦場に出かけ危険な任務を遂行した。戦後捕虜にもなっている。第二次大戦中は、イギリスの病院で勤労奉仕をしている。どうしようもないエゴイストで傲慢な人間だったが、ウィトゲンシュタインほど人生の問題と真摯に取り組み、苦悩した人は少ない。ウィトゲンシュタインは決して象牙の塔で自己満足に浸るような人間ではなかった。  ウィトゲンシュタインは、ただ、人生の問題や社会の問題は哲学的に論じることを拒否しただけだ。「人生や社会の問題を哲学的に語ることは不可能」これがウィトゲンシュタインの診断だ。ウィトゲンシュタインはこのことを繰り返し、学生や哲学者たちに説いた。だが、ラッセルやポパーは頑として、同意することを拒んだ。  マルクスは、理論的にも、実践的にも、ウィトゲンシュタインとは対極にある思想家だが、やはり、社会の問題や人生の問題を哲学の課題であると考えることを拒絶する。マルクスは、哲学はヘーゲルで終わったと宣言する。そして、哲学を捨てて、革命という実践と自然科学のように精密で客観的な科学としての経済学・歴史学を確立しようと試みた。そして、二つとも失敗に終わった。マルクスを神のごとく崇める政権が20世紀になると多数登場したが、ほとんどが独裁国家であり、20世紀の終りまでに崩壊するか、中国のように共産主義の原則を棚上げして市場経済へと転回することで辛うじて生き延びた。  ウィトゲンシュタインは、哲学の内部に留まり、内部から哲学を一掃しようとした。そして失敗した。「私の人生は素晴らしかった。」これがウィトゲンシュタインの遺言だ。だが、ウィトゲンシュタインが満足して死んだとは思えない。  マルクスが20世紀に生きていたら、ラッセルやポパーを「頭の中で社会の改造ができると空想する観念論者、ブルジョアイデオローグ」と判定しただろう。一方、ウィトゲンシュタインは「貴族的・反動的な人物であるが、ブルジョアイデオロギーを解体するために重要な仕事をした」と評価するだろう。イギリスのマルクス主義者テリー・イーグルトンはウィトゲンシュタインの仕事を高く評価している。  マルクスやウィトゲンシュタインが正しいのか。それとも、ポパーやラッセルが正しいのだろうか。
  • ☆ ウィトゲンシュタイン ☆
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    • 2017/12/13 06:43
    ☆ ウィトゲンシュタイン ☆  ウィーン出身でイギリスを中心に活躍した哲学者ウィトゲンシュタインに印象深い言葉がある。  「語りえぬことには沈黙しなければならない」(「論考」)  「考えるな、見よ。」(「哲学的探究」)  ウィトゲンシュタインは、ハイデガーと並び、20世紀を代表する哲学者であると言われる。この評価が妥当なものであるかどうかは別として、ウィトゲンシュタインほど、人間が陥りがちな誤解と錯覚を鋭く指摘した思想家はいない。この二つの言葉は、ウィトゲンシュタインの哲学の真骨頂を示すものである。  この言葉を理解するには、ウィトゲンシュタインの哲学全体を見渡すことが必要である。しかし、簡単に言えばこういうことである。  最初の言葉は、人間が、明確に語ることができることと、語ることができないこととを混同しがちであることを指摘する。  「平成15年元旦の東京都の夜明けは何時か。」という問いと、「善い人間とは何か。」という問いを較べてみよう。前者の問いと答えは明確に語ることができる。理科年表(丸善)によると6時15分である。  だが、後者の問いと答えは明確には語りえない。マザー・テレサは20世紀最高の聖人であると褒め称えられている。しかし、マザーが頑なに人工中絶反対を主張するとき、それに賛同する人は少ない。現代的な医療に否定的なマザーが、自分の遣り方に固執して、病人が近代的な治療を受ける機会を妨げたと批判する医者もいる。誰が善人で、何が善であるか、誰もが納得するような形で明確に語ることはできない。マザー・テレサが聖人であることに皆が合意したとしよう。それでも、「マザー・テレサのような人」、「マザー・テレサのような行い」が何であるかを明確に語ることはできない。  夜明けの時刻に関する問題と、善に関する問題では、性格が全く異なる。それにも拘わらず、人は、しばしば、両者を混同する。そして、「善は何であるか」という問いを自然科学的な探究方法で解明できると錯覚する。ウィトゲンシュタインは、最初の言葉でそれを指摘している。  「考えるな、みよ。」この言葉は、人が固定観念に囚われて、軽率な判断をしがちであることを警告する。  「政府は労働者のストライキを弾圧した。彼らが共産主義者だからだ。」この言葉を目にしたとき、資本主義社会で生活する者は、「共産主義=反体制運動」という図式に囚われて、「彼ら」を弾圧された労働者と考える傾向にある。つまり、この言葉を「政府は労働者のストライキを弾圧した。労働者達が共産主義者だからだ。」と読みがちである。一方、嘗てのソ連・東欧の共産圏で政府に抑圧されていた人々は、この言葉の「彼ら」を政府の要人たちと判断する傾向が強いだろう。すると「政府は労働者のストライキを弾圧した。政府の要人達は共産主義者だからだ。」と読まれることになる。  この言葉だけでは、「彼ら」がストライキを実行した労働者を意味するのか、労働者を弾圧した政府要人を意味するのか決定することはできない。しかし、私たちは自分が属する社会の常識や伝統に囚われて、言葉をよく見ること、よく聴くことを忘れてしまう。そして、「彼ら」を「労働者」あるいは「政府要人」であると断定してしまう。ウィトゲンシュタインの第二の言葉はそのことを警告している。  こればかりの説明で、ウィトゲンシュタイン思想の全貌を語ることができるわけではない。ここで掲げた言葉の意味を解明したことにもならない。興味のある人は、ウィトゲンシュタインの著作や解説書を読んでもらいたい。  ウィトゲンシュタインの哲学は、「論考」を書いた若き時代と、それ以降とでは大きく変化している。また、「論考」以外の著作はすべて、彼の死後、弟子達が遺稿を編集したものである。そのために、彼の哲学的著作は、テーマが一貫しておらず読解は容易ではない。  しかし、このことだけは確かである。「ウィトゲンシュタインほど、言葉を使用する人間が陥りがちな思考の混乱とその原因を深く探究した人はいない。」  私は、哲学の真のそして唯一無二の任務はここにあると考えている。私にとって、ウィトゲンシュタインは、伝統的な哲学の解体を試みた者であるとともに、真の哲学者である。ソクラテスがそうであるように。 (H14/12記)
  • ☆ 無限集合 ☆
    • 2
    • 2017/12/13 06:43
    ☆ 無限集合 ☆ 井出 薫  無限集合には色々な種類がある。自然数、有理数(Q/P;QとPは整数)、実数、複素数、みな無限集合だ。では無限集合の大きさ(濃度と呼ぶ)を測ることができるだろうか。  できる。1対1に対応させることができるかどうかで濃度を比較する。有理数は自然数よりもずっとたくさんあるように見えるが、自然数と1対1対応させることができるから、濃度は等しい。有理数を表現するQとPを並べて、マイナスの場合は最上位桁に1をつけるようにすれば自然数となるから1対1対応がつく。正の偶数は自然数の半分しかないようにみえるが、自然数と同じ濃度を持つ。偶数をすべて2で割りそれを並べていけば自然数になるからだ。明らかに個数が違うと思われる集合の濃度が等しいというのは不思議に感じるかもしれないが、自然数が10進法でも2進法でも、何進法でも表現できることを考えれば不思議ではない。2進法で表現された数は、10進法で表現された数のうち、1と0の2種類だけで表現された数の集合(=10進法で表現された数の部分集合)だと考えることもできるが、10進法で表現しようと、2進法で表現しようと自然数の数は変わらない。 (注)筆者がここで与えた有理数と自然数が同じ濃度を持つことの説明は、数学の教科書に記載されている標準的なものではなく、厳密なものでもない。厳密な証明を知りたい人は数学の本を読んでいただきたい。  では、すべての無限集合は自然数と同じ濃度を持つかというと、そうではない。自然数と同じ濃度を持つ無限集合を、番号順に並べられるという意味で可附番(あるいは可算)と呼ぶが、すべての無限集合が可附番ではない。  実数の集合は自然数と1対1に対応させることはできない。たとえば0以上1以下の実数の集合を順番に並べて番号を付ける方法を考えると、それが不可能であることが分かる。番号順に並べることができたとして、1番目の数と1桁目が違い、2番目の数と2桁目が違い、3番目の数と3桁目が違い、・・n番目の数とn桁目が違う(これを無限に続ける)・・こういう風にして作った実数は、この表に記載されている実数と、少なくとも一箇所は一致しない桁がある。つまり、この数は表の中には登場しない。この数を表に付け加えても同じ方法で表には存在しない実数を作り出せるから、どこまで行っても番号順の表は完成しない。だから、0以上1以下の実数の集合は可附番ではない。もちろん、すべての実数の集合が可附番ではないことは言うまでもない。 (注)0以上1以下の実数の集合とすべての実数の集合は同じ濃度を持つ。証明は省略するが、長さ1の線を無限に引き伸ばすところを想像すれば、このことは理解されよう。  実数の濃度は連続体と呼ばれるが、0から1まで引かれた線を実数の集合が隙間なく埋めていることを想像すると、連続体という言葉の意味が分かるだろう。「線は点の集合だと言うが、長さのない点が集まってどうやって長さを持つ線が生まれるのか」というのは古代ギリシャの難問の一つだったが、実数の濃度が連続体であることで一応解決されたと言ってよい。 (注)ルベーグ積分などで使用される測度という概念があるが、それは実数などの無限集合の研究が応用されたものだ。自然数の集合は測度0であるが、0以上1以下の実数の集合は測度1になる。  無理数や複素数の集合も、実数の集合と同じ濃度を持つ。では連続体が一番大きな無限集合の濃度なのだろうか。そうではない。どんな濃度を選んでも、それよりも大きな濃度の集合が存在する。特定の無限集合のすべての部分集合の集合は、元の集合と1対1に対応させることはできず、濃度がより大きい集合になる。無限集合はどこまでも巨大になることができるのだ。  では、実数に代表される連続体と自然数に代表される可附番との間に位置する濃度の集合は存在するだろうか。存在しないというのが「連続体仮説」で、一時期それが正しいかどうかが盛んに研究された。その結果、どちらとも言えないということが証明されている。自然数よりもたくさんあり、実数よりも少ないような集合は、あるとも、ないとも言えるのだ。正確に言うと「数論の公理体系からは、連続体仮説は証明も反証もできない」ことが証明されたのだ。 (注)ただし、証明はできないが、連続体仮説は正しいと考える数学者が多い。中間に位置するような意味ある集合を考えることはできない。  数学と現実の世界との間の関係はどうなっているのか、数学の真理とはどの世界の真理なのだろうか。こういう問題は古代ギリシャの時代から多くの賢人達を悩ませてきたが、未だに結論が出ていない。
  • ☆ 哲学者の世界と科学者の世界 ☆
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    • 2017/12/13 06:42
    ☆ 哲学者の世界と科学者の世界 ☆ 井出 薫  科学者は全体を部分に分解して世界を描き出す。物理学は素粒子に、化学は原子分子に、生物学は遺伝子や細胞に分解する。しかし、人は他人を素粒子や細胞の集合だと考えることはない。ある女性をみて美しいと感じるとき、人はその女性の細胞組織や素粒子の結合を思い浮かべているのではない。哲学者は世界を分解するのではなく、この人間のありのままの感性から始めるべきだと語りかける。  科学者は質を捨象する。物理学者にとって、人間と岩石は素粒子の集合状態の違いに過ぎず、その差は量的で数学的なものでしかない。生物学者は人間もアメーバも同じ塩基からなる遺伝子で種の保存を図っていることを発見し、人間とアメーバの差はやはり量的で数学的なものでしかないことを明らかにする。一方、哲学者は生物と無生物、人間とアメーバ、私と貴方の違いは決定的なものであることを示そうとする。  私たちが暮らす世界はどちらかと言えば哲学者が語る全体的で質的な世界に近い。哲学は無意味な学問、難解な学問と言われることが多いが、実際は常識の世界に拘り続けるのが哲学だ。一方、科学が語る世界は、科学技術の目覚しい発展と自らの生存基盤を危うくするほどの産業の拡大を通じて、その真理性を明らかにする。だが哲学の真理性と異なり科学の真理性は直接的なものではない。  現代人は科学を崇拝して、科学こそ真理の源泉だと信じ込んでいる。「非科学的」という言葉は現代では「正しくない」と言うに等しい。だが科学は真理の一部を表現しているに過ぎない。倫理や美の問題はけっして科学で解決されるものではない。  もとより現代文明は哲学ではなく科学に基礎付けられている。だから人々が科学を信奉するのも無理はない。だが科学が真理のすべてではなく、哲学が科学と同等あるいはそれ以上に世界の真理を表現していることも忘れてはならない。
  • 芸術というのは
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    • 2017/12/13 06:42
    金持ちで暇人が享受する 特権である。 精神の遊び。
  • ☆ ベンサム ☆
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    • 2017/12/13 06:41
    ☆ ベンサム ☆ 井出 薫  書店の西洋哲学書のコーナーに行くと目立つのが、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ハイデガーの5人だ。これに、ウィトゲンシュタインとフーコーを加えて7人と言ってもよいかもしれない。たが、彼らに優るとも劣らぬ重要な哲学者でありながら、人気のない者がいる。その代表格がジェレミー・ベンサム(1748-1832年)だ。ミルという優れた後継者がいたからこそという面はあるにしても、ベンサムはカントやヘーゲルよりも遥かに大きな影響を現代社会に与えている。ところが、ベンサムは日本では人気がないらしく、翻訳書や解説書は少ない。名前すら「ベンサム」に統一されておらず、「ベンタム」と記載されることもある。ベンサムが日本で人気がない理由は色々と想像できる。ベンサムの思想は「最大多数の最大幸福」で代表されるように快楽的、世俗的であり、カントやヘーゲルに代表されるドイツ観念論のような深遠さや重厚さに欠けると思われている。また、ベンサムが提唱したパノプティコン(一望監視施設)は現代世界の暗黒面(=テクノロジーの発達を背景とする非人道的な管理社会)を象徴する存在として取り上げられ批判されている。俗物的かつ反動的な思想家。ベンサムにはこういう悪評が付き纏う。だが、これは極めて偏った誤った評価だと言わなくてはならない。  ベンサムに始まりミルが発展させた功利主義は現代人の常識になっている。正義を社会体制の土台に据えようとするロールズの「正義論」では、功利主義は批判の矢面に立たされる。だが理論的に幾ら功利主義を批判しても、現代人の生活や行動は極めて功利主義的であり、しかもそれは必ずしも悪いことではない。たとえば崖崩れで家屋が二軒倒壊して下敷きになった者がいるとしよう。手が足らず救助隊は二手に分かれて救助活動をすることができない。二軒ともすぐに救出しないと命が危ないと分かっている。しかし、どちらかを優先しなくてはならない。どうすればよいか。答えはより被害者が多い方を優先するというものになる。片方の家には1名、もう片方には10名が救助を待っているとしたら、まず10名の方から救助活動を行う。その結果、残り1名の命を救うことができなくても、救助隊を非難する者はいない。逆に1名の者を先に助けた結果、10名が死亡したら、救助隊は批判される。特にその1名が政府要人で、10名が無名の労働者だったとしたら、人々は不公平だと強く抗議するだろう。つまり功利主義的な考えや行動は現代人の常識であり、またそれは領主の命が一般庶民のそれよりも尊いとされる封建社会が過去のものとなり民主社会へと移行したことを象徴している。更に、現代経済学には功利主義が導入されている。自由な市場は資源の最適配分をもたらすと現代経済学は教える。これは単なる数学的モデルの帰結ではない。そこには明らかに道徳的なニュアンスがある。「だから自由な市場は優れている。規制は必要最小限にするべきだ。」というメッセージがそこには含まれている。また経済政策論で多用される費用便益分析は明らかに功利主義的な発想に基づいている。
  • ☆ フレーム問題 ☆
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    • 2017/12/13 06:41
    ☆ フレーム問題 ☆ 井出 薫  人間並みに任意の状況に対応できる柔軟なコンピュータを実現しようとするとき、私たちの前に立ちはだかる壁がフレーム問題だ。  井出が駅に向かって歩いている。寝坊して会社に遅刻しそうだ。そこに、友人の里見がやって来て、「井出、久しぶり、元気」と声を掛ける。井出はどうするか。おそらく、「よう、元気、悪い、先を急いでいる、夕方電話するよ。」とでも返答して、駅に向かって急ぐだろう。  友人に対して愛想をとりながら、遅刻せず出社するための適切な措置を講じる、ここがポイントだ。このようなことをコンピュータやロボットにやらせることは極めて困難だ。課題が、友人への適切な対応と会社に遅刻しないという二つの条件だけならば、問題解決のプログラムを書くことは容易だ。しかし、人が道を歩いているとき、解決しなくてはならないことは無数にある。信号が赤のときは青になるまで待つ、水溜りがあればそれを避ける、人が倒れていれば声を掛ける、電車に遅れそうなときには時間を確認する、など無数の課題が存在する。  さらに、ある事象が発生したときに、適切な応対をどうやって決定するかという問題がある。私たちは知識を活用する。だが、知識も無数にある。「里見は友人だ。」、「友人には愛想よくするものだ。」、「出社時間には遅れてはならない。」、「里見は運転しない。」、「日本の首相は小泉さんだ。」など枚挙の暇がない。このうち、最初の三つの知識は問題解決に関係するが、後の二つは無関係だ。その他、この状況には無関係な無数の知識がある。ここで、どうやって、最初の三つは関係があり、後は無関係と分かるのか。問題解決に関連した知識の枠(フレーム)をどのように決めればよいのか、これがフレーム問題だ。  果たすべき課題が少数で、私たちの知識も少数なら、フレーム問題は苦もなく解決される。だが、人間が現実に暮らす世界には無数の課題があり、私たちは無数の知識を持つ。このような状況で、フレーム問題を解決して、適切な対応を取るためにはどうすればよいのか。どのようなマシンで、どのようなプログラムを書けばよいのか、これが実に困難な問題だ。  この問題は解決されていない。解決される見込みもない。お陰で、現在のコンピュータはごく限られた課題しか扱えない。コンピュータ制御のロボットはごく限られたことしかできない。  アトムやHALのようなロボットはフレーム問題を解決している。どうやって?もちろん、誰にも答えられない。  アルゴリズムを見出し、それに従いプラグラムを書き実行させるという現在のコンピュータ技術では、アトムやHALは実現できないと私は予想する。  だが、「人間だって、アルゴリズムに従い思考して行動している。人間ができることをコンピュータやロボットが実行できないはずがない。」こういう考え方が人工知能論では依然として根強い。計算主義と呼ばれる立場がその急先鋒だ。言語学者で体制批判の著名な評論家であるチョムスキーなどもその一人だ。  私は、これはドクマに過ぎないと考える。自然は数学という言葉で書かれているというドクマだ。  自然も人間も、数学という言葉で書かれているのではない。数学は、自然と人間を合理的に把握するために、人間が作り出した(非常に強力な)道具に過ぎない。しかし、それが世界を覆い尽くすことはない。このように考えたからと言って、霊魂など物質に還元されない神秘的な存在を想定しなくてはならなくなるわけではない。  では、人間はどうやって無数の課題を適切に処理することができるのか。おそらく、問題の認識⇒問題解決という図式で人間の行動と思考を捉えたのでは、謎は解けない。人間は数理論理学的シミュレーションではない。フレーム問題は疑似問題だ。  人間は自然現象だという当たり前の事実に、謎を解く鍵がある。 (H15/4/18記)
  • ようこそ西哲へ
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    • 2017/12/12 20:38
    アメミナカ版西哲中央政府綱領案 綱領 (案) 2011/10/14 13:39 [ No.19 / 107 ] 投稿者 : ame_minaka 一、われわれは、哲学の命運を拓き、哲学徒の自由と繁栄と幸福を増進する一、われわれは、哲学の歴史と伝統を尊重し、誇りをもってその天分を活かし、哲学による平和実現とカルト撲滅の先頭に立つ一、われわれは、哲学の視点に立って衆知を結集し、哲学徒の協調心と自立心と公共心に立脚する本物の哲学を実践する キティ版西哲中央政府綱領修正案 2011/10/21 6:25 [ No.109 / 199 ] 投稿者 : kittydanielx 一、ヤフー掲示板西洋哲学カテゴリーの主要メンバーたるわれわれは、哲学の歴史と伝統哲学の尊重の見地に立ち、その研究の命運を拓き、哲学徒の自由と繁栄と幸福を増進することをここに宣言する一、われわれは、哲学が真理を目指しながらも多様で多面的な知の体系かつ営みであることを確認し、誇りをもって各自の天分を活かし、哲学による平和の実現とそれを妨げるカルト撲滅の先頭に立つ一、われわれは、哲学の視点に立って衆知を結集し、哲学徒の協調心と自立心と公共心に立脚する本物の哲学を構築し実践することを目標とする 一、われわれの政府は西洋哲学カテゴリーの無政府状態を終息させることをその目的とするが、ある特定の思想方針でもって構成員もしくは住民を統制することを目的としない。また独善や権威主義に陥らぬよう常に反省の意識を新たにするものである   本トピは西哲中央政府の統括下にあります。本トピは外部からの来訪者の方に西哲トピの趣旨をお知らせするものです。また西哲中央政府の事務局も兼ねております。
  • ボランティアの人って
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    • 2017/12/12 20:36
    えらいな りっぱだな
  • ☆ ロールズと現代 ☆
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    • 2017/12/12 18:45
    ☆ ロールズと現代 ☆  正義論(1971年)の著者として知られるアメリカの政治哲学者ロールズが11月24日逝去した。享年81歳であった。  ロールズは、その著「正義論」で、正義の根拠付けに取り組んだ。英米思想界では、ベンサムやミルに端を発する功利主義的倫理観が圧倒的な勢力を占めていた。そこに、ロールズは敢然と反旗を翻した。  「最大多数の最大幸福」、功利主義の原理は、何が幸福であり正義であるかという根源的な問題を回避する。経済的な富しか規準はない、しかし、数量化された富は、幸福の証ではない。それは付随的な現象だ。  正義は、富を基準とするものではない。正義は、数値化された経済的な富を超えたものである。カントは嘗て「正義はなされよ。たとえ、この世が滅びようとも。」と喝破した。ロールズは、カントの衣鉢を担いで、経済的な富と社会的成功に幸福、善、正義の証を求める世相に挑戦した。  カントは、道徳を定言命令と捉える。カントは、道徳律はそれを守らないと不利益があるから守られるべきものである、という考え方を否定して、それ自体が無条件に妥当する絶対的なものだと主張する。しかし、私たちは、カントの定言命令としての道徳律という考えでは納得できない。どのような道徳律でも、ときと場合により、善でもあり、悪でもある。カントの倫理説は、功利主義者だけでなく、偉大な後継者であるヘーゲルにより、直ちにその欠陥を指摘され破綻した。  ロールズは、社会契約説を再構築することで、正義は、富や幸福に先立つものであるというカントの主張が正しいことを論証しようとする。  ロールズは二つの原理を掲げる。 ■自由はすべての人に公平に分配されなければならない。 ■経済的・社会的不平等は、次の条件がみたされるときだけ容認される。社会の中で最も恵まれていない人にも、それが有益であること。最も恵まれない人にも、最も恵まれた地位を獲得する可能性が与えられていること。この条件を満たすときにだけ不平等は容認される。  ロールズはこの条件を社会契約の基礎に据えて、正義の根拠付けに取り組む。この二つの原理が、経済的富とは独立したものであるのは明らかであろう。ロールズは、経済に対して倫理の優位性を主張する。  ロールズが成功したかどうかは、ここでは論評しない。賛否両論が渦巻いた。どちらかと言えば否定的な意見が多かった。「正義論」が世に出てから30年が過ぎた現代、社会の様相は、ロールズの理念から遠く隔たっている。だが、ロールズのように真正面から正義を探究することをダサイと考えるような風潮が蔓延り、社会的富や栄誉の獲得だけを人間の価値基準であるかの如く語る者たちが往来を闊歩する現代こそ、ロールズの思想をもう一度問い直すべきである。 (H14/12記)
  • ☆ メディアという権力 ☆
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    • 2017/12/12 18:45
    ☆ メディアという権力 ☆ 井出薫  メディアは、現代社会において、間違いなく巨大な権力だ。  NHKの海老沢前会長は世論の圧力で辞めざるを得なくなったと言いたいところだが、メディアが(実質的に)辞めろと圧力を掛けたことが大きい。確かに世論調査をすれば海老沢氏は辞めるべきだという意見が多数を占める。しかし、「なぜ海老沢氏は辞めるべきなのか」と聞かれて明快な答えが出来る人は余りいない。「不祥事が起きたのだからトップは責任を取るべきだ。」としか答えられないだろう。だが、社員の不祥事でトップは常に責任を取らなくてはならないのか。辞任する、しないの境界線はどこに引けばよいのか。明確な答えはない。メディアの意向が世論に反映されるとは限らないが、影響が巨大であることは否定できない。辞めるべきか否か、その規準はメディアが決めているというのが実情ではなかろうか。  いま人気のある政治家と言えば、安部晋三氏の名前が真っ先に挙がる。一時ほどではないにしても田中真紀子氏の人気も依然として根強い。しかし、彼らの政治家としての業績や能力を国民が正しく認識しているとは思えない。彼らはメディアが作り出したアイドルと言えよう。  NHKや大新聞の駆け出しの記者が大企業の社長に取材したいと要求すれば、企業の広報担当は必ず社長取材の場を設定する。社長と話しをする機会を簡単に与えてもらうことができるのはメディアの関係者だけだ。どんな大口顧客でも、そういうことはできない。  メディアが権力であることが悪いとは言わない。メディアは、政治家や圧力団体など巨大権力と対決しなくてはならないことが多いから、それなりに力を持っている必要がある。だが、問題は、その権力を自覚していないと思えることが多いことだ。  NHKと自民党の関係が不健全だという朝日新聞の主張は説得力がある。しかし、不十分な取材で話しを膨らませることは許されない。体制を批判するという目的ならば何をしても良いというわけではない。「権力を批判することはすべて正しい」という感覚を持つジャーナリストは今でも少なくないが、彼あるいは彼女たちは、メディア自身が権力であることを忘れているように思う。メディアの権力批判はある意味では権力闘争に過ぎない。NHK会長辞任劇は正にその典型的な事例だったと言えよう。
  • ☆ 権力の構造 ☆ 無責任な公務員
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    • 2017/12/12 18:44
    ☆ 権力の構造 ☆ 井出薫  5月12日(金)午後、臨海副都心の三セク3社が東京地裁に民事再生の申請を行った。3社の負債総額3400億円、債務超過は1450億円に達する。営業利益は出ているものの、売上高は220億円程度で、債務超過解消は現実的に不可能な状況にある。東京都は銀行に対して2000億円の債権放棄を求め、100%減資を実施して、3社合併、新会社設立により再建を目指す。  3社の破綻はバブルのつけで、バブルを煽った銀行にも責任がある。東京都に次ぐ大株主でもある銀行各社が債権放棄に応じることで、東京都と銀行ですでに話しがついているのだろう。銀行も金融危機を脱して儲け過ぎだと非難を浴びている最中だから、不良債権処理にもなり好都合というわけだ。  それにしても、2000億円の借金がチャラにしてもらえるのだから、東京都の権力は凄い。そして、それにあっさり応じられる銀行も凄い。心身とも健全そのもので、我ら日本人にとって実に心強い限りだ。  石原知事は記者会見で責任問題に関する質問に対してこう述べた。「バブルではほとんどの者が損をした。これもその一例に過ぎない」つまり責任は誰も取らないというわけだ。勿論銀行も責任は取らない。  さらに、驚いたのは、記者から会見の席上、こんな内容の質問が飛び出したことだ。「これで臨海副都心の開発は益々進むことになり喜ばしい限りですが、知事の臨海副都心の将来像はどのようなものですか。」これがイロニーであるのならば褒めて遣わす。だが記者は真面目にこう質問したのだ。テレビを観ていて、思わず「君は本当にジャーナリストなのか?知事に媚を売るような発言をして恥ずかしくないのか?」と突っ込みたくなった。さぞや日頃から都庁に大事にされ、石原都政の提灯記事を書いてきたのだろう。いや、心からの石原信奉者なのかもしれない。だが、ジャーナリストを名乗る者が、石原氏ごとき人物に心酔するようでは先が知れている。  バブルではほとんどの者が損をした?そうかもしれない。だが、それで皆苦労してきたのだ。東京都や銀行に、臨海副都心開発の失敗の痛みを自分で味わった者がいるのか。  額に汗して働き、よいサービス、よい製品を提供し、利用者からも高く評価されていたのに、銀行に融資をストップされて潰された中小企業がどれだけあったと思うのか。中には、個人資産のすべてを売り払い、そのお金で従業員と債権者に可能な限り弁済して、その後、自ら命を絶った経営者だっているのだ。行政、銀行、マスコミはそんなに偉いのか。中小企業の経営者や従業員が死ぬ思いで頑張ってきたのを踏み潰しておいて、知らぬ顔でそれで良いとでも思っているのか。  所得格差が問題になっている。だが、まず、こういう行政、銀行並びに大企業、マスコミという権力構造を解体することが何よりも重要だ。小泉首相はかつて「努力した者が報いられる社会を作る」と宣言した。それは、こういう恥知らずな権力を打破することを目的としていたはずだ。少なくとも小泉首相を支持した国民はそれに期待していた。だが、それは実現されていない。小泉氏が続投するのか、別の者が後を継ぐのか知らないが、日本を悪くする権力構造の打破を第一の目標に掲げて、総理の仕事を遂行してもらいたい。 (H18/5/14記) [ Back ]
  • ☆ デング熱 ☆
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    • 2017/12/12 18:44
    ☆ デング熱 ☆ 井出薫  約70年ぶりに国内でデング熱感染が確認されたのが8月27日。代々木公園でデング熱の病原ウィルスを持つ蚊に刺されて感染したと推測されている。しかし、直後、公園の一部区域が一時的に閉鎖されたものの、すぐに解除。蚊の寿命は短く、また季節も秋に向うということで、これ以上感染は拡がらないと判断され本格的な対策は見送られた。  ところが、その後、代々木公園の複数の場所でウィルスを保有する蚊が確認され、9月4日に公園が閉鎖されることになる。並行して代々木公園の隣の明治神宮で感染したと推定される患者が確認され明治神宮も一部区域が閉鎖。さらに、9月5日には代々木公園から1キロ近く離れた新宿中央公園で感染したと推定される患者が新たに確認され、蚊の調査と駆除が開始されている。  ここに来て、漸く、厚生労働省、地方自治体など行政機関と医療機関が本格的な活動を開始した。しかし、最初の感染確認からすでに1週間以上が経過しており、明らかに初動が遅れたと言わなくてはならない。しかも、今後の感染拡大防止策が確立されていないため、これからどの程度拡大するのか、いつ終息するのか、予測が付かない。  約70年間国内で感染がないということは、日本人のほとんどが免疫を持たないことを意味する。空気感染する訳ではないからインフルエンザのように大流行することはない。しかし、誰も免疫がないのだから感染が拡大する可能性は高い。さらにほとんどの医師がデング熱の患者を診察した経験がないから、見逃す危険性も高い。幸いなことにこれまで重症化した患者は出ていないが、子どもや高齢者、病人などが感染すると、デング出血熱へと重症化し、適切な措置が受けられないと死亡する危険性もある。  これらのことを考え併せると、デング熱感染が確認された時、速やかに感染拡大防止策を策定し直ちに実行するべきだった。そしてその必要性を認識することはできたはずだ。感染から発症までに4日から7日掛かると言われる。その間に、発症前の保菌者が蚊に刺されることが当然ありえる。そもそも代々木公園の蚊が保菌者になったのも、海外で感染した者を蚊が刺したことが原因だと推測されている。同じ理屈で、患者が自宅近辺あるいは通勤先、通学先で蚊に刺され、その蚊が保菌者になっている可能性が十分にある。また、蚊の活動範囲は50メートル程度と言われるが、風に乗って遠くに飛ばされる可能性もあるし、荷物などに紛れ込んで遠くに運ばれる可能性もある。新宿中央公園の感染源の蚊については、代々木公園で蚊に刺され感染した患者が新宿中央公園で蚊に刺され、その蚊が保菌者になったと推測されているが、風で代々木公園から運ばれた可能性も否定できない。このように感染拡大の経路は少なくない。だから感染が拡大することは予測することができた。なぜ、それができなかったのか。検証の必要がある。  感染、発症しても重症化することは少ないことが初動の遅れの原因だと考えられるかもしれない。「重症者もいないのに大袈裟に騒ぎ過ぎだ。風邪の患者数と比較してみろ、珍しいだけで騒ぐほどの話しではない。」と指摘する声もある。だが、これがエボラ出血熱のような致死率の高い病気であれば、関係者が直ちに行動を開始し、感染拡大防止に成功していただろうか。正に、ここが肝心なところなのだ。そうであれば、確かに、デング熱はさほど大きな問題ではないと言えるかもしれない。しかし、行政の一連の対応をみていると、エボラ出血熱のような重大な病気でも迅速かつ的確な行動を期待することはできないと判断せざるを得ない。蚊の駆除、蚊の保菌状況調査、いずれも、泥縄式で、事前に準備された手順に従い理路整然と実行されたとは言い難い。実際、最初の調査では代々木公園にはすでにウィルスを保有している蚊はいないとされていた。だから公園の閉鎖はすぐに解除された。ところが、感染者数が増えたことを受けて実施された再調査では複数の蚊がウィルスを保有していることが確認された。最初の調査が杜撰だったことは疑いようもない。テレビで放映された蚊の駆除作業の作業員は、手袋もしておらず、あれでは作業員が感染するのではないかと心配になる。  10年前、鳥インフルエンザによるパンデミックが危惧され、その対策が世界各国の喫緊の課題となったことは記憶に新しい。そのとき、日本政府の対策は水際作戦つまり国内へのウィルス上陸阻止に偏り、国内で感染・発症者が出た時の拡大防止策ができておらず、効果に疑問がある抗インフルエンザウィルス薬の備蓄だけが唯一の国内対策だった。幸い、パンデミックには至らなかったから良かったものの、パンデミックになっていたらと考えるとぞっとする。
  • ☆ デリダ氏の功績 ☆
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    • 2017/12/12 18:44
    ☆ デリダ氏の逝去 ☆  フランスの哲学者、ポストモダニズムの立役者ジャック・デリダ氏が9日亡くなった。享年74歳、早すぎる逝去だった。  デリダの最大の業績は、批評が如何に難しいかを身を以って示したことだろう。小泉首相を批判する人は多い。だが、批判することで却って小泉氏を引き立ててしまうという面がある。少なくとも首相が仕事をしていることを人々にPRする効果はある。別の選択肢が存在しない中、良くも悪くも仕事をしていることを示すことは人々の根強い小泉信仰を再生産する。読売の渡辺会長にも同じことが言えるだろう。批評は意図したことと反対の効果を生み出す。  批評そのものがその反対物を含むことがある。-「批評そのもの」という表現がデリダに言わせれば硬直した思考方法を示すものということになろうが-いや、ある意味必然的に含んでしまうとも言える。アンチ巨人も巨人ファンのうちと巨人ファンはよく言うが、一面の真理ではある。批判的論評が盲目的賞賛を孕んでしまうことがある。  1970年代半ばまで、マルクス主義的体制批判が、批評の一つの典型をなしてきた。しかし、文化大革命の4人組やポルポトを筆頭としたマルクス主義を名乗る者たちの反人権・反人道的行為がマルクス主義批評への疑念を深めることとなる。圧倒的な現実を前に「あれは本当の共産主義ではない。」などと叫んでも虚しい。本当の共産主義などどこにもないからだ。左翼的批評家は、新しい批評の在りかたを模索せざるを得なくなる。だが、良い方法は見つからない。批評そのものが必然的に孕む性質が行く手を阻むからだ。  そこで、デリダはより良い批評の枠組み・方法を探るのではなく、批評そのものを批評することで事態を打開しようと試みた。もとより批評を批評することも批評であり、その批評自身が批評されなくてはならないという隘路に陥ることになる。だが、正にこの隘路の中で書き続けることが、批評の限界を超えていく唯一の道だとデリダは考える。絶え間ない批評の連続、終着点なき道を蛇行しながら無限に進んでいく批評、この無限の脱構築運動の中にだけ光は見えてくる。デリダはそう主張する。  批評の難しさとは、単に批評という言論人の仕事の世界に留まる事柄ではない。批評の難しさは体制を変革することの難しさを意味する。多くの欠陥を孕みながら、それを巧妙に隠蔽し補強していく現代の資本主義体制を如何に変革するのか、それは極めて困難な課題であり、批評の困難はそのことと分かち難く結びついている。  だから、批評の困難を超える新しい道を模索するデリダ的な試みは必然的に政治的なものとなる。デリダは、そのことを自覚した上で、新しい道を切り開こうとする。モダニズムの枠組み-マルクス主義もそこに属する-を維持して、その中で改革を試みる者に対して、デリダはその不可能性を論じ、新しい回路の必要性と可能性を示唆する。-だから、デリダの思想はポストモダニズムと呼ばれる。-  デリダの試みが成功したかどうかは分からない。モダニズムの観点から、伝統的な批評の精神を公共的な場で徹底することで事態が打開できると考えるハーバーマスは、デリダの試みを、合理性を放棄して蒙昧に道を譲るものだとして厳しく批判した。デリダの言説は、レトリックの過剰と論理の無視で読むに耐えない、このような難渋な語りに政治的改革の可能性をみることはできないと批判する人も少なくない。デリダの思想は、Aは非Aであるというヘーゲル的弁証法の現代版に過ぎないと批判する人もいる。事実、これらの批判には一理ある。  しかしながら、17世紀以来無数の人々が関与してきたモダニズムというプロジェクトの跡を顧みるとき、このプロジェクトの延長線上にすべての解決策が存在しているとは思えない。補完的な位置に留まるかもしれないが、新しい回路は不可欠だろう。  文革やポルポトの改革が最悪の反対物に堕したこと、良心的と言われたチョムスキーや小田実のような知識人が能天気に文革やポルポトを擁護したことも忘れるわけにはいかない。これらの事実はモダニズム批評だけでは不十分であることを強く示唆する。  だから、デリダの試みや主張がどんなに多くの難点・欠陥を持っていようと、その問題意識と試みの重要性が失われることはない。  多様で忙しない現代に生きる人々が、難解なデリダの本を読む必要はない。だが、批評を試みる者は、デリダの精神を忘れてはならない。デリダの精神を忘れるとき、批評家は批判しているつもりで提灯記事を書いているという茶番を繰り返すことになる。  デリダ氏の冥福を心からお祈りする。そして、デリダ氏の良き後継者達が世界で広く育つことを期待したい。 了
  • STAP細胞問題を観察すると、
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    • 2017/12/12 18:43
    愚鈍な一般大衆が、いかに騙され易いか、 そして、いったん虚偽を信じてしまえば、 いかに、その虚偽の呪縛から開放されることが困難なのか、 ということを、思い知らされる。 なお、この場合の愚鈍さは、知能指数とは無関係。
  • Let'sPensées!
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    • 2017/12/12 16:47
    東哲で長く同タイトルのトピを立てていましたが ストーカーが多いのでこちらに移動しました。 話題は宇宙、芸術、エトセトラ・・・ どうぞよろしく
  • ☆ スピノザとニーチェ、哲学者の気質 ☆
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    • 2017/12/11 20:10
    ☆ スピノザとニーチェ、哲学者の気質 ☆  スピノザとニーチェの思想はよく似ている。しかし、本質的には、両者の思想は対極的な位置にある。  ニーチェもスピノザも、自由意志を否定する。すべては必然である。人間の無知が自由意志なる幻想を作り出す。だが、自由意志なるものは存在しない。ここまでは同じである。しかし、ここから二人の思想は大きく分かれる。  スピノザは、世界は合理的であると考える。人間は有限であるがゆえに、無限の世界を認識し尽くすことはできない。知性を持ちながら、必然を知らぬことが人間の悲しみ、苦しみの源泉である。  一方、ニーチェは、世界は非合理であると捉える。必然を知ることがないのは認識能力の限界によるものではない。世界とは、もともと知的な認識能力で把握されるようなものではない。それは、奔放な肉体の意義と合致する混沌である。そこには常に「生成」という二文字がある。「生命あるところ力への意志を見る」これがニーチェの世界解釈である。スピノザの虚弱な知性は混沌のなかで道を失い滅びる。しかし、力を求める生命とそれを支える肉体は、混沌の中で絶え間ない生成へと向かう。ニーチェにとって、必然の世界こそ生命の可能性なのである。  スピノザもニーチェも、同情心は無益な感情であると考える。しかし、その論拠は大きく異なる。  スピノザは、生命の本質は自己保存にあるとする。同情心は自己保存能力を損なう。それが、スピノザが同情心を否定的に捉える理由である。  ニーチェも、同情心が力を衰弱させるものであると考える点ではスピノザと一致する。「神は死んだ。人間への同情心のために死んだ。」とニーチェは宣告する。だが、力は自己保存を目的とするものではない。生命とは絶え間ない超越である。自己を分裂させ破壊させる地点まで肉体を導くもの、それが力であり、力への意志である。同情心は力を衰退させる。だが、それにより自己保存能力が損なわれるのではない。同情心は、超越する力を衰弱させ、歪んだ力への意志=真理への意志へとそれを堕落させる。真理への意志こそがスピノザを支配するものであり、下降する意志、衰退する者の意志なのである。  スピノザとニーチェのどちらが正しいのかと問うことは無益である。ジンメルは、「哲学は世界像からみた気質であり、芸術は気質から見た世界像である。」と述べている。スピノザとニーチェが、事実認識においては一致しながらも、全く正反対の思想を展開した裏には、両者の気質の差がある。ウィトゲンシュタインとハイデガー、この20世紀を代表する哲学者たちにも同じことが言えるかもしれない。  ちなみに、私は、個人的には、スピノザとウィトゲンシュタインに共鳴するところが多い。ニーチェとハイデガーには強い反発を感じる。私の気質が、スピノザやウィトゲンシュタインに近いからかもしれない。 (H14/12記)
  • カルロスカスタネダ * イクストランへの道
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    • 2017/12/11 20:10
    そんな道は、ありはしない。
  • ☆ ボーズ博士とフェルミ氏 ☆
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    • 2017/12/11 20:09
    ☆ ボーズ博士とフェルミ氏 ☆ 井出 薫  この宇宙はボーズ博士とフェルミ氏が作った。ボーズ博士が作ったボーズ粒子なる代物は同じ場所に無限個の同じ粒子が入ることができるが、フェルミ氏が作ったフェルミ粒子は同じ場所に一つしか入ることができない。 (注)厳密に言うと、同じ場所ではなく同じ量子状態なのだが、本論は物理学の解説ではないのでご容赦願いたい。簡単に補足すると、ボーズ粒子はボーズ・アインシュタイン統計に従う粒子で、フェルミ粒子はフェルミ・ディラック統計に従う粒子のこと。いずれも量子力学特有の、素粒子には個別性がないという性質を共有しており、古典力学の世界では理解できない特性を示す。(「個別性がない」とは次のようなことを意味する。二つの電子が東と西から飛んできて衝突して南と北に飛び去ったとする。南に飛んでいった電子は東から来たものか西から来たものか。これは古典力学では決定可能だが、量子力学では決定不可能になる。素粒子には個別性がないために、衝突前には東と西から電子が飛んできて、衝突後は南と北に飛び去ったとしか言えない。それ以上のことを語ることはできないのだ。)数学的に表現すると、古典物理学から量子物理学へと移行するときに、ポアッソン括弧を交換子で置換することで導出される粒子がボーズ粒子で、反交換子に置換することで導出されるのがフェルミ粒子と言える。交換関係で表現されるか、反交換関係で表現されるかで、二つの粒子の統計学的な差が説明できるのだが、詳細は量子力学の教科書に譲る。  人間の身体や身の周りの品々、さらには太陽などの物体はフェルミ粒子から出来ている。お陰で人類は住宅問題に悩まされることになった。同じ場所に60億人の人間を詰め込むことができないからだ。だが悪いことばかりではない。住宅問題に悩まされる代わりに、物体がフェルミ粒子のお陰で宇宙が真っ暗にならないですんでいる。太陽のような恒星は、核融合エネルギーを費やすと重力に抗することができなくなり、どんどん小さくなる。しかし、太陽程度の質量だとブラックホールになってしまうことはなく、白色矮星として宇宙に留まる。その理由は、フェルミ粒子である電子が同じ場所に入ることができないために、一定の大きさ以下には小さくなれないからだ。太陽よりも数倍重い恒星は、電子が同じ場所に入れないことから生み出される圧力(縮退圧と呼ぶ)では重力に抗することができないために、どんどん縮小していくが、それでも電子と陽子が融合してできる中性子がフェルミ粒子なので、中性子の縮退圧で重力崩壊を止めて中性子星として宇宙に留まることができる。太陽よりも10倍の質量を持つ恒星では中性子の縮退圧でも重力に抗することができず重力崩壊してブラックホールになってしまうが、そういう星は比較的少ない。  要するに、粋なフェルミ氏のはからいで、人類は、住宅問題に悩まされるという難点はあるけれど、地上で平和?に暮らしていくことができるわけだ。  では、ボーズ博士の作ったボーズ粒子は何の役にも立っていないのだろうか。とんでもない。私たちが生きていくためには光が欠かせない。この光の正体はフォトンという名のボーズ粒子の集まりだ。地上の生態系は植物や植物性プランクトンを第一次生産者として太陽光のエネルギーで維持されている。つまり、ボーズ博士の発明のお陰で人類は生き延びている。 (注)一部の化学合成独立栄養細菌は太陽光に依存することなく生命を維持することができるが、海底や地底奥深くなどの特殊環境を除けば、化学合成独立栄養細菌の役割は極めて小さなものでしかない。  さらに、宇宙の構造とその運命を決める重力もグラビトンというボーズ粒子の集まりだと考えられている。ボーズ粒子は同じ場所に無限個の粒子が入ることが出来るので目立たないのだが、フェルミ粒子とともに人類の存在を支えている。  ボーズ博士とフェルミ氏の発明で、宇宙は発展して人類が生まれた。だが、宇宙は二人の発明家を必要としたのだろうか。  ボーズ粒子とフェルミ粒子の間には超対称性と呼ばれる対称性が存在すると考えられている。まだ超対称性粒子は発見されておらず、この考えは仮説に留まっているが、状況証拠や理論的な整合性からまず間違いないと素粒子物理学者たちは信じている。
  • ☆ ウィトゲンシュタイン「哲学的探究」 ☆
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    • 2017/12/11 20:09
    ☆ ウィトゲンシュタイン「哲学的探究」 ☆  ウィトゲンシュタインの「哲学的探究」は、遺稿管理人(R.リース、N.マルコム、V.ウリクトの三名)がウィトゲンシュタインの死後、遺稿を纏めて発行した著作である。  そこには、哲学書特有の難解な用語や表現は一切出てこない。難解な哲学的用語や表現は意味がないというのがウィトゲンシュタインの考えだったから当然のことと言える。  それでも、この著作は難解だと言われている。それは、ウィトゲンシュタインが何を言おうとしているか、なぜ、このようなことをくどくどと議論しなくてはならないのか、それを理解することが容易ではないからだ。  ウィトゲンシュタイン自身が自分の著作を評して、こう言っている。「私の本は、私と同じ問題を考えたことがある人だけが理解できるだろう。」と。ウィトゲンシュタインと同じ問題意識を持ち、それを考え抜いた人、その人だけがウィトゲンシュタインの探究を本当に理解することができる。  だが、諦める必要はない。ウィトゲンシュタインと共に、私たちは考えることを始めることができる。言葉の意味とは何か、言葉はどのように使用されているのか、規則とは何か、私的な言語は可能か、感覚とは何か、知識とは何か、こういう問題をウィトゲンシュタインの探究を指南書として考えていくことが出来る。  ウィトゲンシュタインは「自分の本は、人が考えることを省くことができるようにするためのものではなく、考えることを励ますためのものである。」と述べている。ウィトゲンシュタインの考えに私たちは同意する必要はない。大いに疑問を抱き、批判をして、間違いを指摘すればよい。それこそが、ウィトゲンシュタインの望むところなのだ。ドグマは考える者の最大の敵だ。  誰もがウィトゲンシュタインの「哲学的探究」を読まなければならないわけではない。読む必要などない。だが、一つ確実に言えることがある。読む必要はないが、読みそして真剣に考えることができれば、読者にとって、それは限りなく有益であるということだ。 了 (H16/5/17記) [ Back ]
  • ☆ 科学の現実 ☆
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    • 2017/12/11 20:08
     「現在のところ、STAP細胞は確認できていない。」と理研が、8月27日、再現実験の中間報告を発表した。それでも小保方氏は「STAP細胞は存在する」と自説を変えておらず11月をめどに実験を続けると宣言している。多くの専門家はSTAP細胞の存在に否定的だが、最終結論は出ていない。  理研の発表の報道を耳にして、ふと疑問が浮かんだ。素人考えだが、いちいち実験などしなくとも、スーパーコンピュータを使って細胞内の変化をシミュレーションして結論を出すことはできないのか、こういう考えが脳裏を過ぎった。小保方氏が発見したと主張する万能細胞作製方法は実に簡単で、弱酸性液に30分間浸すことで体細胞が万能細胞に変化するというものだ。細胞膜の構造と細胞内の構造はすでに解明されている。細胞膜を境界にして、外部は弱酸性、細胞内はほぼ中性という環境をモデル化して、そこで生起する現象をコンピュータでシミュレーションして、STAP細胞の可能性を評価する、それくらいのことができないのだろうか。確実な結論は導けなくとも、可能性の評価くらいはできてもおかしくない。さらに、コンピュータシミュレーションで、他の方法、たとえば圧力や熱を加える、ごく短時間過酷な環境(真空状態、極低温状態など)に細胞を晒す、など小保方氏とは別の方法でSTAP細胞を作製できないかを評価することも可能ではないだろうか。  だが、複雑極まりない細胞内の構造と働きを考えるとき、実際はコンピュータシミュレーションでは答えは得られない。だから、実験室で試行錯誤を繰り返すしかない。おそらく、これが現実だろう。科学と言うと、私たちは物理学の基礎原理のような厳密且つ普遍的な法則から、理路整然たる数学的推論を使って現象を導き、実験や観測でそれを実証する、という手続きを思い浮かべる。だが、そのようなことができるのは、ほんの一握りの分野でしかない。138億年前にインフレーションとビックバンで宇宙は誕生したとか、半世紀前に存在が予言されたヒッグス粒子が漸くLHCの実験で発見された、などというニュースを耳にすると、科学の威力は絶大で、何でも説明ができ、何でもできるように感じてしまうが、錯覚に過ぎない。  事実、精密科学の典型で、自然科学全体の基礎をなす物理学でも、理論から精確な予測や説明ができる分野はごく限られている。絶対温度数十度以上で超電導現象が出現する高温超電導は発見されてから四半世紀が経過したが、理論は完成していない。そのため、どのような物質が高温超電導になるかの予測は困難で、科学研究の不正として良く取り上げられる有機物質による高温超電導の存在が広く信じられた時期もあった。雪の美しい結晶構造も理論から精確に説明することはできない。複雑系などと呼ばれる領域では定量的な予測は困難で定性的にしか説明ができない。それどころか、問題によっては、定性的な説明すらできないこともある。その傾向は、生物学、医学、生理学などの分野になると益々顕著になり、理論とコンピュータシミュレーションの限界が露わになる。こういう分野では、試行錯誤で答えを見つけ出していくしかない。  現在広く用いられている抗うつ薬は、(理論的なモデルはあるが)なぜその薬が有効なのか、薬が効かない患者では何が問題なのか実はよく分かっていない。抗うつ薬に限らず、精神疾患関係の薬物の多くは、理論的な観点から有効性が確認されている訳ではなく、薬が効くという事実により、有効性が認められているだけの場合が少なくない。  これは別に非難すべきことではない。他に有効な治療法がない患者を救うためには、副作用が(治療のメリットを帳消しにするほど)大きくなければ、(十分な情報を提供したうえで患者の同意を得て)使用することには大きな意義がある。他の分野でも、理論がなければ、試行錯誤で研究を進めていくことで科学技術は進歩する。
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