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  • 元書
    • 1,672
    • 2018/01/17 16:24
    基本ゆえ元書となずけてみる。
  • Let'sPensées!
    • 1,791
    • 2018/01/17 16:01
    東哲で長く同タイトルのトピを立てていましたが ストーカーが多いのでこちらに移動しました。 話題は宇宙、芸術、エトセトラ・・・ どうぞよろしく
  • 機械で心はつくれるか?その2!
    • 4,085
    • 2018/01/17 03:41
    ウデスパーさんがこのトピを立ち上げた頃が哲カテの全盛期やったかな。 心で機械はつくれるが、機械で心はつくれるか? 先月、ディープニューラルネットワークを組み合わせたアルファ碁がプロのトップ棋士を破ったとかなんとか大騒ぎになったので再び立ち上げてみますたが、まぁ、どんなテーマでもええんとちゃうかな。 立ち上げただけで放置することもありえるけど、つくるだけつくってみた。
  • イクストラン君の哲学探求の結晶
    • 209
    • 2018/01/17 00:12
    http://www.eleutheria.com/ イクストラン君を好む人も、嫌う人も、彼の真剣さに心を打たれ、 驚嘆の念を覚えるだろう。
  • get953さんと語ろう!
    • 19,443
    • 2018/01/16 21:56
    YAHOO哲学板の「知の巨人」、get953といろいろ語りましょう。getさん、よろしくお願いします。
  • カント先生について勉強してみる。
    • 1,520
    • 2018/01/15 21:35
    カント先生の思想を、わかるところだけでも理解したいと願い、少しずつでも勉強していけたらなとスレッドたててみました。よろしくお願いします。
  • ふたたび哲学者はキティちゃんが大好き
    • 2,335
    • 2018/01/14 11:47
    平和の使徒キティちゃんを愛好する自称哲学者kittydanielx再び登場です
  • 明書
    • 523
    • 2018/01/13 22:31
    明が価値になり、明書と名付けてみる。元書の続きだ。
  • 意識などの物理的な説明と、観念の浮上
    • 8
    • 2018/01/13 10:34
    突然ですが、お邪魔をします。「小説家になろう」という小説の投稿サイトがあって、そこに「意識のはじまり」という小説が投稿されていました。タイトルや関係ありそうなキーワード3つくらいの組み合わせで検索できます。 読んでみたところ、ベルクソンの「無は存在しない」から始まって、それが、物質を経由して、意識や観念などの話にまでつながっているようでした。 たとえば以下のようなことについて書かれていました。まとめ方がへたなことや誤解の可能性のあることはこちらの責任です。お許し下さい。 ●無が存在しないとすれば、なにかがただ有であるばかりか? その有とはどんなものか? 有の開始点はあるか? どんなものか? ●有の開始点にゲーデルの不完全性定理は適用されるか? ●論理性はどこに存在するか? ●この宇宙に適用されている論理性や物理学とは別の論理性や物理学は存在しないか? ●虚数は存在と言えるか? ●思考実験:実効性をおびた物質の性質があれば、それは物質として振るまうか? 性質が実体に先立つか? ●なにが物質の性質を体現しているか? ●この宇宙での本当の存在と言えるのは、エネルギーだけか? 精々、無数のエネルギーで構成される量子の状態波動体までか? ここで、状態とは、そこに量子が存在するという状態。量子そのものは存在せず、そこに量子が存在するという状態がエネルギーによって醸しだされているだけか? 言わば、粒子(実体)とは、状態というなんとなく得体の知れないものによってもたらされる巨視的な幻覚のようなものであるとも解釈できるか? ●量子がこの宇宙に存在するには、相互作用を起こせないといけないか? 論理性は、この宇宙では量子が相互作用を起こせることを求めているか? ●量子が相互作用を起こすには、他の量子との接触で変化・検出・反応が必要か? (核分裂のような激しい変化ではなく) ●二つの量子の接触で、各々の量子に変化は生じるか? また、変化・検出・反応に順序はあるか? ●外界の検出は、相互作用によっているか? 外界の検出は、外界の変化に対応して生じる自分の変化の検出によっているか? さもなければ、外界の存在には気づけず、外界のことは知りえないか? ●思考実験:純粋な精神は物理世界のことを一切知りえないか? 意識が外界を認知できていると仮定すると、意識はその内に外界の変化を検出できるための物質性をそなえていなければならないか? ●物質のなかに意識になれそうなものは何かないか、意識と同質と感じられるものは何かないか、と探してみることは妥当か? 精神は、物質と統合できるか? ●生物でのエントロピの減少は自然なことではないか? 生物でのエントロピ生成速度は自然に減速するのではないか? ●生物ではエントロピ生成速度が自然減速するという推測の根拠はなにか? ●生命性とは、持続的可変性・可変的持続性・変化の残像性・変化の微分性のことか? ●次のようなことが意識のヒントにならないか? 1) 生命性 2) 物質性 3) 創発 4) 創発を起こすものである物質の性質 5) 生物でのエントロピ生成速度の減速性 また、観念というものがかなり重要視されているようで、観念についての新しいのではないかと思われる考えも展開されていました。たとえば、「観念」の出現頻度はきわめて高いのですが、「情報」の出現頻度は低いです。たとえば、10章「意識開闢」の、「認知開闢・観念開闢(知るということと観念の関係)」の節。 全体として、そう言われてみればそうかもしれないという気がしないでもないのですが、正直なところ、その真偽や正誤についてはよくわかりません。 皆さんはどう思われますか? けっこう色いろなことが書かれているので、的を絞るのが大変かもしれませんが、8章「性質実体一元二面論」と10章「意識開闢」には小見出しの詳しい目次がつけられています。これを頼りに興味が持てそうなところをまず適当に拾い読みしてみるという手もあるのではないかと思います。
  • インターネット、って
    • 3
    • 2018/01/11 18:15
    便利だな
  • BC級グルメ哲学・味の美学
    • 363
    • 2018/01/08 23:31
    プロレタリア的勤労人民大衆的グルメ リニュアール新登場
  • 哲学大図書館
    • 3,005
    • 2018/01/07 20:03
    蔵書目録
  • ☆ ニーチェの魅力 ☆
    • 5
    • 2018/01/03 01:11
    ☆ ニーチェの魅力 ☆  ニーチェは男女差別論者だ。「女に選挙権を与えるなどバカげている。」などという言葉を平気で口にする。だが、ニーチェは普通の男女差別論者とは違う。ほとんどの男女差別論者は、男が女より優れているから男性上位になるという論理を展開する。しかし、ニーチェは、男が女との戦いに勝ったから男が女を支配している、好きこんでその勝利を手放すことはないと主張する。ニーチェは男の優位性などを信じているわけではない。  だから、フェミニズムも案外ニーチェには寛容だ。ニーチェの考えはジェンダー論に繋がるところがある。闘争に勝った男が支配する社会体制を作ったというのがニーチェの考えであり、これは正にジェンダーとしての男の支配を意味するからだ。  ニーチェは、利他行為あるいは自己犠牲を嘲笑う。『そんなものは立派な行為でもなんでもない。人間は群れをなして生きる動物だから、集団のために自己を犠牲にするという本能を生まれつき持っている。自己犠牲、利他行為などはその本能の現れに過ぎない。寧ろ、課題はどうすれば本物の利己主義者になれるかということだ。』これがニーチェの主張だ。  真の利己主義者は、自分の優位を確信して、弱い者を平然と打ち倒す。そのような強者=真の利己主義者こそ、人類を高みへと導く者である。ニーチェは、だから、強者が弱者を抑圧することは権利であり義務である、それこそが人間を向上させるとすら主張する。  ニーチェは、強者が弱者を抑圧する権利と義務を有するという主張から、20世紀前半はファシズムやナチズムの指導的な思想として取り上げられた。  だが、ニーチェが、強者は弱者を打ち倒すべしという主張と同時に、集団のために自己を犠牲にする行為を笑うべきもの、人間の劣等性を示すものだと主張していることに注目する必要がある。これはファシズムなどあらゆる独裁思想に対する最大の挑戦だからだ。  要するに、ニーチェの思想を独裁思想と見ることもできるが、独裁思想への最強の敵と見ることもできるということだ。独裁は、体制と支配的思想への殉教を人々に強要することで成立する。だから、自己犠牲を笑うべきものと捉えるニーチェは独裁者にとっては最も厄介な存在だ。却って人民やプロレタリアート大衆への忠誠を求める共産主義者のほうが自分たちに遥かに近いことを独裁者は知るだろう。左翼から右翼へ、あるいはその逆の転向は珍しいことではない。その背景には自己犠牲を強いる精神、自己犠牲に酔いしれる精神が潜んでいる。  戦前とは逆に、戦後思想は主としてニーチェを反独裁の文脈から理解してきた。これを、右翼的ニーチェ像から左翼的ニーチェ像への変換として捉えることもできるだろう。だが、左翼的だとか右翼的だと言うこと自体が、ニーチェ的な視点からすれば、笑うべきドグマだということになろう。  ニーチェは実にアンビバレントだ。男女差別論者であると同時に、男女差別の根拠など存在しないことを明らかにする反男女差別論者でもある。強者が弱者を打ち倒す権利と義務を擁護して独裁へと人々を誘惑する思想家であると同時に、独裁体制への最強の抵抗者でもある。  いや、ニーチェは、男女差別論者を演じることで、男女差別論には何の根拠もないことを示し、独裁体制へと人々を誘惑することで、独裁は最も愚劣な政治体制であることを示そうとしているのかもしれない。  パロディスト・ニーチェ、それが本質なのだろう。ニーチェ本人が自分をどう評価していようと。そして、ここにこそ、凡百の思想家ではとうてい及びもつかないニーチェの魅力がある。
  • カミュ
    • 21,464
    • 2017/12/30 18:03
    カミュが好きで・・・・禅仏教者なんですが、かれのなんともいえぬ、ペシミズムというか、どうしようもない感じが好きで?、数十年アタマから離れませんでした・・ そうだな・・・異邦人でも、シジフォスの神話でもいいんですが・・・ 東洋哲学は、アラシのひとが多いんで・・・西洋哲学で、ゆったりと考える人たちが いらっしゃるのか、どうか、わかりませんが・・・ まあ、リアクションを期待しています ライナス.・愚・スペースエクスプローラー
  • Thoughts for Humanity ~人類の思想~
    • 1
    • 2017/12/29 17:40
    ホームページ、ご覧ください。 https://hazama1973.wixsite.com/humanity
  • ☆ 作られる病気 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:52
    ☆ 作られる病気 ☆ 井出薫  最近「社会不安障害」という言葉をよく耳にする。一昔前までは「対人恐怖症」と呼ばれていた病?を今はこう呼ぶらしい。あがってしまい人前でうまく話しができない、初めの人と会うのが苦手だという人は少なくない。だが、こういう症状を放置すると社会不安障害に陥り社会生活に著しい支障を来たすことがあると言われ、近年患者が急増していると指摘されている。だが社会不安障害は本当に増えているのだろうか。  私も子供の頃から人前で緊張して上手く話しができなかったり、人前で失敗をしでかすのではないかと不安になったりして、人との交わりに支障を来たすことが少なくなかった。8年ほど前にパニック障害とうつ病を患って以来、この傾向がさらに強まったという感じがする。専門家の目から見れば今の私も軽度の社会不安障害に該当するのかもしれない。  しかし、このような症状で困っている人は昔からたくさんいたと思う。小学校や中学校の頃、クラスに2人か3人くらいは、他の生徒や先生の前で、本を読んだり、歌ったりすることがとても苦手な子がいたと記憶している。でも子供達も先生も、そして本人も家族も、それを病気だ、病気の前兆だなどとは考えてはいなかった。人前で何かしなくてはならないとき、そういう子供達は、それは大変な苦痛だったろうと思うが、苦痛は一時的なもので、何も気に病むほどのことはなかったし、実際それで酷く苦しんでいたということもなかったと思う。周囲も、そういう子供に無理に人前で何かをさせようとはしなかった。人見知りをする、人前で緊張しておどおどしてしまう、顔が真っ赤になってしまう、こういうことはその子の性格、けっして矯正する必要もなければ、恥じることもない子供の性格だと考えていた。そういう子供を苛める子もいたが、先生は苛めっ子を厳しく戒めたし、叱られた子供は自分が悪かったと反省した。社会不安は病気などではなく個性に過ぎなかった。  だが時代が変わり、人々は、積極的に人前に出て、自分の意見を堂々と述べることができなくてはならないという強迫観念に支配されるようになった。それは何も児童の世界の話しだけではなく社会人にも共通する。以前は、人前で話をすることが苦手な人や初めての人と気さくに話しをすることができない人、そういう人にはその人に相応しい職場や仕事があり、そこで自分の力を発揮することができた。だが今ではほとんどどの職場でも、上手に自己PRをして、クライアントの前で弁舌爽やかにプレゼンテーションすることが要求されるようになり、そういうことが上手くできないと競争社会で生き残ることはできないと脅かされる。  その結果、元々は病気でも何でもなかったものが病気とされるようになった。そして、気の弱い人や人と競争することが苦手で自己PRの下手な人は、自分は病気で競争社会から脱落してしまうのではないかと恐れを抱くようになり、病気ではなく単なる性格に過ぎなかったものが本格的な病気となってしまうことが増えた。これが「社会不安障害が増えている」ということの現実なのではないだろうか。病気はそこに初めからあったのではなく、社会が作り出してしまったのだ。
  • ☆ 競争の光と影 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:51
    ☆ 競争の光と影 ☆ 井出薫  知人に鬱病を患い退職した者がいる。幸いなことに病気や事故で収入を失った時に保障をする保険に加入していたので、辞めても以前の給与とほぼ同額の保険金を受け取ることができ当座の生活に困ることはない。とは言え病気は辛い。まだ若い彼には働いていないこと自体が苦痛だろう。  競争は経済発展を促し社会を豊かにすると信じられている。ソ連・東欧の共産主義が崩壊し、中国が市場経済に転換して成功したことからも、このような思想に一理あることは間違いない。だが競争激化の煽りで彼の職場では大リストラが行われ、それまで3人でしていた仕事を一人でやらなくてはならなくなった。深夜帰宅は当たり前、土日の出勤も続いた。そんな中で彼は発病した。  彼が競争の犠牲者であることは間違いない。ただその一方で彼が保険を受け取れるのは、ある意味で競争の成果と言える。30年前だったら、失業してもらえるのは期間限定の失業保険だけで、金額は給与よりずっと少なかった。競争で保険会社のサービス開発が促進され様々な新しい保険が登場した。彼が利用しているのもそういう保険の一つだろう。  競争には利点もあり欠点もある。今の彼にも両方が現れている。だがどう見ても欠点の方が大きい。競争の欠点よりも利点を享受している者もいるだろう。だが周囲を見回すと競争の犠牲になっている者が多いように感じる。社会の豊かさとは個人の豊かさを意味する。国や企業が幾ら権益や利益を得ても、それが全ての国民に還元されないようでは、社会は豊かになったとは言えない。パソコン、大画面テレビ、携帯電話、ゲーム機など膨大な新商品に取り囲まれて、人々は豊かになったという思いを抱いている。だが果たして本当にそうなのか。格差の拡大が目立つ今、競争神話から目を覚ますべきときが来ているように思われる。 (H20/4/8記)
  • ☆ 虚数の不思議 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:51
    ☆ 虚数の不思議 ☆ 井出 薫  虚数は不思議だ。2乗して-1になる数など存在しないと初めは誰もが考えた。だが、今では、それは数学にはなくてはならない存在となっている。  虚数の存在は二次元上の半径1の円を考えると理解がしやすい。1に-1を掛けると-1、もう一度-1を掛けると1に戻る。-1*-1=1。これを半径1の円周上で180度の回転を二度続けて行なうと考えることができる。だとすると二乗して-1になる数を考えることは難しくない。円周上で90度回転させた数が-1の平方根と考えることができる。なぜなら、この操作を二度続けて行なうと180度の回転になり、それは1の対称的な位置にある-1になるからだ。  こうして虚数iが導入された。実数を横軸、虚数を縦軸と考えることで、二次元平面上で複素数の世界が展開する。  数を実数から複素数に拡大することで、数学の世界は飛躍的に拡大して、数学理論の内部だけではなく、様々な領域で数学の応用が広がった。電磁気学などで欠かせない道具である等角写像の手法などは実数の世界では展開できない。不確定性原理と、独立な状態の重ねあわせを基礎原理とする量子論は、その基礎からして複素数の世界になる。なぜなら、不確定性原理で表現される相補的な物理量(たとえば運動量pと位置x)が重ねあわされた量子状態は、1次元的な実数の世界では表現不可能だからだ。つまり量子論は複素数の世界でのみ展開可能で、複素数がなければ量子論を体系化することはできなかった。  ところで、これまでの説明を聞くと、複素数の世界は二次元のベクトル空間と同じではないかと感じる人がいるかもしれない。だが両者は違う。二次元のベクトル空間ではX軸とY軸は同等な存在であるが、虚数軸と実数軸は異質な性質を持つからだ。それはiの2乗が-1であり、1の2乗が1であることからも容易に想像できるだろう。複素数を表現する二次元のモデルはベクトル空間ではない。  虚数と実数を二次元で表現できることから、さらに、実数1でも、虚数iでもなく、第3の数(超数?)jが存在するのではないか、そういう数を導入することで、複素数が数学を拡大したように、さらに数学を強化できるのではないか、こう考える人がいるかもしれない。  だが、そういう数を導入することはできない。そういう数は実数と虚数の和で表現される複素数に還元されることが分かっている。複素数以上に数を拡大することはできないのだ。「虚実」という言葉はあるが、「虚実〇」の〇を埋める適当な文字がないように、第3の数はない。  私たちが暮らす空間は、(超弦理論など最新の物理理論ではいざ知らず)普通三次元だと思われている。ところが、私たちの思考の基礎的枠組みの重要な一部である数学では、二次元的な世界が数の世界になる。人間の脳は三次元の世界を二次元に変換して理解していると言われているが、もしかすると数の世界が二次元以上に拡張できないのは人間の脳の構造や機能と関連しているのかもしれない。虚数はやはり謎に満ちている。 (H19/3/18記)
  • ☆ 地球温暖化論に寄せて ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:51
    ☆ 地球温暖化論に寄せて ☆ 井出薫  気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第5次報告書が昨秋から逐次公開され、地球温暖化の想定されるシナリオ、その影響と対策が報告されている。しかし、IPCCの発表とそれを受けた報道には疑問を感じない訳にはいかない。  一番の疑問、違和感は2℃という数字にある。地球温暖化による悪影響を避けるには、産業革命前から21世紀末までの温度上昇を2℃以内に留める必要があると言う。だが2℃を超え、たとえば2.5℃になると壊滅的な状況になるという根拠がない。逆に1.5℃ならば大丈夫という根拠もない。色々と解説書を捲ってみても納得がいく説明がない。ただ現状を放置すれば、21世紀末までには4℃以上の温度上昇が起きる、せめてその半分である2℃以内に留めないと駄目だという程度の理屈しかないようにしか読めない。これでは、半世紀近くに亘って「東海沖で大地震が起きる」と言って、東北沖大地震のリスクを物の見事に見落としたどこかの国の地震研究家たちと大差がない。  さらに、「現状を放置すれば4℃の温度上昇が起きるが、2050年までに排出量を50%に削減し、21世紀末までにゼロにすれば2℃以内は実現できる。それができなければ2℃以上の上昇は避けられない。」などと報じられているが本当だろうか。この報告が正しいとすると、二酸化炭素排出量xと温度上昇yとの関係を示すy=f(x)の関数fが判明したことを意味する。この関数fが分からなければ、どれだけ温度上昇するか、どれだけ削減すれば2℃に収まるのか分からないはずだからだ。しかし、極めて複雑な気象現象で、関数fを正確に見積もることなどできるはずがない。地球温暖化と言っても、世界が均一に温度上昇する訳ではない。地球温暖化の影響で、海洋の中深層(数百メートル以深)の海洋循環(熱塩循環と呼ばれる)が現在と大きく変わり、北大西洋に流れこむ温かい海流が消滅し、欧州は温暖化どころか10℃の温度低下に襲われると予測されている。だがそれは本当に確実なのかというとそうではない。想定しうるシナリオでしかない。では日本はどうかと言われると実はよく分からない。おそらく平均程度に上昇するだろうと漠然と予想されているに過ぎない。現時点での地球温暖化の理解とはこの程度のものでしかなく、関数fの正確な形式は不明で、二酸化炭素の排出量をどの程度削減すればよいのかなどということは、本当のところよく分かっていない。  しかも、温室効果ガスは二酸化炭素だけではない。微量だがメタンは二酸化炭素の20倍以上の温室効果があり、こちらも大気中の濃度が上昇している。日本近海でメタンハイドレード(固化したメタン)が発見され大いに期待されているようだが、メタンの回収と適切な利活用に失敗しそれが全て気体(期待?)となって大気中に放出されることになったら、大変なことになる。日本は世界を滅ぼした元凶として歴史に記されることになろう(尤も人類が滅亡したら歴史もなくなるのだが)。他にも、強力な温室効果ガスである亜酸化窒素も窒素肥料の大量使用で大気中濃度が増加している。要するに、二酸化炭素排出だけを抑制すれば良いという訳ではない。人口増加に伴い食糧の増産が急務で、この先もメタンと亜酸化窒素の増加は避けられそうもない。二酸化炭素増加の影響が大きいために、今は隠れているが、二酸化炭素の削減に成功すれば、今後はこちらが重大な問題となる。  2℃という数字に大した意味はない。温暖化を警告するためのPR用数値に過ぎない。2℃が閾値だとしても、どれだけ二酸化炭素を削減すればそれを阻止できるのか分からない。二酸化炭素以外の人為的な要因である、メタンや亜酸化窒素の増加の影響やその抑制策は研究が進んでいない。要するに、現時点では、このままだとどうなるのか、どうすればよいのか、誰も分かっていない。それなのに「全ては明確であり、遣るべきことははっきりしている、あとは遣るか遣らないかだけだ」と言わんばかりの言動が罷り通っている。そして、それぞれの思惑で、2℃という象徴を勝手に援用して、原発を容認しようとしたり、シェールガス革命とやらで世界のエネルギー市場でイニシアティブを取ろうとしたりしている。こんなことで温暖化問題が解決できるはずがない。
  • ☆ 反・「反科学」主義 ☆
    • 5
    • 2017/12/29 07:50
    ☆ 反・「反科学」主義 ☆ 井出 薫  総じて、現代の哲学者は反科学主義(あるいは反科学技術主義)の傾向が強い。理学系の出身者である野家啓一氏や野矢茂樹氏なども、レッテル貼りをさせてもらえば、反科学主義の範疇に属することになろう。20世紀を代表する哲学者としばしば称されるハイデガーとウィトゲンシュタインの思想も反科学主義的な色彩が強い。 (注)反科学主義と反科学技術主義とは違う意味に使用されることもある。反科学主義だが反科学技術主義ではない、あるいはその逆ということもありえる。科学の技術に対する優位性という神話を批判するという立場もある。だが、通常は、両者は同じような意味合いに使われることが多く、野家氏やハイデガーの批判も両者をともに含むと言ってよい。だから、本稿では反科学主義とは反科学技術主義も含む概念として議論を進める。  単純な科学主義には筆者も反対する。単純な科学主義とは、「自然科学特に物理学に全学問は還元される(されなければならない)。」、「世界とは素粒子と場の複合体であり、素粒子の法則で原理的にはすべてが決定されている。従ってすべては素粒子論により説明される。」、「自然科学と数学、科学技術の発展が社会のあり方を決定する。」というような主張を含む自然科学主義と科学技術至上主義のことだ。このような単純な科学主義は社会と人生の切実な問題を曖昧にして、社会と人間に対する極めて偏った歪んだ視点を持ち込む不適切な思想だと言ってよい。この意味での単純な科学主義に反対する「反・科学主義」は十分な正当性を持つものだ。  尤も、上に述べるような単純極まりない素朴な科学主義に同意する者は実際にはほとんどいない。しかし、意識的に科学主義を採用していなくても、科学主義的・技術至上主義的なものの見方・考え方が社会の至るところで認められ、産業活動、医療現場、科学技術行政、科学技術教育など広い領域で現実社会に好ましくない影響を与えている。だから、反・科学主義的な思想は意義がある。  しかし、反科学主義の哲学者の思想には、「反」・「科学主義」ではなく、「反科学」・「主義」が見られることが多い。「自然科学の発展は存在論の変革なしにはありえない」、「技術とは(本来隠されているべき)存在を露わにするもの」と論じるハイデガーの思想などは、反・科学主義と言うより、反科学・主義という色合いが濃い。存在への静かな思考や眼差しこそが人と世界の本質を捉えるもので、科学や技術はその指揮下に入らなくてはならないと主張するに等しいからだ。野家氏の「科学を物語的な視点から捉える」というテーゼにも、科学主義を批判するという立場を超えて、科学とその応用としての科学技術そのものを批判しようとする意図が透けて見える。  だが、自然科学や科学技術はリアルな現実であることを忘れてはならない。人間は、原始時代から自然には存在しない複雑な道具を作り、使う動物として進化してきた。高度な人工的な道具を作り、それを使用するということは人間と人間社会の本質をなす。現代の科学技術は、その進化の延長線上に位置しており、公害や自然環境破壊など大きな社会問題を引き起こしているからと言って、それが人間社会にとって必須の構成要素であることに変わりはない。  最も抽象的で論理的厳密性を持つ学問とされる数学も、その原点は、測量術や商業での数や図形の活用にある。物理学や化学、生物学、地質学など諸科学も、その原点には人工的な道具(貨幣もその重要な一部だ)を使って社会生活を営む人間が位置している。この事実は、極めて抽象的な現代科学特に理論物理学でも変わることはない。素粒子論や宇宙物理学など一見浮世離れした研究領域でも研究者は常に実験で理論を検証することに心を砕き論理に終始することはない。そして、実験は、研究対象そのものは浮世離れしたものでも-宇宙の始まりはどうなっているかとか、ブラックホールはホワイトホールと繋がっているか、など-、現実的な技術(たとえば超伝導技術や精密測定技術)と結びついている。科学は常に現実生活と密着している。  しかも、AIDS、鳥インフルエンザ、BSE、オゾンホール、温暖化、環境ホルモンなど現代社会の重大問題を科学や技術と切り離して論じることは全く無意味だ。  これに対して、科学や技術そのものを批判する哲学的思弁は論理遊びに過ぎないものがほとんどで、現実的な意義に乏しい。確かに、ハイデガーや野家氏の主張には魅力を感じるが、現実的な重要性を持つとは思えない。
  • ☆ 経済学の効用と課題 ☆
    • 3
    • 2017/12/29 07:50
    ☆ 経済学の効用と課題 ☆ 井出 薫  よく理解できない腹いせもあって、経済学など、深い哲学的洞察に基づき書かれたマルクス「資本論」やアダム・スミス「諸国民の富」を除けば、役に立たないものばかりだ、などとケチをつけてきたものだが、二酸化炭素排出量取引の話しを聞くと経済学の効用がよく分かる。  企業AとBがそれぞれ年間150万トンの二酸化炭素を排出しているとする。これが、排出量規制で100万トンに減らさないといけないことに決まったとしよう。Aは50万トン削減するのに10億円掛かるが、Bは2億円で出来る、しかもBは4億円使えば100万トンの削減も可能だ。二つの企業がそれぞれ規制を守るためには合わせて12億円の支出が必要になる。だが、たとえばAがBから50万トンの排出量を5億円で買い取ったとしたらどうなるだろう。Aは相変わらず150万トンの二酸化炭素を排出し続けるが、Bの排出量が50万トンに削減されるので、トータルで規制目標値200万トンが達成できる。ここで、Bは4億円の支出で5億円の収入が入ってくるから、排出量を削減して社会に貢献したうえに、削減に伴って利益が出る。Aも本来であれば削減に10億円支出しなくてはならないところが、排出量購入の5億円だけで済む。二つの企業だけではなく、社会全体で考えても、排出量取引がなければ12億円の社会的なコスト負担が生じるところが、4億円の負担で済むわけだ。-個別の企業の負担増は、料金の値上や従業員の賃金カットに繋がるから、結局社会的なコストになる。-こうして、二酸化炭素排出量取引が社会的に極めて有意義であることが経済学で証明される。  これは極めて簡単な計算だが、経済学的な思考方法が社会に役立つよい事例だろう。  とは言え、排出量取引を認めることが、直ちに最善の排出量削減策に繋がるかというと話しはそんなに簡単ではない。4億円で100万トン削減できると踏んでいたB社がいざ50万トンの排出量をAに売却したあとで、とても100万トンも削減できないと分かったらどうなるだろう。A社にお金は返すとしても排出量削減目標は達成できない。経営不振に陥った企業が排出量削減の確たる見通しもないのに排出量売却に動く危険性もある。-国際間の取引ではこの危険性はより一層高まる。-さらに二酸化炭素削減量を正確に把握できるのか、排出量取引が情報公開を徹底した公平な市場で行なわれるかどうか、技術的にも政治的にも課題は多い。  しかも問題は企業や人々のモラルに止まらない。たとえば、二酸化炭素削減装置を作るために所有地の森林を伐採して施設を作ったとしよう。その結果工場からの排出量は確かに減ったが、伐採の影響で二酸化炭素が増加したということも起こりうる。植物は光合成をして大気中の二酸化炭素を吸収するから、植物が減れば二酸化炭素が増加する可能性があると言わなくてはならない。尤も植物も夜は酸素呼吸をして二酸化炭素を排出するし、植物の光合成が盛んになると植物を捕食消化する微生物や動物の酸素呼吸が活発化して二酸化炭素排出量が増加するから、森林の二酸化炭素吸収効果は小さいかほとんどないという意見もある。だが膨大な森林伐採が二酸化炭素排出量の増大に繋がるという点では多くの専門家の意見は一致する。だから二酸化炭素削減用施設の建設に当たっては、その施設自身が環境へ与えるマイナス効果を考慮に入れる必要がある。だが、このような効果は、一企業の活動だけではなく産業全体の活動と生態系の変動を正確に見極めないと算定できないから、現実的には正確な見積はできないと考えなくてはならない。  このように経済学の範疇外の様々な要因が二酸化炭素排出量の増減に影響を及ぼすから、単純に二酸化炭素排出量取引だけで効率よく削減できると楽観することはできない。経済学的な考察だけですべてがうまくいくわけではないのだ。
  • カトリシズムと哲学とのリベラルなる交流
    • 2,915
    • 2017/12/28 22:30
    正式トピ名 カトリシズムならび諸宗教と哲学とのリベラルなる交流luke vsop氏との108協定により本トピは開設されるトピ主 kittydanielx支配人・管理人 luke vsop2008 108協定?司令部トピの内容を見ていただけるとおわかりだと思うが、西哲カテにおけるあなたへの評価は極めて厳しいものがある。この小生とてあなたに完全に気を許しているわけでは無い。?新たに設立するトピはあくまでカトリックと西洋哲学のリベラルな対話あるいは討論を主旨とするものにしていただく。どちらかの優位あるいは宣教が密かに前提とされるものではない。?いわゆるはしにも棒にもかからない、水準の低い××教徒に対しては、相手に応じて優しくあるいは厳しく叱責して退散してもらう。これは共同作業です。?あなたに疑問な点がハッキリ顕在化した場合は、あなたに当カテからご退去いただく。?まずあなたが(失礼ながら)カルト系組織の人間ではなく、正真正銘のカトリックだということを誓っていただきたい。以上の条件(仮に108協定と呼んでおきましょう)を認めていただきたい。 ※108協定は2008年10月9日 午前0時0分 成立した。
  • ☆ 哲学はなぜ?なのか ☆
    • 2
    • 2017/12/24 18:16
    ☆ 哲学はなぜ?なのか ☆  物理学は、実験道具を使って実際に真空を作り出したり、思考実験やコンピュータシミュレーションで真空状態を作り出したりして、物質の運動や状態変化を調べて正しい理論を見つけ出すことができる。  しかし、人間と社会の研究では、実験はもちろんのこと、思考実験でも真空を作り出すことはできないし、無理矢理作り出したとしても、そこから役立つ帰結を導くことはできない。真空には人間も社会も存在しないからだ。  哲学は自然を論じることもあるが、人間と社会こそが哲学の本当の研究対象であり、哲学者が語る自然とは人間を通じて見られた「自然という概念」を意味しているに過ぎない。つまり、哲学者の課題は常に人間と社会で、真空を作り出そうと試みても無駄なのだ。  ところが、哲学者はそのことを理解していないか、理解していても真剣に考えようとしない。そして、思考の中で不毛な真空を作り不毛な議論を展開する。プラトンのイデア、アリストテレスのエイドス、デカルトやフッサールのエポケー(判断停止)など、哲学は常に思考の中で真空を作り出し、そこで根源的と称する思弁を弄することの繰り返しだった。だから偉大な哲学者の著作を読んでも、そこから霊感を読み取ることはできても、正しい考えを見つけることはできない。ときたま正しいと思えることが書かれてあったとしても、それは偶然に過ぎず、本論からは遠く離れている。たとえばヘーゲルはその代表格で、20世紀では、世紀を代表すると言われる二人の哲学者、ハイデガーとウィトゲンシュタインがその典型と言える。  しかし、人は、哲学者を非難することはできない。人は脳が肥大化して、計算能力も洞察力も大したことはないのに、いつのまにやら、やたらと自尊心だけは高くなった。絶対に不可能なのに、分不相応に世界全体を完全に理解しようと試みて、間違いを犯してばかりいる。それどころか、その愚かさから殺し合いまですることがあるから始末に負えない。ハイデガーはナチだったし、ハイデガーを信奉する者はナチに接近するほどハイデガーの思想は深かったのだ、などと訳の分からないことを言って反省しない。  要するに、人間の愚かさを代表しているのが哲学者で、哲学書がその表現なのだ。人は哲学書を読んで感激したり、逆にわけが分からないと不満を漏らしたりしているが、それは私たちが愚かで哲学者もその仲間であることを示しているに過ぎない。だから哲学書の正しい読み方とは、偉大な思想家と言われる人でも、その考えのほとんどは間違っていることを著作から読み取り、人の傲慢さを反省するというものだろう。
  • 天皇 ⇒ 元来 シャーマン
    • 2
    • 2017/12/24 18:15
    天皇は、元来、シャーマンなんだ。 シャーマンとは、神や [死者の霊] が憑依した人物だ。 よって、天皇は現人神として崇拝の対象になるんだ。
  • ☆ 現代哲学の根本問題 ☆
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    • 2017/12/24 18:15
    ☆ 現代哲学の根本問題 ☆ 井出 薫  哲学の根本問題は倫理にある。西洋哲学を代表する著作と目されるプラトンの「国家」は、存在一般や正しい認識を得るための方法(所謂存在論と認識論)を扱っている。しかし「国家」の主題は「正義とは何か?」であり、存在論と認識論はこの問いの答えを得るための手段に過ぎない。アリストテレスの厖大な著作の中でも、際立った存在で、現代でも大きな影響を与えているのは「ニコマコス倫理学」だ。カントの「純粋理性批判」は認識論を中心としているが、「実践理性批判」、「判断力批判」が後に続いたことからも示唆される通り、その土台には倫理がある。哲学の根本問題は、これまでもずっと倫理にあったとみてよい。  個別の学問が進歩した現代、哲学の出る幕はほとんどない。「科学哲学」、「科学論」などという題目で、科学の基礎や方法を吟味すると称する哲学が多数存在するが、現場の学者や技術者、言論人、そして一般市民に与える影響はごく小さい。特に自然科学では皆無と言っても過言ではない。社会科学は哲学思想を引用する機会が多いとは言え、レトリックとして使う場合がほとんどで、哲学なしには議論ができないということはない。  しかし、マックス・ウェーバーが指摘する通り、科学は「何をするべきか」という問いには答えを与えない。かつて、一部の教条的なマルクス主義者はウェーバーを批判して、科学的な認識に基づく実践こそがただ一つの正しい行為だと主張した。しかし、その帰趨はスターリニズムという恐るべき一党独裁であり、思想犯の収容所に象徴される人命軽視、人権蹂躙だった。確かに、科学的認識は、「何をするべきか」を決定するに当たって、重要な手掛かりを与える。しかし、それだけで「何をするべきか」を決定できないし、決定するべきでもない。経済理論は経済政策の選択に大きな役割を果たすが、経済理論だけで政策が決まる訳ではない。物理学はGPSの精度を保障するが、GPSを利用するべきだという帰結はもたらさない。  「何をなすべきか」、個人にとっても、様々な社会的組織(注)にとっても、この問いほど重要な問いはない。人は有限な時間しか生きることができない。そして人生そのものをやり直すことはできない。組織はより長い時間を生きるが、それでも有限であり、やはり、やり直しは利かない。人も社会も1回限りの決断を常に迫られており、それに如何に対処するかが根本的な課題となっている。そして、これに上手く対処する者は善であり、幸福を得る者となる。 (注)本稿では、「社会的組織」とは、家族に始まり、企業、教育機関、宗教団体、そして、それらの多くを包含する国家など様々な階層・規模の共同体を総称するものとする。
  • ☆ 法と規則、資本の論理 ☆
    • 4
    • 2017/12/24 18:15
    ☆ 法と規則、資本の論理 ☆ 井出 薫  法哲学の根本問題は何か。道徳と法の関係はどうなっているのか。悪法も法と言えるのか。悪法に従う必要はあるのか。こういう問いを挙げることができる。しかし、真の意味で根本問題と言えるのは「法とは何か」という問いだ。この問いには「なぜ、人は法に従わなくてはならないのか」という問いも含まれる。多くの者が従ってこそ法だからだ。  この根本問題に対する答えは、大きく分けて2つある。自然法の答えと、実定法あるいは法実証主義の答えの二つだ。自然法の答えは、自然法則が自然運動を説明する客観的な法則であるのと同様に、法は世界の中に人倫の基礎原理として客観的に内在していると考える。自然法においては、法は人間が作り出すものではなく、予め存在する客観的な法を人間が発見するということになる。一方、法実証主義あるいは実定法主義では、法はあくまでも社会の中で人が作り出すものとみなされる。前者では法は発見されるもの、後者では発明されるものだと言ってよい。  現代において、純粋な自然法主義を取る者はほとんどいない。法と自然法則は全く異質なもので、人は自然法則に逆らうことはできないが、法に違反することは幾らでもできる。また私有財産制度を不可侵の自然権として主張する者もいれば、搾取の源泉だと反論する者もいる。法が自然に内在するものであれば、財産権に関するこの論争はいずれ実証的に解決するはずだが、一向に決着がつく気配はない。財産権に関する論争は時代の雰囲気を反映しながら永遠に継続する。  尤も、そうは言っても、自然法思想が全く無意味だという訳ではない。人間には生物種として普遍的な自然がある。また、共同体を形成して初めて生きていくことができるという性質から、自然と、幾つかの普遍的な法が妥当する。殺人の忌避、共同体の決めごとの遵守など、それなしには個体は生き延びることが出来ず、共同体は維持できない。それゆえ進化論的な観点から法を説明し、それを自然法として捉えることができない訳ではない。しかし、それはあくまでも一つの解釈に過ぎず、必然的なものではない。人間の身体的な特徴や群れの行動様式は進化論的な観点から説明がつくし、事実それは合理的な説明になる。しかし、社会的な現象である法にそれを適用することはできず、たとえば財産権に関する激しい論争を説明することはできない。進化論的な法の説明は、疑似科学に過ぎない。現代において、合理的な法理論は、法実証主義(実定法主義)あるいはその様々な変種だけだと言ってよい。自然法は作業仮説、あるいは、理念や実践の指針として役立つこともあるが、あくまでも補助的な役割でしかない。  しかし、法実証主義にも様々な変種があり、様々な立場がある。また、そのこと自身が、法が実定法であり自然法ではないことを示しているとも言える。法が自然法ならば、自然法則のように多様な見解は一つに収斂するはずだからだ。しかし、法実証主義には共通する点がある。それは法とは人間が社会において作り出す規則あるいは規範の一種だということだ。20世紀を代表し、共に法実証主義という枠組みで語られるケルゼンとハートは多く点で見解を異にするが、それでも法が規則あるいは規範の集合体であると考える点では一致している。ただ、ケルゼンは、法という規則の集合体を、根本規範を出発点に根本規範で定められた手続きに従い創造・執行されていく体系として捉え、その本質は強制秩序であると考えたのに対して、ハートは強制的な一次ルールと、一次ルールを承認、変更、裁定する二次ルール(メタルール)の結合体として法を捉えた点で大きな開きがある。その背景には、ケルゼンが事実(存在)と規範(当為)とを峻別し、法学の対象は専ら規範の領域であるとする新カント学派的な思想の下に理論を展開しているのに対して、ハートは、イギリス経験論の流れの中で言語分析哲学的な手法を援用し、事実としての法を分析しているという違いがある。この哲学的傾向の違いが、彼らの理論の差異に反映されている。しかし、この二人に限らず、法実証主義並びにそれに近い立場を取れば、必ず行きつく結論がある。それは、法は規則あるいは規範の集積体だということだ(積み重ねられていくという意味で集合体ではなく集積体という言葉を使用する)。そして規範は強制力の差異を除けば通常規則と呼ばれるものに帰着する。つまり、法体系とは規則の集積体と言ってよい。そして法と密接な関係を持つ道徳体系もまた規則の集積体に帰着する。ただ道徳は、ハートが指摘した通り、意図的に定めたり廃棄したりすることができない-それゆえ物理的な強制の根拠がない-という点で法と異なる。
  • ☆ 「事実」とは何か ☆
    • 3
    • 2017/12/24 18:14
    ☆ 「事実」とは何か ☆ 井出 薫  「事実」とは何か。この問いに答えるのは容易ではない。「私が昭和に生まれたのは事実だ。」、「事実、彼はこの時計を持ってきた。」、このように「事実」という言葉は様々な場面で使用され、それを理解することに苦労することはない。「事実」の意味は誰もが分かっている。それなのに「事実とは何か」と問われると答えに窮する。  「事実と規範」という区別がなされることがある。20世紀を代表する法哲学者の一人、ケルゼンは両者を峻別し、さらには規範を法規範と道徳規範に分け、法学の対象を法規範に限定する。ケルゼンによれば、それにより法学は(純粋法学という名の)科学として確立する。ケルゼンの考えは参考になるが、事実と規範の関係は明らかにはならない。規範が事実と異なるのは真実だとしても、如何なる規範も事実があって初めて規範として確立する。人々が、規範を守るのは、教育現場や生活の様々な局面で、その重要性を事実として認識することに基づいている。暴力行為に対する嫌悪感、嘘を吐くときの疾しさ、違反したときに受ける罰、こういう事実を体験することを通じて、規範を守るべきであることを人は悟り、日々、それを再確認する。規範を事実に、事実を規範に還元できないとしても、両者は独立して存在するものではない。だが、そのことは容易に理解されるにしても、事実が規範と一線を画することもまた真実で、依然として「事実」の意味とその位置づけは解明されないままに留まる。  ケルゼンと並び法実証主義の代表的な存在と目されるハートは、言語行為論のオースティンや言語ゲームのウィトゲンシュタインの哲学を参照しながら、法を一次ルールと一次ルールを制定・廃止・承認する二次ルールの統一体として捉える。そこでは、ケルゼンでは峻別されていた事実と規範の境界線は流動化され、事実と規範を共に言語ゲームという枠組みの中で捉えることが可能となる。だが、これにより新たに問題解明の道具が得られるにしても、それでも「事実」の意味が解明される訳ではない。  「事実」は、ときには「真実」と同じ意味で使用される。本稿で挙げた最初の例「私が昭和に生まれたのは事実だ。」の「事実」は「真実」に読み替えても意味は変わらない。だが常に「事実」を「真実」に等置することはできない。二番目の例「事実、彼はこの時計を持ってきた。」の「事実」を「真実」に置き換えるといささか違和感がある。この文の「事実」は、「彼はこの時計を持ってきた。」という出来事を強調するために使用されており、真実とか虚偽とかを意味する性格のものではない。また「事実と規範」という表現は、「存在と当為(なすべきこと)」という表現と同じ意味を含むものとされることもある。かと言って、「事実」と「存在」を同一視する訳にはいかない。(「事実」と「存在」については後述する。)
  • この世を含む全てを一言で表す=ほか、ない。(1)
    • 32
    • 2017/12/22 23:17
      ワタシは失見当識に在り、現前のモノ・コトに全く何も信用ならない。有名なところで「コインを落として落ちたのは紛れもない事実である。」というのがありますが、本当は事実かどうかは知れないのである。何を以ってそう固定する?何を以ってそう規定する?定規がない。根拠が無いのであります。ゆえに、不安定な精神を落ち着かせるためには、「法則」を掴まなければならない。それ以外に心の安定は有り得ません。   ワタシは「ある」と「ない」でしか認識できない。「ある」と「ない」の複合体でしか捉えられない。他の人、等の捕捉はともあれ、ワタシの場合。   しかし、当然、双方ともに限界がある。それで行けない「トコロ」に関しては無力である。「ない」領域を全て「ある」では括れない。「ある」領域を全て「ない」では括れない。 でもそれしかワタシにはない。だから遮二無二、現前を考えるしかなかった。   それで、ワタシは七転し八倒。それでも考え抜きました。のちに、ワタシは「ある」および「ない」と意識(ある)するときに、同時に、無意識に隠れた「ほかにはない。=ほか、ない。」というサポートを確認しました。「(ある)。【ほか】には【ない】。」   そのケースにおいて、瞬時に掌握のレベルが先行する。それは「ある」を「ない」と一括できないものの、「ない」認識を「ない」という「ある」で包括し表現出来得るので、統一を必要とするならそれは「ある」と言おう。そして同時に起動する、いわゆる「黒幕=ほか(他)」を主役に立ち上げた時こそ、全てを捕捉する力を発揮します。ワタシの「ある」または「ない」という掌握は無意味そのものでありました。   究極的に「ない」、たとえば無色透明、音もない、何にもない。もしかしたら「ある」と「ない」が溶け合ってる世界。無彩色グレー。「ある」と「ない」ではない宇宙の外世界。対に、究極的に「ある」でもいい。認識できないトコロでもいい。   ワタシはそんな世界を「(ほか)には(ない)」、という認識(型)で捉えています。仮にその確認システムを「ある」として、その次に来るのが「ほか、ない。」となります。   「ある」かどうかは知りません。「認識」できるのか知りません。が、認識する対象物に「ほか」とぶつけます。そうするとソコは「には、ない」のです。   「ある」か「ない」、統一を必要とするなら「ある」状態を「ない」ではくくれませんが、全く「ない」、そういう状態(状態とは言えない世界)が「ある」とはつかめます。(ある=あくまでも認識に過ぎず)+ほか、(+には)+ない。   いくところまでいった「ほか」が、単に、「ほか、ない。」状態で、現前のイマと繋がってくれます。どこまで行っても、どんどん外に広がっていっても、内に内に体の中に染み込んで行っても、(たとえば私の裏にもう一人いるかもしれない。たとえば私の裏に文明があるかもしれない。過去の、未来の一コマが、事実の流れが、今、重なっている可能性があり・・・ 生きているその時、ただ細胞が動き、血が流れているだけとは言い切れない。ただ感じ取れないだけであって、内に、事実は何が起きているのか判らない。何を以って固定、規定すればいいのか知らない。ただ、)「他には無い。」ひとつにしてくれます。   認識という型枠を外しても「ほか、ない。」は独立し、固定しています。認識しなくても、出来なくてもコンクリートは独り立ちしてくれました。   ちなみに車輪止を打とうとしても「ほかにはない。」が故に、するするとすり抜けてしまう。「ほか、ない。」には終着は有り得ません。   可能と不可能について。「ほか(には)ない。」の1地点において、チョイスされた一つが可能(存在)でその他が不可能(非存在)である。「ほか、ない。」においては実行不能が発生する。できることの裏には出来ないことが無限に仮存在していた。さらに現前を思い凝らせて行くと難易度が肯定される。手を叩くのは簡単だが、そこに地球を創造するのは容易ではない。   神の有無。無限の「ほか、ない。」における現前のここまでの、この惨状(=客観的人的基準から)。それを救えていないが故、神は存在しない。無限に「ほか、ない。」以上、次から次へと掴み続け、未到点が存在し続ける。全知全能という概念も否定される。非存在の観点から捉えた場合もそうなる。全知全能神は無い。間違いである。もとより、広がっていくので、「全て」という概念が誤りなので「全て」を救える者は存在しない。   しかし、この惨状、惨状と言えるからには昇華へのモチーフになる。「ほか、ない。」に息する「流れ」はあろう。プログラム、そのミスか。あるいはテストか。   (2)へ続く…
  • 誠実主義
    • 14,675
    • 2017/12/21 17:38
    誠実主義を基本に語っていきたいと思います これで自分の言動に題がピッタリくる
  • ☆ カントの道徳 ☆
    • 2
    • 2017/12/21 00:09
    ☆ カントの道徳 ☆ 井出 薫  カントは、道徳律は定言命令だと主張する。つまり、道徳律は「これこれの理由から、こうしなくてはならない」という性質のものではなく、無条件に「こうしなくてはならない」という義務だ、とカントは考える。  これは、殺人を例にとって考えると分かり易い。  「なぜ、人を殺してはいけないのか」こう問われると、案外、答えることが難しい。  よくある回答は「君は殺されたくないはずだ。だから殺人は許されない。」というものだ。  これは次のような推論に基づく。 (1)私は殺されたくない。 (2)私以外の者も、私と同じ人間である。 (3)1と2から、「私以外の人間も殺されたくない」が導かれる。 (4)人が嫌がることをしてはならない。 (5)3と4から、「人を殺してはならない」が導かれる。  一見、筋の通った明快な論理に見えるが、かなり無理がある。  (1)については、「別に殺されたって構わない」と考えている者が存在する。自殺をする者は、自分で自分を殺しても構わないと考えている、と言えなくもない。  (1)は正しいとしても、(2)は相当に疑わしい。(2)は哲学では他我問題、他者問題などと呼ばれ、近代哲学の最重要問題の一つとして挙げられているが、フッサールなどの天才哲学者の優れた考察を以ってしても解決に至っていない問題として残されている。また、人によって趣味や信条は異なる。自民党の政策が正しいと考える者もいれば、共産党の主張が正しいと考える者もいる。巨人ファンもいれば、阪神ファンもいる。ごくマイナーだがヤクルトファンもいる。従って(2)の正しさは証明されていないし、そもそも正しいかどうかが疑わしい。  仮に、(1)から(3)が正しいとしても、(4)の正しさにもはっきり疑問がある。たとえば、予防注射を子供が嫌がっているからと言って注射を止めることは正しいだろうか。犯罪者が「刑務所には行きたくない」と言ったら、放免してよいのか。(4)は普遍的な真理ではなく、状況依存の相対的な真理に過ぎない。  さらに、(1)と(2)から(3)、(3)と(4)から(5)の推論にもいささか飛躍がある。  この例からわかる通り、「人を殺してはいけない」を他の根拠から導き出すことはできない。「君は殺されたなくはずだ」以外の事実を持ち出しても、ここで展開した論理と同じように、その推論に無理があることを示すことができる。  道徳規則(「人を殺すな」、「暴力を振るうな」、「嘘を吐くな」、「盗むな」、「人を苦しめたり、悲しませたり、悩ませたりするな」など)は、世界の事実から導かれるものではなく、それ自体で真(善)であり、論理的な根拠がなくとも人として従わなくてはならない義務である、これがカントの道徳哲学だと言ってよい。  しかしながら、カントの主張は、功利主義とは明確に対立する。功利主義はベンサムの「最大多数の最大幸福」のスローガンに示される通り、社会的な福利の増進をもたらすものこそが道徳律となるべきだと考える。つまり、カントと異なり、功利主義は幸福を増進するという世界の事実から道徳律を導く。功利主義はそれゆえ、カントの義務倫理に対して価値倫理だと言われることもある。そして、現代社会において最も影響力のある道徳哲学は功利主義だと言ってよい。多数決の原則は功利主義に基づく。また、功利主義ではないが、ヘーゲルの道徳観もカントとは異なる。  もちろん、道徳哲学の優劣を多数決で決めることはできない。功利主義が支配的だからと言って、功利主義がカントの義務倫理に優るとは言えない。どの道徳哲学が正しいかの答えは誰も分からない。  いずれにしろ、殺人を悪とする理由を問うときには、カントの考えが、一番説得力がある。功利主義では「悪い社会体制を倒すためには、闘争の過程で、何の罪もない子供が死んでもやむを得ない。」というような発想が安易に出てくる危険性がある。確かに現実には、戦争や暴動で人が殺されている現実がある。それを否定することはできない。しかし、戦争や暴力を否定し、平和と対話をとことん追求するのであれば、カント的な観点に立つことが必要だと思われる。 (注)但し、他の問題では、功利主義など他の道徳哲学がカントの道徳哲学に優ることが多い。詳細は別の機会に論じる。
  • ユダヤ人って
    • 16
    • 2017/12/21 00:08
    奥が深いよ
  • ☆ 遠視で近視? ☆
    • 2
    • 2017/12/21 00:07
    ☆ 遠視で近視? ☆  100万円で買った株が150万円まで値上がりしたが、売らないで様子を見ていたら120万円に下がってしまった。こういうとき、人は往々にして20万円儲けたと考えないで30万円損をしたと感じてしまう。120万円で売ったら、その後150万円まで値上がりしたときも同じように感じる。どうしてだろう。人間が欲張りだからだろうか。  多分そうではない。人は無意識のうちに一番時間的に近い出来事を比較して事態を判断するようにできている。100万円で株を購入、150万円まで値上がり、120万円に値下がり(売却)、後者の二つを比較するから損をした感じがする。100万円で買って120万円で売ると、そのときは得をした気になるが、その後150万円まで値が上がると、120万円の売却価格と150万円の現在価格を比較することになり、やはり損をした感じになる。  女子スポーツ選手で、よく美人選手と騒がれる人がいる。だが、よくよく見ると、大抵は、タレントとして売り出していたら、美人とは言われなかっただろうと思われる人がほとんどだ-誰とは言わないが-。近くの選手と比較するから美人に見えるが、タレントの中に入ると周囲が美人・美少女揃いだから特段奇麗には見えない。むしろ○○の部類だと思われることになる。  人間の脳は(多分)時間的・空間的に近いものを比較して行動を決めるようにできている。元々、人間とて自然界に生きていた動物の一つに過ぎない。いつ敵に襲われるか分からないジャングル生活をしていた頃の人間には、遠くにあるものや昔のことをあれこれ考えてもたいした意味はなく、空の色の急な変化、微かな物音、見知らぬ者の侵入など微妙な変化に鋭敏に反応することが野生で生きるために不可欠な能力だった。だから脳もそういう風に出来ている。  人間は文明化して、安全を確保することができるようになり、小さな変化に敏感に反応する必要がなくなった。その結果危険を感知する能力も著しく衰えた。なにせ毒キノコ図鑑を持参しても中毒になる人が後を絶たないくらいなのだ。しかし、それでも脳の構造はそう簡単には変わらない。文明化して時間的に余裕ができたのだから、すぐにかっとなり暴力的な行動を起こしたりすることは百害あって一利なしなのに、人は相変わらずすぐにかっとなり、とてつもないこと、あとから考えれば全く馬鹿げたことと思えることをしでかしてしまう。戦争やテロなどは集団レベルでの、その典型的な事例だと言えよう。  しかも悪いことに、昔の出来事や遠いところにある物を理解し記憶する能力が格段に進歩したために、恨みが蓄積されやすくなった。昔の出来事や遠くのものを知ることができるようになった分、思考もゆったりとした大局的なものになればよいのだが、そうはいかない。その結果、昔の恨みと近くの諍いが相乗効果を起こして過剰反応が生じる。中国や韓国の反日騒動や、それに対する日本国内の過剰反応などはその事例の一つとみることができる。  要するに、現代人は遠視で近視なのだ。老眼と言ってもよいかもしれない。文明が発達して、よく見えるようになったつもりでいるのだが実は近くも遠くもちっとも見えていない。いや、視界には入っているのだが情報が上手く活用できないのかもしれない。  いずれにしろ、現代人は地球を吹っ飛ばすくらいの巨大な力を手にしている。自分の力を過信せず、眼鏡なしには歩けないことをよく自覚して慎重に行動することが大切だ。 了
  • ☆ 心の哲学 ☆
    • 3
    • 2017/12/21 00:07
    ☆ 心の哲学 ☆ 井出 薫  オースティンの言語行為論を発展させた哲学者サールが新著で、21世紀の哲学の最も重要な課題は「心の哲学」だと語っている。  最重要課題かどうかは意見の分かられるところだが、「心の哲学」が現代において極めて重要な課題であることは事実だ。  とは言っても、脳科学やコンピュータサイエンスに進歩により、心は、哲学ではなく科学の研究対象になりつつあると考える人も少なくないだろう。-なお、本論では「科学」はもっぱら自然科学を意味するものとする。また心理学は科学に含めない。-  7月13日付けのネイチャー誌では、四肢麻痺患者の意思を脳に取り付けた装置を通じて電気信号に変換して、コンピュータやテレビを操作できることが報告されている。将来は四肢麻痺患者がロボットを使って普通の人と同じように生活することができるようになるかもしれない。こういう現代科学の目覚しい成果を目の当たりにしたとき、心も科学で(原理的には)解明できるはずだと人々が信じても無理はない。しかし心は科学では解明できない。  痛みを感じるとき、脳で何が起きているかを、科学は解明することができる。だが、脳が特定の状態にあるとき、あるいは、特定の物理的な過程が生じているとき、それをなぜ人は「痛み」と感じるのか、科学はけっして答えることはできない。  脳組織のほんの一部を人工的なデバイスに置き換え、しかも本人も周囲もその影響を全く感じないようにすることは可能だろう。だが、こうやって少しずつ脳を人工的なデバイスに置換していき、最後にすべてを人工物に置き換えたとき、それでも人は心を持っているだろうか。周囲の人には心を持っているように見せかけることはできる。しかし、本人に心は残っているだろうか。このような問いには、科学は答えを用意できない。  科学は強力だが、すべての問いに答えることができるわけではない。基本的に、科学は、一定の観点から自然現象を分類・整理して、それらの間の関係を(一般的に数学を使って)明確にして、統一的な法則や原理を発見することを目的とする。そして、それらの法則や原理を使って、様々な現象を説明したり、予測したり、自然現象を制御したりする方法を見つけ出し、現実に応用する。  科学の法則や原理において、エネルギー保存則のような保存則と、時間とともに自然現象がどのように変化するかを記述する方程式や説明図式が、決定的に重要な位置を占める。自然界に潜む保存則を見つけること-染色体の数のように常に厳密な保存則が成り立つわけではないが、通常一定に保たれる量もこの範疇に含まれる-、自然現象の時間変化を記述する方法を見つけること、この二つの試みにより解明できることだけが、科学の問いとなりえると言ってよい。しかし、心に関する諸問題は、このような方法では解明できない。  足を失った人は、足という身体器官が欠けていることが原因で苦しむのではなく、自分には足がないという思いに苦しむ。そのとき、科学は脳で何が起きているかを示すことはできる。だが、それは苦しみの原因を説明することにはならない。人は、脳が苦しむのではなく、心が苦しむからだ。脳は感情や思考に不可欠な物理的な基盤かもしれないが、感情や思考ではない。それはコンピュータの電子装置が計算に不可欠な物理的な基盤だからと言って、電子装置やそこで生じる物理的な過程が計算ではないのと同じだ。  だから、心と脳という二つの場を時間変化で結び付けることはできない。「痛み」を感じているとき、確かに脳では何かが起きているだろう。だが、その脳の何かが原因で痛みが生じるのではなく、その逆でもない。つまり、心のあり方と脳の状態を、因果関係で結合することはできないのだ。  さらに、心の領域には、保存則に相当するようなものは存在しない。フロイトのようにアナロジーを駆使して、保存則めいたものを提示することはできるが、それは誰にも検証することができない神話に過ぎない。だから、それは科学理論にはなりえない。  科学は、心に関わる出来事の自然的な基盤を明らかにして、適切な手術や薬物処方、行動療法などにより、人の気持ちや思考方法を変えることができる。意思と関連している脳内過程を物理的に変換して、コンピュータやテレビを操作することもできる。だが、なぜ、それが物理的に外部から観察可能な振る舞いの変化だけではなく、人の気持ちや考えを変えることになるのか、科学は説明できない。そもそも、人の気持ちや考えが、なぜ脳や身体という物と関わることができるのか、所謂心身問題も科学研究の範疇外にあると言わなくてはならない。
  • マスコミは何故
    • 3
    • 2017/12/21 00:07
    御嶽山噴火での気象庁の怠慢を批判しないのか?
  • ☆ 言葉、動物の知性 ☆
    • 2
    • 2017/12/21 00:06
    ☆ 言葉、動物の知性 ☆ 井出 薫  犬は主人がドアの向こうに居ると信じることはできるが、明後日も主人が帰ってくると信じることはできない。ウィトゲンシュタインはこう記している。この考えは正しいだろうか。  「期待する」ことは言葉を理解する者だけに許された特権だ。人の言葉を知らない、それゆえ「期待する」あるいは「予測する」という言葉を知らない犬には明後日主人が帰宅することを期待したり予測したりすることはできない。しかし、言葉を知らないということと、それができないということは違うと批判する者がいる。「痛い」という言葉を知らないからと言って、痛みを感じない訳ではない。痛みを「痛い」と表現できないに過ぎない。だから「期待する」あるいは「予測する」という言葉を知らないからと言って、明後日主人が帰ってくることを期待するあるいは予測することができないとは言えない。これが批判者の指摘だ。確かに尤もらしい反論で、多くの者はウィトゲンシュタインよりも批判者に軍配を上げる。  しかし、ウィトゲンシュタインが正しいと思う。痛みは主観的だが、生理学的な反応に基づくものであり、言葉の理解に拘わらず存在すると言うことができる。しかし期待や予測は、生理学的な基盤の上に成立するものではなく、言葉を共有する共同体で承認されて初めて成立するものであるから、犬に期待や予測を帰属させることは妥当ではない。擬人法を用い、犬が明後日の出来事を期待している場面を想像することはできるが、実際に犬が期待していることを承認することはできない。犬も、承認してもらっても嬉しくも何ともない。承認されたことの意味が理解できないからだ。ただ嬉しくて尾っぽを振ることはあっても、自分の期待が理解されたと知ったわけではない。お手ができて褒められたのと変わらない。  こうして、人間と異なり、高度な言語を使用することができない動物の知的能力は極めて限られたものとなる。犬よりも高度な頭脳を持つとされる類人猿やイルカなどでも、その知的能力はその場の対応や感覚的な記憶に基づく危険予知などに限られる。知性は人間のように複雑で無限とも言える生成能力を持つ言葉を有することで初めて成立する。  しかし、読者は、この議論にはどこか承服しかねるものがあると感じるだろう。ウィトゲンシュタイン自身がそうだった。それは、知性とは何かという根本問題が未解決のまま残っているからだ。動物に知性を帰属させることができるかどうかは人間を理解する上で極めて重要な論点になる。ウィトゲンシュタインの議論を参考に、大いに知性を働かせてみては如何だろう。 了 (H23/12/17記)
  • ☆ 哲学と読者のために ☆
    • 2
    • 2017/12/21 00:06
    ☆ 哲学と読者のために ☆ 井出 薫  カントの代表作が「純粋理性批判」、ヘーゲルの代表作が「精神現象学」、専門家はこの評価に異論はないだろう。他に代表作が挙げられるとしても、カントだったら「判断力批判」、ヘーゲルならば「大論理学」、難渋な純粋哲学的大作で大差はない。  しかし、「純粋理性批判」や「精神現象学」が本物の哲学だとしたら(事実そうなのだが)、一般読者は間違いなく哲学を敬遠することになる。哲学は変わり者が愛好する奇異な学問、哲学は深遠なのかもしれないが、訳の分からない読み物の典型ということになってしまう。  ところで、「純粋理性批判」や「精神現象学」が本物の哲学とはどういう意味だろう。そして、この評価は専門家から支持されているとは言え本当に正しいのだろうか。  「学」とは抽象的な次元で対象を論じる。このことは、数学、物理学、経済学、社会学など全ての学問に共通する。それにより、学は普遍性を有することになる。目の前に在る特殊な個物を論じることは学の本来の使命ではない。それは学の応用としてのみ存在する。具体的な事例を引き合いに出すことはあるが、あくまでも抽象的な原理を説明するための道具でしかなく、本質ではない。  哲学も学である以上、抽象的な次元で対象を探究する。その意味で、哲学の代表作が「純粋理性批判」や「精神現象学」であることは間違いではない。だが、本当にそれが哲学の真の姿なのだろうか。確かにかつて他の学と同じように抽象的な学として哲学は存在した。それも他の学の上に立ち君臨する者として存在した。しかし、今ではそういう哲学はほとんど意味がないと考えられるようになっている。寧ろ、哲学は特殊具体的な課題をその場で考察する学だと考えるべきではないだろうか。その意味で、哲学は学と言うよりも実践そのものと言ってよい。そして、正にこの姿こそ、西洋哲学の原点とも言うべきソクラテスが目指したものだった。ソクラテスに回帰すれば、哲学は抽象へと解消されることのない個別具体的な実践として捉えることができる。  このことに気が付くと、カントでは「純粋理性批判」ではなく寧ろ「啓蒙とは何か」、「永遠平和のために」、ヘーゲルでは「精神現象学」ではなく「法の哲学」、「歴史哲学講義」などを代表作として取り上げることができる。  そうなれば、一般読者の哲学へのアレルギーは大幅に和らぐ。勿論、「「本物の哲学」とは何か」などという問いに答えはない。しかし、「永遠平和のために」なら誰でも気楽に短時間で読み通すことができる。難解で知られるヘーゲルでも「歴史哲学講義」ならば根気よく読めば読み通すことができる。そして、どちらの書も得るところは多い。  いずれにしろ、読んでも理解できない「純粋理性批判」や「精神現象学」ではなく、理解できる「永遠平和のために」や「歴史哲学講義」などを哲学の代表作として読者に勧めることが望ましい。そうすれば、哲学は現代社会においても大いに役立つものとなる。 了 (H24/12/3記)
  • ☆ 哲学とは何か ☆
    • 3
    • 2017/12/20 21:25
    ☆ 哲学とは何か ☆ 井出 薫  何が真理かではなく、そもそも真理とは何を意味しているのか、なぜ真理を探究するのかを問うのが西洋哲学=哲学だ。  哲学の原点であるプラトンとアリストテレスがこれに答えを与えた。「人は知ることを楽しむ動物であり(アリストテレス)、真理を探究する者こそが人間社会を支配するべきである(プラトン)。」真理の探究は人間と社会の本質に属する、だから人は真理を求めるというわけだ。そして、真理とは、「移ろい易い目に見える世界を超越したイデア(プラトン)、あるいは事物を概念分析して得られるエイドス(アリストテレス)」を意味する。  その後、プラトンやアリストテレスの答えに満足しない多くの哲学者たちが、この問題に様々な解答を与えてきた。プラトンを継承して真理そのものを問う哲学こそ人間の最も高貴な行為だとする者がいる一方で、ニーチェのように、真理の探究とは現実を肯定することができない弱者の恨みが生み出した歪んだ活動に過ぎないと主張する者もいる。  このように哲学そのものに否定的な意見もあるが、哲学は依然として真理の意味とその背景にあるものを探究し続けており、その活動は社会の中で一定の評価を勝ち得ていると言ってよい。哲学という言葉は役に立たない学問を意味するという嘲りを受けることも少なくないが、総じて哲学は人生と社会の真実とあるべき姿を考察する優れた学問的営為だと評価されることが多い。  だが、哲学が2千年以上も前から同じ問題を問い続けてきたというのに、未だに意見の一致を見ないのは不思議だと思う読者もいるだろう。そこから哲学は(虚偽意識という意味での)イデオロギーに過ぎないという見方も出てくる。  プラトンの時代と比較して、科学技術が飛躍的に進歩し産業が地球的規模にまで拡大した現代、それなりに評価されているとは言え、哲学の意義を本気で信じる者はごく少ない。哲学は骨董品として評価されているだけなのかもしれない。だから、哲学には現代的な意義があると考える者は、なぜ哲学では意見が一致しないのかを説明する義務がある。さもないと哲学は大学と学会と出版社という箱庭での(高尚だと思われているだけの)遊戯に過ぎなくなる。  それは文学や政治で意見が一致しないのと同じだという説明がある。しかし、「文学的な真理」、「政治的な真理」の「真理」とはそもそも何かを問うのが哲学である以上、政治や文学の実情を引き合いに出して哲学を説明するわけには行かない。順番が逆なのだ。哲学的考察から、文学や政治で意見の一致がみられない理由が解明されなくてはならない。  言葉の創造性、それが哲学で意見が一致しない理由だ。言葉の創造性と言っても、人の言語使用は生物的にも社会的にも強く環境に拘束されている。だから、私たちが言葉を自由に操り創造することができるわけではない。とは言え、言語使用の現場に「創造性」と呼べるような機構が備わっているのは否定できないだろう。この創造性の働きで、プラトンが哲学Pを提示すると、それを解体する哲学Aが必ず登場する。この過程には限りがなく、哲学は同じ問題を探究しながら見解の一致に至ることがない。  しかし、こういう説明には簡単に反論ができると言われるだろう。「言葉の創造性が幻想ではなく事実であると証明できるのか。(できない)」、「言葉の創造性という表現でそもそも君は何を意味しているのか。(明確な解答はない)」、「それはどのようにして見解の不一致という事実と繋がるのか。(因果的な説明は不可能)」  このような論難に明快な説明を与える能力もページの余裕もないが、正にこのような絶えることなく続く問いの連続に、読者は言葉の創造性と哲学の可能性を見てとることができると思う。これこそが哲学という営為なのだ。 了 (H17/9/4記)
  • 自然は厳しい
    • 183
    • 2017/12/18 19:52
    自然は厳しい。 人間だけでなく動物は自然と共に生きている。 この寒さでは暖かいところもないし食料もないんだろう。 それで民間に降りてきて食べようとしているんだろう。 かわいそうだ、自然は厳しい。 地震、噴火、水害、風、雨、雪 生きることは大切であるがまた大変なことでもある。 人間はこの自然にどのように対処してゆくべきなのか議論したい。
  • ☆ 視覚の不思議 ☆
    • 2
    • 2017/12/15 20:15
    ☆ 視覚の不思議 ☆ 井出 薫  視覚は科学者だけではなく哲学者や芸術家も魅了してきた。  物体から放射ないし反射した光が網膜の視細胞を刺激することで視覚は成立する。では、なぜ視細胞に刺激を感じるのではなく、光を放射した物体がある場所に、その物が見えるのだろう。  そこにある物がそこに見えるのは当然だと思えるかもしれない。だが、光が視細胞を刺激して視覚が生じることを考えると、当然ではなく寧ろ不思議だと言わなくてはならない。足を踏まれたとき足に痛みを感じるだけで足を踏んだ人間が分かる訳ではない。それに対して視覚は刺激ではなく刺激の原因(物が特定の場所に位置すること)を認知している。  だが、幻が見えることもあるし、正しい場所とは別の場所に物が見えたり、物の大きさや長さを錯覚したりすることもある。つまり、刺激の原因を認知していると言っても、視覚はありのままの世界を直接映し出しているわけではない。  視覚がありのままの世界を映し出しているのではないことは、視覚の限界からも明らかになる。物体からは膨大な拡がりを持つ周波数の光(電磁波)が放射あるいは反射されているが、そのうちで人間が感じ取ることができるのは可視光領域と呼ばれる凡そ0.4から0.7μmの光に過ぎない。赤外線カメラで夜の様子が鮮明に撮影できることから分かるとおり、夜間でも多くの物体から赤外線が放射されているが、人間の視神経は感知することができない。すべての領域の光を感じ取ることができる者が存在したら、世界の見え方は人間のそれとは全く異なるものとなろう。  このように視覚は不思議な性格に満ちている。ところで、自然科学はこの視覚の現象をすべて説明することはできない。自然科学が進歩すれば、光を受け取った視細胞の反応に始まる脳神経系の一連の活動と身体器官へのフィードバックをすべて解明することが(少なくとも原理的には)可能となる。錯覚や幻視のメカニズムも解明できるだろう。しかし、なぜ物がそこに見えるのかという最初にあげた最も単純な問いには答えられない。  自然科学は、自然現象を因果的な連関という観点から整理し、それを自然科学特有の用語でモデル化し、そこに隠されている自然法則や基礎原理を探究し発見する。そして法則や原理に基づき個別の現象を説明する。正しい自然科学の理論に基づく説明は極めて正確だ。だが、逆に言えば、自然科学で答えることができる質問は、自然科学の用語を使用して因果的に説明できることに限られる。だから視覚に関する質問で、自然科学が答えることができるのは、たとえば「机がどこにあるか指で示してください」と質問したときに相手が目の前にある机を指差すというような動作を、物理的な因果関係で説明することに限られる。何故そこに見えるのかという質問は、自然科学の守備範囲の外にある。自然科学は万能ではないのだ。  自然科学が万能でないことが、この「見る」という最もありふれた現象に示されている。「見る」という活動には、自然科学の用語と理論に還元されない何かが潜んでおり、多くの哲学者や芸術家(たとえばゲーテ)がそれに魅了されてきた。-ただし、哲学が何故そこに物が見えるのかという質問に適切な解答を与えられるわけではない。-  現代人の多くは科学万能主義で、すべてのことが自然科学や自然科学の遣り方を模倣した社会科学で説明できると考えがちだ。だがそれは間違っている。科学が解明できることよりも遥かに多くのことが科学にとって謎として残る。視覚という人間の最も基本的な機能においてすらそうなのだ。そして、科学者に代わって、哲学者、芸術家、宗教家たちが、その不思議な現象を様々な手法で人々の前に描き出す。だが、この事実の中にこそ科学的必然性に還元されない人間の自由が存在する。  視覚という不思議な現象、ときには、それについて思いを巡らせることも悪くないだろう。 (H19/6/25記)
  • *うつ病の薬 *
    • 2
    • 2017/12/15 20:15
    かなり危険性があるらしいよ
  • ☆ 常識を脱構築? ☆
    • 2
    • 2017/12/15 20:14
    ☆ 常識を脱構築? ☆  真夏の正午、食事をするところを探していたら、繁盛していてなかなか美味そうな中華の店が目に入った。店に入りメニューを持ってきてもらう。ラーメン・餃子・生ビールの餃子セットが1350円、一寸昼食には高い感じがしないでもないが、ビールがついてこの値段だ、悪くない、早速注文する。餃子もラーメンも美味く満足した。勘定を済ませて店を出ようとしたときに、メニューを見て思わぬことに気がついた。ラーメンが単品で500円、餃子一皿が300円、生ビールが550円、単品で三品注文しても、セットで注文しても、同じ1350円なのだ。セットだったら安くするのが普通だろうと文句を言おうかと思ったが堪えて、それとなく「三品別々に頼んでも金額は同じだね。」と店員に尋ねてみた。そうしたら店員は涼しい顔で返事をする。「ええ、そうです。三品を注文するお客さんが多いので、お客さまの手間を減らそうと思ってセットメニューを作ったのです。一々、ラーメン、餃子、生ビールと分けて注文しなくてもよいから便利でしょう。」  偶然、知人の弁護士に出会ったので「これは法的には詐欺にあたるのではないか。」と尋ねてみた。「メニューに、「お得なセット」とか書いてあったか。」、「記憶が定かでないが、そうは書いてなかったと思う。」、「だったら文句は言えないな。本やDVDは、セットになった全集の料金が単品で揃えたときと変わらないのが普通だ。」  プラトン全集全XX巻セットの料金は、各巻を別々に購入したときと変わらない。先日買おうかどうしようか散々迷った5枚組みDVDからなるDVD-BOXの料金も単体の料金を足した金額と変わらなかった。確かに、本やDVDはセットでも単品でも料金が変わらないのが普通だ。  しかし、本やDVDでは料金が同じでもセットには価値がある。全集を残らず揃えたいという場合にセットならば確実に手に入るからだ。小説や連続ドラマでは、特定の巻が欠けていたのでは意味がないことが多い。「戦争と平和」全4巻のうち、2巻が手に入らないのでは、残りを購入する気にはならないだろう。連続テレビドラマのDVDもセットで揃っていないと価値が半減する。古書店やリサイクルショップで本やDVDを売却するときも、全集で揃っているかどうかで引き取り価格が全然違ってくる。  だが、料理のメニューは違う。餃子・ラーメン・生ビールがセットで揃っている必要はなく、餃子・レバニラ炒め・ハイサワーでも一向に構わない。セットやコース料理は単品よりも料金が安くなるからこそ意味がある。  こう考えて、法的に問題だとまでは言えないとしても、道義的に問題があるのではないかと弁護士に問い質したところ、やんわりと否定された。 「それはどうかな。餃子、ラーメン、ビールをそれぞれ単品で頼むとする。ビールが先に出てきて、君はそれに口をつけたとしよう。ビールが先に出てくるのはごく普通だから、その点に文句はないだろう。そのとき店員が君のところに来て「すみません、餃子は売り切れです」と言ったらどうする。君の嗜好から言って、ラーメンだけではビールのつまみにはならない、餃子があればこそのビールだ、餃子がないならビールを注文しなかった、ということになるだろう。だが君はビールに口を付けている。そこで注文をキャンセルしても君はビール代を払わないといけない。しかし、セットならば、餃子がないと言われた時点でビールに口をつけていたとしても、店側がセットを提供できないのだから、君は注文をキャンセルしてもビール代を払う必要がない。君はただでビールを飲むことができたわけだ。だから、料金が同じではセットメニューに意味がないと断定することはできないと思う。」  結局、セットメニューは単品よりも安いという常識には何の根拠も法的強制力もないことが判明した。それにしても、常識を逆手にとって-「逆手にとる」は哲学業界では「脱構築」と呼ばれる-、たくさん飲み食いさせるこの店の主人の才覚はたいしたものだ。おそらくポストモダニズムの哲学に通暁していると思われる。日頃何の役にも立たないと思われている哲学も思わぬところで役に立つものだ。 了 (H17/8/20記)
  • ☆ 進化論の正しい学び方 ☆
    • 4
    • 2017/12/15 20:14
    ☆ 進化論の正しい学び方 ☆ 井出 薫  進化論は「(突然変異で)自然環境によりよく適応できるようになった生物が、生存競争の勝者となって生き残り、敗者は滅びていった。これが自然淘汰による生物進化だ。人間を頂点とする高等動物は、他の生物よりも環境に上手に適応することができたので、地上で繁栄している。」ということを語っていると信じる人が少なくないが、間違いだ。  30年ほど前までは、恐竜は進化の袋小路に迷い込み、哺乳類との競争に敗れて絶滅したと考えられていた。だが、今では、恐竜は巨大隕石の地球衝突が原因で絶滅したと考えられている。隕石衝突から辛うじて生き残った哺乳類の先祖が様々な進化を遂げ、その末裔の一人が人間だ。-隕石衝突で絶滅したのは恐竜だけではなく、哺乳類の多くの種も絶滅した。-  恐竜より哺乳類が優れていたから哺乳類が繁栄しているのではなく、恐竜が滅びたお陰で、それまでは地球生態系でマイナーな存在に過ぎなかった哺乳類が繁栄することができるようになった、これが真相だ。もし隕石の衝突がなく、あるいは衝突があったとしても恐竜が首尾よく生き残っていたとしたら、哺乳類は未だにマイナーな生物に過ぎず、おそらく人類のような肉体的にひ弱な生物は生存することができなかっただろう。その代わりに、恐竜の仲間に人間のような知能を持つ者が誕生していただろう。  恐竜に限らず、絶滅した種の多くが、生存競争に敗れたのではなく、天変地異など外部要因で滅びたと今では考えられている。  新しい種が生態系に誕生するときも他の種を押し退ける必要はない。窒素は生命体を維持するために不可欠の元素だが、陸上植物は空気中に最も豊富に存在する窒素分子を直接利用することができない。だから土壌のアンモニアや硝酸など窒素化合物を利用して生命を維持している。だからアンモニアや硝酸が欠乏した大地では植物は繁殖できない。最も重要かつ有益な肥料が窒素肥料であることからもこのことは容易に想像がつくだろう。  ここで空気中の窒素分子を直接利用する能力を持つ植物が突然変異で誕生したらどうなるだろう。窒素化合物が欠乏した大地でも生き延びることができる。そうなれば、この新しい植物はそれまで他の植物が生存できなかった場所で繁栄することになる。ここでは、従来の植物と新種の植物の間には棲み分けが出来、競争は生じない。両者は共存する。  実際、窒素固定能を有する根粒菌を根に共生させているマメ科の植物は、窒素化合物が欠乏した土壌で生育・繁殖しているが、マメ科の植物が他の植物と共存共栄していることは言うまでもない。 (注)「窒素固定能」とは、大気中などに存在する窒素分子から植物の生育に不可欠な窒素化合物を作り出す能力のこと。地球上ではバクテリアの一部だけがこの能力を有する。根粒菌はその数少ないバクテリアの一種。  生物進化は、突然変異を通じて新しい能力を獲得した生物や生物の集団が、既存の種が利用できなかった環境を利用することができるようになり、新しく生態系に参加することで進んでいく。生存競争がないわけではないが、それが進化の原動力ではない。そのことは、植物と昆虫との共生関係など地球生態系の至るところでみられる多様な共存共栄関係をみれば容易に想像がつく。他の種に依存せずに独立して生きていける種など、この地上には一つも存在しない。もし様々な種が生き残りを賭けた死に物狂いの闘争を繰り広げているとしたら、調和の取れた現在の地球生態系はありえない。  生存競争に敗れた者が去り勝者が生き残るという発想は、西洋が世界を支配して資本主義的競争が激化した17世紀から19世紀にかけて登場したイデオロギーの一つに過ぎない。ダーウィンがマルサスの強い影響の下で生物進化の思想を確立したために、進化論思想は生存競争による優勝劣敗的な発想に大幅に偏ってしまうことになる。-とは言え、ダーウィンの進化論が歴史に燦然と輝く偉大な思想であることに変わりはない。筆者はその時代的な解釈を問題にしているだけだ。-しかし、調和の取れた生態系、絶滅や新しい種の誕生の原因と経過などをみれば、そのような思想が正しくないことは明らかだ。
  • ◆認識と記憶◆
    • 597
    • 2017/12/14 22:44
    音楽現象学
  • 西洋哲学の爆発
    • 7
    • 2017/12/14 07:40
        西洋哲学というのは、2000年ぐらいから爆発してしまったのではないだろうか  どこを向いても、大量に言説が生産されている。  分析哲学系も、大陸哲学系も、オーストラリア存在論派もイタリア存在論派も、どんどん発展している。英米圏の哲学はアフリカにまで手を出している。  それに比べると、日本は旧態依然としてして、こんな状態では、東洋哲学の気の実践システムを紹介導入することにアイデンティティや活路を見いだした方がいい。
  • 世界一 美味しい食べ物
    • 6
    • 2017/12/13 17:49
    インドカレー
  • 哲学カテゴリーには
    • 3
    • 2017/12/13 17:48
    カルトの人達が多いな
  • イスラムって
    • 3
    • 2017/12/13 17:48
    よくわからないな
  • ☆ 哲学と教育 ☆
    • 5
    • 2017/12/13 17:47
    ☆ 哲学と教育 ☆ 井出 薫  デューイは、哲学とは教育の一般理論であると述べている。これはぴんとこないかもしれないが、正しい見方だ。  自然は人間の意志から独立した法則で特徴付けられる。重力の法則を知らなくても私は重力の法則に従っている。近代物理学を知らなかった古代の人々や他の生物も重力の法則に従っている。自然法則に従うために自然法則を学ぶ必要はない。  一方、社会は規則の集合体として特徴付けられる。規則は法則と異なり自動的に従うことはできない。規則に従うには、まず規則を学ばなくてはならない。物理法則に従うために物理法則そのものを学ぶ必要はないが、物理法則の研究や学習をするには、それに必要となる社会の規則-学校に行き学則を守って勉強をする、など-を学ばなければならない。  人は社会の成員として生きていくために規則を遵守する必要があるが、そのためには教育が欠かせない。教育があって初めて社会が成り立つ。教育は社会の根幹だ。  教育されるべき科目は極めて多岐に渡るが、科目によって異なる教育方法が採用されたのでは教育活動は円滑に行なわれない。だから組織と方法において一貫した思想と施策が必要となる。それを考察することこそ、諸学の王たる哲学の使命だ。  西洋哲学の原点とも呼ぶべきソクラテスは偉大な教師だった。青年達との対話に残されたソクラテスの言葉と実践は、どのような教育が必要か、どのような方法を採用するべきかを教えている。ソクラテスの生き様に哲学が教育の一般理論であることが示されている。 (H19/7/16記)
  • 西洋哲学って
    • 4
    • 2017/12/13 17:47
    人気ないな
  • 日本って
    • 13
    • 2017/12/13 17:46
    祝祭日 多いな
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